やたらと眩しい朝日がカーテンの隙間から射し込んでくる日曜日の朝。  
わき腹のあたりのもさもさとした感触でゆっくりと目覚めた。  
この感触は当然の如くシャミだ。こいつは夜になると毎回決まった時間に布団に  
潜り込んでくる。ちょうど妹が寝静まるタイミングを熟知しているのだろう。  
たまには抜け出さずに妹と一緒に寝てやれ。朝に「シャミがいないー」と騒がれるのは安眠妨害だ。  
いつものように朝寝をむさぼっている丸っこい毛玉の隣にはもう一つの感触がある。  
心地よいやわらかさを持つ「それ」は猫みたいに体を丸めて寝息をたてている。  
ショートカットの髪を撫でながら顔を覗き込むと、これ以上なく緊張を解いた様子の寝顔が見えた。  
こいつのこんな顔が見れるようになったのはいつごろからだろう。  
 
猫がもう一匹の増えたように感じる、その姿は長門のものだ。  
こいつと初めて出会ってからもう二年以上になる。  
まあ正確に言えばそこからさらに三年前なんだが、俺から見れば二年と二ヶ月だ。  
いまの長門は『普通の人間のように』多少は大人っぽくなっている。  
 
「長門さん、表情が前よりほんのちょっとだけ豊かになった気がするね」  
第三者の国木田がそう言うくらいなんだから、俺から見れば  
長門が今どんな顔をしているかなんぞ、もう十分すぎるほどわかる。  
そして、本当に稀にだが―――  
もう俺の記憶だけにしか存在しない。けど確かに見た、あの空間の長門の笑顔。  
あれと比べると少々ぎこちないが、いまここにいる長門も笑った顔というものを  
見せてくれるようになった。  
 
逆に二年前と変わってない所もある。それはまあ、なんだ。その…つまり胸だ。  
実際にはささやかに成長しているんだろうが身長が伸びた分  
比率は変わってないんだろう。  
長門もああ見えて気にしているらしいことが最近わかった。  
俺はそんなに気にならないけどな。  
 
もう一度長門の顔を覗き込むと何やら寝言でもしゃべっているのか  
唇が小さく動いているのが見えたんだが  
どうも良く聞き取れない。くそ、気になるな。  
まあ仕方がない。よく眠っているのは間違いないようだ。  
よし、覚悟を決めた。妹が起きてからでは遅すぎるからな。  
俺は目の前にある突起に向けて指を伸ばした。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―――――――――ニンテンドウ64のパワースイッチに。  
 
さて、と。  
マリオカートを起動させ、タイムアタックでレインボーロードを選択する。  
なんとしても破らなきゃならんタイムがあるからな。  
そうだ、あの長門の操作するヨッシーは、デモプレイのように無駄のない滑らかな走りで  
俺のベストタイムのゴーストをあっさりと抜き去りやがった。  
この屈辱を晴らすには、さらにその上を行くタイムを出すしかない。  
ドライバーはどう見ても毒がありそうなキノコがトレードマークで  
マリオ3ではひそかにアイテムをプレゼントしたりしてくれる縁の下のなんとやら。  
キノピオだ。  
出だしとともにコースを飛び出してショートカットするなど基本中の基本。  
遥か下方にあるコースを見るとわずかな眩暈がした。  
もしコースにうまく復帰できなければ  
奈落に落ち、ジュゲムのお世話にならないといけない。  
そうなればベストタイムの更新など絶望的だ。  
「いや………いける」  
俺のキノピオは数百メートルはあるんじゃないかと思うくらいの高さから落下したにも関わらず  
平然と着地。そのまま何事もなかったかのように走っている。  
「よし!」  
今日は調子がいい。今までにないほどスムーズに走っている手ごたえがある。  
これなら一発で長門の記録を破ることも不可能ではないかもしれん。  
ドリフトとミニターボを駆使し、「イヤッホゥー」という快いかけ声をあげながら  
虹の道を爆走するキノピオ。長門のわずかに眼を見開いて驚く顔が目に浮かんでく―――  
 
  クイッ  
 
――― 俺のTシャツの襟元が何者かに引っぱられている。シャミか?  
爪を引っかけているのかもしれん。  
やつはGジャンだけでは飽き足らず、Tシャツにまでその毒牙にかけるつもりか。  
まあこれは三枚1000円の安物だからいいんだが。  
 
くそ、あのGジャン高かったんだよな。  
ハルヒの罰ゲームで日に日に磨り減っていく俺のこづかいから  
なんとか捻出したものなのに、雑巾としてリユーズされることになってしまったのだ。  
つーか二年以上も前のことなのになんでこんな腹が立つんだ?  
 
