ベッドの上で寝転び、俺は天井を見上げていた。深い溜め息が何度も零れて、その度に目を閉じる。  
 目を閉じれば、すぐに有希の顔が浮かんでくるのだった。そして、有希の体をいいように弄んだ自分が思い出されてまた目を閉じる。  
 さっきからこんなことの繰り返しだった。  
 
 気晴らしにとかけておいたアルバムも、すでに演奏を終了して沈黙している。静かだからこそ、頭の中に色んなものが浮かんできてそれを抑えることができないでいた。  
 有希の体を性欲に任せて触りまくったというのに、有希は怒らずに、帰り際にキスまでしてくれた。  
 なんてかわいいヤツなんだ。  
 
 少しずつ俺にも心を開いてくれているのだろう。表情も増えたし、行動だって変わった。  
 望みを言ってくれるようになったし、かなりいい方向に進んでいると思う。だが、それに対して俺はどうなんだろう。  
 有希のために何かしてやれてるんだろうか。そもそも、有希のために俺が出来ることってのはなんだ。  
 
 
 サーキットの中を走るバイクのように、ぐるぐると思考は高速で巡っている。そのうちクラッシュしないか心配だ。  
「寝よう……」  
 自分の行為をわざわざ独り言で宣言してから、俺は部屋の明かりを落とした。  
 暗闇の中でも有希の顔が浮かんでは消えて、眠りに落ちるまでの間ずっと俺は重たい心を持て余していた。  
 
 
 
 
 
 翌日、昨日とはうってかわって寒々しい風が町を撫でていた。学校へ続く坂を登り終えて教室で一息ついても、汗が出てこない。  
 空は灰色に覆われていて、その灰色は地上まで降り注ぐようにして遠くの景色を霞ませていた。薄暗い外と、明るい教室の対比に現実感を根こそぎ奪われる。  
 溜め息だけがこぼれた。  
 
 授業もロクに聞かないまま、昼休みを知らせるチャイムでふと現実に立ち戻る。  
「あんたねぇ、あたしの前で溜め息ばっかりつかないでよ。こっちまで気が滅入るじゃない」  
「へいへい」  
 適当に生返事を繰り出しながら、教科書を机に仕舞い込む。  
「まったく、あたしだって忙しいんだからね。あんたに構ってる暇はないのよ」  
 だったら構うなよ。そう言いかけて口を噤んだ。またロクでもないことを考えてるんだろうかコイツは。  
 その後、いくつか俺に文句を言った後、ハルヒは教室を出て行った。  
 
 俺は弁当箱を手に提げると、教室を出た。谷口の声が後ろから届いたが、無視する。  
 有希は部室にいるんだろうか。  
   
 喧騒を外れて、誰も訪れないような部室棟へ向かう。  
 外は今にも雨が降り出しそうだ。灰色の重たさが空気を包んでいるような気がした。チクショウ、有希に会いに行こうってのに、なんだこの重たい感情は。  
 
 
 早足で部室の前まで来ると、一度だけ深呼吸をしてからドアをノックする。返事はなかった。  
 ドアノブを捻ってゆっくりと押し込むと、扉が開いた。鍵がかかっていないということは、誰かいるということか。  
 教室と違って、部室棟の日当たりは悪い。今日が曇りだというのもあって、部室の中は薄暗かった。  
 その中でいつものように本を読んでいる有希の姿が目に入った。  
 
 有希は一度こちらに視線を向け、俺の瞳をじっと見据えた。  
「よぉ」  
 無意味なほど明るく挨拶してみるが、返事はなかった。まぁ有希がよぅとかいって話しかけてきても、それはそれでビックリだが。  
 俺は部室に明かりを灯すと、いつも座っているパイプ椅子に腰掛けた。  
 
 母さんが作ってくれた弁当の包みを解いて、もくもくと食べ始める。  
 有希はいつものように本を読んでいた。重苦しかった外の灰色が、今はありがたかった。  
 外から隔絶されたようで、この世界に俺と有希しかいないんじゃないかと思えてしまう。もちろん、現実にはこの学校に沢山の生徒たちがいるわけで、そんなことはないんだが。  
 
