ここは何処だろう。  
「やっほー!」  
 ドアが吹っ飛んだ、じゃなくて凄い勢いで開いた。大きな音が響いて、僕は思わず耳を塞ぐ。  
 現れたのは、見た事のない女の人だった。目を見開いて僕の方を見ている。何となく怖い。  
「……あんた、だれ?」  
 そっちこそ。  
「ちょっと有希、誰よこの子」  
「……親戚」  
 後ろを振り向くと、窓際の椅子に別の女の人が座っていた。僕はとても驚いた。今まで全く気付かなかったからだ。  
「親戚って、有希の?」  
「そう」  
 怖い女の人が顔を近づけてきた。果物のような甘い匂いがする。僕は少し気恥ずかしくなって目を逸らした。  
「何か、見たことあるような気がするんだけど……」  
「気のせい」  
 怖い女の人が僕の顔を凝視してくる。思わず一歩後ろに下がった。女の人も一歩前に出る。下がる、出る、下がる、出る。  
 とうとう壁際まで追い詰められた。死ぬのかもしれない。  
 しかし、怖い女の人は怯える僕を見てにっこり笑うと、思っていたよりもずっと柔らかな右手で僕の左手を握り締めた。  
「私は涼宮ハルヒよ。あんたの名前は?」  
 自己紹介。僕も自分の名前を言わなくてはならない。  
「僕は」  
 ――ノイズ 修正 可決  
「わかんない」  
「……珍しい名前ね」  
「事情がある。深く聞かないで欲しい」  
 いつの間にか窓際の女の人が横に立っていた。  
「そう……まあ、名前なんてどうでもいいわ。仲良くしましょ」  
 涼宮ハルヒは僕の手をぶんぶん振り回す。  
 そのまましばらく玩具みたいにされていると、今度はゆっくりとドアが開いた。  
「あ、お二人ともこんにちは」  
 現れたのは、絵本の中から出てきたような天使だった。僕は何となく涼宮ハルヒの背中に隠れる。  
「あれ? その子、誰ですか?」  
「有希の親戚らしいわよ」  
「え? な、長門さんの、親戚……ですか?」  
「そう」  
 天使は窓際の女の人、多分長門有希という名前なんだろう、とにかくその人にじっと見つめられている。  
「親戚」  
「ひぅ、そ、そうなんですかぁ!」  
 何故だか天使は怯えている様子だった。  
 
 天使は、みくるちゃんという名前らしかった。  
「わぁー、かわいいですねー」  
 みくるちゃんはそっと僕を抱き上げる。涼宮ハルヒとはまた違った、お菓子のように甘い匂いがする。  
「おいくつなんですか?」  
「五歳程度」  
 僕のかわりに長門有希が答えた。その間僕といえば、お母さんより大きな胸元に抱きしめられて何だか幸せな時間を過ごしていた。  
 そんなヒマラヤの難峰ギャチュンカンも真っ青の大層なものを押し付けられると俺の約一部分が全身麻酔に打ち勝つほどのアドレナリンを  
 ――ノイズ 修正 可決  
 そういえば、お母さんは今どうしているのだろうか。僕は何となく不安になった。  
「あれ、もう皆さんお揃いでしたか。遅くなってしまって申し訳ありません……おや?」  
 今度はカッコいい男の人が入ってきた。僕も大人になればあんな風になるのだろうか。  
 それからまたさっきと似たようなやりとりが繰り返され、古泉くんと呼ばれているその男の人は何だか複雑そうな笑顔で僕を見ながら、「災難ですね」とこっそり呟いた。   
「そう言えばキョンがまだ来てないわね。何やってんのかしら、暇人のくせに」  
 キョン。何かの動物だろうか。以前見た怪獣図鑑に似たような名前が載っていた気もする。  
「彼はもう帰宅した」  
 長門有希が、読んでいる本から顔を上げずに言う。  
「急用ができたので先に帰らせてもらう、という伝言を頼まれた」  
 キョンは帰ったらしい。残念だ。見てみたかったのに。  
「何ですって! あいつ、団長に無断で欠勤なんていい根性してるわ。週末の活動費はキョンの奢りで決定ね」  
 キョンはお金持ちらしい。カネゴンのような奴なのかもしれない。  
 その後、僕はみくるちゃんの膝に座りながら、古泉くんと一緒にカードゲームをして遊んだ。  
「おや、負けてしまいましたね。あなたから白星を勝ち取る絶好のチャンスだと思ったんですが」  
 残念です、という古泉くんの声はちっとも残念そうに聞こえなかった。  
 
