月の無い夜。俺は、蒸し暑い校舎の中を、ハルヒを両手で抱えながら走り回っていた。  
 前髪が汗で張り付いて視界を狭め、汗を吸ったTシャツが普段の三倍ほどの重量になって身体にまとわり付いてくる。  
 身体は疲れ果てており、俺の脚は、もはや惰性と恐怖と僅かな意地だけで動いていると言っても過言ではないだろう。  
「ねえ、キョン……」  
 下を向くと、手に持った懐中電灯で前方を照らしながら、いつに無く不安げな様子で俺を見上げているハルヒと目が合った。  
 少し、休もう。  
 俺は脚を止め、ハルヒをそっと床に下ろすと、それ以上立っていられず、廊下に崩れ落ちた。  
「ちょ、ちょっと、キョン!?大丈夫?」  
 まるで大丈夫じゃないぞ。心臓はアジタートの書かれた楽譜を16ビートで演奏していたし、口から出る音は、人の呼吸音というより、もはや獣のそれだ。  
 ハルヒは、そんな俺の様子を見かねたのか、背中をさすってくれている。なんだよ、いつに無く優しいじゃないか。  
 そんなハルヒを見ると、俺はもう少しだけ、意地を張ってもよさそうな気分になった。  
「……もう、大丈夫だ」  
 俺が答えると、ハルヒはほんの少しだけ笑みを見せた後、すぐに真剣な顔に戻って俺を見つめてくる。そんな顔したって、なにもやらんぞ。  
「ねえ、キョン。あれって何なの?」  
 それは非常に簡単な問題だな。  
「さあな。本人の言うとおり、怖い幽霊か何かじゃないのか」  
「え、でも、あいつって……」  
 そこまで言うと、ハルヒは何かに気付いたように、今まで走りぬけてきた廊下の暗がりに目を向けた。  
 俺もそんなハルヒの様子を見て、息を潜め、耳を澄ます。  
 
 聞こえてくるのは、自分の心臓の音、ハルヒのかすかな息遣い、そして、暗がりの奥から、響く足音。  
 
 ……んな馬鹿な!もう追いついてきやがったのか!  
「ハルヒ。俺の背中に負ぶされ」  
 さっきまでハルヒを抱えていた俺の腕は、鉛を仕込まれたように重くなってしまっている。  
 さすがにこれ以上こいつを抱えたまま走るのは無理だろうな。  
「だ、大丈夫よ。もう一人で歩けるわ……っつ!」  
「おい!無理するな!」  
 立ち上がろうとしてよろめいたハルヒを、咄嗟に両手で支えてやる。  
 ハルヒの足首に巻かれたハンカチに目をやると、元の白が見る影も無いほどの赤色に染まっていた。  
 
 渋るハルヒを無理矢理背負い込むと、目の前の扉を開けて、その中に飛び込んだ。  
 扉の先には、無限に続く廊下と、海の底より黒い暗闇。  
「くそ!またかよ!」  
 俺は半ば自棄になりながら、ハルヒの持った懐中電灯が照らす僅かな明かりを頼りに、暗がりの中を駆け出した。  
 
 夜明けまでは、まだ遠い。  
 
 
 下手したら永遠に終わらないところだった八月を何とか終わらせ、俺たち学生の世の中は、二学期と呼ばれる時期に突入していた。  
 といっても、夏休み特有の休みボケと、一向に治まる気配の無い熱気が奏でる二重奏に、俺たちの未完成なメンタリティが敵うはずも無く、どろどろのアイスのような生活を送る事を余儀なくされていた頃の事だ。  
 
 昼前、教師の急用か何かで、ぽっかりと自習という名の空白が空いたことで、俺たちのテンションは僅かばかりだが高まっていた。  
 そんな時、谷口のアホが、ああ、今回の事は本当にこいつが発端なのだ、アホだ、アホキングだ。  
 とにかく、そのアホが、急に「怪談でもしようぜ!」なんて言い出して、暑さでボケていた俺と国木田も、テンションに任せて思わずOKしてしまった。  
 まあ、その時は、どこかで聞いた事のあるような、全く怖く無い怪談で盛り上がり、そこそこ楽しい時間を過ごす事が出来ていたのだ。  
 俺たちの後ろの席で、ハルヒがどんな顔をしていたかも知らずに。  
 
「肝試しをするわ!時間は今日の夜8時!場所は学校!質問はナシ!」  
 言うまでも無く放課後の部室。いつもより遅れてやってきたハルヒは、開口一番、そんな事をのたまった。  
 朝比奈さんは「ひぇぇー!?」と悩ましい声を上げ、長門は本のページを一つめくり、古泉はいつもどおりニヤけた顔で全てを肯定するように頷いている。  
 俺はと言えば、こいつがこんな事を言い出したのは、俺たちの怪談話のせいだと気付き、何だかよくわからない罪悪感に悩まされていた。  
「お前、何言っ「質問はナシ!」  
 とりあえず異議を唱えようとした俺の目の前に、指を突きつけてくるハルヒ。ちょっとむかつくぞ。  
 俺はその指を右手でつかみ、あさっての方向に逸らしてから、改めて異議を申し立てる。  
「あのな、何で俺たちがそんな微妙に季節外れな事をしなくてはならんのだ。第一、夜の学校なんて入れるわけ無いだろう」  
 ハルヒは一般常識を述べる俺に、九九の6の段が言えない中学生を見るような目を向けてくる。かなりむかつくぞ。  
「私を誰だと思ってるの、キョン。その辺、抜かりは無いに決まってるでしょう?古泉君!」  
 ハルヒが、フランスの貴族のような仕草で指を鳴らすと、古泉が立ち上がり、大仰な仕草で礼をする。セバスチャンかお前は。   
「今日の夜、屋上で天体観測がしたい、と先生に申し込んだところ、快く受け入れていただきました」  
 古泉が無駄に優雅な仕草で、ポケットから鍵の束を取り出して見せた。  
 というか、その話絶対嘘だろ。このエセスマイルの事だ。また裏でよからぬ事をコソコソやったに決まってる。  
「という訳で、万事抜かりないわ。今夜八時、正門前に集合する事。特にみくるちゃん!」  
 今度は朝比奈さんを鋭く指差すハルヒ。行儀が悪いからやめなさい。  
「怖いからって休んだりしたら、夜の山に一人置き去りの刑に処すわ!いいわね、絶対来なさい!」  
 朝比奈さんは、罠にかかった上、矢を向けられたうさぎのような様子で震えていたが、やがてあきらめたように、半泣きの顔を床に向けた。  
 長門は、本棚から新しい本を取り出そうとしていた。  
 
