―――目が覚めるとそこはいつかの灰色の学校だった。
「へえぇぇ!?」
自分でも驚くような変な声を出してしまった。
辺りは思いっきり灰色。それとこの嫌な感じ、間違いなく閉鎖空間だろう。別に古泉のように何度もこの
空間に入っている訳じゃないが、なんとなく言い切れる。こんな嫌な空間、誰が忘れるものか。
いつぞやと同じ灰色の学校となると、ハルヒもこの空間にいるだろうな。
「って、隣にいたし」
こいつ、自分で作り出した空間の中で寝やがってる。
こっちは心地よい眠りから無理矢理こんな嫌な所に連れて来られたってのに……ん、待てよ。ここはハル
ヒの作り出した閉鎖空間な訳で、そうなるとそろそろ奴が……。
「はい、きましたよ」
やっぱり出て来やがったな、このサイキック野郎!
だが、おかしい。聞こえてくるのはいつもの能天気な声だけで姿が見えない。前回は完璧に姿は現せない
ものの、人としての形は形成していたのだが。こりゃひょっとして今までにない程の異常事態だとか?
「さすが。察しがいいですね。ですが、別に異常事態という程ではないです」
その返答なんとなく溜息が出た。ほっとしたのと、またかよ的な微妙な溜息。俺ってば、なんか悪いこと
したっけ。
「いえ、今回は前回とは少し違うようです。空間自体は前回と同じものですが、作り出した意図が違うよう
です」
「それはつまり、どういうことだ?」
やっぱりこいつの言うことは意味がわからん。
「涼宮さんが何らかの理由をもってこの空間を作り出したんです。前回は現実世界に愛想を尽かして閉鎖空
間を作り出したのですが、今回はそうではないようです」
「じゃあ、何が原因なんだよ?」
形はないが、多分目の前にいるであろうと思われる古泉は少し考えるように間をあけている。
「正直なところ、我々にもわかりません。ただ、今回は世界がひっくり返るような恐ろしいものではないこ
とは確かです」
「その割には、お前もてこずってるな」
ちょっと嫌味な感じで声だけの古泉に言う。
「よくご存知で。お恥ずかしいことに今回の閉鎖空間は涼宮さんの想いが強すぎて、僕がこれ以上この空間に存在することは無理なようです。あと数秒で僕はこの空間から弾き出されてしまう。
僕のような邪魔者は創造者によって追い返されてしまうんですよ。
それ程に涼宮さんはあなたとふたりだけの空間を求めたのでしょう」
なんかますます意味がわからん。なぜハルヒが俺とふたりっきりの空間を求める必要がある。
俺は心地よく眠っていたというのにだな、明日は学校なんだぞ。朝からクソ暑い中で体育なんだぞ。
「最後に。ここは涼宮さんが作り出した閉鎖空間。なんらかの意図があって作り出されたと思われます。あなたがなぜこの場にいるのかをよく考えて行動してくださいね。あなたは涼宮ハルヒに選ばれた、たったひとりの人間なのですから」
この空間から弾き出されてしまったのだろう。古泉の声は全く聞こえなくなった。
最後の辺りがノイズでうまく聞き取れなかったが、まあいいだろう。要するにこの空間から抜け出す鍵は俺が握ってるってことだな。
「とは言ってもなあ……」
灰色の空間の中でぽつりと呟く。
困った。非常に困った。前回この空間から脱出する為にやったアレをするべきなのだろうか。しかし、アレをするにあたって色々と心の準備もある訳で……あの時は半ばヤケだったもんなあ。
冷静になって考えてみれば俺とハルヒは年頃の男と女。そういう恋人同士がするものをするには気が引ける。下手すりゃ俺も狼さんになっちゃう可能性だってある。起きてたら凶暴な女だが、眠っていれば……なんてアブナイ考えが頭にちらついたが理性で追い返した。
まあ、実際そんなこと考えている場合じゃなくて、問題のこいつは隣で眠っている。まさに白雪姫。キスをするには非常に好都合。こいつを起こさずに、更に元の現実世界に帰れるなんて、こんなお得な話はそうあるもんじゃないね。
そうとくれば、よし! 思い立ったらすぐ行動! それが俺のモットーだ!
なんて、かなり無理矢理自分の頭に言い聞かせる。そして、眠るハルヒに口付けをしようと目を閉じて小
さめの唇に狙いを定める。
今だ! 行け! 俺!
―――ごつっ!
