常日頃から無意味に機嫌が良さそうな妹が、泣きながら俺の部屋に入ってきたのは土曜の夜だった。
腹を押さえて、軽く身を丸めている。
浅い眠りに落ちかけていた意識が吹き飛んだ。
「お、おい、どうしたんだ?」
俺の問いにも答えず、妹は呻いていた。脂汗が滲んでいるようで、何があったのかわからない。
今日と明日の間、親父と母さんは法事のために九州まで出かけていた。俺と妹にとってはかなり遠い親戚にあたるため、俺たちは大人しく留守番をしていたのだが……。
「どうした、腹が痛いのか?」
「……どうしようキョンくん」
俺はベッドから飛び降りて、妹の両肩を掴んだ。泣きそうというか、もう泣いている。
いつもは愛らしい瞳が濡れていた。
まさか、晩飯に作った焼きソバに当たったのか?
だが、冬の終わりに食中毒が起こるというのも考えにくい。いや、確かウィルス系の食中毒なら冬のほうが多いと家庭科で習った覚えがある。
適当に火を通しただけのあれがまずかったのか。
「うぅ……」
ぼろぼろと泣き始める妹。おいおい、マジかよ。救急車呼んだほうがいいのか?
こんな時に限って両親は不在。
「あのね……キョンくん」
「あ、ああ」
「うんち漏らした」
思考が複雑系を形成してしばらく。俺は固まったまま反応を返すことができないでいた。
なるほど、お漏らしか。しかも大きいほうと来た。お前今何年生だ? そしてそれを言いにわざわざやってきたのか。
一人で処理できない、と……。
「お前なぁ……」
「はぅう。キョンくん、どうしよう」
「とりあえず、トイレ行くぞ」
正直、うんこなど触りたくもないが、この際仕方ないだろう。
しかしもう6年生になろうというのに、お漏らしだと?
ひっくひくと泣く妹を連れて、一階のトイレへ。
「ほら、脱げよ」
「うん……」
パジャマのズボンをおろす妹。なるほど、白いパンツの股のあたりが赤茶けている……。
が、どう見ても、固形物ではない。下痢でも起こしたかのように水っぽいものが時間と共に固まってきているようだった。
これは普通じゃない。まさか、やっぱ食中毒か何かか? そもそも、こいつは寝小便だってここ最近はしてなかったはずだ。
それが起きてる最中に? 嫌な予感がして、俺は尋ねてみた。
「な、なぁ、なんか腹が痛いとかあるか?」
「うん……」
妹はパンツをずり下ろすと、そのまま足から抜きさった。妹が脱いだパンツを受け取る。股の辺りに茶色い液体が付着しているのがよくわかった。
「マジかよ……」
救急車呼ぶか。いや、それは先走りすぎかもしれない。
だが、もしも何か重大な食中毒だったらどうなんだ? 手遅れになったりしないだろうな。
「キョンくん……」
不安そうに俺の顔を見上げる妹。
「あ、ああ大丈夫だ」
俺がうろたえてどうする。今ここにいるのは、俺だけなんだぞ。頼れるのは他にいない。
そしてその俺が頼りにならない。やはり専門家に任せるべきなのか。
生臭い匂いが鼻につく。ん? なんだこの匂い。
妹のパンツをじっと見てみる。え、おい。まさか、これって。
「ちょ、ちょっと待て……」
そして妹の顔を見下ろした。
「お前、もしかして、生理か?」
妹のパンツについていたのは、血液だった。
「せーり?」
「学校で習っただろ」
女子だけ突然別の部屋へ呼ばれるわけだ。男どもは自習だと騒ぎ、戻ってきた女子が神妙な表情でいるのをからかってみたりするわけだが、今はそんなことはどうでもいい。
「うん、習った……」
「よし、じゃあどうすればいいかわかるな? 言っとくが、俺にはサッパリわからん」
俺が関わることじゃないだろう。女の体のことなんて、よくわからない。
「わかんない」
「いや、だから習っただろ? ナプキン使うとかなんかそんなこと」
兄妹でこんな会話するのはどうなんだろう。
「だって、よく聞いてなかったもん。それに体のことばっかりだったもん」
いかん、泣きそうな顔してる。
おそらく、これが妹の初潮なんだろう。
つまり少女から女の体になったということだ。だからどうした。
しかし、妹に初潮が来たとはな……。
