「好き」  
 
はっきり言って、俺は恋愛の経験もスキルもレベル1の、まぁ標準的な高校生男子なので、  
いきなりそんなことを言われて、まったく動揺しないでいられるわけがない。  
思わず目を限界まで見開いてしまったし、「ひっく」とかついしゃっくりのような情けない声を上げて息を詰まらせたし、  
ぐびりとかつてない大きな音を立てて生つばを飲み込んでしまった。  
じわりと汗がにじんだのがわかった。今日はどちらかというと涼しいと言える気候だが、俺の身体は緊張し、  
わきの下やらひざの裏やら背中やらに衣服が貼り付いている感じがするので、多分汗をかいているのだろう。  
 
「好き」  
 
俺があまりにも反応を返せずにいるので、聞こえなかったとでも思ったか、もう一度その言葉をそいつはつぶやいた。  
鈴の音のような細い声。夕日を背に立っているそいつの、アスファルトに伸びる影は長い。……と思う。  
何故わからないかと言うと、俺はそいつに対面してるし、影の長さを確認するには背後を向かなければならない程度の距離に居るからな。  
雲の少ない空は橙と藍とその中間のグラデーションで覆われていて、ところどころに星が見えてきていた。  
小学生の集団が喚きあっている。車のクラクション。自転車のベル。  
そんな遠くの雑音がはっきりと聞こえるほど俺とそいつの周りは静かで、人の気配もしない。  
 
「……好き」  
 
三度目。少し不安そうに顔を歪めた。やめろ、お前のそんな顔は見たくない。  
先ほど俺の経験が足りないから動揺してるとか言ったが、あれは嘘だ。  
といっても、実は動揺してないって意味じゃないぜ。その証拠にほら、俺の心臓はどくんどくんと激しい音を立ててるし、  
呼吸も困難になってきた。心臓を掻き毟りたくなるような不安にも襲われている。  
 
俺が動揺している原因は、まぁこいつを知ってる奴なら、問題なくわかるよな?  
 
「で、今度は何が原因でエラーが溜まったんだ? 長門」  
 
長門は何も言わず、たった1歩に満たない距離を気が遠くなるような時間をかけて埋め、正面からそっと俺に寄りかかった。  
 
「……っと、おい」  
「…………エラーでは、ない」  
「なに? それはどういう……」  
 
俺が手をどうしようかと宙をさまよわせていると、不思議なことに手が勝手に長門の両肩を掴み、  
長門は珍しいことにびくんと身体をふるわせ、俺を見上げた。  
 
(なんだ、これは)  
 
長門は頬を染めて、瞳を潤ませていた。(ありえない)  
 
俺と長門の距離が短くなっていく。(やめろ)(何で)(何でも糞もあるか)  
 
長門が目を閉じた。(やめろってば。おい、やめろ!)  
 
湿った感覚が唇に伝わった。  
 
 
世界が補色反転した。  
俺はジェットコースター酔いを何十倍にも激しくしたような不快感に襲われ、立っていられなくなった。  
 
アスファルトに身体がぶつかったが、衝撃は無かった。ぐるりと回転した視界の隅に、走り去る人影が見えた。  
 
アスファルトが泥のようになり、俺の身体はゆっくりと沈んでいく。身体が痺れて動かない。  
空はマーブル色になっていた。電柱は鉛筆の端を持ってぐにゃぐにゃさせたようにひん曲がり、  
地面は盛り上がり、抉られ、塀はぺらぺらの紙のようになり、その全てが奇怪な色に変貌していた。  
住宅街の様子は妹の作った粘土細工のようになっていった。唯一動かせる視線で長門の姿を探すと、  
長門はいつもの無表情に戻っているものの、いつかの山荘での一件のときのように横倒しになり、  
俺と同様ずぶずぶと地面に沈んでいった。  
 
 
 
……………………。  
…………。  
……。  
…。  
 
 
 
その日は珍しくハルヒは病欠していた。といっても、俺はそこまで不思議に思わなかった。  
授業中の教室の中を見渡すと、ちらほらと人の海に穴が見える。  
風邪が流行っているらしいな。  
 
「キョンはバカだからなー。関係ないんだろうよ」  
 
昼休み、マスクの隙間から牛乳をちゅーちゅー吸ってる谷口がそう言った。  
お前にだけは言われたくないと思ったが、事実俺は健康体そのものだし、  
谷口は風邪をひいているので、特に反論もせず黙っておいた。  
 
「さすがの涼宮さんも病気には勝てないか」  
「まぁ昨日とか教室の中ひどかったからな」  
 
国木田と二人で空の机を見やった。谷口は菓子パンをむしゃむしゃ食っている。  
昨日は比較的このクラスは出席率が高かったが、その分教室内に蔓延する病原体の数は  
今日の3倍から4倍といったところだっただろうか。無理して来るくらいなら最初から休めよと思った。  
 