鈍い音。
「……ったぁー!」
「……はへっ?」
石と石がぶつかるような音。ハルヒの驚いたような声と俺のなんともマヌケな声。
なんということだ。完璧にミスった。こんなナイスタイミングでハルヒが起きるとは誰が思っただろうか。
二度とないであろうチャンスを逃した俺はホントにバカだろう。
「いたぁ、このバカキョン!」
ほら言われた。ハルヒはおでこをすりすりしながら俺を睨んでいる。
「わ、悪い」
なんで謝ってんだよ俺。
俺はだな、この危機的状況からハルヒを起こすことなく平和的に元の世界に戻ろうとしてだな。
「なにブツブツいってんのよ」
「いや、なんでもない。俺が悪かった」
俺ってば、なんて弱い男の子なんだろうね。
いや、起きてしまったのだから仕方ない。まずは状況を理解してもらおう。
「そんなことより、ハルヒ。ここがどこか解るか?」
「どこかって……なによ、いつか夢で見た学校じゃない……」
ようやく周りの状況を掴んだのか、全てが暗い灰色に支配された世界を見つめて呆然としている。
無理もないだろう。ハルヒ自身が作り出したとはいえ、誰だってこんなところ目を覚ましたら驚くし、恐怖も感じるだろう。二度目の閉鎖空間。普段は自信に満ちたハルヒも今はおとなしくなっている。
「もしかして、怖いのかな?」
そんなハルヒの表情が珍しかったので、少し意地悪っぽく訊いてみる。
「こ、怖いわけないじゃない! こう見えてもあたし、ここに来たの二回目なんだから!」
「なんだ、奇遇だな。俺も前にここに来たことあるぞ」
「……え?」
しまった。いいのか悪いのかわからんが、こういうことは言わない方がよかったのだろうか。
ハルヒは俺の目を見つめたまま、目をぱちくりさせている。その目はなんで知ってるの? と俺に訴えて
きているように見える。困ったな。ここはお前の作り出した閉鎖空間だなんて言えないしな。
「じゃ、じゃあキョン。校舎を壊してた巨人のこととか覚えてる?」
「ま、まあな」
あれはな、お前の作り出した神人って言うんだぞ、なんて絶対に言えない。
「じゃあ、あのことも覚えてる……?」
あのこと? はて、なんだろうか。
「あのことってなんだ? そんな曖昧な言い方じゃわからん」
そう返答を投げ掛けると何故かハルヒは顔を真っ赤にした。
大きく目を見開いて唇を噛み締めているのか口を真一文字にしている。
照れてるのか、怒ってるのはわからんが、こんなハルヒを見るなんてなんか新鮮だ。
「なんでもないわよ! 今のは忘れて!」
怒ったようにハルヒは言い放つ。
しかし困ったな。二度目といえども、この空間は好きではない。むしろ嫌いだ。
生きている感じがしない、まるで全てのものが死んでいるかのような、魂を抜き取られてしまっているかのような言葉には出来ない何か嫌なものがある。更にこれであの巨人が出てこようとものなら……ああ、駄目だ。考えただけでもゾッとする。
「キョン」
不意に呼ばれる俺の名前。まあ、正確にいうと名前ではないのだが。
「なんだよ、びっくりしたじゃないか」
「びっくりしたじゃないわよ。ここにいても仕方ないわ。とりあえず部室に行きましょ」
威勢良く左手の人差し指で部室があるであろう方角を指すハルヒ。そして右手は何故か俺のブレザーの裾。
「なんだ、結局怖いんじゃないか」
ちょっとからかってみる。多分、次は必死に弁明するハルヒを想像しておこう。
「ち、違うわよ! ほら、こんな人気のない所だし、はぐれたりしたら危ないじゃない!?」
ほら、やっぱり。案外単純な奴だな、こいつも。
でもなんか、地味に可愛いぞ。俺自身、頼りにされてる感があるしな。まあ、サイキックな能力なんてないけど。なんて思いながらあの能天気な声とスマイル度数満点の古泉の顔が浮かぶ。
「ああ、気持ち悪い」
「なにがよ?」
むう、とブレザーの裾を強めに引っ張って上目遣いで俺を見つめる。
「い、いや、なんでもない。ほら、なんだ。ブレザーじゃ掴みづらいだろ? 手、貸してやるからさ」
俺ったら、なに言っちゃってるんだろ。手ぇ出してどうすんだよ。一緒に手繋いで歩きましょうってか?「気持ちはありがたいけど、遠慮しとくわ。下手にあんたの手なんて触ったらバカが移るかもしれないわ」
なんて、平気でこんなことぬかしやがる、この女。
だけどまあ、いつものハルヒらしいっていえばそうだな。この方が相手しやすい。
「ねえキョン、あんたはSOS団のこと好き?」
早速変な質問を仕掛けてきた。
「ん、変な質問だな。そうだな、俺は好きだな。最初はなんで俺が、とか思ってたけど、朝比奈さんや長門や古泉がいて、お前を含めてみんな変な奴らだけどそんな変な奴らと毎日何気なく過ごしていくのが今の俺にはたまらなく楽しい気がしてる。
もちろん、それはハルヒ。お前がいて、お前が仲間を集めて作ったSOS団だからだと俺は思ってる」
