「これを」
そう言って長門が差し出してきたものは、いつかのピストル型装置だった。
全くもって、今日は最悪の日である。
頬に残る痛みに嘆息しながらそれを受け取った俺に対して、長門は俺がこれからすべきことを訥々と語りはじめた。
「あなたには今から朝比奈みくると共に約56分前まで時間移動してもらう。あなたはそのままこの部屋に待機。
朝比奈みくるは私に保護を求め、全てが終わった後あなたを連れて再びこの時空間座標に戻ってくる」
長門の同じ鍵盤を鳴らし続けるピアノのような声を聞きながら部室の中を見渡すと、椅子に座ったままニヤけた面をしてこっちを見ている古泉が。
俺の横には、かなり緊張した面持ちがいつもとは違った新鮮な美しさを見せてくれる僕らの天使こと朝比奈さん、
そして最後に、机にもたれかかってのんきに爆睡している我らが団長様が目に入ってくる。
「いやはや、今回ばかりは僕の出番は全く無いようですね。非常に残念ですよ。一人蚊帳の外というのは寂しいものです」
仏像のような笑顔で口を挟んでくる古泉。
ならお前が代わりに行けよ、と言うとにこやかに遠慮しておきます、とか言いやがる。相変わらずむかつくヤローだなおい。
「これも」
長門はさらにスプレーのようなものを差し出してきた。
なんだこれは?人に向けて銃を撃つだけでなくどっかに落書きもしないといけないのか?
そうすると俺はこれから重犯罪と軽犯罪を同時に行なわなくてはならないことになる。ああお母さん、生まれてきてごめんなさい。
そんなことを考えながら唸っていると、長門がすっとハルヒを指差した。ああ、なるほど。
「彼に向けて銃を撃つタイミングには、十分に気をつけるべき。おそらく普通の状態の時に撃っても、避けられるか無効化される可能性が高い。その際にはあなたの身体にも危害を加えてくるものと思われる」
それにしても今日はよく喋るな長門。なんだか得した気分になってくるよ。
長門はぽつりと「必要」と言ったあと、
「しかし、あなたが今現在ここに存在していることを考えると、彼は何らかの理由で隙を見せる筈。
その時まであなたは、この部屋の中に隠れて様子を伺って。何があってもその時までは相手に気づかれてはならない」
それだけ言うと、メッセージを再生し終わった留守番電話のように黙り込んでしまった。
ああ、どうして俺は毎回こんな目に遭うのだろう。
それはハルヒと出会ってから今まで何千回も考えてきたことなのだが、今度ばかりはかなり気が重い。
これからすることと、ここ数日のこと、そして何より目を覚ましたハルヒへのアフターフォローのことを考えると、右手に持った銃をこめかみに押し当てて引き金を引いてしまいたくなるぐらいだ。
そのハルヒと言えば、未だにアホみたいな顔で寝こけてやがる。まあ、今起きられては大いに困るのだが。
いつもならこのアホ面に落書きの一つでもしてやりたくなるところだが、今回ばかりはそうもいかない。
何せ今回のこいつは完全に被害者であり、じゃあ加害者は誰かと聞かれれば、それは完全に俺である。
「あのぉ、キョンくん。時間移動の許可が出たみたいです。そろそろ行きましょうか?」
あぁ、いまの俺には朝比奈さんの山々を流れる清流のような声にも元気よく応えることは出来そうも無く、首を無理やり頷かせるのが精一杯であった。
かくして俺は、子供を初めてのお使いに遣る親のように手を振る古泉と、温度の感じられない瞳で見つめてくる長門に見送られながら、
右手に銃、左手にはスプレーというどこぞのカラーギャングのような格好で、遥か一時間前の過去へタイムスリップすることになった。
覚悟を決めて目を瞑ると、左の頬の痛みがやたらと自己主張してくる。
