風が吹いた。季節相応の生暖かい風……小さい頃は強い風が吹く日でもよく外で遊んだもんだ。  
 どちらかと言えば風は割と好きな方だった……あの日までは。  
 
 あの日…あの時以来俺は――風が嫌いになった。  
 
 
「ふう……もう少しか」  
 俺は腕時計を見て時間を確認した。丁度十八時半を回っており、退社の時間の十九時までもうすぐというところだ。  
 上司からは、早々に仕事を切り上げて帰ってもいい……と言われたが、俺は残って目の前のパソコンと激しい攻防戦を演じていた。  
 ……今日はお客がここに来る。無論退社時間も間近なこんな時に来るお客とは、取引先の相手という訳ではない。  
 
「お先に失礼しまーす」  
 一年後輩の新入社員君が俺にそう告げて、オフィスを駆け足で出て行く。ここは走るの禁止だぞ、後輩君。  
 俺を残して誰もいなくなったオフィス。もうすぐ沈むであろう夕日の光がオフィス一面に広がった。  
 夕日に染まる中、俺は今日ここに来るお客の事を考えていた。  
「二人に会うのは半年ぶりか……」  
 誰もいないオフィスで呟いた。……いかんな、最近独り言が増えた気がする。  
 深く溜め息を付きつつ、先日掛かってきた電話の内容を思い出していた。  
 電話での彼女の声は元気そうだった。俺を気遣ってくれていたのだろう、落ち着きのない感じではあったが。  
 
 途中だったデータをまとめて、俺はパソコンの電源を切った。  
 今回俺が担当する事になった商談関係の書類を鞄に放り込む。  
 ……時間は十八時四十五分を過ぎていた。俺はオフィスの電灯のスイッチを切って、こじんまりとしたオフィスを後にした。  
 
 
 待ち合わせ場所と言っても、駅の真ん前や有名な犬の銅像の前で待ち合わせという訳ではない。  
 今回の二人と会う待ち合わせ場所は――この会社の屋上である。  
 普段働く小さなオフィスがこの雑居ビルの三階、屋上へはエレベーターで七階まで上がればすぐだ。  
「……またか」  
 このビルのエレベーターは一基しかないため、退社時間間近となると上り行きはなかなかやって来ない。  
 俺は階段で屋上まで上がることにした。最近忙しくてろくに運動もしてないしな。  
 
 一日中パソコンと睨めっこを続けていたせいか、かなり疲労が溜まっているようだった。  
「ちょっと階段を上るぐらいでこのザマとは……」  
 ついつい独り言が口から溢れてしまう。  
 数階分上っただけで、グラウンドを何周もしたかのように息が苦しかった。たまには休みを貰いたいもんだ。  
 
 七階まで上がった俺は、屋上へと上がる扉に手を掛けた。  
 この時間になると決まって屋上への扉は施錠されているものだが……今日は戸締りを忘れたのか、鍵が掛かっていなかった。  
「泥棒に入られても俺は一切知らんぞ」  
 そう愚痴を言いつつ、扉に開けた。  
 
 
 屋上には誰もいなかった。まだ二人は来ていないようだ。勇み足だっただろうか?  
 大通りを見下ろせる場所へまで移動した俺は、鞄を置いて近くにあった手摺に触れた。  
 
 ――屋上――手摺――そして――  
 
 吹き飛ばれてしまいそうな強い風が吹いた。  
 ふと眉間が歪むのを俺は意識した。今の俺はどんな顔をしているんだろうな。……鏡があっても見たくはないが。  
 俺は触れていた手摺を力強く握り締めていた。もしかしたらこのまま捻れば折れてしまいそうなくらいに。  
 
 
 ふと屋上の扉が揺れた気がして、俺は後ろを振り返った。  
「待ち合わせの時間は……さすがですね、十九時丁度ですよ」  
 俺は扉から現れた彼女に向かいそう言った。  
「久しぶり……キョン君」  
 目の前の……朝比奈さんは少し戸惑ったような表情をしていた。  
 思えば朝比奈さんより先に俺を待ち合わせ場所に来ていた事例はほとんど無かったな。  
 そう考えていた矢先に、また扉が開いた。  
「……前会った時よりは随分と顔色が良いな」  
 朝比奈さんより少し遅れた現れたそいつは俺に向かってそう言った。  
「そうでもないぜ?ここんとこ休みが全然貰えなくて大変なんだよ」  
 そう返答した。休みが貰えなくて疲れてるのは正解だったからな。  
「……何だよその顔は。俺には会いたくなかったって顔するなよな。こっちだって仕方なく来てやってるんだ」  
 相変わらず口が回る奴だ。前みたいに一発ぶん殴れば大人しくなるだろうか?  
 特に今はぶん殴る理由はないから、殴ってしまうと確実に俺の八つ当たりになってしまうが。  
「………」  
 朝比奈さんはさっきからずっと黙ったまま俺たちの問答を見つめていた。  
「キョン君……ちゃんとご飯食べてる?前みたいに作って持って来ましょうか……?」  
「大丈夫ですよ、朝比奈さん。最近はインスタントと冷凍食品ばっかりですけど、一日三食は欠かしてませんから」  
 元気だと胸を張ってアピールしておいた。  
「そう……無理してない?大丈夫よね?」  
 自分で思っている以上に顔色は悪いようだった。実際問題、朝比奈さんでもわかるぐらいに俺は疲れていたのだ。  
 胸を撫で下ろした朝比奈さんが俺を見る。何とか誤魔化せたようだ。  
「ちゃんと上着の準備はしてきてるな?随分と冷え込むだろうからな」  
「こんなの持って出社して随分と周りに怪しまれたんだがな」  
 俺は左手に冬用のコートが入った紙袋を持っていた。  
 目の前の二人も熱そうではあったが、対策と言わんばかりにそれなりの服装をしている。  
 特に朝比奈さんはそのグラマーなボディラインがより強調されるような格好だ。こいつの方は……省略しておく。  
 俺は二人が今日ここに来た理由を知らされてはいない。防寒着を持って、今日のこの時間に必ず会いたいという事しか知らなかった。  
 だが、俺はここに来た理由を聞こうとはしなかった。薄々気付いてはいたからな。  
 無論二人も理由を話そうとはしなかった。俺がその理由を察した事に気付いたからだろう。  
 二人共、複雑そうな表情をしたまま黙り込んでしまった。……俺もそうだった。どう話を切り出せばいいだろうか。  
 雑居ビルの屋上に吹く風が急に止み、静寂が俺たち三人を包み込んだ。  
 
