いきなりだが、「シュレーディンガーの猫」という名称のついた、とある科学の思想実験を
ご存知だろうか。
詳しい解説をするだけの知識は俺には無いのだが、簡単に言えばそれは箱に入れた猫の生存
確率について考えるという内容らしい。
科学の授業で教師からこの話を聞いた時、俺はこう思った。
もしシュレーディンガーの猫を箱から出した時、仮に猫が生きていたとしたなら……今後の
餌やトイレをどうするかといった問題が生まれ、動物愛護団体から苦情が来るのだろう。
逆に、不幸にも猫が死んでしまっていたならば、埋める場所の問題と、やはり動物愛護団体
から苦情が来るのだろう。
思想実験の趣旨からしても科学に興味を持って欲しい教師の意図からしても、この話に対し
てそんな現実的な事を考えて欲しかったのではないのは解ってはいる。
だが、今の俺にとってはその現実こそが問題なのだ。
何故なら俺は――シュレーディンガーの箱を開けてしまったのだから。
Love my cat
秋の深まりも既に最深部へと到達したらしく、雪が降らないだけで既に季節はもう冬なので
はないかと疑わざるをえない寒さが街を覆っていた――十一月最後の休日の事だった。
誰に頼まれてもいやしないのに、その日も当たり前の行われたSOS団恒例不思議探索は、
文字通り無事、つまりは何の収穫も無く終わりを迎え。
「じゃあ、本日はこれで解散!」
成果が無かったにしては妙に機嫌が良かったハルヒの号令により、俺達はそれぞれ家路を急
いでいた……のだが、俺は現在、ついさっき解散したばかりの駅前の広場へと向かって自転車
を走らせている最中だったりする。
何故かって? それはだな、
「……あっ。キョンくん」
駐輪場に自転車を止めた俺に向けられる天使の微笑み。そう、誰あろう朝比奈さんによるメ
ールで呼び出されたからである。
広場から送られるその蕩けそうな視線に、彼女の元へと辿り着いた時にはもう七割ほど蕩け
てしまっていたんじゃないだろうか。
目元がどうにも緩みそうになるが、まずは謝罪だ。
「すみません、遅くなりました」
朝比奈さんからのメールが届いたのは約二十分前。俺がそれに気づいてここに戻るまでの時
間を考えると、朝比奈さんは既にこの寒さの中で三十分ほど待たされている事になる。
頭を下げる俺に
「いえ、そんな。あたしこそ急に呼び出しちゃってごめんなさい」
まるで自分が加害者みたいに謝る朝比奈さんだったが、とりあえず聞かねばなるまい。
「それで……また何かあったんですか?」
俺を呼び出した理由、まあ……大体の予想はついてるんだけどな。
「え?」
あ、いやほら。朝比奈さんが俺を呼び出すとなれば
「またハルヒ関係で何かあるんですか?」
これまでの経験則で言えば、どちらかといえば愛らしい天使でしかない朝比奈さんの副業で
ある未来に関わる何かで呼ばれたと考えるべきだろう。
これは気にしなくてもいい事なのかもしれないが、朝比奈さんは未来に関わる事で俺に何か
を頼む事に抵抗というか……その、申し訳ないといった感情が先に立つ様だし、ここは一つ俺
から聞いてあげようと思ったのだが……。
ゆるゆると朝比奈さんは首を横に振り、
「今日は違うの。あの、えっとね? 呼び出した後にこんな事を言うのはどうかなって自分で
も思うんですけど……」
何やら言葉を選んでいるらしい、悩ましげな朝比奈さんのお姿で目の保養をしていると、
「……キョンくん。この後、何か予定ってありますか?」
え?
「あの、もし何も無かったらなんですけど……一緒に、その……一緒に何処かへ、遊びに行き
ませんか? ……なんて」
いよいよ俺の脳はやばいらしい、まだ目は覚めてるはずなのに幻聴が聞こえ始めたぞ。
とりあえず、自分の耳を引っ張ってみる。……寒いせいかやけに痛い。
ついでに叩いてみる、衝撃と鈍い音が接触回線で脳内に反響。よし、正常動作を確認。
とまあ、エラーチェックとデフラグに忙しかった俺を
「……」
朝比奈さんは何かを待つような目で見上げていて……って、え、今の……まさか?
無意味に周囲を見回して、近くを歩いていた人に奇異の視線を向けられた頃になってようや
くこれが現実なのだと気づいた時、遅ればせながら俺の心臓はその鼓動のサイクルを高め始め
ていた。
思考停止。
概念として聞いた事はあるものの、実際に体験するのはこれが始めてで間違いない状況に陥
っていた俺を動かしたのは
「だめ……ですか?」
掌に収まりそうな子猫を連想させる、朝比奈さんの切なげなお顔だった。
「大丈夫です! あの、今日の予定とかぶっちゃけ丸っきり覚えてませんが、朝比奈さんのお
誘いは俺的最優先事項で間違いないので問題ないです。はい」
後先考えずに俺がこう答えたのは、もはや規定事項である。
もし、仮に何か予定があって俺がそれを忘れていた事を悔やむとしても、だ。
「ありがとう……よかったぁ」
今の貴女の微笑みだけで十分にお釣りがきます。いえ、それどころか利息で家が建ちます。
以前、彼女が俺に教えてくれた話によれば……朝比奈さんはこの世界の人とはデート、又
はそれに類する行為をしてはいけないらしい。
それなのに何故、今日はハルヒに関する用事でも無いのにこんなお誘いをしてくれたのか。
「……あの、どうかしましたか?」
見上げる視線に混じる、可愛らしい疑問符。
「いえ、何も」
その疑問を聞いてしまうほど、俺は愚かで野暮ではなかった。
過去の類似事例を考えればすぐに解る事だろ? 物語のヒロインの謎に関わる部分を詮索す
れば、結果としてそれは悲劇を招く事になる。グリムが絵本を通して読者に伝えたかったのは、
多分そういう事なんじゃないだろうかね。
既に日は落ち、今は太陽の変わりに街路灯が照らす歩道を、俺と朝比奈さんは当てもなく二
人で歩いていた。
ちなみにそうしたいと言ったのは朝比奈さんで、その真意は不明。不明でいいのである。
冷え切った大気は体温を奪うだけの不快な物でしかないはずなのだが、
「……」
俺の腕にそっと添えられた朝比奈さんの手、彼女の手が俺に触れている理由がこの寒さだと
考えれば、全くもって深いなどではない。むしろ、シベリア寒気団にもっと頑張れとエールを
送ってやりたいくらいだぜ。
とまあ、かるく本気で地球温暖化を憎んでしまった俺だったが、
「っくしゅん!」
コートの袖に隠れて朝比奈さんがくしゃみをした途端、掌を返して温暖化頑張れ! と心の
中で叫んだのは言うまでも無い。
「あの、俺のコートも着ますか? それともどこかに入りましょうか」
自分のコートを脱ごうとする俺を慌てて止めながら、
「ありがとう。でも、大丈夫ですから」
そうは言いますが、貴女の顔は鼻を中心に薄っすらと赤くなっていて、それはそれで可愛く
てたまりませんというかなんというか。
すぐ隣をのんびりと歩く朝比奈さんを、もう建前とかどうでもいいからこのまま抱きしめて
しまおうかとかなり本気で考えつつ、僅かに残った理性で俺は寒さを凌げそうな場所がないか
目で探してみた。
周囲に立ち並ぶのはオフィスビルばかり……か。ビルの入り口に立ってる警備員に事情を話
しても、ビルの中には入れてくれないだろう。俺が警備員だったら迷う事無く入れるんだが。
ファミレスでも喫茶店でも何でもいいから何かないか、そう思いながら辺りを見回している
と――不意に、何かが俺の胸元に触れた。
それが朝比奈さんの手で、胸元に添える様に出された手と一緒に彼女の身体が俺の目の前に
あって、つまりは一方的にとはいえ彼女と抱き合っているといっても過言ではない状況に、今
の自分があると……え、これやっぱり夢?
