『涼宮ハルヒの後悔』
プロローグ
夢だと思った。
違う。夢だと思いたかった。
でも現実だった。
それは足の裏に走る痛みが教えてくれた。
何故だろう?
「キョン……お願い。あたしのこと、犯して……あいつらのこと忘れられるぐらい
めちゃくちゃに犯して」
何故こんなことになってしまったのだろう?
人は本当に大切なものは、失ってからでないと気づかないからかな。
違う。そんなのは嘘だ。
「あたしキョンなら大丈夫だと思うの。大好きなキョンならきっと……だから、ねっ」
俺は気づいてた。ハルヒの気持ちにも、俺にとってハルヒがどれだけ大切かってことも。
ただ……逃げていた。
答えをだしたくなかった。
SOS団でのこの一年はなんだかんだいってもやっぱり楽しかった。
それを壊したくなかった。
その俺のわがままがこの事態を招いたのだ。
最悪。
その言葉でさえ足りない。
もはや形容する言葉も見つけることはできない。
ハルヒの今の表情を何かに例えることもできない。
こんな状況で俺に何ができる。
「キョン、好きぃ、大好きだよぅ……してぇ」
目の前で震えるか弱い少女を救ってあげることができるのか?
この俺に。
違う!
救ってあげるとか、何ができるのかとか、そういうことじゃない。
そういうことじゃないんだ。
あの時、伝えられなかった言葉を伝えればいいんだ。
俺はあの時、ハルヒの想いに応えてやることができなかった。
いや、応えようとしなかった。
その責任を今とろう。
まだ手遅れじゃないから。
「好きだよぅ……キョン」
ハルヒがこう言ってくれるかぎり、俺たちはまだ大丈夫だから。
俺のハルヒを想う気持ちがあるかぎり、俺たちはまだ大丈夫だから。
さあ、止まっていた時間をもう一度動かそう。
あの時の続きを今はじめよう。
俺とハルヒの二人ではじめよう。
あの時の続きを…………
第一章
開会の言葉。
国歌斉唱。
学習指導要領。
卒業証書授与。
祝辞。
送辞。
答辞。
閉会の言葉。
号泣する一部の卒業生と在校生。
一般的な卒業式の風景だ。
そして卒業式の後だというのに、部室に集まってなんの実りもない活動をするSOS団。
この光景も日常的といえるまでに月日がたったことがなんとも感慨深い。
しかし今日はいつもと違う光景もちらほらと……
「こぉうら! みくるちゃん。いい加減泣き止みなさい」
「えぐっ、う、うう〜、だって、卒業式ですよ。先輩とお別れですよ。もう会えないんですよ〜」
いや、よく考えたらそんなに変わらないな。朝比奈さんが泣いてるのはいつものことだし。
「もう、みくるちゃん。先輩に好きな人でもいたの?
もしそうなら今からでもおそくないわ。行って制服のボタン全部剥ぎ取ってきなさい!」
ハルヒが無茶なことを言うのもいつもどおり。
「そ、そういう、わけじゃないんですぅ……でもやっぱりお別れするのは、ぐすっ、さ、さびしいですよ」
朝比奈さんは未来人。いつかはこの時代と、俺たちと別れる日が来る。
だから別れの儀式というのは人一倍思うところがあるのかもしれない。
「ホントに〜? 後から取り返しのつかないことになって後悔しても遅いのよ?」
そういうお前はどうなんだ。ボタンを貰いたい先輩はいないのか?