  クイクイッ  
 
………いや、待て。いくらシャミでも飼い主が今着ている服で爪とぎするような  
マネはしないよな。するとなんだ、エサか?エサをねだっているのか?  
しかしシャミは昔と変わらず、食欲よりも睡眠欲を優先させるというライフスタイルを確立しているはずだ。  
 
  グイッ  
 
ああ、そうか…テレビ画面。七色でほぼ満たされているブラウン管に  
うっすらと写りこんでいる。  
いま俺の首元に腕を絡ませてきた。  
ついに眠り姫が目を覚ましてしまったか。  
 
長門がシャミと同じ格好のまま抱き付いてきている。  
いや、首輪はしてないから違うか。つまり、正真正銘、一糸纏わぬ姿、というわけだ。  
いまキノピオはレインボーロードを一周し終えたところだ。  
 
さて………どうするかな。  
 
「ああ、長門。起こしちまって悪いが今いいとこなんだ。  
 見ろ。一週目のタイムがお前より1.2秒早――」  
「朝ごはん」  
 開口一番がそれか。朝起きた直後だというのによく飯のことが考えられるな。  
「作って」  
 自分で作れ。と、言おうとしてやめた。  
 以前に長門が、誰が決めたのか知らんが家庭料理の定番となっている肉じゃがを作ろうとしたことがあったのだが  
 これがすごいことになった。  
 なにしろ材料となったものが何ひとつ判別できない。  
 数分前にはきれいに切りそろえられていたジャガイモやニンジンも  
 見事なまでに炭化していた。  
 妹がシャミを片手に抱いたまま料理でもしない限り、こうはならないだろう。  
 長門いわく「解析不能な状況」らしい。  
 完璧超人のように浴衣の着付けだろうがギター演奏だろうが平然とこなす長門の唯一の弱点とでも言えばいいのか?  
 かく言う俺も料理がうまいわけではない。  
 今日のようにたまたま母親が同窓会だかで二日ほど留守にしていたとき  
 なんとなく家庭科の教科書の見よう見まねで作ってみた日本の朝食の王道とも言える味噌汁と卵焼き。  
 これを長門は妙に気にいっていた。味噌汁に、だしを入れ忘れたのになぜだ?  
 しかも卵焼きには殻が入っていたぞ。  
 
「早く」  
 いまここで長門の言うとおりに朝食の準備にとりかかるのは簡単だ。  
 主食である白米は昨日の夜に炊飯器にタイマーをかけておいたからな。  
 後は、長門がおそらくリクエストするだろうあれらの副食を作るだけでいい。  
 しかしそのためには、このマリオカートをやりこんでいる俺の意地と尊厳をかけた  
 タイムアタックをポーズして中断せねばならない。  
「すまんがこれが終わった後にしてくれ」  
 二週目のショートカットも成功したキノピオは、鉄球に牙の付いたような姿の  
 放し飼いにされている猛犬をかわしつつドリフトをきめている。  
「だめ」  
 やはりそうか。  
 
 だがここで引き下がるわけにはいかない。強さとは己のわがままを貫くことだと  
 どこかの拳法家も言っていたしな。  
「おとなしく待ってろ」  
 そう言うと本当におとなしくなった。再びゲーム画面に意識を集中させる。  
 だが、しばらくすると首筋あたりにくすぐったい感じがした。やがて何かが吸い付くような感触。  
 誰の仕業かは明白だろう。長門が俺の首筋を吸っているのだ。  
「ん、……ちゅ」  
 キスマークを妹とかに見られるといろいろと面倒なんだが、  
 昨日から既にいくつか付いているので容認する。それにこの程度ならゲーム操作にも支障はないからな。  
 やがてそれに気づいたのか長門は首筋に攻撃を続けつつ、Tシャツの裾から手を入れてきた。  
 徐々に腹から胸の方へと上ってくる。少しひんやりしている滑らかな手は乳首のあたりで動きを止めた。  
「っく」  
 思わず声が漏れる。人差し指と親指で捻り上げられている。昨日の夜とは逆の立場だ。  
 さすがにそこは男でも弱い。しかしここで負けてしまっては長門の尻に敷かれる生活に一歩近づいてしまう。  
 大学出の中学生の少女に胸パッド付きのペアルックを無理矢理着せられたり、  
 鼻をつままれたまま唇を奪われたりする気弱な少年のような生活だ。  
 それもたまになら悪くないんだが、いまはだめだ。なんとしてもこのコースを完走しなければ。  
「……」  
 そろそろ焦れてきたのか、長門は前に回りこむと  
 コントローラーを持つ手とあぐらをかいてすわる脚の間に潜り込んできた。  
 俺の体とコントローラーの間から覗かした表情はいつもの無表情だが  
 俺には拗ねたような色がはっきりと見える。やばいな、これは。  
「ごはん……」  
 長門のこの目で見られていると落ち着かない。なんというか、抱き締めたり  
 撫でくりまわしたいという衝動に駆られる。  
 わかっている長門。お前はただ単に朝めしをねだっているわけではないんだろう?  
 朝起きたら隣に眠っていたはずの男が、自分よりゲームに集中していたらやきもちもやくだろう。  
 立場が逆なら俺も同じようなことをするかもしれん。  
 いまだけだ。これを完遂させれば朝めしだろうが俺だろうが思う存分くれてやる。  
 