気が付いたらまた自分の部屋でベットの上から落ちてるのか?
例えそうであるにしろ、少しでもこの夢が長引いてくれと、今まで信じた事もない神に本気
で祈っていた時、
「……暖かい」
朝比奈さんの声が自分の身体を通じて聞こえてきた瞬間、色々と壊れてしまった気がする。
理性とか常識とかこれまでの関係とか、今まで大事にしてきた物が一気に色褪せて……気が
付けば俺は、朝比奈さんの身体を抱きしめていた。
コート越しに感じる華奢な感触、その奥から押し返される至高の柔らかさ。今だけでもいい、
この人を自分の物だけにしたいと思った誰を責められよう。
――正直に言えば、それは俺の本心というか本音だった。欲しい物は欲しい、人間は欲望で
出来ているのだから。
でも、俺じゃこの人とは釣り合うはずがない。それに、仮にロマンスの神様が気紛れを起こ
して奇跡が起きたとしても、絶対に超えられない「時間」という名の壁が、俺と朝比奈さんと
の間にはある。
そんな現実が存在する事も、悲しい事に心の何処かで解っていたんだ。
車道を走る車のライトが何度も通り過ぎた頃、
「……急にこんな事して、ごめんなさい」
朝比奈さんは俺の腕の中で、照れ笑いを浮かべながらそう言った。
可愛かった、すんげー可愛かった。
俺がこれまでに見てきた朝比奈さんの中でも、それは最高の笑顔で間違い無かったね。もち
ろん脳内フォルダに名前を付けて保存もした。
でも、その微笑を前に不思議と心は冷静になっていて、
「朝比奈さん。あの……今日は、どうしたんですか?」
形だけは笑顔を浮かべつつ、馬鹿な俺は絵本の主人公がする自分が不幸になる質問をしてし
まった。
少しだけ、解った気がする。物語の主人公がどうして不幸な結果を自分から選んでしまうの
か。あれはきっと、幸せすぎる状態が崩れる事が怖がってしまうからなんだと、俺は思う。
朝比奈さんは少し困った顔をした後。
「……今日は、もうちょっとだけキョンくんと一緒に居たかったんです」
その言葉を信じてあげたくて、俺はまた笑顔を作った。
でも……すみません。
本当は俺、知ってるんです。朝比奈さんは嘘をつく時、時々視線を下に向けてしまうって事。
まるで、何かから逃げてるみたいに。
ハルヒに対してバレバレな嘘をつくとき、彼女はいつもそうしていた。
子供っぽいその癖は、大人の朝比奈さんにも言える事で……。
「……」
沈黙を守る俺から俯く振りをして――そっと視線を落とした彼女を見た時、それまで幸福で
しかなかった胸に、小さく痛みが走った気がして――不意に、自分の口から出ていた言葉。
言うつもりなんて無かったはずの言葉。
……間がさしてしまった、としか言いようが無い。
「朝比奈さん。俺……以前、古泉から聞いた事があるんです」
「え?」
「朝比奈さんが俺好みの外見なのは、実は未来の人が俺に取り入る為なんだって」
いくらなんでもおかしいですよね、そんなのって。
そう続けるつもりだった。「そんな事ないです」と、否定して欲しかった。
だが、現実って奴は思っていた以上に厳しいものだったらしく、
「なっ何で古泉君がそれをっ……ぁ」
朝比奈さんの顔に浮かんだ表情……最後まで聞かなくても解ってしまった。
行動へと繋がる経緯は不明なままなのに、先に与えられた真実。
結果俺の顔に浮かんだのは、笑顔とは呼べない苦笑いだった。
「あのっ! あ……あの!」
いえ、いいんです。その……。
「朝比奈さんは、悪くないです」
意図しない内に抱きしめていた手は、また意図しない内に外れていて、離れた事で失ったの
は温もりだけではなかった気がした。
……まるで、胸に鉛の塊を埋め込んだ様な不快感。それが自分の不用意な発言のせいなんだ
って事は解ってるつもりなんだが。
「……ごめん、なさい……」
「謝らないで下さい。その、気にしてませんから」
部室の天使である朝比奈さんは未来人である。
彼女がここに居る理由、それはハルヒを監視する為。つまり、彼女は仕事の為にここに居る
だけのこと。
他の誰でもない、それを打ち明けられたはずの俺がそれを都合よく忘れてたって……ただ、
それだけの事ですから。
「……キョンくん、あの!」
今はただ、彼女の声が、顔が、視線が、痛い。
「すみません、本当。俺変な事言って。……ごめんなさい!」
慌てて頭を下げ、そのまま後ろを向いて走り出していた。
行き先なんて何処へでもいい、今はとにかく彼女から離れたい。
風の音に混じって、背後から何度か名前を呼ばれた気がしたが……今だけは幻聴だという事
にした。
――翌朝、というか深夜を過ぎて自宅に帰りついた時にはもう、自分がやってしまった事が
どれ程馬鹿げた事なのか気づいていた。
仲がいいと思っていた友達が、実は仕事で仲良くしていてくれただけ――よくよく考えるま
でもなく、この件に関して朝比奈さんに非など無い。勝手にそれを本当の好意だと俺が勘違い
していただけの話だ。もし自分が逆の立場であれば、色々と言いたい事も言えないで友人付き
合いをさせられたら相当のストレスだろう。
それに、こんな事はわざわざ本人に確認するまでもなく、ちょっと考えればすぐに解る事だ
ったんだ。ハルヒに対する朝比奈さんの怯えた様な態度、あれが彼女の仕事故の行動だとする
なら、その周辺に居る人間にも仕事として付き合っていると考えるのが普通だ。
それに気づいたくらいで、まるで自分が傷ついたみたいな態度を取っちまった俺が全面的に
悪い。むしろ、気づいていながら平然としていた古泉の方が大人の対応なんだろう。
何て言って謝ればいいんだ……これ。
月曜日の朝、いつになく憂鬱な気分で学校へと辿り着いた俺は、自分の下駄箱の中に小さな
封筒が入っているのを見つけた。
宛名は無し、本文は――ん?
