晩餐の食卓に並んだのは、実は和製英語だとはあまり知られていない料理、ビーフシチューだ。
程よい触感を残しつつとろける牛肉、赤ワインの風味の残るドミグラスソース。
その味は、俺が今まで食ったものの中でも最良の部類だった。
わざわざレストランにでかけて行く意味なんてどこにあるんだろうね?
俺は罰金を思い溜息をつく。『俺』の金だが、普段から罰金を受けている俺の身にもその苦労は分かるのだ。
「何言ってるのよ。場所は問題じゃないわ」
憤慨冷め遣らぬと言った表情で切り返すハルヒ。
じゃあ、何が問題なんだよ。
「キョンと出かけることに、意味があるんじゃない」
普段の俺なら「そうかい。そんなら、ファミレスだっていいじゃねえか」なんて無粋な言葉を呟くことも出来たかも知れない。
でも、顔を赤く染めて見慣れたアヒル口を見せるハルヒを前に、俺は何も言うことが出来なかった。
くそ、俺らしくないな。こいつが可愛すぎるせいだ。
部屋に戻ってゆっくり考えたいことが俺にはあった。
それは大事な事で、ひょっとしたら俺の未来に関わってくることなのかも知れん。
朝、ハルヒにひっぱられて歩いた道を部屋に戻ろうと逆走する途中、俺は知りたくもないのに、ある一点に気付かされた。
財布の中に寂しそうに野口達が並んでいた安月給の俺がこの一戸立建てを購入できた理由。
朝は混乱でそんなもの目に入らなかった俺に、その理由を理解させるに十分なモノ。
何だ。あの人型のシミ……
うっすらと廊下に浮かぶ不気味なシミ、それははっきりと分かるくらい人の形をしていた。
おそらく不動産屋も処理に困っていたんだろうな。おまけにあいつは交渉も得意だ。
つまるところ、変わってないんだな。ハルヒは。
『自室』のベッド──贅沢なことにダブルベッドだ。昨晩眠りについたベッドよりずっと広かった──に寝転がって粘菌のようにゆっくりと考えをめぐらせる。
──俺はハルヒが好きなのか…?
俺は、この世界の『ハルヒ』を可愛いと思った。美しいと思った。
そして愛しいと思った。
………
それは凄く単純なことだった。
ハルヒは『ハルヒ』であり、『ハルヒ』はハルヒでしかなかった。
気付いちまえば簡単なことだ。eureka!我発見せり。
今まさに、王冠の金の純度を測る方法を発見したアルキメデスのような気分だ。
俺はただつまらん意地を張って、その気持ちを見つめようとしなかっただけなんだ。
「俺は、涼宮ハルヒを愛してる」
言葉に出して再確認する。
多分、今の俺は3倍どころか9倍くらいの速度が出せるくらい真っ赤になっているんだろう。
でも、今声に出した言葉が俺の全ての思いで、そこには一言の嘘も含まれていなかった。
俺はハルヒが好きなんだ。
さて、自分が何か発見をしてしまった時、それを誰かに伝えたいと願うのが人間の心理だ。
例えるなら今の俺は、もし授業中だろうと前のやつの首をひっつかんでそれを教えてやりたい気分だ。
『古泉』は言った。「俺は一日で戻ってくる」と。
俺はこの世界の『ハルヒ』にも自分の思いを伝えたかった。
『俺』の選んだ、『俺』の愛したハルヒ。
そして俺のハルヒへの想いに気付かせてくれたハルヒ。
「ハルヒ」
廊下を挟んで反対側。自室の前のドアを開く。おそらくここがあいつの部屋だろう。
大き目の本棚──シュロディンガーがどうたら書かれた背表紙の本や、世界一有名な薬中名探偵の原書なんかが並んでいた──、小洒落た様箪笥に、白雪姫にでも出てきそうな鏡台、ハンガー掛けとそこに万国旗のように並ぶ衣装。
壁には、質素な時計と赤い文字が4つしか見えないカレンダー。
ソフトやら本が散らばった机と、その上でマウスを熱心に動かしてパソコンを覗きこむハルヒの後姿。
「どうしたの、急に?」
突然の俺の訪問にハルヒはキョトンとした表情を浮かべて振り返る。
「俺はお前を愛してる!!」
思うまま全て、ただひたすら言葉に込めて俺は放った。
ストライクゾーンのど真ん中への渾身のストレート。全力投球。決め球だ。
「あたしも愛してる」
俺の投げた渾身のボールはバックスクリーンへと吸い込まれた。見事なホームランだ。
自分が愛しいと思う人間に「愛してる」って言われることがこんなに嬉しいとはね。
想像よりも何倍も素敵だ。
「でも、急に何よ?」
何でって。そのだな、こう俺の想いの再確認みたいな……
あー、上手く言語化できない。
「急に言いたくなった、それだけだ」
