映画館のほか飲み屋やアミューズメント施設を兼ねているらしき建物を出ると、空はいつの間にか  
暗灰色のぶ厚いどんより雲に覆われていた。まだ午後4時前なのに周囲は仄暗く、俺がいつぞやの  
閉鎖空間を思い出して一人繊細なハートを曇らせていると、隣でハルヒが慣れないパソコンでの作業に  
疲れた中年のオッサンのようにぎゅっぎゅっと腰を捻ったり伸びをしたりした後、  
「それにしても退屈な映画だったわね」  
 などと映画館の目の前で呑気な声でのたまい、俺の鬱な気分に拍車をかけてくれた。  
 デリカシーの欠片も無いヤツだ。映画の余韻に浸っていたであろう何人かから、殺気混じりの視線が  
俺達に向けられているが、マントルより厚いであろうハルヒの面の皮には傷どころか触れた感触すら  
与えられないだろうな。  
 だから俺は、自分への流れ敵意を逸らす為にも、周囲の心の声を代弁してやることにした。  
「お前、最初の20分過ぎた頃には爆睡してたじゃねぇか」  
 ちなみに、その20分間は俺がご機嫌取りに買って来たポップコーンをバリバリ頬張っていた。  
 と、ハルヒは俺の方を見向きもせずに歩き始め、俺も今だけは有難いとばかりにそれに続く。  
 ……それにしても、どこに行くつもりだろう。駅とは逆の方向へとハルヒの足は向かっているぞ。  
 俺が行き先を訊こうかと思い始めた時、  
「あたしくらいになればオープニングを見ただけで、その映画の8割方を評価できるわ。そっから先  
 なんてただの飾りね」  
 何か、映画関係者が泣くか卒倒しそうなとんでもないことを言い始めた。  
「今日の映画は全然ダメ。全然掴みがなってない。監督にはヨシモト芸人に学ぶように言いたいわよ」  
 んなことしたら、作品のコンセプトとやらが変わりそうだが。  
「というわけで、ちょっと寝不足気味だったから寝ることにしたの。時間は有効利用しなくちゃね」  
 つまり、俺が貰ったチケットは全く有効利用されず、見事紙くずに変わったわけだ。すまぬ谷口。  
 
 
 1分後、ハルヒの足は駅前大通り沿いのファーストフード店の敷居を跨いでいた。  
 当然のように「あたしBセット。席はあたしが取っておいてあげるから」と俺に向かって言うと、  
入り口横の階段から二階へと姿を消す。  
 どうやら、ハルヒの頭の中では俺が奢ることは既定事項らしい。苦虫を噛み潰したような顔という  
ものを二三種類試してみて、店員さんに救急車かパトカーを呼びそうな顔をされたのでやめた。  
 勘定を済ませてBセットと割高なウーロン茶を持っていくと、ハルヒはまだ話し足りないと見えて、  
俺が席につくなり、堰を切ったように話し始めた。  
「だいたいラブコメなんて、出会って別れて元の鞘に戻ってどっちか死ぬか結婚して終りなのよ」  
「それじゃ4コマ漫画じゃねぇか」  
「そうね。それぐらいのスピード感が無くっちゃ今の世の中では通用しないわ。なのに何よあの映画。  
 2時間も意味無くダラダラ続けて。お陰で少し寝すぎたくらいね。その分お金返してくれないかしら」  
 返すも何も、そもそもお前は電車賃以外、一銭の金も払っていない。  
 ハルヒは、朝方にぼんやり顔のシャミセンが見せるような大あくびをして、目元を軽く指で拭うと、  
「で、あんたは面白いと思ったの?」  
 と、フライドポテトをもさもさ食っていた俺に訊いてきた。  
 ほう。俺に意見を求めるのかね。珍しいこともあるもんだ。雨でも降らなきゃいいが。  
「んー……俺は、そんな悪く無かったと思うけどな」  
 俺は少々言葉を濁した。  
 なぜなら、俺はハルヒと違って自分の身の程を十二分にわきまえているからさ。  
 カマ言葉での解説もできずシベリアで超特急になることも無い俺が映画の批評をするなど、野球経験  
もないオッサンが野球中継見ながらピッチャーの配球に難癖つける事並におこがましい事じゃないか?  
俺達のような素人は、小学校低学年の通知表程度の評価区分を持っていれば上等だと思うぜ。まして、  
わざわざ結構な金と時間を費やして映画館に足を運んで見た映画に対して、やれ脚本がだのやれカメラ  
ワークだの重箱の隅をつつくようなマネす  
 
