【卒業式の後で】
ハイキングコースにしては手軽でないし、頑張りすぎなような気がしんでもない、お馴染、通学路の坂道。
普段はただただ憎らしい存在なのだが、道の両側を桜に抱かれるこの季節だけは、まあ綺麗だと認めてやってもいい。
春風に踊らされて飛んできては、髪に張り付く花びらを払いつつ、俺は空を見上げた。
コバルトブルーの絵の具を塗りたぐったような空。冬の時ほど澄んではいないが、見ているだけで気分が晴れるような空だ。
春はもうとっくに来ているんだな。我ながら、少しセンチな気分になる。
ガラでもない。分かってるさ。でも人間なんてのはその場その場で違った自分を発見するもんさ。
俺はブレザーの襟を直し、ネクタイをしっかり締めた。今日くらいはきっちりしてやらないとな。
いつもだらしのない谷口だって、就活の面接の時くらいの身だしなみはしてると思うぜ。
今日くらいはな。
今日も相変わらず暑い。陽気な天気、というよりは太陽は陽気を通り越して馬鹿になってしまったのでは、と疑いたくもなる暑さだ。
少しは俺たちの気持ちを察してくれてもいいだろうに、と太陽を蹴り飛ばしてやりたくなる実現不可能な願望に駈られつつ、そんな自分をせせら笑いつつ、俺は歩を進めた。
この理不尽な坂も流石に三年間も上れば慣れっこである。体育会系の部活をやってもいないのに相当鍛えられたはずだ。ただし足腰だけな。
坂を上るにつれ、やがて見慣れた、というよりも見飽きた校舎が見えてくる。 だが今日は若干いつもと違って見える。気のせいじゃないさ。
校門の横に立掛けられた見慣れぬ看板……
目を凝らしてみるといい。ここからだとまだよく見えないが、それにはこう書いてあるはずさ。
【第五十六回 県立北高等学校 卒業証書授与式】
教室に入るとやはりというか、いつもと雰囲気が違っていた。
黒板には赤や黄色のチョークで落書きやメッセージが思い思いに書かれ、あちこちで連絡先かなんかのメモを交換をしている奴もいる。
まあ今は携帯電話があるから寄せ書きが大半だろうな。
卒業式を控えた教室の、ありふれた一コマ。まあ俺には無縁さ。各自別れをしのぶがいい。
そんな卒業式の雰囲気ぶち壊しな思いを抱きつつ、俺は真っ直ぐに窓際の最後尾の席へと向かう。
と、間違えた。
窓際の後ろから二番目の机に鞄を置き、椅子を引きずり出して座った。
三年になって何度か席替えをしたが、俺はこの席から動いたことはないし、俺の後ろには結局誰も座ることはなかったな。
……なんだ?
ここで俺は妙な感覚を覚える。胸に発生する奇妙なモヤモヤ。だが俺はそれが何なのか分からない。
何か、ものすごく大事なことを忘れているような気がする…
だが消し忘れたタバコの煙のようなモヤの正体が何かを考えるより早く、担任岡部が今にも泣きそうな無理矢理スマイルで教室に入ってきた。
…まだ泣いている生徒もいないのに気が早すぎないか?
無駄に広い体育館で行われる、テンプレートでダルダルの卒業式。
たとえポンポン鳴らして遊ぶだけでしかない筒にくるまれた安っぽいただの紙だとしても、
これを渡してくれたのが結局名前を覚えることのなく、卒業したら存在すら忘れかねないようなヅラ校長だとしても、卒業証書というものはやはり一生の宝物だろうね。
こうして握り締めていると、卒業おめでとう、と語りかけてくるような気さえするよ。
とにかく、俺は満足していたんだろう。賭けてもいいぜ。だったらこんな気分になるはずないからな。
普通の高校生活。谷口や国木田といった気の合う連れがいて、たまに何でもないことで馬鹿みたいに騒いだり。
ああ、俺はそれなりに青春を謳歌したと胸を張れるだろう。
さっきから壇上にいるヅラ校長の無駄話が長すぎるような気もするが、今の俺は許してやれる気分だ。あと三十秒くらいならな。
さて、最後は「蛍の光」を生徒全員で歌って終わりか。まあ王道とも言えるチョイスだろう。
俺の中学では「丘の桜」だった気がするが谷口はなんと言ってたかな。
たしか奴は東中で……
うっ。また、この感覚。なんだこれは。デジャヴというやつか?