なんて聞くだけ無駄か。
「ふんだ。いつも言ってるでしょ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ」
そう言って例の如くアヒル口をするハルヒ。
「お前なー、そんなこといつまでも言ってると、幸せの青い鳥も遠くにいっちまうぞ」
「なによそれ。あたしはいいの。いつも自分のやりたいようにやってるわ。後悔なんかしないもの!」
団長席から立ち上がり、俺を激しく睨みつけながらハルヒは高らかに宣言した。
地雷でも踏んでしまったのだろうか。ハルヒの表情からはかなり怒っている様子が伝わってきた。
そもそもこいつと一緒にいること自体が地雷原の中をスキップで移動するより危険なことなのだが。
「なんだよ。そんなに怒るなよ」
「怒ってなんかない!」
怒ってんじゃん。
「うるさい! あー、もう気分悪い。今日の活動はここまで、解散!」
ハルヒは机の上の鞄を取り上げると勢いよく部室の外へと飛び出して行った。
「おい、ちょっと待て!」
俺もその後を追う。
いつもなら古泉と一緒に肩をすくめたりするのだか、今回はそういうわけにはいかなかった。
あいつ間違って俺の鞄を持って行きやがった。
外に出るとパンクバンドの重低音よろしく響く雷の音が聞こえてきた。空を見れば雲の中に稲光。
さっきまで晴れていたのに……これは一雨きそうだな。別れの涙雨ってやつか。
おっとこんなきざったらしいセリフはスマイリー古泉の専売特許だったな。俺が使うべきじゃあない。
まあそんなことはどうでもいいさ。
今はハルヒを見つけることの方が重要だ。
あいつ足早いからな。とっくに校外に出て行ってしまってるかもしれない。
しかしそんな俺の心配は不用だったらしい。
部室棟から出て辺りを見渡すと、すぐにハルヒの後姿を見つけることができた。
まだ下駄箱にも至っていない。なんだかゆったりした足取りで歩いてる。
俺は駆け足で追い付くとハルヒの肩を叩いた。
「キョン……」
振り向いたハルヒの表情は嬉しいような、悲しいような表現し難いものだった。
一応は晴れているけど今にも雨が降りそうな、でもやっぱり降らないみたいな……とにかく複雑な表情をしていた。
「ハルヒ。その鞄、俺のだ」
言われてハルヒは鞄をまじまじと観察する。
「ホントだ」
「お前のはこっち」
もってきた鞄を差し出すとハルヒは、
「ありがと」
控え目にお礼を言って受け取り、そのまま俺から遠ざかろうとした。
「待てよ」
その手を掴む。
ビクッと反応を大きくさせるハルヒ。
「な、なによ」
「だから、そっちの鞄は俺のなんだ。返してくれ」
「あっ……」
ようやく俺の鞄を差し出す。
「じゃあ」
そして再び俺から遠ざかろうとする。
なにかおかしい。
このまま見送るのがはばかられた俺はもう一度ハルヒの体を掴みこちらに振り向かせた。
「今度は何よ? もう用は済んだでしょ」
「あ、いや。雨降ってきたから。傘持ってないんだろ。送ってってやるよ」
「……うん」
「…………」
「…………」
沈黙する二人。
二人で通る通学路。別に初めてじゃない。
相合い傘だって何度もしている。
まあ普段は半ば強引にハルヒが俺の傘を奪うって感じだったけど。
ちなみにこの傘は高校に入って四本目だ。
小さい頃から傘を壊したり、無くしたりしないというのが俺の小さな自慢だったというのに。
「…………」
「…………」
いい加減なんか喋ってくれ。間がもたないぞ。
そんな俺の思いもむなしく聞こえてくるのは傘を打つ雨音のみ。
やがて俺とハルヒの家への分岐点に至る。
「ここまででいいわ」
「でも濡れるぞ」
「大丈夫。走っていけばそんなに濡れないと思うから」
「風邪ひくって……傘持ってけよ。俺の方が家近いから」
「大丈夫。もうキョンの傘二本もダメにしちゃってるし」
いや、三本だ。
俺の答を聞く前にハルヒは一目散に駆け出した。曲がり角を曲がってあっという間に見えなくなる。
本当に今日のハルヒはどうしたというのだろう。
なにかがおかしい。このおかしさはつい一ヶ月前にも感じたものだ。
あのチョコ一つ渡すのに壮大な陰謀をめぐらしていた二月上旬。その陰謀に巻き込まれた俺は大変な労力を支払い、
報酬として見事に三人の手作りチョコレートケーキを得るというわらしべ長者もびっくりな僥倖にあずかったわけで、
