Goddard Syndrome
フィルターを通して吸い込んだ紫煙を細く吐き出して、押しつぶすような曇天を見上げた。
人もまばらな公園に居ると、遠慮なくタバコがすえていい。この公園は俺の思い出にあるものとは
ぜんぜん違うが、それでも今や公園というだけでくつろげる場所だと言う事ができた。
もう一度吸う。非常に有害な煙をろ過して、それなりに有害な煙を肺の中に吸い込むと、ささくれ立った心にも
少しばかりの落ち着きが戻ってきた。肺のほうは逆にささくれ立っていくのだろうが。知った事ではなかった。
もう何度目だ。何度目の再就職。何度目の離職。こんな事を繰り返していれば状況はどんどん悪化するばかりだが、
今の自分にはどうしようもない事が原因で辞職した……させられたのだ。どんな中傷や冷遇にも耐えるつもりだったんだが。
くそっ。思い出しただけでもはらわたが煮えくり返る。まさか……身元を調べてあんな脅し文句を吐きやがるとは。
あれはやめて正解だった、と自分に言い聞かせ、のろのろと立ち上がると、寝る場所に向かって歩き始めた。今俺は、
谷口の家に厄介になっている。家といってもアパートだ。俺の故郷ははるかに遠い。またしても職を失ったと知れたら、
なんと言われるか。考えるだけでも煙がまずくなった。灰皿になすりつけ、公園を出る。アパートはすぐ近くだった。
当然谷口はまだ帰っていない。今やアイツもまっとうなサラリーマンだ。ただしモテない様だが。あいつに女っ気がない
おかげで俺は居候させてもらえるとも言えるし、夜通し愚痴を聞かされる羽目になるともいえる。俺はおとなしく待った。
「何だと? またか?」
帰宅一番、谷口の発言に重くのしかかるものを感じつつ、
「ま、すぐに次の職場を探すさ」
谷口はふん、と鼻を鳴らし、
「当たり前だぜ。お前な、本当に責任ってもんが分かってんのか? 女房子供に申し訳が立たないとか考えないのか?
大体な……」
だんだん親父さんに似てきているらしい谷口は、最近とみに愚痴っぽい。俺は適当に聞き流す事にした。不誠実だと言わば言え。
もう身にしみすぎて飽和状態の俺に、これ以上の説教は無意味だ。
いつからこうなっちまったんだか。考えるまでも無い。あれは、もう七年前の話だ。全て狂った。十五年ほど前、
高校時代の輝かしい記憶は、輝かしいがゆえに思い出すだけでも苦痛を伴うようになってしまった。
ハルヒと俺は、紆余曲折の末、という言葉が似つかわしくないほどにすったもんだのあった後、愛し合った。
結婚し、いったん認めてしまえばあとはもうなすがまま、俺とハルヒの蜜月は……そう、子を設けてしばらくまで続いた。
ああ、声を合わせて『有希』と名づけたのが自分とハルヒだったなんて、今はもう信じられない。あの頃の俺は
新米の高校教師として、ハルヒは、アイツらしい事に鳴り物入りの天才建築家としてそれぞれ仕事にも精を出していた。
だが、有希が三歳になるかならないかという頃、俺は……到底赦されない罪を犯した。そこからだ。
ハルヒは有希を引っつかんで、当時フランスからの仕事の話に乗ってあっちに定住する決断をした。俺になんの断りも無く。
簡素な置手紙一つを残して。離婚はしていない。そんな話すらしていない。今も、連絡は無い。有希の声が聞きたい、という
願いは常に却下されている。どうやらお手伝いさんを雇っているようだ。ワケのわからないフランス語でまくし立てられた後、
容赦なく切れる。
それからというもの、自分の不始末ゆえの離職と、必死で掴んだ再就職と、更なる離職。解雇のときもあった。いつまで続くのか、
全く分からない。闇は何も答えてはくれず、俺の体力と気力と、時間を奪っていくだけだった。そう、谷口の愚痴も、もっともなことだ。
こんな生活が続けば、誰だって俺に文句を言いたくなるに決まってる。
「ああ、そうだ。お前に手紙が来てたぞ。」
愚痴り終わった谷口が差し出したのは、エアメールだった。差出人は……ない。何だこれは。開けてみる。一枚の紙。
ふたたび鍵を集めよ。期限は30日。
どうやら俺の運命は、まだ転がり続けているらしい。