 
 俺が一旦家に帰って、妹と先を争うように夕食を食い、再び学校に戻ってきた時には、もう既に他の4人は揃っていた。  
 朝比奈さんは、早くも顔色がお悪い様子で、怯えたようにハルヒの後ろで縮こまっている。思わず守ってあげたくなるような仕草だ。  
 ハルヒはそんな俺を何か文句ありげな顔で睨んでいたが、結局そのまま何も言わず、ポケットから割り箸で作られたクジを取り出した。  
 どうやら、いつものようにクジでペアを決め、一組づつ順番に校舎の中に入る、という事らしい。  
 俺の、朝比奈さんとペアになれますように、という1デシリットルの下心も無い清らかな願いは、そう都合よく叶うはずも無く、俺とハルヒ、古泉と朝比奈さん、そして長門が一人という組み合わせが決定した。  
 朝比奈さんの方を見ると、少し安心したような様子で、古泉と言葉を交わしている。まるでその空間だけ、洒落た恋愛映画の一幕のようだ。  
 そのまま、長門の方にも目を向ける。長門はいつも通りの無表情で、自分の持つ『はずれ』と書かれた割り箸を見つめていた。  
 こいつなら一人でも安心だろうな。  
 しかし、肝試しなんて、一人でやって面白いのかと聞かれれば、それは誰だって否と答えるだろう。  
 まあ、長門なら「問題無い」とか言うのかもしれないが、こいつだけ一人ってのも、何だか不公平な話だしな。  
 俺は、何故かやたらとハイなテンションでクジを回収するハルヒに気付かれないように、ひっそりと長門に声をかける。  
「なあ、長門。お前の番になったら、俺も一緒に行くからな」  
 長門は、割り箸から俺に目線を移し、しばらく無機質な色の瞳で見つめてきた後、わずかに首を縦に振った。  
 
 その後、厳正なるじゃんけんの結果、古泉と朝比奈さん、俺とハルヒ、最後に長門の順番で、校舎に入ることになった。  
「ルールは簡単です。新館の屋上入り口と、旧館にある我らがSOS団の部室に置かれた紙に、自分たちの名前を書いてくるだけ。順番はどちらからでも構いません」  
 古泉は、それだけ言うと、鞄から懐中電灯を取り出し、泣きそうな、というか既にちょっと泣いている朝比奈さんをつれて、校舎の中の暗がりに消えていった。  
 それから約10分間、校舎の中からは、朝比奈さんの「いやー!」とか「無理ですー!」とか「ごめんなさいー!」とか、延べ47種類にも及ぶ叫び声がこだまし続けていた。  
 やがて、半ば失神した様子の朝比奈さんを背負って俺たちの前に戻ってきた古泉の笑顔は、さすがにいつもの精彩を欠いていた。  
 よく見ると、古泉が着ていた卸したてのように皺一つ無かったシャツは、羊の大移動に巻き込まれたかのような有様になっている。  
 そんな様子を見ていると、今回ばかりは古泉に少しだけ同情してやってもいい気分になった。ドンマイ、古泉。  
 
 そしていよいよ、俺とハルヒの番である。  
「さあ、キョン!行くわよ!」  
 古泉から受け取った懐中電灯を激しく振り回しながら、ハルヒはさっさと玄関をくぐり、下駄箱の中に足を踏み入れている。  
「いいわね、キョン。ちゃんと幽霊さん出てきてください、って念じながら歩くのよ!」  
 既に肝試しの趣旨を完全に履き違えているハルヒの背中を、早足で追いかけながら、俺は小さくため息をついた。  
   
    
 正直に言おう。俺もこの時は、少しだけ、ほんの少しだけだが、SOS団の皆との騒がしい肝試しも、悪くないと感じていたんだ。  
 俺がハルヒと二人っきりになった時、トラブルが起こらなかった事なんて、片手の指で足りる程しか無かったという、確固たる事実も忘れて。  
   
   
 校舎の中は、俺が思っていた以上に不気味なものだった。  
 今夜は月も薄い雲に隠れており、懐中電灯で照らされた足元と、電気設備の豆電球以外は、灰色がかった闇が視界を覆っている。  
「おい、ハルヒ。少しペースが速すぎるぞ。もうちょっとゆっくり歩け」  
 鼻歌でも歌いだしそうな足取りで、俺の遥か前を行くハルヒに声をかける。お前があんまり先に行くと、俺の足元が見えないんだよ。  
「あんたが遅すぎるんでしょ。そんなにおっかなびっくり歩かなくても、地雷なんて踏まないわよ」  
 そう言いながら、俺の顔に明かりを向けてくる。やめんか、眩しいだろうが!照らすのは足元だっつーの。  
   
 それにしても、ハルヒと二人で夜の学校を歩いていると、なんだかあの夢の事を思い出してしまいそうになるな。  
 あの時もたしかこんな風に、校舎に、というか世界に二人っきりだった筈だ。  
 しかし、あの時の校舎って、こんなに不気味だったっけな。それどころじゃ無かったから、気にならなかったのか?  
 いや、いかんいかん。あんな夢を思い出してみろ。またしても俺は自分の命を絶ちたくなるようなダウナーな気分になる事間違い無しだ。  
 おれの精神の均衡を保つためにも、あの夢には蓋をした後、五寸釘で四隅を固めるぐらいしなくてはならないのだ。  
   
「……キョン!ちょっと、キョン!」  
 気付けば、階段の上からハルヒが俺を照らし出している。いつの間にやら階段の前まで到着していたらしい。  
「あんたねぇ、何ボーっとしてんのよ!いくらなんでも、さっきから怖がりすぎよ!」  
 前に見た性質の悪い夢のことを考えていた、とは口が裂けても言えないし、死んでも言わない。  
「ちょっと考え事してただけだ!」  
 そう大声で言いながら、急いでハルヒの元まで階段を駆け上がる。  
 ハルヒは俺に一瞥をくれた後、心なしか、さっきよりもゆっくりと階段を上り始めた。今度は俺もその横に並んだ。  
 
「ねえ、キョン。あんたさ、怖いものってある?」  
 並んで階段を上っていると、不意にハルヒがそんな事を言ってきた。  
「私は、殆ど無いわ。幽霊なんて、全然怖くないし、むしろ友達になりたいぐらいよ。あ、悪い奴だったら、もちろんその場で成仏させるわ」  
 いつもどおりの強気な笑顔を、俺に向けてくる。暗がりの中でも、不思議とはっきり見える笑顔だった。  
「だから、大丈夫よ。私に任せときなさい」  
 ……どうやら、よっぽど俺が怖がっていると思っているみたいだな。まあ、実際ちょっと怖いのだが。  
 かなり恥ずかしい気もするが、こいつがこんな他人を気遣う発言をするのは珍しい事なので、俺は特に何も言わなかった。  
 