「そんなことはどうでもいいんだけどさ」  
 介入された。  
「あの程度の作品が流行るなんて、日本の映画文化荒廃も抜き差しならない所まで進んでるって事ね。  
 全くもって由々しき事態だわ」  
 ハルヒは、フェルマーの最終定理を解こうと悪戦苦闘する数学者のような神妙な面持ちになる。  
 いつも思うが、お前は一体何様のつもりなんだ。  
「キョン、あんた自分の本名は忘れてもいいけど、あたしの名前は覚えておきなさい。近い将来、  
 日本映画界に……いえ世界の映画史上に燦然と輝くビッグネームになるんだから! 見てなさい!  
 このあたしが日本映画再興の狼煙を上げてみせるわ!」  
 ずどどどどーん。  
 漫画ならこんな文字が、目に焔を燈したハルヒのバックで稲光とともに踊っていることだろう。  
 ずごごごごー。  
 そして、これは俺がウーロン茶を啜ってる音だ。  
 どうでもいいが、立ち上がるな。ほら、あそこのアベックに慌てて視線を外されたぞ。  
 ハルヒは無言で俺が親指で指し示した方を一瞥すると、大人しく席につきハンバーガーの包装紙を  
躾のなってない野良あがりの飼い犬のような手付きでビリビリ破り始めた。  
「まあそれはいいとして、結局のとこ、今日の映画は何の参考にもならなかったわけだな?」  
「まーね」と大口を開けてハンバーガーにかぶりつくハルヒ。  
 ったく、嬉しそうに言うなバカ。  
 この様子じゃ端から参考にしようという意志があったのかすら怪しいな。ファミレスで流行の映画  
を見て参考にするとか言ってた時には、ハルヒにしては殊勝な心がけだと思って感心していたのだが。  
ま、結局ハルヒはいつでもどこでもハルヒっていうことなのだろう。分りきっていた事じゃないか。  
 しかし、そうなると……まあ、なんだ。  
   
 ――何で、俺と映画を見に行こうと思ったんだろうな?  
 
 何となく、そこから先は考えない方がいいような気がして思考活動を強制終了した俺は、ポテトを  
一つまみずつ口に運びながら、ぼんやりハルヒの面を眺める。  
 ハルヒは恐るべきスピードでハンバーガーを平らげていた。円形のフォルムがみるみる半月になり、  
三日月になり、新月へと近づいていく。少しは味わって食え。俺の金で買ったんだぞ。  
 それに、そんなに焦って食わなくてもハンバーガーは逃げやしないっての。もうちょっと品のある  
食べ方をしてくれよ。それじゃ、うちの妹と大差ねぇぞ? 妹ならちっこいから笑って許せるが、  
結構な図体したお前がそんなことじゃ、一緒にいる俺まで恥ずかしくなるじゃねぇか。  
 ほら、頬にケチャップがついてるから――。  
 
「…………え?」  
 
 ……習慣と言うのは恐ろしい物だ。少し意識の手綱を緩めただけでひょっこり顔を出してくる。  
 そのことに気づいたのは、ハルヒの顔が瞬間冷凍されたイエティみたいに硬直していたからだった。  
 それまでは何気なくほぼ無意識のうちに手が動きファーストフード店の標準装備であるナプキンで  
ペースト状の赤い物体を拭う事だけを機械的に行っていたのだがその作業を終えて相手の顔全体が  
見えるよう視界をズームアウトしてまだその顔が完熟トマトのように赤くて拭いたばかりなのにと  
違和感を認識した時にはその大きく見開いていた瞳がいつもの妹のものじゃない事実に脳波がバブル  
崩壊直後の株価以上のブレを見せたに違いない程の動揺があったとか無かったとかでもうわけ分らん。  
 ……待て、冷静になれ俺。冷静さを失うのは堕落への第一歩だ。  
 そう、説明すれば分るはずだ。それまでに少し首を締められるくらいのことはあるかもしれないが、  
ハルヒとて俺を本気で絞め殺そうとすることはあるまい。説明用のセリフを考えよう。いつも妹に  
やってることだということを言えば納得するだろうか。よし、折角だから皮肉の一つも込めて――  
 がたんっ。  
 ハルヒは椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、反射的に身構えた俺を睨みつけると、  
「…………!」身を翻して化粧室に突撃していった。  
 
