「出発します」
涼宮ハルヒを乗せた車のアクセルが踏み込まれる。
「……?」
だが、いつまで経っても走り出す気配がない。
「……あれ?」
どんなにアクセルを踏み込み、エンジン音が激しくなっても車は一向に前に進まない。
「おかしいですね……」
ふと、バックミラーを覗き込む。
「!」
その目が僅かに驚愕に見開き、
「〜〜〜〜〜!!」
薄ら笑いを浮かべた口元が、引きつったように歪んだ。
ドライバーを務めていた古泉はこのときの様子をこう語っている。
『涼宮さんが車に乗るまでの時間ですか?
そうですね…2、3分といったところでしょうか…ええ』
微笑をたたえた端正な口元が、不思議と楽しそうに言葉を紡ぐ。
『ですからその後に長門さんが使用した数々の道具は……ええ。
その2、3分で作り出したということになります』
セダンの後輪が空転する。
それを持ち上げているのは……長戸有希。
そう、あの事件がきっかけです。僕も個人的には賛成です。
例外的にという条件付ですが機関の人員にも機関銃の装備を認めるべきです』
後ろを振り向いたハルヒの目がハッとしたように開かれた。
長門が無表情のまま力を込めた。
そして車が大きく傾き、ハルヒと古泉にかかる重力が一時的に狂う。
『ええ、ひっくり返されました。いえ…一気にです。
こう…一気にゴロンという感じでしたね』
割れたドアの窓ガラスからハルヒが這い出る。
そのハルヒの頭を、不意に衝撃が襲う。
「本当に甘い」
そう囁くように言った長戸の腕が振り上げられる。
その手に握られているのは…警棒だ。
「やはり有機生命体」
警棒を握った腕が振り下ろされた。
ガッ、と鈍い音を立ててハルヒの横顔に警棒が衝突する。
続けて何度も、ハルヒへと向けて警棒が振り下ろされる。
「あのまま一気に追い込めば貴方の勝ちも十分にあり得た」
腕を上げ、手に持った警棒を無表情に眺める長門。
度重なる強烈な衝撃で、警棒は歪に広げたMの字のように折れ曲がっていた。
ハルヒがのっそりと起き上がると同時、長門は曲がった警棒を投げ捨てる。
目の端で長門を捉え、怒りをみなぎらせた瞳で睨みつけるハルヒ。
歯を食いしばり、拳を構えて猛然とハルヒが突進する。
次の瞬間、放たれる大砲のようなストレート。
ッドン!!
轟音が鳴り響く。
だが、これは長門の顔を拳が捉えた音ではない。
ハルヒの左膝が出血している。
その傍らで、何も変わりないかのように立っている長門の手に握られている物。
それが再び轟音を放つ。
ドン!ドン!ドン!!ドン!!!
それが何なのか…もう判っているだろう。
拳銃だ。
両膝を弾丸に貫かれ、その場に倒れこむハルヒ。
「喧嘩(ファイト)じゃない」
完全に上下反転した車を背に、長門は弾倉が空になった拳銃を投げ捨てる。
「殺し合い」
新たな拳銃をスカートの内側から取り出す長門。
その顔にミクロ単位の笑みが浮かんでいるような気がしたのは、妄想だと信じたい。
「私のような世界に生きる人間にとって」
ゆっくりと倒れたハルヒに歩み寄る長門。
「勝負とは」
その足が閃光のように閃き、ハルヒの胴体にぶち割るかの如き蹴りが突き刺さる。
「たとえば」
ッドン!!
