「おかえりなさい」
ドアを開けた瞬間に、聞こえる声。
この瞬間が、最近のささやかな楽しみでもある。
まるで俺が帰ってくる瞬間が判っているかのように、こいつはいつも出迎えてくれる。
俺に発信器でもつけてるんじゃないだろうかと思うほどだ。
まあ、仮についてたとしても、可愛いからよしとするがな。
「おう、ただいま」
笑いかけて、その小さな体を抱きしめる。
あの頃からあまり変わっていないように見える姿、不格好に揺れるポニーテール。
我が愛すべき妻、有希。
エプロン姿ってのがポイント高いぞ。新妻って感じが出てる。
縛ってない、下ろしている部分の髪を手櫛で撫でてやる。
有希も嬉しいのか、頬を俺にすり寄せてくる。
他愛のない、ちょっとした戯れ合い。
それだけで、俺の疲れは吹き飛んでしまう。
そんなささやかな幸福感を味わっていたのだが……
「ふぇ〜〜っっっ!!!」
赤ん坊の泣き声が聞こえた途端、有希は俺の腕をするっと抜けてってしまった。
トタトタと、奥へ走り去っていく。
玄関に取り残される俺。……泣くぞ。
有希と結婚したのは、だいたい1年ほど前だ。
高校卒業と同時につきあい始め、大学を卒業する頃には、すでに同棲もしてた。
なに?ハルヒはどうしたかって?
そうそう。ハルヒ。俺と有希がつきあい始めるに当たって、一番懸念すべき人物だった。
高校を卒業する頃にはすでにハルヒの力がなくなっていたとはいえ、俺たちはちょっと知らせるのはマズいんじゃないかと思ったね。
だからハルヒには知らせずにいた。つーかSOS団員の誰にも言わなかった。
だけどな、それは間違いだったんだ。
1ヶ月もたたないうちに、ハルヒにバレた。
大学に入ってもSOS団の活動はたびたびあったんだが、その時にハルヒに詰め寄られたってワケさ。
その時の俺は、まさに蛇に睨まれたカエルのごとく固まるしかなかったね。
しかし、ハルヒは俺がだんまりを決め込んだと判った瞬間
「……キョン。あんたが何で言わなかったかはこの際どうでも良いわ。何か事情があったのかもしれないし」
でも、とハルヒが言葉を切る。
「もしあんたが、あたしとかの目を気にしていてだったら許さない。あんたは有希のことを、悩んでそれでも選んだんでしょ? それだったらあたしは文句は言わない」
真剣なまなざしが、きりりと俺を射抜いた。
「むしろ応援するわ。有希を大事にしなさいよ!」
ふいに笑顔になるハルヒ、だけどな俺には判ってたさ。
お前の握り拳が、ブルブルと震えてたことぐらいな。
俺に対するハルヒの気持ちには、うすうす感づいてはいた。
……もちろん悩んださ。ハルヒのことが好きじゃないって言ったら嘘になる。
それと同様に、朝比奈さんもだ。
だからこそ言わなかった、関係を壊したくなかった。
でも俺は間違っていた。ハルヒを侮りすぎてたんだ。
こいつは成長していた。俺が有希を選んでしまっても、笑って応援できるほどに。
それと同時に、すまなかったとも思う。
それでも、俺は有希を選んだんだ。何十回悩みなおしたって、結論は変わらない。
――――もちろん、世界が崩壊したりはしなかった。
少しばかり、雨が降ってきただけさ。
そして俺が、経済的に安定し始めた頃、プロポーズした。
あの時の有希の反応は傑作だったな。
いつもの無表情がさらに固まっちまってて、さながら置物のようだったぜ。
5分間ほどたって、フリーズから立ち直った有希は
「もう1回、言って欲しい」
と聞き返した。顔が赤くなってるのが可愛いな。
「だから……あ〜……有希、け、結婚してくれないか?」
おかげさまで、こんな恥ずかしいセリフを二度も言うハメになっちまった。
多分、俺の顔は完熟トマトばりに真っ赤になっていただろう。
だが、そんな思いをしてまで、言う価値はあったもんだと思う。
次の瞬間、目の前にあった有希の顔は、路傍の、小さいけど可憐に咲いた花のような笑顔だったからな。
しかし、その次の日、さらに驚くべき事態になってしまった。
俺が会社から帰り、有希が作った旨い夕ご飯を食べているときだった。
「……話がある」
なんだ?