 なんだ。なんなんだ今のリアクションは。おい、古泉解説しろ……ってここにいないやん。代わりに  
古泉を真似て肩を竦めてみたが、無駄に長くて細かいのに核心がぼやけるセリフは俺の普通の脳みそ  
からは生まれてこなかった。キャラクターに合わないことはやるもんじゃないね。  
 仕方ないので、残っていたポテトを一本ずつカリカリ食い、その後ウーロン茶を啜ろうとしてもう  
無くなっていた事を吸ってから思い出し、さすがに間が持たなくなってきた頃、ハルヒが戻ってきた。  
 相変わらず怒った顔をしているが、もう立ち直ったのはさすがだと言っておこうか。  
 ドンッと腹立たしげに椅子に腰をかけたハルヒに、さっきし損ねた説明をしようと口を開いて、  
 
「付き合いなさい」  
 
 今度は俺が絶句した。なんだ。なんなんだどういう事態だこれは。説明しろ古泉。長門でもいい。  
朝比奈さんは……遠慮しておこう。説明下手そうだし的外れな気がする。いや、それはいいとして。  
 ハルヒは俺の顔を上目に睨みつけているが、その目は泳いでいる。微妙に視線を合せようとしない。  
両手はテーブルの下でコートの裾でも握っているようだ。これって、もしかして、本気で、いや――  
「……待てハルヒ。まずは落ち着け。ほら、この指が何本だかわかるか?」  
「うるさい。とにかく今日は映画に付き合ってあげたんだから、こっからはあたしに付き合いなさい。  
 言っとくけど、これはお願いじゃないわよ。団長としての命令だから! 拒否権は認めないから!」  
と、捲くし立てるように言うと、ハルヒは「ご意見無用」と言わんばかりの横顔を向け、腕を組む。  
 ……どうもハルヒの言いたいことは、俺の桃色脳細胞が暴走して弾き出した妄想とは違いそうだな。  
 というか、もう答えは出ている。後はそれを確認するだけだ。いろんな意味で脱力した俺は、  
「で、何に付き合えって言うんだ?」と訊く。  
「決まってるでしょ」  
 俺の方に向き直ったハルヒの表情には、既にいつもの五月晴れのような笑顔が戻っていた。  
 
「『不思議なことを探しに』よ!」  
 
 
 
「こんだけ大きな街なんだから、地球人に成りすました宇宙人とか、時空間移動したばかりの未来人  
 とか、一般人に紛れた超能力者がいる可能性は相対的に高いはずよ。まさに木を隠すなら森の中ね」  
 とは、その後街を散策中に、一人得心したように頷いたハルヒの言である。自分で立てた仮説に自分  
で同意しているなら世話は無いな。ま、それがハルヒらしさと言えばハルヒらしさかもしれないが。  
 しかし、幸いなことに。  
 エイリアンを籠に乗せたママチャリが空を飛ぶことも、殺人機械から未来人と一緒に逃げることも、  
超能力者同士が帝都をかけた戦いをすることも無く、街は普通の街として、安寧とそこにあり続けた。  
 というわけで――  
 
