目の前からやって来る夕日が眩しく赤く、帰宅途中の物悲しさをこの上なく盛り上げる中、俺はいつも通り帰宅しようとしていた。  
無理だ。  
とてもではないが出来ない。  
俺は立ち止まり、  
「長門よ」  
「……なに」  
観念して顔を後ろに向ける。  
誰もいない歩道の真ん中には、無表情に本を読む長門がいる。  
それは、まったくもっていつも通りの光景なのだが……  
「ひとつ、聞いてもいいか」  
「……」  
痛む頭を指で抑え、こっくりと無表情に頷く顔に向けて、俺は言った。  
「どうして、ついて来るんだ?」  
そう、こいつは部室からずっと俺の後ろをつけて来たのだ。  
それも一定距離を保ったまま、俺が足を速めれば速く、立ち止まれば停止し、フェイントを入れてもピッタリと付いて来る追随っぷり。  
その運動能力はさすがだが、まるでカルガモの親にでもなった気分だったぜ。  
すれ違う人は、妙な目で見てるしさ。  
「――」  
長門は本に向けていた顔を上げる。  
なにやら驚いていた。  
……いや違うか、これは驚いているんじゃないな、きょとんとしたとか、不思議そうとか、そんなニュアンスだ。  
尋ねているのは俺の方だと言いたい。  
「……分からない」  
「分からないってことは無いだろ。どうして後をつけて来てるのか、その理由を本人以外の誰に聞けばいいんだ――――って、ひょっとしてあれか? ハルヒに命令でもされたのか?」  
主に命じられてるのは俺だが、SOS団の一員である以上、長門だってハルヒの横暴な命令を受けないとも限らない。  
「……違う」  
だが長門は、表情を変えることなくそう言った。  
どうやらこれは自主的なものらしい。  
ならば疑問は深まるばかりの奇々怪々であり、不思議さの度合いは桁違いに跳ね上がる。  
ハルヒなら喜んでこの謎に飛びついただろう。  
俺も本来ならここで、長門の目的と動機と犯行に至った思想背景を追及しなきゃならなかったのだろうし、実際そうしなきゃいけゃいけなかったんだろうが、目をそらし、  
「まあいい、とにかく後ろをつけるのは止めてくれ、どうせなら並んで歩けばいいだろ?」  
そうぽつりと言った。  
日和見主義と言うな。チキンとか言うな。これは仕方のないことなんだ。  
長門よ、知っているか?  
日本人はそうやって、目を直視され続けるのが苦手だ。  
「そう……」  
しかし、言ったきりまったく動かない。  
横に並ぶ素振りはおろか、固着したまま微動だにしなかった。  
その場でじっと俺を見つめる姿は、どこか彫像を思わせる。  
不偏不党の直立不動、忠犬ハチ公だって待っている時間で言えば銅像の方が長い。  
そんな無駄なことを考えてしまうほど動かない。  
「おい?」  
不安に思った俺が、ためしに一歩だけ後ろに下がってみると、長門は同じ距離だけ前に出た。  
カルガモ親子の再来だった。  
どうやらさっきの「そう……」は否定の「そう……」らしい。  
迂闊にも気が付かなかったぜ。  
俺は結局、なにか重大なものを諦めた気分で通学路をそのまま歩く。  
そうとも、長門を説得するなんて、そもそも俺には大き過ぎる大役だった。  
何事も無かったように帰宅するだけで精一杯だ。  
幸いにも異常な状況への適応能力は、ここしばらくの事件でうなぎ上りだしな、この程度のことなんでもないさ。  
後ろから、足音は離れることなく付いて来た。  
俺は重い重いため息をつく……  
 
