氷を直に気化したかのように凍える空気は、太陽光を通した後も酷く冷たく感じた。それは気分的な  
問題なのかもしれないが、目の前に横たわる住宅地特有の中途半端な雪景色に、やはりそう思う。  
 ここ数年この辺りには滅多に降らなかったくせに、「利子をつけて返してやるぜ」と言わんばかりの  
集中豪雪が年明けから続き、季節感を無暗に尊ぶごく一部の馬鹿以外の人間を辟易とさせていた。  
 勿論俺もその一人なのだが、ごく身近にいる馬鹿が楽しそうに俺達を引き摺り廻した際の事の方が  
よっぽどダメージが大きかった。その辺のことは…………………………今は思い出したくない。  
 また増えたトラウマものの思い出にテンションを下げつつ、日曜の早朝から雪かきをしてくれた  
どこぞの奇特な方々に感謝を捧げてから細い街路を進むと、やがて北口駅前へと続く大通りに出た。  
 ここで方向転換、駅へと向かう。数日振りに顔を見せた太陽が、えらく眩しい。  
 駅に近づくにつれ、疎らだった人通りも休日に相応しいほどに増えてきた。ここ数日ろくに外出も  
出来なかったフラストレーションを一気に発散させようというのか、結構な賑わいである。  
 仲睦まじく寄り添うカップルを横目で見ながら、ふと思う。そのぬくもりを俺にも分けてくれ、と。  
 
 チャリで10分の所をたっぷり30分かけて、ようやくたどり着いた北口駅の北側改札口。  
 我らが(?)SOS団の記念すべき初活動の際の集合場所だ。微妙に感慨深いね。涙は出ないけど。  
 腕時計を確認する。11時5分前。予定より少々時間を食ったが、何とか遅刻はしていない。  
 ひとまず安堵しつつ周囲を見渡し、待ち合わせ相手を探す……までもなく見つかった。  
 スタイルがいい分遠目でも結構目立つ、見慣れた薄茶のハーフコートに見慣れないロングブーツ。  
濡れたような艶の黒髪を肩ほどでそろえ、その勝気な瞳で俺の方を見ている。珍しくポシェットらしき  
黒いものを肩に引っ掛けて待ち構えていたそいつは、歩み寄る俺が挨拶する間もなく開口一番こう言い  
放った。  
 
「遅いわよ、キョン。今日はあんたの奢りだからね」  
 
 両手を腰に当てて仁王立ちするハルヒの、仏頂面でもさほど怒っていない方の表情に、   
「今日はSOS団の集まりじゃないんだから、その罰金ルールは無しでいいんじゃないか?」  
「何言ってんのよ。SOS団員たるもの、いついかなる時でも団員魂を忘れてはいけないの」  
 フンと鼻を鳴らすハルヒ。……なんだよ、団員魂って。学ラン鉄下駄応援団の精神世界か?  
 悪いが、拳で語り合う物語に俺は出演予定は無い。出演依頼があってもその場で断らせてもらおう。  
「それと、『今日は』って言っても、いまだかつてお前が俺に奢った事なんて無いぞ」  
「うっさいわね。そんな細かいこと気にしてたら大人になれないわよ。それにあんたは人に奢る事を  
 喜びに生きているんだから、心痛む所をわざわざ奢られてあげているあたしに少しは感謝しなさい」  
 心痛んでいたのか。そいつは初耳だ。つーか、俺はいつの間にそんな偏った慈善活動家になったんだ?   
 そりゃあ今日は全部俺の奢りになるんじゃないか程度の覚悟はしていたけどさ、感謝されこそすれ、  
お前に感謝しなきゃならんというのは理不尽極まりない話だと思うんだけどね。  
 そう言うと、ハルヒは担任の女教師に決め台詞を言わせた悪戯坊主のようなニンマリとした顔になり、  
 
「だって、 ア ン タ が あ た し を誘ったんじゃないの」  
 
 ……待て。俺はお前を誘った記憶は無い。あれを誘ったと言うのなら――   
「そんなこともういいじゃない。さっさと行きましょ。電車賃くらいは割り勘にしてあげるわ」  
 そう言って身を翻すと、カモシカのような軽快な足取りでさっさと駅の改札に向かってしまう。  
 こうなってしまうともう取り付く島がないという事は、経験上俺はよく理解しているし、実際、  
こんなあほらしい事で言い争って余計な時間を食うのも馬鹿馬鹿しい。しかし……  
「……やれやれ」  
 俺は不承不承、ハルヒに倣い切符販売機に並びながら、それでも自分の疑問を未だ反芻していた。  
 