 デパートの正面玄関から出たハルヒは、今まで練り歩いていた鉄筋の建造物を恨めしげに見上げ、  
「あーもぅ! 何で何も出てこないのよ! 何のためこんなでっかい図体してんのよ!」  
「少なくとも、お前の理不尽な要求にこたえるためじゃないさ」  
「黙ってて! あんたには聞いてないでしょ!」  
 そうかい。  
 拒否権に続き発言権も剥奪された俺は、毛先を逆立てたハルヒから、ふと空へと視線を移す。  
 元々暗灰色だった曇り空は日没の時間を過ぎて、今や完全な漆黒の帳に覆われていた。  
 ちなみに、ファーストフード店を出て既に4時間を経過している。人波も少なくなってきた。  
 さすがに俺も、寒さが身に堪えてきた。冬場の活動はコタツ布団が届く範囲内と決めている俺には、  
これ以上の探索活動は命に関わる危険性があるような気がしなくも無い。  
 俺は正面に目を戻し、真新しい外壁にげしげしケンカキックをくれてやっているハルヒを、警備員に  
見つからないうちに羽交い絞めにして、速やかにその場から立ち去ることにした。  
「邪魔しないでよキョン! もしかしたらこの壁の向うに魔法学校へと続く秘密の入り口が――」  
 うるさい黙れ。下手したらホントにあるのかもしれなくなるじゃないか。……変な日本語だ。  
 
 いつの間にか俺達は、繁華街からは少し外れた怪しげな路地に足を踏み入れていた。道幅は俺達が肩  
を並べて歩いても十分な余裕があるはずなのに、周囲の高くのっぺりとした建物の圧迫感でそう感じる  
ことができないのは俺が小市民であるためか。俺は一人、「夜の大都会25時・繁栄の表と裏」なんて  
ありがちな特番のタイトルを一文字ずつ頭の中に浮かべ、そこはかとない不安に駆られてしまう。  
 一方、そんな俺の一メートルほど前では、古い街灯に照らされたアスファルトを、ハルヒがコートの  
ポケットに両手を入れたままずんずん踏みしめている。ある意味、心強い。こいつがついていれば、  
世の中の大抵の事は何とか出来るような気がしてくる。ただ問題は、ハルヒ自身が「大抵」では片付  
かないトラブルを嬉々として運んできてくれるって事だ。ぶっちゃけ、それが来る前に早く帰りたい。  
「ったく、キョンのせいで世紀の大発見のチャンスを逃しちゃったじゃないの」  
 俺のせいかよ。学生達の平穏なスクールライフを守ってやって、俺は寧ろ誇らしいぐらいなのだが。  
「ま、いいわ。次行くわよ次っ」  
 ハルヒは少しだけ首を捻り、横目で俺の方を一瞥すると、またもやを軽快に歩調を速めた。  
 何でコイツはこんなにクソ寒い中でも無暗に元気なんだろうな。もしかしたら体内で、重水素と  
トリチウムの原子核が四六時中おしくらまんじゅうでもして、膨大な熱量を無尽蔵に発生させている  
んじゃないか。だとしたら、お前のそのエネルギーはこんな非生産的な野外活動のためにではなく、  
もっとグローバルでエコロジカルな分野に費やすべきではないかと俺は焚き火にでもあたりながら  
無責任に主張したいね。  
 そして、俺は永久機関のようなお前と違い、人並みに有限なエネルギーしか持っていないのさ。  
「待てよハルヒ。今日はこれぐらいにしようぜ。もう陽もとっぷり暮れたことだしさ」  
 ぴたり。  
 ハルヒがいきなり両足を揃えて立ち止まる。  
 俺もハルヒにぶつからない程度に少しつんのめりながら、何とか止まった。  
 一呼吸置いて振り返ったハルヒは、時折点滅する街灯を背にしながら、ゆっくりと俺を見上げる。  
 白い頬に影が宿り、一瞬、俺は息を飲んだ。  
 そこに浮ぶのは随分昔に見た事があるような無感動な表情だった。……いつだっけ。  
 
 記憶を掘り起こそうと俺が頭のアナログ時計を猛スピードで半年ほど遡らせていた所、時間切れと  
ばかりに、その表情はいつものアヒル口になっていた。  
「何言ってるの。これからが本番じゃない。彼らは正体がばれないためここに住み着いたのよ。だから  
 闇に隠れて生きる彼らにとって活動時間は夜しかないわけ。なら探すのも夜間に決まってるでしょ」  
 じゃあこれまでの4時間は一体なんだったんだ。つーか、一体何時までここにいるつもりだ。  
 
