《私はいま*ここ*にいる。》
《聴こえる?》
――ああ。聴こえるよ…。
『ブラッド・ミュージック』
「話がある。」
SOS団恒例の不思議探しパトロールを終えて、俺が家路につこうとした時、そう長門が言った。
「何だ、また涼宮絡みで問題でも起きたのか?」
宇宙人はごく微かに首を振って、否定のジェスチャーをした。
「私のこと、そして」
そして?
「あなたのこと」
二人で長門のマンションに行き、話を聞くことにした。飲むはじから注がれるお茶を飲んでいると、初めて長門の正体を聞いた時のことを思い出すな。話って何だ?
「現在、私の中でエラーデータが蓄積している。かつて私は世界改変を行った。現在のエラーもそれと同質のもの。
データの凍結を行っているが、エラーの増大が著しい。このままでは数日のうちに私が再び世界改変を行う危険性がある。
今度世界改変を起こせば、私が緊急脱出プログラムを設定する保証はない。」
えっと、俺がこっちの世界に戻れなくなるってことか?
「あなたの記憶を改変して、元の世界に戻るという意思を奪うことも有り得る。だが」
長門は俺の目をじっと見つめて続ける。
「私はその様な改変を行うのは、嫌。」
「……どうするつもりだ。」
それを消去するとかはなしだぜ、長門。おまえはエラーと呼ぶが、そいつはお前の感情なんだろ…。
「消去はしない。エラーデータを転送するインターフェイスを作成する。いわばもう一人の私。私のエラーデータはその私に送られる。」
ちょっと待ってくれ、この世界にもう一人のお前を作るってことになるのか?
「そう。だが、こちらの世界の涼宮ハルヒたちと接触することは避けなくてはならない。彼らとの接触がないような場所に私を作る必要がある。」
ただし、と長門は続ける。
「あなたとの接触は可能でなくてはならない。」
なぜだ?
「あなたが、エラーの原因だから。エラーデータの私にはあなたの存在が不可欠。」
長門は言葉を切った。心なしかうつ向き加減になる。顔が微かに赤いように見える。
…それで、どこにおまえのコピーを作るんだ?
「あなたの中。」
さすがに驚いた。俺の中だって?
俺の脳内にでも長門のコピーを住まわせるのか?俺の脳にはそこまでの容量はあるまい。哀しいが断言できる。
「あなたの白血球の遺伝子情報を、データ転送のメモリに使う。
細胞には、ゲノム配列を読み取る機構がある。それを改変し、書き込みの機能を加え、それを基板としてエラーデータを人格システムに構成する。私のエラーデータを全て転送しても、あなたの白血球のうち、ごく一部を使うに過ぎない。
あなたの身体に異常はない。あなたの中の私は、あなたの神経細胞に接続して、あなたとコミュニケートするだろう。」
「……」
「世界改変を防ぎ、かつエラーデータを破棄しないなら、これが精一杯の措置。」
「……」
「許可を。」
やれやれ。
世界を改変されるのは困るし、長門のエラー、いや、感情を消すのも嫌だ。それに比べたら、自分の白血球が改造されたからって、どうということないさ。長門が害はないと言うなら、害はないのだろう。
結局のところ、俺は長門を信頼している。それが全てだ。
「わかった。長門がそう言うなら、多分そうするのが一番いいんだろ。やってくれ。」
「……そう。」
長門は俺の腕をとると、静かに腕に噛みついた。前の時と同じで、全く痛みはない。
「エラーデータを転送。白血球の構造の一部を改変。…あとのことは、あなたの中にいる私に聞いてくれればいい。」
決して気のせいじゃない。そう言う長門は、ほんの少しだが、寂しそうだった。
長門と別れて、家に帰る。「それ」が聴こえたのは、俺が自分のベッドにもぐりこんだ時だった。
《聴こえる?》
――ああ。長門だな。
長門の声が、頭に直接響いてくる。
《私は*ここ*にいる。あなたと会って話がしたい。》
――どうすりゃいい?