「そろそろ帰ろうかしら」  
 僕の顔を散々弄んでいた涼宮ハルヒは、そう言って僕を床に下ろした。  
「あんた、なかなか見所があるわよ。もうちょっと大きくなったらSOS団の団員にしてあげるから、また遊びにいらっしゃい」  
 SOS団が何かはよくわからないが、涼宮ハルヒと遊ぶのはとても楽しかったので、僕は頷くことにした。  
 それを見て満足そうな顔をした涼宮ハルヒは、来た時と同じようにドアを吹っ飛ばして帰った。少し寂しかった。  
「それでは僕も失礼させていただきます」  
 古泉くんも席を立つ。  
「また明日、お会いしましょう」  
 僕に向かって笑顔でそう言うと、テレビドラマの俳優みたいな動作で扉を閉めた。  
「じゃ、じゃあ私も着替えようかな」  
 みくるちゃんは、ずっと本を読み続ける長門有希の方を、ちらちら見ている。  
「な、長門さん。今日はまだか、帰らないんですか?」  
 どうやらみくるちゃんは長門有希の事が怖いらしい。   
 長門有希は本を閉じると、僕の方を見て言った。  
「どうする?」  
 どうしよう。外はもう薄暗い。そろそろ家に帰らないと怒られるんじゃないだろうか。  
 いや。僕は思い出した。今家に帰っても、僕を心配してくれる人はいないんだ。  
「帰りたくない」  
「……そう」  
 長門有希は立ち上がる。  
「なら、私の家に」  
 僕は頷いて、差し出された長門有希の手を取った。  
 
 最後に頭を撫でてくれたみくるちゃんと別れて、僕は長門有希の家に来ていた。  
 相変わらず大きなマンション  
 ――ノイズ 修正 可決  
 初めて見るような大きな建物に、僕は少しだけわくわくしていた。  
 長門有希はそんな僕の手を引いて自分の部屋の中まで案内すると、どこかへ行ってしまった。  
 何にも無い部屋だ。僕は田舎の使われなくなった納屋を思い出していた。  
 その内いい匂いがし始め、僕が鼻を鳴らしていると、長門有希が大きな皿に大盛りのカレーライスを乗せてやってきた。  
「夕飯」  
 カレーは好きだが、こんな量のカレーは見たことが無い。お父さんでもこんなには食べないだろう。  
 これはカレーとは別の名前を考えた方がいいのではないだろうか。例えばフジマウンテンとか、等と考えていたら、長門有希が少し寂しそうな感じのする目で僕を見ているのに気付いた。  
 僕は慌ててスプーンを掴みカレーっぽい山を切り崩すと、がむしゃらに口に運び始めた。  
 長門有希はそんな僕をじっと見てから、自分の山を切り崩し始める。  
 結局僕は二合目で口から茶色い何かを噴出しながら脱落し、残りは全て長門有希が食べてくれた。僕は長門有希のことを尊敬し始めていた。  
「汚れている」  
 指差された口元を手でこすると、茶色いものがべったりとくっついていた。  
 ティッシュを探そうとする僕を、長門有希はいきなり抱え上げる。そのまま僕はお風呂に連れて行かれた。  
「脱いで」  
 人の家のお風呂を使うのは少し気が引けたのだが、無表情で僕を見つめる長門有希に促され、僕はいそいそと服を脱ぎはじめた。  
 そして、僕が最後の一枚を脱ぎ捨て振り向くと、何故か長門有希も脱ぎ始めていた。  
 僕は混乱した。文字通り雪の様な白い肌が眩しい。いやそうじゃなくて見るな俺! いかんぞいかん。けしからん。こういう時はどうするんだっけ、たしか般若心経を  
 ――ノイズ 修正 可決  
 長門有希は身体にタオルを巻くと、そのまま僕の身体をお湯で流し、一緒に湯船の中に入った。  
 お母さん以外の女の人とお風呂に入るのは初めてだったので、僕は少し緊張していた。  
 お母さん。お母さんは、大丈夫だろうか。拗ねる僕を見て、少し寂しそうに笑っていたお母さんの顔を思い出した。  
「帰りたい?」  
 目の前には長門有希の顔がある。黒くて綺麗な瞳の中に、小さな僕が霞んで見えた。  
 帰りたい? 帰りたいのだろうか。今帰っても、誰も僕の相手をしてくれる人はいないのに。  
「もうすぐ妹が生まれるんだって」  
 お父さんもお母さんも嬉しそうにしている。勿論僕だって嬉しい。でも、少し寂しかった。  
「お母さんが入院してるから、家に帰っても誰もいないんだ」  
「そう」  
 寂しかった? そう、寂しかった。でもそれよりも、もっと何か……  
「あなたは」  
 長門有希が、僕の頬を撫でてくれた。  
「いつも、正直ではない」  
 そう。それでもやっぱり、妹が生まれるのは楽しみで、いつもそわそわしながら急いで家に帰っていたんだ。  
 そうだ。妹だ。  
 妹は、いつ生まれるんだったっけ。ひょっとしたら今日だったかもしれない。  
 生まれる。どうするんだっけ? たしか電話が鳴って、タクシーで病院に……  
「僕、帰らないと!」  
 ――ノイズ 修正 ダメだ、病院に行かないと 否決   
 ――再修正 ああ、うるさいなもう 否決  
 ――再修正 俺は帰らないといけないんだよ! 否決  
「長門!タクシー呼んでくれ!」  
 それだけ叫ぶと、俺の意識は暗転した。  
 
