その日、部室にいたのは俺と長門だけだった。  
ハルヒは用事があるとか言って、さっさと帰ってしまったし、朝比奈さんは部室に顔を出した後、  
迎えに来た鶴屋さんと一緒に帰宅した。たぶん、一緒に何かの買い物にでも行くんだろう。  
もうすぐ夏だしな。古泉はバイトらしい。大方、例の機関とやらの用事に違いない。  
ハルヒ絡みでなければ良いのだが。  
 
長門は窓際でパイプ椅子に座り、例によって分厚いハードカバーに視線を落としている。  
静かな部室の中に、一定の間隔でページを捲る微かな音が流れる。  
俺は、何となくそんな長門の様子を視界の隅に捉えつつ、その向こうに見える窓を眺めていた。  
 
窓を濡らす水滴。土砂降りって程ではないが、結構な勢いで雨が降っている。  
気だるい気分で、俺は長テーブルに向い、頬杖をつきながら思わずため息を漏らした。  
 
季節は梅雨だ。雨が降って当たり前の季節だ。梅雨に雨が降らないと、水不足やらで作況指数が  
悪化し、その結果、農作物高騰やらで、母親の機嫌はバブル崩壊後の株価のように低迷することは  
間違いない。それは、バタフライ効果のごとく俺のサイフの中身に影響を与えるだろう。  
母親が、やりくりの最終手段の四つ手前くらいで、俺と妹の小遣いをターゲットにすることは  
高確率で予測できるからな。だから、雨が降ることには何ら文句はないし、  
よって、雨が降っていること自体に文句を言うつもりもない。  
 
しかし、これだけは言わせてくれ。なぜ今なのかと。  
 
雨粒が窓を叩く音が大きくなったようだ。湿った空気が身体に纏わりつくような気がする。  
 
この鬱陶しさは何とかならないものかね。俺は、湿度が高いと気が滅入ってくるんだ。  
いや、気が滅入っている最大の理由は湿度ではない。そんなことは解っているさ。  
そう、実際の問題は、傘がないことだ。傘がない。何十年前の曲だ、それは。  
歌ってたのは、アンドレ・カンドレだっけ?  
 
さて、どうしたものか。結局、濡れ鼠になるのを覚悟するしかないのか。  
できれば、あまり濡れずに家まで辿りつきたい。  
びしょ濡れになるのは気持ちが悪いし、風邪引くをかもしれない。  
それに、雨の中を走るのは危険だ。雨の中で傘を差さずに踊るのはもっと危険だ。  
別に俺は、自由とはどういうことか、なんて崇高なことを考えているわけじゃないんだからな。  
 
校舎内に置き傘がないか探そうとも思ったが、誰のものか解らないものを勝手に借りるのは  
まずいだろうと思ってやめた。後々気まずい思いをするのは御免蒙りたい。  
 
国木田や谷口は、もう帰っただろうし、そうなると、俺の知っている、俺が頼れる人間は、  
ここにいる長門だけってことになる。いや、長門は人間じゃないんだけどな。  
 
長門に頼んでみるか。そう思いながら、俺は、寡黙な読書少女の横顔に視線を向けた。  
黙々と読書に励む文芸部員。その横顔を見ているうちに、こんなことで長門を頼りにするのは  
人として間違っているんじゃないだろうか、そんな思いが湧いてくる。  
長門は、ネコ型ロボットなんかじゃないんだ。こんなことで長門に頼むなんてどうかしてる。  
 
ここは、天は自ら助けるものを助くの精神で、危険の少ない、できるだけ濡れずにすむ帰宅方法を  
考えることにしよう。  
 
どうしたら最小限の被害で家に帰れるかをうだうだと考えていた俺の脳ミソに、ある考えが浮かんだ。  
よく考えてみると、雨の中、歩いても走っても、結局、同じ距離を移動するわけだから、  
濡れる量は一緒なんじゃなかろうか。なら、危険を冒して走って帰るよりも、  
歩いて帰った方がいいのではないだろうか。  
 
そう思った俺は、あまり考えずに、その疑問を口に出していた。  
 
「やっぱり雨の中、傘を差さずに移動する場合、走ったほうが濡れないんだろうか」  
 
何を訊いているんだ俺は。そんなことは当然じゃないか。すまん、長門、聞き流してくれ。  
 
実際、傘持ってない状態で、いきなり雨に降られれば、みんな走るし、俺も走る。  
理屈は知らん。でも、当たり前のことだろ?  
 
