春のうららかな日差しが頬を撫で、風にも暖かな息吹を感じる今はもう4月。  
新たな始まりの時期である。  
俺はと言えば、最果ての学校に新卒の先生として潜り込み、意気揚々と……ってのは言いすぎか、  
ちょっとばかり緊張しながら学校の門をくぐった。  
今までの知り合いと離れ離れになり、たどり着いた場所である。  
「はぁ……」  
思わずため息をつく。  
いやはや、本当にぼろい。  
今どき木造建築はないだろう木造は。  
なにかの条例に引っかかるんじゃないか、これは。  
SOS団――********――っと、あれ? なんだったかな、ともかく高校時代の部室もそうだったんだが、冷暖房がない設備で何か活動をすることは、はっきり断言しよう。自殺行為に他ならない。  
それが文化的なものであれ何であれ、日本の気候風土において知的、あるいは身体的な活動をしたければ、クーラーが必要不可欠であることは論を待たない。  
「はぁ」  
とはいえ言え、ここではそもそもクーラーの概念自体が今だ未普及じゃないかとすら思える土地柄だ。  
自分の借りたアパートにすらないと言うのに、それを学校に求めるのは酷だろう。  
文句を言っても仕方ない。  
なにより小学校の先生として、いきなり副担任をすっ飛ばして担任からという異例のスタートだ。  
田舎の学校とは言え、学級崩壊、先生の質の低下が叫ばれ続けて久しい昨今、気を引き締めて行かなければ。  
俺は両頬を叩き、気合を入れなおす。  
ああ、でも不安だ……  
 
 
「さっそく今日からの授業ですが、だいじょうぶですか?」  
「はい、任せてください。決して期待を裏切りません、全てお任せください!」  
あなたのためなら何処までも、地の果てからベッドの中までお供しますと言うか是が非でもご一緒に!   
胸を張り断言する俺の前には、胸をはちきれんばかりに膨らませたハレンチ極まりない校長先生がいた。  
名前を、朝比奈さんと言うらしい。  
とてもじゃないが娘持ちとは思えないほど若々しい。  
聞けば旦那さんとは、だいぶ昔に離婚したらしい。  
チャンスだ。  
なにがチャンスだとかは聞くな。  
こんな最果ての、夢も希望も潰えたと思われた場所にも、可憐に咲く花はあったのだ。  
「頼もしいですね」  
そう俺に微笑みかける朝比奈さんの表情は、こちらの脳髄と延髄の酸素供給をストップさせるに足る破壊力だった。  
思わず鞄を腰の前に持ち替えてしまった俺を誰が責められよう。  
まして目の前には、喋るたびに動くたびに揺れ動く魅惑のビーチボールが二つもあるのだ。  
全てを許す女神のような微笑を前に身動きが取れないものの、自然と目はそこへと吸い寄せられる。  
「けど、平気かしら」  
ふと、その女神の微笑みが曇った。  
俺にとっては、地球が氷河期に突入したのと同等の一大事だ。  
「なにがです! どんな異変が!」  
「あ、いえ、そんなたいしたことじゃないんです」  
「本当に本当ですか?」  
「ええ、ただ……」  
「ただ?」  
朝比奈さんは、申し訳なさそうな上目づかいで俺を見た。  
唾を飲み込む俺に、色っぽいアルトの声が響く。  
「あなたに担任してもらうクラスが、その、少しばかり問題のあるクラスなんです」  
 
