さて、ハルヒに関して俺は予言者になれるかもしれない。  
至上の笑みで「教官」と書かれた腕章を装備するハルヒが仁王立ちしている。  
かく言う俺も部室に軟禁されている状況で、まさか携帯電話までも没収されるとは思わなかった。  
 
黒鉛の無駄なんじゃないかと思うほどシャープペンを走らせた。  
ハルヒ曰く、俺は数学と英語が苦手という受験生からしたら致命的な特性を備えているらしい。  
人並みに大学へ進学したいと考えてはいるので、これを機に得意にしてやろうと思った。  
「ちっがーう!」  
「全然ダメー!」  
「計算が遅―い!」  
飛び交うハルヒの罵倒にHPを削られつつ俺は果敢に問題に向かった。  
 
 気がつくと、もう他の三人の姿はなく、時計の短針も6時を指していた。  
なあ、今日はもうこのぐらいにしておかないか?  
「そうね。無理しすぎて明日できなくなるようじゃ困るもんね。じゃあキョン。先に帰ってて。あたしは部室閉めてから帰るから。」  
 
俺は教官の帰宅許可を得て家路に着いた。  
「おかえりなさいキョン君」  
初日からえらい目にあったな。妹を受け流しつつとっとと晩飯を済ませて部屋に逃げ込んだ。  
もう妹と対談するほど気力が残っていないんだ。すまん、妹よ。  
ベッドで横になり携帯を探る。  
 
ぬかった!ハルヒに没収されたままだった。  
だがまあいい。あいにく俺の携帯のメモリーには世間で言うところの「彼女」に相当する人物は登録されていないからな。  
って何で俺がそんなこと気にせにゃならんのだ。そもそも一晩ぐらい無くても困らん。  
疲れに任せて眠りに就いた。  
 
 
・・・む、朝か。妹の肘が俺の腹を直撃しているのが分かる。  
「キョン君おはよー」  
昨日は何かとてつもなくうれしい夢を見た気がするのだが、思いだせん。  
俺は妹を出し抜き朝の支度を済ませ家を出た。  
 
 
意外なことに玄関を出て視界に入ったのは0円スマイルだった。  
「おはようございます」  
とってつけたようないつもの笑顔の古泉だ。  
「昨日の件でお話しがあります」  
なぜに野郎と一緒に登校せにゃならんのかという疑問は放置しておいた。  
昨日の件って、俺の悲惨な一週間のことか?  
「その通りです。つくづくあなたも面白い人ですね。  
 こうも簡単に涼宮さんに興味を持たせるとは。おかげで今彼女の心は安定しています。閉鎖空間も昨日は一度しか確認しませんでした」  
そうかいそうかい、ハルヒは俺を缶詰にするのがそんなに楽しいかい。  
「涼宮さんは、あなたに模試で満点を取って欲しいと仰いました。  
 仮に涼宮さんがそう願えば、確実にあなたは満点を取るでしょう。手段は別としてね」  
俺は長門の顔を思い浮かべた。  
「ですが、彼女はあなたが実際に満点を取ることなど望んでいないのですよ」  
どうしてそんなことが分かる。安物の精神分析医め。  
「理由は実にシンプルです。昨日の涼宮さんの様子を見れば分かりますよ。  
 彼女はあなたを指南している間、非常に楽しそうにしていましたからね」  
回りくどい奴だ。さっさと用件を言え。  
「相変わらずですね。いいですか?  
 涼宮さんはあなたに勉強を教えることをこの上なく楽しんでいます。  
 そして彼女の精神は良い状態で安定しています。  
 僕、以っては機関としてはこの一週間は平穏が続いてくれると考えています。  
 ですが、それを維持するにはあなたの協力が必要不可欠です」  
で、何だって?  
「要はあなたがこの一週間、不満を爆発させずに涼宮さんの指南を受けていて欲しいのです」  
そんなことか。てっきチープな哲学話を聞かされると思ったんだが。  
「そうですか。失礼ながらあなたは勉強が少々不得意のようですし、  
前回よりも目標がきついのでいずれ降参してしまうのではと思ったのですが」  
あまり俺を見くびるなよ。確かに勉強は眩暈がするほど嫌いだが、  
ハルヒに無理やりどうこうされるのにはもう慣れた。  
今更釘を刺しにくるほどのことでもないだろうが。  
「それを聞いて安心しました」  
では、また放課後、と言いつつ古泉芝居くさい笑みを漏らしては黒タクシーに乗った。  
俺も乗せていけ、というか機関のタクシーは緊急時だけじゃないのか。  
突っ込みも虚しく空を切り、俺はハイキングコースを登っていった。  
 