俺は泣きそうな顔で便座に座り込んだ妹を見下ろした。下に何も履いてないので、小さな丘も、一本走っているスジもよく見える。
って、俺は何を考えてるんだー何を。妹だぞ妹。血の繋がった妹だ。そもそも相手が小学生という時点で犯罪で変態のクソ野郎だ。
本当に上級生なのか疑わしいまでに成長してないと思っていたが、いつの間に女の体になってしまったというのか。
初潮が来たってことは、つまりもう子どもが産める体ってことだぞ。こんなガキんちょが子どもを産める体になるだなんて、世の中恐ろしすぎる。
神様は人間の作り方を間違えたとしか思えない。
「キョンくん……」
くすんと鼻を鳴らして妹が俺を上目に見上げる。その姿が俺の心をチクチクと刺した。
俺を頼ってくれてるようだが、生憎俺はこういう時にどうしたらいいのかわかりゃしない。
むしろ解っているほうが怖い。
くそっ、どうすりゃいい。普通はどうするもんなんだ。
ナプキンか何かが必要なんだよな? それだけでいいのか? 何か必要なものは他に無いのか。
「ちょ、ちょっと待ってろよ。母さんに電話してくるから」
こんな時頼りになるのは、母親くらいのものだ。
部屋に戻って携帯電話のメモリを探す。ダイヤルボタンを押して、母親が出るのを待つが、どういう冗談なのか帰ってくるのは母親よりはるかに綺麗な声をした女性の案内だけだった。
おいおい、電源入れてないのか? それとも電池切れか? 充電器も持たないまま出かけたというのは、ありえそうだ。
もしかするとまた違う事情なのかもしれない。母さんがダメなら、親父だ。すぐそばに母さんがいるだろう。
だが俺の携帯には親父の携帯電話の番号は入っていない。電話する機会なんてまったく無いから、番号を教えあってもいないのだ。
慌しく階段を駆け下りて、固定電話を置いているキャビネットの引き出しを漁った。
どっかに番号を書いたメモか何かあるはずだ。そう思ったが、ついぞ見当たらなかった。
書類の束だけが床に散らばっている。
「くそっ、どっかに番号くらい書いとけよ!」
リビングの明かりを落として、トイレにいる妹のもとへ。
開け放したドアの中で、一人しくしくと泣いている。
「……キョンくぅん」
「大丈夫だ。兄ちゃんに任せろ」
なんだってこんな時に初潮が来る。せめて母さんがいる時に来てくれよ。
「とりあえず、血は拭いておけ。な?」
「うん」
母さんがダメなら、他の女性に尋ねてみるか。
今は何時だ? 夜の10時か。ちょっと電話するには遅い。
躊躇している暇は無い。どうすりゃいいのか尋ねるだけだ。問題無い。それにこれは俺自身の問題じゃない、妹の一大事だ。
妹が女の体になったというのは、兄としてはちょいと複雑な気分でもある。多分、これから先、妹に彼氏ができたりとか、結婚したりとかそんなことがある度に何処が端なのかわからない思考の糸がぐるぐるに絡まるんだろう。
もう一度リビングに戻る。
手に持った携帯電話のメモリを眺めた。誰が頼りになる。
頼りになる、という言葉でまず思いつくのは長門だった。しかし、今回に限って長門がどれほどアテになるのかわからない。
あいつは人間ではない。宇宙人だ。生理とかあるのか? 機能的に考えれば、不要な存在だろう。
朝比奈さんは……。やや頼り無いが、女の人だ。きっと力になってくれるかもしれない。
だが、こんな時間に電話して生理について尋ねるのはどうなんだ。あの人、浮力さえ知らないんだからな。
もし未来に、生理などを抑えるような薬があったとして、それを朝比奈さんが常用していたとしたら?
今でさえ、それらしい薬があったような気がする。
と、いうか何よりも俺が朝比奈さんに生理について尋ねるというのが、ひたすら恥ずかしい。
最後にハルヒ。
アイツは普通じゃないが普通の人間だ。一応女の子だし、当然もう生理だって来てるだろう。
そんなふうにハルヒを意識したことがなかったから、いざ考えてみると物凄く恥ずかしい。くそっ、考えるなそんなこと。
俺の妹のためだ。きっと協力してくれるに違いない。
ダイヤルボタンを押すと、今度はしばらくのパルスの後に、ダイヤル音が届いた。
頼む、出てくれ!