 
 目を開くと、無表情な顔をしながらも残念そうな目を俺に向けてくる長門が見えた。  
「おい、長門」  
「なに」  
「確かに俺は、子供の頃に戻れたらなー、なんて事を言ったよ。それは認める」  
「そう」  
「そんでもって、できればテストなんてこの世に存在する事すら知らないぐらいの頃ならベストだね、なんて事も言った。これも認める」  
「そう」  
「さらに、妹が生まれる前ぐらいなら、きっと俺の身体は何者にも縛られず自由の空を飛び回っていた筈だ、とも言った。間違いない」  
「正確には、大鷲のような気高さと共に汚れ無き翼をはためかせ秩序の鎖を引きちぎり自由の空を飛び回っていた」  
「そう、それだ。でもな、だからって、本当に俺を子供に戻すなんて事はしなくても良かったんじゃないか?」  
 長門は首を傾けている。こいつ、わざとじゃないだろうな。  
 そう、俺は確かに今回のテストの成績が宗教戦争当時のハイデルベルク並に壊滅的だったため、放課後の部室で現実逃避がてら長門に自分のちょっとしたファンシーな夢を聞かせていたんだ。  
 そして俺が「はは、何てな」などと言いながら告白してはみたもののこれは無いなよし冗談って事にしよう、みたいな曖昧な笑顔を窓際に向けると長門の姿はもうそこには無かった。  
 何故ならその頃には既に俺の腕に噛み付いていたからだ。  
 そんなわけで、俺はなんとびっくり五歳児に逆戻り。一昔前の漫画でもこれだけ無茶な展開のある話は少ないぞ。  
「というか、お前所々無理矢理俺の心に介入してただろ」  
 長門はしらっとした目をしている。成長したなぁ長門。  
 視線を少し下に下げると、透けたタオル越しにうっすらと桜色に染まった白い肌が見える。  
 タオルを押し上げる二つの丘は、俺の妹より少しあるぐらいか。そこはまだまだだなぁ長門。  
「……って、うおわぁ! お前殆ど裸じゃないか! 俺なんて全裸だし! な、長門! 目瞑っとくから早く上がってくれ!」  
 でないと色々な意味で大変な事が起きてしまいそうな気がするぞ!  
 長門の気配が脱衣所から消えるまで、俺は般若心経を唱えながら顔をお湯の中に突っ込んでいた。色即是空である。  
 
 何故か脱衣所には俺の制服が丁寧に畳まれており、俺はそれを着込むと、寝巻きに着替えて置物のように座っている長門の向かいに腰を下ろした。  
「風呂貸してくれて、ありがとうな」  
「いい」  
「夕飯も食わせてもらって」  
「構わない」  
「あと、俺の頼みを聞いてくれて」  
 何となくこいつの方が楽しんでたような節もあるけど、もともと俺が言い出した事だしな。感謝するのが筋ってもんだろ。  
 しかし長門、本当に何でもありだな。  
 今度ハルヒでも小さくしてもらって、何とかあいつの青信号が三つ揃った直行馬鹿に一つぐらい黄色を塗りたくってみるか。  
 出されたお茶を飲みながらそんなことを考えていると、もう外の暗闇も深まっている事に気付いた。  
「じゃあ、そろそろ帰るな」  
 俺は腰を上げる。  
「そう」  
 長門も立ち上がって、俺を玄関まで見送ってくれる。  
「じゃあ、長門」  
 これまた何故か用意してある俺の靴を履きながら、俺は振り向いた。  
「また明日な」  
 長門は頷いてゆっくりとドアを閉める。俺以外誰もいない廊下に、しばらく音が木霊していた。  
 
   
 さて、長門の家を出た俺にできることといえば、せいぜい自分の家に帰るぐらいのもんなんだが、正直かなり帰りづらい。  
 結構遅くなっちまったし、晩飯も食えそうに無いしな。  
 成績表見られたらまた怒られるだろうな。下手したら塾という名の牢獄に入れられるかもしれん。  
 いや、待てよ。俺の放課後及び休日は既にSOS団に支配されているんだったな。  
 団員である俺が塾なんてもので活動に参加できないと知れば、ハルヒがまた台風並に大暴れして有耶無耶にしてくれるに違いない。  
 珍しくあの爆弾娘の導火線に自らマッチを近づけたくなってきたぞ。我ながら現金な男だぜ。  
 でもそう責めないでくれ。多分いつもどおり俺が一番近くで爆風を浴びる事になるんだからな。  
 
 そんな事をつらつらと考えながらも、俺の足は自然と家の方に向かっていた。  
 まあ、子供の頃にだってそれなりに悩みはあったわけだし、今さらテストの成績で怒られるぐらい慣れたもんさ。  
 妹だって生まれてみればどうだ。泣くわ喚くわ遊んでくれとせがむは、寂しがる暇なんてあったもんじゃない。  
   
 
 右手にぶら下げた洋菓子店の名前入りの箱に気を使いながら、俺はゆっくりと夜道を歩く。  
 あいつ、晩飯食いすぎてなきゃいいけどな。  
 

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