 こういう静かな時間もいいものだと思いながら、俺は弁当を平らげた。  
「なぁ有希、お茶淹れてくれないか? お前が淹れてくれたのを飲みたい」  
「……わかった」  
 有希は読んでいた本をぱたりと閉じて、横の丸テーブルに置いた。立ち上がり、冷蔵庫の中にある汲み置きの水を、いつも朝比奈さんが使っているポットを使ってお湯を沸かす。  
 その間に有希がお茶の葉を急須の中に入れていた。朝比奈さんのように、わざわざ温度を測ったりとかそういったことはしないらしい。  
 
 しばらく待っていると、有希が俺の前に湯飲みを差し出してきた。  
「ありがとな」  
 有希は自分の分の湯飲みを持って、俺の隣に腰掛けた。本を読むのはやめたのだろうか。  
 ずずっとお茶を啜ってから、それとなく美味いと褒める。有希は無表情のまま、そう、とだけ言ったがまんざらでもなさそうだった。  
 
 有希は時折お茶を飲みながら、ほっと息をついていた。  
 
「なぁ有希……」  
 俺は隣に座る有希の横顔を覗き込んだ。幼い顔立ちだというのに、凛とした意思の強さみたいなものがあるせいで、大人びて見える。  
 
「昨日は済まなかった」  
「……なにについて謝っているのかわからない」  
「それはだな、風呂場で俺がお前の体を、その触りまくったりとかだな……」  
 こうやって口にしていると、段々自分の間抜けさが浮き上がってくるようで心苦しい。  
「いい。気にしていない」  
「いやでも、俺が気にするんだって。俺ばっかり有希に、その、俺がしたいようにしてさ」  
 有希がゆっくりと俺のほうを向き、じっと俺の顔を見つめた。  
 いつものように無表情だったが、場合が場合だけにその無表情が俺を責めているように見えてしまう。  
 
「それでだ、有希、お前は俺にしてほしいこととか無いのか? 俺に出来る範囲だったら、なんだってしてやる。なんか本が欲しいとか、美味いもの食いに行くとかそんなことだったら」  
 言いながら、自分で苦笑してしまう。これじゃただのご機嫌とりじゃないか。純粋な好意から出た言葉なんだろうかと疑ってしまう。  
 
「抱き締めてほしい」  
「は?」  
「わたしが望むのは、それだけだから」  
「え?」  
   
 なんだって?  
「抱き締めてほしい、って言ったのか?」  
「そう」  
「それだけでいいのか?」  
「いい」  
 淀みの無い短い返事。  
 
「ほんとにそんなことでいいのか?」  
「あなたにしてほしいことを訊かれて、わたしはその通りに答えた。それがわたしの望みだから」  
「あ、ああ……。わかった」  
 
 有希を立ち上がらせ、俺はぎこちなく抱きついた。  
 小さな体が俺の胸に収まる。鼻腔をくすぐる髪の匂い。有希の体温が服ごしに伝わってきて熱い。  
「な、なぁ本当にこんなことでいいのか?」  
「いい」  
 有希はじっと立ち尽くしているだけだった。本当に望んでいることが叶ったのなら、もう少し喜んでもいいと思うんだが。  
 そう思っていると、有希が腕を俺の背中に回してきた。小さな力だった。  
 子どもの背中を撫でるような優しい力で、俺の背中を抱いている。  
 
 血がかっと頭に昇ってきた。落ち着け俺。  
 このまま有希の体を押し倒したくなるが、そこは我慢だ。感動しながらも、俺は落ちつけ、と自分に言い聞かせた。  
 エサを目の前にして待てと言われている犬のような気分だ。  
 
 有希は俺の胸に頬を寄せたまま、じっと動かないでいた。  
 背中を撫でるくらいならいいよな? 溝の切れたレコードのように、落ち着けと繰り返している自分に問う。  
 そっと有希の背中を撫でる。そうしていると、今度はむらむらとしてくる。くそっ、俺はもっと冷静な人間だっただろう。  
 