 
教室に入った俺は意外な光景を目にした。  
ハルヒが机に突っ伏して寝息を立てている。珍しい。  
何があったのかと尋ねたい気もするが、こいつの寝顔もなかなか悪くない。  
不覚にも俺が心を奪われていると背後から抑揚のない声が聞こえた。  
「・・・これ」  
振り返ると長門がいる。  
そして手には俺の携帯。  
何で長門が返却するのか気になるが  
ありがとな、といいつつハルヒが寝ている事情を聞いてみた。  
「・・・・・・」  
用は済んだと言わんばかりの顔をして自分の席へ戻っていく。  
なんだハルヒ。また長門を口止めしているのか?  
おもむろに携帯をチェックする。  
 
着信履歴にはハルヒと長門が一回ずつ。  
昨日の夜何があったのか気になるところだが、俺は聞かないことにする。  
 
―放課後、部室  
 
今日は全員揃っている。  
昨日の様なことが無いように携帯だけは死守することにした。  
そして一人チェスをしている古泉を無視して俺はハルヒの極上スマイルを見た。  
はい、と差し出されたのは相当数のA4だ。  
これは何だ、と聞く前に  
「これ今日中に全部やりなさい!」  
ハルヒの無慈悲な声が俺の心臓に少なからず悪影響を与えているのが分かる。  
冷静に枚数を数えると、30枚はくだらない。  
中身は英語と数学だ。どこかの予備校からパクってきたのか?  
「いいからやりなさい。あ、でもやるだけじゃ駄目よ。  
ちゃんと一問一問しっかり理解するのよ」  
悪夢だ。ペンを放り出してやめだ、やめ。と言いたかったが、今朝古泉に大口叩いたばかりだ。  
そしてギブアップですか?と言わんばかりの笑顔を振りまく古泉と目が合った。  
これでは男が廃ると思い渋々取り掛かった  
それに朝比奈さんも天使の眼差しでエールを送ってくださるからな。  
 
・・・なんだこれは。問題数は多くないくせに俺の頭では一枚終えるのに10分かかるぞ。  
10×30=300 単純計算で5時間だ。  
幸いにも今日は午前で授業が終わっているので日が沈む前には帰宅できそうだなのだが、  
古泉のにやけ面が妙に腹立たしい。  
まるでこうなることを分かっていたような顔をしやがる。  
エンジェリックメイド朝比奈さんのお茶で体力を回復させつつあくせくと問題を解いていった。  
「結構かかったわね。あたしならこんなの2時間もあれば楽勝よ」  
無茶言うな。  
気づくと他の部員は既に帰っていた。またか。  
俺が背筋を伸ばして関節を鳴らしていると  
「でもまああんたにしては頑張ったほうだと思うわ。また明日もこの調子でやるわよ」  
あのー涼宮さん?  
明日は午後も授業がありますので今日のようなことを行いますと確実に夜になってしまいますが?  
「何?いいじゃない別に。何か不都合でもあるの?」  
俺は再び諦めた。俺がハルヒを動かすなど到底無理な話だ。  
 