長門の「自業自得」という小さな声を最後に、俺の意識はこの時空から消え失せた。
さて、話はおよそ一週間前に遡る。バレンタインの騒動も終わり、あとは春休みを待つだけになった俺たちSOS団は、毎日をゆるゆると、時にドタバタとしながら、要するにいつものように過ごしていた頃のことである。
その日、朝起きたときから、俺は小さな違和感を感じていた。身体も正常、顔もいつもどおりの味の無い顔、妹は相変わらずお兄ちゃんとは呼ばないし、シャミセンは部屋でゴロゴロしている。
しかし、どこかに何かが無いような、或いは余計なものがあるような、そんな気がするのであった。
まあ、そんなものは気のせいだろうと思いながら、いつものように坂を上って学校に行き、いつものようにハルヒの前に座り、いつものように放課後になった。
その間、他人のことに対して妙に鋭いハルヒが特に何も言ってこなかったので、やはり違和感なんてものは俺の気のせいであり、思春期の脳が作り出した一時の気の迷いに過ぎなかったのだろう。
その後のSOS団の活動は、まあいつもどおりハルヒが騒いで朝比奈さんが困っていたぐらいだ。
しかしその翌日、いよいよ俺は自分がどこかおかしくなったのではないか、という疑いを持たざるをえなくなったしまった。
これまたいつもどおり部室で放課後を過ごしていた俺たちが、長門が本を閉じると同時に帰り支度を始めた時のことだ。
気づいたら俺は両手でハルヒの右手を握り締め、まるでいつの間にかレンタルされている単館上映の恋愛映画の主人公のような口調でハルヒの耳元に囁いていた。
「ハルヒ、二人だけで一緒に帰ろう」
そのときのみんなの反応といえば、長門はドアノブにかけた手をピタリと止め、朝比奈さんは片付けていたお盆を床に落とし、古泉はヒビの入ったような笑顔でこちらに目を向け、当のハルヒはコタツが喋りだしたのを見るような目で俺を見ていた。
皆ちょっと聞いてくれ、違うんだ。誓って言おう。俺じゃないんだ。
「……あんた、何言ってんの?」
暫く間をおいて、辛うじてハルヒはそれだけ口にしたが、その時既に俺はハルヒの手を掴んだまま、廊下に飛び出していた。
俺が正気に戻ったのは、下駄箱で自分の靴とハルヒの靴を取り出している最中だった。掴んでいた手を慌てて離し、恐る恐る振り返ってみると、ハルヒは未だに呆けたままのようだ。
よし、この隙に逃げよう。俺は最高の手際で靴を履き替え、回れ右をして駆け出そうとしたところで、ネクタイを締め上げられた。相変わらず凄い握力ですね。
「キョン、あんたどういうつもりよ!?いきなりこんなとこまで引っ張ってきて!皆ビックリしてたじゃない!」
「悪いが俺にもさっぱりわからん。……いやそんなに締めるな死ぬ!死ぬから待て本当にわからないんだ身体が勝手に動いたんだよ!」
一分ほどネクタイを掴んでガクガク俺の頭を揺らし続けたハルヒは、一応は満足したのか、ネクタイから手を離して自分の靴を履き替え始めた。
「全く、何なのよいきなり手なんか掴んで………別に一緒に帰るぐらい構わないから今度から普通に頼みなさいよね」
どうやらハルヒは勝手に勘違いそしているようで、怒ったような顔でさっさと歩き出してしまった。俺もその場にずっと佇んでいるわけにもいかず、慌てて後に続いた。
ハルヒと二人きりの帰り道、俺はさっきの自分の行動を思い返していた。
いや、どう考えてもおかしいだろ?俺はコイツと二人で帰るつもりなんて毛の先ほどにも無かった。
まあ別に一緒に帰りたくないというわけでもないが、少なくともあそこまで積極的になるほど一緒に帰りたい理由が無い。それとも俺、何かハルヒに言う事でもあったっけ?
