「久しぶりだな」
思わずそうつぶやいてしまった。
長らくぶりの登山練習用トレーニングコースみたいな坂道は、平坦な道を歩くことにすっかり慣れちまった俺の大腿筋に懐かしい疲労感をもたらせてくれた。
こっから石でも転がせば苔を生じることもなく麓まで落ちていくだろう。
正門の前に立った俺は、みずみずしい生命力に満ち溢れた桜たちが放つ、かぐわしい空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。おお、この感じ、我今なお青春真っ只中。
「遅いわよキョン!」
「ぬおっ」
明鏡止水たる賢者のごとき心境でいた俺の背中に、聞きなれた声とともにショルダータックルがかまされた。
不意打ちってこともあったが、ラガーマンでもなければ力士でもない俺は思わずよろめいてしまう。
それでも、「果たして山頂から山麓まで人間は転がるか否か」という誰も喜ばないような実験結果のサンプルに供されるのを、俺は踏みとどまって何とか防いだ。
「やりやがったな、ハルヒ」
俺が顔を上げると、そこには懐かしい気のする小悪魔めいた笑みを浮かべる、見慣れたロングヘアの元SOS団団長、涼宮ハルヒの姿があった。
もう来てたのか。今日くらいは俺が勝ったと思ってたのにな。
ハルヒは早春の小川のようにきらめいた笑みを浮かべ、
「当ったり前よ。何てったってあたしは元団長だものね。元団員その一であるあんたごときに負けたりしたら名が廃るってものだわ。
例えそれが過去の称号であろうとも、SOS団永久不変の歴史を守るために今のあたしだって怠けるわけにはいかないの!」
そう言って親指を立てた。
生きた伝説にでもなるつもりかね、こいつは。
まあ、当時のお前がどんだけ奇想天外かつ天衣無縫のふるまいをしてたかを思い出せば、ロックならぬ変人の殿堂になら余裕で名を連ねることができそうだが。
ハルヒはよくできたカラクリ人形みたいに指と首を同時に振って、
「言っとくけどね、そんな博物館なんかに入れられなくても記憶は人々の胸に刻まれてるわ。あたしにはそれが解るの。
いい? キョン。楽しいことっていうのはそれをやってる人や見てる人みんなに伝わって、後世にまで遺伝され脈々と受け継がれていくのよ。SOS団の輝かしい歴史なんてまさしくそれよね。
あの時我々の活動を目にした幸運な人たちはみんな、三百世代後になってもミトコンドリアの中にその幸福な気持ちを刻み込んでるわけ。だから表彰や勲章なんか必要ないの」
ハルヒは白鳥みたいに優雅な仕草で笑って見せた。
幸福な気持ちね。今じゃエンドルフィンとか言ってその正体を言い当てることもできようが、案外未来ではそれとは別な新種のミクロ細胞として発見されているかもしれないな。ハルヒ遺伝子とか言って。
それを内包する一族にはみな永続的多幸感が訪れ、三百六十五日を通じてリオのカーニバル的なお祭り騒ぎをこよなく愛する人間になるのである。
日本の国民性に果たしてサンバか合うのか、はなはだ疑問だが。
「バカなこと言ってるんじゃないわよ。あんたの漫才につきあってたら日が暮れちゃうわ。さあ、モタモタしてないで行きましょ。何のためにここに来たと思ってんのよ」
どっちがふっかけてきたんだと言いたくなったが、ハルヒの言う通りこのままボケとツッコミを繰り返していたのでは、芸に磨きがかかりすぎた挙句、来年あたりお笑いスター誕生でデビューしてしまうかもしれない。
ただでさえ大学じゃ「夫婦漫才のハルキョン」とか羞恥の極みのようなバカげた呼称でからかわれることがあるってのに、これ以上冷笑と嘲弄の対象にされるのは遠慮したいとこだ。
もしハルヒと漫才などやってお茶の間から日本中にハルヒ遺伝子を蔓延させることになれば、それこそ三百世代を待たずに日本人全員の頭がおめでたいことになっていそうな気がするし、そうなれば藤原も足利も徳川もビックリの歴史的大事変となることだろう。
そんな形で歴史に名を連ねるのは勘弁願いたいから、俺も大人しくハルヒに従うことにした。
てなわけで、俺とハルヒは三年ぶりに北高にやって来た。卒業以来ついぞ一度も来なかったのはさて何故なのか。まあ、単にめんどくさかったのだろう。
高校三年間を通じて毎日ハイキングしてりゃあ、卒業後、身体が強制運動からの開放に喜びを感じるのも無理はない。山登りしてまでここに来るのを無意識が自然と忌避してたのかもな。
七月革命に成功したフランスブルジョワジーのような心境さ。自由の女神に導かれ、我々は遥かな未来へと旅立ったのである。なんつったら大げさかね。
成人式の日に三年次のメンツで同窓会があったりもしたが、それだってここ県立北高校を会場にしたわけでもないから、何だかんだで日々の暮らしに追われてせわしく過ごしてるうちに、気がつけば三年経ってしまったというのがいちばん近い。
こうして校門から校舎を見上げてみると、卒業式やったあの日がつい昨日のことのようだ。こういうのをノスタルジーって言うのか? うむ、俺も順調にオッサンへの階段を登り始めているな。
今日は日曜日であり、もちろん学校は休みのはずだ。かつて俺も身を通していた制服姿の高校生たちをちょっとばかり見てみたくはあったが、まあ仕方ない。
新学期始まって間もない時期だからか、部活をしている生徒も見たとこほとんどいないようだ。
しかし代わり映えしない風景だな。満開の桜が新入生を迎えたことを合図にはらはら散り始めている様は壮観であるものの、ここまで何もかも変わってないと俺まで成長してないような変な気分になっちまう。
間違って明日登校したりしてな。おぇーす。
「そんなこと言っといて、ホントはここにまた通いたいんじゃないの? そんな顔してるわよ」
敷地内に踏み入りながら、ハルヒがニヤニヤ笑いを浮かべて言った。ぐぬ。
「誰だって母校には愛着を抱いて当然だろ」
つとめて冷静を取り繕い俺は言った。ハルヒは目をわずかに細め、
「まあそうよね。あたしだって懐かしくなるもの。何かさ、色んなものがあの頃より一回り小さく見えるのが不思議よね」
そういやそうだな。多分、俺たちが相応に年かさを増したせいだろう。
あの頃ほとんど全世界のように見えてた通学路や校庭、校舎に渡り廊下なんかが、心なしかこじんまりして見える。
それも懐かしさの一因かもしれないな。人はこうやって老けていくのか。
俺の呟きをハルヒが失笑気味に聞き取って、
「まだそんなこと言うのは四十年早いわよ。こないだ参政権を得たばっかりの身で何言ってんだか。そのセリフはせめてあと三十回投票してからにしなさい」
「その頃には内閣総理大臣が二十回くらい変わってそうだな」
「もっと多そうね。流行の服みたいに取っ替え引っ換えしてるしさ」
などとバカ話している間に、俺たちは当時ほとんど使わなかった来客用玄関に着いた。
ガラス張りのスライドドアが、清澄な春の空気をぱりっと映写している。
中に入った俺たちは、すぐ目の前にある事務室で、卒業生であることと校内見学希望の旨を伝えた。
リストに名前を記入した俺とハルヒはスリッパを履き、来客用のバッジを胸につけた。何かわくわくしてくるな。
「岡部いるかしらね」
春物パーカーの胸にバッジを留め、ハルヒは口を弓なりに曲げた。硬いリノリウムの廊下の感触を懐かしく思いながら、俺たちはスリッパをパカパカ鳴らしながら歩き出した。
「どうだろうな。日曜だし休んでるんじゃねえの」
とうとう三年間俺たちの担任となってしまった不運なハンドボールラヴァー岡部教諭。
今でもはっきりとあの典型的体育会系中年な顔と、やたら良く通る声を思い出せる。
そういやその後どうなったのかを知らんのだが、今でも強肩としなやかな筋肉を駆使した華麗なジャンプシュートを生徒たちに披露しているのだろうか。ひょっとして転勤になった可能性ってのもあるんじゃないか。
「この前来た同窓会の会報に写真載ってたし、離任教師のとこに名前もなかったから、まだいるわよ。たぶんね」
ハルヒは高三当時よりずっと大人びた眼差しを前方に向け、階段を登りながら言った。
踊り場の小窓から差す青い光が、頬によくできた絵画のような陰影を与える。
横から見ると、あの頃から正当進化を遂げた大きな瞳と桃色の唇、すっとした首筋の美しさに、思わず息を飲みそうになる。
こいつとは今でもほとんど毎日会ってるが、それでもたびたびこんな瞬間があるものだから、こちとら動揺を表に出さないようにするのにけっこう気を遣うのである。
「……そんなん来てたのか。捨てちまったかもな」
「もう、あんたはそういうとこ昔っからガサツよね」
このぶっきらぼうな口調は相変わらずだが。お前に言われたくないぜ。色々とアバウトなのはお前だって同じだろうが。
「あたしはやろうと思えばいくらでも器用にできるもの。料理でも裁縫でも勉強でも運動でもね。でもあんたはそうじゃないでしょ」
それを言われると手も足も出ないな。お前が作った肉じゃがの絶品ぶりは俺の好物を一変せしめるほどのセンセーションを巻き起こしたし。つってもそれはちょっと違うだろ。
高校時代、どう考えてもお前だってやることなすこと半分くらいは適当だったよな。血液型何だっけ?