 沈黙を破るべく俺は気になっていた事を朝比奈さんに聞いた。  
「朝比奈さん、長門と古泉には……」  
「二人にはここに来る前に会って来ました」  
 長門と古泉はここには来ていない。来るなら俺に何かしらの連絡は必ずしてくるだろうからな。  
「古泉一樹は大学の期末考査のレポートの締め切りが近くて手が離せないそうだ」   
 わざわざの解説役、有難い事だ。こういう点では古泉にも引けを取らないな。  
「長門有希は、ご丁寧にも俺の腕に噛み付いてくれた。それに確か……」  
 そう言い掛けた所で、朝比奈さんが続けて言った。  
「長門さんは一緒に行く事は出来ないと言いました。キョン君、貴方の事を頼む……と」  
「……そうですか」  
 あの二人とは随分と会っていない。元気にしているだろうか?  
「少なくとも今のあんたよりは元気そうだった。あんたもあいつらを見習ったらどうだ?……気楽に言うなと思われても仕方ないがな」  
 余計なお世話だ。俺は長門や古泉のように強くはない。そう言いたかったが、その言葉が心に強く圧し掛かった。  
「さて、そろそろだな。準備、いや覚悟は出来たか?」  
「キョン君……大丈夫?」  
 二人が揃って俺の表情を伺う。俺は出すことの出来る精一杯の表情を顔に出した。。  
「ええ、大丈夫ですよ」  
 平気だと伝えつつ、動揺していたのだろう。俺の声は震えていた。心無しか紙袋を持つ左手も震えているような気がした。  
 俺は紙袋からコートを取り出して、それを羽織った。どう考えても場違いな格好ではあったが、そんなことはどうでもいい。  
 鞄を拾い上げて紙袋を中に押し込もうとしたその時に気付いた。充分震えてるじゃないか、俺。全然大丈夫ではなかった。  
 その様子に朝比奈さんも気付いたようだったが、何も言ってはくれなかった。俺のこの状態を察してくれたのだろう。  
 こんな時期に着るべきではないものを着てるんだ、自然と汗が出てくる。これは脂汗なのだろうか、それとも冷や汗なのだろうか?  
 どうでもいい事で自分を必死に誤魔化そうとしていたが、そんな時間的な余裕は無かった。  
「じゃあ、行くぞ」  
「キョン君……目を閉じていてね。すぐ済みますから」  
 二人が続けて俺に言った。俺はゆっくりと目を閉じ、大きく深呼吸をした。  
 
 
 そして――思い出していた。三年前のあの冬の日から今までの事を――  
 
 
「では、失礼しました」  
 そう言って俺は職員室を後にした。今日は掃除当番な上に日直という面倒な組み合わせだった。  
 学級日誌を職員室の担任の元へ届けた俺は、既に合格している大学に提出するための書類の事に関して担任に聞かれていた。  
 何でも必要事項を書いた書類がまだ大学に届いていないらしい。ちゃんと期日前にポストに投函したんだがな。  
 思っていた以上に話が長引いた。途中で学年主任まで首を突っ込んできたからな。全く何故俺が文句を言われねばならんのだ。  
 俺は文芸部室へと足を進めていた。ただでさえ長話で遅れてるんだ、部室でハルヒに何を言われるか知れたもんじゃない。  
 心の中で愚痴を言いつつ、ふとある事を思い出し部室に向かう途中で足を止めた。  
「ノートとペンケース教室に忘れてきちまった」  
 慌てて自分の鞄を覗き込むが、実際に忘れてきているのだろう。鞄の中には真新しいノートとペンケースが入っていなかった。  
 忘れ物を探してたって言えばハルヒも大目に見てくれるはずだ。実際ちゃんと忘れてるしな。  
 さっと体を翻して、俺は教室へと駆け足で向かった。  
 教室へはすぐに辿り着いた。職員室からは割りと近かったしな。  
 教室の扉を開けた俺にぴゅうっと身も心も冷やしてしまいそうな強い風が体を押し戻した。  
「あれ?さっき出るとき窓はちゃんと閉めたはずなんだが……」  
 俺とハルヒの席に一番近い窓が全開で開いていた。確かに最後に教室を出たのは俺だ。  
 鍵は閉めてなかったから俺が教室を出てからまた誰かが開けたのだろう、こんな寒いのに誰だよ一体。  
 例年以上に今年は冷え込んでいるらしく、体調を崩して休む生徒も割と多かった。  
 寒いのを我慢しながらも窓をきっちり閉めた。一年間世話になった教室もこれで一安心だろう。  
 続いて忘れ物を確認すべく自分の机の中を見た。ノートとペンケースとの再開だ。  
 最後の授業だってのに、新品のノートを使わなきゃならんとは。一ページ弱しか書いていない綺麗なノートだ。  
「実に勿体無い」  
 そう呟きつつ、俺は今日までの高校生活を思い出していた。  
 