「学級閉鎖とかってあるのかな」  
「さぁ……」  
 
インフルエンザならまだしも、風邪で学級閉鎖ってあるのか。  
 
「何人休んだら閉鎖とか決まってるんじゃないか」  
 
谷口が鼻をずるずるとすすっている。俺は教室を見渡しながら、学級閉鎖も遠くはないなと思った。  
 
 
文芸部室に行くと、長門がいつも通り読書をしていた。なんとなく安心する。  
 
(まぁ、こいつが風邪を引くとは考えられないが)  
 
はー、と息をつきながらいつもの席に腰を下ろす。  
無言。  
なんとなく身体がだるかった。俺も風邪をひいたのかも知れない。  
 
しばらく机にぐったりと突っ伏していると、こんこんと控えめなノックがされた。  
 
そこに現れた朝比奈さんは、見てるほうが可哀想な気分になるほど目をうるませ、顔を紅潮させて、  
顔の小ささの割りに大きなマスクをして、けほけほと咳をしていた。  
 
「……朝比奈さん、帰ったほうがいいですよ」  
「けほ、え? で、でも……」  
「今日はハルヒも休みですし、大丈夫ですってば。ほらほら」  
「……はい」  
 
若干あっけなく、朝比奈さんは帰っていった。やっぱり本気で辛かったんだな。  
 
それから30秒もしないうちに古泉がやってきた。  
 
「今途中で朝比奈さんに会いましたよ。とてもしんどそうでしたが」  
 
風邪をひいたらしいから帰らせたよ……と言おうとし、古泉の顔を見て俺はつい絶句してしまった。  
 
「……お前も風邪か?」  
 
古泉は土気色というか、青白い顔をしていた。夜道では絶対に会いたくない顔である。  
 
「いえ、……いや、まぁ、今は風邪かもしれません。衰弱したところでクラスメートの風邪をうつされたのかも知れませんね」  
「衰弱?」  
「昨晩、珍しく大規模な閉鎖空間が発生しまして。夜っぴて対処に追われていたもので」  
 
久々にその単語を聞いたぜ。今日はハルヒは病欠しているが。  
 
「悪夢でも見たのでしょうね。体調の悪いときは嫌な夢を見やすいものらしいですから」  
 
古泉は俺の対面、いつもの指定席に座ろうとしていたが、手元と足元が若干怪しかった。  
 
「……お前も帰ったほうが良いんじゃないか」  
「……すいません、実はそう言われるのを少し期待していました」  
 
別に病人に追い討ちを掛けるつもりは無い。良いからさっさと帰って養生しろ。  
 
「申し訳ありません。明日には全快してますので。では」  
 
古泉もふらつきながら帰った。寒気がする。  
たかが風邪と言えど、病気は怖いな。  
 
 
 
その後、しばらく長門と共に黙々と読書に励み、空が赤みはじめた辺りで帰宅することになった。  
 
夕暮れの町並みを横目に、女の子と二人で下校するなんて夢のようなシュチエーションだが、いまいち俺の気分は晴れなかった。  
とはいえ、その不機嫌さをわざわざ顔や態度に出すほど俺は子供ではない。  
長門とのだんまりの下校も慣れたもので、基本沈黙、たまに俺が思いついたことを話しかけてはぽつぽつと長門がそれに答える。  
 
校門を出た頃には同じように部活帰りの生徒達がちらほらと周りに居たが、次第にまばらになり、  
いつのまにか目の届く範囲に居るのは俺と長門の二人だけになっていた。  
 
何度か上りと下りを繰り返し、何度目だったか忘れたが、ある坂を上りきる少し直前、長門が急に立ち止まった。  
俺も足を止める。長門の無表情なその顔を……いや、逆光になっているため、その表情を判別することはできない。  
 
長門が何か言いたそうにしているのを感じ取り、俺は待った。  
 
沈黙。時間にしては20秒もなかったのだろうが、果てしなく長く感じた。  
 
「……あなたに伝えることがある」  
 
何だ。  
 
「好き」  
 
 
 
……………………。  
…………。  
……。  
…。  
 
 
 
夢は人間の無意識の中に閉じ込められ抑圧された願望が形を変えてあらわれたもの……という話は誰でも聞いたことがあるだろう。  
ハルヒがその話を知っていたかどうかも、知っていても信じているかどうかも知らん。  
ハルヒがどんな悪夢を見たのかも俺には知りえない。  
願望を叶えてしまうハルヒの能力がどう屈折されてこうなったのかも。  
人の気配が一切しなかったのに、先ほど確かにいた走り去る女が誰だったのかも知らない。  
 
古泉がこの場にいればいかにもそれらしく説明してくれそうなんだがな。奴は今頃家で寝てるのだろう。  
 
長門はアスファルトの中に沈んでしまい、もう見えなくなっていた。俺ももう頭の半分を残して沈んでしまうところだ。  
 
世界が再構成されても、この記憶は持ち帰りたくないな。  
と思ったところで、俺の意識はぷっつりと途絶えた。  
 
 
 
……………………。  
…………。  
……。  
…。  
 
 
 
「よう、ハルヒ。今日も元気そうだな」  
「あたしが風邪なんかひくわけないでしょ。悪いけど、夢見が悪くて少しイライラしてんのっ。話しかけないで」  
 
俺は窓の外を見た。快晴。  
世界は今日も平和だ。  
 

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