東中。谷口の母校。谷口?んん?東中出身は谷口だけだったか?
分からん。だが何かが喉まで出かかっているような気がする。だが追えば追うほど、それはだんだん離れていく。
気が付けば合唱も終り、俺たち卒業生は追い立てられるように体育館から退場した。
俺たちのクラスの先陣を切って歩く岡部は肩が震えすぎて、芝刈り機がいいとこであった。
涙の卒業式が終わったあとは最後のホームルームが待っている。
人によっては、こっちで泣くほうが多いんじゃないだろうか。
涙を拭こうともせず青春とは何かを熱く語る岡部に対し、谷口までもがかたくなに耳を傾けている。
俺は貰ったばかりの卒業証書を広げ、ひたすらデジャヴの正体を考えていた。
気が付けば岡部の話も終り、谷口が肩を叩いてきた。手に持っているのはデジカメだ。
「キョン、写真撮ろうぜ」
写真ならもう嫌というほど取ったろう。夏休みに行った国木田んちの別荘とか、冬休みに行ったスキー場で。
夏に行った旅行はおもしろかったな。旅先で出会った谷口の春。トンデモ事件に巻き込まれたりもしたが、思い出してはにやけてしまう。
「馬鹿だな。この制服で撮るのはもう最後なんだぜ?」
ブレザーの端を摘みながら鼻を鳴らす。それもそうか。アホの谷口にしちゃあまともな見解だ。
「なんだよそれ。まあいい、撮るぞ。国木田頼む」
谷口はそう言うと国木田にデジカメを渡し、俺の隣に立って肩を組んでくる。
いつもなら離せ気色悪い、と言うところだが俺も腕を回してやった。言っとくが俺にソッチの気はないぜ。せめてものフェアプレイ精神、ってやつさ。
……今、何故か頭をチェス盤やら赤い球体やらが通りすぎたが、気のせいだろう。
「おし、次は国木田とだ」
「はい、キョン。」
国木田からデジカメを渡され、渋々頷く。カメラを握った瞬間、また何かが頭を通りすぎた。
緑の濁った液体が入った湯呑みに…メイド服?だがそんなものたちに身に覚えがあるはずもなく、俺は頭を振った。
「何やってんだ、早く撮れよ…だが、いきなりはよせよな」
やはりそうきたか。俺は撮る時にハイチーズ、だとかいう台詞を言うのが嫌いなのだ。
何故バターやマーガリンではないのか。「ズ」のところでシャッターを切られたら、ヒョットコみたいな顔になってしまうではないか。
まあ仕方ない、最後くらい腹をくくるか…そう思い、俺はファインダーを覗いた。
こちらにVサインを向ける級友二人…の向こうに、人影が見えた。
窓際は中庭に面していて、この窓からは中庭が一望できるのだが、何故あんな所に女子生徒が一人でいるんだ?
俺は興味本意でズームアップしてみた。
「………」
その時の俺の感覚を、どう表現したらいいだろうか。俺はその少女を知っていた。
眼鏡をかけた、ボブカットをさらに短くしたような髪型の人形みたいな女子生徒……
俺は唖然とした。だが、すぐに覚醒した。ついに、見つけた。このモヤモヤから抜け出せる、鍵に。
俺は二つのVサインに背を向け、走り出した。左手にカメラを握ったまま。
「お、おいキョン!」
谷口の声が空しく響いたが、その時俺はもう教室を飛び出していた。
中庭に下りて辺りを見回すと、小柄なセーラー服が、すっと建物の陰に消えるのが見えた。
彼女は校舎の裏側へ回ろうとしているのか?
