鉄板本命正念場、お次は朝比奈さんである。今日ほどSOS団に入った、もとい入れられた事を
感謝した日は無い。怪我の功名かはたまた棚から牡丹餅か、何にせよくじに悪戯を仕掛けた長門にも
今は感謝感激だ。こんな役得があるのなら日々のハルヒ式暴君暴挙暴走数多にだってお釣りが来るね。
そのハルヒは現在0ケルビンなのに融点も沸点も遥かに超えた謎の殺人光線を目から放っているのだが、
残念ながら俺は眼前に居る朝比奈さんの視殺・愛のみくるビームによって骨の髄まで溶かされている。
だから知らない、感じない。例え長門が似たような視線を俺に送っているような気がしてもだ。
っていうか長門、お前本読んでるんじゃなかったのか。そして古泉の視線は意図的に無視させてもらう。
「あー…うー……」
そんな事は露も知らぬ殺人天使朝比奈さんは、まず聴覚から俺を攻めて来た。小動物のような鳴き声、
いや泣き声で脳を揺さぶってくれる。既に視覚は自壊を始めていたので、これでもう五感の内
二つが早くも陥落した事になる。このままでは理性という名の城が崩落するのは時間の問題だ。
崩落したら崩落したで俺は背水の陣であり、今度は神風の如く特攻しなければならない。胸に。
ところで、実は朝比奈さんの身長は長門よりも小さい。年上なのでてっきり大きいかと
思っていたのだが、やはりロリ担当はロリだった。というか正直ロリ担当の座は長門に譲られつつある。
しかしベスト・オブ・ナイスバディの座は今だ健在だ。ハルヒのお眼鏡は中々に高い。ちなみに
その身長の分の栄養はどこに消えたのかというとそれはセクハラなので考えないようにしておく。
して、閑話休題。身長の話に戻るが、例によって身長差を解決すべく俺は椅子に座る事になる。
しかしそれだとやっぱり遅かれ早かれ首が痛くなって来るのは知っての通りだ。では、どうするか?
まぁ簡単な消去法だ。立って出来ないなら二人とも座れば良い、となる。
座高なら身長ほどの差は出ない。という訳で、俺は朝比奈さんと向かい合って座っているのであった。
「けど…ちょっと遠いですね、これ」
とは朝比奈さん。そう、これが中々曲者だった。椅子を挟み、膝を挟むと意外と距離がある。
ポッキーゲームをやるにはかなり前のめりにならなければならず、これでは本末転倒だ。
「……」
どうする。いや解決策は既に思い当たっているんだが、それを実行するのは少々憚れる。
何が憚れるかっていうとそれは相手が朝比奈さんでありこれから俺がやろうとしているのは
本校のホモを除く男子いや全国のホモを除く男性の過半数を敵に回すような事であり
大体そんな事をやってしまえばまたどこぞの変態補正がかかった団長殿の手によって閉鎖空間が
生み出されるかも知れんしそうなると俺はまた例のアレをするハメになる訳だしそうでなくとも
ご機嫌取りの為に心身及び財布を全身全霊で磨耗せざるを得ない状況になりかねなくそして
いつの間にか朝比奈さんよりハルヒを気にしてる自分に気付き、気付かない為に全力で誤魔化した。
「よっこらせっと」
朝比奈さんが座る椅子の背もたれを持ち、俺の方に引き寄せる。
当然膝がぶつかるので俺は足を少し開き、丁度抱き込むように…もとい、包み込むように…ああいや、
とにかく取り合えず近くに引き寄せた。「ふゃいっ!?」という可愛らしい悲鳴がいつもより
近くで聞こえて来る。ふと、花の香りがした。香水だ。これにはクラっと来た。
ついに三つ目の感覚・嗅覚までを朝比奈さんに占領された俺である。敗戦必死だ。しかし先ほどまでの、
何故か、意味の分からない、妙な葛藤も全てそいつが持って行ってくれたので感謝も半分ぐらいある。
「キョキョキョ、キョン君!? 駄目ですよ、そんなの!」
あーいいんです、朝比奈さん。そんな事よりほら、ちゃっちゃと始めちゃいましょう?
「い、いいんですか? ホントにいいんですか? じゃあ、あの、お願いします…」
ハイもう喜んで。
「え、ぇた、食べ、食べてください…」
――――――――――たっぷり10秒は停止した。なのに心臓だけがどんどん加速している。
その一言にどれほどの破壊力があったのか、果たして朝比奈さんは知らないだろう。
五感も遠慮も俺の気持ちも易々軽々と飛び越えて、直接俺の理性に致命傷を与えて来た。
俺はもう余計な動きは一切出来ない。少しでも無駄を作れば、その隙間から色んな欲求が首をねじ込んで
朝比奈さんへ向けて飛び出して行きそうだった。天国に拷問があるならきっとこんな感じに違いないね。
最早場違いにすら思えるポッキーを咥えて、朝比奈さんは目を瞑って俺を待っている。
震える瞼が、唇が、まるでキスを求めているような錯覚を覚えた。ポッキーが、見えない。
肩に、手を、置く。それは酷く間違った事なのに、朝比奈さんはすんなりとそれを受け入れた。
背中が震えた。視界は揺れるどころか殴られ続けているように定まらない。俺はどこで何をしている?
