やたら綺麗な月明かりが、カーテン越しに暗闇を照らしてる。俺は月夜の中、自分の部屋ではないどこかの部屋で
やたら広い白いシーツを基調にした寝台の上に横たわっていて。
俺の腕の中には…やわらかく、熱く、力を入れすぎると壊れちまうんじゃないかと思うほどのオンナノコの身体が
すっぽり収まっている。肌と肌の触れ合う部分が灼熱伴ってるんじゃないかと思うほど熱く思える。
心臓なんぞとっくの昔に臨界オーバー寸前の超高速ツービートを遠慮仮借なくドンドコ刻みまくってる。息もまと
もにできやしない。
俺の顎の下、俺の胸に顔を預けてるそいつの髪から、ほんのり柑橘系の甘い香りが漂ってるのがはっきりわかる。
まるで極上の絹のような艶やかな髪。普段は風をはらんでひらめくリボンをあしらったカチューシャをつけてるその
黒髪も、なんだかこうしてみると…やばい、すごく可愛い。
と、俺がそこで完全に硬直してると…俺の胸に顔を埋めてたそいつの視線が、俺のそれにまっすぐに向けられた。
その目に映るのは常日頃の鬱憤と憂鬱でも、炎天下の太陽でも、どっか遠方の銀河団でもなく、ただ純粋な愛おし
さと、綺羅星のような控えめな視線。潤む瞳で俺を見上げるな。反則だろうがその視線は。
視線そらさないとまずい!これ以上はいくら俺が聖人君子のような精神力があろうが超越した抑制力もってようが
もう、完全に押さえが利かなくなる!
そもそも、やや大柄すぎるぶかぶかのピンク基調のパジャマだけで胸を押さえるブラをしていないってのが倫理的に
大問題だ。ふくよかというか、柔らかく暖かい胸の感触が俺の心臓に更なる過負荷を掛けまくってる。このままだと
もう何刻もしない内に心機能破裂でポックリ逝くか…必死に抑えまくった倫理と理性の箍が木っ端に砕けて涅槃の向こ
うに四散して、後の事は…正直、どうなるか俺にも俺がわかりゃしない。誰か如何にかしてくれ。
脳内のどっかがいつかの朝比奈さんと掃除道具入れのなかで抱き合ったときに比べ当社比200パー以上のいろんな何か
を遠慮なくどっぱどっぱと放出してる。頼む、頼むからもう少し身体を離せ。このままだと制御不能に陥ったアレの感
触をお前にモロに伝える事になりかねん…っ!
と、俺の声にならぬ嘆願は。
生憎、よりにもよってこの状況を築き上げた当の張本人の行動のおかげで木っ端微塵に打ち砕かちまう結果になった。
「キョン…キョン……っ!」
熱に浮かされたように掠れた声で俺を呼ぶソイツ。首筋から這い上がる吐息が熱くて甘い。やべぇ、目線がそらせない
じゃねぇか。まるで首がメデューサの呪いにでも掛かったみたいに動きゃしない。視線もそらせない…つか、俺が。
俺が、そらしたくないのか?
ハルヒの顔が近寄ってくる。きちんととめていない大柄のパジャマだから、その気になれば鎖骨とかその向こうの豊か
な双丘とかもはっきり見える。畜生、月明かり程度の照明でなんでここまではっきり見えるんだ。うっすら赤くなってる
傷ひとつないその肌が、まるっきり芸術品みたいじゃねぇかよ。
形のいい唇が、月明かりを照り返して怪しく輝いてるのがはっきり見える。常日頃の暴虐団長殿とはどうやってもイメ
ージが合致しないほど…ああもう、クソ。可愛い、可愛すぎだって認めてやる!