 しかし、怖いもの、ね。  
 俺には、結構たくさん有るな。  
 テストも怖いし、成績表を見せた後の母親も怖いし、ハルヒが運んでくるわけのわからないトラブルなんて最悪に怖い。  
 もちろん、幽霊なんてのも、進んで会いたいと思うほど親しみを感じちゃいないしな。  
 だけど、一番怖いのは……  
 鈍い灰色が瞼の裏で煌いた。  
 
 
 視界の隅で、長い髪の女が、俺たちをじっと見つめている。  
 
 
 俺は、階段に挟まれた廊下の暗がりの中で、思わず足を止めていた。  
「……キョン?なにやってんの?」  
 少し上の段から、ハルヒが俺に声をかけてくる。  
「……今、そこに、誰か、いなかったか?」  
「はあ?」  
 ハルヒは俺の横まで下りてくると、懐中電灯で辺りを照らす。  
 誰もいない。当然だ。  
「何よ、誰もいないじゃないの……ちょっと、キョン!しっかりしてよ!」  
「あ、ああ、悪い。そうだな。気のせいだ」  
 いかんな。どうも俺は、自分が思っている以上に、この状況を怖がっているのかもしれん。谷口と国木田の怪談を聞いたせいか?  
 すぐ隣で、少し心配そうに俺を見ているハルヒ。  
 どっちにしろ、こいつにこれ以上格好悪いところみせるのは憚られるな。流されてばかりの俺にも一応、意地というものがあるんでね。  
「さあ、もうちょっとで屋上だろ?さっさと済ませるぞ、ハルヒ」  
 
 その後、すぐに屋上の入り口に着いた俺たちは、壁に貼り付けられた紙に名前を記入した。  
 ちなみに、その紙には既に、清廉な筆跡で『古泉』、丸っこい字に滲んだような跡を残す『朝比奈』、という文字が書き込まれていた。  
「さ、次は部室ね。旧館に行くわよ」  
 旧館に行くためには、少し階段を下りた後、渡り廊下まで向かわなくてはならない。  
 俺とハルヒは、今までゆっくり上ってきた階段を、何となく、少し早足で下りはじめた。  
 
 そして、幾つか階段を下りた後、渡り廊下前に向かった筈の俺たちを迎えたのは、いつもの中庭を見渡せるガラス張りの廊下ではなく、真っ白な物言わぬ壁だけだった。  
「あら?キョン、渡り廊下って、もう一階下だったっけ?」  
「いや、たしか、この階だったと思うんだが……」  
 しかし、無いものはしょうがない。  
 俺たちは首をかしげながら、もう一度階段を下りて、渡り廊下に向かったのだが、そこでも俺たちの前には、白い壁が立ちはだかっていた。  
 
 階段を、下りても、下りても、下りても、下りても下りても下りても下りても。  
 俺たちが、渡り廊下に辿り着く事は無かった。  
 
 
「……なあ、ハルヒ」  
 うなだれるようにして階段に腰を下ろしたまま、横で同じような格好をしているハルヒに聞いてみる。  
「……何よ?」  
「ここ、何階だったっけ?」  
「私が正しければ、地下11階ね」  
 
 説明しよう。我が北高の地表に出ている部分は、実は氷山の一角に過ぎず、その本体は、モグラさんもびっくりの地下巨大施設なのだ!というわけでは勿論無い。  
 俺たちが屋上に行っている間、果たしてこの校舎にいかなる心境の変化があったのか、有機物の塊である俺には想像することすら出来ない。  
 しかし、一つだけ言えることは、その構造が、人の心より遥かに複雑で、底知れず、そして捻くれてしまっているという事だ。  
 まず、幾つか階段を下りると、件の白い壁すらもはや無くなり、同じ様な廊下が果てしなく続いていることに俺たちは気付いた。  
 もちろん、教室も階段も、一定間隔で配置されている。  
 地下、えーとたしか、23階ぐらいで、試しに引き返してみたものの、地上12階まで上がったところで、屋上すら無い事に気付いた。  
 教室の中に入ったりもしたが、扉の向こうは完全にランダムで、廊下が直角に続いているか、どこかの普通の教室に繋がっているかのどちらかだ。  
 ちなみに、教室のもう一方の扉を開けたら、平行だったはずの廊下が、直角に続いていたりと、どこかの騙し絵も真っ青な構造である。  
 最初、「きっと異空間に迷い込んだのよ!」と目を輝かせていたハルヒも、この頭のおかしな芸術家の作品のような校舎の構造を知るにつれ、着々とその意気を下げていき、今では俺と同じぐらいのローテンションだ。  
   
「ねえ、キョン。見てよ」  
 顔を上げると、いつの間にかハルヒが、廊下の窓から身を乗り出して、懐中電灯で外を照らし出している。  
 その姿勢、電車ではしゃぐ子供みたいだぞ、と思いながら、俺もその後ろから外を覗き込んだ。  
 上を見上げると、星も雲も月も無い。というか、1メートル先も見えない。  
 下を見ても、勿論地面は無く、暗闇が底を覆っている。前を見ても以下同文だ。  
 まるで、深海に沈没していく途中の巨大な船に乗っている気分だった。俺たちの心情的にも、大体そんな感じだしな。  
「やっぱり、いくら下っても、地面には着かないみたいね」  
 ハルヒは身軽に廊下に着地すると、腕を組んで何事か考えはじめる。  
「ああ。そうみたいだな」  
 俺は、何事か悩んでいるハルヒを見て、そう一人ごちた。  
 
 この空間。俺は、おそらくハルヒが作り出したものだと考えていた。  
 だってそうだろう?終わらない八月があるんなら、終わらない廊下があったって別に不思議でもなんでも無い。  
 ただ、どうしてこんな事をするのか。それがまるで見当もつかない。いや、こいつの考える事がいつだって見当外れだって事はもう十分過ぎるぐらい知ってるさ。  
 だが、こいつがこういう事をしでかす時は、大抵何らかの不満を抱いている筈なんだが、最近そういった様子も無かったように思う。  
 それに、もう一つ気になることがあった。それは、ハルヒが段々と不安そうな顔をするようになってきた事だ。  
 以前のこいつは、逆だった。最初不安そうにしていたが、あの巨人が出現する辺りで、顔を輝かせ始め、玩具を与えられた子供のように楽しそうにしていた筈だ。  
 ……ハルヒじゃ、ないのか?  
 不意に、さっき見た、あの髪の長い女の幻を思い出した。まさか、あいつが?  
   
