人間は本能よりも思考を優先させて行動する動物だと、オレは思う。
例えば、こう……なんだ、性欲でムラムラしているときに目の前に好みの女がいたとしても、
普通の思考回路を持ってるヤツなら襲いかかったりはしないだろ? そんなことができるのは外道な畜生野郎くらいだ。
逆を言えば、だ。そう思うのは、人間っていうのはそれだけ理性というもんを優先させ、考えて行動する生き物なんじゃなかろうか。
無論、オレもそうだ。可能な限り考えて常日頃から行動している。SOS団に所属している以上、少なくともオレくらいは、知性ある常識人としてそうしなきゃならない。
だがな、魔が差すときが誰にでもあるんだ。そうじゃなくても、ついつい何も考えずに行動することってのは、誰にだってあるはずだ。
そのときのオレがそうだったんだろうな。だから今、オレは自分の行動範囲にはない図書館でボーッとしているんだろう。
そうだな、順を追って説明しようか。事の起こりは、ちょっとした偶然だったわけだ。
その日は何の予定もなく、ぽっかり時間が空いた休日だった。
毎度のように起こるハルヒの呼び出しも、谷口や国木田と遊ぶ予定も、家の言いつけとかも何もない、ただただ暇をもてあます一日。
ハルヒ的に言えば「平凡すぎてつまらない」一日だったわけだ。オレにとってはかけがえのない平穏な一日なんだが、
この日ばかりはハルヒに同意しちまってもいいか、と思えるくらい暇だった。
それで家の中でゴロゴロしていれば飽きも来るってもんさ。
コンビニで雑誌の立ち読みとか、どうせだったらビデオでも借りてこようかと家を出たオレは、そこで珍しい相手と遭遇した。
「よう、長門」
相も変わらず制服のまま、傍目に見れば夢遊病のような足取りで歩く長門と遭遇した。オレの声に気づいたのか、立ち止まってこちらに目を向ける。
睨むだけでその場にブラックホールでも作り出しそうな視線や、注意深く観察していなければ気づかないようなミクロン単位の会釈も相変わらずだ。
苦笑しか浮かばないね。
「何やってんだ?」
感情の機微がまったくない対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド(さすがに覚えた)は、オレの問いかけに言葉ではなく、指さしで答えた。
その方向には市立図書館がある。
そういえば、ずいぶん昔のことのように感じられるが、いつぞやハルヒと一緒に閉じこめられた閉鎖空間で「また図書館に」とかなんとか言われたことがあったな。
「一緒に行ってもいいか?」
そんなことを思い出したせいだろうか、オレは気がついたらそんなことを言っていた。
目の前にボールが飛んできたら目をつぶる、ってくらい無条件反射並に口から出たセリフだったわけだ。
そんなわけで、オレは今、図書館に長門と一緒にいる。実は申し出たあとに「やっぱ邪魔になるから遠慮するわ」と言ったにもかかわらず、長門の無感情な瞳はオレを貫き通し、
自分から言い出したことだから断りの言葉を重ねることもできず、今に至るというわけだ。
空いているソファを見つけて腰を落ち着けたオレは、これからどうするべきか脳内シミュレーションを繰り返した。
時計を見ると、15時を過ぎたころ。今日は祝日で図書館は17時まで開いている。長門のことだから、時間ぎりぎりまでここで粘るつもりだろう。
おまけに今日はSOS団の不思議探索パトロールの暇つぶし出来ているわけでもなく、家から呼び出される用事も思い浮かばず、途中で抜け出せる可能性はゼロに等しい。
「どーすっか……ぅおっ!」
あれこれ考えていたら、目の前に無言のまま長門が立っていた。つーか長門さん、あなた足音どころか気配もないんだから、黙って立つのはいい加減やめてもらえませんかね……。
「な、なんだ?」
「こっち」
長門にとっては宝の山に等しい図書館の中で本を持たずに佇んでいるなんて、天変地異の前触れかと思うのは正常な反応だろう。
いったいどんな亜空間へと引き込まれるのかと戦々恐々していると、数歩進んで足を止めた長門は、オレに目を向けて「きて」と再び口を開いた。
ただ、呼びに来ただけらしい。
前々から思っていたんだがな、長門はあれだ、情報統合思念体とかってのに作られた、人間とコミュニケーションを取るためのアンドロイドなんだろ?