「キョン…っ!」
ハルヒの顔が近寄ってくる…もう駄目だ、こりゃ俺の心肺木っ端になるな。理性の箍はもはや白蟻に徹底的に食い荒ら
されて風化の果てに、今にも崩れそうな砂上楼閣状態だ。
俺の顔に、ハルヒの顔が近づく…あと、5センチ。あと、3センチ。あと…。
と、俺が生涯最大級の衝動と苦境に耐えかねて。冷静かつ正気のときに自己批判をするとギネス記録更新間違いなしの
速度で妄想の拳銃の銃口を咥えて引き金を弾倉ゼロになるまで引き続けかねないような事に及ぶ直前に。
俺は遠慮仮借なく腹部に叩き込まれた、推定体重40キロ前後の人間のフライングニーアタックによる衝撃で悶絶して
目を覚まし、きっちり数分間苦痛とかその他いろいろな理由で悶絶して自室の寝台の上を転がりまわる羽目になった。
妹よ、兄をあの世界から呼び戻したその功績は称えてやらんでもないが、その全身全霊の威力を伴う一発を無邪気に俺
に叩き込むのは如何にかしろ。下手を踏むと俺は妄想の世界から現世経由で冥界へと直行したかもしれん。
さてさて、我が無邪気なる妹君が俺の足元で丸くなってた毛玉モードになっていた小型の肉食獣を嬉しげに抱えあげて
立ち去ってから数分後、俺はようやく現状を把握することができた。
朝だ。そりゃもうどっかのアホな妄想なんか欠片一片も写しゃしないほど完全無欠の真っ青な青空が、部屋の向こうに
広がってる。開いた窓の向こうから流れる風からは爽快きわまる春の気配がはっきり伝わり、冬の間省エネモードで核融
合を行ってたお日様のやつが、にこやかに機嫌よくエネルギーを掃射してきやがる。
ついでに言えば、もう間違いなくここは俺の家だ。白を基調にした広すぎる寝台もない。妙にできのいいレース地のカ
ーテンも掛かってないし…寝台の横にどっかのお天気極楽大暴走娘が寝てたりすることもありゃしない。
つまりあれか。あの光景は…。
頼む妹よ、シャミセンを連行する前に如何にかして拳銃を一丁もしくは頑丈なロープをここに運んでくれ。俺は今から
あまりの自分のアホさ加減とわかり易さに辟易してこの世界から音速でグッバイさせてもらうから。
…まぁ、日本は銃社会じゃないし、妹はそんな兄の心理の機微に無縁なんだから無理なんだけどな。畜生。またフロイ
ト先生が聞いたら腹膜炎で悶死しかねないわかりやすい夢を見ちまうなんてどうなってやがるんだ。
今日は日曜で、もう嫌になるほどに晴天で。などと散逸した思考を纏めつつ何気に時計に目をやると…朝の9時少し過
ぎか。畜生、今日は学校休みじゃねぇか…とおもった矢先の出来事である。
いつの間にか寝台の下のスペースに転がり落ちてた携帯が、大音量で聞き覚えのある着信音声をがなり立てた。ぎょっ
として慌ててそいつを取り上げ、送信相手を確認すると…ああ、畜生やっぱりだ。そこに映ってるのは俺が記憶喪失にな
るか死ぬかしない限り忘れやしないどっかの団長殿のお名前である。
脳裏に一瞬よぎったあの妄想を、音速を超える速度で遥か彼方へ叩き出す。だから静まれ心臓。ツービートを刻むギグ
の時間はもう遥か過去の話だ。今はバラードを聞きたいから落ち着け。声が上ずっちゃいないか軽く発音してみる。OK、
今の俺は冷静だ。ビークール。ビークール。などとアホな戯言を脳内にて展開するだけの余裕もある。
自己批判にかかった時間はおそらく10秒以内だ。俺は息を軽く吸い込んでから携帯を耳に当てる途中で通話キーをおし
こんで…鼓膜を遠慮なくぶっこわす怪音波じみたでかさの団長殿の怒声の洗礼をモロにくらっちまった。うぉ、まだ耳が
キンキンいってやがるぜこの野郎。
「ったく!アンタなに呑気に惰眠なんか貪ってるのよ!ダラダラしないでシャキンとしなさいっ!我がSOS団は学外で
も休日でもフルタイムで活動するってわかってないのかしらアンタはっ!」
…しまった。すっかり忘れてた。SOS団のミーティングの時間が朝比奈さんの都合により(時間がどうこう言う事情で
はないぜ?鶴屋さんとの待ち合わせ関係だそうだ)活動時間を1時間近く前倒しになってたんだ。午後の活動には古泉も
長門もそれぞれに理由があって参加不能なので、いつもの喫茶店で今後の活動方針を相談して解散予定になってるんだ
が、集合時間が朝の9時半ってのは早すぎだろ。ハルヒ。
「まだ公式の集合時間までは30分以上あるけど、それでも既にアンタ以外は全員集まってるのよ?タルみすぎ、気合を
きちんとこめなおしなさいっ!」
