オブジェと化したバッタを横目に、長門の口だけが再び動き出した。
「……このような指示はわたしの関知するところではない」
心なしか、声のトーンが落ちている。
喜緑さんは、笑いをこらえるように、そっと口に手を添えた。
「長門さんの観測も目的のうちですので、今回の件はあなたに知らされていません」
「なぜ?」
長門の疑問に、つま先でそっと地面を撫でる喜緑さん。
「わたしには把握しきれません、上の方の思惑なんて」
「……」
「でも、いいデータが取れたようです。喜んでいました」
「……」
喜緑さんの返答に、長門は黙り込んだ。喜緑さんを見る視線が氷より冷たい。
「つまり、これは情報統合思念体による芝居ということですか?」
いつの間にか、赤い球体を消していた古泉が会話に割り込む。
「端的に申し上げると、そうです。あなたが会長さんを使用した先の件と同じです」
微笑んでいる喜緑さんは、ただの可憐な女子生徒にしか見えない。
「しかし、結果的に涼宮さんに危害が加わった」
古泉の声に、不穏な色が見え隠れしていた。
喜緑さんは、ぺこりと頭を下げ、
「すみません。涼宮さんは事態解明に乗り出すものと断定して、今回の件を上は立案したそうなんです」
申し訳なさそうに、両手を前で組んで、古泉の足元に視線を送った。
「長門さんを経ずに立案することの難しさを学んだ、と上は申しております」
「ずいぶんと勝手な上司ですね、あなたたちのは」
まだ気持ちの整理ができていないらしく、毒づく古泉。
「おっしゃるとおりです。末端はいつも苦労させられます」
しみじみと言った喜緑さんの言葉に、いっぺんに古泉から毒気が失せた。
「そ、そうですよね。下って大変ですよね!」
朝比奈さんが同意する。長門も軽く首肯した。
なんか放っておくと、下っ端の苦労話でも始まりそうな予感がしたため、肝心なことを質問した。
「あの、俺の記憶は?」
「そうでした」
と俺に答え、傍らにいたバッタを見上げる喜緑さん。
口から長門がさっき発したのと同じような、高速の音声が発せられる。
共鳴するように、バッタが光りだした。
「お疲れさまです」
最後に一言、通常の速度でバッタに話しかけると、バッタは縮んで消え失せた。
「これで通常空間に戻れば、あなたの記憶は戻っています」
喜緑さんの言葉に俺はほっとする。
あとは涼宮だ。涼宮が元に戻れば、全ては丸く収まる。
「それで涼宮さんの処遇についてですが」
喜緑さんはその涼宮に関して、言葉を紡いだ。
「今回の責は明らかに情報統合思念体に帰するため、一定の干渉を許可されました」
「それは心強い」
古泉が迎合する。本心からかどうかはわからんが。
かすかに香ってきそうな柔らかい視線を古泉に送りつつ、
「ただし、わたしたちがするのは、現状維持だけです」
喜緑さんは、やんわりと釘を刺した。俺にも微笑みかけてくれる。
「涼宮さんの記憶領域からあなたのことが失われる心配はありません」
朝比奈さんを視線を移したあと、最後に長門をじっと見つめる。
「でもその記憶をつなぐ糸を手繰り寄せるのは、あなたがたの役目です」
喜緑さんの姿が薄れていく。
「がんばってください。また春にお会いしましょう」
その声とともに、世界が元に戻った。
狭い舗道、自販機の横に置いてあるチャリ、長門、朝比奈さん、古泉、そして俺。
戻ってきたことを確認すると、俺はまず三人に礼を言った。
「古泉、解説役志望のお前に主導させてすまん」
「いえ、たまにはこういう苦労もしておくべきでしょう」
古泉は苦笑を漏らした。
「朝比奈さん、ありがとうございます」
俺の感謝の意に、朝比奈さんは少し表情を曇らせる。
「あまりお役に立てなくてすみません」
そんなことありません。あの俺の一番の支えになってくれたのは、朝比奈さんの笑顔です。
「ありがとう。そう言ってもらえると、助かります」
華やかな笑顔を見せてくれた。
「長門」
長門にも礼を言おうとしたが、さえぎられる。
「いい。上の思慮不足」