昼休み。
吹奏楽部の部室でもある、音楽室の横の防音室。
音楽の授業中か放課後でもなければ静まり返っているその場所は、防音加工が必要なのかと
思うほどに静まり返っていた。
ノックをしても意味がない、か。
分厚い扉を前に上げていた手を下ろし、ノブを引くと――誰も居ない、か。
探すまでも無く、部屋の中は整頓されていて無人である事は一目で解った。
『お昼休みに防音室まで来てくれませんか?』
一見すると朝比奈さんであろう字で書かれていたこの手紙が、誰かの悪質な悪戯という可能
性は否定できないが……まあ、待ってみるしかないだろう。
壁際にあった椅子の一つに座りつつ、俺は差出人が現れるのを待つ事にした。
窓が無いせいで照明をつけているのに薄暗く感じる室内は無音で、壁にかかった時計の針の
音だけが響く事無く耳に聞こえてくる。
それから十数分が過ぎ、退屈だから携帯で何かしていようかと考え始めた頃、廊下への扉が
開き始め
「……あっキョンくん?」
窓すらない分厚い扉の向こうから姿を見せたのは、今日も愛らしい朝比奈さんのお姿だった
んだが……
「ど、どうも」
変に意識しちまってるせいで、いつもみたいに喋れなかった自分が少し疎ましい。
朝比奈さんの視線が、壁にかかった時計、自分の腕時計、そして俺の顔へと慌しく移動を繰
り返した後、
「えっ? あ、あの。もしかして、お昼ご飯、食べないで来てくれたんですか?」
え? ええ、まあ。
時間指定が昼休みってだけだったので、遅れないようにって思って。
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げる朝比奈さんの後ろで扉がしまり、廊下から入り込んでいた小さな喧騒が
閉め出され、部屋の中には再び静寂だけが残った。
……。
何となく、居心地の悪い沈黙。
用件を聞く前に先に謝ってしまおう。
「昨日は、その」
「本当にごめんなさいっ! あの、謝っても許してなんか貰えないと思うんですけど、でもど
うしてもキョンくんにはそう言いたくて」
あ、いや、その。
二度三度と繰り返し下げられる朝比奈さんの小さな頭に、続けて言おうとしていた言葉を忘
れてしまった俺は呆然としていて
「キョンくんは、いつだってわたしに優しくしてくれて……ずっと、ずっと守ってくれてたの
に、こんな…………こんな、う、裏切るみたいな事を……」
「あ、朝比奈さん?」
俯いた彼女の声に涙が混じっているのに気づいて、慌てて俺は彼女の言葉を遮った。
「いやほら、全然気にしてませんから。本当。それに朝比奈は悪くないって事くらいちゃんと
解ってますし、それが仕事でも仲良くしてもらえただけで、俺としては十分に幸せすぎるって
言うか」
顔を上げた朝比奈さんの目に光る物が、俺を更に焦らせる。
な、何かまずい事言ったのか? 俺。
「ちゃんと朝比奈さんが未来人だって事解ってますから、ね? お仕事じゃ仕方ないですよ」
だから、昨日の事は忘れて……まあ、もしそれが出来ないのであれば全部保留って事にして、
これまで通りの関係でいましょう。
これが最善の選択肢、そう俺は思っていたのだが。
「……キョン……くん。ふ、ふぇぇ」
俺が言い終えた後、彼女の目に溢れていく涙は加速度を増してしまい、ついには決壊した涙
腺から涙が零れ始めてしまうのだった。
あ、いや……その。
かつて我が家の愛猫が人の言葉を喋っていた時の妄言じゃないが、言語による意思疎通の不
便さを思い知った気がする。
いったい彼女は俺に何を望んでいるのか。
その時の俺は、本気でそれが知りたかった。
――放課後の部室。
普段よりも早く部室を訪れた俺は、何時もの様に古泉相手に、机上で無益な争いを繰り広げ
ていた。
部室には俺以外に長門と古泉の姿しかなく、メイド服が残されたままって事はどうやら朝比
奈さんはまだ来ていない様だ。
さて、いったいどんな顔で彼女と顔を合わせればいいのか……。今日ほどここに来るのが憂
鬱だった事は無い。
「今日は、何だか元気が無いみたいですね」
ん、そうか? ……まあ月曜だしな。
週の初めから元気な奴なんてそうは居ないだろ。せいぜいハルヒと谷口くらいだ。
曖昧な返答を返す俺をじっと見ていた古泉の口から、
「……ああ、そうそう。昨日の事何ですが」
続いて出てきた言葉に、俺は動揺を隠しきれていたかどうか自信が無い。
下手に喋らない方がいい、そう思って黙っていると
「機関として貴方にお礼を言わせて下さい」
礼だと?
