日曜日の昼過ぎ。外は雨だが関係ない。  
今日は珍しくSOS団の活動が無い。  
良いことは重なるモノで、母親も出掛けてしまったので、家にいても勉強しろと強要されることもない。  
妹の面倒を見るように言われたが、あいつも小五だ、付きっきりである必要はない。  
となれば布団の上で、だらーっと過ごすのが健康的な高校生の生活という物じゃないか。  
 
今の俺は平穏そのもの、幸せそのものだ。  
普段、学校ではこうはいかない。  
幸せを噛みしめていると、必ず厄介ごとを持ち込んでくる奴がいるかならな。  
まあ、さすがにあいつでも、今突然この部屋のドアを開けて飛び込んで来るなんてことは無いだろう。  
 
自分の置かれている幸福な状況を再確認し、一眠りしようと枕の位置を正そうとした。  
しかし平穏は予想に反し、突然の闖入者によって乱された。  
開け放たれるドア。そして、うるさく連呼される間抜けな俺のあだ名。  
 
 
             『 ある女性の成長 』  
 
 
 
「キョンくん、キョンくんー、たいへんだよー!」  
妹が腕に抱えるのは、シャミセンという動物保護団体に聞かれたら訴えられそうな名前の猫だ。  
訴訟相手は俺ではなく、ここにはいないゴッドファザーにして欲しい。  
ともかく、その妹に抱えられた毛玉を見たことで、俺は更に眉を顰めることになる。  
 
「シャミが外で遊んでたのー」  
呑気な声で報告をする妹。やれやれ、そりゃ溜息も吐きたくなるさ。  
何だって普段は寝てばかりの怠け猫が、こんな日に限って外に出るんだよ。  
 
「勘弁してくれ、泥だらけじゃないか」  
シャミセンは車の跳ね水でも被ったのか、濡れ鼠の泥だらけだった。  
茶一色で、雄の三毛猫という希少性がすっかり失われてしまっている。  
そして当然、それを抱える妹の手や服も同じ運命だ。  
「キョンくん、どうしよー?」  
どうするってなぁ……  
 
「風呂に入れるしかないだろ」  
まるで俺の言葉が分かったかのように、妹の腕の中でシャミセンの耳がピクリと動いた。  
 
暴れる猫を何とか風呂場まで連れ込むことに成功。  
観念したのかシャミセンも大人しくなったが、そこまでの代償に俺の腕には幾筋もの引っ掻き傷。  
さすがにこれを名誉の負傷などと誇れるほど達観はしていない。  
 
トランクス一丁という情けない姿で毛の固まりを洗っていると、隣から声を掛けられた。  
言うまでもなく、同じく泥だらけになったためシャワーを浴びている妹だ。  
 
「キョンくん、あたしの髪も洗ってー」  
アホ。小学五年生なんだから一人で洗え。  
「えー、キョンくんのいじわるー」  
こら、狭いんだから手を振り回すな。  
……はいはい分かった。分かったから頬を膨らませるな。  
「へへー。キョンくん大好きー」  
お前に好かれたところで、何も嬉しくはない。  
 
とりあえず先にシャミセンをわしゃわしゃと洗ってしまい、バスタオルで水気を拭き取る。  
呑気なもので、喉元過ぎて安心したのか脱衣所のタオルの上で眠りについた。  
初めから外に出ずそうしていれば俺も今頃布団の上で眠れていたというのに。  
 
「キョンくん、早くー」  
妹はすでに椅子に座ってスタンバっている。こっちも呑気なものだ。やれやれ。  
 
「キョンくんに洗ってもらうの、久しぶりだねー」  
「んー、そうだな。最後に洗ってやったのは、いつだっけな」  
以前は一緒に風呂に入っていて、髪を洗ったりしてやるのも俺の役割だった。  
それも俺の生活時間の変化や妹の成長に伴い自然と回数が減り、いつの間にか完全に別になった。  
まあ他所の事情はよく知らないが、どこも大抵そんなもんだろう。  
 
シャワーを頭から浴びせかけると、きゃいきゃいと嬉しそうに騒ぐ。  
しかしほんと変わってないな、こいつは。まったく成長していない。  
「えー、そんなことないよー」  
ほら、と言って胸を張る。  
もしやとは思うが、その下町の熟練金属加工職人が三日間掛けて削り整えた平面を言ってるのか?  
 
