古泉主催の推理劇、年越しのソバに全員揃っての新年の挨拶、にぎやかな騒ぎのうちに大晦日の行事は滞りなく終了し、  
多丸(兄)氏の提案で、うつらうつらし始めた朝比奈さんが本格的に船を漕ぎ出す前にお開きということになった。  
それ以外の面子も、程度の差こそあれ眠そうだったしな。  
 朝比奈さんは鶴屋さんや妹と連れ立って一足先に部屋に戻り、古泉も意味ありげな含み笑いをチェシャ猫のように残して退場し、  
長門はいつの間にかいなくなっていた。  
 気がつけば、眠い目をこすりながら周囲にひと気がないのに驚いている俺と、  
何故かまだその辺をうろうろしていたハルヒのふたりだけで廊下を歩いていた。  
 鶴屋家のペンションは、睡魔に頭を占領されつつある俺には道に迷うほど広く感じられた。  
深夜になっても依然元気なハルヒに先導されていなければ途中で遭難していたかもしれんな。  
全館暖房では凍死はおろか風邪だってひかないかもしれないが。  
 孫娘に手を引かれる夜行癖のある老人のように、ハルヒに手首を握られて延々引きずられていた俺は、  
昨日の雪山遭難の疲れがまるで残ってないらしいハルヒの後姿に不覚にも感心しそうになったが、すぐに思い直した。  
 目蓋が店じまいしかけてた朝比奈さんは言うに及ばず、古泉の笑顔もいつもの嘘くささを表現し切れて  
いない気がしたし、長門が食欲を回復させていたのにはほっとしたがそれでもまだ完全に復調したとは言え  
なかったように思う。全員、昨日の一件がそれなりに堪えているんだ。  
 それは俺も例外ではなくて、少し気を抜くと廊下の壁と正面衝突しそうになる。ハルヒは概ね蚊帳の外にいたからその分疲れも少ないんだろうさ。  
当人はアレを集団幻覚だったと思ってるわけだしな。  
 「着いたわよ!キョン!起きなさい!」  
 いきなり耳もとで聴き慣れた騒音。俺は頭をふらつかせながら抗議する。  
 おい、眠りこけた乗客を起こすときはもう少し気を使うもんだぞ。  
 「新年早々世話かけた上に馬鹿な冗談言わないでよね。夢見が悪くなるわ!初夢がつまらない内容だったら罰ゲームにあんたを――」  
 俺は早々に降参した。  
 すまなかった、悪かった、だから…寝かせてくれ。  
 「ふん。まあいいわ。この続きは明日の朝ね」  
 ああ。いいとも。だから。  
 「わかったわよ!言っとくけど、あたしだって眠いんだからね。もう寝るわ」  
 うん。それじゃあ。  
 「おやすみ、キョン」  
 おやすみ。  
 ハルヒは部屋に引っ込みかけてから、すぐにドアの陰から顔だけ突き出した。  
 「あと、キョン。もしもこういう状況で煩悩まみれの男がいかにもやりそうなことをしたら、どうなるか――」  
 勢いよくまくしたてて、そこで変な顔をした。あたし前にも同じこと言ったっけ?みたいな表情だ。  
 御名答。  
 「――じゃあ、とにかく、そういうことだからね!」  
 ハルヒはよくわからないまとめ方をしてバタンとドアを閉めた。  
 さて。  
 ぼんやりと突っ立ったまま、俺は“煩悩まみれの男”がこの状況でしそうなことを幾つか想像してみた。  
風呂覗きじゃないことはわかるが。なんだろうね。  
 シャミセンがどこからともなく現われ、俺の足に身体をこすりつけた。  
 その頭をひと撫でし、ついでにあくびを一つしてから、俺は愛しい仮の宿のドアノブを回した。  
   
