それから、多分、十分か二十分か三十分か一時間ぐらいした後。  
 時間の感覚もどこか怪しい俺は、半ば茹でダコ状態になりながら湯船から這いずり出た。  
 身体の芯まで温まったどころか、余剰熱によるオーバーヒートをきたしている。  
 冷水責めの次は熱湯責めか。どうやら今日の俺は厄日らしい。きっと水難の相でも出ていたんだろう。  
 ひとまず、この朦朧とした頭だけでも冷やすことにした。  
 プラスチックでできた凹型の座椅子に座り込み、頭を水平に突き出して、シャワーの水をそのまま  
後頭部にぶっ掛ける。  
 ……冷えねぇな。頭の中心はまだカッカカッカしてやがる。  
 いや、物理的な熱量は猛烈な勢いで失ってきているんだ(冬場の水道水侮りがたし)。  
 問題は心理的なものだということぐらい、今の俺にだって想像がつく。  
 俺の頭の中では、招かれざる闖入者が吐いた言葉がただひたすらにリフレインしていた。  
   
――アンタに、妄想を実行する度胸なんて無いからよ。  
――……意気地なし。  
 
 足元のタイルに握り拳を思い切り突き立てた。  
「くそっ!」  
 タイルには傷一つつかない。痛みは、どこか遠い国の出来事のように感じた。重ねて2度3度打ち  
付ける。  
「くそっ! くそっ!」  
 ちくしょう。なんだって俺があんなこと言われなきゃならねぇんだ。俺が何をしたって言うんだ。  
 くそ女め。腹が立つ。何が腹が立つって、よりにもよってハルヒに見透かされちまったってことだ。  
 
 ハルヒが(意識的にか無意識的にか)荒唐無稽な無理難題を押し付けて、それを俺達が四苦八苦し  
ながら解決する。その途中や最後で、訳知り顔の古泉がハルヒの心理状態を邪推たっぷりに解説し、  
それを有難く拝聴しつつ適当なコメントを述べるってのが俺のポジションだ。それ以上でもそれ以下  
でもない。それだけだ。それでいいんだ。なのに、こりゃ一体全体どういうわけだ。ハルヒの分際で。  
「逆だろうが……」  
 だが、思い当たる節もないことはない。  
 出会った頃はそうでもなかったが、夏休み辺りからはどうも俺の思考をトレースしようとしている  
ようだった。この前の雪山遭難事件の時には、ハルヒは的確に俺の心の引っ掛かりを指摘してみせた。  
尤も、そっから先の想像は妄想に近かったけどな。  
 以前はただ直進する事しか知らなかった分、前方を見るだけで良かったのだろう。だが、SOS団  
という仲間を得る事によって、周囲に気を配るということを覚えたのかもしれない。元々目ざとい奴  
だったが、それに相手の気持ちを慮る事が加わったと言える。その事自体は、寧ろ歓迎すべき事だ。  
ハルヒが人間的に成長しているということの証左に他ならないからな。   
「けどな」  
 今度ばっかりは別だ。俺はちっとも嬉しくなんか無い。有難くも無い。歓迎なんてしてやるものか。  
 ……なんて俺が一人心の中でシュプレヒコールを上げてみても、今更詮無きことだな。  
 ならば。  
「……上等だ」  
 お前の期待に、応えてやる。  
 俺が本当に意気地なしなのかどうか、お前自身の身体で確かめてみろ。  
 言っておくが、これはお前が自分で招いた結果だ。一切の抗議は受け付けねぇからな。  
「やってやるよ……ハルヒ」  
 シャワーを止め、顔を上げた。髪から冷えた水滴が身体を伝うようにして滴り落ちる。  
 
 結局、最後まで頭の中身は冷えなかった。  
 
 
   
 ……はてさて。  
 これは一体、どう解釈するべきなのだろね。頼む、誰か教えてくれ。  
 
 冷静と情熱の間で大人の階段を昇る決意を固めた俺が部屋に戻ると、俺とおそろいの白いバスローブを  
身に纏ったハルヒは、ベッドの端の方で横になり、すやすや眠っていやがった。  
 もしや、いつの間にか俺は「夜這いプレイ」コースを選んでいたのか? 追加料金は払わねぇぞ。   
 回り込むようにしてベッドに近づき、その顔を覗き込んでみる。  
 微かに開いた薄い唇から漏れる安らかな吐息。満ち足りた幸せそうな寝顔。  
 いい夢見てるんだろな。大方、宇宙人や未来人や超能力者と遊んでんじゃないか。ただハルヒ自身は、  
彼らが本当に宇宙人だったり、未来人だったり、超能力者だったりするなんて、正に夢にも思ってない  
はずだけどな。そんな夢なら、俺も友情出演してやってもいいぞ。無邪気にはしゃぐお前を、遠くで  
目を細めながら眺めていてやるよ。ただせめて、そっちの俺には、あんまり無理させないでく――  
 