 借りてきた猫のように大人しく抱かれている有希。宇宙一かわいい俺の恋人。  
 胸の中に熱いものが溢れる。  
 我慢できず、強く抱き寄せた。  
 
 このままキスでもしようと思った時だった。  
 きぃっ、と部室の扉が開く音。扉を開けたのは、ハルヒだった。  
 
 ハルヒは俺たちを見て、一瞬だけぽかんとしていたが、すぐに無表情になった。  
 つかつかと近寄ってくるハルヒを、俺は黙って見ていることしかできない。殴られた。  
 こいつ、なんの躊躇も無く拳で俺の鼻面を殴りやった。思わず鼻を抑えて後ずさる。  
 ったく、少しは手加減しやがれ。鼻血とか出てないだろうな。  
 
「ってぇなおい。いきなり何すんだお前!」  
 ハルヒは有希の体を、自分の後ろへ持ってくると俺の顔を睨みつけた。  
 こいつは無表情が一番恐ろしいな。おそらく、こいつに睨まれる回数と時間において世界一の俺がそう思うんだから、多分そうなんだろう。  
 
 ハルヒが何も言わないものだから、こっちも何を言ったらいいのかわからずにいた。  
 言い訳すりゃいいんだろうが、訊いてこないのだからどうしようもない。  
 まぁ何言ったところで、こいつの怒りが収まるのかどうかはわからないが。  
 
 
「何やってたのあんた?」  
 別にドスが利いてるわけでもない平調子で、ハルヒがそう言った。  
 さて、どう言えばいいんだろうね。  
 
「何って言われても説明に困るんだが」  
 じんじんと痛む鼻を抑える。よかった、鼻血は出ていない。  
 
「どういうことなのか、説明しなさいよ。返答次第じゃ、許さないんだから」  
「どうと言われてもなぁ……」  
 怒っているらしいハルヒとは対象的に、俺はいまいち感情が沸いて来なかった。  
 
 俺と有希が付き合っていることがバレたら、何か言ってくるだろうとは思っていたし。  
 もう少しの間は隠しとおせるだろうと思っていたのだがいやはや。  
 
「有希に何しようとしてたの? 無理矢理抱き付いて、襲おうとしてたんでしょ」  
「んなわけないだろ」  
 言っておいて、俺は襲ったも同然なことをしたことがあったのを思い出した。  
 
「じゃあなんなのよっ!! 説明しなさい!」  
 ハルヒが机を強く叩いた。少しずつヒートアップしているようだ。  
 
 何を説明すりゃいいんだ。俺たちが付き合ってることか?  
 ハルヒは俺への敵意を剥き出しにしている。槍のような視線が俺を貫いていた。  
 しかし何処から説明すればこいつは納得するんだろう。  
 
 そもそもの始まりは、部室で俺が有希にパンツが見たいだなんて言ったことだっけか。  
 あれ? そういや俺はなんであんな時間に部室に行ったんだっけか?  
 
「何よ、何も言えないの? そりゃそうよね、あんたは言えないようなことしてたんでしょ!!」  
 最後は声が引っくり返る寸前だった。キンと高い声が部室の中で硬い残響を残す。  
 びぃんと響いた後は、耳に突き刺さるような静けさだけが残った。  
 
 さて、どうしたもんかね。  
 今更言い訳を重ねたところで、ハルヒが納得するかどうかはわからない。  
 
 そんな中、有希がハルヒの後ろから抜け出て、こっちに歩いてくる。  
 有希はまるで何事も無かったかのように、いつもの窓際に移動すると椅子に座り、読みかけていた本を開いた。  
 あまりに清々しい行為に、俺もハルヒも絶句してしまう。俺なんか思わず笑ってしまいそうだ。  
 
 
「ちょ、ちょっと有希?! あんた、あんなことされといて怒ったりしないの?」  
 俺の脇をどかどかと足音を立てながら歩いていき、今度は怒りの矛先を有希に向けている。  
 