 
「キョン……これ、やる」  
 
 新学期初日の朝一番からサヨナラホームランを打たれたリリーフエースの様相でのそのそ歩いていた  
谷口が、そう言って俺に二枚の紙切れを差し出した。  
 少しでも足を滑らそうものなら人間雪だるまがお手軽に作る事が出来そうな坂道を、思わず雪山賛歌  
でも口ずさみそうな気分で上りながら、受け取った派手な色彩のそれを見やる。  
「ん? 映画のチケット?」  
 確か正月映画の一つで、割と有名な俳優が出てるそこそこ話題の純愛映画だ。  
 CMで頻繁に宣伝しているもんだから、そのうちレンタルで見てみようかぐらいには思っていたが、  
「いいのか? お前が彼女と――」  
 と言いかけて……俺は理解した。  
 返事の代わりに谷口の吐き出した真っ白い塊が、冬の透明な空気に吸い込まれていく。  
 俺はそれ以上何も聞かずに、谷口の肩をポンポンと叩いてやった。それが友情って奴だろ?  
 ……あれ、いつの間に、コイツと友情を育んでいたのだろう……ま、いいか。合掌。  
 
「さて……どうしようかね」  
 クラスメイト達が正月の過ごし方なぞを報告しあっている教室で、俺はそのチケットを目の前に  
掲げてその処分方法を考えていた。まあ、正確には、「誰を誘おうか」考えていたと言うべきか。  
さすがに俺も、一人で恋愛映画を見に行くような豪気は携えていないのでね。  
 で、一番最初に思いついたのは(何故か)ハルヒだったのだが、入学当時の言動から考えれば、  
こういう「ありがちなコース」は彼女が毛嫌いする最たるものではないかと思われた。誘った所で  
謂れ無き罵倒を受けて断られるのがオチだろう。というわけで、却下。  
 二番目には(これまた何故か)長門が浮んできた。アイツならまず断りはしないだろうな。  
だが、あの基本的無感動女と映画を見に行って、一体何が楽しいというのだろうか。ましてや、  
ラブストーリーなどアイツの存在と最もかけ離れている内容のような気がするぞ。却下。  
 
 おおっ、論理的帰結として、誘う相手としてはもう朝比奈さんしかいないではないか。これはもう  
俺と朝比奈さんを結ぶ赤い糸の運命だとしか言いようがないね。ありがとう、ロマンスの神様。  
(ちなみに野郎どもは古泉も含めて一片の考慮にも入れていないし、入れる必要も無い。以上。)  
 目を閉じて想像してみる。  
 映画館へと向かう途中、クレープなどかじりながら俺と談笑する朝比奈さん。  
 映画の上映中、手摺に置いた手が触れ合い、慌てて手を引いた後、頬を染める朝比奈さん。  
 ラストシーンでそのつぶらな瞳からハンカチが塗れそぼるほどに涙をポロポロ零す朝比奈さん。  
 そして、感情移入のあまりに、映画のヒロインになりきってしまった朝比奈さんは俺に――  
 
「あれ、キョンなにそれ?」  
 
 その声に妄想の世界から現実に引き戻された俺が顔を上げると、つい半秒ほど前まで俺が右手に  
持っていた紙切れは、いつの間にか俺の隣に立っていたハルヒの指の間に挟まっていた。  
 おのれ、勝手に人の物を取っちゃいけないと親に教わったことは無いのかお前は。取った者勝ちとか  
ぼうっとしている方が悪いとか、お前の物は俺のものってのが教育方針なのかお前の家は。  
 そんな俺の八つ当たり気味の義憤を余所に、ハルヒはその大きな瞳をニ三度パチクリさせながら、  
チケットに書かれた文字を目で追っていた。読んでるよオイ。何か「ふむふむ」とか言っちゃってるし。  
 その姿を見ながら、何故か段々と後ろめたい気分になってきた俺は、気がつけば言い訳めいたことを  
口走っていた。  
「いや、それはな、谷口がな、やるって言うから、俺は貰ってだな、で、えっと……」  
 オイオイどうしたんだ俺、何を焦っているんだ。冷静になれ冷静に。ほら、早くこう言ってやれよ。  
何しやがる返せこのバカハルヒそれは俺が――  
「いいわ。付き合ってあげる」  
「…………は?」  
「どうせ誘う相手がいなくて困ってたんでしょ? あたしが付き合ってあげるって言ってるの」  
   