 高校三年の冬、今は一月の二十日を過ぎた辺りだ。後一週間もすれば卒業式までの休みの期間に入る。  
 何とか卒業のための単位も充分取得しているし、卒業後の進路も決まっているから気楽なもんだ。  
 SOS団をハルヒが結成したのが一年の頃だったな。あれからハルヒのSOS団的活動は規模を拡げて行ったっけ。  
 教育委員会と戦おうとか、テレビ番組に出ようとか……さすがに規模の大きくなりそうな活動は俺が必死で制止したがな。  
 ハルヒには散々振り回された。でも充分過ぎる程の高校生活を味わえたけどな。これでもめちゃくちゃ感謝してるんだ、ハルヒ団長?  
 何だかんだと言われつつも、ハルヒのお陰で大学に合格出来たからな。感謝どころの言葉では片付けられないかもしれん。  
 半年前、成績の低さもあり志望した大学への進学をギリギリまで悩んでいた俺にハルヒはこう言った。  
『あたしが勉強を手取り足取り教えてあげるから!』  
 夏休みの間、超教師と書かれた腕章を付けたハルヒにほぼ毎日泊り込みで猛勉強をさせられた。  
 その頃には、俺の両親もハルヒの両親も、俺たちやSOS団の事は理解してくれてはいたから説得には余り時間は掛からなかった。  
 ……ハルヒの親父さんには、いやらしい視線を浴びせられ続けてはいたが。  
 その猛特訓のお陰で何とか俺の成績は上昇し、安定して飛行が可能なまでになっていた。  
 だがハルヒよ。自分の志望を大学を変更してまで俺と同じ大学を受験したのはどういうつもりだったのだろう。今度聞いてみよう。  
 だが悪い気は全くしなかった。大学でもあいつと一緒なら退屈しないで済みそうだったしな。所謂、腐れ縁ってやつだ。  
 その結果、俺とハルヒは揃って同じ大学に合格した。その時は部室でどんちゃん騒ぎして教師連中に怒鳴られたっけ。  
 大学と言えば、古泉は県外の大学を受験して何時の間にやら合格通知を受け取っていた。  
 長門は……いつもは俺が聞けば必ず何かしらの返答をくれていたが、今後の進路をどうするかは聞いても答えてくれなかった。  
 言いたくなかったのだろう、俺は深く追求したりは決してしなかった。  
 
 高校生活も北高でのSOS団の活動ももうすぐ終わろうとしている。  
 長いようで短かったな。あの部室で朝比奈さんの淹れてくれるお茶も飲めなくなるのかと思うと残念でならない。  
 去年の春に卒業した朝比奈さんは、こっちの時間での滞在期間を延長して欲しいと上司に頼み込んで、特例として今もこの時間に滞在している。  
 県内の服飾の専門学校にしており、時間がある時はSOS団のマスコットとして顔を出してくれている。  
 もちろん教師連中が黙っているはずがなかったが、そこは俺とハルヒで教師共を入念に説得しておいた。  
「さて、戻るか」  
 今日は朝比奈さんが来ている。早く美味しいお茶を頂きたいものだ。  
 過ぎ去った過去を思い出しつつ、俺はノートとペンケースを鞄に放り込んで。教室を飛び出した。  
 
 部室へ向かう俺の目の前に、丁度上階から降りてきたハルヒに会った。  
「そんなとこで何突っ立ってるんだ?さっさと部室に行くぞ」  
 じっと何かを堪えたような表情をしているハルヒにそう言った。一体何なんだ?俺の顔に変な物でも付いてるのか?  
「キョン」  
 ずっと黙ってると思ったら荒げた口調で俺を呼んだ。  
「話があるからこっちに来なさい」  
 そう言って俺のネクタイを引っ張り上げる。首が絞まって痛い……どれだけ引っ張るつもりだ?ネクタイが切れちまいそうだ。  
 ハルヒはネクタイを物凄い力で引っ張ったまま俺を引き摺り、ある所連れて行った。  
 俺がハルヒに初めて引っ張られて連れて行かれた、屋上へと続くドアの前だ。  
「いきなり何なんだよ。説明も無しに。卒業式前にネクタイが切れたらどうするんだよ」  
 ハルヒは無言のまま屋上へのドアを思い切り蹴破った。  
 本来は施錠されているはずなのだが、この前の文化祭公開用に用意した映画を撮影する際にハルヒがぶっ壊したまま、そのままになっていたのだ。普通直しておくだろう……何をやっているんだ。  
 などと考えていた俺をハルヒは屋上へと引き摺り出した。  
 何のつもりなんだと聞く間も無くハルヒは俺に向かいこう言った。  
「あんた……あたしに何か隠し事してるわね」  
 直球だった。しかも断言系で。  
「何よ、その顔は」  
 確かに俺はハルヒには黙っている事が二つあった。ハルヒの持つ力の事、そしてジョン・スミスの事だ。  
 未だにその事をハルヒは知らない。特にジョン・スミスが俺であるという事を俺の口から語りたくなかった。  
「あんたさっきから変よ。今なら全部許してあげるから、綺麗に白状なさい」  
「……何の事だよ、ハルヒ。さっぱりわからん」  
 一応、知らぬ素振りで誤魔化しておこう。大抵はこのパターンで何とかなる。ハルヒ相手では些か不安だが。  
「言ったでしょ。今なら許してあげるから。隠し事は駄目」  
 ごり押し作戦か。ならこっちは篭城作戦で対抗するしか有るまい。  
「答えなさい!」  
 ハルヒは俺の頬を両手で抓りながら、ますます口調を荒げる。どのみち頬を抓られたままでは答えようなどない。  
 だが、すぐに手を話して続けてこう捲くし立てた。  
「答えるつもりがないなら、もういいわ!あんたが全部吐くまで」  
 と言いながら……おい、ハルヒ。何してるんだお前は。  
「ここでストライキよ!」  
 屋上の手摺を乗り越えたハルヒは、事もあろうに危なっかしい行動に出始めやがった。おいおい危ないっつーの。  
 どうやら本気でストライキを敢行するようだ。鉄柵を掴んで、以下にも牢獄に閉じ込められた囚人のように俺を睨み付けた。  
「やれやれ」  
 