「まあいいじゃんそんなの。さてと。うん。この感じ、懐かしいわ」
ハルヒと俺はとある部屋の前で立ち止まった。いつだったかすっかり忘れちまったが、こんな風に並んで呼び出されたこともあったような気がする。
「キョン、準備はいいかしら?」
ペルセウス座流星群みたいな瞳をキラキラさせながらハルヒが言った。俺は鷹揚に頷く。
「お邪魔しまーす!」
食い下がる俺をまるっと無視して、威勢よくハルヒは職員室の扉を開けた。
「北高出身、涼宮ハルヒと団員その一が三年ぶりに参上しましたーっ!」
懐かしさを感じるセリフをのたまって、片手を上げた。
「懐かしいなお前たち。元気だったか?」
岡部教諭は当時とまったく変わりのないハッスルボイスで俺たちを出迎えた。
ハンドボール部は今日も練習をやるらしく、たまたま居合わせた懐かしの顔はこちらが聞くまでもなく元気そうだった。
よく見れば若干小ジワが増えた気もするが、正真正銘頑健そのものみたいな顔には妙に安心する。俺は挨拶もそこそこに答えた。
「それなりに元気ですよ」
「それなりどころか果てしなく元気だわ!」
ハルヒが独裁政治家の演説みたいに拳を突き出して言った。岡部ははっはっはと愉快そうに笑い、
「いや、久しぶりだな涼宮のその調子も。変わってないようで何よりだ。進路希望に、
『宇宙へのメッセージを伝えられる存在になる』とか書かれた日には驚いたものだったが、あれも涼宮らしいエピソードだったな。今にして思えば」
三年の頃、ハルヒはマジで進路希望調査用紙にそんなことを書いて周囲を驚かせたのである。
まあ、一年次からSOS団なんちゅう珍妙極まる変態組織を結成して俺たちを巻き込み、学内外問わずその名を轟かせていた存在とあっては無理もない。
ハルヒにしてみれば模範解答のような答案だが、それがまっとうな進路希望先に変換されるまでには紆余曲折あったような気がする。少なからず俺も骨を折ったな。
そんな当時の苦労を思い出したのか、岡部は側頭部を押さえて目をつむり、
「あの時の……何と言ったか、あの集まり」
「SOS団よ。まさか担任ともあろう者が覚えてないわけ? 驚愕だわ」
ハルヒは大仰な仕草で肩をすくめ、首を振った。誰かに似てるぞ、それ。
どうもテンションが上がっているらしいなこいつは。気持ちは解るがな。なんせ三年ぶりの学び舎である。あくまで個人的にだが、大学より高校のほうが愛着が沸くよな何となく。
春だろうとTシャツ一枚にシャージトレパンがよく似合う岡部は頭をかいて、
「そうだったそうだった。SOS団。いやあ、お前たちがいる頃はにぎやかだったな。文化祭に体育祭に、部活動に委員会に、あちこち顔を出したと思えば、嵐のように次の場所に行って、また次の騒動を起こすんだから」
岡部は決して褒めてなどいないと思うが、ハルヒもまた当時を感慨深げに回想し、得意そうに鼻を鳴らした。
心なしかいつもより子供じみて見えるのは、気分が当時に戻っている作用かもしれないな。こう見えてこの女二十代である。
「当たり前でしょ。SOS団は世界を大いに盛り上げる任務を負っていたし、今なおそのスピリットは恒久的に受け継がれているもの。この学校の空気にそれが残っているのがあたしにはよーく解るわ。匂いがするしね」
イヌ科だったのかお前。大気中にも何だか知らない正体不明の成分が溶け出してるとは初耳だぞ。ここはすでに汚染領域だったとはな。ハルヒ遺伝子の次はハルヒ粒子か。
花粉と一緒に吸い込んだ日には取り返しのつかないことになりそうだ。これからの季節、南風にのって大陸まで運ばれた暁には、いよいよもって世界を狂乱のるつぼに陥れる元凶となるやもしれん。パンデミック。逃げろ後輩たち。
俺の心配など塵芥ほども感じ取る気配を見せない岡部はマイペースに記憶を辿り、
「うちのクラスだと他に……そうそう、国木田や谷口も一緒だったよな?」
岡部はだんだん当時を思い出してきたのか、口を笑いだか何だか解らない形に歪めた。寿司屋で茶にまで酢が入ってたみたいな表情だ。俺は答える。
「あいつらはほとんど準団員でしたからね、こいつにつき合わされて、映画とか野球とか文芸誌とか、大人数必要な時に借り出されるメンバーで」
被害者AとBである。谷口なんか初めこそ渋々だったのに、最終的にはほとんどのイベントに顔出すようになってた気がする。卒業する頃には名残惜しいのか知らんが半泣きになってたな。
しかしこうして話してるとなおさら懐かしくなってくる。そういやあいつらとも長らく会ってないし、今度当時の連中で集まるのもいいかもしれないな。
鍋パーティじゃ季節外れだから、そこは何か考えないといかんだろうが。
岡部はどちらかと言うと当時の自分がよく耐えたとでも言いたげに、
「いや、楽しい生徒だったよお前たちは。卒業した次の年はずいぶん静かだったから、正直なところ先生も少し淋しくてな。バニーガールの格好してビラ撒きしてた当時はあれだけ手を焼いたのに、不思議なものだ」
岡部はしみじみと頷いた。俺も同調する。その気持ち、よーく解るぜ。
ハルヒは当時の悪だくみをたった今思いついたような得意顔で、
「あれは楽しかったわねえ。大学だとそれじゃ普通っぽかったからやらなかったけど」
「そりゃいったいどこの世界の普通だよ」
俺がツッコミを入れ、岡部は笑い、俺たちも笑った。窓際のカーテンが春風にそよいだ。
こうして来客用のソファに座り、コーヒーをふるまわれると、もうここの学生ではなくなったのだということを実感する。
職員室にこんな長い間いるのも初めてのことだし、大人に一歩近づいたと言えばいいのか。ハルヒに言わせればまだまだ甘っちょろいんだろうが、それでも三年分の成長はしている。
この身体に宿る感覚がそれを教えてくれているようだ。昔の服を着たようなというか、ちょっとしたズレみたいな感じ。
間違ってもさっきのハルヒ粒子によるアレルギー反応じゃなかろう。とっくの昔に俺には抗体ができてるんでね。こいつとの付き合いはそっからが本当の始まりなのさ。毒をもって毒を制す、ってわけでもないが。
岡部は煙草に火をつけてふかしながら、
「そういえば涼宮は、入学式の日には面白いことを言っていたよな。宇宙人がどうのこうの」
「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしのところに来なさい!……でしょ?」
ハルヒは懐かしのセリフを一等星の輝きを持つ笑顔とともに言い放った。当時から北高にいる教師が二人ほど、こちらを見てニヤッと笑った。そうそう、そんな奴だった、とでも言いたげに。岡部もまた同じ反応をし、
「あんな風変わりな挨拶をする生徒は後にも先にも他にはいないだろう。まったく、色々な意味でお前たちは伝説的だったよ」
それは当事者だった俺も同感だな。何か得体の知れない団体を結成して学内のあちこちに出没し、映画やら文芸誌やら野球やら合宿やらバンドやら何やらやってるうち、
自分たちでも何やってんだか解らないくらい学内認知度と慌しさと思い出だけは増えていったからな。ハリケーンと台風と渦潮を足して三乗したような威勢のよさだった。
SOS団みたいなトチ狂った集まりは後にも先にも現れない。……と言うより、あんな集団が今後も現れるようだと日本の行方が危ぶまれる。
ハルヒが大学でSOS団を作らなかったのはさいわいと言うべきだろうか。さすがに大学であんなことやってたらイタいだけだしな。
高校でも十分イタいというツッコミはこの際遠慮してくれ。解ってるから。
「九組にもお前たちの仲間がいたな。誰だったか……ああそうだ、古泉か。一ヶ月遅れて転入してきたんだったな。あいつは今日いないのか?」
岡部は灰皿に煙草を置いた。細い紫煙がたなびく。
「古泉はちょっと都合がつかなかったんです」
俺は言った。
古泉は大学に上がると同時にこの街から出ていってしまった。
それというのも、あいつは首都圏の難関大学を受験して見事合格し、その関係で上京するため、この地を去らねばならなくなったのだ。
今でも連絡だけは取っているが、年にせいぜい数回しか会う機会がない。それには若干の淋しさがないこともない。
なんせ高校の頃は毎日のようにあの微笑面と清涼感あふれる声を聞いていたし、あんな風にくどく長ったらしい解説をする男なんてのはそうそういやしないからな。
結局、あいつが高校時代を通じてもっともよく会話した相手だったってのもある。
岡部はそれは残念だなと慨嘆気味に呟いてから、
「理数クラスだったのにあの集まりに加わっていたから驚いた。
国木田といい、古泉といい、涼宮、お前もそうだったが、今思うとあの集まりには成績優秀な生徒が多かったな。ひとつ上の鶴屋も文武両道の優等生だったし」
そこに俺と谷口の名前が入ってないのは泣き所でしょうか、岡部先生。
「あ? ああ……、お前と谷口は……まあな……」
露骨に三点リーダを増やすのはやめていただきたい。
当時、赤点ラインを巧妙にかすめることに関しては他者の追随を許さないレベルに達していた俺と谷口の技芸は、テクニカルポイントを考慮に入れてもう少し評価されるべきだろう。
あれは真似しようと思ってできるもんでもない。ちょっとしたさじ加減とその場の悪あがき、あるいはエンピツを転がす時の運なんかがモノを言う。
当時の俺はセミプロくらいの域に達していたはずさ。なあハルヒ?