 眠りについて多分それほど経たない頃に、俺は目を覚ました。  
   
 頭が少し熱かった。  
 風邪をひいたかな、とおぼろな意識の中で考えて、それからすぐ目の前至近距離の暗闇に浮かぶ影に  
気付いて思わず声を上げそうになった。  
 なんだ。シャミか?あの三毛猫が飼い主様の顔の上に寝そべっていやがるのか?  
 だが三毛猫は宙に浮いたりはしないだろう。ふざけた紳士口調で喋っていたあの当時ならいざしらず、今  
や性別以外は正真正銘の凡猫と化したあいつに、そんな魔法が使えるわけがない。  
 それは俺の額に何か温かいものをのせていた。接触面はすべらかで、別に不快な感触じゃあなかった。  
更に鼻腔をくすぐる石鹸の香り。それだけで、とりあえず危険はなさそうだと安心した俺は寝惚けてたとしか  
言いようがないな。  
 よくよく注意して見れば、誰かが俺の上に身を乗り出しているんだとわかった。誰かさんは俺の額に自分  
の小さな額を合わせていて、そこから体温がつたわっているわけだ。その人の長い髪がふたりの顔の横を紗  
幕を垂らすように流れていた。  
 俺は何故この人がここにいるんだろう、と廻らない頭で考えていた。誰かさん、なんてまどろっこしいな。  
誰だかわからなかったわけじゃないぜ。すぐ目の前に、いつものあの楽しそうな瞳があるんだからな。  
 至近距離で俺を観察する大きな瞳。  
 その人は、いつもとは明らかに違ったトーンの声で、囁いた。  
 「おはよう……キョンくん」  
 状況を把握しかねて反応が少し遅れたが、それでもどうにか早過ぎる朝の挨拶を返す。  
 「……おはようございます、鶴屋さん」  
   
 鶴屋さんは俺のベッドに手をかけて上体を支えながら、覗き込んでいた。  
 俺が身じろぎすると、鶴屋さんはくるっと身を翻させて、窓の近くに移動した。  
 白いネグリジェの裾がマントのように足もとでふわりと浮き上がる。  
 俺は混乱したまま、寝ぼけまなこを向け、  
 「……ええっと、鶴屋さん……ですよね?俺、寝ぼけてるわけじゃないですよね?」  
 鶴屋さんはいつもよりも抑えた笑い声で、窓がまちに後ろ手に寄りかかり、  
 「寝ぼけてないよっ。だって、キョン君はまだ起きてないんだもの。これは夢だからねっ」  
 意表を衝かれて、俺は重ねて惚けた質問をする。  
 「ああ、っと。これは、ハルヒのあれですか、ドッキリカメラ的な企画っすか?」  
 鶴屋さんはおかしそうに首を振る。  
 「……じゃあ、古泉の劇の続き?」  
 首を振る。カーテンの隙間から差し込む月の光が、波打つ鶴屋さんの黒髪を輝かせ、肩からカーディガン  
をひっかけた就寝前の姿が闇の中にくっきりと描き出される。俺は感じるはずのない眩しさに目を細めた。  
 「違うよっ。ハルにゃんも古泉くんも今頃はぐっすり夢の中さっ。もちろん、長門ちゃんもみくるもねっ」  
 鶴屋さんは俺に背を向けると、音をたてずにカーテンの端を持ち上げた。  
 「それにね、キョンくんが今いるのも夢の中なんだよっ」  
 窓の向こうには静かな暗闇と月明かり。風が吹いたのか杉の木立ちが揺れ、帽子のようにかぶっていた  
雪が音もなくすべり落ちた。  
 窓際にたたずむ鶴屋さんの笑顔だけが生きているものの全てのような、奇妙な静寂。  
 「夢、ですか」  
 ……真夜中に部屋に忍び込んできた年上の友人が意味不明な発言をするのは、確かに夢の中の話  
みたいですが。  
 ハルヒその他絡みでないなら、これは鶴屋さん個人の新年初ジョークか。ハルヒに酷評された俺が言うの  
もなんですが、いささか観客を置き去りにしている観が。  
 まあ、初夢の登場人物が鶴屋さんってのはそう悪くないな。朝比奈さんが一緒ならなお良かったが。どう  
せならメイド服で。ああ、ついでに長門やハルヒがいたって悪くないさ。どうしてもってんなら、古泉もな。  
 俺がいよいよ寝惚けたような事を空想していると、よく通る明るい声が、いつもより幾分控えめな音量で、  
 「おいでませっ。初夢特別ツアー、あたしの秘密の屋根裏部屋にご招待だよっ」  
 鶴屋さんはすっと近寄り、困惑している俺の手をとった。俺は強引な先輩の細い腕に引っ張られるまま  
に立ち上がった。振り払う理由もなかったんでね。  
 「……屋根裏、部屋」  
 ご幼少のみぎりに鶴屋さんが過ごされたという、あれか。  
 俺は寝巻きのまま、にこにこ顔の夢の精に連れられて、戸惑いながら歩き出す。  
 これはあれか、また何かおかしなことが起きているのか?  
 ハルヒがわけのわからん理由で鶴屋さんを俺の部屋に連れてきた?それともここにいる鶴屋さんは幻の  
館に出現した長門作成の朝比奈さんと同じく誰かがこしらえた偽者とか?  
 それならもう少し、視覚的サービスがありそうではあるが。  
 大人っぽく微笑む鶴屋さんは上等そうな生地のネグリジェの上から藤色のカーディガンを羽織っている。そ  
の姿は昼間の鶴屋さんの印象からは想像できないほど、よく似合っていた。偽朝比奈さんのように男の妄  
想を具現化したしたような扇情的な姿でこそなかったけれど、視線を引きつけられずにはいられなかった。  
 こうして静かな横顔を見ているとそれこそ深窓の令嬢か何かに思えてくる。  
 基本的に育ちのいい人なんだよな。俺もいつもは忘れているが。  
   
