部室の鍵が開いていることを確認し、ちょっとしたフェイントをかける気分でノックする。  
 返事はないが、当然だ。すでに長門がハードカバーの本を閉じ、活動終了となったあとだからな。  
 それでも俺は、まだ残っている奴がいることを知っている。  
 ノックしたのは、今、そいつに対してのせめてものフェアプレー精神だ。  
 
 ドアを開けると、  
「……何だ、キョンか」  
 予想通り、すっかりメランコリックの向こう側に行ってしまったハルヒがいた。  
 今まで机に突っ伏していたような姿勢のまま、若干流し目気味に視線を向けてくる。  
「もう終わりって言ったはずだけど」  
 
 いやなに、今日のお前の笑顔はやけに曇っていた気がしてな……  
 
 と言おうとして、台詞回しがやけにキザであることに気づいて止めた。  
 SOS団におけるわざとらしさは、古泉スマイルだけで充分だ。  
 しかし、嘘でも理由は必要だ。忘れ物をしたような不安にかられてな、とか何とか言って自分の指定席に腰掛けた。  
 一連の動作を横目で見られたあとすぐに顔ごと背けられる。良い反応とは言えないが、なあに、かえって免疫がつく。  
 
「明日はお前的なXデーだと言うのに、ずいぶん沈んでらっしゃるようだが」  
「別に。ただの思い出し憂鬱よ」  
 
 去年も聞いたな、その台詞。デジャヴどころかはっきりした記憶がある。  
 二度も同じことを言われると、何故だか妙に不安な気持ちになるね。  
 
 空模様はハルヒとシンクロしているかのように灰色に埋め尽くされている。  
 
「……四年前にね、」  
 
 何の前触れも無く、ハルヒは口を開いた。  
 
 しかしこの時期、その時間設定。  
 何の話になるのか、大方の予想はついている。  
 
「変な男に会ったのよ」  
 
 ……どう紹介されるか少しは楽しみに待ってみれば、俺は変質者扱いですかそうですか。  
 渋い顔の一つでもしてやりたいところだが、トンデモパワーに見合う強いカンを持つのが涼宮ハルヒという女だ。  
 下手な真似はできないので、ここは長門の真似で乗り切ろう。  
 
 俺は黙ってハルヒの独り言を聞くことにした。  
 
 
 ――本当に、おかしな奴でね、  
 
 ――宇宙人や未来人や超能力者と知り合いみたいな口ぶりで、  
 
 ――それで、そいつを探すためにあたしも北高に入学して、  
 
 
「……でも見つからなかった。別にわかってたわよ。高校生と中学生じゃ、入れ違いになることぐらい」  
 
 それでも探したくなる気持ちはわからんでもない。それこそ、藁に願掛けする勢いでな。  
 初めての理解者というものは、大なり小なり影響を残すものなんだと思う。  
 幼少の頃、正義の味方になるんだと言って憚らなかった俺の頭を撫でてくれた近所のじいさんの顔を、俺は今でも覚えている。  
 
 嗚呼。言っちまいたい。  
 俺がジョン・スミスだ――その一言でハルヒの憂鬱をどこかにやってしまえるなら安いものだ。  
 
 そのときの俺は湧いて出た自己主張欲を抑えるのに忙しくて、不覚にもハルヒの接近に気づかなかった。  
 右手が妙に温かい。  
 まるで自分以外の誰かの体温が流れ込んでくるような、って、  
「ハルヒ?」  
 そこで初めて、ハルヒが俺の隣に移動していたこと、心なしか遠慮がちに手を重ねていることをいっぺんに認識した。  
 思ったよりも、繊細で華奢な感触だった。  
 よく混乱しなかったと自分を褒めてやりたい。  
 
「やっと――わかってくれる人が来たと思ったのに」  
 
 いつ見たんだっけな、こいつのこんな顔。去年、朝倉家を襲撃した帰りのことだったか。  
 ハルヒの手が少し熱を帯びた気がした。  
 
「キョン」  
 
 無闇な名前の連呼はよしてくれ、心臓が暴れ出しそうだ。  
 
「あんたに会うまで――」  
 
 ――独りだった、だろ?  
 本人が途切れさせた言葉の穴埋め、なんて趣味が悪いが、わかるもんは仕方がない。口に出さないだけマシだと思ってくれ。  
 
 何か言ってやろう、とは思うが、いい言葉が浮かんで来ない。というか、考えることそのものがもどかしい。  
 埒が明かない。そう思い、言葉に頼らないことを決断した俺は、  
 ――このとき、俺の正気は遥か時空の彼方で迷子になっていたことだろう――  
 ハルヒの手を掴み、指を絡ませ、痛みは無いように握った。  
 
 一瞬体を振るわせたハルヒは、しかし突然餌を与えられた猫のように恐る恐るといった感じで握り返す。  
 七対三でぶっ飛ばされると思っていた俺は、マイノリティが採用されてしまい、正直これからの展開をどうしようか困惑していた。  
 
 ええい、ままよ。  
 
 俺はハルヒのそれより、少しだけ強い力で握る。  
 ハルヒ、いまいち気に食わないが、どうやら俺はお前のことを気にかけているらしい。  
 少なくとも、憂鬱オーラを発しているお前の傍で、こうして手を握っていたい――なんて、気の迷いが生じる程度にはな。  
 絶対に口には出さん。だから、繋がっている手から、感じて欲しい。  
 
 ジョン・スミスは、もうお前の前には現れないかもしれん。  
 だがな、ハルヒ。  
 誰が何と言おうと――例え、お前に拒絶されようとだ。  
 
 俺はここにいるぞ。  
 
 
 
 雨が降り出した。傘がないので濡れてしまう。  
 そういえば大分遅くなってしまった。連絡していないし、母親にこってり絞られることだろう。  
 
 だが、そんな些細な懸案事項は、全て「どうでもいいこと」なのだと、  
 右手から伝わる温もりが教えてくれた。  
 
 
 
 翌日。七月七日。  
 
 ハルヒは、またどこからか無断で伐採してきたのであろう、ぶっとい竹を同伴して部室に重役出勤した。  
 生憎の曇り空にも関わらず、晴れハレな笑顔をひっさげた我らが団長の様子に、俺は心底安堵したね。  
 昨日あれだけこっ恥ずかしいことやっておいて変化がなかったら、俺は羞恥に負けて妄想の拳銃を手に取っていたことだろう。  
 さて、そのあと、去年と同じルールで下げた短冊を下げたんだが、  
 
 ――ここにいたい  
 
 とか書いてあるのがあったら、それは俺のだ。探すな。俺は今、日本が銃社会化を免れていることに感謝している真っ最中だ。  
 しかし、だ。羞恥心は限界値近くまで跳ね上がっているが、後悔は全くしていない。  
 それは本心だからな。願い事を真面目に書いて何が悪い。  
 
 誰と、なんて、野暮なことは書かないけどな。  
 
                       了  
 

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