夜の街を自転車で走る、というのはそれなりに気持ちがいい。  
 もちろん、それが無口な――だけでないことはよく知っているつもりだが、便宜上  
ここはそうさせてくれ。すまんな、長門――宇宙人製有機アンドロイドからの意味深な  
呼び出しでもなく、ほんのちょっとばかりおっちょこちょいな――こちらも先に同じく。  
すみません、朝比奈さん――未来人からの時間旅行のお誘いでもなければ、ましてや  
うさんくさいまでに爽やかな――これは謝らないからな、古泉――超能力者からの  
聞きたくもない種明かしの裏話でもない、という条件付きだが。  
 条件が多すぎるって? あいにく、そのどれもがありえない話じゃない立場にいる  
人間にしてみれば、これくらいの予防線は引かせておいてもらいたいところだ。ああ、  
もちろんハルヒからの呼び出しなんぞは論外だからな。絶対確実にロクなことじゃない。  
 ともあれ、だ。  
 数え上げれば切りがない、そんな事件の種とは一切無関係に、俺は自転車を走らせて  
いる。七月七日の晩に、だ。  
 
 
 七月七日といえば、俺としてはいろいろと思うところ満載な日ではあるのだが、  
世間的には当然ながら七夕であり、SOS団的にも第一義としてはそれだ。去年同様、  
ハルヒが学校の裏から調達してきた見事な竹が部室に陣取り、発行日時がえらく先の  
願いごとを書いてぶら下げる、という思えば珍しくそれなりに常識的な行事である。  
 常識的な行事の方が珍しい点については、この際問わないことにする。なんとなれば、  
即ちそれは涼宮ハルヒの人間性を問うのと同義であり、そんなことをすれば結果は  
目に見えているからだ。勝てない勝負はするもんじゃない。  
「あんたってば全然成長しないのね。少しは夢のある願いを書きなさいよ!」  
 お前こそほとんど変わってないだろう、と言いたくなるような願いを書いたハルヒに  
ダメ出しを受けつつ、めげずに俺は『庭付き一戸建て』の願いを押し通した。  
 悪いがこれは譲れないね。家の中でまでやかましいのに追いかけられるのは敵わない  
からな、逃げ場所が必要ってもんだ……と、それはどうでもいい。だいたい、成長する  
もしないも、こんなところで判断されるのは非常に困る。そもそも古泉と朝比奈さんは  
一言一句去年と同じ気がするんだが。  
「あの二人はいいのよ」  
 どうして俺はダメなんだ。  
「もうちょっとしっかりしてくれないと困るのよ!」  
 だからどうしてお前が困る。ああ分かった睨むな、来年はもっと違ったこと考えて  
おいてやるよ。  
「その言葉、忘れるんじゃないわよ! まったく、有希を見習いなさい」  
 言われて見やった長門の短冊に書かれていたのは、『自律行動』という意味深と  
いえば意味深な単語。成長したと言うんだろうか、こういう場合。  
 
「それじゃ、みんなちゃんと願いも書けたし、今日はこれで解散ね!」  
 日が傾いた頃、そんな宣言を残し、意気揚々とハルヒは引き上げていった。去年  
見せたあのメランコリックな空気はかけらも感じられず、俺は逆に不安になったり  
もしたのだが、  
「この一年、いろいろありましたからね。涼宮さんにとっても、四年前のあの日だけが  
 特別なわけではない、そう思えるようになったんでしょう。心配要りませんよ」  
 帰り際の古泉にそんなことを言われて、そういうものかと思うことにした。そう、  
なにも一から十まであいつの悩みごとを俺たちが引き受ける必要はない。いざとなれば  
走り回りもするが、大概のことならハルヒだって自分の面倒くらいは自分でみられるはずだ。  
その『大概のこと』の枠をいささかはみ出した出来事が多いのは……まあ仕方ない。  
「私も失礼しますね」  
 次に席を立ったのは朝比奈さんだ。お疲れさまでしたと頭を下げた俺の手元に、  
『今年は私からのお願いはありませんから』  
 そんな短冊を滑り込ませて出ていった。最近、こういうところで芸が細かくなってきた  
気がする。あの朝比奈さん(大)に少しずつ近づいている、ということだろうか。俺と  
しては、朝比奈さん(小)は朝比奈さん(小)のままでいてほしいのだが。  
 