さっきから口を開かずに少し前をスタスタ歩いているハルヒに目を向ける。
今はさっきのように身体が勝手に動くということはない。いつもどおりだ。じゃあ、さっきのは何だったんだ?
そんなことを考えているうちに、いつもハルヒと別れる所まで来ていたらしい。ハルヒは、しばらくそこで足を止めていたが、結局そのまま振り返ることも無く歩いていってしまった。
その背中にまた明日な、と声をかけて俺も自分の家に向かって歩き始めた。
なんか知らんが死ぬほど疲れたぞ。さっさと帰って今日はもう寝よう。
次の日、俺はハルヒとなんとなく口が利けないままの午前中を過ごし、昼休みになると真っ先に部室に向かった。
どんな精神科医よりも頼りになる奴がいる筈だ。是非とも昨日の俺の行動を分析してもらわなくてはならない。
「わからない」
なんでも教えてくれる筈の無愛想なアンドロイドは、それだけ言って手元の本に目を戻した。
「いや、長門、ちょっと待ってくれ。俺は昨日確かにあんな行動を取るつもりは無かったんだ」
そう、身体が勝手に動いたような気がしたのだ。そうなってくると、疑うべきなのはまず変な能力を持っている変な奴が俺に変な事をしたのではないか、という可能性だ。
「私は特に何も観測していない。昨日のあれは間違いなくあなた自身から出た行動と思われる」
そんな馬鹿な。じゃあなんだ、あれは俺の意志でやったことなのか?二人で帰ろうとか言って手を握り締めて一緒に部屋を飛び出したのが?
無理だ。死にたい。死のう。首をくくるなら縄がいるよな。そういえば体育倉庫にいい具合の縄があった。丁度いい高さの木もあることだし、墓場は毎日運動会だしな。
「でも」
体育倉庫に向かおうとする俺を、長門の声が引きとめた。
「確かに昨日のあなたの行動は、これまでのあなたの行動と比較すると違和感がある。わからないと言ったのはそのため」
長門は、手元の本から目を上げ、俺の瞳の中を覗くようにして言った。
「……気をつけて」
次に俺は、中庭に古泉を呼び出した。
「どうでした?涼宮さんと二人きりの帰り道は」
うるさい。それよりも昨日お前のお仲間が、俺に何かしなかったか。
「心外ですね」
肩をすくめながら古泉は言う。
「確かにあなたと涼宮さんが仲良くしていただけるなら、僕の仕事もずっと楽になるんですが、生憎あなたの心を操るような真似が出来る人は僕の知り合いにはいませんよ」
バレーボールをしている女子の集団が、こちらに向かって手を振っている。ひょっとして俺に?と思うまもなく「古泉くーん」という声が聞こえてきた。
当の古泉も、にこやかに手を振りかえしている。こいつ死ねばいいのにと少し本気で思った。
「仮にいたとしても、長門さんの目をごまかす事は不可能でしょうしね。何より僕自身、昨日のあなたの行動には驚愕しましたから。失礼ながら、あなたの脳の解析を長門さんに依頼したぐらいですからね。あ、結果はもちろん正常でしたよ」
本当に失礼だなオイ。というかいつの間にそんなことを、と一瞬考えたが、長門ならそんなこといつでもできるだろうし、考えてもどうにかなるものじゃない。
それに古泉の言うとおり、誰であれ長門の目を盗んで何かをすることは不可能だろう。コイツに聞いたのも一応念のためでしかない。
「本当にあなた自身の行動ではないのですか?」