「ふぅ……」  
ネクタイを少しだけ緩めながら俺は木造の床を歩く。  
あの後、朝比奈さんからはろくな情報が聞けなかったが、いくつかの事項を確認はできた。  
ひとつ、朝比奈さんの娘が、そのクラスにはいること。  
是非とも仲良く将を射るにはまず馬からせねば。  
……いかん、余計な思考が混じったな。  
まあ、これは特に問題ではないだろう、よこしまな未来予想図を展開している俺ではあるが、だからと言って実際に特別扱いすることも、下手に持ち上げる予定もない。  
そんなことをすれば逆効果であることを、つい先日まで学生であった俺は知っている。  
先生とは、あくまでも『外部の邪魔者』であり、言うなれば潜在的な敵対者なのだ。  
もうひとつは、どうやらそのクラスには女子しかいないこと。  
というか、そもそもこの学校には女子しかいないらしい。  
この土地では古い習慣がまだ残っているらしく、男女7才にして席を同じゅうせずをマジで実践してるのだ。  
石頭どころの騒ぎじゃないな。  
なので、この近くの南校は男子のみの小学校であり、ここ北校には女子しかいないのだと言う。  
まあ、都内でも女子校ってのは珍しくないからな、ちょっと上品なところだったり特殊であれば、こういうことも珍しくないのかもしれない。  
……いや、やっぱり変だよな……  
ともあれ以上の二点であれば、特に『問題のある』クラスとはいえない。  
外側の、誰もが知っているようなことだけを知らされたようだ。  
「ま、実地でやるのが一番だよな……」  
悩んでいても仕方ない。  
俺は扉を開けた。  
 
そこには、意外なほど普通のクラス風景があった。  
はしゃぎすぎてもいない、かといって整然としすぎてもいない、どこにでもあるような小学校の教室だ。  
なんだか拍子抜けだな。  
「あー、みんな、席について」  
パンパンと手を鳴らしながら言う。  
見知らぬ大人に戸惑ったようだが、わりあい素直に着席してくれた。  
クラス人数は……少な! たったの十人かよ。  
こんなんでやっていけるのか、学校経営。  
「はじめまして、今日からこのクラスの担任をすることになった――」  
言いながら黒板に名前を書いていると、  
「はいはーい! 質問しつもーんっ!」  
「あ、えーと、鶴屋、だったかな?」  
「うんうん、キョン君先生は、どうしてこんなとこに来たのさっ?」  
「……待て、いまなんて言った」  
「ん? 先生って、めがっさ耳遠い? こぉんな辺鄙なとこに来た理由をだねー」  
「いや、まだボケてもいないし、耳の機能もすこぶる順調だし、質問の意図もよく分かっている。それよりも、何なんだその呼び方は?」  
俺はほとんど冷や汗を流しながら言った。  
なんの説明もなく、どうしてそのあだ名にたどり着く?  
「だってさっ?」  
同意を求めるように鶴屋さん――なぜかこの呼び方のほうがしっくりくるな――は横に顔を向ける。  
「だってキョン君、キョン君だもん!」  
超弩級の眩暈に襲われ、俺は机に手をつく。  
誰だ、いま、ものすごく聞き覚えのある声を耳にしたようなしないような。  
「あれ? キョン君どうしたの? たいちょう悪いの?」  
冗談じゃない。  
そんなわけがあるはずがない。  
あいつは、俺の妹は遠く彼方、ここからなら電車を乗り継いで軽く半日は掛かる小学校に通っているはずであって、こんな場所で、こんな身近なところで声を聞けることがありえるはずがない。  
 