ヒタヒタと付いて来る足音はとても小さく、長門の体重の軽さを思わせる。  
いや、こいつはアンドロイドのはずだから、実際には重いのを何らかの方法で軽くしてるのか?  
その辺は一般人の俺には分からない相談である。  
分かるのは、聞こえてくる足音がその性格に比例して静かってことだけだ。  
……だが長門のやつ、本当になんなんだ?  
用事があるわけでもない何かするわけでもない、ただ無意味に後をつけるだけなんて異常事態のバーゲンセールだ。  
SOS団その2である長門有希から縁遠い言葉とは、『無駄』とか『曖昧』とか『大口開けての馬鹿笑い』に他ならない。  
まったく、本当にらしくない。  
たとえば朝比奈さんが編み物をしている姿なんて、見ているだけで天に召されるほど素敵なエンジェルだが、これをハルヒがやっていれば何の犯罪を企んでいるのか疑いたくなるし、長門がした日にはこの世の終わりが来たと確信できるね。  
長門は、あの席で無表情に本を読んでいるからこその長門だ。  
キャラに合わないことを唐突にされたら、見ている人間が不安になる。  
分相応ってのは嫌な言葉だが、それを知っていれば無駄な争いを避けられるのも確かなのさ……  
――ちなみに、俺がこうやって暴走過多なことを考えてるのは、現実逃避を行っているからに他ならない。  
先ほどから後頭部あたりにチリチリとした視線を感じる。  
間違いなく、長門のである。  
できれば振り向いて確かめたいが、それを許さない雰囲気がある。  
あの朝倉涼子にナイフを突きつけられた時と似ていた。  
どうやら俺の知らない間に日本の下校時間は危険なことになっていたらしい。  
最近は物騒だもんなぁ。  
下校途中に死の危険を感じるのも、よくあることさ。  
「と!」  
油断していた俺は、間抜けにも水溜りに足を突っ込んだ。  
現実逃避が過ぎて現実から反逆されてりゃ世話が無い。俺はあわてて足を上げるが、時すでに遅し。  
学校指定の靴はずぶ濡れだった。  
「うわ、くそっ」  
まったく、情けない。  
今どきこんな失敗するやつっているか?  
足をブラブラとさせて水を弾こうと試みるが、もちろんそんなことでは水分を飛ばしきれない。  
「……長門?」  
「……」  
そして背後にいた長門が、俺とそっくり同じ動きをしていた。  
俺と同じ角度で片足を上げて、俺と同じタイミングで足を揺らす姿は、鏡合わせのパフォーマンスを思わせる。  
どうやら先ほどから続くカルガモ的追随は、俺の動作にまで及んでいるらしい。  
……だが長門よ、なにもそこまでトレースしなくてもいいんじゃないか?  
見ている俺の方が恥ずかしくなってくるから、できれば止めて欲しいんだが?  
「……」  
俺がそう懇願すると、黙って足を地面に下ろした。  
そして例の液化窒素の目で、黙って俺を観察する。  
「……」  
冷静なやつの前に情けない姿を晒すのは、実は十倍増しに恥ずかしい。  
自分で止めておいてなんだが、これでは一種の苦行か羞恥プレイである。  
もっとも、これがハルヒなら俺を指差し笑うだろうし、朝比奈さんなら慌てるあまり一緒に水溜りに入ってしまいそうだから、特に長門に対して文句があるわけではない。  
――古泉?  
ヤツと二人で帰宅する選択肢は俺に無い。  
 
「っと、長門、悪い!」  
そうやって無心に振っていた足先から、一滴だけ放物線を描いて長門の額に着地した。  
アスファルトの成分をたっぷり吸い込んだ、見るからに汚れた水滴が肌を滑る。  
俺は慌ててポケットからハンカチを取り出し、  
「拭くぞ、いいな?」  
目に入りそうだったそいつをすくい、ついでに汚水の這った部分も綺麗にする。  
この宇宙人製アンドロイドは、時折とてつもなく鈍くなる。  
せめて水滴を払う素振りを見せてもいいんじゃないか?  
自衛行動とか自分自身を大事にする意識が、少しばかり欠けてるんじゃないかと思うね。  
「……」  
「……」  
そして長門よ、そんなイノセントな瞳で俺を見ないでくれ。  
汚水を飛ばしたのもそれを拭いているのも、なんだか重犯罪を侵している気分になってくる。  
いや、お前がこの程度のことを気にしないのは分かっているんだが、こっちの良心ってやつがチクチク痛むんだ。  
……あー、だからつまり、このハンカチはちゃんと洗濯はしてあって綺麗だとか、今日はトイレに行ってないから汚れてることもない、第一そのままだと長門が眼科に行かなきゃならないはめになるからな、なんて言い訳をしているのも、まったくもって仕方がないことなのさ。  
人は、何かを誤魔化したい時にこそ多弁になる。  
これは万国共通の真理であり、とても自然なことなのであると自己弁護。  
その代りと言っちゃなんだが、俺は丁寧に額を拭いてやる。  
先ほど長門のことを彫像のようだと言ったが、それこそ美術品の清掃をするような気持ちで、だ。  
考えてみればこいつには借りはあっても貸しは無いからな、このくらいしないと罰があたる。  
ちなみにこの場合の罰を当てる神とは、どこぞの涼宮ハルヒのことではない。  
あれは災いしかもたらさない荒神だ。祈ればそれだけで厄介ごとに巻き込まれる。  
「ん?」  
不意に手をつかまれた。  
それは包み込むような、とても自然な動きだったので特に驚きはしなかったが、柔らかい手の感触には驚いた。  
普通の女の子みたいだ、なんて思ったのである。  
しかしこれは、考えなくても拒否反応であろう。  
もうやめてくれという意味なのか、なにか気に障ったのか、それともこの行動は長門的禁則事項だったのだろうかと考え、ハンカチ下の顔を覗き見ると、俺は信じがたい事態と直面した。  
涙があった。  
あのいつも無口・無表情を崩さない、朝倉の総攻撃を受けても微動だにしなかった長門が、表情だけはそのままに目から涙を流していた。  
「お、おい……」  
思わず問いかけるが無表情のまま、俺の手を握ったままで、ゆっくりと自分の涙を確かめる。  
なにか泣くようなことがあったか?  
俺が悪いのか?  
申し訳ないがとっさの判断の悪さには定評があるぞ。  
混乱する俺をよそに、いつもと変わらないあの口調で長門は言った。  
 