その答えに満足したのだろうか。120%の笑みでニコっと笑ってくれた。
俺はその笑みと、自分の言葉に気恥ずかしくなって、軽く目をそらした。
そらした目に、ハンガー掛けに掛かった衣装のカラフルな色が飛び込んでくる。
学年の始めに宣伝に用いたバニーの衣装、野球大会前に朝比奈さんが着ていたナース服、全身黒のゴシック衣装──どっかの対魔班の班員の服みたいだ──、浴衣に、サンタ服、それに北高の制服。
犬だかネズミだかよく分からない茶色の生き物の着ぐるみ──どっかの軍の作った強化服じゃないよな、これ──
他にも、巫女装束だの、うちの高校の体操服──下がブルマなのは制服と同じく多分、校長の趣味だ──だの、ネコミミ──どこかのネコと、魚の取り合いでもしたようなひっかき傷があった──等。
多種多用、色とりどりのコスチュームがそこには掛かっていた。
おそらくそれは朝比奈さんや、ハルヒ、ひょっとしたら長門が身につけてきた衣装なんだろう。全部とても丁寧に保管されていた。
その中でも一つの衣装は一際大事そうに保管されていた。
俺はそれを手にとってみる。
「見て見て!キョン」
ハルヒが椅子をくるり回転させて、こちらに振り向く。
パソコンの画面はネット通販のコスチューム販売画面を開いたインターネットブラウザ──まだ増やす気か──。
その周りには聞いたことのないメーカーのゲームソフト──弓を射るケイローンのパッケージをしていた──や、まるで岡部みたいな──生徒のことを親身に考えてるが、少しウザい──セキュリティソフトのパッケージが積み上げられていた
「ドレス?」
不思議そうな表情でこちらを見るハルヒ
星空のように煌く純白の生地を、襟元についたコサージュが飾っている。
銀のティアラと、ドレスと同じ生地で出来たヴェール。
朝比奈さんは言っていた。女の子の憧れと。
そこには掛かっていたのは、ハルヒが着たらさぞ似合うだろうウェディングドレスだった。
「そっか。もう一年になるもんね」
ハルヒは壁に掛かったカレンダーを見る。紫陽花とカタツムリの絵と、数字の6。
今までの俺にとっては祝日も記念日もないろくでもない月だった。
──6月に結婚した花嫁は幸せになれる。
そんな、西洋の格言だかことわざだか言い伝えだか分からないものは、この宗教も食文化も何もかもごちゃまぜにしてしまうこの国にも伝わっていた。
多分ハルヒはそんなことを信じたんだろうな。
宇宙人や未来人、超能力者の存在を信じる奴だ。ひょっとしたらサンタクロースも信じてるのかもしれない。
でも、今はそんなハルヒが可愛かった。
いや、多分最初に出会ったときもそう思ったんだ。ただ俺が気付こうとしなかっただけで。
俺は6月の花嫁に一つの質問を投げかけた
「ハルヒ」
「ん?」
「今。幸せか?」
「言うまでもないでしょ」
ハルヒは笑った。何か唐突に、荒唐無稽な計画を俺達に付きつけて朝比奈さんや俺を困らせてくれるあの表情で
「幸せに決まってるじゃない」
軽くウインク、未来人の必殺技だ。クラクラするね。
「久しぶりに着てみようかしら」
ウェディングドレスを見続けていた俺の顔を覗きこんだハルヒは、急にそんなことを言い出した。
華奢な手が丁寧に包装を解いていき、その手にドレスをつかむ。
「うん。いいわね。今日はこれでしましょう」
っておいおい。何脱いでる。
ハルヒはTシャツに手をかけながら、こともなげに言う。
「何言ってるの。見慣れてるじゃない」
いやいや、俺は見慣れてないし。
そもそもだな、女の子はもっと……
「女の子はもっと慎み深くでしょ?」
慌てている俺を見て、ニヤっと笑うハルヒ。
やれやれ『俺』と俺の意見は合致するらしい。
可愛い、美しい、綺麗、beautiful、schone、belle。その他何でも良い世界中の誉め言葉を並べてやりたい。
なんなら長門に聞いてどっか他星の言語でも誉めてやりたいくらいだ。
純白の衣装に身を包み、ヴェールの下に俺の一番好きな髪型を含んだ今のハルヒにはそれだけの価値があった。
文句がある奴は出て来い。俺が相手だ。
「それじゃ、キョン。しよっか」
頬を薄紅色に染めて、軽い上目遣いでこちらを見るハルヒ。どうにかなってしまいそうだ。
そもそも、さっきから「する」「する」って何をだ。
「そういうのは女の口から言わせないものよ。キョン」
……えーっと。待て。おい。俺は健全なる男子校生で、まだ未経験で……
いや、待てハルヒ。
何?硬くなってる?