「待ってくれ!」
叫びながら後を追う。彼女が立ち止まる気配はない。
「待ってくれ!」
さっきよりも大声を出したつもりだが、彼女は振り返らない。足音もなく角を曲がる。
ひたすら後を追う。彼女の姿はない。見ると、上の渡り廊下にセーラー服が翻るのが見えた。
どうやって一瞬であんな所に?と思ったが今は後回しだ。玄関まで戻り、階段を駆け上がる。
途中でニヤけ面を浮かべた男子生徒とぶつかったが、気にもしない。
彼女が消えたのは…文化系部の部室棟。通称旧館。今まで一度も立ち寄ったことのない場所だ。
廊下の端までドアがずらりと並んでいる。一つ一つ開けて確かめるのはさすがにはばかられる。
卒業式の後だから活動はしてないだろうが、個々で送別会かなんかをやってるかもしれないからな。
ふと見るとドアのそばなプレートがかかっている。 俺は何気なく、そのうちの一つに目をやった。
【文芸部】
……………!
その時、俺の脳内で情報爆発が起こったような気がした。言葉の意味が分からないが、そんな感じだ。
懐かしい。何故だか分からないが懐かしい。哀愁、というやつだろうか。
俺はここに、来たことがある。いや、ないはずだ。だが、この感覚は…
俺は中がどうなっているか、知っている。
俺の記憶が正しければ…ここにいるはずの者が、いるはずだ。
この、ドアの向こうに。
呼吸を整えながらノブを握る。手に汗が滲んでいるのが分かった。
「……いてくれよ」
俺は、ドアを開いた。
部屋に入ってまず目に飛込んできたのは、パイプ椅子に座り、長テーブルの片隅で本を広げる小柄な人影だった。
「いてくれたか……」
安堵の息とも溜息ともつかぬものを吐き出しながら後ろ手に扉を閉めた。
少女…俺は名前を知っているぞ。長門有希は何も言わず、ただこちらを凝視している。
「よう」
俺はぎこちなく右手を挙げた。その手が小刻に震えている。
「久しぶりだな」
本当に…この部室に入るのも、長門に会うのも、何年振りだろう。
「元気だったか?」
長門が微かに、だがはっきりと頷いた。
それだけで俺の違和感の正体が全て分かったような気分になる。
と、後ろでドアがカチャリと開かれた。
「すいません、遅くなっちゃいました」
おずおず、といった感じで入ってきたのは…この人も知ってる…朝比奈みくるさんだった。
思わず俺は凝視してしまう。可愛くて憧れだった、中学生みたいな先輩。
「あの、どうしました?な、なんでそんなに見るんですか、私の顔、なんかついてますか?」
勘違いをした朝比奈さんは顔を赤らめつつ、慌ててセーラー服の胸ポケットから鏡を取り出そうとするがなかなか取れない。
そりゃそうだろう。制服ごしにも分かる、豊富な胸…目のやり場に困るんだよな、ほんと。
「すいません、遅れました」
開けっ放しだった入り口から、ニヤけハンサム野郎……古泉が入ってきた。
俺の天にも昇る気持は何処へやら、アトランティスの如く沈んじまったよ。
「おや?どうしたんです、お二人とも。そんな所で突っ立って」
なんでもねえよ。お前こそ出入口塞いでないでとっとと入れ。
「そうですか。邪魔したなら謝ります。すいません」
相変わらず口の減らない奴だな。黙らせてやるとしよう。どうだ、久々にチェスでもやるか?
