ハルヒはアヒル口どころか顔全体、いや全身で不機嫌をこれでもかと言わんばかりに主張している。  
そのむくれ顔じゃ咥えたポッキーを自力で折っちまうぞ。ゲーム始める前からそんなになるなって。  
後そのタバコみたいな咥え方もやめてくれ。俺が噛み付けられないから。  
 
「……」  
 
ドスっと椅子に座り込むハルヒ。机が目の前にあればすぐにでも足を投げ出してしまいそうな勢いだ。  
…っていうかだな、ちょっと待ってくれよ。幾らなんでもそこまで不機嫌になるか?  
いや、ハルヒが不機嫌になる理由は分からんでもないし、むしろその埋め合わせをする為にこうやって  
俺は腹をくくっている訳なんだが、それにしたってこれはちょっと激しすぎる。そんなに嫌だったのか。  
 
ハルヒの後ろに立つ三人、その中央に居る古泉に視線を移す。「どうかしましたか?」といった様子だ。  
どうもこうも無い。こっちは丸腰で熊か虎かライオンかそれより凶暴な奴を沈めなきゃいけないんだぞ。  
しかも頼みの綱はポッキー一本と来たもんだ。誰を恨む訳でもないが、少し小言を吐かせてくれよ。  
例えそれが八つ当たりや逆恨みの類だとしても。ああ、分かってるって。俺が悪かったってば。  
 
案の定古泉は肩を軽く竦めた。何も口にしなかったが、何を言わんとしたかは分かる。  
事実実際大前提として、俺はハルヒが怒るような事をした。程度の差なんて問題じゃない。  
だから「そこまで不機嫌になるか」なんて詭弁だ。みっともない言い訳にしかならんよホント。  
ああもう、分かった、分かったってば。中途半端な自己正当化なんてこれで止めにしよう。  
 
未練がましく言い訳を続ける自身を無理やり押し黙らせて、俺はハルヒに一つ頼み事をした。  
 
「すまんハルヒ、立ってくれないか」  
 
視界の隅で朝比奈さんがギョっとした。古泉も予想外だったらしく、「これは」と一言。  
しかし即座に笑顔に戻り、興味深そうに顎に手を当てた。お得意の思案ポーズだ。  
 
古泉よ、お前が小さく「ああ、なるほど」と呟いたのを聞き逃す俺じゃないぞ。  
お前に俺の意図が読めない筈がないだろう? ミステリーとボードゲームと人の、主に俺とハルヒの  
心を読むのが大好きな超能力者が。ちなみに長門は…何となく面白くなさそうな顔をしているんだが、  
あれはどう解釈すれば良いんだ? まぁそれはいいとして。で、ハルヒの様子は、と。  
 
「…何でよ。アンタ、立ってやると身長合わないんじゃないの?」  
「いや? ハルヒは長門や朝比奈さんと比べれば、もうちょっと背があるだろ。だからこれでいい」  
 
言っとくが、これは考え無しじゃないぞ。リスクもリターンも打算も勝機も俺なりに見えている。  
 
いや、正直な所リターンに比べてリスクや損失、デメリットの類が大きすぎるような気もするんだが…  
背に腹は変えられん、ねぇ。畜生、やっぱり小言を言いたい。言わなきゃやってられるか、こんなの。  
 
早々と自暴状態に陥った俺の事など露知らず、ハルヒはただでさえ悪い機嫌を更に加速させていく。  
ふぅーっと、何やらヤバ気な溜息というか無闇に長い一息をつき、非常にゆっくりと立ち上がった。  
いちいちこちらの恐怖を煽るような動きだ。長門、今更だが俺はお前に感謝しなくちゃならんようだ。  
もしこれが「朝比奈さん×ハルヒ」とかそういうくじ引きの結果を出してしまったら、朝比奈さんは  
恐怖の余り心臓発作で確実に死んでいただろう。とてもこの視線に耐えられるとは思えない。  
 
「ほら、これでいいんでしょ。早くしなさいよ、チョコがベタベタして気持ち悪いの」  
 
ハルヒは口の端で咥えていたポッキーを前に突き出して来た。いよいよこれで準備は整った訳だ。  
さて、後は俺の度胸試しとなる。ここには朝比奈さんが居て長門が居て、ついでに古泉も居る。  
正直な所、これから俺がやろうとしている事は殆ど公開処刑みたいなものなんだが…ああ、もう。  
腹はさっき括った。言い訳もしないと決めた。オマケに自暴自棄にもなったので怖くなんかない。  
ああ、今更惜しむような恥なんか無い、そうだろうハルヒ? 悪いが付き合ってもらうぞ。  
 
俺はハルヒにゆっくりと顔を近づけた。ハルヒは少しだけ目を泳がせて、また俺を睨んだ。  
その視線がどこか強がりに見えたのは何でだかね。いや、強がっているのは俺も同じか。  
目を閉じず、ただ近づいて来るお互いの目だけを意識しながら、俺はハルヒに噛み付いた。  
 