ハルヒは真冬にもらった傘がボロボロで使い物にならなかった地蔵のような目をしたのち、
「あんたと谷口は……まあね……」
岡部と同じ口調で言うな。それに俺だって三年次は目覚ましい成績上昇ぶりを見せて見事第一志望に合格したじゃないか。ああ、あの熱き勉強の日々が懐かしいぜ。
ハルヒは聞こえるようにため息をついた。
「よく言うわ。でもまあ、そうね。本番でほとんどマグレみたいな力を出したものね、あんた。でもそれってきっと、あんたの母親が無理矢理予備校に放り込んだのと、落第しないようあたしが目を光らせていた効果よね」
俺の努力が存在しないとでも言いたげだな。
まあ確かに、お前とオカンに板ばさみにされたせいで勉強する他ないという窮地に追いつめられたおかげで背水の陣的な力を発揮した気もする。ネズミだろうと追いつめられれば猫を噛めるのである。
「はん、あんたはネズミってよりまんまナマケモノが似つかわしいわよ」
んなことないだろ。俺だってあの超絶怠惰動物よりはなんぼか動いてるぞ。
放っとけばいくらでも続きそうな言葉の応酬を繰り広げていると、岡部が笑いながら、
「本当にあの時のまんまだなお前たちは。そうやって教室の後ろで話してたもんな」
楽しそうにそう言った。俺は若干顔の温度が上昇するのを感じた。
見ると、ハルヒもそんな具合らしい。唇を引き結んで目を瞬いている。頬を染めたりしないあたりがいかにもこいつらしいが、何だろうこの恥ずかしさ。久しぶりと言うべきか。
大学じゃたいていのことは開けっぴろげだからか、この手の羞恥心というのは新鮮だ。ああ恥ずかしい。誰か煽いでくれ。
「三年間ずいぶん色々やってくれたが、最後の方は先生のほうももう慣れてしまってな、むしろ何もしでかさないほうが退屈なくらいだった。受験期なんかそうだな、思いのほか静かだっただろう、お前たちは」
岡部は厄介な爆弾処理を終えどや顔になっているベテラン爆弾解体師のような顔で、
「涼宮の卒業後は後を追って似たようなサークルを作ろうとする生徒もいたが、結局SOS団みたいな集まりは出てこなかったな。そういう意味でも面白いものを見させてもらったよ」
岡部はそう語り、また笑った。それから何か、言うことが残っていないか確かめるように眉を寄せた。
「そういえばお前たちは、」
言いかけて岡部は首を振った。最後に立ち上がると、
「いや、何でもない。またいつでも来てくれ。教え子との思い出話は楽しいからな」
俺とハルヒのそれぞれと握手した。昭和の血筋とでも言うべき温かみを感じる手の平だった。
「ありがとうございます」「楽しかったわ」
礼をした俺たちは、揃って教室を後にした。何ともいえぬ高揚を噛みしめながら。
その後、俺たちは一年五組に向かった。
卒業生ってのは通常三年の教室に行くのが筋かもしれんが、何と言っても俺たちにとって思い出深い場所はここ、一年五組の教室である。すべてはここから始まった。
俺とハルヒは、名前順に並べられた入学当初の席に座った。
ここにいたのがもう六年も前のことだとはとても信じられないが、あの時と比べ、たしかに俺は物事の成り立ちや世間の事情ってものを知り始めている。それはこれからだってそうだろう。
着席したハルヒは先ほどに倣い、入学式直後の自己紹介でやった仰天宣言をもう一度繰り返した。俺たちはつい、互いにニヤニヤ笑ってしまう。
ハルヒは当時からしても目覚ましいほどの美人になっているのがよく解る。
身長も高くなったし、声もつややかになった。そこにはちょっとした気品のようなものすら感じられる。あとはそうだな、他の身体的数値もあの頃より、例えば……
「どこ見てんのかしら?」
ハルヒは目ざとく俺の視線をとらえ、胸の高さまでかがんでこちらを睨み返した。くそ、バレたか。
「当たり前でしょ。何年付き合ってると思ってんのよ」
手の平でばしんと机を叩き、ハルヒは挑発的にこちらを見下ろした。
入学当時と同じく長い髪にしたのはいつからだったっけ。
機嫌のいい日はポニーテールにしてくれるが、俺がうっかりこいつの癪に障る言動をしたら即刻解除されてしまう。そのへんもハルヒらしい。
まあ、どんな髪型だろうとこいつは似合っているし。ポニーテールの破壊力が高すぎるだけで。恥ずいから口には出さないけどな。
次に俺たちは窓際の席に移った。
最初の席替えからこっち、天文学的確率によって、俺たちは一年の間ずっとこの席に座っていた。
そんな場所の記憶だろうか、席に着いた瞬間、まるで昨日までここにいたみたいに身体が馴染むような気がした。このフィット感。座布団すらない安物の椅子だってのに、どんな安楽椅子より心地いい感触だ。
「懐かしいわね。よくこうやって窓の方見て居眠りしてたわ」
ハルヒは机に突っ伏し、窓の方へ顔を向けた。そうだったな、と思いつつ、俺は椅子に横向きで座る。そうそう、こんな風にして俺はハルヒの日常に対する不満や愚痴を聞いていたんだった。
普通であることがつまらない。この席に移ってしばらくは、延々そんな愚痴のような言葉を漏らしていたよな。
いらぬ五月病のおすそ分けみたいなグルーミーオーラを浴びてた日々も、今となってはセピア……とまではいかないまでも、少しだけ古びたカラー写真くらいには貴重な一ページだ。
つまらないんだったら楽しいことを自ら起こしてやればいい。
俺が歴史上の偉人について話をしたことを契機として、ハルヒはパワフルな無尽蔵動力めいたエンジンを乗っけて、多くは人に驚かれ、時に人に迷惑がられ、時に人の役に立ったりして三年間突っ走り続けたのた。
俺はほんのその手助けをしてやったに過ぎないが、ずいぶん楽しいものを色々見せてもらったと思う。
俺一人きりだったら、きっと何ひとつ思いつくこともなく、部活に入ることもなく、ただ淡々と高校生活を終えていただろう。
「何か思いつくとお前はそっからシャーペンで俺の背中をつついてきたよな」
「ふふ。こんな風にね」
ハルヒはどこからともなくシャーペンを取り出し、先端で俺の背をつついた。懐かしい感触。
「どっから出したんだ、それ」
「机に入ってたのよ。この席に座ってる子の忘れ物かしら」
ハルヒはくるくるとシャーペンを指先で回転させ、落とすことなくキャッチした。
「ほんとに懐かしいわね。過去を振り返るのってそんなに好きじゃなかったけど、今は別」
空いた手で頬杖をつき、ハルヒは俺の顔を見慣れた路傍の草花みたいに眺め、
「あんたのつむじを見てると、何かこうムカムカしてきて、引っぱたきたくなってくるのよね。そうすると、決まっていつもいいアイディアが閃くのよ。
そういえば、最近何か足りないと思ってたけど、もしかしてそれかもね。キョン、今度からあんた、あたしと講義が一緒の日はあたしの前に座りなさい。何か思いついたらまたシャーペンでつついてあげるわ」
そんな着想手段だったのかよ。俺のつむじは面白おかしい妙案を生み出す回路の役割でも果たしてんのか。教授に俺の後頭部を激写した写真でも送りつけたらノーベル賞クラスの本を書くかもな。
その時はおこぼれにあずかりたいものだ。しかし俺は首を振り、
「あいにくだがお断りだぜ。講義中に高校時代みたいな大音声で叫ばれちゃたまったもんじゃないからな。それに今はSOS団やってるわけでもないだろ」
「んー、まあそれもそうだけどね」
ハルヒはまたくるくるシャーペンを回した。まるでそれが春の時間をゆっくり動かしているような感覚に陥る。
いつも俺たちはここに座って、どうでもいいようなこととか、そうでもないこととか色々話し、放課後になると連れだって部室に向かったのだ。
ハルヒはなんとも形容しがたい表情を浮かべていた。
「ねえ、キョン。三年間楽しかったわよね」
「そうだな」
もちろんだ。学校でも楽しかったが、夏や冬の休みに出かけた孤島や雪山だって楽しかった。「二年目の文化祭なんか大忙しだったよな。SOS団だけでも、映画にバンドにてんてこまいなのに、お前がクラス企画まで力入れるとか言い出すからさ」