「ええ。昨日の不思議探索で、貴方は涼宮さんとペアになったでしょう?」
クジの結果そうだったが。
「お二人がどこで何をされていたのかは詮索しませんが、結果だけで言えば涼宮さんの精神状
態はこれまでに観測された事の無いレベルで安定し、現在もそれは続いています。正直な所、
ここ最近の涼宮さんは多少退屈されていた様ですので……機関として何かすべきなのか、それ
とも刺激しない方がいいのかと、上層部では連日連夜議論が絶えなかったんです」
「……何ていうか、他にやる事が無いのかよ。お前の上司ってのは」
「結果として、我々は危険な賭けに出る事も無く目的を達成できた訳です。ここはお礼の一つ
でも差し上げるべきなのでしょうが、生憎と僕の権限では何も出来ませんので、感謝の言葉で
それに代えさせて下さい」
お前に何か貰っても嬉しくねえよ。何か裏があるんじゃないかって不安になるだけだ。
「ごもっとも、ですね」
営業スマイルを崩さないまま、古泉は机上に凡庸な手を続けていく。
時々考える事がある。これはこいつの最善手なのか、それとも相手が俺だから手加減してい
るのか。
それは聞くまでも無いというか、聞いた所で信じるだけの確証がない事なんだが……。
「……なあ、古泉」
「はい」
既に大局は決していて、後は適当に王を追い詰めるだけの消化試合に入っていた盤上の駒達
を眺めつつ、
「お前って、機関の人間としてここに居るんだよな」
ふと、そんな事を聞いていた。
「どうしたんですか? 急に」
別に。ただ何となく確認しておきたかっただけさ。
クラスの女子が見れば歓声でもあげそうな、お決まりの営業スマイルを作った後、
「そうですね……涼宮さんによって連れて来られた事がきっかけではありますが、貴方の仰る
通り、僕は古泉一樹という一個人としてではなく、機関の一員としてこの場所に居るといった
方が正しいでしょう」
古泉は台本でも読むかの様にそう言い切った。
「だろうな」
そうだろうなとは思ってたよ。
「ですが、それが全てだと言い切れるほど、僕は仕事熱心ではありませんよ」
おいおい。
「正義の味方がそれじゃ困るな」
顔を上げて半眼で睨んでやると、古泉は苦笑いを浮かべつつ
「ええ、確かに。ただ……涼宮さんや貴方。長門さんや朝比奈さんと、ただの友人として接し
たいと思っているのも嘘ではありません」
俺と長門を順に眺めながらそう言った。
あのなあ、古泉。
「個人である前に機関の一員だとか言った後に、そんな事を言われて信じられると思うか?」
それも含めて演技だって思うのが普通だと思うぞ。
どう考えても笑う所では無いと思うのだが、古泉は肩を震わせて笑みを見せつつ、
「さあ、どうでしょうね。僕としては互いの背景を理解した上で、そこに新たな関係を築く事
は出来ると思うのですが」
新たな関係ねぇ……。
溜息で返答は濁したが、古泉が言う事は不可能な話ではない、それは経験則で解っている。
「……」
今も無言のまま、会話に参加する素振りも見せないで読書を続けている長門。あいつとの関
係は、ある意味自分が宇宙人だと打ち明けられたあの日から始まったんだと思う。
古泉にしろ朝比奈さんにしろ、それは同じはずだ。きっと。
一向にまとまろうとしない思考に捕らわれていると、
「――ちょ、ちょっとみくるちゃん? どうしたのよその顔」
廊下に響いたハルヒの声に続いて、
「あ……涼宮さん」
落ち込んだ様子の朝比奈さんの声が聞こえてきた。
「まるで泣きはらしたみたいに真っ赤じゃない。何かあったの? 誰かに虐められたとか?
もしそうならあたしに言いなさい? 生まれて来た事を後悔するくらい仕返ししてあげるから」
「えっ? あ、あの違うんです?」
何となく、廊下がある壁の方を見たくなくて、俺は既に日が落ちつつあった窓の外へと視線
を逃がしてやった。
「……朝比奈さんと何かあったんですか?」
無駄に鋭い古泉の問いかけは、まあ無視しても良かったんだが。
「いーや。何も無い」
適当に返した返事は、やけに自分の耳に残るはめになった。
……そう、元々何も無かったんだよな。
翌朝、再び下駄箱の中に入っていた手紙。
それは前日と殆ど同じ内容だったのだが、違う場所が一つだけ。
『お昼休みに、ご飯を食べてから防音室まで来てくれませんか?』
また差出人は書いてなかったが、朝比奈さんで間違いないな。これは。
指示された通り弁当を胃に詰め込んでから、気乗りはしないものの指定された防音室へと向
かうと、
「き、昨日は取り乱しちゃってごめんなさい!」
扉を開けた先で待っていた朝比奈さんは、俺の顔を見るなり頭を下げてそう謝るのだった。
いや、そんな謝らないでください。
「俺の方こそ、変な事言っちゃったみたいで」
――あれから色々考えてはみたものの、結局何が原因で朝比奈さんを泣かせてしまったのか
は謎なままなんですけどね。
特に気にしないまま扉を閉めた途端、廊下から聞こえていた喧騒が遮断され、今更なんだが
自分が朝比奈さんと個室で二人っきりになっている事を意識してしまう。
鍵は開けたままになってるにしても……なあ。ここはやっぱり、少しだけでも扉を開けてお
いた方がいいんだろうか? 健全な高校生関係的に。閉まったままの扉を見ながら、そんな事
を考えていると、
「あの……もう、だめ……なんでしょうか」
え?
「わたしと一緒に居るのは、もう……嫌ですか?」
落ち込んだ様子の朝比奈さんを前に、俺は務めて明るい口調で口を開いた。
「まさか。そんな事あるはずないですよ。朝比奈さんの考え過ぎです。ああそれと、朝比奈さ
んの仕事で必要な事なら、俺で出来る事ならこれまで通りちゃんと協力します」
だから、何も心配しなくていいんですよ。
「キョンくん……」
「もし、他のみんなには言えないハルヒの事とか仕事での愚痴とかあったらいつでも言って下
さいね。もちろん、誰にも秘密にしますから」
朝比奈さんの良き理解者でありたい、全てはそう思っての発言だった。
そして、それこそが朝比奈さんが俺に望んでいる事なのだと思っていたんだが……。
「あ……朝比奈、さん?」
昨日と同様。俺が喋れば喋るだけ、朝比奈さんの顔は悲しげに曇るだけだった。
どうかしたんですか? あ、もしかして体調が悪いとか。
朝比奈さんは顔を伏せたまま首を横に振った。
「……違うんです……そうじゃないんです……ごめんなさい、本当にごめんなさい」
そう呟いた後、朝比奈さんはふらふらとした足取りで部屋から出ようと歩き始め――部屋の
入り口の側に立っていた俺の横を通り過ぎ、扉に手をかけた所で立ち止まった。
ここで俺が何か言うと、また朝比奈さんを傷つけてしまうのではと思えて何も言えないでい
ると、静かな室内に朝比奈さんがすすり泣く声が数回響いた。
そして、急にその場で振り向いた彼女は何も言わないまま俺に向かって走りよってきて――
気づけば彼女の身体は、俺の胸の中に収まっていた。
胸元に添えられた小さな手が俺のシャツを握っていて、その手から伝わってくる震え。
見上げる彼女の目には、大粒の涙が既に溢れてしまっていた。
「あの、俺また何か変な事を言っちゃったんなら謝り」
「何でも……します」
流れる涙を拭おうともしないまま、縋る様な目で彼女は俺の言葉を遮る。
「何でもします。だから、だから……許してください」
スピーカーから響き始めた昼休みの終わりを告げる予鈴が響く中、彼女は俺を抱きとめたま
まそう呟くのだった。
今日はもう、授業が始まっちゃいますから。
そう言い残し、朝比奈さんは俺を残し一人部屋を出て行った。
……はぁ……解らん。まるで理解できない。
今になって考えてみても、俺が言った事は朝比奈さんの希望に沿っているとしか思えないの
に、何でまた朝比奈さんを悲しませてしまう事になっちまったのか……。