「先に言っておくけど、私じゃないわよ」  
 
 数メートル先の暗闇が、いつの間にか人の形を作り出している。  
「……朝倉、涼子?」  
 呆然とする俺の代わりに、ハルヒが間の抜けた声をあげた。  
 
「久しぶりね。涼宮さんとは、仲良くやれてるみたいじゃない。涼宮さんも、お久しぶり」  
 柔らかい笑顔と、上品な仕草。朝倉は、あの日、俺の目の前で転校した時のままの姿で、そこに存在していた。  
「あ、あんた、何でこんな所にいるの?」  
 気付けば、ハルヒが朝倉との距離を詰めようと足を動かしている。  
「ハルヒ!」  
 俺は二人の間に無理矢理身体を割り込ませる。ハルヒが不満そうな声をあげるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。  
「うわー。羨ましいな、涼宮さん。愛しの彼に、身体を張って守ってもらえるなんて」  
「黙れ。どうして、お前が、こんな所にいるんだ」  
 あの時、たしかに朝倉は、長門によって消滅させられた筈だ。やはり、長門の親玉が、何かしでかそうとしているのか?  
「もう。そんな怖い顔しないでよ。さっきも言ったでしょう?あなた達を閉じ込めたのは、私、というか、私たちの意志ではないわ」  
 朝倉は、不満そうに眉根を寄せている。その顔は、遅刻してきた生徒を叱る、委員長のそれだった。  
 しかしすぐに一転して、今度は花の咲いたような笑顔で笑いかけてくる。  
「でも、同時に、私の遺志を果たす絶好の機会でもあるの」  
「あんた達、さっきから何の話してるのよ!?」  
「……どういう意味だ?」  
 俺は背中から聞こえてくるハルヒの声を無視して、朝倉に問いかける。  
「そうね。これから次の幕が始まるから、あなたには知っておいたもらった方がいいわよね」  
 朝倉は一人で頷くと、俺に向かって、物覚えの悪い生徒に根気よく教える教師のような仕草をしながら、喋りだした。  
「まず、この空間を作り出したのは、間違いなく涼宮さんよ。空間を環状に繋げて作られたこの校舎は、出口も入り口も無いの。勿論、行き止まりも無いわ」  
「どうして、ハルヒがそんな物を作ったりするんだ」  
「もう、話はちゃんと最後まで聞いて。いい、この空間は、言わば逃げるためのフィールド。だから、終わりも無いし、始まりも無い」  
 逃げるため、だと?  
「そう。あなた達、肝試ししているんでしょ?ほら、よくあるじゃない。怖ーい洋館に閉じ込められた男女が、そこにいる怖い怪物に、追いかけられるの」   
 朝倉は、口に手を当てて、おかしそうに笑っている。  
「そして、そこから脱出する途中、二人には愛が芽生えるの。ふふ、今時流行らないかしらね?」  
「……さっぱり意味が分からんぞ。要するに、何が言いたいんだ」  
「もう、鈍いわね」  
 朝倉は、心底あきれたような顔で俺を見つめてくる。大きなお世話だ。  
「いい。これは涼宮さんが監督の、そうね、ホラー映画よ。夜の学校に迷い込んだ主人公とヒロインが、怖ーい幽霊に追いかけられるの」  
 いつの間にか、息のかかる距離に、朝倉の顔がある。動くきっかけを、完全に見失ってしまった。  
「主人公はあなた、ヒロインは涼宮さん、そして、とっても怖い幽霊は」  
 
 わたし。   
   
 気付いた時には、朝倉は俺の目の前から消えていた。  
 
 
「……っ!」  
「ハルヒ!?」  
 くぐもった様な悲鳴を聞いて後ろを向くと、ハルヒが左足を押さえてうずくまっている。  
 その先の廊下には、いつの間にか朝倉が立っている。右の手に、いつか見た銀色のナイフを持って。  
「お前!」  
 ナイフの切っ先が赤く濡れているのに気付いた俺は、思わず朝倉に飛び掛っていた。  
 しかし朝倉は、落ち着き払った仕草で、ナイフを俺の顔の前に突きつけてくる。  
 それを目にした俺の身体は、反射的に一歩後ろに下がってしまっていた。   
「落ち着いて。ほら、これで涼宮さんの傷口を押さえてあげて。大丈夫よ、何か細工がしてあるなんてことは、誓ってないから」  
 朝倉は、ポケットから真っ白なハンカチを出して、床にそっと投げ落とすと、そのまま5歩後ろに下がった。  
 俺はそれを見て、完全に混乱していた。何なんだよ、この状況は!こいつ、何を考えているんだ?  
「早くしないと。涼宮さん、とっても苦しそうよ」  
 後ろを向くと、ハルヒは呆然とした様子で、血まみれの足を見詰めている。  
 くそ、考えている場合じゃない!俺は床に落ちたハンカチを拾い上げると、慌ててハルヒに駆け寄った。  
「ハルヒ、少し触るぞ」  
 俺は妹に持たされたポケットティッシュを取り出して、ハルヒの足の血を拭ってやる。ハルヒは声をあげずに、顔を歪めていた。少し、我慢してくれよ。  
「ごめんなさい。でも、知っておいて欲しかったの。確かにこの劇は涼宮さんが監督だけど、同時に登場人物でもあるのよ」  
 左足首から腿にかけて、細長い傷口がぱっくりと開いている。俺は急いでそこにハンカチを巻きつけた。  
「本当なら、普通の幽霊か怪物か何かが、あなた達を脅かすだけの脚本だったの」  
 白いハンカチは、すぐにうっすらと血の跡を浮かび上がらせる。これじゃ、歩くのはしばらく無理だ。  
「でも、あなたは涼宮さんに怖いものを聞かれて、私を想像してしまった」  
 さっきから耳障りな声をあげ続ける朝倉を、俺は睨みつけた。  
「だから、私が発生したの。悪い幽霊の役でね。驚いたわ。だって、統合思念体と繋がっていないとは言え、完全に私なんだもの」  
「うるさいぞ!少し黙ったらどうだ!」  
「でも、安心して。力の殆どは、この空間を維持するために消費してしまっているから、今は普通の女子高生と、大して変わらないわ」  
 俺を無視して、朝倉は続ける。特に親しいクラスメートにでも向けるような笑顔で。  
「だって、折角のチャンスなのに、この空間を消されちゃったら、私も一緒に消えちゃうからね。そんなのって、ちょっと悔しいじゃない?」  
 ハルヒは、右手で懐中電灯を握り締め、左手で足首を押さえたまま、意味が分からないといった顔で、朝倉を見つめる。  
「でも、私も涼宮さんの作ったルールには逆らえない。彷徨う二人の演目の次は、追われる二人の演目でなくてはならないの」  
 今ここで済ます事もできるのにな、と残念そうな顔をする朝倉。  
「涼宮さんが設定した、ここから出る方法は二つ。私から夜明けまで逃げ切るか、それとも、私をやっつけるか」  
 朝倉は両手を広げる。まるで、カーテンコールに応える女優のような仕草だ。  
「さあ、今から百数えるから、その間にあなたは、涼宮さんを連れて逃げなさい。ハッピーエンドになるといいわね」  
 朝倉は笑顔のまま、間延びした声で、一から数を数え始めた。  
 