「って、おい」  
 
 なに和んでんだよ、と一人セルフツッコミを入れる俺。  
 泣こうが喚こうが浴びせ倒し的に押し倒すんじゃなかったのか? 雄雄しくも猛々しくそそり立つ  
シンボルで、思う存分陵辱するんじゃないのか? この暴佛する熱き滾りをその身体の奥にブチ撒けて  
やらなくていいのか?  
 ……ああ、もういい。  
 ベッドに腰をかけ、そっと、ハルヒの頭を撫でる。微かに肌に触れる程度のソフトなタッチで。  
 不思議だな。ハルヒの寝顔を見ただけで、何故こんなに気持ちが穏やかになってしまうのだろう。  
 そりゃ、コイツが口を閉じてりゃ良いってのは、前々から承知のことなんだけどさ。  
 なんだかね。無性に、このまま頬に優しくキスでもしてやりたい気分なんだよ。しないけど。多分。  
「……ん? ……キョン?」  
 むずがるように頭をもたげたハルヒが、猫が顔を洗うような仕草で目元を擦りながら俺を見上げた。  
 
「……あんた、いつもこんな長風呂なの?」  
 唐突だな。今に始まった事じゃないが。  
「ちょっと、考え事してたんだよ」  
「それでも長すぎるわよ。待ちくたびれて寝ちゃ――」  
 言いかけて、ハルヒは突然跳ね起きると、顎を引き視線を自分の身体に向けたまま猛烈な勢いで  
ブロックサインを始めた。これ程早ければ敵チームにも見破られはしないだろうな。  
 ……悪い。俺もサインを見落とした。俺はここで送りバントをすればいいのか? 俺的にはエンドラン  
の気分なのだが。何となく。  
 もう一度サインを出す代わりに、俺を一睨み。サインミスで罰金か? これ以上は鼻血も出ないぞ。  
 口を開いたので何らかの指令がくるかと構えていたのだが、その唇は言葉を発する前に軽い嘆息を  
残して閉じられた。ハルヒはベッドから下りると、俺の目の前を足早に通り過ぎてしまう。  
 なんだ? どうしたんだ? その背中に思わず、声を掛けていた。  
「どこ行くんだ」  
 言ってから、トイレだったらまずかったかな、何てことを頭に過ぎらせていると、  
「お風呂に決まってるでしょ」と振り返るハルヒ。  
 また入るのか。  
「は? 何言ってるの? さっきまであんたが入ってたじゃない」  
 いや、だって、お前だって俺と一緒に入ってたじゃないか。  
「……バ……」  
 ハルヒの顔が、トマトジュースを注がれるガラスコップみたいにみるみる赤くなっていった。  
「バ、バカな事言うなこのバカキョン! 何であたしがそ……そんなわけ無いでしょ!」  
 窮屈な罵倒を吐いたハルヒは逃げるように脱衣室へと消えていったかと思うと、また上半身だけ現し、  
「アホな事妄想する暇あったら、服乾かしてなさい!」と、さっきハルヒが寝ていたあたりを指差して、  
また消えた。  
 見てみると、さっきのハルヒの顔色に似た色のドライヤーが転がっていた。  
 
 ハンガーに掛けたコートに熱風を送り込みながら、俺は緊急脳内会議を招集した。  
 議題は無論「偽ハルヒの正体について」である。時間が余れば今後の対応策も協議したいところだ。  
 さっきのハルヒとのやり取りで明らかになったのは、バスルームで俺を挑発したハルヒは、限りなく  
100%に近い確率で偽者だった、てことだ。正直、危なかった。あの時あの顔で本物のハルヒが寝て  
なければ、恐らく俺は本気でハルヒに襲い掛かっていただろう。その結果、実際に性交するか否かは  
(誤字じゃないのが凄いね)分らないが、俺とハルヒの関係は決定的に変わってしまっていたはずだ。  
「となるとだ」  
 あれか。偽者を作り出したヤツの狙いはそれなのか? 観察対象の変化・情報爆発とかそんなやつ。  
 そう考えてみれば、俺の自尊心を鉋で削り取るようなあの目隠しプレイも、偽者だと気づかれない  
ようにする為のカモフラージュの意味もあった、ということで説明がつく。もしかしたら、ハルヒが  
自分の服を乾かすためにバスローブに着替えていたことすら、折込済みだったのかもしれない。  
 