 だから、と言えばいかにも現金だが。  
 適当にスルーして寝よう、と数秒前までぼんやり無難な断りの言葉を練っていたのに、俺の寝惚け頭は  
突然考えを変えた。  
 どういう冗談かはわからないが、付き合うのもいいかもな、と。  
 美人の先輩から深夜の散歩に誘われてるんだ。健康な高校一年男子としては、ありがたくお受けする  
場面じゃないか。  
 ――と、いうような調子のいい思考にはいつもオマケのように……いや、かじりつくようにしてくっついてくる  
隣の部屋にいるうるさいやつの顔が例によってふと浮かんだが、任務未完了の責任を感じたのかヒュプノス  
が華麗な手さばきで俺のかすんだ頭からアヒル口のイメージをかき消してくれた。  
 俺は何故か言い訳するように呟く。  
 たまにはいいだろ、こういうのもさ。  
   
 廊下は暗かった。鶴屋さんはロウソクを簡易な燭台らしい金色の小皿の上で灯すと、柄の部分を持って  
前方を照らしながら進んだ。  
 「夢の中だからねっ。ファンタジックなほうがいいっさ」  
 並んで歩く俺を見上げながら、ケラリと笑う。  
 それから思い出したように唇に人差し指をあてると、  
 「しーっ」  
 俺は何も言ってないじゃないですか。  
 薄ぼんやりした明かりをサイズの小さい人だまみたいに泳がせながら、鶴屋さんは弾むような足取りですたすた歩く。  
 RPGの地下迷宮でもあるまいし、いくら広いといってもたかが知れているはずなのに、俺はふたりでどこを  
どう歩いたのかすぐにわからなくなった。はぐれて置き去りにされたら困るだろうな。  
 だが鶴屋さんのしっかりした歩みに迷いはなかったので、俺は安心して任せ切っていた。  
 ファンタジック、と言っても時計を持った慌て者のウサギを追いかけた少女みたいな目には遭わんだろうしな。例えこれが本当に夢の中だとしても、  
先を行くのは鶴屋さんなんだからな、どんな不条理も笑い飛ばしてくれるだろうさ。  
 などとつらつら考えている俺の頭もずいぶんとファンタジー向きにあったまってきたみたいだ。  
 案内されるままに上がったり下りたり。幾つ目の角を曲がったときかな。鶴屋さんの歩調が緩くなりどうや  
ら目的地に近づいたらしいとわかった。  
 廊下の突き当たりにあった、少し傾斜の急な階段をのぼる。  
 足をのせた段が軽くきしむ。鶴屋さんが振り返る。  
 「この別荘は建てた後で色々足したり引いたりして大きくしたんだけど、ここは一番初めの頃からあるんさっ。だからちょっとボロなんだっ」  
 階段を上りきると、ロウソクの火のゆらめきが、古い樫の扉を照らし出した。  
 鶴屋さんは白いネグリジェの首もとから手を入れ、首から下げていたらしい細い紐を引き出した。  
 俺にロウソクの小皿を持たせて、器用に髪をまとめ紐を頭からくぐらせる。そしてその先で鈍く光る銀色の  
鍵を大切そうに握り、慎重に扉の鍵穴に差し込んだ。   
 鍵は抵抗なく回った。  
 鶴屋さんは珍しく少し緊張しているように見えたけれど、開錠時のかちりという音に全身の力を抜いた。  
 「あたしがこの部屋に入るのは、もう何年ぶりかわかんないんだよっ。だから鍵が開かないかもなあなんて  
思ってたんだけどっ。当たり前だけど誰かが油さしたり掃除したりしてたみたいだねっ」  
 珍しいものその二。鶴屋さんは苦笑していた。自分の心配ぶりを笑っていた。こんな顔もするのか――と  
意外に思うのは失礼なんだろうな。ところでここは夢の中なのでは。  
 扉は僅かに金具をきしませながら開き、部屋に久々の訪問者を迎え入れた。  
 部屋の中は片付いていた。一目で見渡せる六畳ほどの縦に長い間取りに、木製の簡素なベッド、丸テーブル、それにあわせた椅子、  
部屋の隅に寄せられたタンス、本棚、両開きの窓、脇に寄せてまとめられたカーテン、全てがあつらえたように小作りだった。  
 多分これはみんな幼い頃の鶴屋さん用に作られた特注品なんだろうな。  
 「懐かしいなあっ」  
 鶴屋さんは部屋の真ん中で楽しそうにぐるりを見回す。  
 俺は部屋を満たす月光の中で踊るその影に追われるように、ベッドに腰を下ろした。  
 漆喰壁に背をもたせかけ、その拍子に眠りの粉が舞い上がりでもしたのか、俺はこのまま横になりたくなる。  
 目を覚ませとばかりに、冷気が色のない煙のように足もとを這った。  
 「キョンくん、寝ちゃ駄目だよ。これからがいーとこなんだからっ」  
 窓際に佇む鶴屋さんの柔らかい微笑みが、俺に向けられる。  
 「ほらっこっから観てごらんっ!」  
 鶴屋さんがはしゃいだような声で俺を呼ぶ。ここなら声を抑える必要がないんだろうな。  
 ……わかりました。仰せのままに。  
 俺はよたよたと、外の冷たい空気に近づく。  
 窓は外向きに開かれていた。俺は窓枠に腕を置き、促されるままに視線を夜の闇に飛ばした。  
 小さく、息を呑んだ。  
 覚醒するのに時間はあまりかからなかった。  
 風景が五感を心地よく刺激し、おれはゆっくりと目を見開いた。  
   