「……あんた、一体なんのつもり?」  
 ようやく目が覚めたような顔で、ハルヒが声をあげる。しかし、朝倉はそれには答えず、代わりに9という数字を返してきた。  
 俺は、そんな朝倉を睨みつけたまま、ハルヒの両膝と背中に手を回し、手早く抱き上げる。結構重いな。  
「ちょ、ちょっと、キョン!何すんのよ!下ろしなさいって!」  
 朝倉の話を信じるか信じないかは別としても、とにかくこいつの前にハルヒを置いておくのはまずいのは確かだ。  
 ならば、朝倉の言うとおり  
「逃げるぞ、ハルヒ」  
 俺は何事か喚くハルヒを無視して、手近にあった教室の扉を足で開ける。もう見慣れてしまった廊下が、果てしなく続いていた。  
 その中を、少しも躊躇することなく、真っ直ぐに駆け抜ける。  
 朝倉の声は、もう聞こえなくなっていた。  
 
 
 そうして、今は、ハルヒを背中に背負い直し、暗闇の支配する廊下を歩いている。  
 俺の首に回されたハルヒの手首に目をやると、腕時計の針は、午前1時を指していた。  
 これだけ逃げ回って、まだ1時かよ。夜明けまであと4時間近くあるぞ。  
 俺の足は、もう走る事も出来ず、前に進むのがやっとといった有様だ。こんな事なら、運動部にでも入ってれば良かったかもな。  
「ねえ、キョン、あんたかなり顔色やばいわよ。いい加減休んだ方がいいわ」  
 ハルヒの心配そうな声が耳元で聞こえてくる。これでこの台詞は6回目だな。  
 でもたしかに、そろそろ休まないと、完全に潰れてしまいそうなのも事実だ。  
 俺はハルヒが背中から下りたのを確認すると、そのまま床に突っ伏した。  
 ああ、冷えた床が最高に気持ちいい。できることなら、もう二度と起き上がりたくない気分だね。  
「……キョン」  
 俺は床を転がり仰向けになって、扉に寄りかかって座り込んでいるハルヒを視界に捉える。  
「あんた、一人で逃げた方がいいわよ」  
 ハルヒは、真剣そのものといった目で俺を見つめてくる。だから、そんな目で見たって、何もやらんって言ってるだろ。  
「朝倉に捕まったら、やばいんでしょう?このままじゃ、時間の問題よ」  
 たしかにやばいな。長門なんて、もう口に出せないぐらい酷い事になってたしな。  
「私なら一人でなんとかできるから、あんたは一人でさっさと逃げなさい」  
 何だよ、自分が犠牲になって、俺を助けるってのか?そんなんだから、自意識過剰なヒロインは痛い子に見えるんだぜ。  
「別に、そんなんじゃないわ。団長が、団員の足手まといになるなんて、我慢ならないだけよ」  
 俺は、さらに何か言おうとしたハルヒの頬を、左手で掴んで思いっきり引っ張った。  
「ひたたた!ひったいはね!はなひなはいよ!」  
「お前がわけのわからんことを言うからだ」  
 できることなら、俺だって一人で逃げ出したいところだが、あいにく俺は、他人を見捨てて自分だけ逃げるような主人公の出てくる映画が、果物の汁がおかずに染みた弁当の次に嫌いなんだ。  
 
 しかし、実際のところ、このままではすぐに朝倉に追いつかれそうだな。  
 さて、どうする?やり合ってみるか?案外俺がやられれば、こんな三流映画はあっけなく幕を閉じるかもしれんしな。  
 ……いや、何のために、朝倉がハルヒを傷つけたと思ってるんだ。  
 俺がやられたら、その後ハルヒもかなり悲惨な目に遭わされる可能性があるって事を、見せ付けるために決まってる。そこまで甘くない、て事か。   
 長門に助けてもらおうにも、携帯は通じないし、そもそも閉鎖空間だしな。  
 古泉はどうだろう。今の時点で助けに来ないってことは、あいつでもこの空間に入れないのかもしれん。  
 朝比奈さんは……いつもかわいいな。それで十分だ。  
 
「キョン、ちょっと来て」  
 俺が考え込んでいると、ハルヒが今まで寄りかかっていた扉を開けて、その中に首を突っ込んでいた。  
「何だよ。イルカがショーでもやってるのか?」  
 俺もハルヒの上から扉の中を覗き込む。何の変哲もない、ただの教室だ。もちろんイルカもいない。  
 ……いや、ここは、ひょっとして  
「俺たちの、教室だな」  
 そう、そこは、今となっては懐かしい感じさえする、ほんの数時間前まで平和に過ごしていた、俺たちのクラスだった。  
 ハルヒは、窓際の一番後ろにある自分の席と、その後ろにある掃除用具入れを見つめているようだ。   
「ねえ、キョン」  
 ハルヒは、唇の端を歪めて、俺の方を見上げてくる。なんだか、嫌な予感がする。  
 最近気付いたんだが、俺の嫌な予感は、的中率がかなり高い。履歴書の特技の欄に書けるぐらいだぜ。  
「私、いいアイディア思いついちゃったわ」  
 