「……あの、お兄さん驚いてるけど、ひょっとして、知らないんじゃない?」  
「んー?」  
さらに、マテ。  
なんだその良く妹と一緒にセットになって家に遊びに来ていた覚えのある声というかミヨキチ。  
一回だけデートの真似事をしたことがある、現在小学6年生の女の子よ。  
……駄目だ、ここで何もかもを忘れて回れ右をするべきだ。  
俺は精神を患っているに違いない。  
小学生離れというかもうほとんど大人にしか見えない容貌の知り合いとか、生まれてこの方ずっと一緒に暮らしてきた妹とかがこんな場所にいるはず――  
「あ、そういえば言ってなかったぁ」  
「言い忘れかよ!」  
「復活したねっ、めでたいことだよっ」  
鶴屋さん。そのしみじみと飲んでいるお茶はどっから持ってきた?  
「って言うかちょっと待ってくれ、考えさせろ。俺に思考する時間をくれ。どうして、なぜ、お前らがここにいるんだ?」  
「えー」  
「『えー』じゃありません。悪戯にしても手が込みすぎてるだろうが!」  
「あの……」  
「なんだ、ミヨキチ」  
慌て、錯乱する俺を救ったのは、不出来な妹にしては出来すぎな親友の発言だった。  
曰く、俺の親が海外に転勤になった。  
妹は国内残留を希望したが、さすがに一人暮らしでは不安。  
かといって俺一人に任せるのも同じく不安(失礼な話だ)。  
なので同時期に引っ越すことになったミヨキチとひっついて暮し、なにかあれば俺を頼ればいい、という運びらしい。  
問題は、これらの情報をなぜか俺が一切知っていなかったということだ。  
いくら引越しを含めたごたごたがあったとはいえ、どうして連絡がなかったんだ?  
いや、まあ、いい。  
あの不出来な親のうっかりさ加減をいま議論しても始まらない。  
それに、よくよく考えればいいことではないか。  
初赴任の初担任の場に知り合いと身内がいるのだ、多少の気恥ずかしささえ我慢すれば、俺の低い技量を補ってもらえる格好のサポート役となる。  
そうだ、たとえなぁんにも考えないで余計なことばかりやらかす妹や、こちらの恥部やら弱点を知っている程度には長い付き合いの知人がなんだって言うんだ。  
そうさ、いいことずくめさ、はっはっは。  
「キョン君先生、壊れてないかい?」  
「んー?」  
「やっぱり、知らなかったんだ……」  
「ね、それよりも早く授業をしなきゃ、駄目なんじゃない?」  
聞こえん、聞こえんぞぉ!  
 
 
結局、にっこりと笑った朝倉にスリッパではたかれ、俺はなんとか瘴気を取り戻した。  
誤字ではない。  
人間、マイナス方向に突き抜けると傍目には冷静に見えるものである。  
ダウナーなオーラを発散しつつ、俺は言う。  
「あー、出席を取る」  
すまし顔の、何食わぬ顔で席についている朝倉を見つつ、  
「朝倉」  
「はい♪」  
小学生とは思えない二つの胸部物体に行きそうになる視線を強引にはがし、  
「朝比奈」  
「はぁい」  
……どうしてだろう、この子にもさんづけしなければいけないという強迫観念があるな。  
親御さんに似て、おっとりとした、文字通り天使のような子だ。  
ああ、教えるのがこういう子だけであればいいのだが、その胸だけはなんとかしてもらいたい。  
俺の目がS極に、その胸がN極になり、不可抗力的にひきつけてしまうのだ。  
俺はゴホンとごまかしの咳払いをしつつ、見るからに大人しい、どこか優等生的な雰囲気のある子に向け、  
「喜緑」  
「……はい」  
普通の子だ。  
実に普通の子だ。  
なぜか目に熱いものが浮かぶ。  
微妙に目の焦点があってないようにも見えるが、きっとこの子は普通の子にちがいない……!  
そして…………なんじゃこりゃ?  
読み方はそのままでいいのか?  
というかぐーぐー寝てるぞ、この子。  
「しゃ、三味線?」  
「にゃー」  
返事か?  
今のは返事でいいのか!?  
というかなぜだかこの子は本来なら男の子で喋る猫だったんじゃないかという意味不明な確信があるぞ!  
俺はうめき声を上げるが、どうしてだかここで突っ込んでは駄目だという確信もまたあった。  
たとえその頭に怪しげな三角の付け耳らしきものが見えたとしても、である。  
 