このパターンは何だか懐かしいなと感慨にふけりつつ、有希の言葉を待つ。
だけど、いつまでたっても有希が口を開かない。
「一体どうしたんだ? 何か言いづらいことなのか?」
何か問題でも起きたのだろうか。ハルヒの力でも再発したか!?
「……違う」
じゃあ、いったい何だ?
「……これ」
そう言われて差し出された物、何だか手帳のようだが……って、まさか!?
「母子手帳」
いや、それはわかる。
「……3ヶ月」
3ヶ月ってーと、その、つまり、出来ちゃったと……?
「……そう」
その後、無事に結婚式を挙げ、待望の息子も生まれた。
そう、息子だ。俺個人的には、有希似の可愛い娘が欲しかったが。
そして、現在の幸せな暮らしに至る。
靴を脱ぎ、俺もリビングの方へ向かう。
そこで有希が息子をあやしていた。
じっと息子の顔を見つめた後、有希は服をはだけさせていく。
どうやらお腹がすいていたらしい。
俺はじっと見つめたって、こいつが何を言いたいのか判らんぞ。
まあ、まだ退院してから1ヶ月だし、仕方ないと言えばそれまでだ。
有希の表情なら、読み取れる自信はあるのだが。
手早くブラを外し、あまり育ってない胸を出す。
いや、文句を言っているわけではない。ついでに貧乳萌えってワケでもないぞ。
有希には、このくらいのサイズの方がバランスがとれているというか、まあいい。
とにかく、初めて見たときとあまり変わってないサイズの胸に、息子がしゃぶりつく。
そのまま喉をこくこく鳴らして、おっぱいを飲む。
それを見ている有希の表情は、慈愛に満ち、まさに母親って感じで。
だか、俺の方は一転、むすっとした顔である。
よく、父親は少なくとも、生まれたばかりの我が子に無償の愛情は抱けないと言われている。
日々の子育てを通じて、徐々に、我が子への父性愛に目覚めていくものらしい。
つまり、俺にはまだ父親としての自覚が足りないというわけで。
何だか有希を取られてしまったようで、ちょっとムッとしている。
確かに息子は可愛い。俺の子であるし、何より有希の子でもある。
だけどな、それとこれは話が別だ。有希だけは息子といえども渡せない。
笑いたかったら、笑え。情けなくも息子に嫉妬してるってな。
ちょっと恨みがましい目をして、じーっと息子を睨んでみる。
有希のおっぱいを貪る息子。それは元々、俺のものだったんだからな!?
わざわざ譲ってやってるんだから、父親に感謝しろ。
……なんだよ、有希。その目は?
「……睨んじゃダメ」
……はい。すいませんでした。
「……あなたは、もう少しあの子を可愛がるべき」
俺の夕ご飯を片付け、息子を寝かせた有希はそう言った。
「俺は、可愛がっていると思うぞ」
一応、弁明しておこう。普段はちゃんと可愛がってるぞ?
「……わたしのことになると、途端に敵対心を出す」
うっ。図星をつく痛い言葉。
だけどな、仕方ないだろ? これは男の本能ってやつだ。
「本能?」
少しばかり首を傾げる。そんな小さな仕草も可愛いぞ。
「そうだ。自分の女に近づく男は、いくら息子といえども油断できん」
男は馬鹿なんだよ。自分が惚れた女に対してはな。
独占欲が強すぎて、アホみたいだと自分でも笑いたくなる。
それでも譲れんものは譲れん。
「……拗ねてるの?」
「断じて拗ねてるわけじゃない」
「やっぱり、拗ねてる」
「……拗ねてるわけじゃないってば」
有希が俺の隣に移動してくる。
少しかがんで、俺の頭を抱きしめて言った。
「……嘘。目を全然合わせない」
……むぅ。別に拗ねてるわけじゃないぞ。ホントだ!