「――」  
 
およそ7cmって所か。俺が噛み付いた時点での俺とハルヒの距離はそのぐらいだ。  
計算の内か羞恥心への最後の抵抗か、恐らくそのどちらも手伝って俺は意識的に浅めに噛み付いた。  
ポッキーが小刻みに揺れている。どちらの唇が震え、動揺しているのかは考えない。不毛だからな。  
何にせよ次はハルヒの番だ。卑怯、チキンと言うなかれ。俺はこれから勇ましさを通り越し  
愚かしい、まさしく神をも恐れぬ大暴挙に出なければならないのだから。  
 
ハルヒは動かない。他の二人と比べ、消極的な位置に噛み付いたのが気に入らなかったのか。  
ポッキーと俺の唇の距離を測るようにじっとしている。こちらの意図を計りかねているようだ。  
さあハルヒ、お前はどう出る。それとも実は俺の意図なんかとっくに見抜いているのか?  
 
もう暫く熟考した後、ハルヒは俺に倣うように浅く噛み付いた。様子見って所か。いやしかし。  
残念だが俺的チキンレースはここからスタートだ。様子見する暇など与えん…という訳で。  
 
「んっ!?」  
 
さっきまでの消極的な態度を帳消しするべく、俺は思いっきり深く噛み付いた。  
一気に俺とハルヒの距離が詰まる。さっきは7cm、ハルヒが噛み付いて6.5cmだったのが、  
何の前触れもなく3cmまで縮まった。まぁ、ちょっと喉に刺さりそうでヤバかったんだが。  
 
当然ハルヒはパニックに陥りかける。良かった、この分ならまだ俺の目論見はバレていない。  
俺の目論見とは、即ち閉鎖空間を発生させるほどの精神的余裕を持たせない事に尽きる。  
厳密に言えば余裕があるならそもそも閉鎖空間は発生しないのだが、  
しかしこうやって目の前の状況が二転三転するなら、破壊衝動を発散させる暇なんて無い。  
ようするに、ハルヒを落ち着かせては駄目なのだ。閉鎖空間から意識を逸らすのが俺の目論見である。  
 
はてさて狙い通り、ハルヒは突然の事に「?」や「!」の疑問符を乱立させている。  
驚いた事に、まるで朝比奈さんのように「あわわわわわ」と口をもごらせていた。成果は予想以上だ。  
ポッキーの揺れがいっそう激しくなる。折れるから落ち着…あーいや、やっぱ落ち着かんで良い。  
 
「……!」  
 
睨んで来た。今にも「何考えてんのよエロバカボケキョン!」と聞こえて来そうだ。  
何を考えてるかって言ったらそりゃ、ぶっちゃけた話地球や宇宙の平和に関わる事なんだがね。  
 
「いいからほれ、お前の番だ」と目で促す。この3cmの距離、ハルヒは果たしてどう扱う?  
さっきと同じようにまた短く噛み付くか、それとも俺に対抗してギリギリまで詰めて来るか。  
うーうーと唸りながら次の一手を考えるハルヒ。それにしても何でそんなに悔しそうなんだお前は。  
 
唇を開けては閉じを繰り返す。気が付けばハルヒは俺の袖を強く握っていた。落ち着かないようだ。  
もしやとは思うが、自分からポッキーを折って強引に中断させたりとかはしないよな?  
 
すると、どうやら杞憂だったらしい。二度目の長い沈黙を破り、ハルヒは距離を詰めて来た。  
1cm…いや、0.5cm。どうやら思い切って勝負に出たようだ。再び俺とハルヒの視線が交差した。  
吊り上った眉を見るに、負けないんだからねとの意思表示らしい。とことん負けず嫌いな奴だ。  
全くもって何が勝ちで何が負けなのかは分からんが、しかし現に俺にはこれ以上詰めようがない。  
 
いや、ある。  
 
もとい、元よりそのつもりで望んだ。ハルヒの番が終わった直後、最速で俺はハルヒの腰に左手を回す。  
 
俺の狙いは最初から決まっている訳で、動揺したり考えたりする必要はない。成すべき事を成すだけだ。  
俺に抱きすくめられた途端、ハルヒの目に動揺が浮かぶ。「え…」と小さく呟き、唇が僅かに開いた。  
そこから残ったポッキーが零れ落ちそうになったので、開いた右手でハルヒの顎を押さえてやる。  
 
「え…あ……やだ…っ」  
 
小さく呟くハルヒ。またポッキーが落ちそうになり、慌てて顎をくいっと上げてやった。  
そういえば俺達二人は立ってやってるんだった。ただでさえ苦しい姿勢が更にきつくなる。  
顎を上げた拍子に、釣られてハルヒは爪先立ちになってしまった。ハルヒの袖を掴む力が強くなる。  
 
腰に手を据えられ、顎を持ち上げられ、爪先立ち。まごうことなきキスシーン、それも超古典的な奴だ。  
全くもって恥ずかしい事この上ない。小さいとはいえポッキー咥えているのが馬鹿みたいに思えて来る。  
 