「わたしが転んだところを、彼が支えてくれただけ」  
「ッ! そ、そんなわけないでしょ。あたし、有希が転んだところなんて一回も見たことないし、こんな部室で転ぶわけないじゃない」  
 俺もそう思う。有希の説明はあまりにもお粗末だ。そもそも、有希が転ぶような地形というのが思いつかない。こいつなら、鵯越でさえも一気に駆け下れるだろう。  
 
「なんでこいつを庇うの有希ッ?! あんた、なんか脅されてるの?」  
 有希は目の前で喚いているハルヒも気にせず、黙って本を読んでいる。  
 それがハルヒの癪に障ったのかどうかは知らないが、ハルヒが有希の持っている本を取り上げて、テーブルの上に置いた。  
 視線を注ぐ対象が無くなった有希が、ようやくハルヒに視線を向ける。  
 
「もしなんか脅されてるんだったら、あたしが力になるし、あいつが何かしようとしたら、あたしが守ってあげるから!」  
 有希の両肩に手を置いて、ハルヒはそう言った。力強いセリフに、俺が感動を覚えてしまう。  
 こいつも、有希のことをちゃんと考えてくれているんだろう。  
 だが、何の感動もなかったらしい有希は、  
「その必要はない」  
 と、実に素っ気なかった。ハルヒがわずかにたじろぐ。  
「彼はわたしが転んだところを支えてくれただけ。ただ、それだけ」  
 有希がハルヒの瞳を見つめながらそれだけを言った。  
 
 ハルヒは何か言葉を探しているようだったが、結局何も出てこなかったらしい。  
 有希の肩に置いていた手を離すと、俺のほうへ向き直った。これ以上有希に何か言っても無駄だと思ったのだろう。  
 
「本当なの?」  
 俺が何言っても信用しないだろうと思われる表情で、ハルヒが問いかける。  
「ああそうだ。ただまぁ、長門がじっとしてたから、ちょっと抱き締めるような格好になってたけどな」  
 我ながら苦しい言い訳だ。案の定、ハルヒは疑わしげに俺を睨んでいた。  
   
「大体だな、俺が長門に抱きつこうとしても、長門はお前並の運動神経持ってるんだからひょいと逃げられるに決まってるだろ」  
「それは……、そうかもしれないけど」  
 どうやらこれには説得力もあったらしい。ハルヒが視線を落として、顎に手を添えている。  
「抱きつけたとしても、すぐ投げ飛ばされるのがオチだ。お前だって俺を投げ飛ばしただろうが」  
「はぁ? なんのことよ」   
「いや、なんでもない。例えばの話だ」  
 しまった。閉鎖空間で俺がやったことは夢だということになってるんだった。  
 
「ま、まぁあれだ。長門が抱きついてきたような形になったから、俺もちょっとドキドキして離れられなかったってのはあるけどな」  
「なによそれ。本気で言ってるの?」  
「そりゃ仕方ないだろ。大体、お前は何もかも勘違いして先走りすぎなんだよ。ちょっとは落ち着いてから行動に移せよ」  
「うるさいわね! なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ」  
 ハルヒが口角に泡を飛ばしながら俺のネクタイを掴んだ。結構本気で怒っているらしい。  
 まるで俺がハルヒと遇ってしまった頃のようだ。不機嫌の塊で、迂闊に触れようものなら敵意の針で刺されてしまいそうな。  
 
「……悪かったよ。俺も言いすぎた。ちょっと嫌なことが色々あってな。すまない」  
 両手を挙げて肩をすくめる。  
「ところで、なんであんたこんなとこでお弁当食べてたのよ。いつもは谷口たちと食べてるんじゃないの?」  
「ここのところ、谷口と喧嘩してるんだ。それでちょっと落ち着いて食える場所を探してここに来た。お前も見ただろ、谷口の不機嫌そうな顔」  
「そんなのいちいち見るわけないでしょ」  
 だと思った。興味が無いものはすべて盲点でしか捉えられないヤツだからな。  
   