 その日の夜、ハルヒは横柄にも待ち合わせ場所やら時間やらを電話で伝えてきた挙句、  
『来なかったら、その場で死刑だから』  
 などと、物理的に不可能なはずなのにコイツなら本当にやりかねない予感のする物騒な脅し文句を  
のたまいやがったのだった――。  
 
 さて、どうなんだろう。  
 これって世間一般では俺が誘ったってことになるのだろうか……否、ならん。なってたまるか。  
 どちらかと言えば、ハルヒが俺を無理矢理に誘ったようなもんじゃないか。  
 全く、このどっかの小説家のようなちっとも有難くない巻き込まれ体質はどうにかならんものか。  
 だいたい、俺は朝比奈さんを誘おうと思っていたところだったんだ。それを横から現れて勝手な  
思い込みねじ込みやがって。親切心だかなんだか知らんがふざけんなっての。  
 
 電車内にて俺は車扉の縁に凭れかかり、同じく車扉の窓に張り付いているハルヒの姿を視界の端で  
捉えながら、車窓の外を眺める。目に映る景色は、中途半端な田園風景からいつしか無骨なコンクリ  
ートのビル群へと変わっていた。ただ、屋根や屋上やらに被った雪のため、全体的に白っぽいままだ。  
 一人澱のように憤懣を腹の底に蓄えながら、何気なくふと、横目でハルヒの顔を見る。  
 その時ハルヒは、車窓の向うで流れていく景色を、目を細めながら眺めていて――。  
 
「……ん? どうかした、キョン?」  
「……いや、なんでもない」俺は視線を外し、再び窓の外を見る。  
 ……ちっ。反則だ。ハルヒの分際で――そんな面するんじゃねぇ。  
 
 清涼飲料水のばかでかい青と黄色の販促用看板が目の前を横切る。  
 だが、俺の脳裏には、ハルヒの横顔が焼きついて離れず――さっきまで俺のどっかに溜まってた  
何かが知らない間に、そう、晴れ間の雪のように消えていたことにも、その時は気付かなかった。  
 
 
「ところでだ」俺はお冷の最後の一口を喉奥に流し込んだ。  
「何だってお前、映画なんざ見に行こうって気になったんだ?」  
「…………」  
 ハルヒは……なんか知らんが頬杖つきながら、つい5分ほど前までオレンジジュースが入っていた  
グラスの中で融けかけた氷を、ストローの先で黙々とつついていた。  
 場所はファミレスの一角。俺とハルヒは窓際の席で向かい合って座っていた。俺達の目の前には  
二人分のランチセットの亡骸が横たわり、店員さんのお迎えが来るのを静かに待っている。  
 映画館のある駅に到着したはいいものの、午後の上映時間にはちょっと早いこともあって、俺達は  
丁度下車駅の目の前にあったこのファミレスで昼飯としゃれこんだ次第である。ただ、俺がこの店を  
指差し、「ここでいいか?」と訊いた時にハルヒが一瞬だけ見せた、チャンスでスクイズのサインを  
出された4番バッターのような表情が妙に印象的だった。一般庶民の高校生に何を期待してたんだか。  
奢る方の身にもなってみろっての。まぁ、わざわざ俺が頼んだ一番安いランチセットに注文を合せた  
辺りは、多少評価してやっても構わんがな。  
 いや、まあ、それはどうでもいいんだ。今は。  
「おいハルヒッ」  
 待てど暮らせど返事をしないハルヒに、少し語調を強くして呼びかけてみる。  
「……へっ!? な、何?」    
 弾かれたようにストローから手を離し、顔を上げるハルヒ。  
 なんだ、やっぱり聞いてなかったのか。いくら俺の話を聞かないことを習慣にしているからって、  
真正面に座る人間を置いて一人遠い世界に思いを馳せるのは感心しないな。  
「わ、悪かったわよ。で、何よ」  
 お約束のアヒル口になるハルヒ。何逆ギレしてんだお前は。  
「……何で、映画なんざ見る気になったのか、と訊いたんだ」  
 