ハルヒの体が僅かに浮き上がったと同時、右膝に新たな銃創が刻まれる。
痛みのためか驚愕のためか、無表情なハルヒの目が見開かれる。
それを目にしても、なんら表情を変えない長門。
その長門が、重力に引かれて落ちるハルヒの右腕を掴む。
「あなたと私との全てを賭けた命の奪い合い」
ハルヒの腕を掴んだまま、ハルヒを見下ろしながら無個性な声で囁く。
そのハルヒは出血のせいか、焦点の合っていない虚ろな目をしていた。
「不意打ち、だまし打ち、武器使用」
肘を上げ、ハルヒの体を持ち上げる。
「全て許される」
『空間を作ったんです。アスファルトと頭の間にこう…10センチほどの』
そう言って、古泉は両の手を用いて空間を示す動作をした。
『空手の試し割りに時々使われるトリックと一緒ですよ。
石と下の鉄床との間を少しだけ空けておくんです――
そうして叩くと素人でも割れるんですね。結局鉄で叩いてることになるわけですから。
しかしそれを――アスファルトと人間の頭でやるんですからね……』
長門の足が、ハルヒの頭を踏みつけてアスファルトへと叩きつける。
『すごい音がしましたね。グシャ、というかドチャ、というか……』
呆れたように言って、ゆっくりと頭を左右に振る古泉。
だが、その口元は未だに微笑を崩してはいなかった。
ドガッ!!
ドギャッ!!!
ズゴッ!!!!
長門の足が振り下ろされる度にハルヒの頭はアスファルトへと衝突し、
その度に酷く聞きたくない音が響き渡る。
『?「殺されると思ったか?」って……涼宮さんがでしょうか?』
少し首を傾げた古泉は、それきり黙りこんだ。
指を組んだ手をテーブルに置き、一つ溜息を吐く。
『やはりあなたは判っていないみたいですね……涼宮ハルヒという人物を――』
妙に困ったような微笑を浮かべて、古泉が再び口を開く。
『まあ、ああなってしまえば普通は勝負ありです……そう、普通は。
ですがこれは涼宮さんの話です』
意識が朦朧としたハルヒの顎が掴まれ、口の中に銃口が捻じ込まれた。
「グッドラック」
長門が無感情に言い放ち、引き金を引く。
ドン!!ドン!!!
ハンマーが打ち下ろされ、シリンダーが回転し、轟音と共に弾丸が打ち出される。
その時、長門の顔がミクロ単位とはいえハッキリと変わった。
『こう……撃たせたんですよ、頬を……もう無茶苦茶です』
ハルヒの腕が長門の足を掴み、そのバランスを大きく崩した。
そして襲い掛かる、凄絶な笑みを浮かべたハルヒ。
『馬乗りです。そう、子供の喧嘩のように。長門さんも多少の抵抗はしてたみたいですけど。
あとはヒドいものです。試し割りの原理――今度は自分が体験することになるわけです』
まるで自分の武勇伝を披露するかのような楽しげな微笑を浮かべる古泉。
『「機関」に属しているわけですから涼宮ハルヒの伝説は当然耳にしていました
しかし見ると聞くとでは……鬼気迫るというか……。』
握りこんだ拳をハンマーか何かのように振り回し、ハルヒが長門の顔面を殴りつける。
そしてその度に、長門の後頭部はアスファルトの地面と濃密なキスをする。
『女性である彼女にこういうのもなんですが……ちょっと憧れますね、男として……』
『単純にスゴい、と……喧嘩が強いというのはスゴいことだと思ってしまいましたね。
僕は人畜無害で通していますがそこはほら……男の本能といいますか』
古泉の微笑に、自嘲するような色が混ざる。
『何発叩いたんでしょうね……もう大方勝負は決したかというところでした。
妙なことをしたんですよ、長門さんが……』
ハルヒの拳がその動きを止めた。
その視線の先にあるのは、自分の掌を目の上に乗せた長門の姿。
『目隠しです。左手でこうして……時間にしたらほんの1、2秒。
涼宮さんのパンチが中断した――その瞬間でした』
長門の右手の指が動く。
その右手に掴まれていた何かが、ハルヒの顔の直前に投げ上げられる。
それが――爆発のように発光した。
『何が起こったかはすぐわかりましたよ。
僕ら「機関」の人間が知るこの世で一番強烈な光ですから。
あなたも知ってるあの事件――バスジャックでも使われたあれですよ』
頬杖をつき、人差し指を立てて解説を始める古泉。