「つ、次、あー、パスだな」  
出席にはチェックだけする。  
わくわくしながらこっちを見てる顔はスルーだ。  
「キョン君ひどいー!」  
うるさい。  
黙って身近に存在するお前が悪い。  
というか身内はこのくらい軽く扱って、ちょうど帳尻が取れるもんだ。  
「涼宮」  
「……」  
「ん? 涼宮、涼宮ハルヒ?」  
「……ハイ」  
出席簿から顔を上げると、美人ではあるが、この世に生まれてから一度も幸運が舞い降りませんでしたと言わんばかりの仏頂面をした子がいた。  
やる気の無い頬杖をつき、窓の外を眺めてる。  
この子も問題児か?  
やれやれ、段々とこのクラスの実体がつかめてきたぞ。  
要するに、個性が強すぎるのが集まっているのだ。  
「鶴屋さん」  
「めがっさっ!」  
……鶴屋さん、はたしてそれは返事として正しいのかどうか。  
普通の日本語に直すと、「鶴屋さん」「とっても!」という、意味不明の会話になるのではないだろうか。  
いや、その勢い良く上げた手は元気でいいと思うのだが。  
「長門」  
「……」  
読んでいた本から目を離し、俺の方を見てコクンと頷く。  
どうやら、これが返事らしい。  
せめて声を上げて返事をしろと言う至極もっともな指摘を、カンペキに拒否する空気をまとっていた。  
「……森」  
「はい、ここにおります」  
ただ出欠確認を取るだけなのに疲れ果てている俺に向け、にっこり微笑み返事をするのは、一点を抜かしてはパーフェクトな優等生。  
いや逆か?  
こうであるからこそ、なのかもしれない。  
大正時代にタイムスリップしたと見紛うばかりの、『メイド服をまとった』小学生がそこにいた。  
知らん。  
俺はもう知らん。  
この地域の常識とか良識は運ばれる途中の電車で落ちているとしか思えん。  
というか、第一印象で、どうして俺はこのクラスを普通だと思えたんだ、まったく。  
「吉村」  
「はい」  
ああ、ミヨキチ。  
すまん、お前だけが俺の心のオアシスになりそうだ。  
同情心をたたえたミヨキチの瞳に、俺は後で何かおごってやろうと硬く決心していた。  
「さ、授業をはじめる!」  
 
「で、どうでした? 授業初日は?」  
敗残兵と化した俺に、胡散臭い笑顔と共に問いかけたのは同僚にして隣の席の住人、  
教諭としては少しばかり先輩となる古泉だ。  
……妙に距離が近い気がするのは、俺の邪推か?  
ともあれ少し椅子を動かし、ため息混じりに答える。  
「いやー、大変でしたよ。本当に」  
思い返すだけで冷や汗が流れる。  
妹を中心とした、無駄に騒ぐ面々。  
これはまあ、注意すればすむことだ。  
問題は、カンッペキにコチラを無視してくれる涼宮を初めとした面々。  
こちらは下手に問題を解かせても、あっという間に解いてしまうからやりにくい。  
さらに問題なのが、朝倉を筆頭とした『俺の間違いを優しく指摘してくれる』素晴らしい生徒たちである。  
分かってる。  
誰に指摘されなくても、間違えた俺が一番悪いことはよぉく分かっている。  
だが、年下の子どもに一挙手一投足を見つめられ指摘されるのは、精神的にかなり堪えるのだ。  
あのやさしー声でくすくす笑いながら「そこ、間違ってますよ?」とか言われてみろ、一週間分の気力を根絶やしにされること請け合いだ。  
「ま、何事も慣れですよ。しばらくすれば平気しょう」  
同僚はそう気軽に言うが、とてもじゃないが俺はそんな風に楽観できなかった。  
今日一日でよく分かった。  
あいつらは、進めば進むほど危険になる地雷原のような連中だ。  
ゆめゆめ油断はできない。  
……あと古泉?  
せっかく開けた距離を縮めてるのはどうしてだ?  
そこはかとなく目が怖いぞ。  
「そういえば、俺の前の担任は、どうしたんですか?」  
椅子をさらに引きながら聞く、  
俺が受け持つのは六年の初めからである。当然、五年生までの担任がいたはずだ。  
「……」  
「古泉先生……?」  
「……」  
「?」  
「さ、僕もそろそろ次の授業の準備をしなければ、では!」  
手を挙げ、爽やかに決めるのはいいが、震える両足は何とかした方がいいぞ。  
キラリと光った歯も台無しだ。  
「はぁ」  
どうやら、地雷原どころの騒ぎじゃなさそうだ。  
今度、朝比奈さんに給料の値上げ交渉をしなければ。  
とてもじゃないが、他の担任と同じ負担とは思えない。  
はぁ……。  
 

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