「いいでしょう。受けて立ちます」
いい度胸じゃないか。蹴散らしてやるぜ。
っと、その前に。
朝比奈さんがメイド服に着替えねばいけないので、俺は古泉を連れて部室から退散した。
いつもと何ら変わりのない、SOS団の活動。
長門は黙って鈍器になりそうなハードカバーに没頭し、朝比奈さんはいそいそとお茶を配って回り、俺はちっともゲームスキルを上げない古泉から容赦なく勝ちを奪う。
やりたいことも取り立てて見当たらず、何をしていいのかも知らず、時の流れに身をまかすままのモラルトリアムな高校生活。
宇宙人も未来人も超能力者も関係ない、当たり前の平凡な日常だ。
ああ、俺はこんな生活に満足していたんだ。そうさ、こんな時間がずっと続けばいいと思っていたんだ。
だが、そうは思わない奴もいる。誰だって?決まっているだろう。
ほら、廊下を駆けるバタバタという音が近付いて来た。
「遅れてごめーんっ!」
だからそのドアを乱暴に開け閉めするな。ただでさえ古い建物だ。いつか壊れるぞ。
「その時はその時よ!やたらと先の事ばかりを気にしていたら何もできないんだから!」
それは同意してやってもいいが、ドアの開閉に当てはめるのは間違ってると思うぞ。
「いいのよ!そんなにドアが好きなんだったらあんたが直せばいいでしょ。」
団長様がそう決めたんなら、もう何を言っても覆らないだろうさ。
「やれやれ」
そう言って俺は肩をすくめる。ん?なんだ古泉。その目は。気持悪い。
「いえ…あなたのその台詞を聞くのは久々でしたから」
そういや封印したこともあったっけ。いつだったかな。
「その台詞に限って、ではありません。」
古泉は微笑みを浮かべ、目線を横にずらす。その先を追ってみると、いつなく真面目な顔で、朝比奈さんが立っていた。
「お久しぶりです。キョンくん」
その目が潤んでいるのは、俺の見間違いだろうか。
「またこうして会えるなんて…夢にも思っていませんでした」
そうなんですか…いや、俺にはなんのことかさっぱり分かりませんが。
「そのほうがいいでしょう。また、別れる時に辛くなりますからね」
……訳が分からないぞ。一体何がどうなってるんだ。
くだらないサプライズパーティーか?ドッキリか?カメラでも仕掛けてあるんじゃないのか。
「キョン」
きょろきょろとカメラを探していた俺は、その声にぴたりと動きを止めた。
真面目な、切羽詰まったようなハルヒの声。ちくしょう、聞きたくなかったぜ。
灰色の空、崩れる校舎……あの時の光景が、脳裏によぎって消えた。
「おかえり」
それから俺たちは騒ぎに騒いだ。気が付けば鶴屋さんもやって来て、コンピ研やら宿敵だったはずの生徒会やらも交じってのどんちゃん騒ぎ…
一体何処から取り寄せたのか、今やハルヒの特製鍋に、ジュースやら菓子類が長テーブルを占拠している。
俺は谷口のカメラを持ってきていた事に気付き、せっかくだからとみんなで撮りまくった。
楽しかった。非日常的な空間。俺が心の底から望んでいたもの。
それは、ここにあった。
「………ん」
いつの間か、俺は騒ぎに紛れて寝てしまったらしい。
目を覚ますとそこは部室ではなかった。同じような間取りの部屋…だがあちこち損傷し、長い間放置されていたような空き部屋だった。
「……やはりお前だったんだな」
さっきまで賑やかだった部室は、今や誰もいなくなっていた。ハルヒも、朝比奈さんも、古泉も。
長門だけが、残っていた。
曲がったパイプ椅子が隅に転がされている。本棚にはクモの住居区に指定されたかのように糸まみれ、あちこちの壁がはがれ、出入口にはドアノブがない。
これが、SOS団アジト…いや、文芸部部室の、本来の姿だ。
「お陰で思い出したよ、長門」
高二の冬、ハルヒの能力が消え、古泉の力もなくなった。朝比奈さんの「役目」も終わった。そして…長門はここにいる意味を失った。
長門に課せられた最後の仕事。それは多くを知り過ぎた俺の記憶を消すことだった。
長門は俺の記憶を凍結し、時空改変を起こして世界を再構築した。
読書好きの宇宙人アンドロイドも、ドジで可愛い未来人も、ニヤけ面を崩さない超能力者も、そしていつもうるさい団長様もいなかった、高校生活に。
ハルヒがいなければ俺は朝比奈さんと知り合いになることもなく、月日が経てば彼女はすんなり卒業しちまう。古泉は転校してくることもなくて、機関も神人も関係ない人生を満喫するはずだ。
だが、俺は今、ここにいる。忘れたはずのことを思い出してしまったからだ。
「長門」
あの人影は、お前が造り出したんだろ?俺を、この部屋に呼び戻すために。
お前はずっとこの部屋にいたんだな。俺を、俺に記憶が戻るのを、待ってたんだな。
「何でだ?」
何故今になって、俺の記憶が戻ったんだ?