ハルヒはふっと息を漏らすように笑う。
「そうよね。本当に楽しかった」
ハルヒはシャーペンを回す手を止め、かたりと机に置いた。そして席から立ち上がると、戸口に向かって歩き出す。
「キョン、部室に行きましょう」
渡り廊下を通る時、ジャージ姿の、部活に向かう途中らしき生徒とすれ違った。
高校生ってあんなに子どもだったっけな、などと、俺は当時思わなかったような感慨に浸る。
今思うと、こんな狭い場所を三年間も行ったり来たりして過ごしてたんだよな。客観的に見ればずいぶん限定的な行動範囲だ。
それを言うなら大学のキャンパスをせわしく移動している今だって似たようなものだが。古巣に戻ってくる時だけそんなことを思うのは、人間の本能に刻まれた何かが反応してるんだろうか。
さてハルヒはすったかと歩き、途中何も言葉を発しなかった。こういう緊張感を持つハルヒを、俺は滅多に見なくなった。
これはこれで可愛げがある、なんて思ったのは、それこそ高校に入った初めのほうだったな。
そこから長い時間を経て現在に至るわけだが、近頃は滅多に見せなくなった表情であることが、俺の気分を若干シリアスめいた方向へ傾ける。
そんなことを考えているうち、俺たちは部室の前に着いた。
文芸部――。
高校一年の、あれは五月だったか。ハルヒが突然部活を作ると言い出し、俺は有無を言わさず巻き込まれ、駆け出し雑用担当と化して奔走している間に気がつけば出来上がっていた、
世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団――ことSOS団。その根城跡地がこの文芸部部室である。
「久しぶりだな」
俺は思わず本日二度目となる言葉を呟いて、これもやはり少し小さくなったような気がする古びたドアを眺めた。
上にかかった「文芸部」プレートは健在だが、果たして今ここに文芸部が存続しているのか、俺は知らない。さっき岡部に聞いてくればよかったな。
職員室であらかじめ頼んでおいたおかげで鍵は開いていた。ハルヒは何かに引かれるようにドアのノブを回し、中に入る。俺も後に続いた。
さて、人間には五感ってものがある。
すなわち視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五つで、人間が生きていく上でどれもフル活用を余儀なくされる大事な感覚だが、俺たちはそれ以外のところにある多くの感覚もまた日頃から半ば無意識のうちに利用している。
第六感、という言葉でくくるにはあまりに範囲が広い気もするが。他に思いつかないのでここではそう呼ばせていただく。
部室に足を踏み入れた瞬間、俺はまさしくその第六感でそれを感じ取った。
一言でいうならば、圧倒されそうなほどの懐かしさ。
部室には本棚と長机、それと当時団長用として使ってた机に、パイプ椅子がひとつ。残りはたたんで脇に置いてある。
あの時使っていたコンロやら鍋やら冷蔵庫やらはないものの、それを抜きにすれば、まるでついさっき授業が終わって、ハルヒと二人で一緒にここまで歩いてきたような感じだった。
そのくらい、今なおこの場所に俺は親しみを感じることができ、それはハルヒもまったく同じらしかった。
先ほどの吸い寄せられる動きのまま、ハルヒはかつて自分が居座っていたセンターポジションに向かい、パイプ椅子を引っ張り出して開くと、腰を落ち着けた。
団長机に当時あったパソコンはもうなくなっていた。
ハルヒがコンピュータ研に押しかけ、強奪したハイエンドPC。今となっては世代後れだろうあの端末は、卒業式の日、ハルヒの意向で元の所属だったコンピ研に返されたのだ。今どうなってるだろうな。
俺はさらに部室を観察する。
本棚にはハードカバーを中心に多くの本が収められている。結局俺はここの本を何冊読んだっけ。数えるほどだったかもしれない。
あの頃はまだ今より読書していたと思う。仮にも文芸部の部室に寄宿していたんだから、それくらいしないとバチが当たる、ってわけでもないが。
環境が変われば生活も変わる。近頃はすっかり本を読まなくなってしまった。俺に限らず、学業に専念する身分のクセして大学生は本を読まない。
「懐かしい」
ハルヒが言った。
机に両手で頬杖ついて、妙な幸福感に浸っているような顔をしている。ちょうど春風の花畑にいるような。
俺は気がついて、窓辺に歩み寄り、窓を開けた。
新鮮な春の空気が、ふわりと部屋に入り込む。
風に乗って、桜の花びらが一枚、ハルヒの机の上に舞い落ちた。
どこかで鳥が鳴いている。
明日になれば、また新しい生活を始めるべく多くの学生たちがあちこちを行き交うのだろう。
それは俺たちにしたって同じだ。今年度は就活が控えているし、前の二年ほど悠長にもしていられない。
高校生活は、終わってしまった途端、忘れ去られた離島のようにその距離を俺たちからどんどん開いていき、近頃では思い出すことも稀になっている。
今日の学校訪問は、数日前に突然ハルヒが言い出したことだった。
今までの間、俺は時折思いつきこそすれ、実際にここへ来ようと思った日はついぞ一度もなかった。
高校時代を思い返すとさまざまな出来事が想起され、それだけで腹いっぱいになってしまうというか。いや、この場合胸いっぱいのほうがいいのか。どっちにせよ、そんなわけで俺は……
「ねえ。キョン」
物思いの淵に沈みかけていた俺の意識が呼び戻された。
ハルヒは、机に両肘をついたたまま、どこか煮え切らない様子で室内を眺めていた。先ほどの懐かしむような様子はなくなっていた。真剣な顔をしている。
「私たち、ここでSOS団の活動やってたのよね」
「ああ」
手持ち無沙汰になった俺は、ポケットに両手を突っ込み、部室を眺めながら当時を思い出そうとする。
放課後がくるたび、ここで茶を飲みながら古泉相手にゲームしたもんだ。ついぞあいつとデジタルの遊びをしなかったな、そういえば。
ハルヒが言葉を継ぐ。
「放課後は毎日のようにここへ来て。みんなで一緒に過ごして。あたしが何か思いつくと、あんたや古泉くんがそれに付き合って。
野球やったり、七夕の願い事したり。孤島に出かけたり、夏休み満喫したりして。それで。そう、映画撮って、ライブやって。
コンピュータ研とゲームで対決して、それで……それで雪山にも行って、えっと……。そう、そうよ。初詣とか、バレンタインとか……阪中の家に遊びに行ったりもしたわね、シュークリームがすごく美味しかった。
文芸部の会誌もつくった。鶴屋さんの小説は傑作だったもんね。それで……後は、あとは……何だっけ」
「ハルヒ」
「そうだわ。二年生に上がると、あたしたちは新しい団員を募集するためにまたビラを撒いた。
入団試験を作ってテストもしたわね。市内をみんなでまた回ったり。それが終わると、生徒会とバトルしたりしてね、情報戦みたいで面白かった。
そう、そうよ。あたしたちいつも一緒だったもん。団長であるあたしがあんたたちを導いて、この部室を拠点に、いっつも。あたしと、あんたと。あと古泉くんと。あと、あと……」
「ハルヒ、なあ」
ハルヒは机を両の拳で思い切り叩いた。
その場の空気が一瞬で固まる。俺の動きも止まってしまった。
「ねえ、キョン! あたしと、あんたと、古泉くんと。…………あとは?」
ハルヒの身体が小刻みに震えている。
「あと他に二人いたでしょう? ねえ、そうよね。あたしとあんたと古泉くんだけじゃなかったはずよ。
ねえ、キョン答えて! 昨日もおとといも、三日前も一週間前も、一ヶ月前も、半年以上前から、何度も何度も思い出そうとしたのに、いくら頑張ったって、
どれだけ、あの時の映画とか会誌とか、そういうのをいくら見ようが何しようが、どこにも残りの団員がいないのはどうしてなのよ!」
「だからハルヒ。谷口と国木田が」
ハルヒは長い髪が舞い上がるほど強く首を振った。
「あいつらは団員じゃなかった! あんただってちゃんと覚えてるじゃない。毎日放課後一緒にいたのはあの二人じゃないでしょう?