古泉は、いつもよりも少し真剣な表情で俺を見つめてくる。やめろ、キモいから。
「冗談ではなく、僕は本気であなたと涼宮さんにもっと親密な関係になってほしいと思っています。ですから、あなたが涼宮さんに対してあのような積極的な態度を取っていただくのはとても有難い」
いや、あれは積極的というか、変な漫画を見過ぎて勘違いしてしまった変態だろう。
「ですが、もしもそこに何者かの意図が介入しているのなら、話は全く逆です。あなたを好き勝手にできるということは、涼宮さんを好き勝手にできるのと殆ど同じ事ですからね」
「相変わらずお前が何を言っているのかさっぱりわからんが、とにかく今はヤバイ状態なのか?」
「わかりません。一応調査はしてみますが、正直僕には、自覚的にしろ無自覚的にしろ、あなたが涼宮さんに惹かれていることに対しての照れ隠しをしているようにも見えますし、そちらの可能性の方が高い。まあ、どちらにせよ」
古泉は真剣な顔を崩し、無駄に白い歯を見せながら俺に笑いかけてくる。
本当にどうでもいいが、さっきの女子の集団からやたらと視線を感じる気がする。
「涼宮さんとは仲良くしてくださいね」
放課後、今日も今日とていつものように部室に行き、古泉と二人で俺の妹が学校で作らされたという小さなスゴロクで遊びながら、朝比奈さんが淹れる、汚れた川も一滴注げば綺麗になりそうなお茶を頂いていた。
長門は本を読んでいるし、結局今日一度も声を交わしていないハルヒはさっきからうそ臭い怪談が載っているサイトをぼーっと眺めている。
全くいつもどおりの部室である。
しかし、微妙に空気が変だった。
ハルヒは三分おきにつま先で床を叩くし、朝比奈さんは俺とハルヒのことをちらちらと横目で伺っているし、古泉はいつもの二割り増し腹の立つ笑顔を見せているし、俺はこの変な空気を作った原因でもある昨日の行動を、どう弁明しようかということばかり考えていた。
そんな中にあって、いつもと全く変わらない長門が、いつものように本を閉じ、帰り支度を始めたのを合図に、俺は立ち上がって団長の席に向かった。
昨日の事は何かの気の迷いだったということを説明して、謝らなければならない。
何で謝るのかはよくわからんが、こんな落ち着かない空気はもう御免だ。
俺が謝りさえすれば、どうせハルヒは俺を怒鳴りつけるか殴りつけるかして、また元通りになるはずさ。古泉あたりにはあきれられそうだが、そのぐらいは我慢してやる。
とりあえずコイツがいつものようにギャースカ騒いでくれないと、俺の生活は上手く回らないらしい。困った体質になってしまったものだ。
「なあ、ハルヒ」
「……何よ」
ハルヒは、悪戯が見つかった小学生のように微妙に落ち着かない様子で、俺を睨みつけている。
「昨日の事なんだが………」
ハルヒの大きな瞳を覗き込むと、俺の顔が映っていた。その俺の瞳の奥には、ハルヒの顔が映っている。
なんだこれは。
まるで合わせ鏡だな。
ハルヒ、俺、ハルヒ、俺、ハルヒ、俺、ハルヒ、俺、ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺ハルヒ俺
その奥で、ハルヒか俺かどちらでも無い誰かが俺に向かって何か囁いているのが見えた。
何?何だって?
俺はハルヒのことが好きか?
知るか。
俺はハルヒのことが好きさ。
そうだったかな?