『包丁を持っていても拳銃を持っていても。
あの光を浴びた人間のとる行動は一つしかないんです』
≪身体を丸める≫
『あの事件でももちろんそうでした。老若男女これは本能なんです。
……しかしそこが涼宮さんなんでしょうね。立っていたんですよ。
いえ、ひるんだ様子はまったくありませんでした。
しかし視力は無かったんでしょう……的を外したんです』
ハルヒの拳がアスファルトを叩く。
その瞬間、長門は弾かれたようにハルヒの下から抜け出し、その背後に回りこむ。
『武器の使用を十八番にしていた長門さんですが――追い詰められていたんでしょうね』
ハルヒは回り込んだ長門に気づかない。
そして長門はハルヒの背中にまとわりつき、その首に腕を回す。
回した腕をもう片方の手で挟みこみ、更にその手でハルヒの頭を掴みロックする。
所謂、裸締めというやつだ。
『最後の最後――――最も信頼に足る武器として使用したのは己の肉体でした』
長門の目に僅かに力が篭り、それに呼応するようにハルヒの首を締め上げる。
締められるハルヒの方は、血走った目を見開き、顔中を真っ赤に染め上げていた。
『僕も「機関」で多少の訓練を受けた身ですからこれはわかります。
完全に極まった裸締めは絶対に逃げられない。
――もっと厳密に言うと、逃げられる返し技が無いというべきなんですが』
そう言うと、古泉はまた妙に爽やかな微笑を浮かべた。
『ここであえて「技」という言葉を使ったのはですね』
ハルヒの腕が伸びる。
『あれは技じゃありません』
首を締め上げる長門の腕を両手で掴む。
『涼宮さんの能力というのはどんな計器でも計測できない……
自在には使えないとはいえ、神にも等しい能力というのは凄まじいものですよ』
パンッ!!
破裂音。
長門の目が、今回は誰が見ても判るほどに開いた。
その腕から血が出来損ないのシャワーのように噴き出す。
外れた裸締めから、ハルヒは倒れこむように逃げ出した。
『瞬間的に自分の握力情報を書き換えて人間の腕を挟み潰すとは……技ではありませんよ。
後で聞いたのですが「握撃」と名づけたそうですよ。「機関」やTFEI端末の方々は。
何が起きたのか……理解していたのかどうかは判りませんでしたね、長門さんの顔は』
変わらぬ無表情で血の噴き出す腕を見つめる長門。
その太腿を、ハルヒの指が万力のような力で捻った。
ブチッ、と嫌な音を立てて長門の太腿がの一部分が強制的に分離させられる。
『あれは痛いでしょうね……そんな握力で腿をつねるわけですから。
ええ、これももちろん技ではありませんよ』
長門の顔は相変わらずの無表情だが、地に尻を着いたまま立ち上がらない。
やはり痛覚があったのだろうか。
それを同じような無表情で見つめながら、ハルヒは捻りきった肉を投げ捨てた。
長門の腕が、急激にブレる。
その手の先が精密機械のようにハルヒの顎を捉え、横に振りぬかれる。
『顎でしたね。手刀でこう―――綺麗に捉えてました。
普通なら脳震盪で昏倒ですが……それでも涼宮さんの攻撃は止められなかった』
ハルヒの腕先が、先ほどの長門の動きをなぞるかのようにブレた。
その指先が、長門の喉へと貫く一歩手前まで突き刺さる。
『貫手です。偶然ですが――長門さんの「呪文」も同時に封じてしまったんですよ。
無論、長門さんの能力など知らなかったのでしょうが……これも涼宮さんの能力でしょうか』
長門が後ろに倒れこむ。
『立ってたそうです。両膝を撃ち抜かれていたことは確かですよ』
糸の切れた人形のように横たわる長門。
その横で、空を見上げるかのように顔を上げて仁王立ちするハルヒ。
『それが涼宮ハルヒという人なんですね……』
ジリリリリリリ……
けたたましいベルの音が俺を夢の淵から呼び覚ました。
身体を起こし、寝癖のついて呆けた頭で周囲を見渡す。
………なんちゅう夢だ。
枕元には、昨日ハルヒがどっかからかっぱらってきた漫画の単行本が一冊。
こいつのせいであんな妙な夢を見たに違いない。
ハルヒに『読め』と言われて持ち帰ったが、こんなもんはとっとと突っ返すことにしよう。
願わくば、ハルヒがこいつに影響されてまた妙なことを起こさないように祈りながら。
終。