「だとしたら……」  
 なかなかの知能犯じゃないか。今回は偽者だって気づく要素がほとんど見当たらない。敢えて言えば  
バスルームにあのハルヒが入ってくるということ自体だが、俺の動揺と怒りを上手く利用してそんな  
当然の疑問を浮かべる隙を埋めてしまった。心理戦までお手の物とは、いやはや参ったね。  
「……けどな」  
 相手にミスが有ったとしたら、既に俺に同じ手を使ったって事だ。俺だって伊達に霊長類を16年間  
続けているわけじゃないさ。まして、その事件が起こったのは半月程度前。どんなにもとが旨くても、  
二番煎じをこんな短期間で食らわされたら、そうそう舌鼓は打ってやらねぇぜ。朝比奈さんの淹れた  
お茶なら、世界中の言語で賛辞と感謝の言葉を述べつつ、何杯でも飲み干させてもらうけどな。  
「さて」  
 偽ハルヒを生み出したのは、雪山で俺達をおかしな館に閉じ込めたヤツと同一の存在と見て九分九厘  
間違いないだろう。こんな愉快で器用な芸当見せてくれるのは長門の親戚ぐらいなもんだ。  
 となると、次の心配事は――ここからの脱出方法、だな。  
「……実は、それが一番の問題なんだよなぁ」  
 あの時と違い、長門も古泉もいないこの状況で、一般庶民の俺に一体どうしろっていうんだ。  
 
「何が一番の問題なの?」  
 あー、お前の方から出てきてくれて助かるよ。少しは話を展開できるかもしれない。  
「どういう意味?」  
 気にすんな、こっちの話だ。立ち話もなんだし、こっち座れよ。  
「……ま、ダメだって言われてもそうするつもりだったけどね♪」  
 『ハルヒの姿をした』そいつは、嬉しそうに俺の隣に飛び込んできた。ベッドが軋み、傾きで体が  
そいつの方に引っ張られると同時に、俺の右腕がそのほんのりピンク色に色づいた胸元に挟まれる。  
 偽ハルヒは、俺の肩に上気した頬を擦りつけ、蟲惑的に瞳を潤ませながら俺を目をじっと見つめた。  
フェロモンとでも言うのか女性特有の香りが濡れ髪から漂い、脳神経は早くも麻痺寸前である。  
 身体にはバスタオルが一枚巻いてあるだけ。隠すどころか、寧ろ体の丸みを強調する効果しかなく、  
ある意味真っ裸よりも劣情をそそられる。抱きつかれた二の腕だけじゃなく、全身が熱を帯びていく。  
 だが、俺は冷静だった……と思いたい。  
「どうしたのキョン? なんでそんな顔してるの?」  
 さてな。どんな顔してるんだろね。自分でもわからんよ。  
「お前は、何者……いや、お前の目的は何だ」  
 感情を無理矢理噛み殺した俺の言葉に、偽ハルヒは生まれて初めて床に跳ね返るピンポン玉を見た  
赤ん坊のような表情を浮かべた後、クスッと笑い、  
「……分ってるくせに……」  
 と言って両の瞳を閉じると、俺に向けて軽く顎を上げた。  
 ……やめろ。その唇で俺にキスをねだるな。  
「そういう意味じゃない」  
 偽ハルヒの腕を振り払い、飛び退いた。ベッドの中心になってしまったが、この際気にしない。  
 彼女はさほど機嫌を害した様子もなく、クスクス笑いを顔に貼り付けたまま俺ににじり寄ろうとする。  
 ……やめろ。その顔で俺に微笑みかけるな。  
「キョン……もしかして、怖いの? 心配しなくても大丈夫よ。全部あたしに任せて……と言っても、  
 あたしも経験があるわけじゃないけどね」  
 
 違う。やっぱり違う。俺のハルヒはこんなセリフ、死んでも吐くわけがねえ。  
 ベッドの上を背後へといざる俺を、偽ハルヒが四つん這いになってゆっくり追いかける。その身体に  
巻きつけていたバスタオルは、俺が振り払った時の拍子にか胸元で留めていた部分が緩んでいた。もし  
コイツが膝立ちにでもなれば、その途端すとんと落ちて、全身が露わになる事だろう。  
 ……やめろ。その身体で俺を誘惑するな。   
「……悪いが俺は、自分の体をお前に任せるつもりも、痴女プレイに付き合ってやるつもりも、無い」  
「……キョン……」  
 ……やめろ。その声で俺の名を呼ぶな。  
「キョン……あたしの事、嫌いなの?」  
 いつしか俺の背には壁が張り付いてた。くそ、このベッドこんなに狭かったか?   
 その俺の身体に覆い被さるようにして、顔を近づけてくるハルヒ。互いの吐息が届く距離。  
 ……やめろ。その瞳で俺を見つめるな。  
「……お前に……応える筋合い……無い……」  
「どうして? あたしは、こんなにキョンのこと好きなのよ。キョンの気持ち知りたいって思――」  
 