「何か手がかりを見つけるまでよ!」  
   
 沈黙が辺りを支配した。恐らくこの街で、一番静かな空間、一番静かな瞬間だっただろう。  
 ハルヒが何を考えていたのかなんて俺にはさっぱりわからなかったが、その時の俺は、ハルヒの  
ワガママさに腹を立てるとか、計画性の無さに呆れるとかではなくて、ただ、何でそんなに必死に  
この街に居たがるのかを疑問に思っていた。  
 ……いや、本当は――  
 
 ぽつり。  
 
 頬に触れる冷たい感触に空を見上げた。  
 星一つ無い墨汁を塗ったくったような空から、雲の欠片が一つ二つ零れてくる。  
 やがて、それは数え切れないほどの友軍を引き連れて俺達の陣地へと降下してきた。  
 そこで初めて「ああ、雨だ」と認識した。  
「おい、ハルヒ。傘持ってるか?」  
「持ってるわけ無いでしょ。朝、あれだけ晴れてたのよ?」と相変わらずブスッとした表情のハルヒ。  
 俺もだ。となると、する事は一つしかないな。  
 何をしたか。  
 仲良く二人で、駅に向かって一目散に駆け出したのさ。  
 
 おかしい、と思い始めたのは、コートに染み込んだ雨の感触がセーター越しに感じられた頃だった。  
 秒単位で強くなる雨脚に対し、俺達は一向に駅に着く事が出来ず、それどころが元いた繁華街へも  
戻る事が出来ずに居る。胸の中でその輪郭を得つつある暗い予感を振り払うように、俺は叫んでいた。  
既に土砂降りと言っていいほどの状態で、目の前もろくすっぽ確認する事が出来ず、焦りと不安で自然と  
声も大きくなる。  
「ハルヒ! この道で合ってるのか!?」  
「知らないわよ! あんたこそ道覚えてないの!?」  
 ……やっぱり闇雲に散策していたということか。まあ、今更って感じだが。  
 足元に絡み付いてくる水溜まりを蹴散らしながら、しかし、とうとう着ていた衣類が全て濡れ鼠状態  
になって、このままじゃジリ貧だという結論に達した。冬場に濡れた服を着たまま走り回るなどまさに  
自殺行為に等しい。実際、俺の体は、脊髄の代わりにアイスノンでも突っ込まれたかのように悴んで  
その運動機能を著しく失ってきていた。足元もおぼつかない。本来、俺に保温機能を提供する防寒具に  
体温と同時になけなしの体力を奪われていく。今日ほど、人類が進化の過程で体毛を無くしたことを  
恨めしく思った事は無い。やばいな。本気で。  
 俺は、震える手を必死に伸ばし、隣で並んで走るハルヒの手を掴み、  
「どこかで……雨宿りし……」  
 思ったように言葉に出来ない。肺が萎縮しているのか、息の詰まりそうな声しか出なかった。  
 もしかしたら、雨音に掻き消されてハルヒの耳には届かなかったんじゃないかと不安になる。  
 だが、幸いなことに、ハルヒは俺の意図したところに気づいたようで、走りながらも辺りをキョロ  
キョロする気配を感じた。俺も必死に顔を上げて、雨粒のブラインドの先に雨宿りできそうなものを探す。  
 この際、あまり贅沢は言わないが、できれば、雨を避ける事が出来て、快適な室温を保っていて、  
シャワーか風呂でもついていて、乾燥機があって、ルームサービスでもあれば――。  
 ……いかん、マッチ売りの少女状態になってきたぞ……そんな都合のいい施設なんて……  
 