だが、ハルヒが俺を操るのは児戯に等しいようだ。  
意志薄弱な俺、頑張れ。  
 
―翌日  
 
なんとまあ授業が良く分かるではないか。  
教師が今まで暗号化して授業をしていたのかと疑うほど内容が良く分かる。  
あの30枚も伊達ではなかった、ということか。  
 
いやいや、ハルヒの変態的な力で俺が賢くなったのかもしれん。  
俺の変貌振りを見た谷口の抜けた顔は実に面白かった。  
だが俺を部分的優等生に仕立て上げた当の本人は終始眠りこけている。  
お礼は部室に行ってからにでもしよう。  
起こさぬハルヒに祟り無しだ。  
 
余談だが、長門の授業風景を観察してみた。  
あいつらしいと言えばそうなんだが、  
先頭に居るにも拘らず机には鉛筆一本出していない。唯一出ているのは文庫本。  
文庫本を読みながらも教師の問いに即答する。  
 
えーっと長門さん、もうちょっと普通の高校生を装ってくれませんか?  
複雑な積分を暗算でやってのけるなど数学教師の能力をもはるかに凌駕しているぞ。  
 
 
ふー。なかなか充実した授業だったな。あんなに分かったのは中学校一年以来だ。  
勉強というのは不思議なもので、分かる分からないでは面白さが大幅に違うことは周知の事実だ。  
それが顕著に現れるのは数学である。  
そして文系の俺に理系並みの数学力が備わりつつあるのを俺自身驚いている。  
谷口の恨めしい視線が気持ちいいぜ。  
 
ハルヒ・・・今更だが、お前って何でもできるんだな。  
ハルヒの並外れた才、もとい変態的な力に改めて感心しつつ部室に向かった。  
忌々しい掃除当番という障害を乗り越えてからな。  
 
コンコン、ガチャ。  
「ちーっす」  
「・・・・・・」  
長門の醸し出す心地よい沈黙が部室を包み込んでいる。  
パイプ椅子に腰掛けると、天使の御手に淹れられたお茶が俺の前に置かれる。  
「キョン君、今日も頑張って下さいね」  
ありがとうございますっ!朝比奈さんの声援は不屈の精神を養ってくれますとも。  
そして二流役者の古泉にもお茶が配給される。今日は将棋か。  
安っぽいスマイルの中から僅かに眠気が感じられるのは気のせいだろうか。  
 
当のハルヒといえば甚だしく意外なことに団長席でノンレム睡眠中である。  
部室で寝るなど前代未聞だ。こいつが学校で寝るのはテストの余り時間ぐらいのはずである。  
シーラカンス並みに希少なハルヒの寝顔を鑑賞しようと試みたのだが、  
俺の気配に察知したのか目を覚ます。お前の勘のよさは勲章ものだ。  
「・・・う〜ん、っ!キョン!来たなら来たって言いなさいよ!団長の隙を突こうったってそうはいかないんだから!」  
お前の隙を突いて如何ほどの恩恵を享受できるのか教えてくれ。あとよだれ拭け。  
「いいから!はいコレ!」  
プラトンも真っ青のA4紙30連が俺の前に投下される。  
昨日の救いようの無い疲労感が脳裏を過り血圧が下がりそうである。  
だが、俺とて昨日の俺ではない。  
朝比奈さんのエールのお陰で計算速度も暗記力も理解力も昨日の2割り増しの気分なのだ。  
 
定昨日よりも割りと早くA4を片付けていく俺を見てハルヒは何を思ったのか  
「へー。あんたも人並みの頭持ってんのね」  
そうだとも。俺は昨日の特訓のおかげで名前の横に+が突きそうなほど脳が活性化している。  
それでもハルヒ曰く、今の俺はようやく凡人の域に達したということだ。  
ハルヒ的俺ランクを知りたいような気がしないでもなかったが  
「ほらここ。こうするとできるでしょ?」  
「こういう時はね、この公式を使ってみるのよ」  
「三単現のSが抜けてるわよ」  
幾分か一昨日よりも柔らかく教えてくれるハルヒの前にはそれは愚問ってもんだ。  
眠くて怒る元気が無いのか、はたまた成長する雛を見て喜ぶ親鳥の心境なのか。  
どちらにしても俺のHPの減り幅が小さくなったのは確かである。  
そして心なしか俺とハルヒとの距離が昨日よりも近くなっている気がする。  
間近で見るハルヒの笑顔は目に毒だ。  
 
