たとえば壁。  
 恐ろしい勢いで迫る壁。  
 世界の物理法則の前じゃ人間なんて脆いもんだと心底納得させるソレ。  
 つまり限界ってヤツはそんなもん。  
 夢の中でそう囁かれた気がした――  
 
 
 
 
今日も日常は続く。  
授業は常に地獄行き。  
しかも俺専用である。  
なんせ当てるたびにアヒル顔で俺を睨むハルヒや、なにかと俺に懐く妹や、鶴屋さんの揺れる髪を無心に引っかいてるシャミセン、  
邪気のない顔でぐさりと心に突き刺さる指摘をする朝倉、思わず顔をうずめたくなるほど豊満な朝比奈さんの胸、  
余人には理解できないコンタクトを取っているらしい長門と喜緑、唯一普通に授業を受けているせいで逆に目立っているミヨキチ、  
そのメイド服だけで日常のすべて破壊している森さんなどを相手にした授業である。  
今こうして二本の足で立ってるだけでも褒めて欲しいってものだ。  
 
精も根も尽き果てた新兵か、南国の下の吸血鬼のようにふらふらしながら、俺は校長室の扉をくぐる。  
天使と聖母を足して割らない笑顔で出迎えてくれた校長先生が、そこにいた。  
 
「どうですか、調子は」  
 
もう限界です、勘弁してください、リトルリーグから大リーグに直通で連行された気分です……  
素直にそう言う代わりに、俺は朗らかそのものの顔をする。  
 
「特に問題ありません、順調極そのものですよ!」  
 
……この脊髄反射に答えてしまう神経が恨めしい。  
 
「そうですか?」  
「ええ!」  
 
誰かこの口を止めてくれ、そして給料値上げ交渉にまで持って行ける精神力を俺にくれ。  
せめて次の休みの予定を聞けるぐらいの図々しさが欲しい。  
 
「娘から、あなたが疲れているようだと聞いたのですが……」  
「なにを言ってるのですか。初めてのことですから慣れていないだけですとも!」  
 
朝比奈校長の表情が曇ることは、天岩戸が閉じる以上の一大事だ。  
たとえ胃が荒れ、自律神経が狂い、睡眠不足に陥り、ときおり背後から襲い来る朝倉の言動に怯えていたとしても、退却するわけに  
 
はいかない。  
男なら、退いてはならない時がある。  
 
「ああ、それはよかったです。これからもガンバってくださいね?」  
「はい!」  
 
たとえ報酬が、輝くようなこの笑顔だけだとしても。  
 
 
 
「とは言え、どうしたもんかね、これは」  
 
職員室に戻った俺は、腕組みをして考える。  
朝比奈校長にああ言った手前、対策を考えねばならないだろう。  
俺としても、これ以上追い詰められるのは勘弁して欲しい。  
うちのクラスには、大雑把に分類して三つのグループがある。  
ひとつは家の妹を中心とした『転校生グループ』。  
これには妹、ミヨキチ、それとなぜかシャミセンがセットになっている。  
このグループは悪気がないわりに俺に迷惑を掛けると言う特色がある。  
もうひとつは『涼宮グループ』。  
どういうわけなのか、涼宮ハルヒと長門有希と朝比奈みくるさんが組んでいる。  
このグループは、俺と敵対、とまでは言わないまでも無視に近い立場にある。  
最後は『知的短刀グループ』。  
朝倉、喜緑、森さんの三人だ。  
なぜこの名前かと言うと、三人とも大人しい顔してナイフのように鋭く、グサリと来る指摘を俺にしてくれるからだ。  
頭がよく、一見優等生だからこそ手におえない。  
ちなみに言った順からナイフを刺す回数が多く、威力は逆の方がより高い。  
そしてこの三グループの間を飛び回っているのが鶴屋さん、という構成だ。  
 
「はぁ……」  
「なにやらお悩みのようですね」  
「ああ、古泉か」  
 
この三日で、先生付けを止める程度には親しくなった同僚だ。  
ちなみに深めたのは友情であって、他の要素は一切ない。  
あいも変わらず接近を試みようとする古泉を敬して遠ざけ、どうしたものかと思いを巡らす。  
 
「実は……いや、相談するようなことでも別にないか」  
 
なにせ個性と厄介が固まって錬金術でも起こしたようなクラスだ。  
相談事の一つで上手く行くとは思えない。  
 
「そうですか? ですが、とりあえず口に出してみてはいかがです」  
「ん?」  
「よく聞く言葉ではありますが、誰かに話すだけでも違うものです。なによりも、一人で悩むより、その方がより建設的ではありま  
 
せんか?」  
「まあ、そうかもな……」  
 
とは言え、これで突破口が開けるとも思えんのだが……  
 
つまびらかに我がクラスの事情を話し終えた後、古泉は難しい顔をした。  
当たり前だが、こんなの即座に解決策を思いつくはずが無い。  
それができればこの世の人間関係にまつわるあらゆる問題は消え去っていることだろう。  
 
