鏡の中にいる野郎が、間抜けな顔で大きな欠伸をしていた。まぁ、どう見たって長年連れ添ってきた俺以外何者でもないが。  
 顔を洗って、メシを食った後で部屋に戻る。窓の外は、やや薄暗く曇っていた。今日は昼過ぎから晴れてくると、見知らぬオッサンがテレビの中からこんにちはしてたし、有希とデートの最中は雨が降ったりとかそんなこともないだろう。  
 俺はクローゼットの中にある、少ない服の中からもっともマシだと思われるものを選び出した。ついでだからトランクスも、ほつれたりしてないマトモなものを選んでおく。  
 朝っぱらから、夜の間しか履いてないパンツを洗濯カゴに放り込むという怪しげな行為を済ませ、洗面所で最近はロクに使ってもいなかったワックスで髪をラフに仕上げてみる。  
 髪型をセットしてみたところで、いつもとなんら変わりないのはどういうことだろうね。  
 
「さて、行くか……」  
「あれー? キョンくんもう行くのー?」  
「ん? なんだよ」  
 妹はシャミセンの前足の下から抱えあげたまま、こっそり出ようとしていた俺に声をかけてくる。  
 まだパジャマ姿だから、ちょっと前に起き出してきたんだろう。シャミセンは不満そうに伸びながら金玉を揺らしている。数万分の一確率で生まれるオスの金玉か。  
 
「もしかしてデート? ねぇ、誰と?」  
「……違う」  
「わかった! みくるちゃんとデートだ!」  
 そんな嬉しい展開ではない。って、違うぞ俺。有希とデートできるんだから、これ以上幸せなこともない。  
「違うっつの。古泉と釣りだ。明日の夕方くらいには帰ってくるからな」  
 
 母さんを説得するために考えついた嘘を、妹に言うハメになるとは。  
 実は古泉は釣りマニアで、50センチのチヌを釣りあげたこともあるんだとか、親戚が経営してる釣り船でよく夜釣りに行くだとかむちゃくちゃな設定をデッチあげていた。  
 友達のいない古泉にしょっちゅう誘われていたが、さして釣りに興味が無かったので今まで断っていた。けど、あまりにしつこいものだから、一回くらいは行ってもいいだろうとか。  
 色々考えていたというのに母さんは、気をつけてね、とだけしか言わなかったが。  
 
「とりあえず、俺は行くからな」  
「あ、そーだ。お母さんがね、ハンカチとゴムくらい持っていきなさいって言ってた」  
「……」  
「ねーねーゴムって輪ゴム?」  
「ああそうだ。魚を釣ったら輪ゴムで縛っておくんだ。そしたら、魚が美味しくなるんだ」  
 
 ふーん、と関心している妹を背に、俺はちょびっと泣きそうになりながら家を出た。  
 
 
 約束の時間、ほぼ15分前。俺はあの公園に来ていた。有希は、ベンチに座ってじっとしている。寒くないんだろうか。  
 最近よく着ているダッフルコートで、すっぽりと頭まで覆っている。それじゃかわいい顔がよく見えないじゃないか。  
 
「よぉ、待ったか?」  
「……7分50秒待った」  
「そりゃ済まない。つっても、まだ約束の時間までちょっとあるけどな」  
 こいつなら、いくらでも時間に合わせて来れるというのに、わざわざ待ってくれるとはね。  
 いつもの無表情だが、なかなかにかわいらしいじゃないか。  
 
 
 昨日の夜中、いくつものシミュレーションを重ねまくった結果、とりあえず女の子が喜びそうな喫茶店で軽い昼食をとろうという考えに至っていた。  
 いつだったか、妹の友達と行った店が、なかなかにシャレていた覚えがある。ついでに買い物なんかにも出かければいいし、街には大きな本屋もあったはずだ。  
 
「とりあえず、軽くメシでも食うか? いい店知ってんだ」  
「いい」  
「それは、行ってもいいって意味か? それとも拒否するという意味か?」  
 いまいち判り辛い言い方をするヤツだ。  
 
「後者。つまり、わたしはそのお店に行きたいとは思わない」  
「……なんでまた?」  
 ちょっと意外だった。俺が言えば、ほいほい着いてくるんじゃないかと、そんな気がしていたから。  
 しかし、有希は別に気が弱いわけでもないし、嫌なことだったら嫌とは言うだろう。けど、そんなすぐ拒否するようなもんだろうか。  
 
「わたしは、図書館に行きたい」  
 
 有希らしいといえば、らしいのだろうが、初デートで行くところがそこか……。  
 もちろん、デートコースのシミュレーションの中でも、図書館という選択もあったが、あまりに色気が無かったので廃案にしたのだ。  
 せめて普通の人っぽいデートもしてみたかったのだが、そこらへんは仕方ないのかもしれない。  
 