 雪原が、視界の限りをパノラマ状に広がっていた。地平線の彼方は闇と溶けあって視認できないが、目  
に見える範囲は全てが白い無音の世界だった。  
 暗幕のような空に滲んだような色の月だけが控えめに飾られている。  
 通り過ぎるのは雲の影だけだ。  
 静かな、真夜中の王国。  
 幼い鶴屋さんは、この光景を怖がらなかったのだろうか。  
 
 俺は隣にいる鶴屋さんに目を向ける。  
 大きな瞳が俺を見返す。鶴屋さんはさっきから、俺を見つめていたらしい、と俺は気付く。  
 「きれいでしょっ。ここはあたしのお気に入りの場所だったんだっ。ここからの景色は死んだじーさんとあたし  
だけのものさっ。みくるにも見せてないんだよっ」      
 「……凄いですね。雪の上に何もないだけで、こんなに迫力があるなんて」  
 鶴屋さんは嬉しそうに笑い、頬をうっすらと赤く染めた。  
 寒いんだろうか。  
 見つめあったまま、俺にはえらく長く感じられた静かな数秒が過ぎた。  
 このご招待の意味をようやく動き始めた脳内で改めて検証しなおしながら、俺はなんとなく目をそらそうとする。  
 俺は本当に、これが冗談だと思ってついてきたんだろうか。  
 それを制止するように、鶴屋さんが言った。  
 「キョンくんは、ハルにゃんのことが好きなんだよね?」  
 整った、意志の強そうな面差しが、いつもの陽気な鶴屋さんとは違った顔をおれに向けていた。  
 天使の団体さんが頭上を踊りながら通過するだけの間を置いてから、ようやく俺は答えた。  
 「……まさか」  
 「じゃあ、みくるのことは好き?長門ちゃんは?」  
 鶴屋さんは間髪入れずに畳み掛けた。ふたりの顔が脳裏に浮かび、反射的に答えそうになるが、不鮮明な感情が即答させない。  
少し躊躇ってから、俺は最早お馴染みの台詞を口にする。  
 「……長門はそういう事の対象外です。朝比奈さんを嫌う人間なんてこの世にいませんよ」  
 ふうん、と俺の予想通りの反応を受け流すかのような熱意のなさで鶴屋さんはつぶやき、  
それから、なんとなく投げやりな調子で訊いた。   
 「それじゃあさ、あたしのことは好き?」  
 …………  
 …………  
 まあな、度肝を抜かれたってことはなかったさ。こういう手順を踏むなら、もしかしたらこんなこともあるかもな、  
とか心のどこかで想像してなかったわけじゃない。  
 でもそれはあくまで高坊的な妄想で、現実に起こることじゃないはずなんだ。  
 大体、あの鶴屋さんが、なんで好き好んで俺なんぞにこんな――  
 そう思っていたんだがな。  
 絶句する俺の返事を真面目な顔で待つ鶴屋さん。  
 しかし俺が混乱したままでいるのを見抜いたのか、こちらの態勢が整う前に二弾目を射出した。  
 「……あたしは、キョンくんのことが好きだよ」  
 続けざまに鶴屋軍の爆撃。逃げ惑う俺の脳内軍隊。  