「……とりあえず、各個撃破、というのはどうでしょう?」  
 
人差し指を立てそう言ったのは、しばらくしてからだった。  
 
「というと?」  
「つまり、全体を一度に変えるのではなく、一人一人の事情を理解し、そこから変えて行こうという案です。  
三つに分かれたグループを変えることは難しそうですが、一人一人を変えてゆくことはあまり難しくないのではありませんか?  
まして、あなたのクラスは明確な『リーダー』がいないようです。改善策として、これ以外には無いように思えますが」  
「なるほど、確かにそれは理想だが……」  
「ええ、この案の欠点は、それほどまでの信頼関係を築けるかどうか、です」  
「それにずいぶん時間がかかりそうだな」  
 
それまで俺の胃が持ちそうも無い。  
一考の余地はあるが、即効性は低いな。  
 
「なあ、古泉」  
「なんですか?」  
 
ふと思いついた。  
なかなか素敵なアイディアだ。  
なぜいままで気がつかなかったんだろう。盲点だ。  
 
「こんな案はどうだ?」  
 
だが、俺の素敵改善案を、あろうことか古泉はあっさりと拒否した。  
いつもの笑顔で、  
 
「死んでもごめんです」  
 
とさらりと言う。  
だが、ここで引くわけにはいかない。  
男には、引いてはいけない戦いがある。というかマジで頼む。これが最上の策だ。  
俺は断腸の思いで、土下座する勢いで懇願した。  
 
「じゃあ、代わりになんでも一つ古泉の言うこと聞いてやる、だから頼む!」  
「……」  
 
言った俺が意外なくらい、古泉は葛藤した。  
めったに寄らない眉間の皺が、悩みの深刻さを物語る。  
おいおい?  
 
「いえ……非常に、そう、非常に魅力的な提案なのですが、ここは拒否しておきましょう」  
「やっぱり駄目か……」  
「ええ、申し訳ありません。では、次の授業がありますので」  
 
言って古泉は爽やかに逃げた。  
幻の血涙が見えた気がしたのは、もちろん幻だから気のせいだろう。  
俺も準備を整えながら、心の中で舌打ちした。  
 
――ちなみに、俺がした提案とは「何人かの生徒をトレードしないか?」という実に妥当で的確な案である。  
畜生め。  
 
 
結局、なんのアイディアも出ずに授業だけが終る。  
今日も今日とて敗残兵。  
疲れた体に夕日が染みる。  
放課後のちょっとばかり郷愁に満ちた廊下に背を預け、俺はぼうっと立ち尽くす。  
こんな時、煙草でも吸っていればさまになるんだろうが、あいにく俺は禁煙家。  
というかそんなことをしてたら、アイツが煙の弊害について論文が出せる量の文句を言われ、さらには罰金と罰則を言い渡され、 
『 二度と吸いません』の宣誓書を書かされるに相違ない。  
それを振り切ってまで吸う意思は、俺には無い。  
まあ、金もかかるしね。  
…………ハテ?  
ところでいま俺が考えた『アイツ』って、誰のことだ?  
そんな口やかましいこと言うやつっていたか?  
妹とかミヨキチじゃないよな。  
谷口とか国木田とかも違う。  
誰だ?  
なにか、こう、曖昧な輪郭みたいのはあるんだが……  
考える俺の目の端に、ここ最近見慣れたシルエットが映る。  
 
「おお?」  
 
意識のピントが合った気がした。  
そうだよ、たしかこんなヤツだ。  
廊下をキイキイ悲鳴を上げさせ、偉そうに歩いて来るのは、我がクラスの問題児、涼宮ハルヒ様である。  
春風の香る季節なんて、こいつの精神には一ミリグラムも影響を与えていないみたいで、実に不機嫌そうな表情だった。  
ハルヒは俺の方を一瞥し、  
 
「ふん!」  
 
なんて実際に声に出して通り過ぎようとする。  
小さな肩をいからせずんずん歩く様子はふてぶてしさの権化、  
小学生の若い身空で、人生の何がそこまで気に入らないのか聞いてみたいもんだ。  
 
「よ」  
 
無視。  
軽く上げた俺の手も軽くスルーされている。  
 
「曜日で髪型変えるのは、なんかの願掛けか?」  
 
足が止まる。  
ハルヒが勢い振り返る。  
そして、長年追い求めていた親の敵か実は生き別れた肉親でしたみたいな目で睨まれた。  
いや、これじゃよく分からんな。  
それだけ色んなものを含んだ睨みだった、ってことだ。  
つかつかと近寄り、近距離で、つまりは真下から俺を見る。  
 
「す、涼宮?」  
「あんた……」  
 
先生をあんた呼ばわりするなという言葉が浮かんだが、  
初めてハルヒの方から俺に話しかけるという事態にちょっとばかり戸惑い、  
 
「あんた、どっかで会ったことあるでしょ、それもけっこう最近」  
「は?」  
 
そんな鋭くも意味不明な言葉を受け取る。  
こいつは将来は美人になるな、などと他愛も無い予想をしつつ、涼宮の呟きを耳にする。  
 
「……それに似た言葉をどっかで聞いたことがあるのよ、絶対に」  
「待て待て、俺は三日前ここに引っ越してきたばかりだ。涼宮は生まれも育ちもここだろ? 物理的にありえないだろうが」  
「知らないわよそんなこと! 聞いたことがあるったらあるのよ!」  
 
地団駄を踏むな。板がきしんでるだろうが。  
 
「んなこと言われても困る。本当に覚えが無い」  
「なによ!」  
「ぐえ!」  
 
ネクタイを絞めるなネクタイを!  
 