 だから…いまは。  
「!! むぐっ」  
 両ひじを使って強引に長門を押さえ込む。ちょうど股間の位置に顔がきているんだろう  
 熱い吐息がトランクス越しに伝わってくる。  
 これはこれでやばいな。もう既に俺のモノが反応し始めている。  
 
 ぽす、ぽすと長門の握りこぶしが胸を叩くが眠気を誘うような振動が伝わるだけで何の問題もない。  
 よし。長門との戦いには勝利した。後は無事ゴールできるよう慎重に3Dスティックを操る。  
 キノピオはついに三週目、最終Lapへと突入した。  
 三度目のショートカット。これさえ成功すれば後はただひたすら走るのみだ。  
 鉄塊の猛犬など余裕でかわせる。さあ、無限の彼方へ飛び出せキノぴおぉっ!?  
「〜〜〜っうぅ」  
 つかまれた。ぎゅむっという擬音が幻聴で聞こえる程つかまれた。  
 どこをってそりゃあ決まっているだろう。新たな生命を生み出すための種が詰まっている袋だ。  
 なんでこれを予測できなかったのだろう。  
 哀れキノピオはコースとは見当違いの方向へ飛び、奈落の底へ落下。後にジュゲムに一本釣りされていた。  
 そういえばこのディフォルメされた雲に乗る某杉本の長い名前が元ネタのメガネをかけたカメって健気だな。  
 コースを逆走しているときなんか特にそう思う。こいつは1レースあたりいくらもらっているんだろうか?  
 などと、脇役のゲームキャラの給料なんぞ想像してしまうくらいの衝撃を受けた。  
 これではベストタイムの更新など絶対的絶望的だ。もうわけがわからん。  
「長門。離せ。使いモノにならなくなったらどうする」  
 ひじから抜け出した長門は、なおも俺をにらみつけている。  
「朝ごはん……」  
 この期におよんでまだ言うかこの自称宇宙人は。  
 新記録の樹立を妨害された恨みを込めて右の頬を軽くつねってやる。  
 だが、万力のようにギリギリと少しずつ力を込めていく長門の前には無駄な抵抗だった。  
 日常生活で情報操作を行うことを禁じた長門自身の身体能力はハルヒよりやや劣る程度だ。  
 でも、ハルヒの身体能力がどうかなんて言うまでもないだろう。  
 やや劣ると言っても、俺の生殖器の機能を破壊するくらいたやすいはずだ。  
 そうなればお前も困るんじゃないか?  
 
「わかった降参だ、長門。お前の言われたとおりにする」  
 両手をホールドアップする。まあ、最初から俺に勝ち目なんてなかったのかもな。いろんな意味でね。  
「だから、そんな顔するな」  
 つねっていた部分を覆いかぶすように頬を撫でる。  
 すると長門の表情はやわらぎ、そのまま顔をすり寄せてきた。  
「……ョン」  
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。  
 そして確信する。さっきの寝言も同じことを呟いていたんだってことに。  
 多分、いや。きっとあの雪山の館でも。  
 古泉。お前は間違っていた。  
 ハルヒのほうが正しかったんだ。  
 
 長門を胸に抱いたまま髪を撫で、深い息をつく。  
   
   
 こいつとこんなに触れ合えるようになったのは、あの日がきっかけだろうな。  
 長門に与えられたほんとうの役割を知った日でもある、SOS団結成後はじめて迎えた元日。  
 呆けたようにエンジンをふかすキノピオを見ながら、あの鶴屋さんの別荘での出来事を思い出す――  
 

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