 
あー疲れた。今日も何とか終わったな。  
部室の窓際にオレンジ色の読書マシーンが静かに座っている。  
「キョン君お疲れ様でした」  
ああ。朝比奈さん、あなたの愛らしい笑顔で俺の心は瞬間的に癒されますよ。  
「キョンにしては割りと早かったわね。もうちょっとかかると思ってたんだけど」  
長門も丁度ブリタニカ百科事典のような分厚い本を閉じて帰り支度を始める。  
 
ふと気付いた。古泉が寝てやがる。こいつのはこいつので寝顔は割りと貴重かもしれん。  
もちろん俺の中での寝顔希少価値は長門、ハルヒ、朝比奈さん、古泉の順であるのは言うまでも無い。  
今のうちに悪戯書きでもしてやろうか。  
「今日はこれにて解散!」  
ハルヒのハイテンションヴォイスが古泉を起こす。  
部室で寝てしまうとは失態でしたね、などと負け惜しみを述べて古泉は部室を後にした。  
寝起きの顔も様になっているのが憎らしい。  
それに追尾するように長門も部室を出る。  
だがその時唇が高速で動いているのを俺は見逃さなかった。  
頼むぜ長門、この一週間ぐらいは普通の高校生で居させてくれ。  
 
そう不安に思っていると  
「着替えるから先に帰ってて」  
朝倉を髣髴させる言葉なのは違いないが、朝比奈さんの可愛らしい声が心地よく耳に響く。  
毎日朝比奈さんと仲良く話ができる俺は北高一の幸運男子なのかもしれん。  
夜間の外出は控えたほうがいいな。朝比奈ファンクラブ会員による闇討ちが懸念される。  
「ほら!いつまで居るつもりなのよ!帰るわよ、キョン!」  
俺の襟首を万力アームで掴み、ずるずると引きずっていく。  
頚動脈が悲鳴を上げつつもでは朝比奈さん。また明日、  
と引きずられながら手を振る俺に困惑しながらも手を振って下さった。  
 
 
校門をくぐりハイキングコースを歩く。こいつと帰るのは悪い気がしないでもない。  
はたから見れば美少女と付き合っている幸運な男子、と間違えられることもあるだろう。  
時にハルヒ、今日は随分寝ていたな。お前らしからぬ様子だったぞ。  
「別に」  
そうか。  
 
夕日に照らされる橙色のハルヒが変に優しく見えた。  
「じゃああたしは寄る所があるから。じゃあねキョン」  
なあ、別れるのは次の曲がり角でもいいんじゃないか?  
「! 何?あたしと帰りたいの?」  
 
不覚だった。俺としたことが何故こんなことをためらいなく言っちまったのか。  
いや、すまん、失言だ。夕焼けの特殊効果だ。  
幸いにもその夕焼けが俺の赤面をカムフラージュしてくれた。そう信じたい。  
「もう!変な事言わないでよね!」  
焦る俺を尻目にハトが水鉄砲食らったような顔でツンツンしている。  
そういってハルヒは俺とは別の道を行った。  
 
俺も相当疲れてんだな。早く家に帰ろう。  
 
こんな感じを残り5日間繰り返しつつ、  
勤勉週間は俺の溜息と古泉の視線、朝比奈さんのエールに長門の沈黙で幕を閉じた。  
ハルヒと言えば、この一週間、授業中は殆ど寝ていたな。  
 
 
―テスト当日  
 
今までの俺ならテストなんぞ開始10分でスリーピングタイムになるはずなのだが、  
今日は違うぞ。一問一問が手に取るように分かる。勤勉週間、つまりハルヒのおかげか。  
最後の科目ですべての解答を終えても尚20分ほど残っていた。  
 
ふと長門に目をやると、意外にも机にあるのは僅かに空欄のある解答用紙である。  
断っておくがカンニングしようとは微塵も思っていない。  
 
この程度の問題、長門なら満点も余裕で取れそうな気もするのだが。  
位置的に表情の確認はできないものの、ペンは動いていない。  
 
まさか。もしかして分からないのか?  
 