「あっ…あっ…あっ…」  
 
爪先立ちの所為で、よた、よた、といった具合にふらつくハルヒ。ヤバい、揺れる、ポッキー折れる。  
この際開き直って腰に回した手に力を込めた。ほとんど抱き寄せると言って良い。  
ハルヒは「きゃああああ…!」と黄色い悲鳴を上げた。距離は変わらず5mm、少し息がくすぐったい。  
 
しかし、まぁ、なんだ。何だこのハルヒのリアクションは。乙女のような細い声は一体何なんだ。  
「やだ…っ」って。「きゃああああ…!」って。チョコと一緒に大事なもんが溶けたんじゃないのか。  
とは言え頭が溶けてるのは俺も同じか。今更正気なんて保っていられない。何だかんだ言ったって  
俺だって恥ずかしいのだ。最早キスの寸止めに等しいこの体勢。悲鳴の一つでも上げたい。  
 
が、しかし。もう一度言おう、腹は既に括った。  
 
0.5cm先に居るハルヒと見詰め合う。戸惑いを隠せない表情に無言で答えた。俺は本気だぞと。  
ハルヒの、何度目かの沈黙。違うのは目を伏せて、僅かに肩を震わせている事。  
指が真っ白になるほどに強く掴んだ俺の袖。目も、手も、ぎゅっと強く締めて、そして離して。  
 
「――」  
 
一転して、表情を戻した。そう、戻した。何の事はない、俺の良く知るハルヒの表情だった。  
思わず唇が釣り上がりそうになるのを堪えた。やれやれ、ハルヒと同じ表情だなんてゴメンだからな。  
 
しかしまぁ、何て奴だ。この土壇場で、こいつはいつも通りの顔を見せた。俺に見せ付けた。  
団長の貫禄か、自身のプライドか、何度でも言うがこいつは俺なんぞに負けるのがよっぽど嫌らしい。  
今度こそ強がりなんかじゃない、自信に満ち溢れた表情で、「やれるもんならやってみなさい」  
と俺をたき付けている。畜生、何て可愛くない。あんまり可愛くないもんだから笑えて来る。  
さっきまでおろおろとしていた癖に。あーもう、乗った。乗ってやる。今度こそ吹っ切れたね。  
 
「どうやら、一安心のようですね」  
「あーっ…でも、これゲームの結果はどうなるんですか?」  
「…この状況だけを指すなら。どちらの敗北でもあり、どちらの勝利でもある」  
 
勝気な団長の勝手な手下達の声をどこか遠くに感じながら。俺とハルヒは、唇を合わせた。  
 
 
 
「涼宮さんの機嫌を直す、という意味では。これ以上ないほど最良の結果になりましたね」  
「そうなのか」  
「非常に密度の濃い駆け引きで、ゲームとしては非常に満足のいくものです。  
 オマケにあなたとキスをする事さえ出来たのですから、これで文句が出る方がおかしいでしょう」  
「そうなのか」  
 
ゲーム終了後、俺達は帰路についた。ハルヒは先頭で鼻歌なんぞ歌いながら朝比奈さんで遊んでいる。  
長門は相変わらず本を読んでいる。転ばないのかあいつは。いや、転ばないんだろうけどさ。  
そして最後尾、俺と古泉は並んで歩いている。閉鎖空間が出なかったのはさぞ有り難かったんだろうな。  
 
ゲーム自体は…取り合えず、俺の負けって言えば良いのか。先に唇を離したのは俺の方だったからな。  
それでも、あいつの嬉しそうを通り越し幸せそうな表情を見ると。何となく、まぁ良いかと思えて来る。  
 
「ところで。あなたと涼宮さんがキスの一歩手前まで近づいた時、  
 あなたはそこで止める事も出来たのでは? 混乱させて閉鎖空間の発生を阻止させるつもりなら、  
 あの段階で既に達成されていました。後に小言を言われる事はあれ、閉鎖空間は発生しませんよ」  
 
ああ、それなら理由は簡単だ。お前も今言っただろう、小言を後で言われるって。  
理由は何であれ、一度俺はあいつを不機嫌にさせた。あるいは小言を言わせるような状態にさせた。  
それなら、やっぱ今度はそれに対して何らかの責任ってのがあるんだよ。  
責任取っといてまた小言でも言わせてりゃ世話ないさ。だから、あの場は俺があいつに合わせて正解だ。  
 
「それだけですか?」  
「…察しとけ」  
「そうですか。では、あなたも涼宮さんも、とても負けず嫌いなんだとでも思っておきましょう」  
 
おうよ。間違ってもハルヒにキスしたかった、なんて訳はないからな。  
 
「ところで一つ、お忘れになっていませんか?」  
「何をだ――」  
 
と、聞き返して。本日最大の失念事項が瞬時に脳裏に浮かび上がった。しまった。そうだった。  
いやしかしだな、もう俺はハルヒとのアレで心情的に既に終わっている訳であってだなぁオイ古泉!  
 
「まだゲームは終わっていませんよ」  
 
そう呟いて。ゆっくりと、ゆっくりと、古泉は一本のポッキーを取り出した。  
 

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