例によって春休みにもいろいろあって、いやあれを大体春休みと言っていい
のか判らないが、それが終わると俺たちは二年生だ。
二年生の教室は喜ばしいことに一年生の一階下で、俺たちの早朝登山は自動
的に数メートル行程を短縮した。驚天動地の始業式は既に昨日の出来事で、
実のところ谷口のそのセリフを久しぶりに聞いた気がした。
我が戦友谷口よ。今年もお互い仲良くレッドポイント付近を飛び回ろうぜ。
窓際の後ろから二番目の席。その後ろの席に彼女は居た。
「おはよう」
朗らかな声と柔らかな笑顔。同性異性を問わず好かれる、誰か曰くAA+の美人。
ハルヒじゃない。当然だ。あいつは理系コース。俺は文系コース。これを
くっつける偶然はもはや存在しない。
「なぁ」
昨日からの疑問を後ろの奴にぶつけてみる。
「お前が俺の後ろに居るのは、偶然か?」
好感度+1の魔法入り、まぶしいばかりの笑顔で、
「まさか」
朝倉涼子は顔を寄せて答える。お前の魔法は効かないぞ。お前には何せ二度
も刺されたんだからな。しかし、髪の匂いが。思春期を司る神経系を刺激する
フローラルなフレーバーが。
「操作したに決まってるじゃない」
ああ、そうだろうとも。
考えてみれば当たり前の話なのだが、何故か俺は春休み直前まで気が付かな
かった。
何故か、という点には思い当たる節も無いではない。俺はいつのまにかハルヒ
との関係を、縦シューの理不尽なホーミング弾幕のように、不可避のものと
ばかり思っていた。涼宮ハルヒという非常識製造装置によって、背後にぴったり
ロックオンされ続けるものと。
そうして、俺とハルヒは、二年生では違うクラスになるという事に、春休み
に入る直前に遅まきながら気が付き、ハルヒはともかく、俺や古泉や朝比奈さん
は慌てた。長門は慌てていなかった、と思う。
「ああもう」
古泉は珍しく気弱な様子を見せて、
「この世界は、涼宮さんとあなたの関係によって成立しているんですよ」
そりゃ一体どこのセカイ系だ。
「涼宮さんが自覚していないとはいえ万能である以上、世界はいつ破綻しても
おかしくないんです。それが曲がりなりにも今この時点まで存続しているのは、
安定化機構、つまりあなたが存在するお陰なんです」
つーか、このSOS団のお陰だろ。実際のところ、80パーセントくらいは長門
のおかげだという気もするが。
古泉はSOS団部室の長机に突っ伏して、
「そのお誉めの言葉は、全く慰めになりませんね」
朝比奈さんが煎れてくれたお茶を、古泉のほうに押しやる。
「お茶でも飲んで落ち着け。大丈夫だって」
この言葉の半分は、心配そうにお盆を抱えて俺たちの会話を聞いていた、
朝比奈さんのためのものだ。
「ハルヒは昔と比べてずっと安定してきている、って言ったのはお前だろ」
いなくなる訳じゃない。あのクリスマス前の状況とは違う。距離がちょっと
変わるだけだ。
ここのところ数日、俺はずっと繰り返し自分に言い聞かせてきた。
いなくなる訳じゃ無い。しかし、だったら身を苛むこの不安はなんだろうな。
「今なら間に合いますよ」
まだ言ってる。古泉のやつ、俺を理系コースにねじ込もうと言うのだ。金に
ものをいわせてな。
「御免だな」
俺も何度同じセリフを言った事か。俺の脳味噌には定積分の入る余地なんて
無いんだよ。
「本当に、いいんですね」
奴の言葉尻には苛立ちが混じっていたが、無視する。野郎、いざとなったら
ハルヒと同じ理系クラスに俺の身代わりを突っ込むんだそうだ。外見は俺とは
全く違うが、心理パラメータはほとんど同一、なんだそーで。
是非ともそのパラメータとやらを教えて欲しいものだ。あと、次のレベル
アップまでに必要な経験値も。
……それが春休み直前の一幕。その直後にハルヒが何時もの如くヤホーだか
ヤフーだか叫びつつ部室に雪崩れ込んできて、確かあの時は手打ちそば作りに
挑戦する羽目になったのだ。
その後もまぁ色々有った。遭った、というべきか。有りすぎた、と言うべき
か。あの終わらない夏休みの二週間みたいにみっちりと。
そのやけっぱちのようなイベントの連続に、俺は胸焼けを起こしたのかも
知れない。