「まぁ、原因は大したことじゃないからな。そのうちどうでもよくなって、元通りだ」  
「ふぅん。まぁどうでもいいわそんなの。とりあえず、あんた有希に何か変なことしようとしたら、あたしが許さないからね」  
「ああ、わかった」  
 
 ハルヒは俺のネクタイを離すと、一度髪をかきあげて奥の団長席へついた。PCの電源を投入している。  
 どうやらこいつで何かするために部室を訪れたらしい。  
 怒り心頭という様子だったハルヒだったが、突然溜め息をついたかと思うと、何度か暗い表情で有希のほうをちらりと伺っていた。  
   
「しかし、有希が転ぶとはねぇ。一体何に躓いたのかしら」  
「知るかよそんなもん。朝比奈さんなら何もないところで転んでも不思議じゃないんだけどな。俺の胸に飛び込んできてくれるんなら、いつでも転んでほしいもんだ」  
 軽い調子でそう言うと、突然ハルヒが何か投げてきた。すんでのところで飛んできた物体を避ける。  
 
「お、おいっ、なにすんだよ」  
「うっさい、邪魔だから出てけ」  
 これ以上何か言うと、余計怒り出しそうだ。俺はあからさまに大きな溜め息をついてから部室を後にした。  
 
 
 午後の授業になってからも、ハルヒの不機嫌オーラが背中をチリチリ焦がしていた。  
 話しかけてくることはなかったし、話しかけるつもりもなさそうだった。まったく、溜め息ばかりがこぼれていく。  
 よく考えれば、せっかく有希と二人きりでいたところを邪魔された挙句、わけのわからんキレ方までされてしまった。  
 俺にはなんの非もないはずだ。  
 
 ハルヒの不機嫌は、クラスの人間にも感じ取れたようで、休み時間になるとあちこちでハルヒに視線を注ぐクラスメイトの姿が見られた。  
 ついでに俺にも注目が集まっていたのはどういうわけだ。俺が何かしたと思われてるんじゃないだろうな。  
 
 放課後になると、俺はいつものように部室へ向かった。ノックの精神は忘れない。  
 中から朝比奈さんのかわいらしい声がしてから、ドアを開ける。有希はいつもと同じ席で、同じように本を読んでいる。  
 その姿を見ると、なんとなくほっとしてしまう。有希には、空間が落ち着ける力でもあるのかね。  
 
 いつもの席について、昼休みに持って帰るのを忘れていた弁当箱を鞄に仕舞う。まだ古泉とハルヒは来ていないようだ。  
 暇潰しの相手もいない俺は、何をするでもなく座ってぼうっっとしていた。  
 朝比奈さんがいつものようにお茶を俺の前に差し出してくれる。礼を言って受け取ろうとした時だった。  
 ふっと俺の耳元に朝比奈さんが唇を寄せているのだ。柔らかい髪と空気に戸惑って、つい距離を置こうとしてしまう。  
「キョンくんって、いつも長門さんのほうを見てますよね」  
 
 体を反らしたまま、朝比奈さんの顔を見ると、良い事が何回も訪れたかのように笑っていた。  
「そ、そうですか? 別にそんなこともないと思いますけど」  
「じゃあ、あたしの勘違いですね。すみません」  
 にこにこ笑っているけれど、その笑い方がいつもとは異なっているように見えた。  
 何が違うのかは俺にはわからなかったが、わからないからこそ違和感を覚える。気のせいだろう。  
 朝比奈さんの言葉で俺が驚いたせいか。  
 
 
 部室の扉が開き、ハルヒが現れる。古泉ではないことに、わずかに落胆した。そんな自分に驚く。  
 ハルヒは、敗残兵を連れて帰還した大将が静かに憤っているような表情でゆっくりとパソコンの前に座った。  
 朝比奈さんがお茶を出しても、なんの返事もなく、手もつけやしない。  
 
 古泉はまだ来ないのか。  
 ちょっと前まで落ち着く場所だった部室が、今だけは異様な空間のように思えてしまう。  
 ハルヒがマウスをクリックする音は、無意味なほどに大きく、それを無視して本を読んでいる有希、編み物をしている朝比奈さん。  
 俺は何もすることがない。この居心地の悪さはなんだ。  
 