「むー。あたしだって高校生になれば、みくるちゃんみたいなおっぱいに」  
「ならん!!」  
「もうっ、キョンく──わぷっ、きゃっ! やっ、キョンくん! やだったらー!」  
続けて文句を言おうとする妹に、シャワーを浴びせて黙らせる。  
妹の神をも畏れぬ妄言を止めるのは兄の役目だろう。  
 
シャンプーを泡立て、わしゃわしゃと洗ってやる。デリケートなどとは無縁だ。  
「んー、キョンくん気持ちー」  
まあ、他人に髪を洗ってもらう気持ちよさは、床屋に行けばよく分かる。  
 
「ねえ、キョンくん」  
何だ?  
洗う手を休めずに返事をする。  
「どうして最近、いっしょにお風呂に入ってくれないの?」  
どうしてって、いつまでも俺に洗ってもらうようじゃ困るだろ。  
「どうしてー?」  
あのなあ、俺だってずっとお前の面倒を見ているわけにはいかないんだよ。  
「兄妹なのに?」  
兄妹だって、一人暮らししたり結婚したりして、いつかは別れるもんだろ。  
「えーっ!!」  
妹は急に振り返ると、必死な顔で叫んだ。  
 
「そんなのヤダっ!!」  
 
……こいつのこんな顔を見るのは、いつ以来だろう。  
その必死顔も長くは続かない。  
シャンプーが目に入ったのか、すぐに目を押さえて痛い痛いと言い出した。  
溜息を吐きながら、シャワーで泡を洗い流してやる。  
そうこうしているうちに妹も落ち着いたようで、再び大人しく椅子に座り込んだ。  
ただし、どうも落ち込んでいる様子だ。  
まったく、いい加減に兄離れをして欲しいのだが……  
 
「あのなあ、離れるったって、今すぐってわけじゃないぞ」  
「…………」  
「高校の間は実家にいるし、大学だっておそらく通える場所に行く。結婚なんて遙かに先だ」  
それどころか、一生縁が無い可能性だってある。  
そう言っても妹は落ち込んだままだ。  
とにかくアヒル口は止めなさい。誰かみたいになられては困る。  
 
「……分かんないもん。すぐに結婚しちゃうかもしれないもん」  
俯いたまま、憮然とした口調で言う。  
「あのなあ、結婚ったって、相手がいなきゃどうしようもないだろ」  
そして俺に相手はいない。  
まあ結婚相手はともかく、彼女もいないっていうのは威張れる物ではないが。  
 
「……いるもん」  
──何を言い出すんだ、こいつは?  
シャンプーが脳まで達しておかしな化学反応を起こしたのか?  
いったい誰が俺と結婚してくれるっていうんだ。  
 
「ミヨキチちゃん」  
……は? 何でミヨキチの名前が出てくるんだ?  
「だって、キョンくん、ミヨキチちゃんとデートしたもん」  
デートって……、ああ、あれか。  
「ミヨキチちゃん、あたしより大人っぽいし、おっぱい大きいし……」  
……まあ、確かに妹よりは大人びているが、所詮は小学生だ。当然対象外である。  
ちなみに俺は年上好きの傾向があるらしい。  
もちろん、そんなことまで教えるつもりはないが。  
 
