我輩は猫である。名前はもうある。シャミセン。いつしかそう呼ばれている。
昔は別の名で呼ばれていた記憶もあるのだが。
そもそも、私にとって名前という概念は理解し難いものである。
何故、人という生き物は……。まぁ、いい。ここで語っても仕方の無いことであろう。
今日は珍しく、私の安眠を妨害するあの童女は部屋に飛び込んでこなかった。
私が寝床にしている部屋の主の話では、体調が優れないとのこと。
折角なのでもう一眠りしようかと思ったが、さっぱり眠れない。
毎日この時間に起こされていたからだろうか。習慣とは恐ろしいものだ。
しかし、これではいささか暇だ。猫から眠る事を奪うと何が残るというのか。
……仕方ない。長兄のやっかいになろう。
洗面所で忙しく動く長兄を横目で見ながら、スポーツバッグの中に入らせてもらうことにした。
揺られること一刻。学校に着いたらしい。
スポーツバッグから顔を出し、覗いてみる。
「げっ! シャミ、何やってんだよ!」
長兄が非難の声を上げる。
「……ったく。おとなしくしてろよ。いいな?」
にゃあ、と返事を返しておく。
「あら、シャミセンじゃない。どうしたのよ?」
「知らん。勝手に付いてきたんだ」
ほれほれ、とシャーペンを目の前で回す少女。仕方が無いので手を出してやる。嬉しそうだ。
私はこの少女が少し苦手である。理由は無いが、なんとなくあまり近づかないほうがいい気がするのだ。
程なくして、睡魔に襲われる。一眠りしよう。長兄はせっせと紙に何かを書いていて退屈だ。
……いい匂いがする。なんだろう。
芳しい匂いに目を覚ます。
「うお、なんだこの猫」
「ウチの猫だ。なんか知らんが学校に来たかったらしい」
「映画の時にいたよね。キョンが飼う事にしたんだ」
長兄が友人達と昼食をつつきあっていた。
「ほら、食うか?」
と言いながら、友人の1人が唐揚げの骨を目の前に持ってくる。
私は犬では無い。食べるわけなかろう。
「駄目だよ谷口。こっちじゃないと」
今度はもう1人が梅干を差し出す。……なぜ梅干なのだ。理解できない。
「あんま、変なもんやるなよ。ただでさえ最近太り気味なのに」
「猫なんか食っちゃ寝食っちゃ寝だろうからな。ほれ、もっと太れ」
「コロコロしてるほうがかわいいよね」
そう言いながら骨と梅干を目の前でグルグル回す2人。……付き合ってられん。
スルリとスポーツバッグから抜け出し、眠気覚ましの散歩をする事にする。
しばらく廊下を歩いていると見知った顔に出会った。
「おや? シャミセン氏じゃないですか」
そう言いながら、ヒョイと私を抱き上げる。
「いつぞやはお世話になりました。お陰で涼宮さんにも満足してもらえましたよ」
喉を撫でられる。ゴロゴロと鳴らして答えてやる。
「それでは、僕は行くところがあるのでこれで失礼します」
そっと降ろして、立ち去る少年。……謎の多い男だ。嫌いでは無いのだが。
強い匂いがする方へフラフラと向かう。多くの人間達がガヤガヤと騒ぎながら食事している。
ところ狭しと座る人間達だが、ある場所だけぽっかりと空いた空間があった。
その中心にはすごい勢いで食べまくる少女の姿。……彼女か。
「ん、シャミセンじゃない。どうしたの?」
むしゃむしゃと食べながらこちらを見る少女。
「食べる? 猫って蕎麦食べれたっけ」
そう言いながら蕎麦を箸で挟み、プラプラと揺らす。……食べたことは無い。
とりあえず蕎麦に向かってパンチを繰り出しておこう。
「あっ! ちょっと、何すんのよ! 食べ物を粗末にしちゃ駄目じゃない」
全く、キョンはどんな躾してんのよ。 と言いながら食べ続ける少女。いい食べっぷりだ。
暫く眺めることにする。……長兄が好意を寄せているであろう人間。
そして、この少女も恐らく長兄に好意を寄せている。
……伊達に長生きはしていない。それぐらいわかるようにもなるさ。
私としてはこの少女が我が家に入り浸るようになるのはご免被りたいのだが。
色々と不都合が起きそうだ。
いつの間にか完食していた少女は じゃあね、シャミセン と言い残して走り去っていった。
……まったく。忙しい人間だ。
私もそろそろ長兄の下へ帰ろうか。一伸びして、机の上から飛び降りる。
……どうしたものか。迷ってしまった。ずっと続く通路に同じような部屋ばかり。
これでは迷うのも致し方ないであろう。
しばらくウロウロしていると、聞きなれた声で私を呼ぶ者が居た。
「あっ、猫さん!」
声の主のところへ行く。
「お? キョン君とこの猫ちゃんじゃないかっ! どうしたんだい?」
明るい声と笑顔を振りまきながら頭を撫でる髪の長い少女。
それを微笑みながら眺める、幼い顔をした少女。
「シャミも食べるかいっ?」
そう言って対面に座る少女の弁当から鮭の切り身を取って目の前にぶら下げる。
折角だ。頂こうではないか。
「ふふ、おいしいですか?」
「全男子が涙を流して欲しがる、みくるの手作り弁当だよっ! 味わって食べなっ」
うむ。美味い。これはいいものだ。
「さぁってと。弁当も食べたし、腹ごなしの散歩でもするかねっ」
そう言って、パパっと弁当を片付け始める。
「ほら、みくるも行くよっ!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよぅ。猫さんも来ますか?」
どうせ暇なのだ。ご同伴に預かろう。
しばらく歩いて芝生が広がる場所に出た。中庭と呼ばれる場所のようだ。
「んーっ。気持ちいいねぇ。日向ぼっこには最高の場所だっ」
芝生に倒れこむ少女。もう1人の少女もふふ、と微笑みながら腰を下ろす。
私も同じように寝転ぶ。……気持ちいい。幸せなひと時だ。
……ん?
