「朝比奈さん」
「なんですか? キョンくん」
その日、部室には俺と朝比奈さん、長門の三人しかいなかった。
ハルヒは早退、古泉は今日は忙しいらしく、部室には顔を出さなかった。
つまり何か非現実的なことを問いかけるのに、絶好の機会というわけだ。
「あのですね、朝比奈さんは日本語を話してますよね」
「え? ええ、そうです」
「朝比奈さんの母語は日本語なんですか?」
俺の質問に、朝比奈さんは困ったような顔をする。
「えっと、そうであるとも言えますし、そうではないとも言えます」
今度は困るのは俺の番だ。禅問答みたいなことを言われても、どうすればいいんだ。
助け舟を出してくれたのは、長門だった。
「時間の経過とともに人間の言語には変化が生じるのが常」
淡々と告げる。ら抜きとかさ入れとか、あれか。
「そう。朝比奈みくるの母語は日本語ではあるが、その日本語とあなたが日本語だと思っている言語は別物」
「そうなんですか?」
朝比奈さんに振ると、うなずいてくれた。
「あたしにとってこの時代の言葉は、ええと、キョンくんに置き換えると明治時代ぐらいの言葉に感じます」
明治時代ということは、なんとか理解できるぐらいかな?
「ええ。実は言葉というものは、それほど変わらないんです。情報量と拡散速度の総和に比例して鈍化していきます」
理屈はわからないが、そうらしい。
「でもやっぱり違う点もあるので、翻訳機のようなものに補助してもらってるんです」
「そんな便利なもの、いつできるんですか?」
朝比奈さんの話し方に違和感など感じたことはない。
もしそんなものが存在するなら、英語の勉強なんかする必要ないぞ。
「ごめんなさい、禁則事項です。だから英語はちゃんと勉強しないとダメです」
諭されてしまった。しかも俺の考えてることまでバレるとは。
朝比奈さんは口をかわいらしく尖らすと、
「だってあたしも勉強してるんですよ、英語。禁則事項を使えばすぐなのに」
朝比奈さんには朝比奈さんなりの悩みがあるらしい。
「ほかの科目は楽しいんです。でも英語だけは、やる気が出なくて」
きっとライターを持ってるのに、火を起こすために落雷を待ってる気分なんだろうな。
「英語なんて無くなればいいのに。あっ、これ嘘です。誤変換されちゃいました」
ぺろっと舌を出して取り繕う朝比奈さんだったが、俺は嘘ってのが絶対嘘だと思った。
誤変換とかそういう次元ではなく、目が笑ってなかったからだ。
言葉より目で意思疎通してくる長門は、案外正しいのかもしれない。
「長門」
「なに」
「長門にとって日本語ってのは、なんなんだ?」
これも気になる。
長門は少し間を置いて、答えてきた。
「ヒトという生き物が使う言語のうちの一種類」
安物の辞書に載ってそうな定義だな、それ。
「つまり、長門にとって日本語も英語も変わらないってことか?」
「そう、基本的には」
基本的でしかないのか。
「ヒトが生き物として同種である以上、どの言語も根底は同じ」
「そうか?」
長門はこくっ、とうなずき俺の疑問に答える。
「そうでなければ、あなたが他言語を理解することはできないはず」
「それなら、俺にだってもっと英語がわかってもよさそうなもんだが」
「それは言語が後天的資質だから。一般的には十四歳を過ぎると、母語話者になる資格を失う」
「後天的資質?」
それにしては、大半の人間は不自由なく言葉を話せているじゃないか。
「ヒトは生まれながらにして言語を司る機能を持ち合わせているが、発動条件がある」
だんだん小難しい話になってきた気がする。
「ある一定年齢までに五感のいずれかを介して、言語に触れ、それを継続すること。これが条件」
「つまり、俺は英語に触れる時間が少ないからわからんというわけだな?」
「そう。もっと勉強することが肝要。あなたの場合すでに十四歳を過ぎているから、学習するしかない」
うぐっ、すごくつまらない結論に落ち着いてしまった。結局、勉強か。
「『学習』の本来の意味は、真似て、慣れること。能力ではなく、反復」
俺をじっと見つめたまま、長門は言葉を継いだ。
「言語そのものは、それほど難しいものではない。十分解析可能」
長門の瞳に俺が映っている。
「複雑に感じるのは、双方間の意味解釈に齟齬が生じるため。環境の相違と言ってもいい」
長門が覗く俺の瞳にも、長門は自分の姿を見ているのだろうか。
「いまわたしが発言していることをあなたがどう受け取っているか、わたしにはわからない」
瞳が少し物憂げに揺らいだ。
「わたしに解析できないのは」
「人の、心」