俺はハルヒのことが好き。
そうだったかもな。
俺はハルヒのことが好き。
そう、
好き
そうさ
好き
ああ、好きだったら、手ぐらい握ってもいいのかもしれないな。
俺はハルヒの手を握り締めて
「今日も二人だけで帰ろうな」
と言った。
翌朝、早くに目が覚めた俺は、布団に潜り込んだまま昨日のことを思い出していた。
ハルヒに謝ろうとしていた筈の俺は、また妙な事を口走っていたのだ。
その後、ハルヒはバカだの手を離せだの言いながらも、結局は俺と帰る事にしたらしい。
幸いな事に、帰り道での俺たちは普段どおりの俺たちであり、ハルヒがいつものように何やら喚くのを、俺がいつものように聞き流したり諌めたりしていたようだ。
いや、普段よりは俺もハルヒも少しばかり浮かれていたような気もするな。
そう、SOS団の皆でいるときよりも。
あまり鮮明には思い出せないな。脳がまだお休み中なのだろう。
いつの間に起きたのか、妹が廊下で騒いでいるのが聞こえる。
さて、少し早いけど俺も着替えるとするかね。
今日はハルヒも普段どおりだった。どうやら昨日の帰り道で、俺は上手いことコイツのご機嫌を直す事に成功したらしい。
「ねえキョン、駅の近くのマンションに幽霊が出る部屋があるらしいわ!昨日怪談サイトの掲示板で見つけたのよ。これを見逃すわけにはいかないわよね!早速週末に調査するわよ!」
オー!と朝から一人で盛り上がるハルヒに、俺はため息だけを返して一限目の準備を始めた。
放課後、週末に向けてのミーティングのための準備をすると言って飛び出したハルヒを見送った後、いつものように部室に向かった。
ノックして返事が無いのを確認すると、ドアを開ける。
案の定、長門が一人でいつものように窓際に座っていた。
しかし、驚くべき事に今日は本を持っておらず、入ってきた俺にまっすぐ目を向けてきた。
「珍しいな、長門。本はどうしたんだ?ひょっとして図書館のも全部読んじまったのか?」
こいつなら有り得る話だからな。しかし長門は俺の質問には答えず、じっと俺の目を探るように見つめてくるだけだ。
「な、なんだよ、どうかしたのか?」
長門は答えない。なんだか怖いんだが。俺が何かしたのだろうか。
結局俺はなんとなく目をそらせないまま、長門は二分ほど見詰め合う事になった。こいつ睨めっこさせたら最強だろうな。
そのうち、長門はほんの数ミリ程度顔を傾け、俺から視線をはずし、本棚から本を取り出して読み始めた。
ほっとして、深く息を吐く。何だったんだよ一体。
長門は何事も無かったかのように本を読み進めている。
俺は特にすることもなく、何とも複雑な気分でそんな長門を見つめていると、唐突に昨日の事が頭をよぎる。
そう、昨日のことだ。俺とハルヒが一緒に部室を出て行くとき、朝比奈さんは少し顔を赤くして、古泉は少し怪訝そうな笑顔で、そして長門は……
勿論いつもどおりの無表情だったさ。
いや、いつもとは違っただろ。
どこが?
目だよ。
何故だか俺は、ひどく落ち着かない気分になっていた。
「待たせたわね!!」
初レースで、やたらと張り切りすぎてしまった競走馬のような勢いでドアを開けてハルヒが入ってくる。
くそ、なんか考え事をしていたのに、このアホのせいで頭からとんでいってしまった。
「何よ、なんか文句あんの?」
何でもねえよ、と俺が言うのと同時にドアが開き、朝比奈さんと古泉が入ってきた。
「みくるちゃん、お茶を入れて頂戴。さあ、すぐに週末に向けてのミーティングを始めるわよ!」
今日もハルヒの目は爛々と輝いている。やれやれ。
結局、幽霊の出る部屋などというのは全くのガセネタであった。
部屋の住人である役者志望の若い男が夜中に発声練習をしていたせいで流れた噂だという、あんまりと言えばあんまりな結末に、ハルヒはひどくヘソを曲げ、俺たちは週末をハルヒの機嫌を直すために費やす事になった。