ここまでくると、男は火星人で女は金星人なんだと思って付き合えってのは意外と大袈裟で
はないのかもしれん。
迷宮入りが確定してしまった悩みを前に一人溜息を付いていた俺だったのだが、
「何でも……します」
つい数分前、胸元で囁かれたその言葉が、延々と頭の中でリピートされていた。
……とりあえず、授業だな。これ以上ここで一人で居たら自分が何を考え始めるか解らん。
廊下へ出て扉を閉めようとした時、俺は明日もまたこの部屋を訪れる事になる気がした。
いや、そうであって欲しいと心のどこかで期待しているんだと思う。
ついさっき俺に抱きついていた朝比奈さんの感触、じっと俺を見る彼女の目、いきなりの事
だったからさっきはされるがままだったが……再び同じ状況に置かれたら、俺は冷静でいられ
るのだろうか。
そんな事を考えつつ自分の教室へと向かって歩いていた時、階段の踊り場に差し掛かった所
で、俺は廊下の向こうで立ったまま俺を見ている生徒が居るのに気づいた。
見覚えの無いその生徒は、もうすぐ授業だってのにじっと俺の方を見つめている。
最初は吹奏楽部の部員か何かが、部室から出てきた部外者である俺を見て不審に思ってるの
かと思ったんだが、
「……」
そいつが、何処かで見た覚えのある営業スマイルを浮かべて立ち去っていくのを見て、俺は
思い出していた。俺と朝比奈さんの関係がギクシャクしてしまった元凶、映画の撮影中に古泉
が俺に言った「朝比奈さんは俺を篭絡する為に、か弱い少女を演じている」という。聞きたく
もなかったあの話。
あの話の中で古泉は、俺の知らない水面下とやらでは、数々の勢力が人知れず争っているの
だと言った。
そして、その一つに自分達も含まれているのだと。
さて……いったい俺はどうするべきなんだろうな。これはある意味運命の分岐点、というか
かなり大きな選択肢だと思う。
その日の夜――早々と寝る準備を終えた俺はベットに寝転び、自分の中で膨らみ続ける妄想
に対して延々と自問自答を繰り返していた。
悪いが、妄想の内容については黙秘させてくれ。今はまだその段階じゃないんだ。
仮に、全てが俺の予想通りでこの計画が成功したならば……俺には絶対に手に入れる事が出
来なかったはずの物が手に入る事になる。
しかし失敗すれば、これまで手にしてきた物を間違いなく全て失ってしまうだろう。
もちろん、賭けに出ないって手も残されてはいる。
……普段の俺なら、そもそもこんな勝負に出る事なんて考えもしないんだろうな。
平凡で平穏こそが望ましい、他ならぬ俺自身がそう望んできたんだから。
今でもそれは変わらないはずなのに、一向に消えようとしないどころか、時間が経つにつれ
て大きくなっていくこの感情は――多分。
俺はベットに寝転んだまま携帯に手を伸ばし、深夜だと解っていたが電話をかけていた。
――もし、繋がらなかったら。
そう考えるまでもなく電話は繋がった。
「はい、古泉です」
「……やけに出るのが早いな」
殆どワンコール、電話が掛かってくると解っていたとしか思えない速さなんだが。
「たまたま携帯を持っていたので」
そうかい。
「……なあ、古泉」
「はい」
「俺と取引をする気はあるか」
「取引……ですか?」
ああ。
「貴方から僕にそんな提案をするなんて驚きですね」
待て。
「その割には声が全然驚いてない様だが」
「いえいえ、本当に驚いていますよ? これぞ正に、驚天動地ですね」
……顔を見ずに済む電話にして正解だったな。
「長電話の趣味は無いから手短に済ますぞ。俺がお前に頼みたいのは――」
「すみません。出来れば何処かで直接会って話せませんか? この会話は盗聴されている可能
性を否定できません」
さらりと怖い事を言うな。
「まあいいから聞け、俺の頼みってのは簡単だ。……見て見ぬ振りをしろ、出来るなら見ない
ようにしろ。以上だ」
俺の現状を知らなければ、この言い方で全てが解る奴なんて居ないだろう……それに、もし
古泉に何の心当たりも無いのなら「何の事か解らない」と聞くはずだ。
数秒間の沈黙の後、携帯電話から聞こえてきたのは
「それで……僕はどんな対価を頂けるんです?」
全てを解っていると言いたげな、いつもの自信に満ちた古泉の返答だった。
「お前に一つ頼み事を聞いて貰ったって事実だけじゃ不満か」
――今度の沈黙は、さっきより短かった。
「申し分の無い条件ですね。解りました、商談成立です。ああ、それと……僕に取引を持ちか
けてくれたお礼と言っては何ですが、貴方が動きやすい様にこちらでもいくつか手を打ってお
きましょう。あくまで内密に……ね」
おい待て。
「こっちにはもう他に払える物は無いぞ」
お前が何を考えてるのかは知らんが、無い袖は振りようが無い。
「いえいえ。あくまでこちらがサービスでする事ですので、どうぞお気になさらないで下さい」
やれやれ……俺はハルヒと違ってただより怖いものは無いって思ってるんだがな。
早速準備に取り掛かりますので――そう言って古泉は電話を切った。こんな時間にいったい
何をするつもりなのか……ま、考えるだけ無駄か。
通話を終えた携帯を机の上に置き、再び天井を見上げる。
古泉にあんな曖昧な言い方で話をしたのには三つ理由があった。一つは誰かに聞かれている
かもしれないから。まあ、これは古泉が盗聴だとか言い出したから思いついただけだが。
もう一つの理由は、さっきも言った古泉が何も知らなかった場合の為。さっきのあいつの口
振りからしてその可能性は低そうだ。
そして最後の一つは「あれは冗談だ」と言って計画を止めにするという選択肢を残しておく
為だった。臆病者でもチキンでも、好きに呼んでくれて構わない。自分でもそう思っている。
人事は尽くした……後は明日を待つだけ。
夜が明けるのが待ち遠しいのか、そうではないのか、自分でもよく解らなかった。
――翌日、やはり下駄箱に入っていた手紙。もう内容は言わなくても解るだろう。
やれやれ……計画は順調に進んでいるってのに、気分は一向に晴れそうに無い。むしろ悪く
なっていく一方だ。
胸ポケットに簡単に収まったその小さなその手紙が、今日はやけに重い。
完全犯罪を企む犯人ってのはこんな気分なんだろうかね。経験者にはなれそうにないから解
らんが。
あまりに順調すぎるから何か邪魔でも入ればいいのに――そんな事を考えていたのが原因だ
ったのだろうか。
「来月に実施される生徒会選挙だが、その準備に各クラスから作業員を出す事になった。人員
は既に決められているから、各自、昼休みが終わる前にこのプリントに書かれた場所へ遅れな
い様に行ってくれ。午後の授業は作業が終わってから出ればいい」
神様はどうにも捻くれているらしく、まともに俺の願いを聞いてくれる気はないらしい。
HRの後に貼りだされたA4紙、そこには各部活の部室の名前が作業場所として列記されて
いて……防音室の横に、俺の名前があった。
タイミングといい場所といい、いくらなんでもこれが偶然なはずがない。
思ってたとおり、この前廊下で俺を見ていた生徒は機関って連中の関係者で、古泉は全てを
知ってるって事だろうな。
これがあいつの言ってたサービスって奴だとすると……まあいい、後で何か厄介事を頼まれ
そうな気もするが、今は素直に感謝しておくとしよう。
その後――何事も無く授業は進み、何事も無く正午を向かえてしまい、何事も無く弁当を食
い終えた俺は、防音室の前まで辿り着いていた。
閉まったままになっているこの扉の向こうで、恐らく朝比奈さんは既に待っているのだろう。
それは……やはり仕事の為なのか、それとも違う別の理由があるのか。
扉のノブに手をかけたまま、誰も居ない廊下の奥へと視線を向ける。
そこには誰の姿も見えない。
ここが最後のチャンスだと思いますよ?
