それは夏の色が強くなった、というかもう既にクソ暑い六月も終わりに差し掛かったある日曜日の午後。
昨日の定期パトロールは運悪く午前、午後の共にハルヒとペアになっちまってヘトヘトであった。
古泉曰く「それは涼宮さんがあなたと行動したいという意思の現れでしょう。良かったじゃないですか」だとさ。
あの灰色の世界での出来事を一刻も早く忘れたい俺にとっては、まさに地獄の行脚だったのは言うまでもない。
ともあれ、そんな疲れを扇風機に当たりながらベッドでゴロゴロとして癒していた。
一階で電話が鳴ったかと思うと、妹の声が響く。
「キョンくーん、お友達から電話だよー」
友達? 谷口か国木田だろうか。
まあ間違ってもハルヒではないだろう。あいつには携帯の番号は教えているが家の番号は教えていない。
のろりと体を起こし、伸びを一回。そして一階へ降りて妹から受話器を受け取る。
「誰からだ?」
「知らなーい。でもなんかすっごく無口な女の子だよ」
了解だ妹よ。それがわかれば対応の前構えができる。
しかし電話でも無口ってのはどうなんだろうね。流石に問題があると思うぞ。
妹に手で追い払う仕草を見せる。肉親の妹といえど、電話の内容を聞かれるのはいい気分じゃないしな。
妹は風船のような膨れっ面をすると、居間へと消えて行った。
それを確認すると俺は受話器を耳に当て、確実にこいつだろうと思っていた名前を口にする。
「長門か?」
『そう』
予想は正しく、電話の主は我らがSOS団無口キャラ担当こと長門有希だった。
今こいつは受話器の向こうで三ミリほど頷いたはずだ、多分。
ところで俺、長門にも自宅の電話番号を教えた覚えはないんだがね。深入りすると我が家のセキュリティが崩壊確定となるので追求しない方がいい、そうしよう。
『緊急事態』
長門の緊急事態は大抵ハルヒ絡みであり、俺は深い溜息を漏らした。
となると古泉のニヤケ野郎は現在閉鎖空間でバイト中という事になるだろう。がんばれエスパー一樹。
朝比奈さんはどうだろう。大変申し訳無いのだが、朝比奈さんは戦力としては数えられないのが事実だ。
朝比奈さん(大)ならそれなりに力になってくれそうではあるが、いないものはどうにもならない。
「それは相当ヤバい事態なのか」
『可及的速やかに対処する事が最善』
こいつがこう言うんだ。こりゃマジでヤバい事態なんだと思い知らされる。
まさか、また朝倉みたいな過激なやつがハルヒを刺激して情報フレアがなんたらとか言ってるんじゃないだろうな。
『違う。朝倉涼子のような急進派は現在、情報統合思念体に常時監視されている。行動を起こすのは難しい』
「ならまた閉鎖空間か?」
『閉鎖空間の発生は確認されていない』
それなりに超常現象に不本意ながら慣れてしまい、何が起きたか察しがつくようになってはきたのだが、今回は検討もつかなかった。つーか、
「長門、お前なんか意図的にその事態ってやつの真相をはぐらかしてないか?
それってやっぱりハルヒ絡みだったりするのか?」
『……来ればわかる』
そう言い残すと電話は切れてしまった。なんともわかり易い反応だな、おい。
しかし、どこに行けっていうんだと思っていると再び電話が鳴った。
『市民プール』
とりあえず用件は一度に言ってくれ。
なんでも水着持参で市民プールに来て欲しいとの事だ。
つまりはあれか。ハルヒのやつが暑いから、プールで騒ごうって言い出したのだろう。きっとそうだ。
たまにはハルヒもいい事を考えるじゃないか。今日みたいなむかつくくらいの晴天で暑い日は、絶好のプール日和といえるだろう。
それに朝比奈さんの麗しい水着姿が拝めるのだ。今の俺ならハルヒを土下座して崇拝できる自信があるね。
しかしなんで長門に電話させたのだろう。そこだけがわからなかったが、些細な問題である。気にしない。
自転車をぶっとばして市民プールの入り口前に到着すると、水着が収められているであろうバッグを持った長戸だけがぽつんとそこにいた。せめて日影に行ったらどうだろうか。
己の欲望のあまりとばし過ぎただろうか。
入り口横に設置されたの駐輪場に自転車を止めると、長門の元へと向かった。
「他の皆はまだなのか?」
「……涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹はここへは来ない」
流石に意味を測り兼ねる。つまりなんだ、ここに呼ばれたのは俺だけってことか?