果たして今回はどんな苦労を強いられ、その代償はいかなるものか。望み通りとは言わないが、少なくとも等価交換ではあって欲しい……
と思考の海を泳ぎ始めたところで俺は急いで砂浜へと戻り、身を投げ出した。
事件が始まる前から犯人が誰だと探し始める探偵はいない。
まだ何も起こってないのになんだかんだと心配するのは、いたずらに脳を疲弊させるだけだ。
ただでさえつい先日終わった試験のせいでオーバーワーク気味だというのに。
脳は使えば使うほど成長するってあれはきっと勉強嫌いの子供をどうにかするために考案された世界規模のペテンだな。
もしそうならば入学してからこっちハルヒの巻き起こしてきた事件に頭を悩ませてきた俺はとんでもない天才になっていることだろうよ。
とにかくごちゃごちゃ考えていても仕方がない。
何か起きた時に全力で立ち向かう。俺みたいな一般人にできるのは所詮それぐらいだ。
脳内議論に決着をつけた俺は深く嘆息しながら自分の家へと向かう。
三分ほど歩いただろうか、いきなり後ろから抱き付かれた。状況から考えてこんなことをするのは一人しかいない。
「ハ、ハルヒ?」
名前を呼びながら振り向こうとした俺の動作をハルヒの声が遮る。
「こっち見ないで!」
「なんだよ、いきなり。からかってんのか?」
「からかってなんかないわよ。ただキョンの顔を見るとうまく言える自信がないから……」
背中から伝わるハルヒの鼓動。早く強く鳴っている。それに比例して俺の心臓も鼓動を早めていく。
脈動の音が痛いほど耳に響く。心なしか息苦しさも感じる。
「あたしね……ずっとキョンに伝えたかったことがあるの」
「伝えたかった、こと?」
それは俺が望んでいることなのだろうか?
「その前にさっきはごめんね……みくるちゃんに言ったことって、
本当はあたし自身にも言えることだったんだよね。
でもそれが解ってるのにあたしはキョンに伝えたいこと伝えられなくて……そう思ってちょっといらいらしてた。
そこに張本人であるキョンに図星つかれちゃったからなおさら、ね。
でもやっぱりそんなことじゃいけないよね。いつまでもああやって自分の気持ちごまかしてたら、いつか後悔するよね。
あたし嫌だから。なにもしないで後悔するのだけは本当に嫌だから
だから言うね。あたしの気持ち、キョンにちゃんと伝えるね」
この続きを俺は望んでいるのだろうか?
そんな気もする。心の奥ではずっとこの日を待ちわびてたのかもしれない。
でも……
きっと聞いてしまったら、もう戻れない。
SOS団としてこの一年過ごしてきた楽しい空間へは戻れない。
あの関係を続けることはできない。
それなら、それなら……
「あたしはキョンのことが
聞かなくていい。
す」
「うるせぇ!」
そのハルヒの言葉を掻き消すように俺は叫んだ。
「そんな言葉聞きたくねぇ。だってそうだろ。今まで人のことさんざん奴隷みたいに扱ってきたくせに。
それをいまさらそんなこと言われたって、信じられるわけねぇだろ」
違う。
「それにどうせいつも通りからかってるだけなんだろ。
いや、からかってようがいまいが関係ねぇ。俺はお前の道具じゃねぇんだ。
いつも好き勝手になるなんて思うなよ!」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
「SOS団に未だに付き合ってやってるのも、お前のわがままに付き合ってやってるのも、
全部最初に関わっちまったから惰性でやってるだけなんだよ」
違う。そうじゃない俺は……。
「それをお前に対する好意だと勘違いしてんじゃねぇよ。俺はな、お前のことなんて大嫌いなんだよ!!」
違う。違う。違う。違う。違う。
目の前が真っ黒になり思考はホワイトアウトした。
俺の独白の後世界はまるで音を無くしたかのように静まり返っていた。
しばらく俺は何も感じなかった。
いや、一つだけ感じていた。
それは後ろから伝わるハルヒの温もりだった。
「……それ、本気なの?」
静寂を破ったのはハルヒの声。それが震えてるかどうかも今の俺には区別がつかなかった。
「ほ、本気だ」
それだけ言うのに100メートルを全力疾走したような疲労感が伴った。
「そう」
すうっとハルヒが離れていく。
遠くなっていく足音。
これでいいのか?