心の中でそう問いかけて暫く待ってみたが「彼女」が姿を現す事は無く――俺は、溜息と共
に扉を開いた。
「……キョン、くん……」
どうも。
どうやら、かなり前から朝比奈さんは俺を待っていたらしい。
部屋の隅に置いてあった椅子に座っていた彼女は、俺の姿を見るなり立ち上がって……顔を
伏せてしまった。
既に泣き終えた後らしく、彼女の目は赤く染まっている。
いつもの俺であれば、そんな彼女の姿を見れば平常心を維持できるはずもないのだが
「それで、用件って何ですか」
あえて感情の無い声で、俺は朝比奈さんにそう聞いていた。
「……な、何度も呼び出してしまってごめんなさい……」
「別にそれはいいですよ。用件さえ聞かせてもらえれば」
まるで、俺の退屈そうな声に質量があるみたいに、返答を聞いた朝比奈さんの身体は震えて
いた。
怯えているのか……それともこれも演技なのか、中々話を始めようとしない彼女から視線を
逸らし、壁に掛かった時計を確認していると
「あ、あのっ! あの……わたしの事、許してもらえないでしょうか」
焦るような響きの朝比奈さんの声が、響く事無く消える。
許すも何も……ねぇ。
「何度も言いましたけど、俺は朝比奈さんが何か悪い事をしたなんて思ってないですから。古
泉にしろ長門にしろ、俺以外はみんな仕事で来てるんです。気にしないでください」
職業に貴賎はありません、胸を張っていいんですよ。
予想していた通り、彼女の顔は俺の言葉で暗く曇っていった。
「……あの……ぅっ……こ、こんな事を今更言われたって……信じてなんかもらえないと思う
ん、です、けど……」
ついには涙が混じり始めた朝比奈さんの声、
「キョンくんは……キョンくんはわたしにとって……仕事とは関係なく、大切な……本当に大
切な友達なんです。本当なんです……信じて、下さい」
哀願する彼女はとても愛らしく、むしろ飾り物の様にすら感じられる。
大粒の涙に遮られながら伝わってきた言葉に、俺は声を出さずに笑った。
「今のも、仕事だからですよね」
お仕事ご苦労様です。
「ちっ! 違いますっ! そんな……」
彼女の目に浮かんでいるのは驚愕……というより失望だと思ったのは考えすぎだろうか。
俺はわざと肩をすくめて見せて、
「朝比奈さんの言葉をそのまま信じてあげたいって、俺も思ってます……でも、それは無理で
しょう」
適当な足取りで彼女に近寄りながら、俺は言葉を続けた。
「貴女の仕事の一つは、俺を篭絡する事なんですよね? だったら、今のも仕事の内だと思い
ますよ、普通」
朝比奈さんに「大切な友達」だなんて言われたら、男子なら誰だって篭絡されます。
実際、俺もされてましたしね。
「キョンくん……じゃあっ、わたし、どうしたら……」
――目の前に辿り着いた俺を見上げる朝比奈さんは、今俺が考えている事をそのまま打ち明
けたらどんな顔をするんだろう。
軽蔑しますか? それとも、声を上げて逃げ出しますか。
試してみたい気もするが、それよりも今は違う欲求が勝っている。
喉を鳴らしながら泣いていた彼女の頭に、そっと俺は手を乗せた。
緩やかなカーブを描く彼女の前髪が、小さく揺れる。
「あ……」
許します。何て言うと思いましたか?
「朝比奈さん」
「は、はいっ」
「朝比奈さんは、俺にどうして欲しいんですか? 許して欲しいって言われても、そもそも俺
は貴女の事を責めてるつもりは無いんです」
彼女の顔に戻っていた笑顔は、一瞬陰ったが
「あ……あの。前みたいに、仲良くして貰えたら……わたしの仕事とか未来の事とかじゃなく、
その……」
うまく言葉に出来ないのか、彼女は焦った顔で俺を見ている。
「一人の女性として、って事ですか?」
「は、はい!」
なるほど、よく解りました。
「じゃあ、一つだけ約束して下さい」
「約束、ですか?」
ええ。
じっと俺を見つめる彼女の瞳を見つめつつ、告げる。
「言えない事は言わなくていいですから、俺に嘘をつかないで欲しいんです」
よく考えてから返答した方がいいですよ? と、俺が心で忠告する中、
「はいっ! 約束します!」
あっさりと彼女は頷いてしまった。
なんていうか、やっぱり朝比奈さんは朝比奈さん何ですね……としか言いようが無い。
笑顔を作った俺に朝比奈さんは微笑み……そっと伸ばした俺の手が、彼女の頬に触れ
「あ……あの」
戸惑う彼女の頬を軽く掴み、まずはその感触を味わう事にした。
ふにゃん。
朝比奈さんの頬はつるつるとした感触で柔らかいのに弾力があるというか、まるで新しく作
られた新素材みたいな触っていて飽きない感触だった。
「い、いひゃ……いひゃいれす……」
摘まれるままになっていた彼女は、歪んでいるのに可愛らしいとしか言いようの無い顔で俺
に苦情を言うのだった。
ま、頬はこれくらいでいいか。
摘んでいた手を離し、開放された事に朝比奈さんがほっと息を付く中――俺はそのまま手を
下ろして朝比奈さんの胸に触れようとしたのだが、
「あ、あの? 何を……するんですか?」
その手は彼女の手によって今度は阻まれてしまった。
俺を見る訝しげな目。
何って、そりゃあもちろん
「触ろうかと思って」
「どっどこをですか?」
見れば解りませんか。
「朝比奈さんのおっぱいですけど」
とりあえずは。
「えええっ?!」
払いのけてもいいのに、朝比奈さんは俺の手を掴んだまま目を丸くして慌てている。
今は考える時間をあげない方が良いいだろう。
「朝比奈さんは、俺に一人の女性として見て欲しいんですよね?」
さっきそう聞いた覚えがあるんですが、違いますか?