そのまま長門は、自販機を見ながら、言葉を足す。
「それに、わたしもあなたに不快感を与えてしまった」
「長門には長門なりの価値観があったんだろ。しょうがない」
情報というものの捉え方に差があっても不思議じゃない。
俺だって、例えば、知り合いが整形して別人になってたらよそよそしくもなる。
長門にとって情報のなかった俺は、言ってたように他人にしか思えなかったのだろう。
「それより、こっちを見て話してくれ。済んだことは済んだことだ」
その態度を続けられると、俺は悲しいぞ。
俺の言葉に、長門はゆっくりと俺に向き直る。
無色透明だが、どこか和らぎを持った瞳が俺を覗いてくる。
「ありがとよ」
俺の感謝に、長門は大きくひとつうなずいた。
記憶が戻った俺は、やや気が急いていた。
「さて、あとはハルヒだ。もう一回、どんな状態だったか教えてくれ」
気がはやっていた俺に待ったをかけたのは古泉だった。
「こんなところで立ち話もなんですし、移動しませんか?」
その声と重なって、乗用車が通り過ぎる。
たしかに、そうしたほうが良さそうだ。井戸端会議ができるような場所でもない。
「実はこのあたりは、よく知っているんです。なじみの喫茶店が――」
「なじみじゃない店に連れて行け」
にべもなく却下した俺に、古泉は肩をすくめた。
古泉は結局、ファミレスに俺たちを案内した。俺も何度か来たことがある店だ。
時間もまだ夕食時までしばらくあったし、俺たちの格好も格好だ。
ウェイトレスも心得たもので、注文する前にドリンクバーですかと尋ねてきた。
そのとおりだったので、四つ注文して、適当に飲み物をセルフサーブする。
落ち着いたところで、古泉が切り出した。
「涼宮さんですが、可能性は三つ考えられると思います」
オレンジジュースの入ったグラスを置いて、指を一つ立てる古泉。
「まず、今日のあなたと同じレベルの記憶障害です。SOS団員としてのあなたの忘却」
「クラスメイトとしては、覚えてるってことか」
もっとも、SOS団を抜きにすると、なんとか会話を成立させていたぐらいの親しさだろうが。
「ええ。二つ目は、あなたに関する記憶すべての忘却」
二本目を立てた古泉は、すぐに三本目も立てた。
「そして最後は、あなたという存在の拒絶」
「忘却と拒絶は何が違うんだ?」
俺の疑問に答えてくれたのは、めずらしくも朝比奈さんだった。
「キョンくんがそうだったように、忘却は忘れてもまた記憶を積むことができます」
グラスに差してあるストローを手で遊びながら、憂鬱な顔をする。
「でも、拒絶はダメなの。認識した情報が記憶に入らないんです」
氷がグラスに当たって、カラン、と音を立てた。
「最悪、キョンくんの姿が視界に入っていても、声を耳が聞いても、それを認知しない可能性があります」
事態の深刻さに沈黙した場をすくい上げたのは、長門だった。
「涼宮ハルヒとあなたの関係を考慮すると、拒絶は非現実的」
俺をじっと見つめながら、話を続ける。
「それに拒絶であれば、喜緑江美里はわたしたちに事を委ねない」
「なるほど。それもそうですね」
古泉があっさり納得する。
「それでは、忘却のセンで行きましょう」
気を取り直して、俺は言葉を発した。
「で、どうやればハルヒは元に戻るんだ?」
グラスを傾け、喉を潤した古泉は、ナプキンで口元を拭ってから、返答した。
「原因はあなたが記憶を失ったショックですから、あなたの無事を確認すれば治るはずです」
「それは答えになってないぞ。具体的にどう行動すればいいかわからん」
「涼宮ハルヒの深層意識に最も強く残っている行動を取ればいい」
俺のツッコミに長門がフォローを入れたが、俺にはそれがなんなのか、見当がつかない。
なので、ハルヒの精神的専門家である古泉一樹の意見を聞くことにした。
「古泉、心当たりはあるか?」
古泉に質問したつもりだったのだが、古泉は長門や朝比奈さんとお互いに目配せを交わす。
「ええと、それはその……」
「……」
言いよどむ朝比奈さんと、無言で俺を見つめてくる長門。