「あのなあ、ミヨキチと結婚なんて、考えたこともないぞ」  
溜息混じりに答えてやる。  
これで終わりかと思ったが、妹は続けて爆弾を投下した。  
「じゃあ、みくるちゃん?」  
朝比奈さんと結婚?  
何と魅惑的な響きだろう。残念ながら、可能性は絶望的だが。  
「ゆきちゃん?」  
長門か。プロポーズでもすれば、分かった、と一言で了承しそうで怖いな。  
悪い男に騙されなきゃいいが……って、そんな心配する必要はないな。  
続く鶴屋さんの名前も否定する。  
仮に結婚できたら逆玉で左団扇を約束な上に、毎日がとても楽しそうではあるが。  
「じゃあ、ハルヒちゃんなの?」  
「それはない」  
これは即答。間違ってもそんなことは無い。断じて無い。  
 
「じゃあ、まだあたしといっしょにいてくれるの?」  
別にお前のためにってわけじゃないが、一緒に住んでる以上、必然的にそうなる。  
「えへへー」  
……そんなに嬉しそうに笑うな。  
 
体も洗ってと甘える妹の頭を軽く叩く。  
あまり甘やかしては、こいつのためにならない。  
俺はまだ体を洗ってはいないが、そのまま湯船に浸かった。  
トランクスを履いたままなので、変な気分だが仕方がない。  
さすがに妹も五年生になったのだから、この程度のエチケットは必要だろう。  
 
する事もないので、体を洗う妹をぼーっと眺めたりなどする。  
「やだキョンくん、じろじろ見て、えっちだー」  
羞恥心の欠片もなしに、けらけらと笑う。アホか。  
えっちえっちー、と囃し立てる妹を無視することに決め、天井を見上げる。  
あー、昼間っから風呂に入るってのも贅沢で良いなぁ。  
 
いつの間にか妹も静かになった。  
気にせずにぼーっとしていると、視界の端に妹が立ち上がるのが分かる。  
天井から視線を移すと、ちょうど浴槽を跨ぐところだった。  
大事なところが丸見えである。  
 
「こら、そういう所はちゃんと隠せ」  
「えー、前はそんなこと言わなかったのにー」  
「お前だって、いつまでも子供じゃないんだから。学校で色々と習っただろう」  
小五と言えば、もう性教育だって受けたはずだ。  
「うん、習ったよ。もう生理がある子もいるみたい」  
そういうことは、あんまり言うんじゃありません。  
 
入れ替わりに体を洗おうと思っていたがタイミングを逃した。  
妹が脚の間に割り込み、胸に寄りかかってきたので、後ろから抱きかかえる格好になる。  
昔、一緒に風呂に入っていた頃と同じ体勢。  
以前よりも窮屈で、妹も体が大きくなったことに気付いた。  
上から覗き込むと、心なしか胸も膨らんでいるように見える。  
いつまでも子供っぽいと思っていたが、少なくとも体の方は成長しているらしい。  
 
「ねえ」  
さっきまでよりもトーンが落ちて、どこか不安げに声を掛けてきた。  
「何だ?」  
「キョンくんは、……えっちしたことある?」  
 
驚かなかったと言えば嘘になる。  
……こいつもそういうのに興味を持つ年頃か。  
まあ、自分の少し前を思い出せば、それも当然に思える。  
ましてや女子の方が成長が早いとも言うしな。  
ここは年長者として、真面目に答えておくべきだろう。  
 
「そっかー。あのねぇ、あたしもまだだよ」  
当たり前だ。  
妹は、そっかそっかぁと言いながら嬉しそうにお湯をぱしゃぱしゃと弾いている。  
この程度の話でテンションが上がるとは、やはり小学生だ。  
 
「えっちをしたいって思ったことはある?」  
少し答えづらい質問だったが、まあな、と濁し気味に答える。  
おい、にやにや笑うんじゃない。  
男なんてのは、そいうもんなんだよ。  
 