いいわけないだろ。
確かにこれでもうハルヒの生み出す厄介ごとには巻き込まれないですむだろう。
でも違う。それじゃあ意味が無いんだ。
俺はあの空間が欲しいんだ。
SOS団の皆でハルヒの引き起こしたはちゃめちゃな事件を解決したり、
一日中街を練り歩いたり、
部室でつまんないことを語り合ったり、
誰かの別荘でとんでもイベントに参加させられたり、
たまに鶴屋さんと妹、ついでに国木田と谷口まで巻き込んでみんなで、
そう、みんなで楽しんでいたいんだ。
このままじゃいけない。
そうだ振り向いて、ハルヒに言えばいいんだ。「全部嘘でした。面白い冗談だったろ」って。
それで戻ってくるんだ。ひょっとしたらボーナスポイントも貰えるかもしれない。
「ハルヒ」
俺は振り向いてハルヒの名前を呼ぶ。
願う。ハルヒも振り向いてくれと。
ゆっくりとハルヒはこちらを向いた。
「……っ」
何も言えなかった。
ハルヒは線路沿いで弁論した時よりも無表情だった。
世界が終わって何もなくなってしまったような、そんな表情だった。
「なによ……」
まったく抑揚のない声。
「……ぁ、ぅ」
言葉が声になってくれない。
「安心して。あんたはSOS団から除名してあげるから」
そうじゃない。そんなことを望んでたんじゃない。
「もう……SOS団も解散しようかしら」
ハルヒは呟くと俺に背を向けて歩いて行った。
俺と喋っていた時ハルヒの頬を伝っていたのは雨水だったのだろうか、それとも涙だったのだろうか。
俺には判らなかった。
第二章
翌日ハルヒは学校を休んでいた。
「涼宮が休みか……珍しいな。今日の欠席は涼宮と渡辺……」
そう言った担任の声がやけに頭に残った。
春休みを控えやや短くなった授業を終えて、放課後ハルヒの不在を告げに文芸部の部室へと向かう。
もうSOS団を除名されているというのに……そんなことを考え自嘲気味な感傷に浸る。
部室の前まで来ると何処からか動物の泣き声のようなものが聞こえた。
おおかた校舎をねぐらにしている猫たちが喧嘩でもしてるのだろう。
特別珍しいことでもない。
ノックをして部室内に入る。
そこでは長門が普段と変わらず分厚い本を読んでいた。
「朝比奈さんや古泉はまだか?」
「まだ」
そうか。ならしばらく待ってないといけないな。とりあえず長門だけにでも知らせておくか。
「今日ハルヒは学校に来てないんだ……。どうでもいいけどやけに猫がうるさいな。盛ってんのかな?」
長門は本をパタンと閉じこちらを見据えた。
普段と変わらない無表情なのに、なにか射ぬかれたようなそんな視線を感じた。
「ど、どうかしたか?」
「さっきのあなたの言葉には間違いがある」
間違い? どこだよ。この泣き声が猫じゃないってことか?
「それも間違い。もう一つは涼宮ハルヒは今日登校してきている」
ハルヒが登校してきている? どういうことだ?
それにしても猫の泣き声がうるさいな。
いや、猫じゃないんだっけか。
「教室にはきてなかったぞ」
涼宮が休みか……珍しいな。今日の欠席は涼宮と渡辺……
朝の担任の言葉か蘇る。
そういえば渡辺ってコンピ研の部員だったな。
「教室に行ってないだけ。今朝涼宮ハルヒは登校しこの部室を訪れた」
解散前に一人で思い出にでも浸りたかったのだろうか?