いや、違う。何故長門は俺の記憶を戻したのか、が正しい。
「情報結合の解除が申請されている」
「誰にだ?情報ナントカ思想体とやらか」
長門はこくりと頷いた。顔は相変わらずの無表情だが、悲しんでいるようにも見えた。
「…それは、いつだ」
「今日。処分が決定されたのは涼宮ハルヒが力を無くしてからすぐの事」
それは…もうすぐ消えちまうってことなのか?
「消える、という言葉はふさわしくない。私という有機体は元から存在しなかった。」
淡々と、文章を読むかのように言葉を紡ぐ。そんな自分を幽霊みたいに言うな。お前はここにいる。幻じゃなく、ここにいるじゃないか。
「なんで…だ」
言いたいことは山ほどあるのに、溜息のような声しか出ない自分が欝だ。
「どうしてもっと早くそれを言わなかったんだ!」
こんなぎりぎりに…最後の最後で言わなくてもいいだろう。
「……許可されていなかったから」
「ふざけるな!」
長門に当たっても仕方ない。分かっていた。分かっていたさ。
長門が消えちまう。そんな時に取り乱せないほど俺は冷静な人間にはなれない、ってことさ。
「許可されてないって…それだけのことで…」
今、俺がここにいることも長門の独断行為に違いない。お前はもう命令に従うだけのアンドロイドじゃないだろう?
「長門…お前は、もう人間なのに…感情のある、人間なのに……」
悔しかった。長門からすればそんなことは問題じゃなかったのかもしれない。俺が言ったところで結合が解除されないわけじゃないしな。
でも。俺はたまらなく悔しかった。それこそ、長門に当たらなければどうかなってしまいそうな程に。
「………」
長門は何も言わず、視線を落としていた。小さい肩が微妙に震えている。
「ごめんな」
お前が一番、辛いんだよな。卒業と同時に消滅なんてアホか。
「今まで、お前だけに辛い思いをさせて本当に悪かった。」
長門は顔を上げず、ずっと俺の足元あたりを見ている。
さっきのは長門が見せてくれた幻だったんだ。高校生活最後を飾る、楽しい夢。こことは別の世界で知り合った、SOS団のみんな。
これを見せるために、長門は俺の記憶を完全には消さなかったんだ。
何故かって?お前はそんなことも分からないのか馬鹿野郎。いい加減付き合いきれないぞ。
「長門」
寂しかったんだよな、お前は。
誰かに忘れられてしまうのが。自分の存在意味を無くしたまま、誰にも知られずに消えていくのが。
長門はそれがたまらなく寂しくて、怖かったんだろう。
本当は観察対象が失われても、長門はSOS団の長門でいたかったはずだ。
何がしたいんだが分からない学校非公認団体の片隅で、本を読んでる長門がよかったはずだ。
だから長門は俺をここへ読んだ。さっきの幻は、長門なりの精一杯の抵抗。最後のワガママだったんだ。
返事はない。ただ、長門がおずおずと顔を俺に向けた。長門は俺を見つめている。長門の瞳には、俺が映っている。
なんでもないことなのに、俺はそれがたまらなく嬉しかった。
気が付くと、俺は長門を抱き締めていた。冷たい。こんな小さくて弱々しい体で、いろんなことに耐えてきたんだ。
「長門…」
返事はない。いいさ、名前を呼びたくなっただけだからな。
あまりにも酷すぎないか、なあ。
俺は誰にでもなく、ぼやいていた。
対象の観察のためだけに生み出された存在。命令に従い、命を懸け、何年もひたすら待機し、そして親玉の興味が無くなれば用済みか。