 
 まさに、俺の嫌な予感は的中したと言っていいだろう。周りは真っ暗で、迂闊に身体を動かす事すら出来ない。  
 というか、こんな無茶な作戦、成功するのか?  
「来たわよ、キョン」  
 ハルヒが小声で俺に伝えてくる。どうやら、朝倉が教室の前まで辿り着いたらしい。ああ、もう引くに引けなくなってしまった。  
 それにしても朝倉め、何が普通の女子高生だ。あんだけ出鱈目に走ったのに、正確に追いかけてくるなんて、どう考えても裏技を使っているとしか思えん。  
 俺が心の中で毒づいていると、小さく朝倉の声が聞こえてきた。  
「あら、涼宮さん、お一人なの?彼は?」  
「あいつなら、一人で逃がしたわ。足手まといだから」  
 ハルヒは、自分の席に座っている……はずだ。というか、いらん事言いすぎだぞ、ハルヒ。  
「……そう。かわいそうな涼宮さん。愛しの彼に逃げられるなんてね」  
 さもおかしそうに朝倉は言う。声がさっきよりもはっきりと聞こえてきた。どうやら窓際に近づいてきたようだ。  
「うるさいわね。大体、あんたには聞きたい事が山ほどあるのよ。何で急に転校したの?何でここにいるわけ?でもって、何で私の足を切りつけてきたのよ!滅茶苦茶痛かったわ!」  
「うーん、そうね。理由を言ってもいいけど、どうせ言ってもあなたは理解しようとしないだろうから、やっぱり言わない事にするわ」  
 からかう様な調子で、朝倉は答える。さっきより近いぞ。大丈夫なんだろうな!ハルヒ!  
「それより」  
 朝倉は続ける。いよいよ声は近い。  
「彼があなたを置いて逃げていった、ていうの、嘘よね?」  
 来た。  
「……何でそう思うのよ?」  
「そうじゃないと、私が困るの。あなたの目の前で彼を殺して、情報爆発を観測するのが、幽霊である私の遺志なんだから。それに」  
 まったく、俺にとっては、とんでもなく迷惑な悪霊だ。  
「何だかさっきから、この掃除用具入れ、気にしてるみたいね?」  
 鼓動が早まる、心臓が口から飛び出そうだ。頼むぞ、ハルヒ!  
「かわいい悪あがきね。涼宮さんが私を引きつけて、掃除用具入れに潜んだ彼が、私に襲い掛かる、ってとこ?」  
「……くっ!」  
 図星を突かれたハルヒは、窓を開けると、一か八か暗闇の中に飛び込もうとする。薄情な奴だなおい。  
「やめた方がいいわよ。そこから落ちたら、下手したら永遠に落ち続けることになるから」  
 それを聞いたハルヒは、思い止まったように窓枠から手を離し、窓を開け放ったままで、床に座り込む。  
「偉いわね。じゃあ、とりあえず、彼を掃除用具入れの中から出してあげましょうか」  
 ああ、是非そうしてくれ。こんな所にいるのは、もう真っ平ごめんなんだ。  
 
 ところで、うちの掃除用具入れは、向かって左側に取っ手があり、右側に開くようになっている。  
 そうなると、朝倉はナイフを左手に持ち替え、取っ手を右手で開けようとするはず、とハルヒは言っていた。  
 右側に開くって事は、掃除用具入れを開けた時、当然右側の視界は遮られるはずでしょ、ともハルヒは言っていた。  
 まあ、それだけなんだけどな。  
 俺は、ゆっくりと手を上に上げて、窓枠を掴む。  
「……え?」  
 まるで掃除用具入れに誰も入っていなかったような朝倉の間の抜けた声を合図に、俺は開かれたままの窓枠をしっかりと掴み、今まで乗っていた、窓の下に出っ張ったひさしを蹴り上げると、懸垂の要領で一気に教室の中へ身体を押し上げた。  
 そして、一度窓枠に両足で着地すると、そのままの勢いで、掃除用具入れを開けた姿勢で呆然としている朝倉に飛び掛る。  
「くっ!」  
 朝倉は俺に気付き、左手のナイフを振るおうとするが、開けっ放しの掃除用具入れに阻まれて、その刃が俺に届く事は無い。  
 果たして、俺の身体は間の抜けた格好で朝倉にぶち当たり、高1男子の体重を乗せたまま、朝倉は背中をしたたかに床に打ち付けた。  
 朝倉の顔が一瞬苦しそうに歪む。その拍子に、ナイフは左手から離れていた。  
 俺は咄嗟にそれを引っつかむと、そのまま窓の向こうに放り投げる。銀色は、すぐに闇に溶けた。  
 
 
「……びっくりした。いつからアクション映画に路線変更したのかしら」  
 朝倉は、本当にびっくりしたような顔で、馬乗りになった俺を見上げてくる。  
「知らん。ハルヒに聞いてくれ」  
 あいつの無茶なアイディアのせいで、俺は窓の外で、いつ落ちるかも分からんような頼りない足場だけを頼りに、身を屈めることになったんだからな。  
「よくやったわ、キョン!さあ、朝倉涼子!さっきの質問に、きりきり答えてもらうわよ!」  
 ハルヒはまさに鬼の首を獲ったかのような表情で、片足立ちで自分の机に寄りかかったまま、朝倉に指を突きつける。だから、行儀が悪いっての。  
「ダメよ。まだ私、やられたわけじゃないもの」  
 朝倉は、俺の身体の下で楽しそうに笑っている。  
「おい。この状況を見ろ。どう考えても、お前の負けだ。さっさとここから俺たちを出せ」  
「ダーメ。だって、まだ私は生きてるし、夜明けにもなってないわ。さっきのナイフで、私を刺せばよかったのにね」  
 あんなもん、持つのも使うのもごめんだね。  
「それとも、このままの姿勢で、夜明けまで私の上に乗っているの?それでもいいけど、何だか涼宮さんに嫉妬されそうで怖いわ」  
 思わず朝倉の顔を見つめた。襟元が乱れた制服に、少し荒い息。長い髪が口元にかかっていて、いつに無くセクシーに見える。  
 一方俺の態勢といえば、そんな朝倉に顔を近づけ、両手で腕を掴んだまま、朝倉の腰の上に、自分の腰を下ろしている。  
 これはたしかに、第三者に見られたら、即警察に通報されるよな。うん。納得だ。  
「……ちょっと、あんた何この状況でデレデレしてんのよ」  
 ハルヒの冷たい声が降ってくる。デレデレなんてしてないぞ。ただ、現状を客観的に分析していただけだ。  
 そんな言い訳を考えながらハルヒの方に首を動かそうとすると、不意に頬の辺りに生ぬるい感触が走る。  
「なっ……」  
 ハルヒは、絶句したように俺と朝倉を見つめている。顔を戻すと、朝倉は、悪戯が成功した少女のような顔で舌を出していた。  
 ……頬を、舐められたのか?   
 俺は思わず、朝倉の腕から右手を離して、自分の頬に触れる。右の頬が、かすかに湿っていた。  
「あ、あんた、なにしてんのよ!」  
「だって、この態勢だし、何だか落ち着かないんだもの。それにもう、そういう事をするには、いい時間でしょ?」  
 呆然とする俺の代わりに大声をあげたハルヒに対して、朝倉は濡れたような瞳を俺に向けたままで答える。  
「ねえ、怖ーい涼宮さんは、足を怪我して動けないわ。あなたも偶には、浮気ぐらいしてもいいんじゃない?」  
「ちょ、ちょっと!ねえ!聞いてんの!」  
 朝倉は僅かに腰を揺らす。俺の頭の中は、脳髄に蜂蜜が流し込まれたように、鈍く混乱していた。  
 朝倉はそのまま目を閉じて、俺の顔に唇を寄せてくる。長い睫毛に、整った白い顔。唇は、紅を差したように艶やかだ。  
 俺はいつの間にか、瞼を閉じていた。  
 ああ、夜の校舎で、唇を合わせるなんて、これで、何回目だったっけ?  
 