「長門、そろそろ帰ろうぜ」  
 いつまでも益体もないことばかり考えていても仕方がない、部室の本来の主である  
ところの長門に声をかけ、俺も腰を上げる。合鍵という名の自分専用鍵をいつのまにか  
こしらえていたハルヒと違い、ここのマスターキーを管理しているのは文芸部員の  
長門になるので、先に帰れとは言えない。別に俺が先に帰る分には問題はないのだが、  
どうもこいつを一人置いていく気がしない。このまま明日までページを繰り続けるんじゃ  
ないか、そんな不安を笑えるというやつはどうぞ笑ってくれ。俺はあまり笑えない。  
 ――と。  
「朝倉涼子は」  
「何?」  
 不意に飛び出したその言葉に、思わず聞き返してしまった。朝倉?  
「彼女はとても優秀だった」  
 そう言った長門の視線は、夕焼けに染まる空を通り越して彼方に向けられている  
ように見えた。  
「急進派としての彼女の考えは容認出来ない。しかし、自分自身で考えて行動する、  
 その判断は極めて妥当。そして、それを実行するのは非常に困難」  
 どこか饒舌に語る長門。その姿を見て、ああそうかと思う。  
 朝倉のあの一件、俺からすれば出来ればもう二度と遭遇したくない類の出来事でしか  
なかったが、長門から見ればまた違ったように見えていたんだろう。  
 自律行動。  
 長門の願い。  
「私も、そうありたいと思う」  
「そうか」  
 なれるさ、無責任に答えてやりたくなったが、結局俺はそう言った。言葉にする  
必要がないことってのも、ときにはある。そうだよな?  
 
 
 と、まあそんなこんなが昼間の出来事だ。概ね普通の七夕だと言ってもいいんじゃ  
ないかと思える。  
 ……が、七夕といえばやはり忘れてはいけない出来事がある。だから俺は一人  
自転車を走らせている、というわけだ。行き先はもちろん、東中だ。  
 ここで誓って言っておく。  
 別にハルヒが心配だとかそういう話ではない。ただ単に、あいつが今年もそこに  
現れるかどうか、それを確かめたいだけだ。当然、また妙なことでもしでかしそうな  
気配があれば、適当な理由をでっち上げて全力で阻止するが、そうでなければ声を  
かけるつもりもない。見つかる前にとっとと逃げ帰る予定だ。大体、声をかけて  
何の話をする? 自分がジョン・スミスだと名乗ってみるか? バカバカしい、そんな  
ことをした日には、それこそ何が起きるか分かったもんじゃ――  
「ん?」  
 そこで、思いがけない人の姿が目に入り、俺は自転車のブレーキを握りしめていた。  
小さな公園の中、街灯の下できこきことブランコを小さく揺らしているのは。  
「おや、キョンくん。奇遇だねっ」  
 苦笑……じゃない、どこか疲れた笑顔で鶴屋さんが片手を上げた。  
 
 
「ん、ちょっとばかし考えごとっさね」  
 どうしたんですかという俺の言葉に、鶴屋さんはそう答えた。  
 ちなみに、先のあまりに彼女らしくない笑顔を見た時点で、俺の中での優先順位は  
鶴屋さんが第一位だ。ハルヒの方が気にならないと言ったら嘘になるが、そっちは  
何かあったとしても、古泉辺りがそれこそ『飛んで』来てくれるに違いないからな。  
「キョンくんこそどうかしたのかい? なんだか急いでたみたいだけど」  
 大したことじゃありませんよ。ただの食後の腹ごなしです。  
「そっか。でも引き留めちゃったみたいで悪かったねっ!」  
 そんなことありませんよ、その返事を最後に会話が途切れた。鶴屋さんと会話が  
続かないなんて、それだけで前代未聞の事件じゃないだろうか。かといって、必要  
以上に踏み込まない、がスタンスの彼女に対して、果たして俺はどうするべきなのか。  
 嫌な沈黙が流れる。それが数秒だったのか、それとも数分だったのか。  
「うちの方でさ、ちょいといろいろ、ね」  
 静寂を破ったのは、鶴屋さんの呟きだった。いろいろ、という言葉の説明はない。  
ただそれだけを口にして、彼女はやがて空を見上げた。  
 