その甲斐もあって、いつもの場所で解散を宣言するハルヒの顔も数時間前よりは大分ましになっており、古泉と朝比奈さんはほっとしたような顔で去っていった。
長門も俺のほうを少し見つめてから、マンションの方向に向かって歩きだす。
「…キョン、あんたは帰んないの?」
夕方の、人もまばらな駅前には、俺とハルヒだけが取り残されている。
「いや、お前を途中まで送っていく。丁度買わなきゃならんものがあるんだ」
ハルヒは暫く俺の鼻の辺りを見つめていたが、「そう」とだけ言うと、いつものように先に歩き出した。
俺もその後ろに続く。
あのミーティングの日から、ハルヒは俺が何を言わなくても一緒に帰ってくれるようになった。まあ、一歩進展したと考えてもいいのだろう。
しかし、決定的というには程遠いな。
俺はハルヒに気づかれないように、ひっそりとため息をついた。
もともとコイツは何を考えているのかさっぱり分からんし、俺もそういう感情の機微を読み取るのはかなり苦手だ。
しかし、長門の様子からして、これ以上時間をかけるのは得策とはいえないだろう。
まあもともと非確率的な要素が多すぎるのだ。やってみるしかないさ。
「…ねえ、キョン?」
気づいたら俺の横を歩いていたハルヒが、何か聞きたそうに俺を見つめている。
「なんだ?」
「あんたさ、なんで急にあたしと帰ろうなんて言い出したの?」
俺もさっぱりわからなかったが、最近になってようやく理解できた。
ハルヒに、俺と二人っきりも悪くないと思わせたかったのだ。
「急にあんな事言ってくるから、あたしをからかってるのかと思ってもみたんだけど、そんな感じでも無いし。何か変な病気にでも罹ってるってわけでもなさそうだし」
さっぱりわかんないわ!と少し怒ったように俺をにらみつけてくる。
丁度良かった。俺も今からその話をしようと思っていたところだからな。
「ハルヒ」
俺は足を止め、ハルヒに向き直る。
「…何よ」
ハルヒも少し先で足を止めた。
もうすぐ日が落ちようとしている空は、思わず目を背けたくなるような赤色だ。
その中で堂々と立っているハルヒは、いつもより勇ましいようにも見えるし、弱弱しいようにも見えた。
やっぱりお前には赤い色が良く似合ってるな。
「月曜日の放課後、部室で二人きりで話がしたい」
ハルヒの顔は良く見えない。俺が少しだけ目を逸らしているからだ。
暫く間があった後、ハルヒは搾り出すような声で聞いてきた。
「……え、SOS団の活動はどうすんのよ」
「団長権限で少しだけ遅らせてくれればいい。いいな、絶対に二人きりで。じゃあな」
それだけ言うと、俺はさっさと角を曲がった。
「ちょ、ちょっと!どこ行くのよ!」
買うものがあるって言っただろ。
月曜日。
俺はハルヒと目も合わせようとはせず、ハルヒの方から接触してくる事も無かった。
放課後になると、ハルヒは少しだけ俺の方に目を向けた後、さっさと教室を出ていってしまった。
俺もハルヒの後を追うように教室を出る。
しかし、俺が向かった先は上級生の教室だった。
「え、今日は活動中止じゃなかったんですか?」
少し意外そうに朝比奈さんは言う。やはりハルヒは活動を中止する事にしていたらしい。
「いえ、やっぱり活動するって言い出しました。しかも今日は重大な発表があるらしいので、出席しないと死刑だそうです」
俺はわざとらしく肩を竦める。まるで古泉だな。
「え、え、じゃあ、急いで行かないと!」
泣きそうな顔をしながら鞄に物を詰め込んでいる。死刑台に立たされる自分を想像したのだろう。
「あ、急がなくても大丈夫ですよ。何やら準備があるらしいので、今から十分後に来て欲しいそうです。その代わり、早すぎたり遅すぎたりしたら島流しだと言ってました」
これまた泣きそうな顔で時計を確認する朝比奈さん。島流しされる自分を想像したのだろう。
