深夜の真っ暗なマンションは、気味悪いくらい静かだった。  
 玄関の造りといい、床と壁紙の色合いといい、趣味は悪くない。  
 床にはゴミどころかチリ一つ落ちてない。真新しいワックスの光沢が残っている。  
 少なくとも人の暮らしてる部屋じゃない。がらんと肌寒くて、まるで空き家だ。  
 なんであたしここに居るの。  
 あいつはどこに居るんだろう。  
 こんな夢を見る時は、決まってあいつが一緒にいるはず。  
 マンションの中か、それとも外か。  
 足元の二足の靴が目に入る。  
 乱暴に脱ぎ捨てられた大きな靴と、キレイに揃えて並べられた小さな靴。  
 大きい靴には見覚えがある。小さい靴は女物。  
 かっと頭に血が昇るのが自分でもわかった。  
 あいつはここにいる。彼女と一緒に。  
 リビングへとまっすぐ駆けだした。  
 電気は点いてないけれど、あいつの背中は毎日目にしてる。  
 あいつの背中が、誰かを抱きしめて見下ろしている。  
 あたしは彼女を知っている。  
 あたしに背を向けたあいつに怒鳴りつける。  
 聞こえてないの。あんな大声で叫んだのに。  
 そう言えば静かすぎる。さっきも床板を踏み鳴らして走ったのに、音が聞こえなかった。  
 なんなのこの部屋。床は廊下と同じくらいキレイなのに、部屋にゴミ箱が見当たらない。  
 どうなってんの。  
 これは夢なの。  
 体を動かそうとしても身動き一つ取れない。  
 息してないのに苦しくない。  
 瞬き一つしてないのに目が乾かない。  
 唇を吸う物音だけが、不自然に大きく聞こえる。  
 あいつの後ろ頭がこっちに引いて、現れた有希の顔にあたしは凍りついた。  
 
 蕩けてる。  
 黒檀みたいな有希の瞳が、熱い視線であいつを見つめてる。  
 口元に残った糸を舌で絡めとって、満足そうな笑みを口元に浮かべてる。  
 やめてよ有希。あなたそんなキャラじゃないでしょう。  
 あなたは何があっても無口でクールで、無表情のままがいいの。  
 あたしたちがバカやって騒いでる横で、音も立てずに分厚い本読んでるのが似合ってるの。  
 あなたのそんな爛れた表情なんか見たくない。  
 甘えた声で告げる愛の言葉も聞きたくない。  
 団員だと思ってたのに。仲間だと思ってたのに。  
 友だちだと思ってたのに。  
 
 見つめあって、頷いてる。あいつがようやく動いた。  
 体を入れ替えて有希の後ろに立つ。  
 熱に浮かされた有希の目が、ずっとあいつの姿を追っている。  
 やめなさい有希。いい男なんて世の中に腐るほどいるでしょう。  
 なんでそいつなの。悪いことは言わないから止めときなさい。  
 大声で忠告したのに、有希はあたしに気づかない。あたしが真正面に立ってるというのに。  
 あいつはあたしの存在なんか気にもしない。有希の耳元で愛の言葉を囁くだけ。  
 あたしに見せ付けるように、二人が唇を重ねる。  
 あいつの手が有希のスカーフにかかる。呆気なく解いてしまう。  
 何度も繰り返した淀みない慣れた手つきで、あいつが有希の制服を脱がせていく。  
 
 雪みたいに透き通った白い肌が現れた。  
 あたしの肌よりずっとキメの細かい、有希の綺麗な肌。あいつの指がその上を這う。  
 暗闇の中でもくっきり浮かび上がる神々しい肢体は、まるで妖精みたいに幼い体つき。  
 それでも有希は感じてる。  
 あいつの手が動く度に、有希が女の吐息を微かにこぼす。  
 崩れそうになる体を支えようと、あいつの腕にしがみつく。  
 その仕草があいつの手をもっと望んでるように見える。  
 まだ生えそろってない下腹部の、さらに奥へとあいつの手を導く。  
 有希の下腹に隠れたあいつの指先が、湿った音を立てる。  
 きゅっと目を瞑ってその感覚に耐えようとする、有希の頬が真っ赤に染まってる。  
 やめてよ。  
 あたしの叫びは届かない。二人の物音はハッキリ聞こえるのに。  
 耳も塞げないし目も瞑れない。音と光景が脳に伝わって、あたしの胸を悲しみで一杯にする。。  
 あたしは映画の観客だ。  
 この残酷な光景を無理やり鑑賞させられる、哀れな観客だった。  
 
