春爛漫であり、桜が舞い落ちる中の卒業式というのもまたオツなものである。
体育館に集まった我々三年生は、未だ進路が決まらぬ一部の生徒を取り残し
つつ、君が代から校歌斉唱とお馴染みのコンボを唄っていた。
色々と感慨深いものがあるが、そこは高校三年生。式典くらいはクールにド
ライに決めるってもんさ。
「……ぐすっ、ひっくっ、うえええ」
さて、ではここで問題。俺のすぐそばで泣いているこの女の子は誰だろう。
「ぐすんっ……ひっく……」
朝比奈みくる? いやいや、そもそも彼女は上級生であり、とうの一年前に
卒業しているご身分である、あー、そこの君、『留年』などという単語を思い
浮かべるのはよしなさい、朝比奈さん割とビクビクしていたんだからな。
では長門有希? 冗談じゃない、たとえこの卒業式においてもあの長門が泣
いたなんてことを知ったら、俺はいますぐ世界が改変されたのではないか、と
疑うことにしている。そうなれば、またぞろ鍵を集めてパソコンのエンターキ
ーをポチッとな、だ。
第一、こういう式典であいつは泣かないだろうね。あいつが泣くとしたら、
俺たちSOS団と別れるときくらいじゃないだろうか?
じゃあまさか、涼宮ハルヒ?
惜しい、実に惜しい。いや、俺もだな。てっきりハルヒがこういう時泣けば、
それはさぞ見応えのある画になったに違いないと、そう思っていたんだがね。
「……」
はい諸君注目。今、泣いている少女の肩をしっかりと抱きしめてあげている
のが我らが団長、涼宮ハルヒである。口を真一文字に結び、やや悲しげに睫毛
を伏せてはいるが、その瞳から涙が零れている訳ではなかった。
じゃ、泣いているのは誰かというと……面白みもなんともないが、阪中だ。
俺が驚いているのは、ハルヒが阪中をしっかりと抱きしめてあげているのと、
阪中がハルヒの胸に顔を埋めていることである。
この三年でハルヒは変わった、俺たちSOS団団員は中身はそれなりに変わ
ったのだが見た目の変化が著しかったのは、ダントツでハルヒだろう。
と言っても容貌が変わった訳ではない、単に……そうだな、柔らかくなった
というのが一番合った言い方だろうか。
確かにハルヒは変わり者だ、宇宙人未来人超能力者異世界人を捜し求め、気
まぐれで映画を作り、野球大会に出場し、不可思議な悩み相談を受け付け、代
役でバンドに出てかと思えば、節分の豆まきなんかを校内で盛大にやってのけ
るようなそういう変わり者であり、世が世なら前田慶次と酒を飲み交わしてい
たところでおかしくもなんともないヤツである。
そう、変わり者ではある。
しかし決して悪人などではなく、オカルトにかぶれてなどもいない。
要するに分かりやすく言うと、ハルヒという女は「面白いコト」を探し続け
ていただけなのだ。
俺は凡人であるから、他の連中の気持ちがよく分かるね。そう、ハルヒをバ
カにすることは簡単だ。宇宙人などいない、未来人などいない、超能力者なん
ている訳ない(実際にはいるんだが)、そう断言してせせら笑えばいい。
だけど。
それでも、心のどこかで「そういうのがあったらいいな」と思ったことはな
かったか? そういう非日常な存在がいた方が「面白いな」と、そう考えたこ
とはなかったか?