「七夕、か。あの星に願ったら、願いは叶うっかね。キョンくんはどう思うさ」  
 さあ、どう答えるべきか。  
 正直迷った。鶴屋さんの家の事情、そんなものこれっぽっちも知りやしない。俺が  
知ってる鶴屋さん情報といえば、ばかでっかい屋敷に住んでいること、古泉経由の  
本当か嘘か分からないその肩書き、その程度だ。  
 その程度しか知らない俺が、答えていいのか。  
 迷った。  
 迷って。  
「叶いますよ。鶴屋さんの願いですから」  
 そう答えた。  
 少なくとも、俺の知ってる鶴屋さんは――何も聞かずに朝比奈さんをかくまって  
くれる人で、とんでもなくバイタリティにあふれた人で、それでもっていつだって  
笑顔を絶やさない素晴らしい人なのだ。夜の公園で一人、溜息ついてブランコこいでる  
人では断じてない。  
 すべては俺の思いこみかもしれない。本当の鶴屋さんは、夜の公園で一人、溜息  
ついてブランコこいでる人なのかもしれない。だが、俺はそんな鶴屋さんは知らない。  
だから、俺は俺がそうあってほしいと思う鶴屋さんに対して告げる。  
「ハルヒのやつに言わせれば、願いが叶うのに十六年だかかかるみたいですけどね、  
 鶴屋さんが願うんなら今すぐにだって叶いますよ。ええ、きっと」  
 なんの根拠もなく、勢いのまま言った俺は。  
「だから元気出してください。何かうまいもんでも食いに行きましょう。おごりますよ」  
 最後にそう締めくくった。我ながら訳が分からない。出来るなら朝比奈さんにでも  
頼んで、もうちょっとうまくやり直せるよう過去の自分に説教したい気分だ。  
 
 が。  
「……っく、くくっ、は、ははっ、あはははっ!」  
 ぽかんとした顔――これもレアだ。お見せできないのが非常に悔やまれる――を  
していた鶴屋さんが、やがて腹を抱えて笑い出した。  
「いや、うん、やっぱりキョンくんはキョンくんだねっ! 悪い意味じゃないよっ!」  
 涙目になるまで笑い転げてから、ありがとっ、と鶴屋さんは握手を求めてきた。  
「でもさっ、あそこで抱きしめたりしないのがキョンくんだよねっ!」  
 そういうことを言わないでください。  
 やけに力強い握手に、ぶんぶんと腕を振り回されながら答える。そんな大それた  
ことして、鶴屋さんに嫌われたら困りますから。  
「そっかい? あたしだってそうされたらけっこう嬉しいかもにょろよっ?」  
 冗談ですよね。  
「さあどっかなっ? ああ、でもキョンくんってばもてもてだからねっ、そこに  
 割り込むのはあたしもちょっと怖いかなっ!」  
 もてもて? 誰にですか。  
「んー、例えばさ、宇宙人とか未来人とか超能力者とかっ」  
 思いっきり脱力したくなる答だった。  
 あのですね、宇宙人だの未来人だの超能力者だのがいたとしても、そんな身近に  
ごろごろしてるものじゃないですよ、普通。  
「うんっ、普通はそうだねっ!」  
 いや、笑顔で返されると……ああ、もう百歩譲ってそういうことがあったとしても  
ですよ、超能力者に好かれてるのだけは勘弁してください。  
「どうしてにょろ?」  
 どうしてもです。まあ、超能力者の親玉になら全然構わないですが。  
「親玉?」  
 いえ、こっちの話です。それよりほら、行きま……  
「うん? どしたいっ?」  
 ……すみません。財布なんて持ってきてないんでした。  
 情けないにもほどがあるその一言に、再び笑い出す鶴屋さん。涙さえ流して笑うその姿に、  
俺までつられておかしくなってくる。  
「気持ちだけありがたく受け取っておくっさねっ! ホントありがとっ、キョンくん!」  
 二人して笑い続け、しまいには呼吸まで苦しくなってきて思わず空を仰げば、何光年  
だかの距離を飛び越えて、天の川がうっすら見える。彦星と織姫はどの辺になるんだっけか、  
ちゃんと調べておけばよかったぜ。願いたい時に限って、まったく、やれやれだ。  
 代わりに明日、部室でこっそり短冊を追加しておこうと思う。  
 
『笑顔でいてくれますように』  
 
 誰がともいつとも書くつもりはない。なるべく超特急で叶えてほしい願いだからな、  
余計なことなんて書かないのさ。だから頼むぜ、神様でも宇宙人でも未来人でも超能力者  
でもいい、庭付き一戸建てなんざくれてやる、この願いだけは、必ず――  
 

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