「けど、それじゃ昼飯どうすんだ? 俺は腹減るし」  
「大丈夫。持ってきたから」  
 そう言って、有希がベンチに置いてあった包みを指差す。重箱でも入っているのか、高さが20センチ近いんだが。  
「わたしの、手作り」  
「よし、食わせろ。今すぐにだ」  
「ダメ」  
 手作り弁当だと? 俺が何十と考え付いた今日のデートシミュレーションも、有希の一言でアッサリ粉砕だ。もちろん良い方向に。  
 朝起きて、有希が俺のことを思いながら作ってくれたのだろう。やたらと量が多そうだが、そこらへんは愛の力でなんとかなる。  
 
「じゃあ、何処で食うんだ? まぁそんなに寒くはないが……」  
 空を覆っていた雲も、俺たちの愛の前に立ち去って今は輝く太陽が天井で煌いている。この分だと、ちょっと暑くなってくるんじゃないだろうな。  
「食べるのは、図書館の外の公園」  
「そんなとこあったっけか?」  
「ある」  
 
 有希があると言ったらあるんだろう。図書館の旧館なら、子どもの時によく行っていたが、新館のほうはよく知らない。  
 立ち上がった有希は、手に提げた包みを軽く揺らしながら歩き始めた。おいおい、俺を置いていく気か。  
 
 土曜ともなれば、図書館も随分と混んでいるらしく、というかガキどもがやかましいわけだが、随分と盛況な様子だった。  
 これが商売なら笹でも持ってきたくなるだろうが、どうにも市民への無料サービスだから司書のみなさんは大変だ。部室の蛍光灯も見習ってほしいばかりの明るさに満ちた館内で、有希は夢遊病患者のごとくふらふらと奥の書架のほうへと吸い込まれていった。  
 あのコート着てたら、相当暑いんじゃないかと思うんだが。  
 
 ジャンルごとに区別された書架の合間を縫って、俺は有希の後ろへ続く。中学生らしき女子生徒数人が、何かを読みながら談笑していたり、渋い顔をしたオッサンが歴史書か何かを読んでいる。  
 奥のほうまで来ると、ガキどもの姿も消えうせた。そりゃそうだろう、こっちには子ども向けの本はないし。  
 
 有希はふらふら歩いて、そして転んだ。何かに躓いたわけでもなく、まるでベッドがそこにあるから倒れるんだという感じの倒れ方だった。  
「お、おいっ、大丈夫か?!」  
「……へいき。それよりも……」  
 何事もなかったかのように起き上がった有希は、手に持っていた弁当の包みをじっと見つめていた。  
 その姿が、ネコパンチ並の鋭さで俺の胸を引っ掻く。  
「大丈夫だ、どんなに弁当の形が崩れても、有希の気持ちは崩れたりしないから」  
「そう」  
 あっさりとそれだけ言って、有希は書架に目を移した。おいおい、もうちょっと感動してくれてもいいんじゃないのかい? それもかわいいからいいんだけどさ。  
 
 
 まるで最初から借りる本を決めてあったかのように、有希は本を引き抜いていく。どれも分厚いのは趣味だろう。  
 貸し出し冊数の上限5冊を片手に抱えると、すたすたとカウンターへ向かっていく。そんなに読みたかった本なんだろうか。  
 俺も今度借りることにしよう。どれが面白かったか、有希に感想聞かなきゃな。  
 
 どうでもいいが、その本はそのまま持って帰るつもりなのか。  
 バッグか何か持ってくればいいのに。  
 
 
 
 カウンターで貸し出し手続きを終えた有希は、俺がついてくるのを確認するためか、一度振り向いた。  
 無表情で俺を見つめたまま、  
「……持ちにくい」  
 と、実に普通なことを言い出した。俺が100年かかっても解けないような数学の難問を一瞬で解けるだけの頭がありながら、抜けているのは何故だろう。  
「……俺が持ってやるよ」  
 有希が持っていた本を両手で抱えあげる。重いなおい。こんなもんを片手で持ってたのか。  
 
 図書館から出ると、ふっと肌寒い空気に頬を撫でられる。有希は図書館を出ると、道路沿いに歩き出した。  
 ほんの少し歩くと、図書館と同じ側にベンチが数脚置かれた公園があった。木が頭上にせり出していて、夏になればちょっとした避暑ができそうだ。  
 有希は設置されていた丸テーブルの上に、弁当の包みを置いた。遊園地か何かにありそうな、白い丸テーブルの中央には、パラソルでも差すためか穴が開いていた。  
 椅子に隣り合って座ると、有希は弁当の包みを開いて中の重箱を取り出した。って、やっぱり重箱だったか。  
 
 一度転んで落としたにも関わらず、特に弁当の中身が片寄っているということもなく、見た目は綺麗だった。  
 有希もちゃんと料理ができるんだな。まぁ有希に出来ないことがどれほどあるのかはわからないが。  
 