 「キョンくんのこといっつも見てたんだよ。気付かなかったでしょ?」  
 あくまで真剣な鶴屋さんの表情に、俺はもう一度言葉を失う。  
 ……そんな素振り、ありましたっけ?全然気付きませんでした。  
 「……すみません」  
 俺は台詞のチョイスを間違えたらしかった。鶴屋さんの表情に翳が生まれる。  
 初めの勢いを失いながら、それでもためらいを押し切るように、鶴屋さんはいった。  
 「キョンくん、もし良かったらさ、あたしとつきあってくれないかな?」  
 これが冗談なら鶴屋さんは名女優だ。相手役が大根なのが惜しまれるね。  
 焦りながら、俺は心の中で馬鹿な台詞を量産する。これ以上口に出さないだけの分別はある――筈だが。  
 「……キョンくん?」  
 俺の返答を恐れるように、鶴屋さんは顔を伏せた。  
 どう続ければいいのか困っているようにも見えた。  
 草野球で豪快にバットを振ったり、鍋をハルヒや長門と競うようにして食べたり、ケラケラはしゃぎながら雪  
だるまをつくったりしていた時とはまるで違う、かぼそく、力ないシルエット。  
 耳のなかで心臓の音がうるさいくらい響く。  
 ……冗談じゃ、無いんですよね?  
 言葉の返しようが無い。鶴屋さんの事をどう思っているかと言えば、それは。  
   
 俺は息を深く吸う。一息で言い切らないと、途中でくじけそうだったんでね。  
 「鶴屋さんは滅茶苦茶魅力的です。憧れてる男子もたくさんいますよ。俺も鶴屋さんのことを先輩として好きですし、尊敬しています。  
俺なんかが先輩に好意をもってもらえて、うれしくて今、心臓がバクバクいってますよ。でも」  
 思いに反して俺の言葉はそこらじゅうでかすれたり弱まったりしながらたどたどしく続いた。  
 「…俺は、鶴屋さんとは、つきあうとか、そういう関係で考えたことがなくて、だから、あの」  
 結局ここへ戻るのか。  
 「……すみません」  
 いい終えてから、ふと思う。突然部屋の明かりがついて、カメラを構えた古泉、監督兼脚本兼演出のハルヒ、無理やり計画に引き込まれた何故かバニーの朝比奈さん、  
手持ち無沙汰で本でも読んでた長門、なんていう仕掛け人たちが、そのあたりの隠し戸から今にも現れるんじゃないか、とか。  
 こんなことがあるものだろうか。  
 昨日の昼にも一度、朝比奈さんの相談相手を頼まれたと思うんだが、あれは別に抵抗なかったのか?  
 くるくると思いが空転し、摩擦熱で脳が焼け付きかけたあたりで、鶴屋さんの様子がおかしい事に気付いた。  
 鶴屋さんは顔を伏せたまま、何かを堪えるかのように肩をかすかに震わせていた。  
 すっかり雰囲気に呑まれてしまっている俺はひどく慌てる。  
 泣いて――いるんですか?  
 俺が泣かせた?鶴屋さんを?いや、そんな事が――  
 「……鶴屋さん?」  
   