「あたしがあるって言ってるの! これ以上確かなことがどこにあるっていうのよ!」  
 
甲高い声でわめくな苦しいキツイ気道が塞がれる喉仏が潰れるっていうか息が!  
 
「ちょっと、聞いてるの、キョン!」  
 
さらに力強く!?  
 
「コラ! キョン!! あんたの耳は飾り? 聞いてますかー!!」  
「止めろ! これ以上はマジに死ぬだろ!」  
「わ!?」  
 
強引に振り払う。  
大人気ないと言うな、体罰だとか言うな。  
本気で天に召されそうそうだったんだ。  
たとえ天国が朝比奈校長が出迎えてくれる場所だとしても、俺はまだ行きたくない。  
俺は咳き込み、喉をさすり、ムッツリ顔のハルヒを見る。  
 
「とにかく、俺は知らんぞ。誰か別の人間と勘違いしてるんじゃないか?」  
「……」  
 
あと、そのアヒル口は止めてくれ。  
知らないものは知らないし、無い袖は振れないんだぞ、ハルヒ。  
 
「ふん!」  
 
謝罪も弁明もなしに、ハルヒはズンズンと歩き出す。  
だが、心なしかその足取りは、先ほどより軽いもののように見えた。  
 
「はぁ」  
 
ため息をつく。  
本当に意味不明だ、涼宮ハルヒ。  
 
 
……これがきっかけだった。  
まあ、後にして思えば、って話なんだが、  
ここより涼宮ハルヒが動き出す。  
理由は俺にもよく分からん。  
そして動いて良かったのか悪かったのか、それも不明だ。  
 
 
次の日の朝早く、あの長かった髪をばっさりと切ってハルヒは現れた。  
どこか晴れ晴れとした表情だ。  
驚く暇もあればこそ、  
 
「ちょっとキョン、来なさい」  
 
俺を引きずり、職員室横の使ってない教室に連れ込まれる。  
体格差をものともしない牽引力はさすがだが、まだホームルームも始まらないこんな時間からに待ち伏せか?  
暇だなぁハルヒ。俺は眠くてまだ瞼が開ききってないぜ……  
って、ちょっと待った!  
覚醒しろ!  
目を覚ませ俺!  
色々ツッコミたいところがあるがまずは、  
 
「涼宮、その呼び方はなんだ?」  
「なに、なんか間違えてた? キョンじゃなくてジョンだったっけ?」  
「そうじゃない。確かに俺のあだ名は昔っから不本意にもキョンだが、せめて後ろに先生ぐらい付けろ」  
 
他の面々はそうしてる。  
ただでさえがけっぷちな尊厳だ、これぐらいは死守させてもらう。  
 
「なーんかイメージじゃないのよね、それ。却下」  
「イメージとかそういう問題じゃないだろうが、お前には先生に対する尊敬とか感謝の念が――」  
「無い」  
 
はい、そうでしょうね。聞いた俺が馬鹿だった。  
 
「やれやれ……」  
「それに妹ちゃんだって呼び捨てじゃない、あたしがあんたを『先生』って呼ぶなんて、考えただけで怖気が走るわ」  
「あいつは身内だ、それに怖気もなにも、実際、お前は俺の生徒だろうが」  
「ハッ、キョンを先生付けで呼ぶなんて、まるでナメクジに尊称をつけるような気色悪さだわ。似合わないことおびただしいのよ。  
そこに実体が伴っていない以上、尊敬も感謝も発生しないわ。もしあたしに先生呼ばわりされたかったら、ノーベル賞の一ダースは最低でも持ってくることね」  
 
よく回る口だな、おい。  
もはやため息すらでないぜ。  
というかお前の辞書に低血圧とか朝に弱いって文字は乗ってないのか?  
 
「まあ、いい。涼宮の素行不良は今に始まったことじゃないもんな……」  
「なによっ――」  
「で、何の用事なんだ?」  
 
というかなんで髪の毛切ったんだ? その髪じゃポニーテールができないじゃないか、という言葉は飲み込む。  
まだ頭がはっきりしてないんだ、手短に頼むぜ、おい。  
 
「それよそれ!」  
 
ハルヒは小さな体をフル活用し、むやみやたらと強烈な恒星核融合並の笑顔でのたまった。  
 
「あんたにSOS団の顧問を命じるわ、ありがたく思いなさい!」  
 
うわーお。  
 
 

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