 古泉の登場を待ちわびている自分に驚きながら、俺は手に持った湯飲みが冷えていくのを感じていた。  
   
 結局、古泉は現れることはなかった。  
 有希が本を閉じると、すべては終わったとばかりにハルヒが部室から出て行く。  
 着替えをしなければいけない朝比奈さんを残し、俺もさっさと帰ることにする。有希と一緒に帰りたかったが、また誰かに見つかってロクでもない目に遭うのはお断りだ。  
 後で有希の部屋に行こう。  
 
 有希の部屋を訪れると、有希はまた黙って俺にあがるよう促した。  
 気のせいか、有希が怒っているような気がする。いや、気のせいじゃないかもしれない。  
 いつものようにコタツ机の前に座り、対面に有希が腰掛ける。有希は無言で、非難するように俺の目を見ていた。  
 お茶も出してくれないらしい。有希は、悪ガキが悪行を告白するのを待っている女教師のように沈黙していた。  
 
「な、なぁ。何か言いたいことあるんだろ? じゃんじゃん言ってくれ」  
「……」  
 俺が何かしただろうか。  
 昼休みの部室では、抱き締めてほしいだなんてかわいいことを言ったというのに。  
 
「……上手く構成できない。複雑な要因が重なって、順序立てるのが困難」  
「お前にも苦手なことがあるんだな」  
「けれど、ひとつだけ確かなことがある。それは、わたしがあなたに対して怒りを覚えていること」  
 その理由を話してくれないと、どうしようもないんだが。  
「そして、怒りを感じているということ自体が……、差し出がましいことだと思う。あなたに非はないのだから」  
 
 有希が何を言いたいのかはよくわからなかった。ただ、有希は差し出がましいという単語を出すのを少しだけ躊躇った。  
 ある意味、これは人間関係の中でしか使われない言葉で、相手や自分の立場というものを認識していなければこんな単語は出てこない。  
 それは、つまり俺の感情を損ねたくないという有希の意思によって生まれた言葉だ。ちょっと前までの有希だったら、こんなことは言わないんじゃないだろうか。  
 
 
「俺は怒らない。有希が怒るんなら、それだけの理由があるんだろ。気づけない俺がバカなだけだから」  
 有希は再び沈黙した。時計の針が苛立たしげに音を立てている。  
 
「……わたしのことを有希と呼ばなかったこと、あなたが朝比奈みくるを抱き締めたいと言ったこと。それらが大きな要因」  
「そ、それはだな、ハルヒに俺たちが付き合ってるってことバレたくなかったのと、後は誤魔化すために言っただけで」  
「理解している。理解はしている」  
 有希はそう言って俯いた。  
 つまり、有希は俺が誤魔化すために言ったことを、それが嘘だと知っているのに気になって仕方が無い、と。  
 網膜が真っ赤に焼け上がりそうだ。有希は、感情を持て余しているだけだ。  
 
 
「有希、部室での続きだ。今度は俺の望みになるけど、聞いてくれ。お前を抱き締めたい」  
 膝立ちで、対面に据わる有希の元へ近づく。有希が、眠気に負けそうな人のようにゆっくりと頷いた。  
 
 
 有希のことを思うと胸が痛くて仕方なかった。互いの心臓がくっつくくらい強く有希の体を抱いた。  
 柔らかく潰れる有希の胸と、苦しげに吐き出された息が、気持ちを高ぶらせる。ああ、なんて可愛いんだ。  
 人の温かさは、代替できるものなんて無いんだろうな。風呂に入って気持ちいいのだって、あれに代わるものはないし。  
 