 ……ぷは、ハ、ハハハハハハハ  
   
 間抜けに立ちつくす俺の耳に、主演女優のこらえかねたような笑い声が届いた。  
 鶴屋さんは大笑いしながらのけぞってから、身体を折り真っ赤な顔をして腹を抱えている。  
 「…………」  
 ……やれやれ。  
 ……ああ、やれやれだ。  
 三点リーダをあと10行分は続けたいね。  
 やっぱりかよ。  
 観客に妹がいなけりゃ御の字だな。ああDVDがあるか。また今年の学園祭で公開するのかな。せめていい角度で撮ってくれよ古泉。ははは。  
 俺がどれだけ情けない顔をしていたかは知らない。いや、知りたくないから鏡なんていらないが。  
 鶴屋さんは呆然とする俺の前まで爆笑しながらよろよろ近づいてくると、そこでいきなり長身をすっと伸ばした。  
 きっと爪先で立ったのだろう。俺の腑抜けた面を両の手のひらで挟んで自分のほうへ少しうつむけさせると、丁度唇があわさる高さだったから。  
   
 慌てて逃れようとする俺を押さえ込んで、鶴屋さんの柔らかい唇は角度を変えながら俺の唇をついばむように吸った。  
 「つる――」  
 口を開いた瞬間、言葉は鶴屋さんの舌になめとられた。  
 差し込まれた生温いものが、口内で驚きおののいていた俺の舌をからめとった。  
 何かいやらしげな音が直接頭のなかに響く。  
 腕を下に軽く引かれる。混乱する俺が求められるまま中腰になると、今度は上になった鶴屋さんは更に激しく口の中をさぐりだした。  
 しばらくそうして遊んでから、鶴屋さんは俺を解放した。  
 「……キョンくんは勘違いしてる」  
 俺の目をとても楽しそうに覗き込み、鶴屋さんは言った。  
 「あたしは、きっとキョンくんが思ってるような子じゃないよ」  
 俺は月光が薄ぼんやりと鶴屋さんの白い顔を縁取るのを、魅入られたようにただ見上げている。  
 「だから本当に大好きな相手になら、こんな事だってできる。それにさ……ここは夢の中だって言ったっしょ」  
 鶴屋さんの唇が微笑みのかたちをつくる。  
 けれどそれは今まで俺の知っていた鶴屋さんの、あの底抜けに明るい笑みとはあまりに違っていた。  
 囁き声が、俺の耳朶にとどめのように落ちてくる。  
 「……キョンくんはえっちい夢、嫌い?」  
 「……」  
 ……監督さんよ、このままだと上映許可の下りないような作品になっちまうぞ。  
 俺はどうにも信じ難い状況に馬鹿なつっこみを入れ、冷静に、ちょっと斜めに、つまりいつものように、現状を眺めようとして――  
 とん、と両手で肩を突かれた。  
 俺は中腰のまま後ろに倒れ、絨毯の上に尻餅をつく。  
 その上に、温かくて柔らかなものが、被さった。  
 俺の首に両腕をまわした鶴屋さんの、洗いたてのしっとりした髪が耳をくすぐる。  
 冷たい頬が、俺の頬に寄せられ、  
 「キョンくん、あったかいんだあ。うん、良い匂いだねっ。あたしの好きな、キョンくんの匂いだ……」  
 理性を削りとるシャンプーの香りが、鼻をくすぐる。  
 やばい。  
 「……ま、マズイですよ、鶴屋さん」  
 恐慌をきたした俺の阿呆な台詞を無視して、鶴屋さんは悪戯っぽく続ける。  
 「キョンくんは、いつも夜は誰の夢を見るのかな?やっぱりハルにゃん?」  
 なんで“やっぱり”なんですか。  
 「……あの、そんな、俺」  
 「それともみくるかな。もしかして長門ちゃん?」  
 「……こ、ういうのは、なんつーか、高校生にはまだ」  
 「ああわかった。そうか全員かあ。キョンくんは元気だねー」  
 「……」  
 どうすればいいんだ。  
 酒、飲んでるのか?酔ってるとか?アルコールの匂いはしないが。  
 この、どう考えても次のステップへ移行する事を目的としている体勢は、甚だよろしくない。  
俺の意識が段々と接触面の心持ちよさに溺れかけているとなれば特に。  
   
 「たまには、あたしが出てくる夢を見たいと思わない?」  
 ……勿論大歓迎ですよ。夢なら。俺の呟きが口にされる前に、首に回されたままの鶴屋さんの手が背中で蔦の様にするりするりと這い伸び、  
そろそろ痺れてきた俺の腕を払う。  
 上半身が、のしかかる一人分の重みを支え切れずに、ゆっくりと後ろに倒れていく。  
 絨毯の上で、年上の少女の温かな鼓動が、外気に冷え始めた俺の身体と、重なる。  
 「あたしがさ、キョンくんのどこが好きなのか全部、実地で教えてあげよっか」  
 鶴屋さんは俺を抱き締める。逃げられないくらい強く。  
 「……触ってもいいんだよ、キョンくん」  
 「……まずい……です……よ……」  
 喉が渇く。抵抗すればできる筈だ。  
 「気持ち良いことしよう」  
 「俺……には……」  
   