《あなたの意識を一時的に*記号化*する。目を閉じて。》
俺が目を閉じると、自分がほどけていくような奇妙な感覚がした。そして、気が付くと俺は何もない空間にいて、そして――
目の前に長門がいた。
《やっと、逢えたね。》
長門は、俺の知っている無口な宇宙人とも、世界が改変されたときの内気な文学少女とも違っていた。服はいつもの制服だし、外見は変わらない。
だが、目の前の長門は、俺に会ったことが本当に嬉しそうで、にっこりと笑っていた。あの長門がだぜ?
《私は、感情そのものだもの。私を構成するデータは、あなたへの感情でできているの。喜びや、一人でいるときのさびしさや、あなたへの好意で。
あなたがいた世界の私は、それをエラーと呼んでいたでしょう?でも、今の私にはわかるわ。これは、エラーなんかじゃない。》
――俺もそう思うさ。えー、質問していいか?
《もちろん。》
――ここはどこなんだ?
《あなたの中よ。あなたの意識を*記号化*して私に接続したわ。あなたが見ているのは、私が構成した*思考空間*、うーん、そう、幻覚や夢のようなものかもね。
もちろん、私は実在しているし、あなたもここにいる。でも、それは情報としてなの。お望みなら…》
長門がそう言ったとたん、まわりの空間は、長門のマンションに形を変えた。教室を再構成したときみたいだ。俺と長門はテーブルをはさんで向かい合っている。長門はにっこり笑った。
《やっぱりここが落ち着くかな。ひとりだと寂しいだけなんだけど。でもあなたがいるから、ね。それとも、部室の方がいい?》
――いや、ここでいいさ。……こっちのおまえは、これからどうなるんだ?
《どうする、のほうが正確かな。ここでなら、私は、情報を操作して自分の望むことをなんでもできるから。そうね、とりあえず、あなたと***がしたいかな?》
――おいおい。
《なんてね。》
長門はくすくすと笑った。長門が冗談を言うと調子が狂うが、長門が笑っている姿は本当に可愛かった。思わず長門の髪をクシャッとなでると、長門はくすぐったそうに舌を出す。だが……
あちらの世界の長門はどうなるのだろう。最後に見た長門の寂しそうな顔が浮かんだ。あいつは、もう感情を持てないのか?少しずつだが、自分の感情を、表情に出すようになってきたところだった長門。あいつは、なにも感じなくなってしまうのか?
《いいえ。感情がなくなることはないの。これからだって、あっちの私は感情を持つ。あなたに好意を感じてもいる。だけど、それは穏やかなものなの。突然世界を改変してしまうような激しさはない。
でも、それは不幸なことではないわ。そのような持続性のある好意の感情を、愛情と呼ぶんじゃないかしら?それに、涼宮ハルヒの観察任務が終わったら、私はあちらの私と同期するつもり。そうでなければ、私を消去しても同じでしょう?》
――そうだな。
《ねえ、いまから学校に行かない?SOS団のみんなにも逢いたいの。私はSOS団のみんなも大好きだもの。》
――ここには学校があるのか?
《いまから構成するわ。外を見て。》
言われたとおりに外を見てみると、朝になっていた。太陽の光が差し込んでいる。窓の外の光景は、現実の世界と区別がつきそうもない。
《お弁当つくるね。こればかりは、構成しても味気ないから、自分で作ることにするわ。ふふ、キョン君の分も作ってあげるから、一緒に学校行こうよ。》
――俺は元の世界に戻れるのか?
《大丈夫、あなたの外の世界では、まだ一秒もたっていないわ。この*思考空間*では、時間はほとんど意味を持たないから。
あなたは、好きなときにここに来ることができるわ。私は、いつでもここであなたを待っているから。ねえ、また、図書館に連れて行って。》
長門はてばやく二人分の弁当を作った。エプロン姿の長門は、朝の光を受けながら幸福そうだった。いや、あるいは、この長門は、「幸福」という感情そのものなのかもしれないな。
《行こ。》
――ああ。
微笑む長門に手を引かれて、俺は学校へと歩き出した。
なにひとつ失われはしない。なにひとつ忘れられはしない。
それは、俺の血の中に、肉の中にある。
そしていま、それは永遠になったんだ。
終わり