 俺が話さなかったら、いつまでここでストライキをするつもりなんだハルヒは。ついついお得意のポーズが出てしまう。  
「ハルヒ、危ないから戻って来い。部室でみんな待ってるんだろうが」  
「他のみんなは関係ないの!いいから答えなさい!」  
「いつまでストライキするつもりだ」  
「あんたが隠し事を全部話すまでって言ってんでしょ!アホキョン!」  
 押し問答が続く。隠し事があっても絶対に話すわけにはいかない。だが、俺はふと気付いた。  
 ……怒鳴るハルヒが涙目になっているということに。気付いてはいなさそうだった。  
 本気で知りたいのだろうか?今にも泣き出しそうになってきている。そんなハルヒを見てどうしようかと複雑な気持ちになった。  
「どうなのよ!何とか言ったらどうなのよ!」  
 崩れ落ちそうになるハルヒを見て、少しは真実を話してもいいんじゃないだろうかと思った。それ程までにハルヒは必死だった。  
 こんなとこで泣き叫ばれたら俺が周りから何と言われるかわからん。下から丸見えな上にドアも開きっぱなしだからな。  
「はぁ……わかった。わかったからこっち戻ってこい」  
「……本当でしょうね?」  
「教えてやるから。その柵上れるか?」  
 ようやく落ち着いたのか、赤くなった目で周りを見渡すハルヒ。どうやら向こう側からだとハルヒの身長では無理なようだ。  
「聞いてやるから。……そこで言いなさいよ。全部」  
「こっちに戻ってきたら教えてやる。そこ危ないだろう」  
「戻れないのよ。段差足りないし。だから今そこで言いなさい」  
 また駄々を捏ねるのかハルヒは。そう思いつつ俺は手摺をよじ登った。  
「な…なによ!危ないじゃないの!あっち行きなさいよ!」  
 先に危ない事したのは一体誰だよ?俺の身にもなってくれ。  
 ふと下を見ると下校中の生徒が何人もこっちを見上げている。そりゃあ嫌でも目立つだろうからな。  
「ほらこっちだ。手、伸ばせるか?」  
「約束よ。さっきの事もちゃんと聞かせてもらうからね」  
「ああ、わかったから手を伸ばせよ」  
 久しぶりにハルヒの晴れ晴れとした笑顔を見たような気がする。何ともいい気分だ。  
 ハルヒの手を取り、柵を乗り越えさせようとした時だった。  
 
 その時――今まで体験した事の無いような風が吹き、俺とハルヒを包み込んだ。  
   
 ハルヒの身体が強風に押し戻されたかのように空中に浮くのが見えた。  
 一瞬何が起こったのかわからなかった。ハルヒの手を握った俺の身体も大きく揺れる。  
 動転していた俺の視界にハルヒが足場を踏み外す様子が入った。ハルヒの表情が……見えなかった。  
 俺までもが足場を失って体勢を崩してしまっていたからだ。どうしようもなかった。余りの唐突な出来事に頭が回らなかった。  
 俺は飛びそうな意識の中でハルヒの身体を引き寄せた。ハルヒの体温が伝わってくる。  
 「キョン!」  
 
 俺を呼ぶハルヒの声が聞こえた。俺はハルヒの身体を抱きしめたまま――強烈な激痛と共に意識を失った。  
 
 消え行く意識の中で俺の視界に今まで見たこともないような表情をした古泉と朝比奈さん、そして明らかに動揺を隠し切れない表情をした長門の顔が映ったいた。  
 抱きしめていたはずのハルヒの姿が無かった。ハルヒは俺の横にいるようだった。だが俺はそれを確認する事が出来なかった。  
 首の骨が折れてしまっていたのだろうか?横を向く事が出来ないまま、俺の意識はそこで途切れた。  
 
 俺は数時間後に病院で目を覚ました。古泉が発した信じられない言葉――決して信じたくなかった言葉を目覚まし変わりに。  
 
 幸い俺は軽症で済んだために、数日で退院した。  
 古泉曰く、持っていた超能力はいつの間にか消え去ったと言っていた。  
 情報統合思念体の判断により長門も、その能力の全てを失った。実質的に人間と同じような存在になったのだそうだ。  
 
 退院した俺は家に引き篭もった。何もかもがどうでもよかった。あれから俺は――失意のどん底にいた。   
 ハルヒの親父さんやお袋さんに顔向けなど出来るわけもない。俺は自分を責め続けた。  
 何度も朝比奈さんや長門、古泉も俺の家に来てくれた。谷口や国木田も俺の様子を見舞いに家に来てくれた事もあった。  
 だが、俺はみんなに会いたくなかった。  
 俺は卒業式には出なかった。それに大学への進学も辞退した。  
 何が楽しくてハルヒのいない卒業式に出たり、大学なんぞに行かねばならんのだ。  
 それは半年後、お袋が親戚の伝で県外の会社を紹介してもらうまで続いた。  
 