そうさ、当たり前だ。あたり前田のクラッカー。これも古いな。  
 
現実逃避気味に、どうやったら悪事に手を染めずに数十億の借金を二十年で返済することが可能に  
なるのか、という高尚な問題に囚われそうになる思考を、どうやって出来るだけ濡れずに家まで  
帰るかと言う当初の問題に引き戻しつつ、何気なく顔を上げた俺の視線は、長門の穏やかなとも  
思える視線と絡み合った。  
 
長門の唇がゆっくりと開く。  
 
「水滴が静止しているものと仮定する」  
 
いや、それは、別に答えを期待してたわけじゃないんだが……。  
というか、走ったほうが濡れないと思うのは、当たり前だろ?  
なぜかと訊かれてもちゃんとは答えられないが、たぶん、早く着くからだ。  
 
「その中を移動する場合、濡れるのは身体の進行方向のみ」  
 
続けるのか、長門よ。まあ、暇だから付き合うさ。そもそも俺が訊いたことだしな。  
で、濡れる部分か。たしかに、雨粒が全て空中で静止しているとするとそうなるな。  
降ってこないのだから、身体の上は濡れないわけだ。  
 
「その場合、濡れる量は、進行方向に向いている身体の表面積に比例する。時間は関係ない」  
 
そうだな。雨粒が静止しているなかを進んだとき、受ける雨粒の量は、痩せてる人は  
少ないだろうし、太った人は多い。うん、それは解る。  
なんだか物理の授業を聞いてるような気もするが。  
 
「時間が関係ないのだから、それは、移動速度とは関係しない」  
 
え? そうか。走っても歩いても、同じ距離なら、確かに俺が受ける雨粒の量は同じだ。  
同じ表面積なんだから。と言うことは、走っても歩いても濡れる量は一緒ってことか?  
 
「現段階の前提は、水滴が静止していること。実際には、水滴は降り続けている。  
降り続ける水滴によって濡れる量は、水滴を受ける部分の表面積と、経過時間に比例する」  
 
そりゃそうだ。雨の中に十秒いるときと、十分いるときでは、濡れる量は明らかに違う。  
と言うことは、つまり、走った場合と歩いた場合では、身体の表面に受ける雨粒の量に違いは  
ないけど、雨粒の中を移動している時間が長いほど、より頭が濡れるってことだな。  
 
「そう」  
 
じゃあ、やっぱり走ったほうが濡れる量は少ないのか。なるほど。  
と言うことは、今までわけも解らず、雨が降ってきたら本能的に走ってたけど、  
それは、理に適った行動だったわけだな。ほほぉ、よくしたものじゃないか。  
あれか、昔からの言い伝えは、実は、理に適っているとか言うアレだな。少し違う気もするが。  
でも、少しばかり感動したぜ。  
 
……で、だから何だというんだ。  
理屈が解ったからと言って、目の前の問題は何一つ解決してないわけだ。  
さて、どうしたもんか。  
 
走って帰ろうが歩いて帰ろうが、雨に濡れることは規定事項だ。どちらの方法が、より濡れずに  
済むかなんてことの理由を知ったところで、濡れて気持ち悪い思いをすることには違いはない。  
 
「はあ……」  
 
俺は、ため息を吐いて、テーブルに突っ伏した。  
 
パタンと言う本を閉じる音がして、長門が動く気配を感じた。  
長門は傘持ってきたのかな。そう思いながら、いや、こいつのことだから、傘がなくても  
濡れたりしないで家に帰れるだろう、なんてことを考えていると、後ろから肩を突付かれた。  
 
「え?」  
 
そう言いながら振り向くと、そこに長門が立っている。  
ぼんやりと立っている長門は、帰らないのか、そう訊いているようだった。  
 
「俺、傘持ってなくてさ。もう少し小降りになるまでここにいるよ」  
 
そう言った俺の目の前に、長門が折り畳み傘を差し出してきた。  
意味が解らずに、差し出された傘に見入ってしまう俺。  
 
「貸してくれるのか? お前はどうするんだ?」  
「一緒に」  
「なんだって?」  
「わたしの家まで一緒に来れば、ビニール傘がある」  
 
なるほど。相合傘で長門の家まで行って、後は、長門の家にあるビニール傘を借りて帰れば  
いいってことか。そうだな、そうするか。  
 
「助かるよ、長門。ありがとな」  
「いい。それに、先程の話で気になることもある」  
「なんだ?」  
「濡れる量は、時間経過と反復回数に比例し、到達点において最大となる」  
「…………」  
「濡れることは気持ちの悪いことばかりではない。それを確認したい」  
 
……それは一体、何の話でしょうか?  
 

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