「キョン!」  
 
 って、アホか俺は!目の前に迫った朝倉の顔から、上半身ごと顔を離す。  
 この状況で、何てこと考えてんだ、俺は。よっぽど欲求不満なのか?いかれてるとしか思えん。  
 顔を振って、鈍く残る甘ったるい匂いを脳から追い出していると、朝倉は艶のある顔から、つまらなそうな顔になって、  
「あーあ、残念」  
 とだけ言うと、右手に現れたナイフを握り込み、俺の脇腹に突き立てた。  
 
「え?」  
 そんな間の抜けた声をあげたのは、果たして俺だったのかハルヒだったのか。  
 気付けば俺の身体からはナイフの柄が生えており、一瞬体中の神経が失せたように脱力すると、そのまま朝倉の上から崩れ落ちていた。  
 脇腹に入り込んだ冷たさが、ずるりと抜ける。変わりに耐え難い熱さが、そこら中の神経を刺激してきた。  
 痛い。何だこれ。ふざけんな。耐え難い。血が出てるじゃないか。死んじまう。痛い。痛い。痛すぎる。  
 目の奥がチカチカする。辺りの暗闇が、やけに眩しい。  
「キョン!」  
 誰かの声が聞こえたが、俺の脳はあいにく痛みの信号で一杯で、声が意味を成す前に、霞んで消えた。  
「もう。折角涼宮さんの目の前であなたと楽しもうと思ったのに、全然つれないんだもの。がっかりしちゃう」  
「……っ!キョン、大丈夫!?」  
 誰かが俺の傍に駆け寄ってくる。お前は足を怪我してるんだろ?あんまり無理するなよな。  
「それに、いくら私が殆ど力を使えないからって、これぐらいの事はできるんだからね」  
 だんだん頭の中がはっきりしてきたが、その分腹部に感じる痛みも激しくなってくる。  
「キョン、キョン、しっかりして!」  
 俺の真っ赤な腹に手を当ててくるハルヒ。汚いから止めといた方がいいぞ。  
 その後ろで、銀色のナイフを両手でいじりながら、朝倉が笑っていた。  
 俺は這いつくばって身体を動かし、朝倉の視線を遮るようにハルヒの横にまわる。  
「あら、さすが主人公ね。そんなになってまで、涼宮さんを庇うんだ」  
 うるさい。こっち側の方が、態勢的に楽なだけだ。  
 ハルヒは俺が動いたことに気付いた様子も無く、泣きそうな顔で、開いた俺の腹に手を当てている。  
「でも、そんな風に無防備な背中を向けられちゃったら、私も刺さないわけにはいかないじゃない」  
 困った人ね、と、本当に困った風な口調で朝倉は呟いた。  
 
 ああ、くそ。痛いし怖いし、なんだかちょっと寒いし。全く散々な肝試しだ。夢なら一刻も早く覚めて欲しいもんだな。  
 さあ、俺。この後どうするんだ?決まってる。どうしょうもないさ。後は神様にお祈りでもするぐらいだ。  
 この辺で長門が助けにきてくれれば、最高なんだがな。古泉が来てくれたら、俺はあいつのファンになってやってもいい。  
 朝比奈さんが来てくれたら、俺はその場でプロポーズするだろう。  
 
「じゃあ、いくわね。さあ、あなたが死んだら、涼宮さんはどんな物を見せてくれるのかしら」  
 
 朝倉の楽しそうな声がする。殺されるのか?俺が?嘘だろ?本当さ。  
 畜生。怖い。泣き出してしまいそうだ。身体が震える。ああ、でも、この痛みから解放されるなら、悪くないのかもしれない。  
 そんな諸々の感情も、血と一緒にゆっくりと俺の身体から流れ出ていくようだった。後に残るのは、濁った眠気だけだ。  
 俺の腹を必死で押さえるハルヒの手に目を向けた。健康的に白かった手が、もう手首の辺りまで、赤黒く染まってしまっている。  
 俺は何となく、ハルヒの手に自分の手を重ねてみる。少しだけ、恐怖が和らいだ気がした。  
 
「さようなら」  
 
 朝倉は言う。ナイフが迫る。ハルヒが何かを叫んだ気がしたが、俺には聞き取る事が出来なかった。  
 何故ならば、世界が終わるような轟音を立てて、教室の窓を吹き飛ばしながら生えてきた巨大な腕が、朝倉の身体を掴んでいたからだ。  
 
 
「え?」  
 今度の声は、俺たち三人の口から出たものだった。  
 教室は殆ど全壊していた。天井も床も壁も、俺たちのいる壁際以外は根こそぎ吹き飛んでおり、跡にはぽっかりとした暗闇が口を開けている。  
 痛む腹も忘れて、思わず振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、そんな光景と、そして、その真ん中で巨大な手に掴まれる朝倉の呆然とした顔だけだった。  
「……夢に出てきた、巨人?」  
 ハルヒが呟く。外の暗闇がそのまま物質化したような闇色の巨大な腕は、確かに見覚えのあるものだ。  
「神人……」  
「神人?これが?」  
 俺の声を聞いた朝倉が、自分を掴む暗闇に目を向けた。  
「……そっか、そうよね。涼宮さんは、この世界では神様だもの。劇が気に入らないのなら、舞台ごと壊す事もできるわけね」  
 朝倉は、困ったような顔のまま、しょうがないか、といった様子でため息をつき、俺たちに笑顔を向けてきた。  
「おめでとう。めでたくハッピーエンドね。かなり力技だけど、こんなんじゃ、さすがにこれ以上は続けられないわ」  
 朝倉の身体は、巨大な腕ごと、ゆっくりと暗闇に同化しようとしていた。  
 それと共に、僅かに残っていた教室の残骸も、端の方から砂が崩れるように消えていく。  
「朝倉、あんた、か……」  
 何か声をあげようとしたハルヒの声が、テレビのボリュームを絞るように、ゆっくりと小さくなっていく。  
 俺が慌てて首を戻すと、今まで目の前にいた筈のハルヒが、影も形もなくなっていた。  
「ハルヒ!?」  
「慌てなくても大丈夫。元の世界に戻っただけよ」   
 思わず立ち上がろうとして、腹の痛みに顔をしかめた俺に、朝倉が優しくいたわるような声をかけてくる。  
「ああ、傷のことなら大丈夫よ。ここであった事は、始めから無かった事。言ったでしょう?ここは環状閉鎖空間。始まりも終わりもないんだから、最初から何も無いのと同じ」  
 朝倉の姿は、いよいよ暗闇に沈んでいく。教室も、俺が座り込んでいるところ意外は、殆ど消えてなくなっていた。  
「あーあ、今度こそ上手くいくと思ったんだけどな」  
 顔の半分を暗闇に埋めたまま、朝倉は心底残念そうな声をあげる。  
「まあ、いいわ。何だかとっても楽しかったから。次にこんな機会が有れば、是非また呼んで頂戴ね」  
 俺の身体も、意識を道連れに、暗闇の中に沈んでいく。もう痛みも無い。  
「これからも、涼宮さんと、お幸せに」  
 からかうような朝倉の声は、遠い。  
 