 俺は仕事に没頭し必死で忘れようと試みたが、それでもあの出来事を忘れる事など出来なかった。  
 こっちで仕事を初めて以来、俺は地元には帰ってはいない。帰るとまた思い出しそうだったからだ。  
 
 
 過ぎ去った忌まわしい過去を振り返りつつも、俺はすぐさま現実へと引き戻された。  
 ほんの数秒間だけ目を閉じていたつもりだったが、その数秒間は俺にとってはとても長かったように感じられた。  
「行きますね」  
 朝比奈さんの声がした。その直後、一体何度味わったのだろうか……体が捻じ曲がりそうな感覚が俺を襲う。  
 物の一瞬の出来事である。辿り着いた先が何処なのか、俺はわかっていた。  
 
 今は――三年前の冬、俺の心に楔を打ち込んだ――あの日の放課後だ。俺たちは北高の職員玄関の前に辿り着いた。  
 この時の気温の低さが凄く堪えた。コートをちゃんと持ってきて正解だったな。  
 
「問題なくこっちに来れたようだな」  
「ええ……でも、それ程長くはいられません」  
 俺の後ろから二人の声が聞こえる。他にも何か話をしている様子だったが、耳には入ってこなかった。  
 もう二度と見るつもりのなかった、俺の母校だ。正確には……戻ってきたんだ。あの日に。  
「おい……聞いてるのか?まさかとは思うが時差ボケとかでボケちまってるんじゃないだろうな?」  
 大丈夫、気は確かさ。ちょっと心の中のアルバムを覗いていただけさ。  
 俺は身振り手振りで、二人に正気を保っている様をアピールしておいた。  
「キョン君、余り時間がありません。貴方がやるべき事、わかっているとは思うけど……」  
「大丈夫ですよ、朝比奈さん」  
 一応、大丈夫なつもりだった。少し期待している半面――怖いという気持ちもあった。  
「俺たちはここらで待っておいてやる。さっさと済ませてきな」  
 小さく頷いて、職員玄関で待ってくれている二人と別れた。この周辺に誰もいなかったのは幸いだった。  
 決して誰かに見つかるわけにはいかなった。俺の顔を知ってるであろう、教師連中や生徒にはな。言い訳のしようがない。  
 俺は周りを警戒しつつ足を進めた。側から見ればどう考えても不審者だ。抜かるなよ、俺。  
 
 そう俺は――ハルヒに会いに来た。今、この時代にいるであろうあいつに。俺がかつて言えなかった気持ちを伝えに。  
 
「この時間だと……ん?」  
 こっちに来た途端に、時計の刻む時刻が調整された自分の腕時計を見た。時間は十六時前。  
 大体あの出来事の一時間前だ。今、こっちにいる俺は職員室で担任に説教されているはずだ。だがふと気付いた。  
 あいつは何処にいるんだ?記憶を引き摺り出して必死に思い出した。が、皆目検討が付かない。しくじった。  
 覚えてる記憶の中では――俺が忘れ物をした教室から出た直後にハルヒは上の階から降りてきた。  
「じゃああいつはそれまで何処にいたんだ?」  
 出さなくてもいいのに勝手に独り言が口から漏れる。誰かに聞こえてたらどうするんだ。  
 確か俺はハルヒの出くわした直後に屋上まで引き摺られ連れて行かれた。まさか――屋上か?  
 屋上にはいい記憶など微塵も残ってはいない。屋上で撮影していた映画の記憶も、あれ以来思い出したくはなかったからだ。  
 ハルヒがいるかどうかはわからんが、俺は僅かな可能性に賭けるしかなかった。  
 周りに誰もいない事を入念に確認しつつ、俺はあの忌まわしき屋上へと向かった。  
 
 途中で物陰に隠れつつ、放課後に残っている生徒や教師を何とかやり過ごした俺は、屋上へのドアへと続く階段の前までやってきた。  
 一歩ずつ階段を上る。明らかに心臓がバクバクなってるのがわかる。呼吸もし辛くなってきやがった。  
 ドアの前までやって来た俺は大きく、そして誰にも悟られないよう静かに深呼吸した。  
 屋上に――人の気配がした、ような気がした。だが俺は確信していた。このドアの向こうにはあいつがいるという事を。  
 俺は恐る恐る震える右手でドアのノブを掴んで、ドアを開けた。  
 
 
 俺は勝つ見込みの皆無な大博打に勝った気分だった。目の前には手摺を掴んで屋上から外をじっと眺めるあいつの姿があった。  
 ――俺が会いたかった相手、俺が気持ちを伝えたかった相手、俺にとって大切な存在――涼宮ハルヒはそこにいた。  
 
ハルヒの横顔が見えた。何だか不安そうな表情をしていた。あいつが滅多に、いやほとんど見せたことのないような表情。  
 俺は足の震えが止まらないまま次の一歩を踏み出した。本当なら思い切り飛び付いてあいつを抱きしめたかった。  
 だが、俺は飛び出したい気持ちを深く抑えてゆっくりと歩みを進めた。  
 俺に気付いた様子はまだない。今にも口から心臓が飛び出るような気分だった。それほどまでに俺は高揚していた。  
 あいつに何と言って声を掛けようか、などと考えていた最中に予想外の出来事が起こった。  
 身動ぎしそうな冷たい風が突如として吹いたからだ。  
「……っ!」  
 
