冬の雨はもの寂しい。  
日中にも関わらず暗い部室を電灯が特有の白さで照らし、雨音は途切れることなく続いている。  
隣の部屋からは楽しげな会話が聞こえるが、それですらどこか悲しく響く。  
校内にはまだ大勢の人がいるにも関わらず、いや、だからこそ雪山に閉ざされた山荘のような、実に人肌恋しい雰囲気だ。  
しかし長門有希は、変わらずページをめくっていた。  
今が夏だろうが冬だろうが関係ないとばかりに、本の内容に没頭する。  
揃えた両膝の上に本を置いて、なにかの義務のようにページを繰る。  
そのテンポは崩れることなく、動きは必要最低限のものでしかない。  
雨音と長門有希と読書が、ワンセットでそこにあった。  
 
「……」  
 
扉のすぐ外で、何かを置く音がした。  
長門有希の肩が揺れた。  
膝の上に置いていた本を少し持ち上げ、斜め四十五の角度で固定する。  
本という邪魔者が外され、白い太ももが外へと晒される。  
 
「あれ、長門、お前だけか」  
 
入ってきたのはキョンという愛称を持つ団員だ。  
くすんだ色合いのコートが、彼の枯れた性格を表していた。  
その手に抱えているのは涼宮ハルヒに命じられ、下の商店街まで往復の後、ようやくのことで手に入れた暖房器具である。  
衣服は雨に濡れ、顔には疲労が濃く現れていた。  
たかだか学校と商店街の往復程度で、などと言ってはいけない。  
この雨の中、急勾配の坂を下り、上ってきたのだ。  
実体を知る者であれば、その命令は体育のマラソン大会に匹敵する辛さだ。  
 
「ハルヒたちは?」  
 
抱えていた荷物を置き、マフラーを畳みながら彼は尋ねた。  
長門有希はその表情を見る。  
じっと見る。  
観察し続ける。  
そうして最後にちょこんと小首を傾げた。  
彼は不満げに呻いたが、やがて諦めたように机を挟んで向かいの椅子に腰を下ろし、冷えた手に息を吹きかけた。  
その様子を見て、はじめて長門は外の気温の冷たかったことを理解した。  
体中を串刺しにされても特に問題ない身としては、そこら辺のことを実感できない。  
この気温は、人にとっては寒いのだと、情報を新たにインプットする。  
やがてキョンは自前の発熱量では現状打開は無理だと判断したのか、自分で運んできた電熱ヒーターに電源を入れ、『うあ゛ー』という表情で両手をかざした。  
冷え性の人なら誰もが体験する、あの痛痒さにひたっている。  
電気屋から無償で提供された暖房器具はそこそこ役に立つらしく、長門がページを手繰る横で、キョンの顔は徐々に平静な顔へ戻っていった。  
類人猿から新人類への進化である。  
手を暖め終えた彼は、ふらりと立ち上がった。  
その顔は、血色が戻った分、覇気というものが抜け落ちていた。  
歩く姿にも力がない。  
 
「はぁ……」  
 
椅子に座り吐き出した息は、雨にまぎれてしまうほど小さな音だったが、実感のこもった『疲れ』を吐き出していた。  
彼は崩れるように前のめりに倒れ、両手で枕を作り頭を乗せる。  
 
「疲れたァ――」  
 
すでに目はうつろだ。  
ほどなく目は閉じられ、安らかな寝息が木霊した。  
雨音と寝息と紙擦れの音。  
三種の音が部室に響く。  
 
「……」  
 
一定のリズムが繰り返され、他に無駄な要素はまったく無い時間。  
だが、ページをめくる音が唐突に止まった。  
実に珍しいことに、長門は同じページをもう一度読み返していた。  
三つの音が二つになる。  
ざあざあという雨音に、キョンの寝息だけがプラスされる。  
たったそれだけの違いなのに、人肌恋しい雰囲気が温かなものへと変わっていることに、長門は気づいた。  
本を閉じ、席を立ち上がる。  
真正面の壁を見つめる表情には、どんな感情も浮かんでいない。  
彼女は直線的な動作で顔を向けた。  
電熱ヒーターの熱によって生じたわずかな風が、キョンの首筋にあるホクロ毛をそよそよと揺らしていた。  
 
「……」  
 
彼女は静かな足取りでキョンの後ろに歩み寄り、カーディガンを脱ぐ。  
この気温は人間にとって寒い、さきほど学習したばかりのことである。  
まして睡眠時には、人の体温は下がる傾向にある。  
そのまま掛けようとして、長門有希は読んでいた本の内容を思い出した。  
じっとキョンの背中を見つめる。  
読んでいた本の題名を、『蹴りたい背中』と言う。  
 
「……」  
 
だが結局は、そっと背中にカーディガンを掛け、  
 
「ん……」  
「――」  
 
キョンが、それに反応した。  
ほんのわずかな身じろぎでしかなかったが、長門は思わず動きを止める。  
それこそビデオの停止ボタンを押したような完全硬直であった。  
……さて、通常、背後からズレ落ちないようカーディガンを掛けるためには、相手の体の前にまで手を回す必要がある、そして『その途中で』動きをとめることは――――結果として、後ろから抱きしめる形にならざるを得ない。  
彼女は、二度三度とまばたきをする。  
間近で油断しきった寝息を立てるSOS団員の、仲間の顔を見る。  
――こんな時、言うべき台詞がある。  
長門有希はふいにそう思った。  
それは一度、口にした憶えのある言葉である。  
しかし、実に珍しいことに、長門は思い出すことが出来なかった。  
機能的な問題とは考えられない、なんらかの心理的なブロックが掛かっているのだろう。  
あの時、自分はなんと言っただろうか?  
長門は目を閉じ考えた。  
現在から過去へと、さまざまな出来事を遡行する。  
そして実に十二秒もの長い時間をかけて『その言葉』にたどり着いた。  
あの時と同じテンポ、同じ発音で彼女は言った。  
 
「 大好き 」  
 
 

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