楽しめなくなったのだ。発端はハルヒ、でも最後はハルヒを除け者にして
右往左往、って構図を、だ。
この一年間俺はやれやれとか全くとか呟きながら、そういう状況をそれなり
に楽しんできた。それが、駄目になった。
俺たちは、ちんけな書き割りでハルヒを騙し続けていた。
奇妙な状況を切望していた筈のハルヒが、俺たちによってそういうものから
疎外されているにも関わらず、それなりに楽しんでいる様子を見ると、俺の心
はちくちくと小さな罪悪感に責められるのだ。
「ほら、先生来たわよ」
そんな声で、俺の回想も打ち切られる。
長門の言うには、この朝倉涼子さんは、いつぞやの朝倉涼子、ナイフ持った
殺人鬼ではなく、外見や行動は似ているが別物なのだそうだ。
「私は長門さんの言うところの、いわゆる主流派の端末なの」
お前には聞いてないよ。俺が信じるのは長門のセリフだけだ。
「彼女は、予測不能な現状に対する備え。あなたの周辺状況は、予知するのが
極めて難しくなった。何が起こってもおかしくない」
おいおい。長門よ、俺はお前が慌てていないようだったんで安心してたんだぞ。
「備えがあれば、対応は可能」
そして、ほんの数ミリ、少しだけ顔を上げて、
「あなたは、必ず守る」
そんな会話を、いつぞやハルヒに引き摺られて連れ込まれた階段の行き止まり、
屋上のドアの前でやったのが昨日。長門の保証を聞くまで、朝倉にいつ刺され
るのかとおれは気が気じゃなかった。いや、未だに脂汗はでるけどね。でも
長門の保証があるのと無いのとでは、話は全く別だ。
でも、その帰り際に聞かされた話で、その保証も割り引かれてしまった。
「私のもう一つの役割はね、長門さんの観察」
理系クラスへと帰っていく長門の後姿を眺めながら、朝倉はそんな事を言い
やがった。
「情報統合思念体は、以前ほど涼宮さんを重視している訳では無いの」
いつぞや、古泉だったっけ、言ってたな。長門が特別だって。どうもそれは
本当の事らしい。
この一年の長門の変化を、情報統合思念体は自律進化の兆候と捉えていて、
それで連中は長門の観察を始めたのだ。長門はもはや万能ではなく、しかし
それが逆に何やら興味深い結果を生んでいるらしい。
俺も長門の変化は興味深いと思っているが、それが情報統合思念体とやらの
興味と同じモノなのかは判らないけどな。
しかしだ、つまりもう、ハルヒを突付いて藪からヘビを燻りだす必要は無い訳だな。
「その意見が主流という訳では無いんだけどね。でも」
教室の前で朝倉は振り向いて、
「情報統合思念体の端末が、貴方に何かを仕掛ける事はもう無い筈よ」
教室に入ると、谷口と目が合った。羨ましいと顔に書いてあるから、俺は
自分の顔に、全然嬉しくないんだぞと、そう書き出してみようと努力したが、
どうやら通じなかったらしい。いつでも喜んで席を代わってやるぜ。但し、
今度は朝倉が俺の後方にホーミングしてくるらしいけどな。
俺が甘かった。
俺にどうこうする事無く、連中は藪を突付きやがった。猛り狂ったツチノコ
がいると知っていながら、ハルヒを刺激しやがった。
ハルヒを刺激するのは簡単だ。あいつは簡単に挑発に乗るし、勘違いするし、
ルアーだろうが毛針だろうが関係なく餌に喰らいつく。但し、ハルヒは最後には
全てを蹴倒してケリを付けてしまうんだがな。いつも。
連中が用意した刺激は、そんないつもの奴とは違っていた。
流石に俺も最近では、ハルヒの定義する俺との関係って奴が飲み込めてきている。
あいつは言葉では否定するだろうが……
昼休み、朝倉は自分の長い髪を、ポニーテールにしてきた。
SOS団のいつもの昼休みを終えて教室に戻ってくると、ちょっ、おま、その、
「似合う?」
似合う似合う似合う、と谷口がぶんぶん首を縦に振る。朝倉よ、お前何考えてやがる。
そこでようやく気が付いたのだから、俺もつくづく阿呆だ。
要するに奴らにとってハルヒはもう用済みになったのだ。現状維持の必要が
無くなったから、連中は派手な行動に出た訳だ。
しかし何で俺は、クラスメイトが髪型をポニーテールにしただけでこんなに
慌てにゃならんのだ。なぜこんな悪寒を覚えにゃならんのだ?