「あたしが映画見ちゃ悪い?」  
 そうは言わないけどさ、何となくお前の趣味じゃないような気がするのさ。  
「勝手に人の趣味、決め付けないでよ」  
 そうかよ。そりゃ悪かったな。  
 俺は近くにいたウェイトレスさんを呼んだ。「はーい」と小気味よい返事をしてきた彼女に、食器  
類の片付けとお冷のお代わりもお願いする。手際よく食器をまとめその細い両手に載せると、嫌味の  
無いよくできた接客スマイルを残して一礼するウェイトレスさん。ポニーテールがちょこんと揺れる。  
 それから二呼吸ほどの間を置いて、ハルヒは  
「ま、あんたには話しといてもいいかしら。いい? 耳の穴かっぽじってよく聞きなさいよ」  
 背凭れのクッションにふんぞり返った。なぜ、そこで偉そうになる。  
「来年の……じゃないわね、今年の文化祭のためよ」  
 イヤな予感。  
「前回出展した映画は、結局オスカーへの招待もハリウッドからリメイクの打診も無かったわ。  
 それどころか、文化祭の人気投票でも選外という業腹ここに極まれりという結果に終わったわね」  
 当たり前だ。  
「でも、あたしはこの結果を真摯に受け止めるべきだと思うの。この経験と教訓を次に生かすために」  
 いや、受け止めなくてもいいから、生かさないでくれ。  
「考えてみたんだけど、SFってのはいまの時流に合ってなかった、つまりニーズが無かったのね」  
 いや、そんなことはないと思うが。  
「だから、あたし達の作った映画にも食いついてこなかった。そう、そうよ、間ぁ違いないわ!」  
 いや、それ以前に、あの映画の出来をもっと客観的に見て欲しいのだが。それとモノマネもイラネ。  
 ……あーもう、最初から最後まで、しかもマンツーマンディフェンスでツッコミ続けなきゃならない  
俺の苦労を誰か分かち合ってくれ。頼む。昼飯ぐらいなら奢ってもいいから。ドリンクバーつきで。  
   
「そこで……次回はラブコメで攻めるのよ!」  
 
 テーブルに身を乗り出しグッと拳を握り締める自称超監督ハルヒ。その瞳には地獄の業火もかくや  
という勢いで情熱の焔が赤々と燃え盛っている。分ったから、唾飛ばすな。  
「他にも色々考えたんだけどね。思春期の若者をターゲットとするなら、ラブコメが一番食いつきが  
 いいと思うわけ。ま、その参考までに、今流行の映画を分析するというのも一つの手かなって。  
 尤も、SOS団プレゼンツの作品なんだから、更なるプラスアルファを用意はしてあるけどね」  
 コメカミの辺りをつんつんとつつき、全ての謎を解いた少年探偵のような笑みを浮かべるハルヒ。  
 言いたいこと言って満足したのか、髪を軽くかき上げると腰を下ろし腕を組んだ。  
 ……ラブコメねぇ。  
 恋愛を気の迷いと言い切るお前が作るラブコメなんざ、あのSFもどきの出来より酷くなる確率は、  
太陽が東から昇って西へ沈むのとどっこいどっこいだと思うけどな。ただ、主演女優が目から怪光線  
を出すことも、俺が猫と禅問答をする必要も無さそうな分、俺達の苦労は幾分か軽いかもしれん。  
 ま、勝手にどこへとでも攻め入ってくれ。火攻めでも水攻めでも兵糧攻めでも好きにするがいいさ。  
 ……ただな、  
「また、朝比奈さんが主演女優で、古泉がその相手役か?」  
「ま、そういうことになるかしら」  
「なら、俺は降りさせてもらう」  
「バカ言わないでよ。あんたがカメラまわさないで誰がまわすのよ」  
 折角貰ったお年玉を親に問答無用で没収された親戚の子供ような面のハルヒに、  
「古泉にでもやらせりゃいい」と、俺。  
「そしたら男優がいなくなるじゃない。女の子同士のラブストーリーなんて撮れる訳無いでしょ」  
 いや、俺としては下手な恋愛映画よりも興味をそそられるね。なんなら脚本書いてやってもいいぞ。  
「……あんた、それ、本気で言ってるの?」  
 ふん……ジョークだよジョーク。ジャスト・ア・ファニージョーク。文法間違ってないよな?  
「とにかく、古泉が恋人役のラブコメなぞ、俺は参加せんぞ」  
 その時丁度、ウェイトレスさんがレモン風味の氷水で満たされた魔法瓶を持って現れた。  
 