「そう」
おいおい、どういう風の吹き回しだ。
閉鎖空間が発生していないという事は古泉はもちろんハルヒもフリー。
朝比奈さんはどうだろう。わからないけど、来るかと言われればきっと来てくれそうな気がする。そんな人だ。
朝比奈さん、ついでにハルヒの水着姿を見られない事を落胆しつつ、俺はいい加減に何が起こったのかを教えてくれないかと長門に問う。
「……上手く言語化できないかもしれない」
構わん、言ってみてくれ。
「……夏季における高校生活において重要かつ回避不能な事態に遭遇した。
これを回避する事は情報統合思念体の意思にはあらず、また明確な回答を提示しない。
よって私自身が事態への対処法を取得するのが最善と判断。そしてあなたをここに呼び出した」
何を言ってるのか理解できたやつがいるなら是非ご教授願いたいね。いないだろうけどさ。
俺もがんばって言語化を行ってくれた長門には申し訳ないのだが、まるで理解できなかった。
すまん長門。やっぱり、俺の一ギガバイトあるか危うい脳味噌にも理解しえる形状で言い直してくれないか。
「……」
長門は数秒思案した後、口を開いた。
「私は泳げない」
一匹だけ声高に鳴くフライングしたセミの声がやけに遠くに感じられた。
つまりはこういう事だ。
先日から始まった体育での水泳なのだが、明日から長門のクラスでも始まるらしい。
しかし長門は泳げないので俺に水泳のコーチをして欲しい、と。
はっきり言おう。意外なんてもんじゃない。長門の事だ、泳いで地球を一周しても「問題無い」とか言いそうなんだがね。
それともなにか? アンドロイドだから水に浮かないとかベタな展開じゃないだろうな。
ともあれ、水着に着替えた俺はプールサイドへとやって来た。
休日とあって目立つのは妹くらいの年頃の子供達であった。元気でよろしいね。
すると、つんつんと肩を突つかれる。まあこういう呼び方をするのは現状だと一人しかいないのだが。
「おう来たか……って、なんだそれは」
「……?」
「訂正だ。なんだその水着は」
「スクール水着」
いやいやいや長門さん。それは見ればわかりまくるというかどう見てもスク水ですよ。
それに似合っているかどうかと言われれば、それはもう脳内審議会会場が満場一致でスタンディングオベーションするほど似合っているんだけど。異論は却下だ。
普通こういう場所というか、公衆の面善に来るなら市販されている流行りの水着とかじゃないのか?
「スクール水着は学業としての水泳を行使するにおいて最善の形状と言える。
また、スクール水着には変質的な思考を抱く者も多く、需要が多いとされている」
後半の情報はいらんと思うのだがな。
「そう」
何故かいつもの無表情が寂しそうに見えたのは俺の気のせいだろうか。
……まさか長門は俺がスク水フェチだとか思ってたんじゃないだろうな。
それは好きか嫌いかで聞かれれば大好きではあるんだけどさ。谷口からその手の本を数冊借りた事もあるし。
でも、俺をそういう風に見られていたかと思うと少なからずショックなのも事実だ。
いやいや待てよ。すると長門は俺を喜ばせようとしてスク水を着てきたという事なのだろうか。
嬉しいやら悲しいやら。……すまん、嬉しいの方が圧倒的なのは認める。
「それで、お前はどれくらい泳げないんだ? まさか浮かないとか言うのか?」
「浮く」
最初の懸念はどうやらいらん心配だったらしい。
「一般的な泳法をしても前進しない」
「一般的な泳法ってなんだよ」
「バタ足」
俺は必死にバタ足をするも前に進めない長戸を想像してみた。とてつもなくシュールだ。
というか、泳げないっていっても親玉から情報を仕入れて泳げるようになるようにはならんのか。
「理論的には可能。しかし情報データ通りに泳法を試みてもうまくいかない」
もしかしたら『身知る』ってやつだろうか。
自転車で考えてもらえばわかり易いだろう。自転車は一度乗れてしまうと、逆に乗れなかった頃のようにバランスを崩せはしないはずだ。