俺は理由を知っていた。
振り向く。
教室の外にハルヒがいた。なんだ、その顔は。
俺とハルヒの視線が合う。
その瞬間、昼休みの終わり間際のタイミングで、世界は終わった。
いきなり目がおかしくなったかと思った。世界は全て灰色と化し、視界の中
でハルヒだけに色が付いている。警告もまどろみも無く、一瞬であの灰色世界
の中だ。教室には誰も居らず -あ、朝倉は居たが- ちーとも嬉しくないぞ。
耳もおかしい。何も聞こえず-いや、ハルヒの声。
「なるほど、こうやるのね」
ハルヒの髪が伸びる。まるでホラー映画の呪いの人形の如くにょきにょきと。
教室に入ってきながら、ポケットから髪留めゴムを取り出して、伸びた長い黒髪
を器用に後頭部にまとめていく。
「これ、簡単そうに見えるかもしれないけど、ちゃんとするの、結構面倒なのよね」
足音に混じって、サラサラという音が混じっているのに気付く。
ハルヒの周りで、砂が湧き出して床に小さな白い山を作る。ハルヒが教室の
半ばまで来たところで、一気にそれはざああっという轟音に変わった。
視野の端に捉えたのは銀色の線。小さく風を切る音。これは見たことがある。
朝倉に殺されかけたあの教室で、しかしあの武器よりもずっと速い。
「うなずいて頂戴」
背後から朝倉の声。
「もうすぐ、この空間ごと惑星が破壊されるわ。でも、その前にあなたの精神
をサルベージするから」
「何だって」
銀色がハルヒに殺到する。しかし全てハルヒの目の前で阻まれ、細かな結晶に
分解されている。ハルヒの周りで銀色の光芒がちらちらと輝く。
「長門さんの依頼よ。早く。同意して」
「無駄よ」
ハルヒは目の前まで来ていた。いつのまにか砂も銀色の輝きも消えている。
「あんたの権限は私が全て停止したから」
背後で朝倉が驚愕するのがわかる。
ドン、と音がして、気が付くと壁が、そして天井も消えている。おい、上の
階はどうなったんだ?
辺りを見渡すと答えがあった。どうやってか、校舎屋上まで教室の床が移動
したのだ。天井は空。その眺めた灰色の空は、何時もの奴とどこか色彩が違う。
天頂近くに薄い白い線が。
「空間断層を越えて惑星を破壊しようなんて、やるじゃない」
ハルヒの声は面白がっているそれだ。
空の線は明るく、太さを増し、分裂して二本に増えた。やがて線は大体南北
方向に空を分割してしまった。しかもいつのまにか四本に増えてやがる。
空はぎらぎらと輝きを増す。
リングだ。地球をぐるっと一周しているのだ。これが今から地球を粉砕するのだ。
「短い間だったけど、情報統合思念体だったっけ、なかなか面白い付き合いを
させて貰ったわ。
でもね、さよなら」
突然、世界はぷつん、と真っ暗になった。どこかで照明が切られたように。
朝倉がこう言うのが聞こえた。
「信じられない。空間の広がりが光速を越えたわ」
そして、またぷつんと、世界に光が戻った。今度は灰色じゃない、総天然色の
世界だ。リングは消え、代わりに緊張感の無い雲が張り付いている。
「空間はもう太陽系の大きさを越えちゃった。これじゃ、情報統合思」
そこで朝倉の声は途切れた。
背後に、白い結晶が舞った。
「気付いたのはアレね、偽キョンのおかげね」
世界にはいつもの見慣れた色が付いていたが、風はそよりとも動いていないし、
聞こえるのはハルヒの声だけだ。
「アレは流石に胡散臭すぎたわ。でもネタが古泉君絡みだと判れば、あとはもう
トントン拍子ね。
全部演繹で導き出せたわよ。あの映画に全ての証拠が挙がっていたし。みくる
ちゃんの正体については最後まで謎だったけど、判ってしまえば、あのコの時間
平面履歴がおかしい事はバレバレだったし」
じゃあお前、自分のチカラについて、知ってしまったんだな。俺たちがこの
一年、必死に隠してきたものを知ったんだな。
「この一年、騙されつづけてたって事もね」
そんなつもりじゃ無ぇ。
「わかってるわよ。あんた達が良かれと思ってしたって事はね。でも結局、私を
信じて無かったってことじゃない?」
つーか、俺の言葉を信じなかったのはお前のほうじゃ無かったか?俺は確か
に言ったよな?
長門は宇宙人、朝比奈さんは未来人、古泉は超能力者だってな。
そう言うと、ハルヒは口の端ををむすっと曲げて、
「悪かったわね。だからあんたは別。あんただけは特別」
崩壊した教室を眺める。お前は一体どうしたいんだ?