それが分かった人間はハルヒ側の人間であり、それが分からなかった人間は、
まあどちらの側にでもついていくがいい。俺は少なくとも、ハルヒの側でいた
いものだ、こちらの方が何千倍も面白いからな。
北高の他の連中も、まあどちらの側につくかを決めちまったんだろう。不幸
な連中だ。
そんな訳で、俺たち北高生徒はこの三年で間違いなく変わり得たのだと思い
ながら、無事に卒業式を終わらせたのさ。
「キョン、ゴメン。SOS団のミーティングはもうちょっと後でね!」
やるつもりなのか。
「当然よ。最後の最後まで、あたしはSOS団の団長なんだから!」
そう晴れ晴れとした笑顔で叫ばれると、一団員の身としては何とも言えない
ね。まあ俺だって、まだハルヒにくっついてぐずってる阪中を引き剥がすほど
鬼でもないけどな。
「じゃ、俺は先に行ってるぞ」
「うん……待ってて」
少し嬉しそうなハルヒの言葉を背に受けつつ、俺はその場から立ち去ること
にした。そしていつものように、だが恐らく最後となるであろうSOS団の活
動場所へ向かおうとした時だった。
珍しいヤツが、珍しい場所で、珍しいことをしていた。
つまり。古泉一樹が、中庭の木の下で、ぼんやりとしていたのだ。
ぼんやり、というのは俺の古泉に対する悪意を持った表現であり、素直に考
えれば、どこか遠くを見据える眼差しと言ってやった方が本人の名誉のために
も適切か。……別にどうでもいいコトだが。
「……おや、あなたでしたか」
ちっ、ぼけっとしているようならこのまま見なかったことにして通り過ぎた
ものを。仕方ないので、古泉にやる気なさげに腕を振ってやることにする。
「……?」
古泉はいつもの偽善者的というか、貼り付いたというか、詐欺師的な、とい
うのが一番適切な笑顔を浮かべてはいたものの、目の奥にどこか憂いを帯びて
いた……ように見えた。
俺は別にこいつの表情専門家でもなんでもない、ただ何となくそう感じてし
まっただけさ。
だから、何となくそれが気になってついついコイツの隣に座ったことも何ら
おかしいことではない。まったくな。
「おや、どうしました?」
知るか。たまには道草もいいものだ、というだけだ。
「いや、僕は一向に構いません。こういう機会はもうないですし、ね」
相変わらずファーストフードのチェーン店の店員さんのような笑顔を振りま
きつつ、古泉は肩を竦めた。
やれやれ。
俺が合わせたように肩を竦めると、古泉は苦笑した。何がおかしい。
「いいえ、もうあなたのその肩を竦める仕草ともお別れかと考えた自分が、あ
まりに滑稽だったもので」
おいおい。お前卒業したらトンズラする気か? ハルヒは地獄の果てまでお
前を追いかけるだろうよ。
「さあて、それはどうでしょうか――」
だから、何が言いたい。
「いえつまり、涼宮さんは僕のことを追いかけてくれるのだろうかと、たまに
そんな事を思うんですよ。あなたとハルヒさんが付き合いだしてから、ね」
この時の俺は、恐らくコンペイトウを頬に詰めてグーで殴られたときのよう
な顔をしていたに相違なく、つまりは痛いんだか驚いてんだか分からない表情
だった。
「まさか、気付かれてなかったとでも思ったんですか?」
いいや、さすがにそこまでは俺も期待していなかったさ。ただ、お前の台詞
に驚いているだけだ、今まで口に出そうともしなかったからな。
「涼宮さんが内緒にしておいてくれ、と言ったんでしょう?」
ああ。SOS団の規律が乱れるとか、団長として示しがつかないとか、そん
なコトを色々とのたまっていた気がするが、要するに恥ずかしいんだろうがお
前は、と突っ込んだらもちろん一発いいのを脳天に貰ったぜ。頬じゃないあた
りにハルヒらしさを感じ取ってくれ。
ちなみに。
告白して、告白された直後に古泉含めた三人にバレていたことは言うまでも
ない。その後鶴屋さん、阪中あたりにもしっかりと嗅ぎつけられたな。女の勘、
怖い。
ただ、全員どうも妙な優しさがあって誰も面と向かって俺やハルヒに指摘し
たことはないんだよな。何だか「ただの胃潰瘍です」と言われているガン患者
の気分だ、サナトリウムに入っても構わんからずばり切り込んでくれたらいい
ものを。
「涼宮さんは怖かったんでしょう、SOS団の結束が緩まる……というか、あ
なたと自分が付き合うことによって、人間関係に破綻をきたすことを、ね」
どうしてそうなるのか、などと俺は尋ねはしなかった。尋ねる必要がないと
言いたいが、実際にはただの言い訳だな。
「長門さんと、朝比奈さんは言うまでもなく――――そして、この僕も」
俺は古泉から目を逸らし、空を見上げることにした。やあ青い空だ。
古泉は苦笑しつつ、最初の爆弾を放り投げた。
「僕はね、涼宮さんのことが好きだったんですよ」