「それと、是非顧問として鶴屋さんにも出席してもらいたい、とか何とかも言ってましたね」
窓際で談笑している長い髪の後姿にちらりと目を向けた。
あの人は騒がしいからな。近づいてきたらすぐにわかるだろう。
朝比奈さんは少し困ったような顔で俺を見ていたが、すぐに笑顔で「わかりました」と言ってくれた。
俺はそんな朝比奈さんにいつものような苦笑いを投げかけた後、SOS団の部室に向かうべく、上級生の教室を辞した。
ああ、もうすぐだ。部室に近づくにつれ、胸が少し高鳴るのを感じる。
ドアを開けて、ハルヒが一人でいればとりあえずは一勝、いなければぎりぎりでドローか。
おそらく古泉は気づいていないだろうから、問題は長門だな。
長門がいればその時点でアウト。まあ俺なら何とか切り抜けられるかもしれないが、時間に限りのある俺にとって膠着状態は致命的と言っていい。
ハルヒが長門を外に追い出してくれているはずだが、俺に対する疑いが強い場合は、長門はてこでも出て行かない筈だ。
長門のあの目を思い出す。
あいつの感情を読み取るのは俺の唯一の特技であり、かなりの的中率を誇っている筈だ。
あの時、長門は俺に対して確かに敵意を抱いていた様子だった。
思い出すだけで背中に冷や汗が流れていた。
長門、お前は本当に頼りになる奴だな。
いつのまにか部室の前に着いていた俺は、一度深呼吸をしてからドアノブを握り締めた。
さあ、開けろよキョン。どうせもう後は無いんだぜ。
「南無三」
思い切ってドアを開ける。
かくして、部屋の中には団長の机に座ってこっちを睨んでいる涼宮ハルヒただ一人。窓際には誰もいない。
さあ、いよいよ詰みだ。
「ハルヒ」
俺はこれから告白をする。勿論生まれて初めての経験だ。
ハルヒはこちらを睨んだまま微動だにしない。
「いつからかはよくわからんが、俺はお前に惚れている」
ゆっくりとハルヒに近づいていく。
「それをお前に気づいて欲しくて、一緒に帰ろうなんて言い出したんだ」
狭い部室だ。すぐに俺はハルヒの元に辿り着いた。
近くでよく見ると、顔が少し赤いようだ。
「そして、これからも出来ればずっと俺と二人で一緒にいて欲しい」
肩を掴み、顔を近づける。
「……嫌か?」
ハルヒは、微妙に目をそらしながら「べ、別に」とかなんとか呟いている。
俺はそのままハルヒの背中に手を回し、顔をハルヒの肩の上に乗せた。
ハルヒは一瞬ピクリとしたが、結局抵抗しなかった。
俺は目線をハルヒの背中にまわした腕に向け、安物の腕時計を確認する。もうすぐ十分経つ頃だ。
丁度外からは、鶴屋さんの騒がしい声と朝比奈さんの楽しそうな声が近づいてきた。
ハルヒもそれに気づいたようで、落ちつかなそうに身体を動かしている。
今だ。
俺は顔だけハルヒの正面に戻し、ハルヒの顔に近づける。
「……ちょ、ちょっと待ちなさいってキョン。みくるちゃん達が来てるのよ!」
暴れようとするハルヒを、俺はしっかり両手で押さえつける。
「大丈夫だ、ハルヒ。こういう時は願えばいいのさ。俺としばらくの間二人だけになりたいってな。何なら永遠にでもいいぞ」
そうすれば何も気にする必要は無くなる。
二人だけの帰り道、お前だって楽しかっただろう?
皆と一緒にいるよりも、さ。
「な、な、何言ってんのよ、あんたやっぱりどっかおかしくなったんじゃないの!?」
もう二人の顔の間には三センチほどの隙間しかない。
「大丈夫、ハルヒ。お前にはそういう力があるんだぞ。嘘じゃない。本当だ。宇宙人も未来人も超能力者も信じてるんだろ?なら少しぐらい俺を信じてみてもいいんじゃないか?」
唇が近づく。
朝比奈さんと鶴屋さんの声も近づく。
ハルヒはゆっくりと目を閉じた。
「好きだ、ハルヒ」
ハルヒは何かを呟いた。
声は消え、窓の外の景色も消えた。
世界はいつかのような灰色に染まっている。
俺の顔は笑っているようだ。