ないのか。長門が、幸せに暮らせる世界が。心から笑えるような世界が。世界はこんなに広いのに。
長門が…長門が生きられる世界があってもいいだろう。
俺は今、自分でも悔しいのか悲しいのか分からない。涙が溢れた。とめどなく流れた。
今回は拭おうともしなかった。何故なら長門に回したこの手を、離したくなかったからだ。
「きた」
…何がだ。
「時間」
分かってるさ。
「情報連結解除を確認」
そう言った途端、長門は足から光る結晶となって消えてゆく。
長門には色々世話になった。下げる頭もないくらいに。もっと、何かお礼をしてやればよかった。
誕生日…は分からないから、俺たちが初めてあった日…いつだ?七夕か?それもわからん。とにかく本をプレゼントしてやったり、
休みの日に図書館に連れていってやったり。今となっては、もう遅い。
長門の腰から足はすでに光る結晶に覆われている。俺はまだ手を離さなかった。この手から、長門はするりと消えていってしまうんだ。
「長門……」
「笑って」
小さな、声。だが、俺の心を大きく揺さぶる、長門有希の声。
「あなたには、笑ってほしい」
笑えだと?長門が消えちまうってのに?俺の涙と鼻水が見えないのか。
「……お願い」
分かったよ。長門。
俺は涙を流しながら、無理矢理笑顔を作った。かなり不格好だったと思う。長門との、SOS団の思い出が頭の中を駆け巡った。
キラキラ輝く細かいガラスのような結晶が降る中、長門はたしかにこう言った。
「ありがとう」
さようなら、ではなかった。
さようなら、は俺も言わなかった。
何故なら俺はまた、いつか必ず、長門に会える確信があったからだ。
「おい、キョン。」
体が、揺れる。地震ではない。俺は今、何者かによって揺らされている。
「長門!!」
叫びながら俺は勢いよく起き上がり…ごんっ。鈍い音がして、額に激痛が走った。
「………!」
俺に頭突きを食らった人物は、声なき悲鳴を上げてもんどり打っている。
「てめー、何すんだ!」
ぼやけた視界の焦点がようやく合わさり、谷口の顏になった。泣くほどのことか。涙を拭け。
そう言う俺はちっとも泣いていなかった。分からんぜ。これから当分は枕を濡らすのかもな。
いつの間にか夕方になっていて、窓から夕日が差し込み、部屋をオレンジ一色に染めている。
…部室。二年間の放置ですっかり廃れた、俺たちの部室だ。
谷口が俺の手を引き、助け起こす。だが俺はうまく立てず、崩れ落ちた。
「大丈夫かよ?お前急に走り出したやがって…何があった?探したんだぞ」
てっきり俺のデジカメをパクる気かと思ったぜ、と続ける谷口の顔が西日に照らされていた。
「こんな空き部屋で寝てやがるとはな…」
ぶつぶつ言いながら、谷口はデジカメを起動させる。ピー、と間の抜けた警告音が、埃っぽい部室に響いた。
「ありゃ、メモリ不足?…おい、お前何枚撮ったんだよ」
そんなはずはない。あいつらと撮ったことは撮ったが、まだ何枚分か空き容量はあったはずだ。
「あいつら?…ってなんじゃこりゃ?!」
谷口の声が裏返ったのも無理はない。映し出されたメモリは、俺の寝顔画像が大半を占めていたのだ。
「おめーの寝顔なんざ、一体誰が撮ったんだ?」
誰って、こんなことをするのはあいつに決まってるだろう。
ああ…最後の最後まで、あいつはあいつだったんだな。
――聞こえるか?ハルヒ?