――ああ、知ってた。
風が吹いた、くるりと桜の花びらが回転しながら舞い上がり、また地面に落
ちた。その間、二人ともに口を利かなかった。
「おや、ご存知でしたか。僕の気持ちは隠し切れていたと思うんですが」
確かにお前は見事に隠していたさ、多分そういう目でお前を見なきゃ絶対に
気付かなかったろうぜ。だから、ちょいとばかり卑怯なんだコレは。
「卑怯?」
俺はな、古泉。お前から直に聞いたんだ。「僕は彼女に好意を持ってます」
ってな。そう言われた後で、注意深くお前を見てお前の言葉を聞けば、まあ鈍
い俺でも気付くってもんさ。
「僕はそんな事、一度も言ったことは…………あ、まさか」
古泉の顔がほんの少し強張った。
そうだ、古泉。かつてハルヒの力を流用して長門が作り出したあの世界だ。
あの世界のお前は転校生であり、ハルヒのそばにいた。
そして、好きだと言ったんだ。まるで俺を牽制するかのようにな。
「……なるほど、参りました。さすがにそれは、予想外のアプローチでしたね」
ああ、まったくだ。
沈黙する。心地よくはなく、少しだけ気まずかった。
「不可思議な力を持たない、でも不思議を探し続ける長い髪の美少女。まあ、
確かに僕が好きになりそうな人ですね。でも――」
古泉が俺を見る。その表情はどこか寂しそうでもあり、悲しそうでもあり、
その癖とっておきの悪戯を隠しています的な楽しさも垣間見えた。
「勘違いでした。僕が好きなのは、涼宮さんじゃありません」
……おい。
まるで才能はないけど情熱だけが存在する脚本家が、思い切ってクライマッ
クスにどんでん返しを仕込んではみたものの、見事に失敗、墜落した映画を見
たような気分だぞ。
「無論、長門さんでも朝比奈さんでもありません」
…………。
俺の凄まじいまでの訝しげな表情に気付いて、古泉は慌てて手を横に振った。
「一応言っておきますが、僕は異性を愛しても同性を愛する気は毛頭ないです
からね」
……助かった。
「僕が好きだったのは……確かに涼宮さんでしたが、涼宮さんその人だけを好
きになったんじゃありませんでした」
そこで古泉は言葉を切った。この男が、珍しいことに言葉を舌に乗せるのを
ためらっていた。
「言えよ、古泉。……言ってくれ」
古泉の笑いが消えた。
目を開き、肩を落とし、力なく、囁くように、コイツは言った。
「僕が好きだったのは、あなたと一緒にいる涼宮さんだったんですよ」
溜息。
それは俺が発したものであったし、古泉が吐き出したものでもある。
「そうか」
「そうです」
それじゃあ、仕方ないよな。
「ええ、仕方ありません」
「参りました。僕は涼宮さんが好きなのに、涼宮さんが好きな理由である、あ
の笑顔を向けるのはあなただけなんですから」
何と言えばいいのか分からず、俺は無言を選択する。
「あなたを恨めれば、憎むことができれば、いえ、せめて……妬むことができ
れば良かったんでしょうが、ね」
古泉は座ったまま立てた片膝に額を当てた。
「僕は、あなたも好きでした。いえ、尊敬していると言ってもいいでしょう。
困りますよねえ、恋敵が得難い親友だったんですから」
参りました、と古泉は笑った。
あまりに恥ずかしい台詞に、両手が無意識に×マークを取りそうになるのを
堪えつつ、俺はそっぽを向く。
「不安なことが、一つだけあるんです。質問に答えていただけますか?」
答えられるものならな。
「SOS団で、色々なところに行って、色々なことをやりましたよね」
「……ああ」
「野球をやりました」
インチキ使って勝ったがな。
「島にも行きましたね、まあ我々機関の所有のものでしたが」
今や朝比奈さんのビーチボールくらいしか覚えてないぜ、あとはハルヒの名
推理くらいのものか。もう一度行きたいね、ただしミステリ抜きで。
「巨大カマドウマとも戦いました」
俺は戦ってないがな。
「コンピュータ研とゲームで戦ったりもしました」
長門がいなけりゃどうなっていたことか。
「学園祭は大変有意義で楽しかったですね」
もう映画は撮りたくないし、お前の劇は正直何やってるかわからなかったぞ。
「五人で踊ったこともありましたっけ」
二度とやらん。
「本当に色々なことがありました。まさか海外に行ってまでミステリ劇をやる
とは夢にも思いませんでしたが」
機関の連中に行っておけ、間違っても全身鎧を飾るな、夜中に動き出すから。
「我々に悪意を持つ連中とも戦いました」
俺にゃ関係ないね。
古泉はいったん言葉を切り、確認するように俺の目を覗き込んだ。
「それでも僕は、総合的に考えて楽しかったと思います。この三年は、刺激的
で、毎日が楽しかった……」
語尾が震える、怖いのかお前。俺に、その問いをぶつけるのが怖いのか?