鶴屋さんだって違うわ。野球の時とか、会誌の時には手伝ってもらったけど。あの人でもない。なのに、ねえ、キョンどうして? どうして残り二人の団員が誰だったのか思い出せないのよ!
見た目も声も、名前も性格も性別も、どんな顔してて、どんな風にしゃべって、どんなクセがあったかとか、全部ぜんぶ何もかも。
あんなにいっつも一緒にいたのに。どうして思い出せないの…………」
ハルヒは机に突っ伏した。どうしてよ、と小さく呟いて。
そう、そうだ。
あと二人の団員。それが誰だったのか、ずっと思い出せずにいる。
確かに、あの時の文芸部には、ここSOS団には、俺とハルヒと古泉の他にあと二人団員がいたはずだった。
ハルヒが挙げたイベントはすべてSOS団主催のものであり、そこには三人ではなく五人の団員がいたはずなのだ。
しかし、大学になってから俺たちが思い出せたのはたったそれだけで、あとのことは何一つとして思い出せなかった。
いつだったか、ハルヒとの会話の弾みで高校時代を思い出そうとするまでは、俺もハルヒもその二人を覚えているつもりでいた。楽しかったよなあの頃は、ってな具合に。
それなのに、ふとあの頃の記憶を辿ろうとすると、まるでそこだけ綺麗に切り取ったかのように、すべての記憶や痕跡が抜け落ちているのだった。
そんな人たちははじめからいなかった、とでも言うみたいに。
写真にうつっているSOS団員の姿は俺とハルヒと古泉だけだったし、野球にいたってはメンバーが七人しかいなかった。
どう考えてもおかしいだろう。いったいどうやって七人で野球やるってんだ?
しかし、俺とハルヒがいくらそれぞれの脳内ライブラリを参照すれど、そこにいたはずの二人の姿はどこにもなかった。
むしろ、追いかければ追いかけるほどその姿は不明瞭かつ曖昧なものになっていき、しまいにはハルヒという相手がいなければ忘れてしまいそうになるほどだった。
ここに来たのは、完全に俺たちから記憶が失せてしまう前に、何とか思い出そうというハルヒの提案だった。
さっき岡部に話を聞いた時もそうだった。俺とハルヒと古泉までは浮かんでくるし、思い出せる。しかしあとの二人のことになるとさっぱりだ。たしかにここの生徒だったはずなのに。
クラス写真帳や、文芸部の会誌、携帯のアドレス帳。どんな記録を探しても見つからない。
谷口や国木田、鶴屋さんをはじめ、あらゆる人たちへ俺とハルヒはその存在について訊ねたが、ついぞ答えは得られなかった。
古泉ですら、いたような気もするが、いなかったと言われればそちらが正しいような気もしてくると、明確に回答するのを控えた。しかし俺とハルヒは信じていた。
たしかに、俺たちは五人だった。
ハルヒが思いつきでこの部室に居を構え、SOS団を結成してからこっち、こいつは怒涛の勢いで俺たち五人を集めたはずだ。
それは決して三人でもなければ、入っていたのが谷口でも国木田でも鶴屋さんでもなかった。実際あの三人はそれを否定した。
しかしそれでいて、じゃあ誰がいたかと問われると、やはりみな首を傾げることになるのだった。
だがこの部室に来て、身体じゅうを包まれるような、この懐かしい空気に触れて、俺は確信した。
「ハルヒ、お前は間違ってない。俺たちSOS団は、たしかに五人だったんだ」
*
卒業証書を拝領し、高校生としての全課程を無事(というかは解らないが)終了した俺は、その時間だけ現れる存在に最後の面会を果たすため、全速力で階段を駆け上がっていた。
卒業した感慨とか、クラスメートとの別れとか、そんな月並みなイベントを消化するのは後回しだ。あいつらとはまた会えるし、生きてりゃこの先いくらでも機会があるだろう。
しかし、あいつとはたぶん、これを最後に二度と会えなくなる――。
俺は自分に息つく暇すら与えず階段を登りきるとそのまま駆け出し、勢いをすべてぶつけて部室のドアを押し開いた。
「長門っ!」
そこには光が降りそそいでいた。
誰もいない文芸部の部室。その窓際に、忘れ物のように取り残された、一脚のパイプ椅子。
まるで光子が形を成し、生命を宿していくかのように、ゆっくりした速度で彼女は懐かしい姿を取り戻していく。
俺はその光景を固唾を飲んで見守っていた。ほっそりした華奢な身体。肩にすら届かない短い髪、儚い光の宿る瞳。
長門有希が帰ってきた。
その白皙を見ながら、俺は回想する。
………
……
…
すべてが終わったのは今日から一年ほど前のことだ。
ハルヒの奇妙キテレツ摩訶不思議なエキセントリックパワーが消えて、古泉も長門も朝比奈さんも、橘京子に周防九曜、はては藤原に至るまで、涼宮ハルヒの情報改変能力とやらに関心を持っていた勢力はすべて、その手を引いた。
本当に、今までずいぶん色んなことがあった。
入学した頃と今の俺じゃ、まんまレベル1の勇者が旅立つ前と、成長し魔王を倒してエンディング迎えた後くらい、その経験値には開きがあるだろう。
俺が勇者でもなければ魔王を倒せる実力の持ち主でもないことはさておいて。
その日、まるでどこかへ散歩にでも行くようなさりげなさで、朝比奈さんは未来へと帰ってしまった。
すべての既定事項を満たし、ハルヒの観察も終え、時空の歪みが解消された今となっては、もう彼女がここに残留する理由などどこにもなかった。
そして当然の帰結として、俺の麗しき先輩は未来へかぐや姫のごとき帰参を果たすことになった。
俺はそんなこと思いもせず。普通に考えれば当たり前だろと言われても、それはまさしく青天の霹靂、サンダーストラックな衝撃だった。
「今までありがとう」
その愛くるしい瞳に涙をいっぱい浮かべた朝比奈さんは、俺が止めるのにも首を振り、現在から消えてしまったのだ。
彼女がただ未来に帰っただけならば、俺はそこまで、やっぱりショックは受けるにしても、さんざん悩んだ挙句、最終的には結果を飲み込んでいたと思う。
しかし、それができないまま別れることになっちまったのは、彼女が消えた後、幕引き役のようにして現れた大人版朝比奈さんが、こんなことを言い出したからに他ならない。
『あなたたち全員から、わたしたちに関する記憶を消去しなければなりません』
俺が大人だったらまる一週間、いや一ヶ月は飲んだくれ、その結果アル中の半歩手前になるくらい、もう完全無欠に参ってしまう言葉だった。
今まで俺は、この身体と、その場の思いつきと、頼りなき小さい脳ミソを申し訳ばかり振り絞って何とかここまで来たのだが、こればっかりはお手上げ、完全降伏の白旗ものだ。
大人に成長したほうの朝比奈さんは、きわめて真剣な口調で、記憶消去しなければならない理由を延々、誰にでも解るような優しい口調で俺に述べてくれた。
困ったことだが、その理由というのが現代人の俺にとってもすこぶる理解しやすい、いたって単純明快なものだった。
『未来人というのは本来、この時代にはいない存在だから』
本当はこれに細かい説明が一時間分くらいくっついてくるのだが、それはここでは割愛させていただく。
要するに、もともといない存在を認識している必要などない、というのだ。俺が何と思おうが、たしかに論理的には筋が通っていた。
それにしたって。
それにしたってもう少し、こちらへの配慮ってものを考えてくれてもいいのではないか。
だが、大人版朝比奈さんの、感情を何とか内に抑えようとしているような表情を見ていると、結局俺は何も言えず、最後には頷いていたのだ。
そうして俺は反論できないまま、しかし何一つ了解しないまま朝比奈さんと別れることになってしまい、その反動で、一時的に情緒不安定になった。
……今さっき成長がどうとか言ったばかりで恐縮だが。