 去年の映画撮影の時も、ちょい前のヒトメボレ事件の時もそうだったのだが、いつの間にか俺は、  
朝比奈さんだろうが長門だろうが、他の男と睦みあった姿を想像するだけで霧消に腹が立つ性格を  
獲得してしまったらしい。それは相手が古泉であっても同じである。なんつーか、俺も随分とケツ  
の穴が小さい男だったんだなとも思うのだが、これが思春期における青少年の標準だと自分に言い  
聞かせて自己完結することにした。その思いは同年代の連中と共有できるのでないかと思う。尤も、  
目の前で腕組みする超監督様には、そんな甘く切ない青少年の性なぞゾウリムシの繊毛の先ほども  
ご理解いただけないだろうが。  
 ハルヒは必要以上に突き出した唇に差し込んだストローで、氷水をじゅごごーと飲み干した。  
 しかる後、ストローを咥え目を伏せたまま、ポツリと言う。  
「……じゃあ、あんたが代わりにみくるちゃんの相手役やる?」  
 ……そいつは考えなかったな。俺が朝比奈さんの恋――  
「百億年早いわ」  
 オイオイ、妄想する間ぐらいはくれよ。まあ谷口の言葉じゃないが、全校生徒の半分を敵にまわす  
のは気が引けるな。  
「ほんじゃ、長門がヒロインならどうだ?」  
「有希に恋する女の子の演技なんて出来るわけないじゃない」  
 一理ある。でもな、極度の照れ屋で酷く臆病なのに時々ちょっぴり積極的な無表情系萌え文学少女の  
役なんてやらせてみたら、アイツの人気はビックバン並に膨れ上がると思うぜ。  
「バッカじゃないの? あんたの妄想には付き合いきれないわ」  
 お前は男の萌えっつーものをまだ理解し切れていないみたいだな。男には自分の世界があるのだよ。  
例えるなら空を駆ける一筋の流れ星みたいな。……ま、どちらにせよ長門をブレイクさせるのも確かに  
抵抗がある。お気に入りのインディーズバンドがメジャーデビューしないで欲しいのに通じる気持ちだ。  
「となると……」俺は注がれたばかりのお冷を一口含み、  
 
「お前しかいないよな」  
 
 からん。ハルヒの唇からストローが離れ、季節外れに涼しげな音を立てた。  
 ハルヒは何か言いたげに見えたが、その意味を考えるよりも早く、俺の口は次の言葉を紡いでいた。  
 
「けど、お前は監督だしな。だめだな」  
   
 そして、何気なく窓の外を眺めて、もう一口お冷を喉に通す。店の目の前にあった横断歩道の信号が  
赤に変わり、道路を前にして通行人達が立ち止まった。大して面白くともない、良くある風景。  
 しかし、そこから正面に目を戻すと、えらく珍しい景色を見る事が出来た。  
 ――目を丸くしたハルヒが、人間の足と交換に言葉を失った人魚姫のように口をパクパクさせていた。  
 おい、どうしたハルヒ。お前は叶わぬ想いに悲観した挙句、海の泡になるようなタマじゃないだろ。  
どちらかと言うと、魔女から人間になる薬を強奪して、他の国のお姫様と婚約した王子様を逆上して  
ぶっ飛ばすような、唯我独尊傍若無人なヒロインの方がよっぽどお似合いだぜ?  
 見かねた俺が飲みかけのお冷のグラスを目の前に差し出すと、ハルヒはぶん取るようにして受け取り  
一気に飲み干した。  
 そして、だんっ、とグラスを机の上に叩き置くと、  
 
「そうよあたしは監督よ! ほいほい画面の中になんて出てきたりしないの! 悪い!?  
 あたしの仕事は下僕のような俳優とスタッフに指示出すことなの! でっ、下僕の中でも  
 最下層のあんたなんかに俳優なんかやらせないからね! あんたにはパシリがお似合いなのよ!」  
 
 そう言って、傍らに置いてあった伝票を俺の顔面に叩きつけた。  
 「下僕下僕って、何様のつもりだお前」というセリフを言う相手は、俺の視界を遮っていた紙切れが  
重力に従って落ちる頃にはとっくに店のレジを通過していた。  
 何て言うか――とりあえず、ウェイトレスさんの刺す様な視線が、心に痛かった。  

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