当たり前のことを抜かすな。
じゃなくてだな。
いや、俺の貞淑が。
って、待て待て待て待てって。おーーーーい
どれくらいの時間がたったんだろうか、周りに人の気配を感じて俺は目を覚ました。
「おや、お目覚めですか?」
実は良いヤツかも知れないニヤケ顔。古泉の声だった。
髪は……当たり前だが短い。チョンマゲも結えないだろう。
「おかえりなさい。キョン君」
微笑みながらこちらを見てるのは朝比奈さんだ。
まるで遠距離恋愛中の恋人に久方ぶりに会うような笑顔を見せてくれた。
「………」
聞きなれた3点リーダは長門だ。
こいつは喋らないで社会生活に適応できてるのかね?
「ハルヒはどこだ?」
自然と俺はそれを聞いていた。
可能な限り早く。いや、今すぐにでも想いを伝えたかった。
「自宅ではないでしょうか?」
古泉が演技じみた笑みを見せる。大変だな、お前も。
「今すぐに伝えたいことがある。そこに携帯があるから取ってくれ」
「今すぐですか?流石にあなたからの電話といっても、この時間では涼宮さんも閉鎖空間を発生させるおそれがあるので、ご遠慮願いたいのですが」
古泉は、俺の部屋に置かれた時計を指差す。その短針は3と、4の間を指していた。
確かに、こんな時間に電話でもしたら迷惑だな。まあいい、機会はいくらでもあるさ。
「長門」
部屋の隅でひっそり佇んでいるヒューマノイドインターフェースに声をかける。
「今回、俺はどんなことに巻きこまれたんだ?」
「異時間同位体との意識の転換。あなたは涼宮ハルヒの強い思いによってこの時間平面より後に当たる時間平面におけるあなたと意識を交換した」
ようするに、この世界には俺の代わりに『俺』がいたんだよな?
「そう」
長門は極々微細に顔を動かし、肯定の意を示した。
「ええ、我々3人は『あなた』に頼まれてここに集まっているのですよ」
「俺は何か言ってたか?」
「ええ。一日で戻ってくるから心配ないと」
古泉が答える。普段はそんな必要を感じないが、今回はこいつに感謝させてもらおう。
お前のお陰で安心ができたからな。
「恐縮です」
古泉は肩をすくめて笑った。
「長門」
もう一つ疑問があった。
俺の呼びかけに、本好きの宇宙人は少しだけこちらを振り向く。
「あれは俺の未来なのか?」
「……………可能性の一つではある」
「この時代に代わりに来ていた『俺』ってのは俺の未来の姿なんだよな?それでも可能性の一つなのか?」
「未来は、えーっと……禁則事項なので上手く言えないんですが……いくつかの可能性を含んでるんです」
さっきから部屋の隅であわあわと挙動不審な態度を取っていた朝比奈さんが答える
可能性の一つね……
違うな。あれは俺の未来だ。
そうだ。いかなる障害が立ちふさがってても、俺はあの未来を手に入れてやるさ。
明日、朝一番で想いを告げよう。
そう言えば思い出した。我等が憂鬱なる団長殿に告白する時は電話じゃ駄目らしいしな。
朝一で、教室にあいつが入ってきた時に面と面を向かい合わせて言ってやろう。
周りの目?気にするな。どうせ谷口達に後でひやかされる位だ。
ああでも、あいつにも感謝してやらないとな。何せ俺がハルヒと結婚できたのはあいつのお陰らしい。
「……キョン君」
朝比奈さんが憂いを含んだ瞳でこちらを見ている。
まるで想いを告白する前みたいだ。
すいません。朝比奈さん、あなたの思いに答えることは……俺にはハルヒが
「ごめんなさい」
体を襲う強烈な脱力感。
すぐ側の朝比奈さんの声が物凄く遠い場所の出来事のように聞こえる。
「キョン君は……事故とは言え、未来の出来事を知ってしまいました」
ポニーテールのハルヒ。気恥ずかしくらい愛情こもった弁当を作ってくれたハルヒ……
「未来が変わってしまう危険性があるので、キョン君の記憶を消さないといけません」
朝比奈さんの声は震えていた。
消える……冗談だろ?やっと気付いたんだぞ。
やっとその思いに。
古泉は言っていた。「あなたはある一点においての感性を除くと、とても鋭いですね」と。