 「忘れちゃいなよ、今だけさ。少しくらいズルくなったって、ここなら誰も見ていないよ。だって、」  
 
 フラッシュバック。可愛い未来人の先輩。無口な有機アンドロイド。何故か不定期エスパーのニヤケ顔。  
 そして、唇を突き出した、理不尽女王の部長様。  
 
 「ここは、夢の中だから」  
 
 くすくすと鈴の音のような笑い声。  
 どこまでもその冗談は続けるつもりなわけですか。  
 俺の脚の付け根に、彼女の指が当てられる。  
 「本当に素直だなあ、キョンくんは」  
   
 鶴屋さんは、寝巻き代わりのスエットスーツの布地越しに刺激を加える。指の腹で、俺の輪郭をなぞる。  
 「鶴、やさ……」  
   
 だらしなく、俺は爆ぜた。思わず呻き声が漏れる。  
 
 「可愛いなー。このまま食べちゃおうかなあっ」  
 
 俺は無抵抗のまま寝巻きをたくし上げられる。剥き出された胸を鶴屋さんの手のひらが撫でる。  
 なんともな。  
 情けない格好じゃないか。  
 それでも気持ち良いのが、どうにも始末に終えない。  
 「……」  
 鶴屋さんは俺の腰に跨ると、片手は冷気に鳥肌をたてた胸に這わせ、もう片方の手を、まださっきの後始末もしていない、熱を失ったばかりの器官に触れさせる。  
 身体を俺の上半身に添わせるように倒し、スエットスーツのパンツに指を侵入させながら、ミルク皿に顔を伏せる猫のように胸を舐める。  
 的確に与えられ続ける快感に、徐々に腰が引ける。それでも、どうしようもなく硬度は増す。  
 「あは。やっぱり元気だなあ。若いっていいねー」  
 鶴屋さんはゼリーを浴びたようにぬるりとしている俺を掴み、根もとから先端まで、ゆっくりと扱き始める。  
 どうすれば俺が降参するか、知っているみたいに丹念な動作。  
 「つ……る……も、う」  
 「……キスのやりかた、教えてあげようか?」  
 俺のたくましいとは言い難い胸板の柔らかな突起を爪で弄びながら、鶴屋さんは再び、唇で俺を黙らせる。  
 熱が混ざり合い、舌も、口の中の敏感な内壁も、全て撫ぜられ、俺はどんどん馬鹿になる。  
 優しく握り締めてくれている指と指のあわいに、俺はまた吐き出す。  
   
 「可愛い……あーもー、どうしようかなあっ。このまま滅茶苦茶にしたくなっちゃうよ……」   
 ……されてもいいかもしれんな、と思ったさ。正直言えば。でも、意外な事に、自己評価してた点数より幾らか、俺の意志は強かったらしい。  
 両手を使って、それでも加減は忘れずに、俺は鶴屋さんを押しのけた。  
 鶴屋さんは予想外に軽かった。俺の身体の上から、ころん、と横に転がり落ちた。   
 
 俺の視界から外れ、そうして起き上がろうとしないまま、しばらくして静かに呟く声がした。  
 「…………そんなに嫌?」  
 俺は、鶴屋さんがどいて、突然ひどく肌寒くなった事に驚きながら、芸の無い言葉を繰り返す。  
 「……すみません」  
   
 「そっか」  
 彼女は立ち上がり、服の乱れを直すと、俺に背を向けたまま、  
 「ごめんね、馬鹿な事して」  
 なんだろう。明るいのに、それだけではない何かを含んだ声音で、そう謝った。  
 “何か”、か。馬鹿か俺は。  
 
 それから後の事は早回しで進む。俺は沈黙する鶴屋さんの後姿を追いながら、部屋に戻る。  
 シャミセンがうずくまるベッドに、疲れ切った俺は倒れこむ。  
 一夜の経験が、纏まりがつかないまま頭の中で発酵していく。  
 寝ることもできずぼんやりと宙を眺めながら、触れられた場所、感じた温もりを、彼女の浮かべた幾つもの表情とともに思い返す。  
 ふと、結局俺のどこが鶴屋さんの気に入ったんだろうな、と考える。  
 一体、俺は何をしているんだ。  
 俺はシャミを蹴飛ばさないよう気を付けながら立ち上がり、部屋を出た。  
 