「ふぅん、なんか意味わかんない気もするけど、キョンはSOS団が好きなのね」
廊下を歩きながらハルヒは俯いている。多分、今こいつはむすっとした顔をしているだろう。そんな気がする。
「そういうお前はどうなんだ?」
「そんなの好きに決まってるじゃない。みくるちゃんは貴重なマスコットキャラ。有希は必要不可欠な無口で眼鏡っ子。そして謎の転校生の古泉くん。これだけ揃って何の文句があるってのよ。ああ、あんたは一応団員として入れてあげてる雑用兼バカ」
うあ、きっついなハルヒさん。ちょっと胸の辺りが心なしかずきっとしたぞ。
「でもね、正直SOS団が今みたいに楽しいものになるとは思ってなかったの。中学の時からみんなに変人扱いされて、それでも宇宙人だとか未来人だとか超能力者とか探したりして。
でもホントはそんなのいないって解ってた。今思ってもあたしったら矛盾しちゃってるわよね。でも、高校に入ってキョン、あんたに出会って、みくるちゃんや有希や古泉くんたちが文句も言わずにあたしについてきてくれて、SOS団なんて団体まで作っちゃって」
そこまで言うとハルヒは喋ることをやめた。
もちろん、それは部室についたことが原因でもある。だが、それとは別にハルヒな何かを考えている。
「都合いいな、鍵開いてやがる。ほら、入るぞ」
「待って」
ブレザーの裾を握る手に力がこもっているのだろう。俺の体はぐっと引き止められた。
「今からあたしが変なこと言うわ。だけど、キョンは、うん、としか言っちゃ駄目。わかった?」
「あ、ああ」
なに言い出すんだ、ハルヒのやつ。
ハルヒは裾を掴んでいた手を離すと俺に向き合う。
「あたしはキョンのことが気になっている。もしかするとキョンに好意があるかもしれない」
「はっ……!? あ、いや、うん」
思いっきりひるんだ。なにを言い出すか涼宮ハルヒさん。もちろん、動揺しながらでも、うん、と言えた
のはハルヒの鋭い視線を真っ直ぐに受けたからだ。
「でもそれは実は嘘で本当はキョンのことなんて単なる雑用としか思ってない。言ってみればSOS団のバ
カキャラ」
ぐぬぬ、またきついことを平気で言ってくれる。俺だってまともな人間なんだからそんなこと真面目な顔
で言われたら傷ついちゃうよ。
それでも俺は冷静に返事をする。
「うん」
「以上。終わりよ」
にこっと微笑むハルヒ。
「は? ハルヒ、悪いが俺にはなんのことかさっぱりわからんのだが」
「もー、あんた本物のバカねえ。要するにどちらともあたしの本音よ」
つまりハルヒにとって俺は気になる男の子であって好意もあるかもしれないが、実は単なる雑用マシーン
で更には我らがSOS団の可愛いバカキャラという訳か。
まったくもって意味がわからんぞ!
そんな俺をよそにハルヒはすたすたと部室の中に入っていく。マイペースな奴め。
「それにしても暇な空間ねえ」
いやいや、あなたが作った閉鎖空間ですよ、ハルヒさん。
「もっとこう、また巨人とか出ないかしら? 謎の巨人が深夜の学校の校舎を壊すなんて素敵すぎるわ」
「……いや、出なくていい」
もうあの巨人の出現は勘弁だ。ましてや自分で作り出した巨人に対して素敵だなんて、幸せな奴め。
「それにしても、眠いわね」
両手を上げてぐーっと伸びをしているハルヒ。
「じゃあ勝手に寝ろよ」
あえて冷たく突き放してみる。ついでに閉鎖空間だぞ、ここは。
「なによ、冷たいわね」
むー、っと上目遣いな感じで俺を見つめる。こういうところは素直に可愛らしい。
なんか最近になって、この最高に気難しいと思われるハルヒの扱いにも慣れてきた。
「じゃあ、団長命令よ。膝枕しなさい」
やっぱ前言撤回。
扱いに慣れたなんて俺の勝手な思い込みだったようだ。
「お前、普通膝枕ってのは男の子が女の子にしてもらうものだろう? 普通な俺がお前にしてもらうべきだ」
「嫌よ、そんなの。ほらほら、団長様の命令よ。従えないならそれなりの覚悟はしてもらわなくちゃね。死
刑とか」
ああ、なんだろう。この俺がハルヒに扱われてる感は。
そして、気が付いたら部室の壁にもたれて足を伸ばしてる俺がいる。
もちろん、ハルヒというオプション付きだ。
「あんた、男の癖に柔らかい足してんのね」
「うるさい。文句があるならさっさと起きろ」
初めて自分の足を人の枕にさせたのだが、なんだろう。ハルヒの頭は柔らかく、軽いものだった。
仰向けに寝て、ハルヒは俺をじっと見つめている。なんか気まずいのは気のせいだろうか。自然の目をそらしてしまいそうになる。
「キョン。なんかしなさいよ」
「なにか?」
そうなにか、と唇を尖らせる。
なにか。そうだな。とりあえず、
「こ、こらっ! やめなさい! くすぐったいじゃない!」
ハルヒが頭を振って嫌がる。
なにをしたかって? そりゃおでこすりすりしかないだろう。
やめろなんて声は聞こえない。なにかしろと言ったのはお前の方だ。くらえ、必殺おでこすりすり百連撃!