「じゃあなんで今ここにいないんだ?」
その答はなんだか聞いちゃいけないような気がする。
昨日と同じような危機感。
背中には気持ち悪い汗が流れる。
ハルヒの不在。
コンピ研の部員の欠席。
さっきからうるさい動物の泣き声。
与えられたピースがどんどんはまっていく。
心臓ははち切れんばかりに早鐘を打っている。
「なあ、さっきの盛ってるってのは間違いじゃないんだよな?」
俺の口から出た言葉は確かに震えていた。
聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。
「盛っている……欲情しているという意味では間違いではない」
バラバラだったピースが全てはまる。
描かれているのはどんな地獄図よりも地獄。
導き出されたのは人間の欲望渦巻く最悪の結末。
長門は吐き捨てるような嫌悪感を顕わにした表情を浮かべた。
「あなたが招いた。この結末を」
俺の様子など無視して長門は続ける。
「涼宮ハルヒがここに滞在している途中、コンピュータ研究部の部室に数人の生徒が訪れた。
彼らは卒業生の荷物をはこぼぅ……」
長門の声が遠ざかっていく。
俺は走った、わずか数メートルの距離を全力で、
ドアもその勢いのまま蹴破った。これなら鍵がかっていても、いなくても関係ない。
倒れていくドアの向こうで、
ハルヒが、
何人もの男に、
凌辱されていた。
ハルヒの艶やかな黒髪は白い粘液で輝きを失い。
口には望まぬ奉仕を強要する男根が埋まっていた。
両手にはふたりの男を握らされている。
そして、まだ鮮血を滴らせている無垢な性器には男の欲望が深々と突き刺さり、
本来排泄のためにある場所すらも侵されていた。
中途半端に脱がされ、破られた制服が情事の生々しさを感じさせた。
俺が侵入したにも関わらず男達は未だに快楽を貪ることをやめない。
ぐちゃぐちゃと淫らな水音がカーテンに陽光を遮られた薄暗い部屋に響き続ける。
「あんたも仲間に入るか?」
男達の輪から少し離れたところにいる人影が声をかけてきた。
「へへっ、あの涼宮ハルヒを犯せるんだぜ。たまんねーだろ。
まあバージンは俺が奪った後だし、もう使ってないところなんてないけどな。はははっ」
どうして?
なんでこんなことに?
「不思議そうな顔してんな。こいつがおとなしく犯られてるなんてなー。その正体はこれだよ」
男はそう言って俺の前に液体の入った瓶を差し出した。
「詳しいことはわかんねーけど。意識を遠ざける薬らしいぜ。
本当は意識を高めて淫乱にさせるやつがよかったんだけど、そっちは品切れだったんでな」
その男は最後に笑いながら狂ってるよなと付け足した。
「そろそろ薬きれるぜ」
「ああ、今行くぜ。そーいえばこいつ薬きれるたびにキョン、キョンって呟くんだよな
最初に押し倒したときもキョンとか呼んでたっけ……ははっ」
男はここで顔を意地悪く歪め、俺の心を抉るように言い放った。
「それってあんたのことだよな、キョーン」
俺は男から目を逸らしハルヒを見る。
全身を白く汚されたハルヒは虚ろな目でこちらを見ていた。
目があった。
ハルヒの瞳に光りが戻る。
そして、
「キョン!」
叫んだ。
俺は我に返りハルヒのもとに駆け寄る。
体位を変えるためと、ハルヒに薬を使うため男達は一時的にハルヒの体を解放していた。好都合だ。
「目を閉じて、息止めてろ」
そう耳元で囁いてから近づいてきた男の持っていた瓶を取り上げ、床に思いっきり叩きつけた。
あっという間に液体は気化して部屋に充満する。
俺はハルヒに脱いだブレザーを被せ、体を抱え上げると、部屋の外へと走り出した。
途中何か尖ったものを踏み付けたが、それも無視して走る。
文芸部の部室の前まできたところで中を確認すると、長門はもうそこにはいなかった。
逆にまずい。SOS団で最高の戦闘力を誇るのはやはり長門だ。
俺は高校生六人を相手にできるほど喧嘩は強くないし、ハルヒもこんな状態だし。
「とにかく人の多いところにいこう」