「なによキョン。こんな時間に」
中域の持ち上がった電話越しの声。
「ハルヒかっ?! よかった……出てくれたか」
「はぁっ、あんた誰に電話かけてるのかもわかんないの? 説明書読んだ? それともあんたがバカなだけ?」
電話越しに罵られる。それすらも心の中でダマになっていた不安を溶かしていく。
「ハルヒ、話があるんだ。聞いてくれ」
「……何よ」
どう言えばいいんだ。妹に生理が来たから、どうしたらいいか教えてくれと言えばいいのか。
「な、なぁ……。お前、今から俺の家に来れるか?」
電話が無音だけを届けてくれる。いつの間にか汗ばんだ手で、携帯を強く握りなおす。
「なに、どういうこと? 今からだなんて、そっちだって家族もいるし、あたしが今から行ってどうするのよ」
「その家族が居ないからお前を呼ぶんだよ!」
母さんがいれば困りはしない。俺は妹に初潮が来たという事実にだけ驚いて、複雑な気分になるだけだ。
「え? ちょっと……。なに、それ……」
さすがにこの時間に人を呼び寄せるのは無理があったか。
「いや、来れないならそれは仕方ないんだが、俺はお前に訊きたいことが」
「ま、まぁ別にいいわよ。そっちに行くから。ちょっと待ってなさい」
切られた。人の話はちゃんと聞けよ。
だが、ハルヒがこっちに来てくれるというのなら、心強い。
いつもは俺に災厄だけをもたらすハルヒが、今だけは待ち遠しかった。
まだトイレにこもっている妹は、ハルヒが来るということを伝えると少しだけ表情を綻ばせた。
自分がシスコンだとは微塵にも思わないが、やはり妹の泣き顔は見たくないし、できるならいつも笑っていて欲しい。
そう思うのはとても自然なことだろう。
ハルヒが来るまでの間に、俺は妹のパンツを洗面所へ持っていった。残念ながら、洗濯機の使い方をまったく知らないし、そもそもこれを放り込んでいいのかどうかがよくわからない。
仕方なく洗面所で妹のパンツをブラシでごしごしと洗っておく。正直な話、妹の『女』の部分を見せ付けられているようで、段々と気分が沈んでいくのを感じていた。
女なら誰にだって訪れることだ。そんなことは知っている。
クラスの女子に、まだ初潮が来てないとかいうヤツがいてたらもっと驚くさ。
そうか、ハルヒをわざわざ家に呼んだ理由は、妹が女であることを自覚したくなかったからかもしれない。
ナプキンやらを見つけ出したとして、それを俺が付け方を調べるとかそんなことをするのが嫌だったのだ。
だからそれを俺以外のヤツに、そうハルヒにさせようと思った。
自覚すると、複雑だった気分が重たくなる。妹の一大事だってのに、人任せかよ。
俺が姉だったらそんなことは思わないんだろうが、自分が女に生まれていたらなんて想像もできやしない。
とりあえず、ハルヒが来たらちゃんと礼を言わなきゃな。何回かメシ奢るくらいのことはしてやろう。
俺は随分と汚れの落ちたパンツを洗濯カゴの中に放り込んだ。
ハルヒに、ナプキンか何か持ってきてもらうよう頼んでおけばよかったと後悔した。
今から電話するか? いや、どういう手段で来るのかわからないし、今更言うのも……。
ハルヒに電話してから30分ほど経っただろうか。家のベルが鳴らされた。この音を聞くのも、随分久しぶりのような気がしてしまう。
俺はパジャマのまま、玄関へ向かった。蛍光灯の明かりを灯し、普段履いているスニーカーに片足を乗っけて扉の鍵を開ける。
「よく来てくれたなハルヒ」
「まったくよ! なんなの一体。こんな夜中に人を呼びつけて」
怒り心頭といった様子のハルヒ。その姿に妙な違和感を感じた。
まるで昼間に街へ出かけるような格好だ。薄い紅色のカットソーワンピースはわずかに胸元が露出していて、やたらと涼しそうだ。
その上に洗いたてのシャツみたいな白色をしたカーディガンを羽織っている。一体どうした心境の変化か、十字架のついたネックレスまでしてるし。
こうやって見てると、良家のお嬢さんっぽい。
ふとハルヒの後ろを見ると、タクシーがちょうど走り去っていくところだった。
まさかこいつ、タクシーでここまで来たのか?