嫌な予感がした。そしてその予感は、次の古泉の言葉で裏付けされてしまった。
「それはもちろん、白雪姫です」
古泉の言葉に、俺は即座に拒絶反応を示した。
「あれをもう一度だと?」
「ええ、できないんですか?」
しれっと言ってくる。
「勘弁してくれ。だいたい、今度は夢の中じゃ済まされないんだぞ」
「それはそうですが、それしか方法がないのですから仕方ありません」
「マジかよ」
俺はうめいた。拒否したい感情と現実とが心の中でせめぎあう。
数秒か数分か、どれくらい時が経ったかわからないぐらいの葛藤を続けたあと、俺は顔を上げた。
「わかった、やろう。だが条件がある」
そして俺は、その条件を三人の前で発表した。
水曜日、修了式。
春休みという期間があるものの、一年五組の教室をくぐるのは、たぶん今日で最後だ。
記憶をなくしていた昨日とはまた違う、寂しさがあるな。
普通であれば、真っ先に谷口や国木田のとこへ行って語らうべきなのだろうが
今日の俺にはそれより先にすべきことがあった。
向かう先は、俺の席だ。
今日も今日で、阪中がそばに立って、何やら話をしている。
「阪中、おはよう」
軽く声をかけてから、席に着く。
「お、おはよ」
阪中は戸惑い気味に、挨拶を返してきた。
「昨日はすまん。変なこと言ってただろ、俺。ルソーは元気か?」
「え? ううん、じゃなかった。うん、今日も散歩に連れて行ったのね」
阪中は目をパチパチしつつ、返事をした。
そんな阪中に、俺は頼みごとをする。
「そりゃよかった。ところで、少しハルヒと話したいことがあるんだが、席を外してもらえないか?」
「いいけど……仲直りするのね?」
昨日の俺たちの様子を、ケンカ中か何かと思っていたらしい。
俺が割り込んでから不機嫌そうな顔を見せるハルヒをうかがいながら、阪中はそう言った。
「ま、そんなもんだ」
積極的に否定することでもなかったので、適当に応じる。
「よかった。心配してたのね。それじゃ涼宮さん、またあとで」
阪中は心底から喜んでくれているようで、すぐに離れてくれた。
さて、腹をくくらないとな。
「ハルヒ」
俺は椅子をずらし、ハルヒに向き直った。
ハルヒは俺にそう呼ばれたことで、一瞬、記憶を探るように両眼が中空をさまよった。
しかし首を振ると、不機嫌さを隠しもせず、俺に返事してきた。
「なんであんたにいきなり呼び捨てにされなきゃいけないわけ?」
その言葉を聞いて、俺を知らないことに衝撃を受けるよりも、懐かしさが先行した。
そういや、いたよな、こんなハルヒがよ。あのときは、古泉が横にいたっけ。
だが懐かしむのはあとだ。俺は質問に質問を返す。
「俺のことは知ってるんだな?」
ハルヒは俺の頭の中身を疑うように怪訝な顔をする。
「アホ谷口とよくしゃべってる、キョンとかいう、間抜けなあだ名の男子でしょ」
指を一本立てた古泉の姿が重なった。
「ああ、そのキョンだ」
自分であだ名を言うのはどうかとは思ったが、ここは真面目にするところである。
そして、これだけで十分だった。あまり刺激してもまずいのだそうだ。
「で?」
「いや、何も」
「は?」
ハルヒがあっけに取られている間に、俺はさっさと席を立った。
谷口や国木田と合流するか。
修了式で全校生徒が集まった際に、俺は古泉や長門、朝比奈さんに結果を報告した。
三人とも笑ったり、うなずいたり、ほっとしてくれたりしたが、俺は内心複雑だった。
なぜなら俺はこっそり、ハルヒと呼んだだけで記憶が戻ってくれないかと期待していたからである。
しかし、期待はあっさり打ち砕かれ、残ったのは、昨日話し合った計画通り遂行しなければならないという
俺にとっては、非常に憂鬱な事実だけだった。
阪中もハルヒから顛末を聞いたのか、恨めしそうに俺を見てくるし、踏んだり蹴ったりだ。
卒業式でもないのに涙して別れを惜しむ岡部に
これまた団結力など朝倉以来無いに等しかった一年五組の心ある生徒から花束が贈られて
一年五組はフィナーレを迎えた。実は俺も花束には出資をしていた。