 ノックをして、しばらく待つ。もしかしたら起きないかもしれない。それなら部屋に引き返そう、と思う。  
 人の気配が向こう側に近づいてくる。あいつのものでしかあり得ない、少々元気すぎる足音。  
 不審げな顔の涼宮ハルヒが、薄く開かれた扉の隙間から、俺を睨み付けた。  
 「……何?」  
 どう答えれば良いかわからず、俺はそこでようやく、自分が言葉を用意していなかった事に気付く。  
 会いたかった理由。こいつに、今言いたい事。何かあったんじゃないのか、俺?  
 「……ええっと、さ……一緒に、散歩でもしないか?」  
 「……はぁ?」  
 丑三つ時だものな、そりゃまあ普通、怪訝に思うよな。  
 「――いや、悪い、忘れてくれ。起こしてすまなかった。寝てくれ。いい初夢を」  
 「何かあったの、キョン?」  
 良い勘してるよ、まったくさ。  
 「いいや、別に」  
 「ちょっと待ってて」  
 ハルヒはパタパタとスリッパの音をさせながら、部屋の奥に消えた。  
 
 
 俺たちは、ふたりで月明かりの下を歩いた。  
 糖分過多なくらいロマンチックな状況だった筈だが、特に何かがあったわけじゃない。  
 ハルヒは白い息を吐きながら例によってひとりで今年度の計画を喋り倒し、その横で俺は珍しく突っ込み役を休業して、時々は笑い声すらたてながら、素直な聞き手に甘んじていた。  
 楽しかったね、とても。  
 
 翌朝の鶴屋さんは、いつものあの人だった。屈託の無いケラリとした笑み。ハルヒに劣らず元気な姿。  
 夢の中のことは全て忘れたみたいな顔で、普段通りに俺とだって話す。  
 俺も、いつものようにただの後輩として振舞う。先輩への敬意ある態度は忘れない、ちょっとだけ皮肉な観察者として。  
 彼女の顔を真正面から見ることができないまま、合宿は終わり、俺たちは帰途につく。   
 
 新幹線の座席で、俺はまだぐだぐだと考えている。  
 どの段階で拒絶すれば良かったんだろう。  
 深夜に部屋に誘われた時点で、だろうか、やっぱり。  
 俺がもっとしっかりしていれば、彼女を余計に傷つけなくて済んだ筈だ、と考えてみたりもする。  
 だが。  
 断らなかったのは、俺も何かを期待していたからじゃないのか?  
 えろ雑誌的な、『美人の先輩との間に起きる一冬の軽験』――みたいなのとは違う、全然違う、もっと形のはっきりしない理由が……あったような、なかったような。  
 やめとけ、そっち側に思考を持っていくな、と脳内で赤ランプが点る。  
 それでも俺は、取り返しのつかない方向へ一歩、ほとんどそれと意識せずに足を踏み出す。  
   
 「……みくるや妹ちゃんと別れて、ひとりで部屋で寝てたらさ、とても良い夢を見たんだ。どんな夢かは憶えていないんだけれど、あったかくて、ふわふわした、  
羊の背中みたいな、頬ずりしたくなるような夢。目が醒めた後もなんだか気持ち良い気分がつづいてて、ああ、もしかしたら、今なら言えるかもなあって思ってさっ。  
キョンくんに、本当のこと、全部言えるかなあって。そう思いついたら、なんだか居ても立ってもいられなくて。夢のつづきのつもりだったんだね。でも、なんか、  
変なことになっちゃったよ。ごめんね。ごめんね、キョンくん」  
 あの夜、別れ際に、彼女はそんなことを語った。  
 俺はぽかぽかと陽の当たる草原で、白い枕のような羊の背に、深々と顔をうずめて眠る鶴屋さんを想像する。  
 ドアがゆっくりと閉じ、彼女の姿が消える。  
 
   
 俺は新幹線の車窓に映る代わり映えしない風景から、鶴屋さんの座る席に視線を移す。  
 まるでそれを予期していたかのように、彼女は俺の視線を捕らえて、ゆったりと微笑を返す。  
   
 心が波立つ。  
 まずい。  
 そんな風に意識しちゃまずいのに――すっげー可愛いな、とその時俺は考えてしまったのだ。  
   
   
   
 
 <了>  
 

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