ふと、背中に視線を感じて振り返る。
大きな建物の窓の一つから、ショートカットの少女がこちらを見ている。
……ふむ、彼女か。
2人の少女に、にゃあ と別れの言葉を掛けて彼女がいた部屋へ向かう。
彼女からは何かただならぬ雰囲気を感じる。
上手く言語化出来ないが、何か長兄やその友人達とは違う何かが……。
そんなことを考えながら部屋の前に辿り着く。ドアは閉まっている。どうしたものか。
すると、まるで私が来ることを分かってたかのように開く扉。
「……」
無言で私を見下ろす少女。
暫く興味無さそうにそうしていたが、私のように足音を立てずに部屋の隅へ歩いていくと
パイプ椅子に座り、本を読み始めた。
私は大体の人間の考えは読めるのだが、彼女だけはさっぱりわからん。
一体なんなんだろうか。ただ者では無いと思うのだが。
「私は、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」
いきなり喋り始めた。本に目を落としたまま。……この部屋には私と彼女しかいない。
恐らく私に言っているのだろう。
「あなたは、人間の言う事を理解している」
そう言うとまた黙りこくって本を読み続ける。彼女が何を言っているのかさっぱりだが、まぁいい。
不思議な少女。それで十分だ。
大きなあくびを一つ。いい感じに眠たくなってきた。一眠りしよう。
定期的に聞こえる、ページを捲る音を聞きながら私は眠りについた。
尻尾に何かが当たる感触で目を覚ます。目の前には妙な服を着た少女がいた。
「うふふ、起きちゃいました?」
微笑みながら背中を撫でられる。うむ、気持ちいい。
しばらくその快楽に身を委ねていると軽いノックの後、扉が開く。
「やっぱりここにいましたか」
そう言いながら白い袋をガサガサと音を立てて中から何かを取り出す。
……出てきたのは猫缶だ。
「わぁ、どうしたんですかそれ?」
「僕、昼食はいつも弁当屋まで買いに行ってまして。そのついでにスーパーに寄って買ったんですよ」
プシュと音を立てて開かれる猫缶。いい匂いが漂ってくる。
小さな皿に盛り付けて、鼻先に差し出す少年。
「どうぞ」
勢いよく食べる。これは美味い。
鮭の切り身も中々の物だったが、やはり猫用に味付けしてあるものには叶わない。
私を微笑みながら眺める2人。……いや、3人。
端っこに居たショートカットの少女もこちらを無表情で眺めていた。……まったく気配を感じなかった。
暫く、思わぬ収穫を味わっていると勢いよく扉が開く。
「やっほー! 遅くなってご、め……ん」
あの少女だ。しかし、語尾が段々弱くなる。
「何、固まってんだハルヒ。さっさと入れ」
少女の背中を押して部屋に入ってくる長兄。部屋の中の1人を見て、その顔は驚愕に変わる。
「あ、朝比奈さん、その髪型……」
「うふ、似合いますか?」
そういえば、昼にあった時と髪型が変わっているな。長い髪の毛を後頭部の辺りで束ねている。
「もう、最っ高ですよ! 似合いまくりです!」
「そんなに褒められると照れますよぉ」
長兄よ。後ろにいる少女に気づいてあげたらどうだろうか。
ものすごい顔で睨んでいるのだが。
「なぁハルヒ。すごい似合ってるよな?」
「……そうね」
……長兄よ。いや、もう何も言うまい。
これはもう駄目かもわからんね。 そう思いながら端っこで本を読んでいた少女の膝に飛び乗る。
暫くここで寝かせてもらおう。これ以上、長兄の滑稽な姿を見るのも忍びない。
パタン、と本を閉じる音で目が覚める。それぞれ帰る準備をし始めているようだ。
長兄のスポーツバッグの中に潜り込む。……おや? あの少女の姿が見えないな。
「涼宮さん、どうしたんでしょうね。いきなり帰る、だなんて」
「さぁ。あいつが訳分かんないのはいつもの事ですから。……なんだよ古泉」
「いえ、何も」
ククク……と噛み殺したような笑い声。彼も気づいてるようだ。
「僕の仕事が増えなければいいんですがね」
帰り道。彼が長兄に話しかける。
「またあの空間が出るってのか? 何で?」
「さて、どうしてでしょうね」
「……楽しそうだな、おい」
「複雑な気持ちです。微笑ましくもありますが、少し呆れてもいますね」
「お前の言う事はさっぱりわからん」
肩をすくめながら微笑む。分かる。分かるぞ少年。
3人と別れ、家に向かって歩く長兄。
「ったく。もう付いてくんなよ?」
そう言いながら、バッグから出してる私の頭をコツンと叩く。
言われなくてもそうするさ。やはりあのベッドが恋しい。
「……にしてもハルヒのやつ、なんだったんだろうな。いつにも増して不機嫌だったけど」
空を仰ぎながらこんなことを言う長兄。もう言葉も無い。
「やれやれ」
「んなっ……お前……!?」
驚き顔の長兄を尻目に、スポーツバッグから飛び出して
私は家に向かって走った。