「有希、俺が愛してるのは有希だけだ。それだけは間違いない」  
 俺は有希の耳もとを唇でくすぐりながら、有希の背中を撫でた。有希はくすぐったそうに一度だけ身をよじらせて、俺の脇腹に手を置いている。  
「まぁ、いずれハルヒにも全部説明しなきゃな。あいつが怒ったら、俺がまず被害に遭うし。そこらへん、上手いことやってしまえば、俺と有希はいつでもどこでも仲良しだ。  
 一緒に弁当食べたっていいし、帰り道に手を繋いだりしたっていい。ひとつの肉まんを二人で分けたり、有希が本読んでる隣で俺が寝てたっていい」  
 
 段々と、幸せな気持ちが胸から広がっていった。朝まであった、あの暗鬱な気持ちは何処へやら。  
 有希を好きになってよかった。始まりはロマンチックとは程遠かったが、まぁこれからはそうじゃないさ。  
 二人でいろんなことをして、同じ時間を分けあおう。  
 
 名残惜しかったが、有希の体を離した。正面から有希の瞳を、鼻先が触れ合いそうな距離から見つめる。  
「明日は学校も休みだし、一緒に図書館に行かないか? ハルヒがいきなり何か言ってこなきゃ、大丈夫だろ。あいつが集まり開いても、クジをなんとかすれば二人きりだ」  
 有希が目を閉じて、唇を重ねてきた。答えはイエスでいいんだよな? そう問いかけるように唇で有希の舌を優しく噛んだ。  
 
 
 十分くらいは、キスしてたんじゃないかと思う。なんで飽きないんだろうと、不思議で仕方ない。  
「有希、名残惜しいけど、そろそろ帰るよ」  
 最近帰りが遅いことに、母さんが文句をつけてきてるからな。まさか好きな女の子のところに入り浸って、エッチなことばかりしてるだなんて言えるわけもない。  
 俺の言葉を聞いた有希は、悲しげにそう、とだけ言った。多分、悲しそうに見えたのは間違いなんかじゃなかったと思う。  
 
 最後とばかりにまたキスをする。軽く触れ合わせるだけのつもりだったが、有希が俺の首に手を回して離そうとしない。  
 つられるように、俺は舌の上に乗っていた唾液を有希の唇に塗りたくった。  
 このままじゃ、また襲いかかってしまいそうだ。それだけは避けたい。有希を俺の性欲の捌け口みたいに抱くのは嫌だ。  
 でももし、有希が喜んでくれるのなら? いや、毎日のように体を重ねるというのもやりすぎじゃないか。  
 
 葛藤している間にも、有希は俺の舌をしゃぶっていた。その幼い行為が、理性を破壊しようとしている。  
「有希、もうそろそろ……」  
 唇を離してそう言ってはみるが、すぐに有希の唇で言葉が堰きとめられる。  
 一日でいい。明日、有希がOKしてくれるなら、その時は裸で抱き合えばいい。有希の優しさに甘えて、ずるずると体を重ね続けることに対して、俺は強い警戒感を持っていた。  
 健全な高校生だというのに、一体なんでこんなことを考えてるんだろうな。  
 
 いずれ俺は、有希の優しさに甘え続けて、有希を困らせて、まるでハルヒのように、思い通りにならないとすぐ憤るようになって……。  
 有希以外のものはどうでもよくなって、人を傷つけても気づかない、考えもしなくなる。  
 そんな未来が俺の頭をよぎった。  
 
 
 
 有希の体を、お姫様だっこで持ち上げる。驚いた有希の顔を見ながら、俺は玄関へ向かった。  
「なぁ有希、明日はデートだ。待ち合わせはそこの公園でいいだろ。昼の11時に会おう。メシ食いに行って、午後から図書館でも本屋でも好きなところへ行こう。  
 夕方になったら、この部屋で一緒に夕飯を食べるんだ。それが終わったら、今日みたいにずっとキスしようぜ。朝までだって付き合ってやる」  
 そう言うと、抱きかかえられた有希が強く頷いた。思わず笑みがこぼれてしまう。  
 靴を履きながら、有希の体をそっとおろした。  
 
「じゃあな」  
「待って」  
 ほんの軽く、有希がキスをしてきた。昨日と同じ、別れの挨拶。  
「……また、明日」  
「ああ、明日だ」  
 
 
 

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