にもかかわらず、コミュニケーションを取るのに苦労するのはどういうわけなんだろうね。
それはともかく。
無言で本の渓谷を突き進む長門のあとを、カルガモの雛みたいに後ろをついて行くと、不意に立ち止まって本棚の一番上を指さした。
長門が指さす先を注意深く見てみると、ロシア語らしき文字でタイトルが書かれた本を指さしているようだ。
ああ、なるほど。確かに長門の身長じゃ届かないよな。
「これでいいのか?」
指定された本を手に取ると、長門は油が切れてうまく動かないゼンマイ人形のように微かに頷いた。
本を手渡せば、どうせ長門のことだ。まるで世界樹のように地に根を生やし、荒行に挑む修行僧のように飲まず食わずで動かなくなるのは必然だ。
渡した本の分厚さから考えて、閉館までは放置しておいて問題ないだろう。
ソファに戻って再び腰を下ろす。最近の図書館には週刊誌の類もあるようで、それを一冊手にとって戻ったが、あまり興味をそそられる内容でもなかった。
暇だ。
暇すぎる。
こうも暇だと、もう寝るしかない。
さんざん寝倒したオレだが、図書館の空気には催眠ガスでも混入されているんじゃないかって思うくらい、不意に眠気がやってきた。
いったいどこで意識が途切れたんだろうね。
気がつけば、オレは肘掛けにもたれるようにして眠っていた。
いつぞや過去に出向いた時に朝比奈さんをおんぶした重さ……真綿が触れてるような重さと言うべきか、そんな圧力を感じてオレは目を覚ました。
覚醒したての脳味噌は現状を正確に認識してないが、右半身にかかる圧力は夢か現実かわからない気分だった。
「……んが?」
どうやらその圧力は夢じゃないらしい。もっとも、この状況が現実だという保障もない。下手をすれば、オレはまだ眠り続けているのかもしれない。
だが、規則正しくページをめくる音は現実に耳に届くものと思って間違いないだろう。
「……何をやってるんだ、長門」
「読書」
ああ、そうだな。確かに本を読む行為は読書と言うな。だがこれはまた、どういうことなんだ。これまでの長門の態度から考えれば、まったくもってありえん。
またエラーが発生して時空改変でも行ったかと思うほどだ。
「なんでオレに寄りかかって本を読んでいるんだ?」
「まくら」
「…………」
いかんいかん。オレのほうが長門化しそうだ。
そんな考えが顔に表れていたのか、気がつけば長門は陶器で作ったような瞳でじーっとオレを睨み付けていた。
ああ、そこにいるのは昨日部室で会った長門本人に間違いはなさそうだ。時空改変は行われていないだろう。
根拠はない。根拠はないが、オレを睨む長門の視線がどこかしら責めてるように見えるのも、まったく根拠のないオレの思いこみだろう。
……そういうことにしといてくれ。
そうこうしていると、いや実際は身動き一つ取れなかったんだが、長門はゆるゆると本に視線を戻して体を起こし、パタンと閉じた。
それと同時に、館内に閉館時間を告げるアナウンスが流れた。
やれやれ、これで約束は果たしたか……と思えば、外で長門がどこを見るわけでもなく突っ立っていた。
いつもは用事が済めばさっさと帰るもんなんだが、これはオレを待っていた……と解釈していいんだよな?
「……今日は楽しかったか?」
コクリと頷く。
そうか、それはよかった。本当に楽しんでいたのかどうかはオレにはさっぱりだがな。
しかしまぁ……楽しんだなら、もうちょいこう、分かりやすい反応が欲しいところだ。
どうせこいつのことだ、何を言っても「そう」とか単語ひとつ口にして、合気道の達人に殴りかかる幼稚園児のごとくオレの言葉をもスルーするんだろ。
分かってる。分かっているんだよ、そんなこと。
それでも人間、無駄な努力をしてみたくなる生き物なんだよ。理性よりも欲望が勝ることだってある。
冒頭での発言と食い違ってるだろ、ってツッコミはなしだ。人道に反しないレベルでの暴走なら問題ないだろ?
だから、ものは試しに言ってみただけなんだ。
「楽しかったなら、もうちょい笑ってみたりしてもいいんじゃないか?」
「……」
……口にして、すぐに後悔した。後悔っていうか、敗北感かな。
ストレートフラッシュが確定している相手に、自分の手札も見ずに自棄で「レートを引き上げようぜ!」って言ってる気分だ。
「…………」
あ〜……その、なんだ。ええっと、そりゃ、まぁ……あまりにもあんまりじゃないか。
オレにもいろいろ心の準備ってのがあるんだ。
すたすたと歩き去る長門の後ろ姿を見つめながら、オレは深く息を吐き出した。呼吸するのも忘れるっつー話だ。
そりゃ確かに、ポーカーにはストレートフラッシュに勝てる役が、649,740分の1の確立で作り出せるわけだが──
ええい、そんなことはどうでもいいんだ。オレがするべきことは、今のシーンを脳内で鮮明に永久保存しておくことだ。
あんな長門の顔を見れば、誰だってそう思うはずさ。
〆