何もかも終わったのだと思うと、濃縮還元されたような思い出の数々に俺は胸が熱くなり、喉が苦しくなり、流す必要もないものが目尻からこぼれそうになった。時折そのまま泣いた。
だってそうだろ、二年間いつも一緒にいた朝比奈さんが、とうとう未来に帰っちまったんだ。これで号泣しない人間がいたらそんなんウソってものだ。
……いや、客観的に見ればここまで感情が昂ぶっていたのは俺だけかもしれないな。
なんせ朝比奈さんだ。俺の永遠の先輩である。
仮にこれが古泉で、あいつが「いやあ、まいっちゃいますね」なんて言いながらまた転校したとしても俺はまったくたじろがずケロッとしている自信がある。
あの純真無垢にして可憐清楚な朝比奈さんだからこそ、俺はここまで打ちのめされて、完膚なきまでにノされてしまったのだ。
そんなわけで翌日はずいぶん参っていた。その時には、なぜまだ俺が朝比奈さんのことを思い出して感傷に浸っていられたのかなど考えもせず。
ある日の昼休みだ。俺は部室の長机で、洗い損ねた親父の靴下みたいに身も心も縮れていた。
誰も責めてくれるな。他の誰にも解ってたまるか、この心境。
名目上朝比奈さんは卒業して引っ越したという設定になっていたが、アホかと思う。使い古された修繕事由にはもううんざりだ。
しかし、そこへまたしても、第二の核爆弾的衝撃が俺を襲ったのだ。
「わたしもこの地上から去らなければならない」
そいつは耳に涼しい、至極聞きなれた声でそう言った。
ああ、空耳がする。
今日はいい天気だからな。鳥が人間の言葉でも喋りたくなったのだろう。でなければ俺の五感が昨日のショックでイカレたに違いない。
十億ボルトの稲妻が直撃したみたいな衝撃だったもんな。無理もないさ。俺にこの先まともな社会生活なんてできるかな、はは。今なら世界の中心で何かを叫べそうだ。
「わたしもこの地上から去らなければならない」
あのー、長門さん。耳元で心地よく囁かなくていいんで。聞こえてるんでちゃんと。ああくそ。ちくしょう。また泣きそうだ。
「……お前までそんなこと言うのか、長門」
俺がいつもより五十倍の重力を感じる気がする頭をもたげて見ると、珍しく本を読んでいない長門有希は、光を宿す瞳をこちらへ向けて頷き、
「涼宮ハルヒに関する観測はすべて終了した。情報統合思念体は進化の糸口を見つけ、我々ヒューマノイド・インターフェイスは役割を全うした。喜緑江美里はすでに情報連結を解除されている」
「…………」
あー、喜緑さんね。喜緑さんか。そうだよな。あの人も設定上は卒業だもんな。
サヨナラの挨拶もなしか。淡白なもんだな。仮にも何度か救ったり救われたりしたと思うのは人間の勝手な都合なんだろうねまさしく。泣けてくらあ。
「わたしも間もなく結合解除される」
「何だって」
俺は数百年に一度の大地震くらい強く心を揺さぶられた。もう勘弁してほしい。
今までずいぶん強くなったつもりでいたが、思い込みってのは崩れた瞬間砂上の楼閣と化しちまうんだな。裸の王様ってなこういうことを言うのかもしれない。
しかし長門のほうはというと、自らの存在が消えるというのに、そこから来るだろう気持ちのふれだとか、そんなものを露骨には表さなかった。
「あなたには感謝している。……言葉では伝えきれない」
長門は言った。しかしよくよく見ると、こいつは何か、とても危うい感情の淵にいるような感じだった。
俺のいまや光学顕微鏡に匹敵する識別眼が、情緒不安定による誤作動を起こしていなければ、、まるで笑いたがっているか、でなければ悲しさを浮かべているように見えたのだ。
しかし、こいつの生まれ持った性質がそれをはばみ、不可能にしているようでもあった。
なんかもうひたすらやるせない。それはそうと……。
待てよ長門。なあ、おい。普通さ、こういうのは別れの挨拶とかお別れ会とかお別れ遠足とかそういうのを経た後でするもんだろ。んな味も素っ気もない展開を俺は認めないぞ。
「長門。ここはひとつじっくり話し合おうじゃないか。そう急ぐこともないだろ。親玉に和平協定の締結でも頼んでくれよ。
だってお前はまだ二年じゃないか。せめてあと一年、部室でまったり茶でも飲んでヒマを持て余し、そいで宇宙に帰るのも悪くないだろ?」
そんな冗談めいたことを言ってから思う。
朝比奈さんはもういない。
もう、メイド姿で俺たちに茶を給仕してくれることも、ない。
俺はまた目頭が熱くなってきた。唇が震えやがる。
……くそ。どうしてだ。いつもいつも一方的すぎるじゃないか。
どいつもこいつも。皆して、一方的に俺の目の前に現れたと思えば、人の気も知らないで、まるで散歩でもするかのように勝手気ままに去っていきやがる。
「元気を出して」
長門はそう言って、俺の前に手の平を差し出した。目を腫らした俺がその手を取ると、まるでそれが合図であるかのように、長門有希の身体が消え始めた。
「長門!」
朝倉が最初に消えたあの時と同じ、白い結晶のようなそれは、情報結合解除――。
「おい、冗談だろ。どうしてこんな……待ってくれよ、長門!」
「……」
何を言うこともなく、長門有希は地上から消失した。
「長門ぉ……」
床に崩れる俺は、もう何をどうしたらいいのか解らなかった。
何を思い出そうとしてもダメだ。ありありと蘇る記憶の数々。それらは全部、もう五人の時間が二度と訪れないことを現していた。
俺の目の前に、見覚えのある栞が、まるで雪の欠片のようにひらひらと舞い降りる……。
…
……
………
その日から一年経ったのだ。
栞には見慣れた明朝体で、しかし手書きの文字で、『一年後、この場所で』と書かれていた。
それから一年の間、俺は受験勉強に打ち込む傍ら、長門を待ち続けた。
しかし、それは孤独かつ過酷な試練のようだった。
驚くべきことに、ハルヒも古泉も、鶴屋さんも谷口も国木田も、SOS団の内外にかかわらず、俺以外のすべての人間が、朝比奈さんと長門がこの世界にいたことをすっかり忘れてしまっていたからだ。
それだけじゃない、ハルヒの謎パワーや、古泉の変態的超能力にしたって、もはや誰も覚えていなかった。
俺はありとあらゆる手段を尽くして、二人のかけがえない存在のことを強く訴えたが、ダメだった。
それはちょうど、あの改変された世界で、俺がどんなにSOS団のことを知らせようが無意味だったことと同じだ。
おそらく、俺以外の人間からはすでに二人に関する記憶が消去されていたのだろう。何と残酷なことか。
共有する相手がいない出来事というのは、時間が経つにつれ、ともすれば自分の中にしか存在しない幻か、でなければ妄想にとって代わり、しまいにはどうでもよくなって忘れそうになってくる。
あれだけ濃密な時間を過ごしておいて信じがたいことだが、それはまさしく真実だった。
何か、忘却を促進させる作用が働いていたのかもしれない。
さしずめ情報統合思念体の差し金か、でなければこっそり未来人が来て、俺に日ごと呪文でも唱えてるのかは解らんが。それだって今となってはほとんど俺の被害妄想みたいなものだ。
ともかく俺は、俺だけが存在を覚えている二人を何とか忘れないようつとめた。
夜が来る度あの栞を見つめ、そこに浮かぶ文字を確認しては、長門有希と朝比奈みくるの名を、俺は呪文のように唱えて眠るのだった。
そこ、暗いとかストーカーとか言わないでくれ。
他に打つ手がないという点で、それは改変された冬の世界よりもよほどつらい時間だったのだ。春も夏も秋も冬も、俺は吹けば消えそうなともしびを、全力で守り続けた。
やりきれない現実に対し、そこから無心になるために受験勉強というのは役に立った。