残念だが俺はもういなくなる。なんせ今日卒業しちまったからな。北高とも、SOS団ともお別れだ。
だけどな、また、何かをきっかけに思い出すことがあったら…また、一緒に騒ごう。
もちろん、SOS団のみんな、全員で。
お前らとは、これから自然と出会うはずだから。
俺は今度こそ立ち上がり、釈然としない顔の谷口と、外で待っていた国木田と共に北高を後にした。
坂道を下りる途中、俺はふと思い付いた。
「谷口、カメラ貸してくれ」
俺は谷口からデジカメを受け取ると、メモリを消去する。ハルヒが消えた。長門が消えた。SOS団、みんなが消えた。
「…いいのか?」
「これでいいのさ」
ほとんど、自分に言い聞かせたようなもんだった。
坂を下りきったところで、俺は一度だけ振り返った。
北高は、もう見えなくなっていた。
卒業はした。だが、俺の高校生活は、まだ終わっちゃいないぜ。
そうだな。
とりあえず、こっちの世界にいる、あの暴走女を探さないとな。
「遅い!罰金よ、罰金!!」
これでも三十分は余裕をみたってのに、一体こいつらはどれだけ早く来てるんだ。
卒業式から一ヶ月ばかり。俺たちの目的は遅めに咲いたソメイヨシノ。まあ、花見にきたわけだ。
ここは俺にとっては馴染みの深い場所である。彼女の告白、未来の可能性、彼女の憂鬱。
川沿いの桜並木。
「私たちの記念すべき初活動よ!?気合いを見せなさい、気合いを!」
気合いて。相変わらず精神論の好きな奴だな。
お前を見付けたはいいが、まさかこうも簡単に面子を揃えてくれるとは思わなかった。日本は狭い。
うるさい女の向こうには、肩をすくめるハンサム野郎と、天使のような麗しいお方が並んで立っている。
相変わらず早いな、お前らは。特殊能力がなくなったってのに、用意周到な奴らだぜ。
そしてその向こう…俺たちがいる所から五メートルほど高くなった土手のベンチに座る、人影があった。
ここからだと顔は見えないが、俺には分かる。ボブカットにしてはやや短めの襟足。小さな頭。俺が、見間違えるはずがない。
見ると、前の女がくい、とベンチに向けて顎をしゃくっていた。可愛らしい先輩も笑顔で道を開けてくれている。野郎の顔なんざは見るつもりもない。
俺は何も言わず、三人の傍らを通り抜けた。
「えー、長門さんとやら」
俺は土手を登りながら言っていた。
ベンチに座る少女は本を読んでいるようだった。ページをめくる手が、ピタリと止まる。
「これから俺はお前にものすごく迷惑かけると思う。今のお前でも、頼っちまうと思うんだ。」
土手を上がりきると、砂利道を歩いてベンチの前…少女の前に立つ。
「俺はお前だけはほっとけないだろう。守りたい。あれだけ守ってもらったしな。」
文字通り、命を懸けて。相変わらず返事はない。少女はページこそ進んでないものの、本に顔を落としている。
だが構わず俺は続けた。
それでも、もし、お前がいいんだったらさ、
「ずっと、一緒にいてもいいか?」
長門が、顔を上げる。
長門は、笑ってくれていた。
土手の下には太陽よりも眩しく笑う女、天使にも勝る可憐な笑みを浮かべたお方、常時ニヤけている奴がいる。
そして今、俺の目の前にいる少女も、わずかで、まだぎこちないが、精一杯の笑みを見せている。
それで十分だった。俺たちが生きられる世界。心から、笑って過ごせる世界。 俺たちがいるこの世界で、俺たちは生きていく。
いたずらな春風が、桜の花びらを舞き散らした。
―――ああ。ようやく終わった。
俺の高校生活はこれで幕を下ろした。
桜はもうほとんどが散って風に舞っている。俺たちと似ている。みんな一緒に一時を輝き、最後はばらばらになってしまう。
だけど俺たちは、ただ散るだけじゃない。
また、いくらでも咲いてやるさ。笑って、な。
俺は長門に歩み寄った。
夏がすぐそこまで来ている、と感じながら。
(完)