 いきなりの出来事に思わず声に出してしまった。その瞬間、ハルヒは屋上に自分以外の人間がいた事に気付いた。  
 
「………」  
 ハルヒが無言で俺の方を見る。どうしたものか、俺から声を掛けるつもりだったのだが。気が動転していた俺にハルヒがこう言った。  
「キョン……あんたそんなとこで何突っ立ってんの?」  
 久しぶりに――声を聞いた。もう聞く事が出来ないと思っていたあいつの声。何度怒鳴られたかわからないあいつの声が。  
 俺は今にも倒れ突っ伏してしまいそうだった。三年ぶりだぜ?あいつの声や……姿を見るのは。どうしていいかわからなくなった。  
「何て顔してんのよ?あたしの顔に変な物でも付いてるって言いたそうな顔ね」  
 どんな顔しているのだろう?明らかに顔の筋肉が緩んでいるのはわかる。恥ずかしくてあいつ以外には見せられないだろう。  
「……何よその格好?どっから盗んできたのよ?」  
 一瞬ハルヒが何を言ってるのか理解出来なかった。  
「さては職員更衣室から盗んできたのね?返してきなさい。制服はどうしたのよ?」  
 それを聞いてやっと理解した。俺の今の格好はスーツに冬用のコート、明らかに生徒が着るような服装ではない。  
 ハルヒは大きく溜め息を付いた。どう言い訳しようか考える暇も無く、俺は口を開いた。  
「さっき掃除の時間にバケツ引っくり返しちまって。制服は教室で乾かしてるんだ」  
 あいつに三年ぶりに話し掛けた言葉がそれか。もっと気の利いた台詞を言おうと決めていたのに……情けないぜ。  
「んで、着るものがないから更衣室から盗んできたって?しょうがないわね。後でちゃんと返しておきなさいよ」  
 一応、適当に誤魔化したが、ハルヒは俺がスーツを盗んできたと思い込んでいるようだ。反論しにくいが、あいつらしい。  
 本当はこの俺が三年後から来た、何て事に気付いた様子は微塵も無い様だった。  
 
「で、こんなとこで何やってんの。掃除終わったんでしょ?」  
「お前を探してたんだよ。……待ってもお前が部室に来ないからな」  
 ハルヒの隣まで移動しながら、俺は適当に話を合わせておいた。  
「考え事してたのよ。高校生活を振り返ったの」  
「こんなに寒いのに屋上でか?考えるくらいなら部室でも出来るだろう」  
「一人で考えたかったの。たまには一人で考え事もしたいわよ」  
「一人で考え事をするなら家でも出来るじゃないか」  
「学校生活を振り返るのに家で振り返ってどうするのよ?学校で振り返るのは当たり前じゃない」  
 オーバーアクションで語るハルヒ。実に真っ当な意見だった。変わってないな……ハルヒ。全然変わってない。  
 取り留めの無い普通の会話だったが、俺はそれが出来るのが嬉しかった。嬉しいだけでは表現が足りないかもしれん。  
「さっきから顔が赤いわよ。熱でもあるんじゃないの?」  
「屋上まで飛んできたからな。そりゃ息も上がる」  
 本当にハルヒに会いたかったら時間を超えて飛んできちまったわけだ。  
 しかし、ハルヒの仕草一つ一つが愛らしいぜ。それと同時に……とても懐かしい気持ちだ。  
「そう……」  
 ハルヒの顔が少し曇った気がした。ハルヒは何かを俺に言おうとしたようだったが、すぐに口を閉じて黙り込んでしまった。  
 お互いに沈黙が続く。こんな時は決まってハルヒが沈黙を破っていたが、この時は何か考え込んだ様子であった。  
 今すぐにでも抱きしめてやりたかった。それほどまでに――ああっ駄目だ。もうどうでもいい。我慢なんぞ出来ん。  
 もはや俺は平静を保ててなどいなかった。考えるよりも先に体の方が動いていた。  
 
「へ……!?」  
 ハルヒもいきなりの事で驚いたのか、思わず素っ頓狂な声を漏らしていた。  
 俺はハルヒを抱きしめた。力一杯に抱きしめた。三年分の俺の想いを込めて。  
「な……!いきなり何すんのよ!離しなさいよアホキョン!こんなとこ誰かに見られたらどうすんの!」  
 興奮しているのか声が裏返り気味になりながら、コートを思い切り握り締めた。  
 何も言わずに俺はハルヒの言葉を聞いていた。すぐに離せるものか。俺の三年間溜まりに溜まった気持ちはこんなもんじゃない。  
 そのうちハルヒも大人しくなり、俺のコートを掴む手の力も緩くなっていたのを感じた。  
 俺とハルヒの二人しかいない屋上。邪魔など入らん。邪魔しようものなら俺が力尽くで追い返してやる。  
 抱きしめながら、次に何と言おうか迷っていた。だが、迷っている余裕など今は無い。  
 