今の時間だと……体育館がいいか。
今すぐにでも病院に行きたいところだけど、こんな状態じゃ外は歩けないし、救急車を呼ぶにしても時間がかかる。
それに体育館ならシャワー室もあるし着替えも手に入るだろう。
「キョン……やっぱりいざって時にあんたは頼りになるわ」
笑う、その表情が痛々しい。
「だめだ……俺なんて」
「ううん。キョンはあたしの王子様だよ。退屈な世界から引きずり出してくれた。
今度は……助けてくれた」
そうだ。落ち込んでる場合じゃない。俺は今やるべきことを全力でやろう。
一秒でも早くハルヒを安全な場所へ。それが俺の今やるべきことだ。
急げ。
俺は最短ルートで体育館にたどり着くと、シャワー室に駆け込んだ。
鍵をかけていない北高体育会系部員のアバウトさに感謝。
扉を閉めて鍵をかける。それだけでは不安なのでモップを使い向こう側からは開けられないように細工。
うん、完璧。もともとシャワー室だから人が入り込める窓なんてないしな。
「シャワー浴びてこいよ」
「うん……キョンもついて来て。一人になるの怖いの」
ずきり、と胸が痛む。
これからずっとハルヒは癒えない傷を背負っていくのだろう。
もうハルヒが一人で行動することはできないだろう。
いつも誰かがそばにいてあげなくちゃならない。
ならその役目は俺が負おう。
罪滅ぼしとかそういうことじゃない。
それが応えだから。
一日遅れで出した、ハルヒの想いに対する応え。
これからずっと俺とハルヒで生きていこう。
ハルヒがシャワーを浴びている途中、俺はずっとそんなことを考えていた。
耳に届くのはハルヒの体を打つ水音のみ。体育館の喧騒もここまでは届かないらしい。
「キョン……おかしいの」
ハルヒの呼びかけで精神世界から引き戻される。
「どうした?」
ハルヒが俺達を遮っていたカーテンを取り払った。
「おかしいの。洗っても、洗っても汚れがおちないのよ」
ゴシ。
ゴシ。ゴシ。
ゴシ。ゴシ。ゴシ。
ハルヒの体は摩擦のかけすぎで真っ赤になっていた。
それでもハルヒはこすることをやめない。
「い、いい加減おちなさいよ。おちろってば!
おちないとキョンに嫌われちゃう。汚いと嫌われちゃう。
大嫌いって言われたのにもっと嫌われちゃう。
おちろ、おちろ、おちろ、おちろ、おちろ、おちろ、おちろ、おちろ、おちろ……」
まるで呪文のように繰り返すハルヒ。
俺は目の前の少女を抱きしめた。
そして考える。
なんでこんなことになってしまったのだろうと。
……………
…………
………………
……
………
そうだ。あの時の対応がいけなかったのだ。
何度考えてもそうとしか思えなかった。あの卒業式の対応。それが最悪だったのだ。
ならやはりあのときの続きからはじめるべきだ。
まだやり直せる。
俺がハルヒを想っている限り、ハルヒが俺を想ってくれている限り俺たちはまだ大丈夫だ。
だから、だから……。
俺は胸に縋り付き哀願しているハルヒの顔を両手で挟み込みこちらを向かせた。
「ハルヒ。俺はお前を今抱いたりはしない」
「なんでよ! そんなにあたしのことが嫌いなの!」
ハルヒは両手で耳を塞ぎいやいやをするように首を振った。
「聞け!」
両手を剥がして、少し強めに怒鳴る。
ハルヒは体を震わせてその場にへたり込んでしまった。
俺も膝を折りハルヒの目線に俺の目線を合わせる。
そして伝える。俺の想いを。
「昨日は、その……ごめんな。素直になれなくてあんなこと言っちまったけど、俺はハルヒが大好きなんだ」
「……ほんとぅ?」
「本当だ。だから俺はハルヒを傷つけるようなセックスはしない。
ちゃんと病院にいって処置をしてもらって、それで退院してからしよう。
いろいろ順番も守って、ちゃんと恋愛しよう。
まあもうゴールは決まってるけどな。これからは俺が一生ハルヒを守るよ」
ハルヒの表情がみるみる明るくなっていく。
そして、
「いででででで」
思いっきり頬を抓られた。
「あったりまえでしょ! 誰のせいでこんなことになったと思ってんの!