 
「 ……カオス情報が臨界を突破した 」  
 
 
「は?」  
「このインターフェイスには、情動に対する制御機能が備わっている。  
それは情報統合思念体が得た未来予測の情報により私がもっとも涼宮ハルヒと接触する可能性が高いため。  
涼宮ハルヒに対して感情的な接触を行うことは、情報統合思念体にとって不確定要素が多くリスクが高すぎた。  
これを回避するのは当然の措置。  
逆説的に言えば涼宮ハルヒを観察する役割がある限り、私の情動制御機能は解除されることはない」  
「お、おい、長門?」  
「通常であればこの機構が壊れることはないはずだった。少なくともこの惑星上に一有機体として暮らすのであれば何の問題も無い程度には強固。しかしここにイレギュラーが重なった。  
一つは本来であれば私のバックアップであるはずの朝倉涼子の反逆、これによって私の情報は共有化されず、情報の保存先もこのインターフェイスしかなかった。そして、もう一つは八月に起きたあの事件」  
ハルヒが起こしたあのトンデモループ現象のことか。  
「耐用年数を遥かに上回る情報により機能が圧迫されている。情動を制御する機構が壊れはじめている」  
「い、一体、どうなるんだ?」  
涙を流しながらとうとうと喋る長門の姿はどこか異様で、俺は気圧されつつも、なんとかそれだけを聞いた。  
黙って俺を見つめる瞳。  
それはいつもの液化窒素の瞳ではなく、ドライアイスのように熱く、冷たいものだった。  
感情的になってる?  
あの長門が?  
そんなまさか――  
 
「涼宮ハルヒとあなたが共にあることを認められなくなった」  
 
「うわっ!?」  
空間がめくれ上がり別の色へと一挙に変わった。  
電柱や道路や家々や壁や空の色や街路樹が砂になってこぼれて落ちる。  
なにもかもが崩れる中、真っ青な空が真上から開き、燦々と照りつける太陽が姿を現した。  
「な、なにぃ!」  
個人的トラウマの、あの部長氏のカマドウマと対面した時に来た所だ。  
「これから情報の改竄を行う。このインターフェイスからは情報統合思念体に関する情報の一切を削除する。これは情報統合思念体とのリンクを普通の人間が行うのが危険すぎるためであると同時に、機会の均等をもたらすため。同時にあなたにも、今日のことは忘れてもらう」  
「おい長門! 本格的になにがなんだか――」  
「実際に行動に移すにはもうしばらくの時間が掛かる。けど、そのタイムラグは大きな問題ではない」  
相変わらず涙を流し、俺の手を握り続けている。  
その柔らかい感触が、俺をさらに混乱させた。  
吐息が肌に触れる。  
「あなたが私を壊した」  
見間違いかもしれない。  
錯覚かもしれない。  
だが、その時、確かに長門が笑ったように見えた。  
「さよなら」  
ばちん! と音を立て、俺の意識のブレーカーは落ちた。  
 
 
 
そうして俺は、見も知らない場所を漂った。  
……どうしたもんなんだろうなぁ、これは?  
俺は空中らしきところにぷかりぷかりと浮かびながら腕組みする。  
まったくもって、どうしようもない。  
定期的に見ている光景が変わる。  
町並みから抽象画へ、アラベスク模様から白一色に。  
要するに、長門にこの場へと飛ばされたらしいんだが、なにがなにやらさっぱりだ。  
一応、説明らしき情報が頭の中にいつの間にやら入ってはいるんだが、それは情報改竄の影響を受けるのを最小限に抑えるためにうんたらかんたらってことらしく、俺の理解力ではよく分からん。  
誰か事情通のヤツにでも聞いてくれ。  
しかし……これはひょっとして、俺はまた厄介ごとに巻き込まれたのか?  
いや、いまこの時の記憶は消えるそうだから、正確には未来の、何も知らない『俺』が、か。  
大変だなぁ、『俺』。まったくもって同情するぜ。  
だが、まあ――  
俺はちょっと苦笑を浮かべる。  
自分が思い浮かべたことが、なんだか気恥ずかしかった。  
そう、まるで文句一つ言わずに育った娘が始めて反抗期に入ったような、誇らしさと不安の入り混じった気分だった。  
まったく、いつから長門は俺の娘になったんだろうな?  
 
どちらにせよ、これは長門がはじめて言った『ワガママ』だ。  
ちゃんと受け止めてやらなきゃいけないぜ? 『俺』。  
 
そうして俺は目を閉じて、確実に混乱し、悩み、うろたえるだろう明日に備え、休息を取ることにした。  
ひょっとして長門は、俺と一緒に下校したかっただけなんじゃないか、なんて思いながら……  
 
 
 

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