「そ、それは……こ、こういう事じゃなくて……その」
真っ赤な顔で口篭る彼女に聞こえる様、わざと大きな溜息を一つついた後、
「朝比奈さん。昨日、何でもするって言ったの……あれは仕事だからだったんですか? それ
とも、その場凌ぎの嘘ですか?」
予め用意しておいたその言葉を告げた。
……正直、少しも罪悪感を感じなかった自分に驚いてたね。残念ながら、思っていたよりも
俺は善人って奴ではなかったらしい。
「ちっ違います!」
「じゃあ、この手を離してくれますよね?」
「……」
軽く摘む程度の力しか残っていなかった彼女の手は、やがておずおずと離れて行った。
本人の許可も得た事だし……さて。
夢の中でしか触れた事の無かった朝比奈さんの胸に、俺はそっと上から手を添えた。
数枚の被服を介して、至上の柔らかさが俺の手に伝わる。
「……」
まだ軽く手を乗せただけだが、朝比奈さんはじっと俺の手を見つめて怯えていた。
その姿を見ていて……ハルヒが朝比奈さんを虐めたがる理由が、少し理解してしまった気が
する。これは癖になりそうだ。
あくまでそっと、形を確かめるように緩やかな湾曲にそって手を這わせ、下部から持ち上げ
るように押上げてみると、ずしりとした重量感が掌に伝わってくる。
……何キロあるんだ?
同量の宝石より価値のあるその重みを楽しんでいると、そっと目を開いていた朝比奈さんと
目があった。
「……」
彼女の目を見る限り、そこにはもう怯えは感じられない。かといって怒っているのでもなく、
どちらかといえば困惑といった感じで、今も俺の挙動をじっと見守っているだけだ。
彼女と目を合わせたまま、その柔らかな膨らみに指を食い込ませると、掌の面積からすると
明らかにオーバーサイズのそれは力を入れる度に面白い様にその形を変えた。
制服とブラジャーらしき感触の向こうから感じるその柔らかさに、密かに自分の下半身に篭
っていた熱がリミットを迎えたのが解る。正直な所、この場で二三度擦り立ててやれば自分の
下着を汚していただろう。
昨日の夜と今朝に弾倉を空にしてなかったら、既に暴発していた可能性は高い。
しっかし、まさか俺が始めて触るおっぱいが朝比奈さんのだとはねぇ……世の中何が起こる
か解らないな。
「いっ…………あの、ちょっと……痛いです」
途切れがちな苦情も無視して、俺はいずれミス太陽系代表へと選ばれるであろう彼女の胸を
思う存分揉みまくっていた。
指で押せばどこまでも沈むのに、あっと言う間に戻ってくる。その大きさも素晴らしいが、
弾力もまた凄いとしか言いようが無い。至高の感触に満足しつつも、服の上からではなくこの
胸を直接触ってみたいと思うのは男のサガ……まあ、それはまだ先にとっておくとして、だ。
先端部にあるはずの突起については、残念ながらブラジャーによってその位置は特定出来な
いが……でもまあ、多分この辺なのだろうと思われる場所を、グラビア雑誌の知識を頼りに指
でなぞっていると、
「…………」
気づけば朝比奈さんの苦情は止まっていて、彼女はじっと目を伏せてしまっていた。
諦め、とは違う表情をした彼女は、今はその愛らしい唇を小さく開き、細かな息を不規則に
繰り返している。
それは俺の指の動きに連動していて……試しにそれまで撫でていた部分を強く抓ってみると、
「ひぅっ!」
目を閉じたまま、彼女は小さく体を震わせた。もう一度、今度はさっきより少しだけ弱く抓
ってみると、
「……」
今度は声は出さなかったが、逃げようともせずに朝比奈さんはじっとしているだけでいる。
朝比奈さん? そんな風に目を閉じているとですね、俺がこんな悪戯をしても気づけないん
ですよ。
彼女の瞼を気にしつつ、俺は朝比奈さんのスカートへと片手を伸ばしてみたのだが……そう
だな、ここはやはりこうした方がいいんだろう。
あえてその手を止め、豊か過ぎる胸からも手を離し、俺は彼女から離れてさっきまで朝比奈
さんが座っていた椅子の上へ座った。
「朝比奈さん、ここまで来てください」
ようやく目を開いた彼女は、言われるまま俺の前へと歩いてきて
「……」
じっと次の言葉を待っている。
椅子に座った今、俺の正面には呼吸に合わせて上下する朝比奈さんの胸があり、ついさっき
まで自分の欲望のままになっていたその部分を、俺は暫くの間眺めていた。
手を伸ばせば届く距離にそれはあったのだが、
「……」
あえて今は見るだけにしておいた。
――自分でも意外なんだが、実際に相手に触れる事よりも、こうして朝比奈さんを意のまま
にする事が楽しくて仕方が無かった。
それは、汚してはいけない存在を貶める背徳感……って奴なのだろうか。
自分の中で天使とまで思っていた人にこんな事をしているんだから、それは強ち間違いでも
ないのかもしれない。
何も言わず、じっと朝比奈さんの胸を見ていると……彼女に小さな変化が起きている事に気
づいた。
さっきまでは俯いてただ恥ずかしそうだった朝比奈さんだが、今は何故か潤んだ目で俺を見
つめていて、小さく開いたままの口から時折、吐息が漏れる音が聞こえてくる。
その目は何を言いたいんですか?