ただ、有希が最近息子に尽きっきりで、構ってくれないから寂しいな〜とかは思うけどさ。
「それを一般的に拗ねてると言う」
頭の圧迫感が強くなる。
有希の心臓の音が聞こえる。それによって安心している自分に気がついた。
「……かまってほしいの?」
有希が俺の表情をのぞき込む。
その黒い瞳に映っているのは、今は俺一人だけだ。
「ああ。構ってほしい」
ちょっと恥ずかしいが、素直に言う。
ふっと有希の表情がゆるんだ気がした。
「……悪いかよ」
問いかける。首が横に振られた。
「あなたにしては、可愛いと思っただけ」
頭を撫でられた。繊細な指が俺の髪をすいていく。
雨だれが地面に少しずつ染み込んでいくように、渇いた気持ちが潤されていく。
不思議なものだ。
俺はどちらかというと、甘える方じゃなく甘えられる方だと思っていた。
だけど有希に対しては、ついつい甘えてしまう。
もちろん有希が俺に甘えてくることも多い。
それでも俺が誰かに甘えるなんて、有希に遇うまでは想像がつかなかったんだ。
ただ唯一の、俺の心の安まる場所。
もっと撫でてもらいたくて、有希の胸に頭を擦りつける。
背中に手を回して、抱きしめる。
「……今日はどうしたの?」
不思議そうな響きを声に含ませて、有希が聞いてくる。
「別に何もないが……なんでだ?」
「ここまで甘えてくるのは、珍しいから」
「……たまにはいいだろ?」
「……いい」
下方向に力を込めて座らせ、そのまま後ろに倒れ込む。
抱き合ったまま、カーペットに横たわる。
柔らかくて、温かい有希。触れあってる部分から、じんわりと染みてくる幸福感。
確かに自分でも珍しいと思うほど、今日は有希に甘えたい気分だ。
「……甘えんぼ」
甘えん坊で悪かったな。だけど、今は有希のことを絶対離したくない。
有希の無表情が少しばかり甘く溶けた。
額に柔らかな感触。どうやらキスされたらしい。
触れられたところが熱を持つ。
その熱はやがて全身を巡って、愛おしさへと変化していく。
あぁ〜っ!もう! 大好きだ。愛してるぞ。
柔らかいほっぺたを擦り合わせ、その後、額をコツンと合わせる。
至近距離から見つめ合う。黒々とした瞳に吸い込まれそうになる。
と、その瞳に瞼が降りた。
心持ち唇が突き出されている。迷わず、そっとキス。
少しばかりで離れたが、物足りなくてもう一度。二度。三度。
触れあわせるだけのキスから、啄むように、そして段々と深くなっていく。
いつもより少し早くビートを刻み始めた心臓が、俺のアクセルを踏んでいく。
ブレーキをかける気はない。止まる気なんかは最初からない。
10回を過ぎたあたりで、舌をそっと有希の唇に這わす。
そっと開かれた口に、進入した。
出迎えてくれた小さな舌を見つけると、しっかりと絡め合わせる。
ピリピリと走る心地よさ。飽きそうなほどやってきたことだが、いっこうに飽きる気配はない。
むしろ初めてキスしたときと同じぐらいに、いつも鼓動が暴れ出してしまう。
慣れることなんてない。その1回1回が、新しい発見だ。
「……ふ」
有希の口から、吐息が漏れ出す。
甘い甘い、砂糖菓子のような響きに、脳が溶け出そうだ。
「有希……」
服にそっと手をかけ、脱がそうとする。
「……ここではダメ」
我慢できん。
「……あの子が寝たばかり」
知らん。しばらくは息子も寝ているだろう。
「……」
ちょっとばかり困ったという表情をしたが、諦めたのだろう、力を抜いた。
こういうことをするのは、実は久しぶりだ。
数ヶ月前までは、息子が有希の中にいたからな。
それを考えると、あれこれ1年近くやってないのか。
上を脱がし、ブラを外す。
内側につけられたガーゼから、ふわりと甘い香りがした。
それと同じ香りのする有希の胸に、顔を埋める。
柔らかな膨らみに、鼻を擦りつける。
手のひらでまさぐると、染み出てくる母乳。
そういえば、これってどんな味がするんだろうな。
ツンと自己主張気味の蕾を口に含む。
口に広がるほのかな甘さ。
懐かしく感じるのは、脳の端に幼少期の思い出が残っているということだろうか。
もっと味わいたくて、ちゅうちゅうと音を立てて吸い上げる。
少しばかり息を荒くした有希がポツリと言った。
「……親子」
「なにがだ?」
「吸い方。あの子もあなたにそっくり」
む。マジか。
でもな、息子にはまだこんな芸当は出来ないだろう。
一旦口を離し、舌先だけで蕾を突っつく。