それは体が無意識にバランスを取っており、体が自転車を乗るという行為を実践しているからだ。
早い話が、体に叩き込むしかない、ってやつか。
なんか女の子相手にこの言葉を使うと妙なエロさを感じるのは、俺が正常で健全な男の子だからだろうな。
とりあえず俺は長戸の手を持って後退、長門はバタ足という具合にしてみる事にした。
プールの水位は俺にしては低かったが、長門から見れば調度いいくらいだった。
比較的空いているコースを見つけるとそこまで移動、早速実践である。
「ほら長門、始めるぞ」
頷く長戸。なんか気のせいか顔赤くなってないか? まあ今日は暑いしな。
「……そう」
差し出された長戸の手を持ち、後方を確認しながら引っ張る。
長門はというと、いつもの面持ちでバタ足を、
「うおっ!? 待て待て長門!」
ピタリとバタ足と、それにより発生していた二メートルはあろうかという水柱が止まる。
長門本人にしては何故静止させられたかわからないのであろう。小首をかしげてこちらを見つめている。
とりあえず周囲の視線に気づいて欲しい。あれだけ豪快な事をしていればそりゃ嫌でも目立つよな。
水柱のせいで潜ってもいないのに、俺も長門も頭からずぶ濡れになっていた。涼しいからいいんだけどさ。
「長門よ。お前の仕入れた情報とやらにはどんなバタ足のやり方があったんだ」
「……力強く両足で水を蹴る」
いやまあ、合ってはいるんだけど。
ものには限度ってもんがあるってわからんかね、このお嬢さんは。
体育の教科書なんてもんがまず見ない理由がなんとなくわかった気がする。
「あのな、まずは体の力を抜いて力強くっていっても……そうだな、水面を蹴るくらいの感覚でいいんだよ」
首肯する長門。本当にわかってくれたんだろうな。
まあその考えは杞憂だったわけだが。長門は先ほどの水柱が嘘のように静かで、且つ前進を始めたのだ。
情報があった為か、教えてもいない息継ぎも完璧だった。
顔を上げた長門も心なしか嬉しそうな面持ちに見える。とりあえずこれで目標達成ってところか?
ふるふると首を横に振り否定。
「まだ。実技の試験では自由形をしなくてはいけない」
そういや俺も「泳げ」って言われれば間違いなくクロールで泳ぐな。
試験に出るとなれば軽視もできないし。
「よし、それじゃあ今日中にクロールをマスターしちまおうぜ」
長門はいつものように三ミリほど首を縦に振ってみせた。
結論からいえば、長門はあっというまにクロールをもマスターした。
というかこいつ最初から泳げたんじゃないのか? 最初の水柱はご愛嬌って事でさ。
さっきなんて、それこそ世界新記録を樹立できそうな勢いで五十メートルを泳ぎ切っていたぞ。
愚直に聞いてみたら「あなたのアドバイスが的確だった為、私の持つ情報と自己判断・分析のラグを解消できた」らしい。
一応、日本の高校生女子の平均タイムを覚えておくように言っておいた。余計な波風は立てないに限る。
俺達はプールから上がり、俺は更衣室のロッカーに収めていた財布を取り出して、ソフトクリームを二個買った。
その片方を白いベンチに腰を下ろしていた長門へと差し出す。
「ほら、疲れた時は甘いもんがいいんだぞ」
「水泳中の飲食は、体調の変化をもたらす恐れがあるので好ましくないといわれている」
「なら食った後はちょっと休めばいい、それだけだろ」
「……そう」
そう言い納得したのか、ソフトクリームを受け取るとちろちろと舌で、まるで子犬がミルクの注がれた皿を舐めるかのように食べ始めた。
なんというか、意外だ。いつもの食いっぷりを考えるともっと猛スピードで食べそうな気がしていたんだがね。
それはさておき、そんな普段が普段なので至極女の子的動作をされると対応に困る。
無論、かわいいのは間違いないだろう。朝比奈さんとはまた違ったベクトルのかわいさだ。
こちらの視線に気づいたらしく「なに?」と言いたげに俺を見つめる。
「あー……ええと、うまいか?」
無難に逃げる俺をヘタレと罵ってください、皆さん。