生徒指導やらなんやらで、岡部には世話になったからな。騒がせ料も込みだ。
そして放課後、こんな日に部活をする部など普通はないのだが、普通だったら
SOS団など存在しないわけであり、つまるところSOS団は活動日だった。
ハルヒにこのクラスへの思い入れなどあるわけもなく、阪中としばらく会話を交わしただけで
かばんを持って、教室を出て行った。
俺の出番はしばらくあとになっているので、谷口や国木田とだべる。
「キョン、今日はどうすんだ?」
「SOS団だ」
谷口にわかりきったこと聞いてくんな、とばかりに投げやりに答える。
「春休みは?」
「SOS団だよ、毎日」
国木田にも答えて、思わず溜息をついてしまう。
そんな俺に二人は顔を見合わせる。うち、谷口がにやにやしながらほざいてきた。
「やっぱそうでなくっちゃな」
「どういう意味なんだよそれは」
発作的にツッコミを入れる俺。
「そういう意味なんじゃないの?」
国木田がわけのわからない連携を見せ、それで俺も納得してしまったから不思議だ。
ああ不思議だ。
ほどなくして二人とも別れ、俺が向かった先は、文化部の部室棟であった。
これで最後だ。さすがに緊張が走る。俺は扉の前で深呼吸を何度かした。
そして、元文芸部で今はSOS団の部屋となっている部室の扉を、ノックした。
「はあい」
扉を開けてくれた朝比奈さんは、ハルヒからは表情が見えないことをいいことに
俺にエールを送るように下手なウインクをした。千人力です、朝比奈さん。
「誰かと思えば、あんた?」
パソコンのモニター越しにこちらを見てきたハルヒの反応は、それだった。
腕を組んで、団長席にふんぞり返ったハルヒは、俺をにらんできた。
「なんか用あんの?」
高圧的な態度も慣れっこなのでなんとも思わん。
俺はいかにも初めて来たように装い、部屋の中を見渡す。
古泉と長門はそれぞれ自分の席に座って、俺に視線を注いでいた。
少し間を置いて、返事をした。
「いや、朝のときに言うつもりだったんだが、踏ん切りがつかなくて」
大嘘である。
「ここって、変わったことの相談に乗ってくれるんだろ?」
「普通の不思議さじゃダメよ。最近なんて、幽霊と遭遇したんだから」
お前も嘘つけ。だが、少しは興味を引かれたらしいな。目の色が変わっている。
「幽霊よりもっとすごいことなんだ。俺も信じられなくて」
「えっ、ホント?」
目を輝かせたハルヒは、視線をずらして、声を発した。
「今の聞いた? キョン」
ハルヒの視線の先は、俺ではなく、いつも俺が座っていた席だった。当然空席である。
俺に顔を向けていた古泉の表情が少し歪む。朝比奈さんも笑みを一瞬硬直させた。
長門だけは、ただ俺をじっと見つめてくるのみだった。
「あれ……キョンって、あんたのことよね……?」
ハルヒは自分の発言に戸惑いを見せていた。
まずいな。さっさと話を進めよう。
「それより、俺の話を聞かないのか?」
これは効いたらしく、ハルヒは戸惑いをあっさり捨てた。
「いえ、是非聞かせてちょうだい。修了式記念に特別にタダでいいわ! みくるちゃんお茶!」
「それで、幽霊よりすごいことって、なんなの?」
確実にハルヒの心は躍っているに違いない。胸が少し痛む。
しかしこれからすることはお前のためなんだ、ハルヒ。
いや、それは嘘か。俺のためでもある。俺だって、お前に忘れてなんかもらいたくない。
ホワイトデーのとき、言ったじゃないか。ここで終わらせていいのか、って。
俺はまだ終わらせたくない。二年になってもSOS団の団員でありたい。
「ああ、ちょっとこれを見てくれないか」
お茶を味わい、意を決した俺は、かばんの中から薄っぺらい用紙を取り出した。
席を立って、ハルヒに近寄る。
「なに? それ」
ハルヒも立ち上がって、こっちに歩いてくる。
俺は床に小道具が置いてあるのを確認した。今だ。
「うわっ!?」
置いてあった本に足を引っ掛けた振りをして、俺は前のめりにバランスを崩す。