畜生、否定できる要素がねぇ。とりあえず電話口ですぐに行くとの返事を返し、慌てて着替えを済ませてから階段を
ほぼ二段とばしで転げ降りるように駆け下りて、オフクロと妹には「出かけてくる」とだけ伝言残して猛ダッシュ。
我が愛車たるママチャリよ。すまんが酷使に耐えてくれ。この集会が終わったらきちんと後輪の空気を再装填してや
るからさ。
さてさて。我がSOS団が学内非公認団体として活動を始めてからもうそろそろ結構な時間が経つわけだが、我が団長殿
の団活への意気は今を持って猛烈にさかん極まるものであり、創立当初からの不文律である『日曜祝日及び試験休み中
も活動を原則継続する』というポリシーもまったくもって改まっていない。
まぁさすがにハルヒの奴も結構いろいろな事態を体験し、それなりに精神的な成長を遂げたらしく。最近ではこういう
風に各団員の都合の関係でフルタイムの活動が無理な場合には、集合時間を1時間程度切り上げた簡易集会をもって活動
の代替にするという配慮を見せる程度にまでなっている。やっぱり、SOS団の立ち上げはハルヒにとってかなりいい結果
を与えたと言わざるを得ないだろう。…1年程前の俺によくやったと心からの賛辞を捧げてもいいかなと思える程度にな。
あのどこかの妄想大暴走な夢とは別の理由によってパンキッシュなツービートを刻みまくり出した心肺の奴に呪いを捧
げたくなるのを必死に我慢し、俺は全力を超える全力でいつもの喫茶店まで疾走した。春の気配が濃厚な大気を切り裂き
全力をもって走ってりゃ、自然に汗の奴が吹き上がってくるのはやむを得ないね。畜生め。
結局、俺がいつもの集合場所にたどり着いたのはどうしようもない遅刻の時間…ぶっちゃけ9時50分過ぎである。もう
こりゃ言い訳のしようも無いなと覚悟を決めて集合場所に向かってみると、だ。
集合場所に佇んでたのは、なんともはや…やや長くはなったがポニーにはまだ足りてない髪を風に躍らせ、リボンあし
らった黄色のカチューシャに生命力の塊よろしく沸々とした何かを堪えるかのように石畳をパンプスの爪先でリズミカル
にノックする団長殿の姿だけだった。オイ、残りの連中はいったいどーなったんだ?
「やっと来たわねまったく…古泉君も有希も急ぎで用事を片付けたいっていってたし、鶴屋さんまたせちゃ気の毒だし
…仕方ないからアンタが来る前にちゃちゃちゃっとミーティング済ませちゃったわ」
つまり何か。俺が心臓破りの超疾走をみせた努力は全部無駄ってことか?ハルヒの言葉を理解した瞬間に疲れの奴が一
気にどっかと吹き上がって膝がかっくり折れそうに…なるのを意思の力で支えてやる。んな所でみっとっもない場面見せ
てやるもんか。この野郎。
と、そうするとだ。
ハルヒの奴がその顔に苦笑じみたものを浮かべたあと、肩に下げてたポーチからすっとハンカチを取り出して、俺に
向かってそっと差し出してきたじゃないか。こりゃ夢か?俺は今白昼夢でも見てやがるのか?
「汗まみれで横歩かれると、あたしの方がものすごく気分的にヤなのよ。いいからとっとと汗拭きなさい。あ、そうそ
う。ハンカチはきちんと洗濯してアイロン掛けしてから返すこと。そうじゃないと返却受付しないから」
…あ、なんだ。白昼夢じゃねぇ。この言い草は間違いなくハルヒだ。いつもどおりの軽い憎まれ口に、瞳に宿ったその
太陽真っ青の無茶な輝きも、間違いなくいつもの団長殿の姿だ。そんな当然の事に安堵しつつ、俺は噴き出す汗を遠慮な
くハルヒのハンカチで拭ってやる。
ハルヒのハンカチから、なんか柑橘系の甘いにおいがしたのは、多分俺の錯覚さ。
「ほらほらとっとと行くわよ?この所のアンタの気の弛みが学業に対しての不安要素を生む温床になってるのはもうま
ちがいないんだから、この機会にあたしが超教官としてそのあたりを叩き直してあげるわ。覚悟しなさい!」
そのせりふを聞くうちに、俺は自然と笑みが浮かんでくるのを堪えられなくなった。
いつかは俺たちも変わるんだろう。いつかはあの夢の世界をホントにしちまうのかも知れないし、あまり考えたくはな
いんだが…いつか、別離のときが来るのかもしれない。
でもまぁ、とりあえずは俺は今。満足してて安心してるんだ。
俺の前を軽快なステップで、ウサギよろしく跳ね回るハルヒの姿を見て。その後ろをついて歩くことのできる自分を見て。
もう暫くは、このままでもいいかと思ったのは俺だけかい?