「きょ、キョン! ちょ! あははっ! や、やめなさっ!」
ものすごい勢いで笑い転げるハルヒ。なんか感動。これでひとつこいつの弱点を発見した。明日団長抜きでみんなで会議だ。
なんて、調子に乗ってたら頬っぺた引っ叩かれた。痛い。じんじんする。
「このバカキョン! やめろって言ってるのにやめないのが悪い!」
「うむ、すまんかった」
引っ叩かれたのは本気で痛いがなんとなく楽しいかったから俺は満足だ。
ハルヒが笑い転げる貴重なワンシーンも目に焼き付けたしな。
「ねえ、キョン」
「なんだ?」
貴重な笑い転げから数分後。ハルヒは真面目な顔で俺の名前を呼んだ。
「多分、あたしもうすぐ眠ってしまうわ。でも……あの時みたいにキスはしないで」
心なしかハルヒに頬が赤く紅潮しているようにも見える。
あの時とは、そう巨人が校舎を永遠と破壊し続ける校舎で行った半ば強引な口付け。
正直、今思い返すだけでも心臓が痒いとでも言うのだろうか、なんとも言えない妙な感覚に陥る。
「……」
何故だ、と俺が聞こうとする前にハルヒが答えた。
「知ってるの。ここはあたしの夢の中。だから今ここにいるキョンもあたしの夢の中だけに存在している。だからキョン。眠っているあたしにキスをしないで……あたしはまた目覚めてここでキョンに逢いたいの。
目が覚めたら自分の部屋でひとりぼっちの布団の中なんて嫌なの」
どうやらハルヒはこの空間に留まり続けたいのだろう。別にハルヒに悪意もなにもない。古泉が言っていたようにただ本心で俺とふたりだけの空間にいたいと願ったのだろう。
もちろん、ハルヒ自身はここが自分の作り出した閉鎖空間であるなどということは全く解っていないだろう。だけど、ハルヒは今この瞬間の持続を求めている。それが結果的にどうなるのか俺には解らない。
いや、解るつもりもない。だが、少なからずともこうなった責任は俺にもあると思う。
「なあ、ハルヒ。俺はお前に好意があるかもしれない。だけど、好きかと聞かれたらそうじゃない。まだ解らない。
ハルヒが俺を求めてくれているのは嬉しいことだ。だけど、ここは夢の中。別に夢の中でだけふたりっきりじゃなくても俺はお前のそばにいてやる。
SOS団が存在する限りは俺はお前のそばにいる。バカと言われようが、知るか。変人と言われようが関係ない。俺は雑用として団長についていくだけだからな。なんなら団長様の為に命だって張ってもいいさ」
「バカ。なにバカなこといってんのよ。このバカキョン」
うわ、三回もバカって言われた。
ハルヒはくすっと笑うともう一度バカと俺に言った。
それと同時にハルヒはゆっくりとまぶたを閉じて、すうすうと寝息をたてていた。
ちょっと恥ずかしいけど、本音を相手にぶつけるってのは気持ちいいもんだな。ハルヒも納得したし。
「まったく、夢の中で寝るなよな」
ハルヒの頬っぺたをつんつんとつついた。柔らかいもんだな、なんて当たり前のことを思う。
「なあ、ハルヒ。俺、実はポニーテール萌えなんだ」
ハルヒの唇は前と変わらず、柔らかかった。
次の日の朝。
教室にはやっぱりちょんまげみたいな髪型のハルヒがいた。
相変わらず、窓の外をじーっと見つめたままで、
「伸ばすから」
「ああ、期待しとく」
そして、一日が始まった。
おしまい。