いやいや、長門のことだ。テスト終了前に宇宙パワーですべて埋めてしまう可能性がある。  
はたまた採点するアルバイトを操るかもしれん。  
なんにせよ長門が全国ランキング1位を取ると思っている。  
トップを巡って争う全国のがり勉諸君には申し訳ない。  
万能宇宙人が受験するなんて聞いてないもんな。  
 
いろいろ妄想したが何の役にも立ちそうもないので長門から視線を外し、  
後ろの団長を見習うことにした。  
 
 
―終了のチャイムだ。  
用紙回収後に寝ぼけ眼で席を立つ。  
 
ふと振り返ると既にハルヒの姿は無かった。  
お前、ついに瞬間移動できるようになったのか?今度やり方を教えてくれ。  
ハルヒの神速に感心しつつ俺は長門と部室へ向かった。  
 
「長門、今日のテストはどうだったんだ?」  
試験中の様子から大いに気になっていた。  
「・・・問題ない」  
そ、それだけか?  
「あなたよりも2点低い解答を作成した」  
長門の吸い込まれそうな黒い瞳が俺を見つめる。  
「何でそんなことしたんだ?長門なら簡単に満点を取れただろう」  
「・・・・・・」  
だんまり、か。  
こいつが黙る。これはこれ以上追求せず汲みとって、という意思表示なのだが  
一年も長門と居ると無言からも随分意思を読み取れるようになるってもんだ。  
これだけは俺の専売特許のつもりである。  
長門の行動には必ず何かしらの意味がある。こいつは無駄なことを殆どしない。  
だから今日のことだって何か裏があるに違いない、そう思ってるうちに部室に到着した。  
 
厚さ5センチの木の向こうに学校一の癒し系マスコットキャラが居ると思うと気分も高揚してくるってもんだ。  
天使を拝むためにノックをしようとポケットから右手を出し上に挙げたとき、  
俺のブレザーが引っ張られる。  
予想外のことに間抜けな顔をしてしまったに違いない。  
幸い、その顔を目撃したのは眼前のドアだけのはずだ。  
 
振り向いてみると、意外なことに長門が俺のブレザーをちょこんと摘んでいる。  
丁度人差し指と親指で紙切れの端を掴むように。  
ハルヒ消失事件の主犯格、一般人仕様の長門の顔がフラッシュバックする。  
そして上目遣いで  
「待って。今は駄目」  
 
思わずクラっと来たね。  
無表情ながらも、長門の上目遣いは人生経験の乏しい俺からすればかなりの兵器になる。  
だが、長門に惚れ直している場合ではない。  
今こいつは間違いなく俺を止めた。よほどの緊急事態なのか?  
 
「・・・・・・入って」  
およそ10秒ほどだっただろうか、長門が俺を制止したのは。  
どうして止めたんだ?  
「・・・ない」」  
何だって?  
「理由は無い」  
・・・・・・そんなことがあるのか。  
長門らしくも無い。理由も無く俺を止める?意味が分からん。  
 
「この室内の空間に異常がある」  
とか何とか言ってくれたほうがまだ良かった気がする。  
長門の理由の無い行動が俺をどれほど不安にさせるか分かったもんじゃない。  
 
