広い窓を、強い雨が無心に叩いていた。
流れ落ちる水滴の向こうに、灰色の空が広がっている。雨音は注意すれば
聞こえるかもしれないが、端正なピアノの音色しか、今は聞こえない。
振り向く必要も無く、ここには俺とハルヒの二人しかいない。
どっかの馬鹿が、音楽室にいた俺たちに気付かずに廊下にワックスをかけ
やがった。そいつらは30分待てば乾くからといい、それで暫し足止めを食らう
ことになった訳だ。俺とハルヒが。
六限の音楽の授業を居眠りタイムと決め込んだ俺を起こしたのはハルヒで、
その時には掃除の時間になっており、ワックスがかけられていたのだそうだ。
谷口も国木田も、俺を放って帰ってしまったらしい。
「もうちょっと早く起こしてくれ」
「何よ、有難うの一言も無いわけ?
大体あんたが寝てるのが悪いのよ。こっちはあんたを起こす義理なんて無い
んだからね」
すまんって一言言ったろ。しかし言い合っても仕方ないし、30分は釘付けだ。
同様に釘付けになったのは軽音部の連中で、ワックスの向こうで暫く騒がし
かったが、もう何処かに行ってしまったらしい。
もしかすると今日は活動中止と決めてしまったのかもな。SOS団の無駄に
活発なところを見習ったらどうだ。
そんな事をぼんやり思っていると、いつの間にハルヒはピアノを弾いていた。
どうやら曲が終わったらしい。俺はあんまり熱心には聞こえないように、
おざなりな感じで拍手した。
なかなか上手かったぞ。なんて曲だ。
「あんた、この曲知らないの?」
知らん。郊外の百貨店みたいな名前の作曲家の、ジムのどーにかという曲
だという説明を聞き流す。
「近所のコたちと一緒にね、音楽教室」
ハルヒは再び鍵盤を静かに叩きはじめた。
「小学校の頃、親の間で流行って。結局二年行ったかな」
ハルヒはそこで言葉を切ってしまう。ピアノの静かな旋律だけが響く。
気詰まりになって、会話の糸口を探す。
「今度は何て曲だ」
何だか舌を噛みそうな名前の作曲家の名前を告げられた。曲名はこう聞こえた。
「ヴォカリーズ」
あれからまだ一週間も経っていない。この世界はそれから梅雨に本格的に突入
して、あの世界を思わせる灰色に空を塗りつぶしている。ハルヒの指先が作る
憂鬱なピアノの音色は、世界の音を消し去っていた。
でも、この憂鬱は違う、何となくそう思った。この灰色なら、一緒に居て
やっても良いかもしれない。多分これも、後になって思い返したとき、首を
吊りたくなる類いの思いなのだろうがな。
いつの間にか、雨音が聞こえるようになっていた。
振り向くと同時に、ピアノの鍵盤蓋が落ちる音が響いた。
「さ、もう行くわよ」
もう終わりか?
「終わりよ終わり」
音楽教室の明かりを消し、俺たちは廊下を並んで歩き出した。
部室棟への渡り廊下で、外に手を差し伸べて、雨の強さをはかる。文芸部室
には灯りがついていた。
「早く梅雨終わんないかしら」
俺としては、土日限定でもうちょっと続いて欲しい。ハルヒはまだ市内不思議
狩りをやる積もりらしいがな。
「ねぇキョン、
あんたなら終わらせる事ができるんじゃないの」
振り向いたハルヒは俺を真っ直ぐ見つめる。しかし、俺が何も言葉を返せない
うちに、ハルヒは渡り廊下を駆け出した。
「置いてくわよ!さっさと来なさい!」
ちなみに、その週末には天気はさっくりと晴れてしまい、俺たちは市内探索の
代わりにボールを追って右往左往することになる。
全く、お前が梅雨を終わらせたんじゃないのか。
それとも、だ。俺がこっぱずかしい事を考えるたびに、ハルヒの憂鬱に小さな
ピリオドが打たれるかもしれない。
俺としては、そっちの方が嬉しい。