 くそ、ふざけんな。二度も人様をこれだけの目に遭わせておいて、そんわけのわからん言葉だけでお別れとは、誠意のかけらも感じられん。  
 俺は、閉じそうになる瞼を僅かに残った気力で押し上げ、輪郭だけしか残っていない朝倉を睨みつけた。  
「おい、委員長」  
 最後にこれだけは、言っておかなくてはならない。  
「クラスのみんな、お前が急に転校したのを聞いて、寂しがってたぞ」  
 男子連中は特にな。  
   
 俺は、それだけ言うと、いい加減このアホらしい夢から目を覚ますために、瞼を閉じることにした。  
 
 
 
「……ョン、ちょっと、キョン!いい加減起きなさい!」  
 俺は、耳元で響く怒鳴り声に辟易しながら、瞼を開けた。  
 背中には、冷たい床の感触。視界には、俺を覗き込んでいるハルヒだけでなく、長門と朝比奈さん、それに古泉の顔が見える。  
 ……あれ?何で俺、こんなところで寝てるんだ?  
「まったく、ビックリしましたよ。どうもお二人の帰りが遅いと思って探しに来てみたら、あなたも涼宮さんも、こんな所で眠り込んでいるなんて」  
 古泉のからかうような声を聞き流しながら、身体を起こした。どうやら、新館側の渡り廊下前のようだ。  
「おかしいのよね。屋上の紙に名前を書いた所までは覚えてるんだけど、何でこんな所で……」  
 ハルヒの言うとおりだ。なんで俺たちがこんな所で寝てるんだ?そんなに眠かったっけ?ちょっと早めの更年期障害か何かか?  
 ふと腕時計に目をやると、俺たちが校舎に入ってから、20分と経っていなかった。  
 あれ?おかしいな、もっと長い間、夢を見ていたような気がするんだが。  
「あ、あの、お二人も見つかった事ですし、もう外に出ませんかぁ?」  
 俺とハルヒが首を捻っていると、朝比奈さんが泣きそうな声をあげた。どうやら、もう一秒も夜の校舎になんかいたくないらしい。  
 怯えた様子で目を閉じている朝比奈さんの健気なお願いを無碍に断るわけにもいかず、俺たちは一旦校舎の外に出ることにした。  
   
 玄関に向かう途中、いつの間にか俺の横に長門がやってきて、こう言った。  
「あなたと涼宮ハルヒの反応は、この世界から零コンマ零零六秒消失していた」  
「ぜろ……何だって?」  
 早口言葉か?という俺の疑問に、長門は前を向いて歩きながら答える。  
「零コンマ零零六秒。その間、特殊な閉鎖空間が発生していたことを、古泉一樹が確認している」  
 は?なんだそりゃ?  
「詳細は不明。一瞬で正常に戻っていたので、確認することは不可能だった」  
 俺は、腕を組んだまま早足で前を歩くハルヒに目を向けた。  
 まさか、また知らん間に、ハルヒが何かしでかしたんじゃないだろうな?   
「何らかの異常を危惧した我々は、急いであなた達の元に向かい、あなたと涼宮ハルヒが睡眠状態に陥っているのを発見した」  
 俺を見ないまま、長門は続ける。  
「あなた達には、多少記憶の混乱が見られる。何か、思い当たる事は」  
 ……さっぱりわからん。いつのまにか、俺とハルヒは廊下で寝ていた、らしい。ハルヒも言っていたように、屋上の紙に名前を書いた所までは覚えている。  
 それから、旧館に向かおうとして、階段を下りて……いや、下りなかったのか?どうもその辺から記憶が曖昧だ。  
 考えれば考えるほど、頭の中に霧が大量発生してくる気分だ。このまま運転すれば間違いなく事故るだろう、という危機感から、俺は思い出す事を放棄した。  
「……そういえば、何か夢を見ていた気がするな」  
「夢……」  
 長門は夢を見るのだろうか、というピントのずれた疑問を抱きつつ、俺は言った。  
「どんな夢かは覚えてないけど、まあ、アホらしい夢だったことは覚えてる」  
 そう。思い出すのも馬鹿らしいぐらい、くだらない夢だ。  
 
 はあ、それにしても、何だかやたらと疲れたな。そこまで運動したわけでもないのに、体中に汗がまとわりついているような気さえする。  
 さっさと家に帰って、ゆっくり風呂にでも入って寝るとしよう。  
 こんなフォークも刺さらないような固い床じゃなくて、柔らかい自分のベッドで眠れば、もっといい夢が、例えば朝比奈さんが出てくるような素敵な夢が見られるはずさ。  
「ダメ」  
「は?」  
 横を見ると、長門が、暗闇とは別の意味で引き込まれそうな暗い色の瞳を、俺の顔に向けている。  
「次は、私と、あなたの番」  
 
 どうやら、俺たちの肝試しは、もう少しだけ続くようだ。  
    
 
 
 
 
   
 誰かに呼び止められたような気がして、後ろを振り返った。  
 今まで皆で歩いてきた廊下の奥は、とうに暗闇に飲まれ、数メートル先もよく見えない。  
 
 
 
「ちょっと、キョン!なにやってんの!さっさと来なさい!」  
 いつの間に引き返してきたのか、俺の目の前にはハルヒが立っていた。  
 他の三人は、少し先で俺たちの事をじっと待っている。  
「何?どうかしたの?」  
 ハルヒはどこか心配そうに、俺の顔を見つめてくる。  
 
「いや」  
 蒸し暑い校舎の中。月の明かりも届かない。  
「ただの、気のせいさ」  
 
 
 
 
 
 視界の隅で、長い髪の女が、俺たちをじっと見つめていた。  
 

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