 耳元で俺は今まで言えなかった自分の想いを告げた。  
 
 コートを掴んでいるハルヒの手が急に強くなった。何だか力一杯抱きしめなければ怒られそうという使命感に駆られた俺は更に自分の体にぐっと抱き寄せるように抱きしめた――瞬間、ハルヒは俺を突き放した。  
「どっどどういう風の吹き回しかしらね。ちょっと痛かったじゃないの!」  
 どう見ても動揺してるし、顔も真っ赤になってるぜ。  
「俺にだって抱きしめたくなる時があるんだよ」  
 はぐらかしながら俺はハルヒを見つめた。目元が少し潤んでいるように見える。……やりすぎたか?  
「わっわけわかんないわよ!こっち見んな!さっさと制服に着替えてきなさいよっ!」  
 狼狽した俺に向かってハルヒが噛みまくりの口調で捲くし立てる。  
 今まで一度も見たことなかった。ハルヒがこんな表情するなんてな。  
 言われるままに俺はハルヒに背を向けて歩き出した。ハルヒが後ろで喚いているのが聞こえる。  
「さっさと行ってきなさい!」  
 やっと言えた――この時をどれだけ待ち望んだ事か。わかってくれるか?ハルヒ、今の俺の気持ちが。  
 ハルヒの声を背中に受けつつ、俺は立ち止まり振り向いた。もう一度だけ、もう一度だけハルヒの元気な姿を見たかった。  
 真っ赤になった顔なんて見られたくなかったんだろう。目元を更に赤くさせたハルヒが俺を見つめた。  
   
 
 屋上のドアを開けた俺は――自分の目元に込み上げるものを感じた。必死に袖で目元を拭った。  
 こんなとこハルヒ以外の誰かには絶対に見られたくなかったし、見せたくなかったから。  
 ハルヒは屋上から出てこようとはしなかった。俺もそれを悟って階段を降りて行った。  
 
 
 丁度二階へと降りてきた所で、朝比奈さん達と出くわした。  
「キョン君……」  
「別れは……済んだか?」  
 二人が俺に話しかける。正直、別れなどとは思いたくなかった。だが、それが俺の現実だった。  
 ハルヒ以外の事など今はどうでもよかった。そう思っていた矢先、ある事を思い出した。  
「朝比奈さん、少し寄り道をしたいんですが……時間はまだ大丈夫ですか?」  
「ええ……まだほんの少しだけ」  
「少しだけでも残ってるなら充分です」  
 俺は寄り道したかった場所は告げずに、二人と共にある所へ向かった。  
 
「恐らく涼宮さんは心の中では気付いています。今の貴方が本当のキョン君で無いことを。……かつて出会ったジョン・スミスではないのかと」  
 廊下を歩く俺たちに朝比奈さんが語り出した。  
「ここに来るのはあれから三年を経過した状態が必要条件でした。今の貴方がジョン・スミスの役割を担って涼宮さんに会うという事を」  
「涼宮ハルヒはあんたと……昔会ったジョン・スミスとやらを重ね合わせてたんだろう。実際は同一人物ではあったんだが」  
「ごめんなさい、キョン君。私たちは全て知っていたのに……」  
 説明してくれるが細かい事なんてどうでもよかった。二人がそこまで言ったところで俺たちが目的地までやってきた。  
「知ってて黙っていてくれたんでしょう?」  
 扉の前で立ち止まって俺は朝比奈さんに言った。朝比奈さんは黙って頷くだけだった。  
 俺は目の前の扉を開けた。鍵が掛かっていなかったのを俺は覚えていたからな。  
 扉を開けた瞬間、冷たい風が俺たち目掛けて飛んできた。  
 かつて俺とハルヒが座っていた席に一番近い窓が開きっ放しになっていた。  
 あの時も窓が開いていたはずだ。結局誰があの窓を開けたんだ?  
 
 俺はかつて自分が座っていた席の前までやってきた。今はこの時間にいる俺が使っている席だ。  
 そして――あるはずだ。だが取りに来ていないのなら、この机の中に。  
 机の中にはノートとペンケースが入っていた。真新しいノートと使い古したペンケースが。  
 開きっぱなしの窓から冷たい風が次々と入ってくる。俺は机の上にノートとペンケースを置いた。  
 そして俺は思い切って開きっぱなしの窓を閉めた。ついでに鍵も掛けてやった。  
 突然勢いよく窓を閉めた俺の行動に、後ろにいた二人も驚いた様子だった。だが、恐らく勢いよく窓を閉めたという事では無かったのだろう。窓を閉めたという行動に対して驚いていたという事が俺には理解出来た。  
 結局二人は黙ったまま、何も言わずに俺の行動を見守っていた。悪いな二人共、俺の愚行に付き合わしちまって。  
 窓を閉めた俺は次に机の上に出したノートとペンケースに目をやった。やってやる。こんな事の繰り返しはごめんだ。  
 俺はペンケースを開けて油性マジックを取り出して、まだ真新しいノートの表紙に誰が見ても読めるであろう文章を書いた。  
 後ろにいる二人は俺が何と書いたかは知らないはずだ。二人は俺のその行動も黙って見つめていてくれた。  
 油性マジックをペンケースに戻した俺は、ノートとペンケースを改めて机の中への押し込んだ。  
「もう充分ですよ。やりたかった事は全部済みましたから」  
 そう伝えて後ろを振り返った俺は二人が半ば呆れた表情を、それと同時に半ば笑っている様子を見た。  
「さて、時空の振動が始まりやがった。そろそろ大きい波がやってくる。長門有希に噛まれて正解だったぜ」  
「キョン君、目を閉じていてね。直に終わりますから」  
 二人が俺を見ながらそう言った。俺のここでの役目はもうすぐ終わる。  
 無言で目を閉じた俺の耳に――教室の外から足音が聞こえてくる。間違いない、ノートとペンケースを取りに来た三年前の俺の足音だ。  
 あの時、ノートの表紙には何も書いていなかったのを覚えている。  
 