俺は自分の口元が緩むのを隠そうともせず、彼女の目を見ながら
「自分でスカートをたくしあげて貰えますか?」
次の指示を下した。
躊躇うような素振りの後、彼女は静かに頷き
「……はい」
小さな呟きの様な返答の後、彼女の両手がスカートの端をそっと掴む。
その手がゆるゆると上がっていく間も、
「…………」
朝比奈さんは俺の顔をじっと見つめていて、そこには戸惑いとは違う表情が浮かんでいた。
これまでずっと見たいと思っていて、叶わなかった朝比奈さんの秘密の場所。数秒後、純白
の下着が俺の目の前に現れた。
レースで縁取られた小さな布切れ、この生地の奥を想像して自分を慰めた経験のある男子生
徒の数はどれ程になるだろうか。
もちろん、その中に俺の名前が常連として含まれているのは言うまでも無い。
「朝比奈さん」
「……はい」
「今、恥ずかしいですか」
当たり前だとは思うが、あえて聞いてみる。
すると、
「は……恥ずかしい、です」
そう答えながらも、彼女は下着を隠そうとはしなかった。俺の言葉を愚直に守り、自分の下
着姿を晒して立っている。
俺の視線を意識しながら、じっと。
自分の口角が上がるのを感じつつ、
「もう少し、上にたくし上げて下さい」
そう注文をつけながらも、俺の視線は彼女の顔に向けられたままになっていた。
「……はい」
愚直に俺の指示を守る彼女の口から、零れる息――その息よりも熱そうな視線が、じっと俺
に向けられている。
「次は何をすればいいんですか?」
自分に都合のいい解釈でしかないが、俺には彼女の目がそう言っている気がした。
そんなに焦らないで、もう少し楽しませてください。
余裕と共に朝比奈さんの下着姿を楽しんでいると――無音だった防音室の中に、スピーカー
から予鈴の音が聞こえてきた。
「あっ……」
スピーカーと俺の顔とを交互に気にしている朝比奈さんとは違い、古泉の配慮とやらの御蔭
で俺は時間を気にする必要は無い。
朝比奈さんだって、恐らくは授業のエスケープを問題にしない程度の工作は出来るだろう。
俺の予想があっているのか、朝比奈さんは困った様な顔でこちらを見るだけで、部屋を出て
行こうとはしないでいる。
さて……と。
俺は椅子から立ち上がり、スカートを持ったままで止まっていた朝比奈さんの手を握った。
「……」
何かを期待するような視線を感じる。多分、それは間違いじゃない。
それが解っていたのに……いや、解っていたからこそだな。
「じゃ、明日もまたこの時間に」
朝比奈さんの手からスカートを外し、俺はあっさりとそう告げた。
やがて、予鈴の音が途切れ、再び沈黙が部屋に訪れる。
その時、彼女の顔に浮かんでいたのは安堵でも不満でも無く、
「…………はい、わかりました」
頷きながらそう呟いた彼女の顔を、俺は前にも見た事があったんだ。
これで良かった……いや、これでいいんですよね? 朝比奈さん。
朝比奈さんと別れ、誰も歩いていない授業中の校舎を一人歩きながら、俺は暫くその姿を見
ていない大人の朝比奈さんの事を考えていた。
彼女が俺と始めてあったあの部室、彼女はそこで自分の星型の黒子の話をフライングで教え
てくれたり、部室の中を懐かしんだり、白雪姫というヒントをくれた。
俺の妄想のきっかけはそれだ。
言うなればこれは、強くてニューゲーム。
――教室へ向かっていたはずの足はいつの間にか寄り道をしていたらしく、気づけば俺は部
室棟の階段を上っていた。
当然ながら無人の階段を上り、やがて見えてくる見慣れた部室の扉。
そう、俺はここで大人の朝比奈さんと始めて会ったんだ。
彼女は未来から来た人――通俗的な言い方をすれば未来人であり、これから起きる出来事を
知っている存在。
その知識は万能って訳じゃ無いんだろうが……少なくとも、自分の記憶に関してはある程度
正確なはずだ。
『キョンくん……久しぶり』
顔中に喜色を浮かべて駆け寄ってきた彼女。触れた手。
『…………会いたかった』
あの時会った彼女は、全部知っていたはずなのだ。
過去の自分がハルヒに何をされるのか、そして……これから俺にどんな事をされるのかを。
そして、一つだけと言って教えてくれたヒント。
『白雪姫って、知ってます?』
今ならば解る、あれは嘘……ではなく、彼女は俺にもう一つヒントを残していたんだ。
別れ際に告げられた言葉、
『最後にもう一つだけ。わたしとは、あまり仲良くしないで』
また会いたかった、仲良くして欲しくない。
謎でしかなかった矛盾する二つの言葉の意味。自分が仕事として俺と付き合っていた事を知
られてしまう過去を覚えているはずの彼女が、何故そんな事を言ったのか。
つまり、それはそのままの意味だったのだろう。
彼女は俺にまた会いたくて、仲良くしないで欲しかった。
「……そうですよね? 朝比奈さん」
何となく、部室の扉に向かってそう呟いていた。
当然返事が来るはずもなく――特に理由は無いままに扉を開けてみようとして、止めた。
ここにまた大人の朝比奈さんが居るはずはないし、彼女に聞く事は出来なくても……俺には
その答えを知る方法があるのだから。
そう、今この時代に居る朝比奈さんとの時間を進めていくだけでいいんだ。
扉に背を向けて歩き出した時、俺の顔に浮かんでいたのは……さて、どんな顔だったんだろ
うな。
少なくとも、朝比奈さんにとって自分が仕事の目的の為に付き合っていた相手だと知ってし
まった悲しみではなかったはずだ。
自分の欲求を満足させられるであろう期待だけってのも違う気がする。
それらが全く存在しなかったって事は無いんだが……そうだな、あえて言うならそれは期待
だった。
これまでとは違う、朝比奈さんとの新たな関係を始める。期待するなって言われても、それ
は無理だと言わざるを得ないね。
なんせ、俺は箱の中の猫がどうなっているのか既に知っているのだから。
さて……明日は朝比奈さんにどんな事をしようか。
今日みたいな内容がいいのか、それとももっと積極的な方がいいのか。
現実に成り代わってしまった妄想は尽きる気配も無かったが……考えるまでも無く決まって
いる事が一つだけある。
そう、それは元々考えるまでもなく最初からそう思っていて、ただ自分の中で再認識しただ
けの規定事項。
仮に、この蜜月とでも呼ぶのが相応しい時間が終わってしまったとしても、だ。
――いずれ訪れる別れの日まで、あの愛らしい人の傍に居ようと、俺は思っている。
〆