 卒業証書を入れる筒をミニサイズにしたようなものから、お絞りを取り出して俺にひとつ渡す。手を拭き終えると、割り箸を渡された。  
「さー、食うぞ。ガンガン食うぞ」  
「どうぞ」  
 弁当の内容はというと、丸々白米が詰まった下段と、唐揚げやミニトマトにエビフライや焼き鮭などが詰まった上段に分かれていた。  
 ひとくちサイズに切り分けられたトンカツの、濃厚なソースが食欲をそそる。  
 しかし、ひとつの弁当を二人で食べるとは、有希も随分思い切ったことをするな。普通、ご飯くらいは別にしようと思うものだろうに。  
 
 店で買った惣菜もかなり紛れ込んでいたが、全体で見れば有希の手作りには違いない。きっと、朝から用意してくれたのだろう。  
 俺のことを思いながら米を研いで、炊いてる間に鮭を焼いたりとか。  
 
「うん、美味いぞ」  
 味を褒める言葉というのは、何故こんなにも少ないのだろうね。  
「有希が作ってくれたんだからな。美味いに決まってる」  
 もくもくと食べ続けている有希に、俺は何度も声をかけた。反応は鈍かったが、きっと喜んでくれているだろう。  
 時折、食べている俺のほうをちらっと横目に見ている姿がキュートだ。  
 
 
 
 さて、恋人が一緒にお弁当を食べていれば、こういうことを期待しても不思議じゃないと思う。  
 そうだ。はい、あーん。とかいうヤツ。おそらく他人がやってたら、石のひとつやふたつやみっつかよっつかいつつくらい投げつけたくなる行為だが、是非ともやってみたい。  
 俺は有希の肩を軽く叩いてから、あーんと口を開けてみた。  
 
 有希は怪訝そうに俺の顔を見ていた。ほら、その箸で掴んでる唐揚げを俺の口に放り込むんだ!  
 なおも無感情に俺を見る有希。おいおい、こんな間抜けな面で固まってるのもなかなか恥ずかしいんだぞ。  
 ふっと有希は俺の首に手を回すと、ぽかーんと開けた俺の口に、自分の口を重ねてきた。  
 さらに舌まで割り込ませてきてくる。唐揚げのニンニク臭さが、有希の口内から伝わってきた。  
 ちゅぱ、と唾液が爆ぜる音が頭蓋で響く。  
   
 
「って、違うぞおい!」  
 突然の行為に、恥ずかしさがスティンガーミサイル並の勢いで打ち上がる。  
「……」  
「いや、別にキスするのが嫌っていうわけじゃなくてだな」  
「……」  
「ただ俺はその、あれだ」  
 そもそも、有希にこういう普通の恋人っぽいことを期待したのが間違いだったのだろうか。  
 はいあーんなんてシチュエーションを、有希が知っているとは思えない。少なくとも、有希が読んでいるSF本にはこんな記述なんかないだろう。  
   
「いや、なんでもない……」  
「……あなたが何を望んでいたのかわからない。聞かせて」  
「たいしたことじゃないんだ」  
「それでもいい」  
 いやに食い下がるな。有希はまるで実験動物の反応を見るような目つきで、俺をじっと見ていた。  
 そういや、俺も有希の観察対象にあたるんだっけか。今は関係ないだろうけど。  
 
「つまりだな、普通の恋人がこうやって一緒にお弁当を食べる。その時、女の子が箸で弁当のおかずを摘んで、男の口に運ぶんだ」  
「……それにはどういった意味が?」  
「いや、だから……。それくらい仲が良いってことだ。二人は仲良しなんだ」  
 言っていてわけがわからない。有希風に言うなら、上手く言語化できないといったところだ。  
 
「なら……」  
 そう言って、ヘタを取って半分に切られたプチトマトを箸で掴み、俺の口元へ寄せてくる。  
「食べて」  
「お、おう」  
 ひょいと口でそれを咥える。トマトの酸味が舌で踊った。  
「うん、美味いぞ」  
「そう」  
 有希は唐揚げをつまむと、また俺の口元へ運んだ。それも咥える。噛み締めている間に、有希はエビフライを口元へ持ってきた。  
 ちょっとペースが早くないか……。急いで唐揚げを喉の奥へ押し込んで、エビフライを咥える。憧れるシチュエーションだったが、これはこれで意外と食べにくい。  
 
 わんこそばのような勢いで、有希が次々と俺におかずを放り込む。そろそろ腹が苦しくなってきた。  
「いや、もういいって。有希も食べろよ」  
 有希の表情からは、満腹感はまったく量ることができない。こいつはこいつで、よく食べるからな。  
 箸を持ったまま固まっていた有希が、軽く口を開いて俺のほうへ向けた。およそ俺が見ている時の9割が閉じられている口が、俺に向けて軽く開かれていた。  
 
 思わずキスしてしまった。  
「違う」  
 怒られた。  
 

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