いいぜ古泉、どんとこい、だ。
「質問です。あなたは――楽しかったですか?」
「当たり前だ、バカ野郎」
あのな、古泉。何度も何度も言っただろうが。楽しかったんだぜ、俺は。絶
対に楽しかった。SOS団としての活動は、危なかったことも含めて何もかも
だ。この世界中の誰もが経験し得ないものを、俺はこの三年でやり続けたんだ。
これが楽しくなくて何になる?
宇宙人がいた、超能力者がいた、未来人がいた、そしてハルヒがいた。怪し
げな組織、怪しげな敵、高慢ちきに振舞って俺たちに立ちはだかる生徒会長ま
でいてくれた。
これが楽しくないなんて、とてもじゃないが言えないね。
「そうですか……。ああ、良かった。ほっとしました」
古泉が胸を撫で下ろす。
ああ、そうさ。安心しろ、間違っても俺は巻き込まれたことを後悔したりは
しないし、お前たちを弾劾したりなんて絶対にしない。だからな、だから――。
俺は恐らく、これから一生涯やらないようなことをしでかした。
即ち、古泉の頭に手を当てて、髪の毛をくしゃくしゃにしてやったのだ。
そして、言ってやった。
「泣くな」
嬉しかったのか、安心したのか、卒業するのがそんなに悲しいのか、いずれ
にせよそれら全部が入り混じった、なんとも言えない感情だったのだろう。
外れた仮面の下から、とめどもなく涙が滴り落ちていた。
「申し訳ありませんね、妙なところを見せてしまいました」
まったくだ。二度と見たくないね。お前はいつでも無駄なスマイルを振りま
いている方がこちらの胃に優しいのさ。
「ええ、一つ貸しということでお願いできますか? これが涼宮さんたちにバ
レたらと考えるだけでも恐ろしいです」
俺は無言で立ち上がった。
……さて、次の台詞を言うにはそれなりの心の準備が必要だ。そうかと言っ
てモタモタしているとタイミングを逃すだろう。
くそ、まったく。一度だけだ、この一度だけ言ってやる。何しろもう卒業だ、
心残りは片付けておくに越したことはない、ああもう、畜生。
言え、言っちまえ。
「そういう事にしておくさ。親友だからな」
「……」
古泉の顔が凍りついていた、いや驚きすぎだお前。
「行くぞ、古泉。モタモタしていると、俺の後から来るはずの団長に揃ってブ
ッ飛ばされちまうぞ」
ニヤリと笑ってやった。古泉は唖然としたまま、夢遊病者のように立ち上が
った。
そして二度、三度とわざとらしい咳払いを繰り返した後、いつもの笑顔で言
った。
「聞き逃してしまいました。もう一度言っていただけますか?」
却下だ、二度と言うかあんな台詞。
「そこを何とか」
却下と言ったら却下だ。たとえ機関総出で俺が内緒にしておきたいことを調
べ上げられ、公表すると言われてもノーコメントを貫き通す覚悟だ。
「はぁ、分かりました。あなたの頑固さに敬意を表して、ここは引き下がるこ
とにしましょう」
そう言って、古泉はニヤリと笑った。既視感がある。どこかで見たような笑
い、これから告げる自分の言葉が面白すぎて抑えきれない笑みだった。
これでこの話は終わりだ。いい加減俺も恥ずかしいんで、ここらへんで終わ
るが最上というものだろう。
ああ、古泉が何を言ったのかって?
アイツは、手のひらを空に向けて、ゆっくりと肩を竦めてこう言ったのさ。
「やれやれ」、とね。
<了>