唾液に濡れた桜色が、俺のテンションを少しずつあげていく。
そうやって少しばかり焦らし、突然ねっとりとしゃぶりあげる。
「……っ」
舌で転がすように味わうと、有希がピクリと小さく跳ねた。
このまま延々と胸に吸い付いていたくなるが、それでは先に進まないので我慢する。
舌で雪のような肌を辿りつつ、下も脱がしていく。
ショーツを脱がすとき、にちゃり、と音が聞こえた。
俺も手早く上を脱いでしまう。
太ももを丹念に撫で回し、裏を通って段々内側へと。
そうやって期待を高めておいて、でもその部分はなかなか触ってやらない。
まるでむずがるように、有希が体を捩らせる。息は浅く、せわしない。
それでもなお焦らしていたら、じっと恨みがましい目で見つめられる。
悪い悪い。有希があまりにも可愛いから、ちょっといじめたくなってしまうんだ。
お詫びの気持ちを込めてキスをする。同時にそこへとようやく指を進めた。
「……ぁっ」
もうだいぶ濡れている。ニチャニチャ、ヌルヌルと指に愛液が絡んでいく。
これならもう、大丈夫だろう。
ズボンを蹴り脱ぎ、隆々とそそり立つ俺のモノを、有希の入り口にあてがった。
「行くぞ、いいか?」
コクリ、と首肯が返ってくる。
ググッと腰を進める。合わさり慣れた二つは、一発でかみ合った。
細く、熱い息を二人同時に吐く。
いつもならすぐに動きたくなるところだが、今日は何だかそんな気分ではない。
有希を抱き寄せ、動くことなくじっとしている。
戯れるようにキスを繰り返し、体をピタリと合わせたまま。
それだけで十分だった。
欠けた物が一つになった感じだ。充足感と安心感が全身を包んでいく。
温かい有希の中。緩やかな締め付けが、背中にチリチリとした感覚をため込んでいく。
そうだ。これが俺の求めていたことだ。
有希と肌を重ねることによる、一体感と満足感。
何も言わなくたって、考えていることが相手に伝わるような、そんな穏やかな気分だった。
きっと有希も、そう思ってくれているという確信があった。
それ自体が幸福で、何物にも代えられない物。
有希と出会い、こうして側に居れることが、この世の奇跡。そう思えた。
唇を寄せ、その後ゆっくりと動き始めた。
「んぅ……」
久しぶりなだけあって、有希の反応もかなりよかった。
とろんとした目は恍惚としていて、吐息は甘く、切ない。
有希がゆるゆると俺に絡みつき、時折きゅうと締め付ける。
そのたびに呻き声を上げそうになる。
長年かけて知った弱点を責めるたびに、ぴくんと律儀に反応を返してくれる。
やがて俺も耐えきれなくなってきて、だんだん動きが速く、激しくなっていく。
有希も、わずかながらも腰を振って、俺の動きに応えてくれる。
壊れるぐらい強く抱きしめて、舌を絡め合わせる激しいキスをして。
その間俺は、「愛してる」とか「大好きだ」とか陳腐な言葉しか並べられない。
言ったって俺の気持ちが全部伝わるワケじゃないのに、溢れ出す有希への思いが、思わず口を動かしてしまう。
そんな拙い、こぼれる俺の思いに、有希は頷いて返してくれる。
最後のあたりには、互いの名前しか呼ぶことが出来なくなっていて。
でも、それが一番互いの距離を縮める呪文だった。
……ぐぅ。そろそろ……限界……だ……
それを迎える前に、ふと思い出したこと。
「有希……」
なに?と濡れた瞳が聞き返してくる。
「次はな、お前に似た可愛い娘を、孕んでくれ」
「……っ!」
その言葉を紡ぎ終えると、俺は一際強く、最奥へと打ち込んだ。
有希の体が強ばる。ぎゅぎゅぅと、中が一層激しく締め付ける。
俺は今まで溜めてた物を、想いとともに吐き出した。
「……カーペットが、ぐしょぐしょ」
「う……悪かったって」
行為を終えて暫く経って、落ち着いた頃、有希が恨めしそうに睨んできた。
「……洗濯しなければならない」
「だから、ホント悪かったって」
本当にそう思ってる?と、黒い瞳に責められた。
……仕方がない。
「わかったよ。明日になったら一緒に洗濯しよう。そんで、終わったら息子も連れて図書館か公園にでも遊びに行こう」
そう提案すると、有希は一瞬目を丸くした後
「……そう」
とつぶやいた。
その横顔が、どこか嬉しそうに見える。
「明日、晴れると良いな」
俺の呟きは、息子の泣き声にかき消された。
その数ヶ月後、俺の望み通り、有希があの手帳をまた俺に見せてきたのは、また別の話。
……今度は、娘らしいぞ。楽しみだ。
(終わり)