「あの世界はね、罠だったの」
ハルヒは、いつもの席についたまま立つ事も出来ないでいる俺の傍に立って、
腰に手を当てた何時もの偉そうな格好で、世界に宣言した。
「私は世界の秘密を知ったわ。
キョン、世界はね、面白さで出来ているのよ」
どこからか風が吹いていた。ハルヒのポニーの先が揺れている。
「誰かが世界に興味や驚きを感じるたびに、世界に新しい部分が足されていくの。
観測によって、世界は構築されていくの。でもね」
くるり、と後ろを向く。ポニーテールが大きく揺れる。
「ヒトはその世界を、つまんないって感じてしまう。そうして、世界には面白
い事など何も無いって思い込んでしまう。
これは人間だけじゃないわ。情報統合思念体もそうだった。
あいつは世界を、何も面白い事など無いと思い込んでいたわ。大人ね。究極
の大人。そりゃ成長も発展もしないわ。
世界は面白さで出来ているのに、そこに居る知性体は全て、例外なく、世界
はつまんないって思い込まされるって仕掛けよ。むかつくじゃない、そんなの。
だから」
ハルヒはそこで、右腕を高く差し上げ、人差し指で天を突いた。
周囲に光が満ちる。ハルヒの瞳に、宇宙が見える。
「私の作るのは、誰もが世界に驚きを見出せる世界よ」
その瞬間、新しい世界は確定した。
風に黄砂が混じる。
俺は机の並ぶ屋上で、さっきと変わらず自分の席についていて、直ぐ傍にハルヒ
が居る。
眼下の景色は変わらない。しかし、世界はどこか奇妙に目新しかった。
ハルヒは俺の後ろの机に腰を降ろした。
「みくるちゃんは、未来に帰ったわ。
もう二度と遭う事は無いでしょうね」
何だって。おい。SOS団はどうするんだ。あそこはお前の居場所じゃ無かったのかよ。
「あのドジっぷりはキョンの遺伝子よね」
私の筈は無いし、とハルヒのセリフは続いた気がするが、ちょい、その、待てよ。
「古泉くんはあそこ」
とハルヒが指差すので、ついそっちを向いてしまったが、ちょい待てよ、まだ
話は終わっちゃいない、さっきお前何て言った……
赤い光の玉が垂直にループ、綺麗なターンを決める。
「彼の望み、本物の超能力者にしてあげたわ」
その赤球はぎゅん、とカメラをズームしたみたいに近づいて、校舎傍の空中
に停止した。
「涼宮さン、こりゃ良か塩梅ですタイ。がば凄か」
それがお前の地かよ……
「んじゃ」
それだけで、赤球はどこか遠くへ真っ直ぐ、飛んでいってしまった。
「で、有希は……」
そこで、長門の声がした。
「私はここ」
ふわりと。
給水塔の上に、宙に浮いて、ゆっくりと降りてくる。
なんかアニメで見たことがあるような光景だ。
「彼は私のもの」
へ?
「それでこそ有希。私の最大のライバルね。でもね」
へぇ?
「キョンは私のものよ」
おい一体いつ俺がお前のものになったよ、と抗議する間もなく、俺はハルヒ
の馬鹿力によって腕を掴まれ、そのまま、おい、顔が近い、目を閉じるな、
というかこれはその、キ
ドン、と衝撃がして、俺の顔とハルヒの間に、腕が。制服の上にカーディガン。
長門の腕だ。ハルヒが掴んでいる腕と逆のほうがいきなり動かなくなる。
こっちも万力だ。お前ら握力強すぎ。
このまま両側から引っ張られたら、間違いなく俺は真ん中からブッチンだ。
なぁ、お前ら、大岡裁きって言葉は知ってるか?
今度はハルヒと長門の顔が接近する。こえぇ。
「私の”領域”を苦も無く突破してくるなんて。やるじゃない」
ハルヒの灼熱の笑みに、長門はクールの極みで答える。
「私は情報統合思念体のただ一人の子供。私は全てを受け継いだ。そして」
長門が、薄く、笑った。
「私がこの物語のヒロイン」
そこで確かにぶっちーん、という音を聞いた。
「言うじゃない」
辺りの空気にオゾンの匂いが混ざる。すぐにバチバチという音と閃光が周囲
に満ちたが、俺は今のところ無事だ。俺の周りに何か透明な壁があって、そこ
で守られているようだが、その、何だか息苦しいのですが。
しかし俺のピンチをよそに、ハルヒと長門の周りの空気、いや、空間が歪ん
でいるぞ。
……お前ら本当に俺の話聞かないのな。
ドン!という凄い音と一緒に、俺は開放された。よろよろと席に座り込む。
見上げると、様々な色のオーラを纏った二つの人影が、急速に上空に上昇し、
交差し、ぶつかり、火花を散らす。一体どこのドラゴンボールだよ。
全く、何て新世界だ。
俺はもう、この言葉以外、言うべき言葉を持たない。
やれやれ。