ここで、部室で、朝比奈さんと――そうだ。ゲームだ。焼け爛れて崩れかけた理性を必死で掻き集める。
それを沸騰寸前の血で塗り固めて、無理やりにでも脳に押し付ける。それでようやく、俺は噛み付けた。
「んっ」
小さく朝比奈さんが声を漏らす。三半規管はとっくに役目を放棄していた。チョコの味が、する。
朝比奈さんと同じものを食べている。時間と距離と味覚を共有している。これは真剣にヤバい。
視覚は朝比奈さんの顔を、聴覚は朝比奈さんの吐息を、嗅覚は朝比奈さんの香りを、
触覚は朝比奈さんの肩を。味覚も半分やられた。後数cm唇を前に出せば、残りの半分が堕ちる。
そしてあろう事か、朝比奈さんは自ら唇を前へ進ませる。
落ち着け。これはゲームだ。これはルールだ。ポッキーを食べなきゃ成立しないんだ。
そう、俺が噛み付いたら次は朝比奈さんの番であり、つまり今度は朝比奈さんが噛み付いて来る。
だがそれは朝比奈さんの都合であり、俺の都合で言うならこれは進軍行為と言っても過言ではない。
更に性質が悪い事に、敗戦を知って尚俺もまた進軍しなければならないと来た。将棋の名人と
今日始めて駒の動きを知った少年が指し合うようなものだ。負ける事を大前提とし、勝負は進む。
あるいは死刑の為に絞首台へ向かって階段を登る受刑者は、こんな気持ちなんだろうか。
サクサクと減っていくポッキーが、そのまま俺の寿命を表す。残り役2cm、絶体絶命にも程がある。
いや、これは絶対絶命だ。絶対に絶命するから絶対絶命だ。それを拒否しようとも思わない俺もヤバい。
この一触即発な内心とはおよそかけ離れた状態で、ポッキーは何のストレスもなく減っていく。
それが当たり前のように俺と朝比奈さんの唇は近づいていく。朝比奈さんの、息が、顔に、かかって、
「――」
目が、合った。視界なんてまるで機能していない筈なのに、吸い付くように朝比奈さんの瞳を捕らえた。
羞恥に耐え、いっぱいに涙を溜め、顔を真っ赤に染めた朝比奈さんを見て、今度こそ――俺は参った。
参ったといえば最初から参っていたのだが、トドメだった。死体に鞭打つと言っても良い。
衝動的にゲームだという事も部室だという事もハルヒが居るという事も忘れてそれが何を意味するのか
それをやった後俺はどうするつもりなのか何故ハルヒの事が脳裏を掠めたのか考える事もせずにそして
パキンと、乾いた音がした。
それは熱の塊と化した俺の脳に奇妙なほど良く響き、しかしそれが目の前の、
俺と朝比奈さんとの間のポッキーから生まれた音だと気付くのは暫く時間がかかった。
「…もう……無理です……」
そう朝比奈さんは呟いて、俺の肩に顔を預けた。まるで情事の余韻のような荒い息をつき、
肩を震わせている。それでようやく、朝比奈さんが羞恥に耐え切れなり、自分からポッキーを折った
という事を理解した。咥えた中途半端なポッキーを飲み込む事も忘れて、俺は間抜けにも硬直していた。
落ち着いたのは30分経ってからだった。堪忍袋の緒が切れたハルヒに詰め寄られ、
長門のこれまでにない、寒さを超え痛みすら感じる強烈な視線を一身に浴び、小声で古泉に
「閉鎖空間発生寸前です。一刻を争います。お願いですから大至急どうにかしてください」
と懇願された。爽やか超能力者の顔は、青かった。初めて見る表情だ。
ああ、どうやら俺の所為らしい。いや、らしいじゃなくて俺の所為だ。
衝動的に俺は、最低の中の最低のそのまた最低な事をやろうとしていたのだ。自己嫌悪で死にたくなる。
だって朝比奈さんだし、という言い訳はしない。したくない。そんな安っぽい言葉で
これ以上朝比奈さんを汚したくない。これは俺の責任であり、俺がケジメをつけなきゃならん。
「ハルヒ」
「……何よ」
「始めるぞ、ゲーム」
ケジメをつけなきゃ、ならん。