「やめろぉ!!」  
 
 ……気がついた時には、俺はハルヒの肩を掴み、ベッドの中央に押し倒していた。  
 頭では理解している。コイツが本物のハルヒじゃないということを。だから、俺がこんなに動揺する  
必要が無いということも。朝比奈さんの偽者にだって、それなりに落ち着いて対処したじゃないか。  
 ……なのに、今度は、何故……  
「お前はハルヒじゃない……俺のハルヒは、こんな事絶対に求めない……何故、こんな事をするっ」  
 俯いたまま、喉奥から言葉を搾り出す。真正面にあるハルヒの顔を直視する事が出来ない。  
 俺の指は柔らかな曲線を描くハルヒの肩肉に無残にも食い込み、なおも強張り小刻みに震えている。  
「何なんだ……何なんだお前は……」  
 
 不意に、その手が優しいぬくもりに包まれた。それは、ハルヒの掌。  
 視線を上げると、世の全ての咎を許すかのような慈愛に満ちた笑みを浮かべたハルヒの顔があった。  
「キョン……キョンはあたしの事、どれだけ知っているの?」  
 ……どういう意味だ。  
「キョンは、キョンが知っているあたしが、あたしの全てだと思っているの?」  
 ……。  
「違うわ、キョン。あんたが知っているあたしは、あたしのほんの一部」  
 ……そうか。  
「……でも、キョンには……キョンにだけは、あたしの全てを知っていて欲しいの……」  
 ……。  
「だから……お願い……目を、逸らさないで……ちゃんと、あたしを見て……」  
 ……頷く事しか、出来なかった。  
 こんなハルヒに、一体どんな言葉を掛ける事ができる? こんな直球勝負の告白に対し、一体どんな  
切り返し方があるって言うんだ? 断言しよう。俺には勿論、古泉にだって絶対に無理だ。  
 もう、目の前のハルヒが偽者かどうかとかそんな事どうでも良くなった。というか、もしかしたら、  
これが本物のハルヒなんじゃないかという気にすら、実はなっている。  
 だとしたら、俺も、覚悟を決めなければなるまい。ここで逃げちまうような男はゾウリムシ以下だ。  
 俺の両手は無意識のうちにハルヒの肩を離れ、自分のバスローブに手を掛けていた。  
 ハルヒもまた、体を包むバスタオルをゆっくりと解いてゆく。  
 俺がトランクスも脱ぎ終え、一糸纏わぬ姿になった時、同じく生まれたままの姿のハルヒが大粒の  
涙を瞳に溜め、俺に向けて両手を広げていた。迷わず俺はハルヒを力の限りに抱きしめた。  
「ああっ……キョン……キョンっ……あたしっ――」  
 もういい。もう何も言わなくても。今度は、俺の番なんだから――  
「ハルヒッ!」  
 俺は……俺は……!  
 
 
「呼んだ? キョン?」  
 
「………………………………………………は?」  
 
 ……説明しよう。(なぜか急に冷静になる俺。血の気が引いたせいかな)  
 丁度風呂から上がったハルヒは白いバスローブを纏い、頭をバスタオルで拭きながら部屋に戻って  
来た様子だ。湯上りらしく頬がほんのりと……いや、もう、顔全体が日の丸のように真っ赤っかだ。  
 一方俺。テンションゲージMAXIMUMの息子さんが陸に打ち上がった深海魚のようにピクピク、  
かつ裸族。ついさっきまで抱き合っていた、しおらしいハルヒは煙のように姿を消している。  
 なるほど。きっとどっかの国の王様が着ていた服のように、オバカサンには見えないんだな。  
 勿論この場合、オバカサンってのは俺の事。……いや、寧ろ変態?  
 
「………… こ ん の ぉ ア ホ ン ダ ラ ゲ ――――― !!」  
 
 なるほど。アホか。それも間違ってないな。  
 ハルヒ渾身の右アッパーに吹っ飛びながら、俺の意識は相対性理論を軽く無視した速度で太陽系を  
一周した。ああ……なんてお約束な展開。手垢がまみれるほどにベタ過ぎて、かえって笑えるな。  
 しかし、青筋を三つほどコメカミに浮かべているハルヒにとっては笑い事ではないようだ。当然だが。  
「なんてモン見せんのよこのバカキョンが! 死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇ!!」  
 マウントポジションを取ったハルヒが、手加減抜き八百長無しのギロチンチョークを俺に極める。  
 ああ……もういっそ殺してくれ。お前の手でなら本望さ。  
 
 ……薄れ行く意識の中、「これも痴情のもつれなのかな」なんて事をぼんやり考えていた。  
 やっぱアホだ、俺。  
 
                                            (続く)  
 

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