接近しつつあったハルヒを巻き込むように倒れ込んだ。
「きゃ――」
ハルヒの悲鳴は途中で途切れた。
それはなぜなら、俺の口が、ハルヒの口をふさいでいたからだ。
目を閉じるのも変なので、開けたままにする。ハルヒの目は見開いていた。
時間が止まる。ハルヒは何を思っているのだろうか。
できれば、俺のことを思っていてほしい。
頼むぜ、ハルヒ。
どれくらいの時が経ったか、突然俺の体が押しのけられた。
と思うと、思いっきり突き飛ばされる。
「っこの、バカキョン!」
「ぐあっ!」
ものすごい力で後方に吹っ飛ばされた俺は、頭と背中を本棚にしたたかに打ちつけた。
目に星が浮かぶとはこのことだ。痛ぇ。
「な、なっ、なな」
ハルヒはわなわなと体を震わせ、憤怒の色をあらわにしていた。
「バカっ! 何すんのよ!」
「すっ、涼宮さん、落ち着いてください!」
朝比奈さんが声をかける。
「落ち着けるわけないでしょ!? だって、このエロキョンが――」
わめき散らかすハルヒの動きがひたり、と止まった。
「キョン?」
俺の名前を呼ぶ。
頭と背中をさすりながら、俺は答えた。
「なんだ?」
「あんた、キョン、よね?」
ハルヒがおそるおそる聞いてくる。
喜びを隠して、俺は、答えた。
「ああ、SOS団団員その一の、キョンだ」
「記憶喪失になったりしてないわよね?」
「記憶喪失? 記憶にないな。今、頭をぶつけてなるかと思ったが」
頭にこぶができているのは、確実だった。
「あ……」
ハルヒは口をぱくぱくさせ、怒っているような、笑っているような、複雑な表情をとった。
間を空けて、怒鳴ってくる。
「なんで昨日早退したのよ!」
「すまん、急用が入って」
謝る俺に、まるで怒鳴ることが楽しいように、満面の笑みを見せた。
「さっきの件といい、許せるわけないでしょ! 罰ゲーム決定! そうでしょ? みんな!」
勢いよく立ち上がって、残りのSOS団員を見回すと、全員ハルヒにうなずいた。
その表情は、俺を含め、ほっとしていた。
キスの件は事故であることを強調し、床に落ちてあった本を見せた。
ハルヒも事故であってほしいのか、それ以上、何も言わずに済んだ。
言うまでもなく、ファミレスで俺が出した条件は、キスを事故に見せかけること、だった。
そうじゃないと、これからのSOS団の活動に支障をきたすような気がしてな。
たとえハルヒがそうじゃなかったとしても、俺が気にする。
そういうわけで、俺の中でも、さっきのことは、事故ということになったのさ。
「明日からの春休み、死ぬほど楽しむわよ!」
一昨日より数倍勢いを増したハルヒが、団長席から俺たちを見据えた。
その様子に、古泉が微苦笑を込めて、俺を見てくる。
すまん、古泉。どうやらお前の苦労が増えそうな気がしてやまない。
「みくるちゃん、次の衣装もちゃんと考えてあるわよ。期待して待っててね」
「えっ? あ、あはは、うれしいなあ」
棒読みで喜びを表現しながら、朝比奈さんもちょっと困り気味だ。
朝比奈さんも、ごめんなさい。この埋め合わせは必ず。
「有希」
「なに」
「なんにも」
大丈夫なのか、コイツは。近づく春の陽気を先取りしたんじゃないだろうな。
「あ、そういえばキョン」
「なんだ?」
手拍子で答える。
「あんたさっき、幽霊よりすごいことに遭遇したって言ったわよね?」
「へ?」
なんで、そのことを覚えてるんだ?
「わたしがそんな面白そうなこと忘れるわけないじゃない! で、なんだったの?」
そこで、笑顔に凄みを加えてくる。
「まさか、ただの冗談でした、なんて言わないわよね?」
「いや、その……」
素早く、芝居の脚本家である古泉に視線を送る。おい、肩すくめんな。
「もしも冗談だったら、どうなるかわかってるでしょうね?」
わからん、わかりたくない。
それから、ハルヒが言ったことは、まさに悪夢だった。
こういう記憶こそ、消してくれるべきなんじゃないのか? 喜緑さん。
こうして、修了式で終わらない俺の一年は、春休みという延長戦に突入したのだった。
(おわり)