そうだな、ちょうど失恋した男が現実逃避するためにどっか知らない国に出かけるような感じ、とでも言えばいいだろうか。
何も失恋などしてないが、そのように、一方で本当に大事なこととはまったく関係のないことに集中することで、俺は時折おかしくなってしまいそうになるのを何とか防ぐことができたのだ。
おかげで奇跡の第一志望合格なんて快挙を成し遂げたが、今それはここではどうでもいい。
そうして一年間、俺はズレた気持ちを抱えたまま、煮え切らない思いを抱いたまま、ただひたすら長門を待った。
「長門!」
一年前に消えた時とまったく変わらぬ姿で、長門は文芸部室の椅子に出現、再構成された。
長門は一年前の続きを再生するかのように、無音で瞬きをし、
「あなたに謝らなければならない」
そう言った。俺の記憶にある通りの声と表情で。
それは他の奴から見れば愛想も感情もないものに思えるだろうが、そうでないことを俺は知っている。一年経とうとも、長門有希の表情に対する俺の観察眼は衰えやしなかった。
「あなたの記憶だけを今日まで残した」
長門は、いつだったか世界を変えてしまった時、俺に詫びを入れた時のように訥々と、
「情報統合思念体の指令では、一年前に、あなたの記憶も含め、わたしと朝比奈みくるに関するすべての記憶を、予定通りあなたたちから消去するはすだった」
「ハルヒや古泉までお前と朝比奈さんのことを忘れちまったのは、そのせいなのか?」
長門は瞳の光をわずかに揺らせ、頷いた。
「一年前、わたしは朝比奈みくるに記憶消去を依頼された。彼女は自分でそれを行うことも出来たが、それは彼女にとって酷なことだった」
長門は淡々と言葉を紡ぐ。
このあたり、一年経っても何も変わっていない。それだけに俺は懐かしくなり、何か、何でもいいからこいつに言ってあげたかった。
しかし、そんな気持ちとは裏腹に、口から出てきたのは長門の発言に対する質問だった。
「その朝比奈さんってのは、より未来から来たほうのだよな?」
長門は頷いた。
そうか、と俺は思う。俺にとって未来の、そのまた未来からきた彼女。
初めこそ見惚れそうになっちまったが、俺はだんだん、その真意を測りかねるふるまいに、あの人のいいように使われていたんじゃないかと思った日もあった。
大人になった彼女にとって、俺の存在などもはや都合のいい駒でしかないんじゃないか……ってな。
しかしそうじゃない。彼女のほうも間違いなく朝比奈さんで、一年前未来に帰ってしまった彼女自身なのだ。
そんな当たり前のことを、一年経った今、ようやくもって俺は実感した。長い間残っていた胸のつかえが取れたような気がする。
長門は公正な審判を下す天の使いのように穏やかな様子で、
「記憶を消去すれば、この時間にいるあなたたちは、彼女がここにいたことを二度と思い出せなくなる。朝比奈みくるの未来にとってそれは必要なことであるが、彼女はどうしてもそれを実行できなかった」
「それで長門に委ねたってわけか……」
長門は頷いた。心なしかこいつが穏やかになったように見えるのは、俺がどこかに救いを求めようとする漂流者のような心境だからだろうか。
記憶消去を長門に頼んでいった朝比奈さんを責める気は毛頭ない。
なぜかって。逆の場合を考えてみればいい。だって、できるか。彼女にとっては昔のこととはいえ、一緒に長い時間、楽しく過ごした相手に向かって、自分に関する記憶をまるごと消すような真似が。
それはとても残酷なことだ。永遠の別れよりよほど悲しいかもしれない。
例えば、誰かが天寿を全うした時、残された者たちはその人物を偲ぶことができる。思い出すたび、思い出す人の中で彼は生き続ける。
ありきたりな言い方に聞こえるかもしれないが、それはまさしくその通りだ。生きている限り、人は人を思い出すことができる。
しかし、残された人から記憶を消去してしまえばどうだろう。
それはなかったことと同じになってしまう。初めからどこにも存在しなかったことと同じだ。間にどんな思い出があろうと、それら一切がなくなってしまうのだから。
普通、そんなことできやしないだろ。俺ならできない。例え嫌いな奴が相手だったとしても、誰かに覚えていてほしいと思うのは、もしかしたら人間の本能なのかもしれない。
長門は静かなまま、
「わたしはあの日、あなたの記憶も消去する予定だった。しかしあなたを見ていると、それを実行することがどうしてもできなかった」
淡々としているのは口調だけだ。事実、長門は続けてこう言った。
「わたしは、完全ではない」
「長門……」
何言ってんだ。完全な人間なんてこの地上に一人も存在しねえんだよ。そっちが普通で、むしろ完全無欠な超人のほうがどうかしてる。
ハルヒだって佐々木だって、どっちも優秀ではあったが、それぞれに問題を抱えてたじゃねえか……。
「しかし、わたしは彼女たちとは異なる。わたしはヒューマノイド、」
「違わねえよ」
俺はきっぱりと言った。
「長門。お前はお前だ」
解ってるはずじゃないか。それが情報統合思念体の収穫でもあったんだろ。自己同一性。アイデンティティ。わたしはここにいる。言葉は何でもいい。だからこそ、お前はこうして俺に記憶を残してくれたんじゃねえか。
長門有希は純粋な瞳で俺を見る。そう、この表情を見ればよく解るとも。出会った頃とはまるで別物。
たしかに、万能じゃなくなったかもしれない。しかし、自らの意思でそうしたからこそ、こいつは他の誰でもない、こいつ自身になったんだ。
俺はしばらくの間、長門を見ていた。長門も俺を見つめていた。
そして、まったく自分でも気づかないうちに、俺は長門を抱きしめていた。
どれだけ強くつかまえていても、もうじきそれはなくなってしまう。
そういえば、俺がこうして長門に触れたことなんて、ほとんどなかったように思う。
もっと早く気がつけばよかった。
でももう遅い。こいつも消えてしまう。みんなみんな消えるのだ。そうして、一人一人、俺の前から去っていく。楽しいことは、すべて終わってしまったのだから。
たくさんの出来事が蘇ってくる。
ハルヒが結成したSOS団。宇宙人に情報統合思念体。未来人。機関と超能力者。野球、七夕、孤島、ループサマー。映画撮影にライブ、ゲーム対戦。何でもないような一日。幻の三日間。雪山、ラグビー観戦にバレンタイン。会誌づくり、阪中家の犬の散歩。
そんな出来事の外にある、いつもの風景。何気ない日常……。
すべて過ぎ去った。
もう俺は高校生ではなくなり、超常現象にも遭遇しなくなり、ハルヒの思いつきの元、SOS団で毎日を過ごすこともない。
「長門……」
強く抱きしめる。力を込めると消えてしまいそうなのに、俺は感情の昂ぶりを抑えることが、どうしてもできなかった。
長門は何も言わなかった。
やがて、そっと両手を俺の背中に添えた。そんな硬い所作を通じ、俺はこいつの中にも形容しきれない思いが、『感情』が、たしかに存在しているのを感じ取った。
「なあ、長門」
長門は何も言わない。俺はその無音に果てしない安心感を覚える。
「もうさ、ハルヒも古泉も、お前たちのこと覚えてないんだ」
「……」
「SOS団の話をしてもろくに通じないしさ。『もう受験なんだし、本腰入れなきゃダメよ』ってな。記憶を消したら、俺もそんな風になっちまうんだろ」
「……」
「長門。俺さ、こんな日が来るなんて、ほんと、思ってもみなかったんだよ。それはずっと先のことだと思ってて、本当に、ほんとに……こんな風になるなんて、考えもしなかった。
その時になれば潔くなれるとか、そんなカッコつけたような、バカげた空想しててさ」