ああ。そうだ。俺は鈍いよ
こんなどうしようもなく強い恋心に気付かないんだからな。
下手したら俺は、この先何年もこの想いに気付けないかも知れない。
だんだんと目蓋が重くなってきた。こいつが完全に閉じちまったら、俺の記憶は消えるんだろう。
嫌だ。
ハルヒが着ていたウェディングドレス…
ドレスなんかよりずっと綺麗で、これ以上のものなんてこの世にないと俺に思わせてくれたハルヒ
ドレス姿のハルヒは笑っていた。
その笑顔は何故だろうね、俺の見慣れた黄色いカチューシャの団長の姿をしていた。
何だろうな。何かとても良い夢を見ていたような気がするけど、残念ながら忘れちまった。
「キョン君。朝だよー」
いつものように妹のボディープレス──相変わらず軽かった。ちゃんと食べないと駄目だぞ、妹よ──で目覚めた俺はさっきまで見ていた夢に想いをめぐらせていた。
だが残念ながらそれは徒労に終わった。唯一思い出せたのは、それが馬鹿みたいに幸せな夢だったことくらいだ。
昨日のことが良く思い出せなかった。
まあ、おそらく一昨日が衝撃的過ぎたのだろう。
俺は朝比奈さんと長門の花嫁姿に思いを馳せると、気付かずにニヤけていたらしく妹が訝しげに俺を見ていた。
まあどうせ大した事なんて何もなかったのさ、あったのは平凡な日常だけだ。
そういえば、ハルヒは二日三日ならあの衣装が借りられるような事を言っていたな。
どうせならまたあの姿を拝みたいなんてことを俺は考えていた。
そして、今日も今日とて北高への途中。
色々な人間が多種多様な苦行に例えてきたと思われるこの坂を登っていると、後ろから声をかけられた。
「よっ」
ここで俺に声をかけるヤツというのは、たいてい相場が決まっている。
国木田や、SOS団の面々は遅刻ギリギリに来たりはしないからな。消去法から言って谷口だ。
ああ、そう言えばこいつに感謝の気持ちを伝えないとな。
「お前のお陰で、朝比奈さんと長門の花嫁姿を見ることが出来たよ。感謝する」
俺はことの顛末を谷口に説明してやる。
こいつは、普段どんな授業でも見せないような真剣な顔で俺の話しに聞き入っていた。
「写真ないのか?写真!」
残念ながらないね、あるのは部室のパソコンのMIKURUフォルダの中だけさ。
また何か感謝することでもあったら見せてやろう。最もこんなに谷口に感謝することは多分もう死んでもないだろうけどな。
教室に入ると、俺の後ろの席は既に人影が座っていた。
人影は物憂げに窓の外を見ていて、黄色いリボンが風にひらひら揺れていた。
ふっと、俺はまだ入学したての火曜日を思い出した。
非の打ち所のないポニーテールを結っていたハルヒ。
そういえば少しだけハルヒの髪は伸びていた、またそのうち薦めてやろう。
さて、自分の席についた後、俺の口は何を思ったんだろうね。
後ろを振り向くと、頭では全く考えてなかったことを言いやがった。
「ハルヒ。一昨日の衣装はまた借りれるんだよな?」
「何よ?そんなにみくるちゃんのドレス姿が気に入ったわけ。何ならあの長い髪をポニーテールに結ってあげるわよ」
「俺はお前のウェディングドレス姿が見たい」
放課後の部室。
今週中は掃除当番の俺が、今日訪れた最後の部員のようだった。
「今晩はバイトがなくて、楽が出来そうです」
と、スマイルを見せる古泉。その姿は本当に如才なくて、もう一発殴ってやりたくなった。
「……えーっと…その分からないと思いますが、昨日はすみませんでした。」
俺何かしましたっけ?朝比奈さん。何でそんな挙動不審なんでしょうか?
「………」
長門はいつもどおり本を読んでいた。
「ああ、もう全く!この格好暑いわね」
団長席にふんぞり返ってるのは言うまでも無い。ハルヒだ。
黄色のカチューシャが、白い衣装と相俟ってより目立っていた。
その姿があんまり綺麗だったかもんだから、柄にもなく俺はこの時が永遠に続けばいいのになんてことを思ったのさ。
〜the end〜