それからまた会話が止まり、ぼーっと天井を見上げる時間が過ぎる。  
ふと視線を感じて下を向くと、腕の中で妹が、じっと俺を見上げていた。  
のぼせているのか、頬が赤く、目が少し潤んでいる。  
どうした、もう出るか?  
「ううん、そうじゃなくてね……キョンくんは、えっちな女の子はキラい?」  
 
何を言い出すかと思えば……と、そこで妹の言いたいことを察し、言葉を選ぶ。  
 
まあ何だ。  
女でも変に潔癖性になるより、ある程度興味を持っていた方が良いと思う。  
知らなくて後悔したり辛い思いをするのは女の子の方だからな。  
だから、えっちなことに興味を持つのも、恥ずかしいことでも何でもない。  
 
妹が安心したのが、腕越しに伝わる。  
やはり妹の言う『えっちな女の子』は俺のよく知る奴だったらしい。  
にしても、そういうことに興味を示すようになるとは……いつまでも子供扱いは出来ないな。  
そんな感慨に耽っていると、腕の中で妹が、はにかんだ笑顔で口を開いた。  
 
「じゃあさ、お兄ちゃん、……えっちして」  
 
「そういう冗談は止しなさい」  
びし、と頭頂部にチョップを喰らわせる。  
前言撤回。やはり子供だ。まったく、人がせっかく真面目に話してやったというのに。  
「あうっ、……キョンくん、いたーい」  
膨れ面をするな。アヒル口も禁止だ。ほら、もういい加減に出るぞ。でもじゃない。  
 
まったく、久々に妹の口から「お兄ちゃん」という懐かしい言葉を聞いたと思えば。  
つけあがらせるとすぐにこれだ。困った妹である……  
 
 
                                       ────と、話を締める。  
 
周りを見回して、あれ?と違和感に捕らわれる。おいおい、どうしたっていうんだ。  
 
現在、日付が変わって月曜日、放課後のSOS団の部室。  
引っ掻き傷の説明から始まった昨日の出来事を話し終えると、どうもみんなおかしな顔をしていた。  
 
朝比奈さんは何だか慌てているような照れているような感じで、頬に手を当て赤くなっている。  
古泉は一見いつも通りの笑顔だが、よく見ればどことなく苦笑のように引きつっている。  
驚くことに、あの長門までもが無表情のまま非難の視線を送ってきている。  
ハルヒは……こいつは分かりやすい。怒っている。分かりやすいほどに怒っている。  
ぷるぷると肩を震わせていて、口を開いた瞬間に穴という穴からマグマが噴出しそうな勢いだ。  
って、何で怒ってるんだこいつは?  
 
幸いハルヒは俯いたままで、噴火までには、まだ猶予がありそうだ。  
……もっとも、溜めが長い分、噴火したときの激しさが心配だが。  
とりあえず手近に立っていた朝比奈さんに小声で相談をする。  
 
(朝比奈さん)  
(え、あ、は、はいっ!?)  
声が裏返っている。  
(その、どうしてハルヒのやつ怒ってるんですか? 俺、何か変なこと喋ってましたか?)  
朝比奈さんは驚くような戸惑うような表情をした後、  
(えっと……その、キョンくんの妹さんって、小学五年生ですよね?)  
なんて、今更の質問をしてきた。  
(ええ、そうですが。それがどうか……)  
疑問は至近距離でのオリンポス山の大噴火に遮られた。  
 
「ちょっと、キョンっ!!」  
「──は、はいっ!!」  
思わず敬語だ。いつになく恐ろしいぞハルヒ。完全に肉食獣の目付きじゃないか!  
 
 
その後の詳細は省く。  
あんたってやつは、なんで、まったく、自覚しなさい、ほんとにもう、このバカキョン!!  
──などと陽が暮れて下校時刻となるまで、ずっと床に正座の姿勢のまま怒られ続けた。  
なぜ怒られているのかは、まったく不明のままである。  
他の団員が誰も助けの手を差し伸べてくれなかったのは、ちょっとばかりショックだった。  
……いったい俺が何をしたって言うんだ?  
 

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