長門は動かずに、俺の三年分の心情吐露を、ただじっと聞き続けてくれる。
「でも、ちがうんだ。実際は全然、そんなことなかったんだよ……」
「…………」
長門の指先に、ほんのわずかな力が加わった。
俺はどうにかなりそうなのを無視する。
「俺はあの毎日が好きだった。
ハルヒも朝比奈さんもお前も古泉もいて、部室でゲームしながら茶飲んで、たまにハルヒが思いつきを実行して、俺たちはそれに振り回されて。
やれやれ、なんて言いながらさ、でも内心いっつも楽しみで。気付いたら、いつの間にかそれがちっとも嫌じゃなくなってて、楽しくなって、楽しくてたのしくて仕方なくて……長門、お前も解るだろ……」
長門は何も言わない。
しかし、カーディガンの向こうには、たしかな温もりを宿している。
こういう時、こいつがうまく言葉を選べないことは俺が一番よく知っている。だからその代わり、俺は長門を抱き寄せ、体温を共有することで、互いの伝達手段の代わりにした。
「ごめんな、長門。何かわかんねえけど俺……それくらいしか言えね、」
途中から言葉にならなかった。
俺はぼろっぼろに泣いて、三年分の憂鬱を丸ごとまとめたくらい泣いて、泣き続けた。
長門はただ、じっと俺を待っていた。背中に温かい両手を回したままで。
「わたしも」
長門は言った。俺ははっとして顔を上げる。
「わたしもあなたに謝りたい。わたしが記憶消去をためらわなければ、あなたが一人でこの一年間を過ごすこともなかった」
「長門……」
それはいいんだよ、もう。
「どうして消えなきゃならないんだよ……」
長門はふたたび消えかけていた。
今度こそ本当の終わりだ。光のせいか、ろくに前が見えねえじゃねえか。
くそ、ばか。しっかりしろ、俺の視力。もう二度と会えねえんだぞ。
何もかも。こいつがいなくなってしまえば、俺の記憶も、SOS団での日々も、五人の思い出も、すべてが幻となり、溶けてなくなってしまうんだ。
「どうしてだよ……」
色んな思いが混ぜこぜになった中で、俺は思う。思わずにはいられない。
もともと、世界はそんな風にできていない。
誰かの都合のいい空想みたいに、いつまでも心地のいい時間を過ごせるようには、この世界は作られていないんだ。
時が来れば俺たちはその都度、必要な場所まで自分の力で動かなきゃいかん。
それにはつらいことがたくさんある。現に今、俺はつらくてしかたない。できることなら、朝比奈さんや長門やSOS団と、いつまでも別れたくない。この先、これ以上楽しいことがあるかなんて解らないもんな。
しかし、歩き出さなきゃいけない。今がその時だ。それなのに、今までいくつもの決断をしてきたってのに、俺はやっぱり躊躇わずにいられない。
ここから、今すぐ胸張って歩き出すには、俺の高校生活はあまりに輝きすぎていた。
「長門。俺はきっとお前を忘れないからな」
決然と、半ばヤケクソになって俺は言った。声が、もうすっかりグズグズになってる。
「記憶を消そうが何だろうが、絶対に思い出してやる。朝比奈さんだってそうだ。全員揃ってこそのSOS団なんだからな。きっとだ」
「……………………」
長門は今までにない、表情ともいえないような、しかし無表情とは違う眼差しで俺を見て、そして――、
長門有希は消失した。俺の記憶と共に。
*
「……思い出せないわ、やっぱり」
そう言って、ハルヒは机にへばりついた。
春の太陽はすでに西に傾き、文芸部室には俺たちの影が伸びはじめていた。
互いに存在しない人物の記憶を持っていることの奇妙さに、俺とハルヒはその二人の存在を思い出そうとし、今日一日を費やしたが……やっぱり浮かんでこなかった。
「そろそろ帰らないといけないな」
「あたしが敗北を喫するなんて認めがたいわ」
ハルヒは拳骨でどすんと机を叩く。かつてそこにあった『団長』の三角錐は、今は跳ねることもない。
「そうは言ってもな。俺だって何とかしたいさ」
そう言いながら、俺は何の気なしに部室を歩く。夕焼け色に染まった小さな一室は、地上でもっとも温かい場所のように思えた。
本棚の前で足を止めると、ぎっしり詰まった蔵書の中から、一冊のハードカバーを手に取った。当時読んだ覚えもないSF本だが、手に取ると、なぜだかそれはしっくりと手に馴染んだ。
パラパラとページをめくり、あるところで手が止まる。
そこには栞が挟まっていた。
花の模様が描かれた、どこにでもあるような栞。なぜか俺は気になって、その栞を観察した。裏にも表にも、何も書かれていない。
ん――?
俺は首を傾げる。
「はて。どうして何かが書かれているなんて思ったんだろうな」
俺は本を閉じると、元の位置に戻した。
帰る頃にはハルヒはすっかりしょげていた。
今日はひさびさにテンションマックス状態のハルヒを見ることが出来たが、反対にミニマム状態のこいつも見られた。いいんだか悪いんだか、俺には判断がつかない。
「結局解らなかったわね。ねえ、キョン。もしかして、あれって高校時代を通じてあたしたちの見てた夢だったのかしら。そんなことってあると思う?」
「夢か」
確かにそう言ってしまうのはたやすい。
この世にはまだまだ理解しがたい現象が数多く眠っているし、人類はたまにそうした未知の世界の辺境にまでその足を伸ばすことがある。
しかし、それは他の多くの人にとっては夢や幻と同じようなもので、結局何が真実かなど、誰にも解りはしない。
「きっとさ、転校しちゃって、それっきり連絡先も告げなかったのよきっと。その二人は」
ハルヒが自説を開陳した。さてどうだかな。望み薄な気もするね。それなら学校に記録が残らないわけないもんな。写真にまったく写ってないとこからしてもう変だろ。
「それもそうよね……ああもう! 今日は頭が全然回ってないわ」
ハルヒはまた元の調子に戻り、くしゃくしゃ頭を掻いた。いつになく無邪気な様子に、俺は気がつけばこんな風に言っていた。
「なあハルヒ。ここらでひとつ原点回帰だ」
「原点回帰?」
ハルヒはキョトンとしてこちらを向いた。
「SOS団はこの世の不思議を追い求めるのが活動の第一則だったよな。今俺たちを悩ませている難題は、まさしくこの世の不思議そのものだ。
今日の調査はあいにくうまくいかなかったかもしれないが、だからといって諦めたんじゃ、それこそ過去の俺たちに負けてると思わないか?」
そう言うとハルヒはウサギも目を剥く勢いで跳ね飛んだ。俺につかみかからんばかりの勢いで、
「何言ってんのよ。そんなわけないじゃない。あたしはあの日からずっっっと右肩あがりのウナギ登り、上昇気流の東証一部上場なんだからねっ!」
わっけわからんが。
しかし……そう、それでこそお前ってもんだ。
ハルヒは腕組みすると、どんな手を使ってでも勝とうとする戦国時代の悪大名のように、
「解ったわ。今後この件を調査しましょ。古泉くんも呼んでね。
ううん、それだけじゃないわ。谷口や国木田、鶴屋さんにあんたの妹も、阪中もコンピ研の部長も生徒会長も、みんなみんなみーんな集めて事情聴取してやるわ!」
びしっと夕焼け空を指差して言い切る頃には、すっかり来た時の調子を取り戻していた。
それでこそ団長ってもんだ。
じゃなきゃ、俺もヒラ団員として働き甲斐がないからな。
「キョン! ひさしぶりに競争しましょ、麓までダッシュ!」
「マジかよっ、スタートの合図くらいよな、おい!」
そうして、俺たちは懐かしい通学路を駆け下りていった。
春の夕日がやけに眩しかったのを覚えている。
俺のポケットには、あの本から抜き取った栞が入っていた。
折り曲げてしまわないよう、大切にしまいながら。
<了>