再度長門の目を見る。少しばかり潤んでいる。  
いかん、これでポニーテールでもしたら俺は確実に長門の虜だ。プエルトリコだ。  
 
ぶんぶんと首を振り、親父ギャグを排斥した。  
そして改めてノックして部室のドアを開ける。  
「はぁ〜い」  
 
出迎えてくれたのはスーパーアイドル朝比奈さんであった。  
神々しさはいつも通りだが、今日はいつもと違う。  
そう、今日はメイドでもナースでもチアでもバニーでもカエルでもなく、  
北校指定の制服を身にまとっていらっしゃる。  
今日はどうしたんですか?  
だが、俺の質問には団長席に座るハルヒが答えやがった。特上のスマイルで。  
「やっと来たわね。テストも終わったし、打ち上げに行くのよ」  
なんだそりゃ。打ち上げとやらはこういう時にやるもんなのか?  
それに朝比奈さんたち3年はテスト無かったから打ち上げとは無縁のはずだ。  
「そう?じゃあSOS団の活動ってことにしておいてあげる」  
もはやこいつのご都合主義には慣れっこだ。ドンと来い。  
「詳しいことは古泉君が来てから説明するから」  
 
 
だが、ハルヒはすぐさま怒りと懐疑を3:2で調合した表情を顕にした。  
何だ。今日のテストのことか?それなら心配するな、お前のお蔭様でな  
「そうじゃないわよ!それよ、それ」  
ハルヒの指差す先には俺、を通り越して長門。  
長門!?  
 
長門が俺のブレザーの端をちょこんと握っている。  
感触が無かったのでてっきり離してくれたものだと思っていた。  
長門がさっきの潤みを2割り増しにして俺を見つめてくる。  
「ちょっとキョン!何か有希が辛そうよ。まさかあんた何かしたんじゃないでしょうね!」  
まてまて、濡れ衣だ。冤罪だ。俺が長門にどうこうするはずがないだろう。  
「じゃあ、何で有希があんたにくっついてんのよ」  
そう言われてもなあ。  
 
朝比奈さんもどう反応してよいか困っているご様子だ。  
長門、そろそろ離してくれてもいいんじゃないか?  
俺の訴えをどうにか飲み込んだのか、しぶしぶ、本当にしぶしぶ手を放した。  
長門にしては分かりやすい仕草だ。  
手が離れると長門を鋭い目で一瞥し、ハルヒは空気を流すように  
「う〜ん、古泉君はあとどれくらいで来るのかしら」  
知らん。もうすぐ来るだろ。  
するとタイミングを計ったようにドアが開き、フリースマイルを放つ。  
「おや、もしかして、僕をお待ちでしたか?」  
正直お待ちでない。むしろお前がドアの向こうで待っていたんじゃないのか?  
 
ハルヒは窓際に立ち腰に手を当てて胸を張ってこう言った。  
「全員揃ったわね。これからSOS団でカラオケに行くわよ!」  
 
時が止まった。  
 
俺はカラオケと聞き間違えそうな単語を貧弱なボキャブラリーから探していた。  
「カラオケよ、カラオケ。あんたの聞き間違いじゃないわ。打ち上げと言えばカラオケよ!」  
打ち上げとカラオケが直結する奴はそう多くは無いと思うぞ。  
それにさっき打ち上げの名目は取り下げたはずだ。  
「いいのよ!そんな細かいことは。そんなことばっかに神経使ってるとすぐにハゲるわよ」  
さすがに若くしてハゲキョンなどという不名誉な称号は得たくなかったので突っ込みも引っ込む。  
すぐにハゲないことは分かっていてもハゲると聞くと不安になるからな  
 
「さ、これからいくわよ。いつもの集合場所の近くにあったの」  
記憶の地図を開くのも面倒だ。俺はカルガモ親子のようにハルヒに追従することにした。  
他のメンバーも特に文句は無いようだ。  
 
 
まさか平日に来るとは思わなかったな。  
だが、今回は全員でここに来た。よって俺は久しぶりに奢らなくてもいいわけだ。  
「そうね。今日は割り勘ね」  
状況も相乗してかハルヒの笑顔がやたら輝いて見えた。  
たまにはお前も払え古泉。お前は《神人》バイトで儲けてるんだろうが。  
 