それになーにが俺が一生ハルヒを守るよ、だ。守らせてくださいでしょぉ?」
「はひ、ふいはへい、ふぁほはへへふふぁふぁぃ」
「よろしい」
バチンと音がするほどの勢いで俺の頬は開放された。
「じゃあちゃんと誓ってもらおうかしら」
「はい……わたくし、」
「ちがーう、誓いって言ったらキスに決まってんでしょ。めんどくさいから言葉は省略。
それは本番までとっておくことにするわ」
キスか……それはいい考えだ。
お姫様の呪いを解くのはいつだって王子様のキスだ。
まあ俺が王子様かどうかはこの際どうでもいい。ハルヒは間違いなくお姫様だしな。
お姫様と結ばれればどんなやつだって王子様だろ。しっかりつじつまが合うじゃないか。
これからなっていきますよ。ハルヒだけの王子様にね。
「ちょっと、早くしなさいよ」
人がせっかく決意を決めてる途中に水をさすようなこと言うなよ。
まあ実際水はさされている、というか浴びてるけど。
「じゃあ、いくぞ」
俺はハルヒの肩に手を置いて顔を近づけていった。
重なる唇。例によって俺は目を閉じているのでハルヒがどんな顔をしているのかは知らない。
幸せに満ちた表情であることを切に願う。
目の前に浮かぶのはハルヒの笑顔。
耳に聞こえるのはシャワーの水音。
背中に感じるのはハルヒの鼓動。
ちょっと待て。背中?
俺たちさっき向かい合ってたよな。
なのになんで背中なの?
それにいつのまにか唇のやわらかい感触も消えてるし。
おまけにシャワーだ。なんか温度低くないか? かなり冷たいぞ。
そう、例えるならまだ肌寒い卒業式の季節に外で雨を浴びているような、そんな感じだ。
恐る恐る目を開いてみる。見えるのは通いなれた通学路。
恐る恐る振り返ってみる。肩越しに見えるのは俺の背中に額を押し付けているハルヒの後頭部。
振り向いた俺の気配を感じたのかハルヒは顔を上げた。
「ちょっと、こっち見ないでって言ったでしょ……なによそんな惚けた顔しちゃって。
まだあたし何も言ってないわよね?」
……何これ?
理解不能。
つまり……。
つまり……結局いつも通りのパターンだったわけですか?
「まあ、いいわ。この際だからもう言っちゃうわね。あたしはキョンのことが」
「待て!」
ハルヒの言葉を遮る。
俺はキスをする時は目を閉じるほど古風で作法を重んじる人間なのだ。
こういうことは男の俺から言うべきである。
「ハルヒ好きだ。大好きだ」
「…………」
硬直するハルヒ。
ほう、こいつもこんな鳩が豆鉄砲食らったような顔をするんだな。
「…………」
……それにしても硬直時間が長いな。これはあれか、また呪いか? なら、もう一回キスをして……
「呪いってなによ?」
聞こえてたんならさっさと反応しろよ。
「だって、キョンが、わけわかんないこと言うから……ねえ、さっきの言葉本当よね。
まだエイプリールフールには日があるわよ」
「本当だ」
「じゃあもう一回言ってみて」
「ハルヒ好きだ。大好きだ」
何度でも言ってやる。下校中の生徒なんて全く気にならないね。
「もう一回」
「ハルヒ好きだ。大好きだ」
「もう一回」
「ハルヒ好きだ。大好きだ」
「もう一回」
「そろそろハルヒの気持ちも聞かせてくれよ。そうしたらまた言うからさ」
真っ赤に顔を染めて俯くハルヒ。
おい、ここまで人に言わせておいて自分は恥ずかしがるのかよ。
うーん。乙女心はわからん。
「…ぅきょ」
「ウキョ?」
猿かお前は。
「っ……好きって言ってんのよ!」
その言葉を聞いた俺はハルヒを抱きしめた。
ハルヒもぎゅっと俺を抱きしめ返してくれる。
そして俺はハルヒの耳元で囁く。
「ハルヒ好きだ。大好きだ」
そして心の奥で誓う。
もう絶対離さない。一生ハルヒを守る。必ず幸せにする、と。