「あ」  
 
 無意識のうちに俺は立ち止まっていた。雨の散弾が降り注ぐ中、口を半開きにしたまま立ち尽くす。  
戦場だったら真っ先に死ぬような体勢だ。  
「ちょ、っと! いきなり立ち止まらないでよ! 転びそうだったじゃない!」  
 仲良く手を繋いでいた上官殿の怒鳴り声が聞こえ、壊れたブリキ人形の動きで首を捻りそちらを向く。  
憮然とした面を曇った視界に捉え、また俺はギリギリと頭を戻した。  
「……あ」  
 ハルヒも、同じものを見たようだ。  
 蜃気楼のような雨の中、俺達の頭のやや上の方で、蒼いネオンライトが「MERMAID」という  
アルファベットを浮び出している。その下にはコンクリートの塀に囲まれた入り口があり、正面では  
休憩と宿泊の区分に分けた白地の料金表が蛍光灯に照らし出されている。足元には淡い橙色の光が、  
通路を挟んで来客を待ちわびるように続き、その先には擦りガラスの自動ドアが控えていた。  
 あのー。これは。いわゆる一つの。ラブホテル、でしょうか。多分。ラブホテル、です。  
 立ち止まってしまって、二人で確認した以上、今更無視は出来ない。うわ。どうしよ。  
(A.「よしっ、入るぞ」と言って、自動ドアをくぐる。 )  
(B.「他を当たろう」と言って、もう一度走り始める。)  
 二つの選択肢が頭の中で浮び、その横で三角カーソルが点滅している。どっちを選択しても命懸けだ。  
 よく考えろ俺。ここは大一番だ。この選択を間違えると、俺は一生を棒に振ることになりかねない。  
 カーソルが目まぐるしい速度で上下を繰り返す。……止まらない。……まだ止まらない。  
 あーもう、なんと言うか。自分の優柔不断さ加減がつくづくイヤになるね。仕方ないけど。  
 俺がヤケクソになって、「神様の言うとおり」で決めちまおうかという決心を固めつつあった時、  
「……へっ?……ええええわわわわ!?」  
 俺の意志とは無関係に、俺の体は勝手に、そう何かに引っ張られるかのように、ラブホの入り口へと  
飛び込んでいた。と言うか、実際引っ張られていた。……何にって、ま、訊くまでも無いだろ?  
 この期に及んでも、まだ繋いでいたハルヒの手にさ。  
 
 入り口をくぐるとハルヒは漸く手を離し、その手で濡れた髪を拭いながら料金表とにらめっこする。  
丁度料金表の上には人二人が入れる程度の廂があり、それがそのまま自動ドアまで続いている。   
「……休憩3時間で4500円……宿泊で1万2000……あ、休日割増があるの? 結構高いのね。  
 キョン、お金の余裕ある?」  
 入る気満々かよ! しかも、金払う気無しかよ!  
「足りなかったら立て替えてあげるわ。じゃ、入るわよ」と、万引き少年を捕まえたコンビニ店長の  
動きで、俺の腕を掴み自動ドアへと向かおうとするハルヒ。  
 ちょちょちょちょっと待て!  
 使い古したTVゲームのコントローラーのように思い通りに動かない体で、慌てて何とかハルヒの  
手を振りほどくと、ハルヒは唇を水鳥型にしてご機嫌斜めを主張した。  
「何よ、お金なら心配しなくてもいいって言ってるじゃない。それとも何か別の問題でもあるの?」  
 ある。大ありだ。大ありなんだが……『お……お前はいいのか? ……その……俺と……で……』  
なんて、自分にコンプレックスを持つ恋する乙女のようなセリフを吐くのは御免蒙りたい。それでは  
まるで俺の方が意識しているみたいではないか。それで万が一、ハルヒの方に全くその気が無かったら、  
俺は正に進むことも戻ることも出来ずに舞台に立ち続ける一人夢芝居状態だ。  
 つーか、訝しげな表情で俺を見上げているハルヒを見ていると、純粋に雨宿りだけが目的のような  
気がしてくる。それに、俺の体力ゲージは既にレッドラインだ。これ以上この場に立ち尽くすことは  
状況を悪化させる以外の効果は期待できそうに無い。  
 よし。決めた。  
「……分った。入ろう」  
 くそ。声が上擦った。  
 だが、ハルヒは寒さのせいかと思ったのか特に何も言うことなく、俺の手首を引き自動ドアの正面に  
立った。空気振動のような音が響き、運命のドアが開く。もう……どうにでもなれ。  
 流されるのは、もう、死ぬほど慣れているのさ。  
 
                                          (続く)  
 

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