「ここよ。ここ」  
そう言うハルヒが指差した建築年代が特定できそうも無いほど怪しい建物を良く見てみた。  
「からおけだいきち」  
もはや意味不明な看板を掲げている。  
確かにハルヒが好みそうな店だな。  
一応古泉と長門に確認したが、店内に危険は無いらしい。  
 
手動のドアを開き店内へ入る。  
古泉は実に楽しそうにしてやがる。例えその態度が芝居であっても羨ましい限りだ。  
その余裕はいったいどこから来るんだ?  
 
朝比奈さんと言えば、物珍しそうに店内を見渡していらっしゃる。  
その仕草、殺人的な可愛らしさですよ。  
それにしても未来にはカラオケという俗物は無くなっているのだろうか?  
 
ところで宇宙人製アンドロイドは音楽に興味があるのだろうか。  
いつぞやの文化祭ではマジシャンオブギタリストになっていたが、歌唱力は未知数だ。  
無口な奴ほどカラオケで熱唱するという俺の独断法則があるのだが、  
もしや長門もそういうタイプか?  
まあ歌唱力の品評会はこの際は無しだ。  
俺が他人の歌にケチつけるほど上手いはずが無い。  
 
ハルヒが店員と二、三言葉を交わし、  
俺たちは防音対策がなされているかどうか疑わしい小部屋に入った。  
 
驚いたことに店の概観からは想像できないほどの豪華さだ。機材も現代チックなオーラを発している。  
「さー歌うわよ!」  
ハレ晴れとしたスマイルを振りまく。  
歌に自信が無い俺としては終始聞き役に回りたいところだ。  
「歌う順番はくじで決めるわ」  
ポケットから五本の爪楊枝を取り出すハルヒ。  
お前は未来から来た猫型ロボットか。用意周到すぎだ。  
「はい、じゃあ古泉君、引いて」  
スマイルの仮面、とでも言うべきか。  
笑顔以外の表情が見られないのが逆に不気味だぞ。  
「できれば最初は避けておきたいですね」  
古泉が引いた楊枝には緑の印が。  
 
一同が緑が一体何なのか考えこむ。  
ちょっとまてハルヒ。これでどうやって順番を決めるんだ。  
「色で順番を決めるのよ。ピンクが一番目、赤が二番目、緑が三番目、青が四番目、白が最後よ。  
この順番でどんどん回していくの」  
そうかい。突っ込む気も失せるた俺はドリンクメニューを眺めることにした。  
 
次に朝比奈さんに選択権が与えられた。  
少し迷うような仕草もたまりません。  
「ん〜、じゃあこれ」  
ひいたのは桃色。ピンク。  
「えぇー!最初ですかぁ?」  
人前で歌うことに抵抗を覚えるもの、覚えないものと二極に分かれるものだが、  
恐らく朝比奈さんは前者なのだろう。ちなみに俺も前者だ。  
 
次に俺の前に楊枝が差し出された。  
高校野球のトーナメント抽選のくじならためらうのだが、半ば開き直っていた俺はままよ、と引いた。  
楊枝には青の印。初っ端じゃないだけ良しとしよう。  
 
そして長門の前に残り二本。  
迷う様子も無く即座に引いた。白。  
こういうわけで  
朝比奈さん  
ハルヒ  
古泉  
俺  
長門  
このサイクルでマイクを回すことになった。  
律儀に順番決めないで歌いたい奴が歌えばいいものを。  
 
トップバッターの朝比奈さんが選曲を迷っているとハルヒが  
「みくるちゃんはこれよ」  
小悪魔的な笑みを浮かべる。  
 
流れ出すメロディを聞いて俺は幼稚園時代を思い出した。  
おい、ハルヒ。高校生にもなって森のクマさんとは何が狙いだ。  
「みくるちゃんにぴったりじゃない」  
無情にも曲は進む。  
文句ひとつ言わない朝比奈さんの従順性には頭が下がります。  
「あるぅひぃ〜♪もりのなかぁ〜♪」  
確かに。朝比奈さんには申し訳ないがその頬を染めた幼い顔立ちが醸し出すオーラが抜群に合っている。  
これだけでも今日来た甲斐があるってもんだ。  
 