 変わったはずだ。いや――ここで俺が変えなければならないんだ。もうあんな想いはたくさんだから。  
 
 体に急激な圧力が掛かった。時間遡行特有のいつものあれだ。だが、今回はいつもよりは苦しくはなかった。  
 俺はゆっくりと目を開けた。空間が歪んでいる様子がダイレクトに俺の視角に入ってくる。そう思った矢先に俺の目に飛び込んできた光景。  
 俺がノートに書いたをメッセージを見つめる――北高の制服を着たかつての俺の姿。ハルヒの手を引き屋上を駆け足で降りて行く俺とハルヒの姿。いつもの部室でいつもの面子と談笑している俺たちSOS団の姿。  
 その光景を見た瞬間、俺の中で何かが弾けた。  
 
 ”真実を告げる事を恐れるな”  
 
 それがノートの表紙に俺が書いたメッセージ。これを俺が書いたという事は……敢えて書かなかった。  
 
 
 俺たちは小さな雑居ビルの屋上へと戻ってきた。時間は十九時四十五分、これほどまでに時間が長く感じたのは久しぶりだ。  
「お疲れ様でした。キョン君、大丈夫?」  
「この通り、大丈夫ですよ」  
 出発前よりは幾分、気分が軽くなっていたのは事実だったしな。  
 
 それから二人とそれとなく会話をしたが、どうやら二人もこれからやらなければならない用事とやらがあるらしい。  
「また様子を見に来ますね。キョン君、あまり無理をしないでね」  
 朝比奈さんがそういい残して、二人は会社の屋上から出て行った。  
 またこの季節にはお馴染みの暑苦しい熱気が俺の体にしつこく粘りついてきやがった。  
 鞄の中から紙袋を取り出して、羽織っていたコートを紙袋に押し込む。またクリーニングに出さなきゃならなくなった。  
 
 会社を後にした俺は今住んでいるアパートへと帰宅するための帰路についた。  
 満員電車に揺られる車内で、俺は途中で寄り道をしようと考えていた。  
 アパートの前までやって来たのは二十一時前の事だった。ほぼ毎日帰宅の電車が遅れてしまうのはいつもの事だが。  
 部屋へと続く階段の上がる俺の両手には、鞄とコートの入った紙袋、そして帰りに雑貨店で買った荷物入りの袋が握られていた。  
 
 部屋の鍵を開けた瞬間、溜まっていた熱気が一気に溢れ出した。  
 首元のネクタイを弛めた俺はすかざす、窓を開けた。少しはマシだろう、電気代の節約にはなる。  
 電気も付けずに、生暖かいそよ風が入ってくるアパートの一室で俺は今日の出来事を振り返っていた。   
 仕事終わりの体じゃ正直きつかったが、それを忘れさせてくれるぐらいの出来事を俺は味わったんだ。苦しみを全て忘れさせてくれるような出来事をな。  
 
 ふとある事を思い出した俺は、タンスの引き出しからある物と、一枚の紙切れを取り出した。  
 一つは俺があの時教室に忘れてきたノートだ。三年も経ったせいで多少黄ばんではいたが、俺はそれを大事に取っていたのだ。  
 無論、表紙には何も書かれているわけはない。あの時俺が取りに来た時には何も書かれていなかったからな。   
 
 暗がりの中でノートを眺めていた俺に向かって、開いた窓から急に勢いよく風が入ってきて右手に持つノートを吹き飛ばした。  
 つくづく風には好かれていないんだな、俺――そう嘲笑した直後、俺の足元に風で落ちたノートが目に入った。  
 その表紙には何も書かれていないノート――の裏表紙に何かが見えたのを俺は見逃さなかった。  
 
 裏表紙には何かを書いた覚えなどない、いや実際に何の書いてなんかはいなかったはずだった。  
 だがそのノートの裏表紙には文字が記されていた。はっきりと読める文字で――  
 
 ”ハルヒは必ず俺が幸せにする” ”ジョン・スミスへ”  
 
 その瞬間俺は悟った。そして俺の心の楔が消え去ったのを俺は感じた。  
 繋がっている――確実に繋がっているんだ――俺のやった事は間違いではなかった。この裏表紙に書かれた文字を見て俺は確信した。  
 見間違えるはずなどない。これは――俺の字だ。そして――あのメッセージは繋がった。このジョン・スミス宛のメッセージ。  
 
 歴史は確実に違う道を進んだ。どういう理屈かは知らないが――このメッセージは俺にそれを伝えてくれたのだろう。  
 そのノートを拾い上げて、テーブルの上にそっと置いた。そして俺は帰り際に買った雑貨店のビニール袋の中身を取り出した。  
「今日ぐらいは……俺の願いを叶えてくれてもいいよな?」  
 俺は取り出したそれを窓際に立てかけた。俺はノートと一緒にタンスの中から出した紙切れを、窓際のそれに括り付けた。  
 
 今日は一年に一度――彦星と織姫が出会う日――七夕  
 ハルヒが初めて俺と出会ってから――八年目の七夕  
 
 高校三年の時にSOS団でやった七夕イベントの日、あいつに内緒で使わずに持って帰った一枚の短冊に俺はペンで願い事を書いた。  
「すまないな。今回は一枚しかないんだ。すまないが二人で叶えてくれ」  
 俺はそう窓から見える夜空に向かい独り言を呟いた。そよ風で笹の葉とたった一枚しか付いていない短冊が揺れる。  
 
 
 俺がたった一枚の短冊に書いた願い事――それは――いや、それは秘密にしておこう。  
 頼むぜ、あっちの俺。ハルヒを絶対にしてやってくれ――それが今の俺がやりたくても出来なかった事。  
 今年の夏休みには地元に帰ってもいいかな。そんな気分になれた。  
 
 
 今日からは――また風が好きになれそうだ。  
 
 
 完  
 

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