「美味しい」
そして再びソフトクリームに視線を戻し、舐め始める。
俺はソフトクリームにかぶりついた。想像以上に甘ったるい味であったが、なんだか今はうまく感じられた。
はてさてなんでだろうね。理由に検討はついているのだが。
そういえばと今更ながらひとつの疑問が浮かんだ。
「ところで長門。なんで俺に水泳のコーチを頼んだんだ?」
ハルヒなんか運動系に関してはズバ抜けた能力を持っている。水泳だっておそらく俺以上の腕前はあるだろう。
そう考えると俺は平平凡凡で可も無く不可も無く、決していいとはいえないのが事実だ。
長門はソフトクリームを舐めるのをやめ、こちらへ向き直った。
「涼宮ハルヒの場合、高確率で練習にはならなくなると推測された」
「……確かに言われてみりゃそうだな」
ハルヒの事だ。練習と称して全員を召集。あとはいつもの馬鹿騒ぎに成り果てるのがオチだろう。
それはそれで楽しいだろうが、水泳をマスターしたい長門にしてみれば迷惑この上ないに決まっている。
「じゃあ朝比奈さんはどうだ?」
「朝比奈みくるは運動能力を考慮すると論外」
うわっひでぇ。しかし、悲しいかな朝比奈さんは生まれてくる時に、神様が運動能力を渡し忘れたと思えるくらい鈍いんだよな。
「古泉は?」
「閉鎖空間が発生する度にいなくなる。閉鎖空間はいつ発生するか予測不能。
よって古泉一樹も妥当ではないと判断」
つまり何か、俺は消去法で残ったからという理由で選ばれたという事なのか。
てっきりいつものように首肯されると思っていた。
長門は珍しく言葉で否定してみせたのだった。
「言葉が正しくなかった。他三名が妥当ではないというのは事実ではあるが、最大理由ではない」
それってつまりどういう意味だ。
いつもよりやや長い三点リーダの後、ぽつりとつぶやいた。
「…………あなたを選んだのは私の意思」
決して消去法で俺を選んだのではない、と長門は言いたいらしい。
俺の次の言葉も待たずに、長門はソフトクリームを再び舐め始めた。もしかして照れ隠し?
そんな態度をされると、俺もなんだかこそばゆいじゃないか。
ソフトクリームを食べ終えた俺達は、プールサイドに設置されたパラソルの影がかけられたビーチチェアに横になった。
水辺という事もあってか、風が吹くとひんやりとした空気が流れ、なんとも眠気を誘った。
というか長門はもう寝てないか? 確認してみると完璧に寝息を立てていた。
いくら宇宙人製のヒューマノイド・インターフェースとはいえ、疲れる事もあるんだなと感慨深く思った。
俺は長門の無垢な寝顔を脳裏に焼き付けつつ、自身も襲われていた睡魔に身を委ねた。
たまにはこういう休日もいいもんだな。
「今週の土曜日は予定を変更、プールに行くわよ!」
翌日。日焼けした俺を朝から怪訝に見ていたハルヒだが放課後、同じように日焼けをして定位置で本を読み始めた長門を見て合点がいったらしい。
全員が部室に揃うなり、そう高らかに宣言した。微妙に怒っている。
どうやら俺と長門が抜け駆けして遊んでいたと思われてしまったらしい、やれやれ。
古泉は「それはいいですね」などと恒例のニヤけ面。
朝比奈さんは目に涙を浮かべ「ふえぇ〜」と露骨に怯えている。もしかしないでもあなたまで泳げないとかおっしゃらないでしょうね。
そうそう、長門の水泳初日は概ね無事終えたという話だ。
概ね、というのは珍しく最後に部室へやってきた長門から直に聞いたからなのだが。
それにしても長門、今日は遅かったが何かあったのだろうか。
「情報にエラーがあった。それに伴いやって来た第一波を断るのに時間を要した」
そりゃどういう事だと聞こうとすると、ふいにドアがノックされる。
朝比奈さんがドアを開けると、そこには俺や長門のように日焼けした数名の女子生徒がいた。
「すいません、水泳部の者ですが一年の長門有希さんはいますか?」
俺はじと目で長門を睨む。
「……失敗」
ハルヒのやつが長門を賭けて水泳部と勝負とか言い出さない事だけを切に願う。