朝比奈さんをおもちゃにしているハルヒは実に楽しそうな顔をしている。  
「赤頭巾ちゃんの衣装も似合いそうね」  
などと言いつつもイメージどおりに歌ってくれてさぞかし満足なのだろう。  
俺も正直見てみたい。  
古泉はワンコインのスマイルで童謡に手拍子を入れている。  
泣けてこないか?  
長門に目を向けるといつの間に注文したのか、カルピスソーダを飲んでいる。  
ストローでチュウチュウ吸う様子を眺めると安心するな。  
美味そうに飲む長門を見ていると俺もカルピスソーダが飲みたくなってきた。  
店員に言い付けて持ってこさせることにする。どうせ割り勘なのだ、痛くもかゆくも無いのさ。  
 
 
命からがら森のクマさんを完唱した朝比奈さんは照れくさそうに退場する。  
そのお姿、写真にすれば一枚3000円は固い。  
 
次はハルヒ、か。  
こいつの歌唱力は文化祭で実証済みだ。よって特にコレといって期待することも無い。  
聞きなれない洋楽を熱唱、満足げに椅子にどかっと座り  
「どうだった?」  
と俺に尋ねてきた。  
 
「なかなかよかったぞ」こいつの鬼才ぶりはもはや語るまでも無い。  
俺の冗談半分の賛辞をどう受け取ったのか  
「じゃあまた聞かせてあげるわ。私の歌声がタダで聴けるなんてそうそう無いんだからね。光栄に思いなさい」  
こんなに素直に反応するのも珍しい。というか、やはり金を取るつもりなのか。  
下手に褒めると歯止めが利かなくなるのがハルヒだったな。  
 
「大変上手いですね。このような万能少女がいるとは。才能を配分した神を少しばかり恨みますよ」  
副団長が火に油を注いだところにガソリンを注ぐようなことを言いやがった。  
褒めすぎ人のためならず。俺は古泉の足を踏んでやった。  
 
お次は古泉だ。  
スマイル仮面は俺にデュエットを申し込んできたが蹴ってやった。  
わかってますよ、と言いたげに肩をすくめる。  
こいつは能力こそ変態的だが、基本は高校生だ。そう電波な曲は選ぶまい。  
 
無難な歌を無難に歌い無難な評価を受けて印象の薄い古泉だ。  
革命的な音痴だったら面白かったのだが。  
 
今回の言い出しっぺであるハルヒは自分の番以外はウーロン茶を飲むか曲本を眺めているかのどちらかだった。  
やはり歌えれば満足のようだ。  
 
朝比奈さんは健気に拍を取っていらっしゃる。そして歌い終わると必ず拍手を下さる。  
なんと心優しい方だろうか。  
 
そして俺の番だ。  
こういうときに限ってハルヒが茶にも曲本にも飽きて聞く気満々の体勢を取りやがる。  
もうちょっとウーロン茶を楽しんだらどうだ?オレンジジュースもあるぞ。  
 
状況の打開は不可能と悟り、適当に選曲、メンバーに俺の凡庸な歌声を披露してやった。  
ここではあくまで詳細には語らん。  
誰だってやなことは思い出したくないもんだ。  
 
歌い終わるとハルヒは  
「ふーん」  
という最も解釈しがたいリアクションを取った。  
そもそも俺にプロ級の歌唱力を求めること自体愚行なのだ。  
 
しかし、朝比奈さんの御手が巻き起こす拍手によりどうにかこうにか平常心を保っていられた。  
古泉がインスタントの笑顔で  
「お上手ですね」  
お前はお世辞が下手ですね。  
 

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