ハルヒに対して申し訳ないと思う気持ちが沸くのは、おそらく初めてのことだっただろう。妹のためにわざわざ……。
こりゃ何回かメシ奢るくらいじゃ済ませられないな。
「上がってくれ。ちょっと話があるんだ」
「ふん、まぁいいわ」
何がだ。
あがりかまちに腰かけて、履いていたロングブーツを脱ぐと、ハルヒは丁寧に端に寄せていた。
そんなもん履いてて歩きにくくないのかね。
俺はリビングのソファに座ってうな垂れながら、ハルヒの声で頭をガンガン殴られていた。
「このバカキョン!! あんたねぇ、それならそうと最初から言いなさいよ!! 大体、あんたもあんたで生理の知識もまったく無いってどういうことなの?
少しはねぇ、女の体について知っときなさい。ちゃんと習ったでしょ? わかる? もっともあんたみたいなバカはちょっとやそっと習ったくらいじゃ頭に入らないんでしょうけど、それよりも妹ちゃんが不安がってるところであんたがおろおろして、それで」
なにやら延々と続く罵りの言葉は、次第に俺の耳を華麗にスルーしながらどっかへ消えた。
事情を聞いたハルヒはまず怒り、母さんが使っている生理用品をあっさりと見つけ出し(なんとトイレの上の棚に置いてあった)、妹にナプキンの使い方や生理についての知識を優しく語り
それから俺に怒り、妹を風呂場に連れて行って体を洗わせ、次に新しいパンツを用意して履かせ、それから俺に怒った。
とりあえず俺は怒られっぱなしだった。
どっちにしても、ハルヒは妹の力になってくれたし、別に構いはしない。むしろ感謝している。
ちょっとはハルヒのことを見直したね。ほんと。一人でうんうんと頷く。
「ちょっと聞いてるのこのバカ!!」
耳をつねられた。
「痛いからやめろ! わかったから」
「もう……。ほんとにバカなんだから」
おそらく人生のうちでもっともバカ呼ばわりされることの多い日だったと思う。
腕を組んで大げさに溜め息をつくハルヒ。
「ハルヒ」
「なによ?」
「ありがとう。お前が来てくれて助かった。ほんとに感謝してる」
これは俺の素直な気持ちというヤツだ。普段ならなかなか言えはしなかっただろうが、今回は別だ。
妹の力になってくれたハルヒに感謝している。
ハルヒは髪の毛が逆立つんじゃないかというほどに驚いて、耳まで真っ赤にしていた。俺が礼を言うのが、そんなに珍しいかハルヒよ。
「な、なによ。別にあんたのためじゃないんだからね! 妹ちゃんのためなんだから。あんたに礼を言われる筋合いはないわ」
「ある。俺の妹だ。俺の妹のためにこんな夜中に来てもらったし、助けてもらった。だから、すごく感謝してる」
俺は立ち上がって、ハルヒを見下ろしながら言った。
「べ、別にいいわよ。あんたに礼を言われたって嬉しくないし」
そう言いながらハルヒはあさっての方向を首を向け、口をへの字に曲げた。
そうか、こいつ感謝されることに慣れてないんだな。素直に受け取ればいいのに。
「この埋め合わせは必ずする。メシくらい奢ってやるさ。そうだ、明日はどうだ? 暇だったら、どっか行こうぜ」
「え……?」
真意を探るように俺の目を見つめるハルヒ。こうやって見てると、かなりの美人だよなこいつ。
「母さんもいないし、妹にまた俺の即席料理食わせるのもアレだしな。三人でなんか食いに行こうぜ」
俺の言葉を聞いて、じとっと俺を睨む。どこか気落ちしたように見えたのは気のせいだろうか。
「心配すんなよ。俺の奢りだし、安物で済ませようとか思ってないから。回る寿司くらいなら余裕だぜ」
胸を張ってみたのだが、ハルヒはというと重い息を吐いてぽつりと呟いた。
「あんたって……ほんとバカ」
なんだよ、回らない寿司じゃないとダメなのか。