 好き、とうわ言を繰り返す有希の姿も。  
 俺もだ、とその度に答えて有希の肌に吸い付くあいつも。  
 見たくないのに、二人だけの世界に没頭する様子から逃れられない。  
 有希が背中をのけぞらせた。  
 力なくフローリングに崩れた白い裸を、あいつが仰向けに寝かせ直す。  
 舌なめずりするあいつが、無防備な有希の上に覆い被さって。  
 痛みを堪える有希の短い悲鳴。初めての相手にあいつを選んだんだ。  
 そして、あいつは有希を選ぶ。彼女と出会うきっかけとなった誰かじゃなくて。  
 最後に有希が大きく鳴くのを合図に、二人の体が重なって。  
 まるで壊れ物を扱うように、あいつがゆっくりと動き始めた。  
 
 惨い。酷い。  
 もうこれ以上、あの二人がお互いを求める姿なんて見たくない。  
 こんな地獄みたいな夢はもう沢山だ。  
 誰が見せてるの。  
 夢ならいい加減覚めてよ。  
 現実ならこんな世界なんていらない。  
 これは嘘なの。それとも本当なの。  
 お願い、誰か教えて。  
 
 もうイヤだこんなの。  
 
 枕元のケータイを取れば午前二時。  
 風邪引いた訳でもないのに、鼻の奥がむず痒い。  
 見下ろせば枕に湿った痕。顔に張り付く髪の毛がうっとうしかった。  
 近くに鏡がなくてよかった。見てられないほどひどい顔してる。  
 やけに生々しい夢を見てしまった。なんであんな夢見たんだろう。  
 外では車の音がやかましい。まるでこの世の終わりみたいに慌てたタイヤ音。  
 何か事件でもあったのかしら。最近この辺も物騒になってきたわね。何してんのかしら警察。  
 事件を見ようと外に飛び出す気力もない。窓を開けて「近所迷惑でしょ」と怒鳴るのも面倒くさい。  
 こんな無気力で弱々しい女、あたしじゃない。  
 病気が再発したのか。  
 ずいぶん前に罹って、それからずっと治まってたのに。  
 
 人生は短い。頑張って長生きしても、たった一世紀ぐらいしか生きられない。  
 楽しい事なんてあっという間に逃げちゃうし、取り逃がした楽しみは二度と戻って来ない。  
 少しでも多く捕まえたければ、面倒事で悩むのはできるだけ少ないほうがいい。  
 限りある命を精一杯楽しく生きたければ、誰かに心を乱されてる時間がもったいない。  
 悩まされ、振り回され、目の前にある楽しい事をみすみす見逃すなんて、正気の沙汰じゃない。  
 あたしたちの命だって、誰かに与えられたものだ。その人生を楽しまないのは絶対おかしい。  
 おかしいと解っていても、悩みや苦しみから逃げられない。だから病気なんだ。  
 
 昔からそう考えてたし、今もその考えは変わらない。  
 昔と違うのは、今は独りじゃないってこと。  
 一緒にいて楽しい、あたしと一緒に楽しんでくれる仲間がいること。  
 一人で手に入れられる楽しみなんて、たかが知れていると教わったこと。  
 あいつに出会ってから――   
 
 あいつのせいだ。思い出したらムカッ腹が立ってきた。  
 あいつが私を悩ませた。あいつがあたしを振り回した。  
 あいつのせいで病気が再発した。  
 あんたは雑用係でしょ。悩むのも振り回されるのも、あんたの役目でしょ。あたしの役目じゃない。  
 悪夢に魘されたあたしの貴重な時間を返せ。その間に取り逃がした楽しい夢を返せ。  
 そうでなくとも、もう三日もあんたに盗み取られたのよ。  
 あたしの限られた人生を、これ以上悲しみですり減らすな。  
 この時間ドロボウ。今頃さぞや気持ちよく寝てるんでしょうね。  
 あんたなんかが惰眠をむさぼってる時間なんてないのよ。起きろ。死んでても起こす。  
 考えるよりも早く指先が動く。ケータイの発歴を開いて一番上の番号に電話する。  
 
 一コール半で名前を呼ばれて、返事をするのが少し遅れた。  
「起きてたの? こんな時間に?」  
 ビックリするほど間抜けな質問。  
 あたしのものとは信じられない、上ずった女の声。  
『起きてたから電話に出た。今何時だと思ってるんだ』  
 あいつの憔悴しきった声は、少なくとも寝起きのそれじゃない。  
 寝起きのあいつはもっと機嫌悪い。  
「二時よ。今どこにいるの? こんな夜中に何やってるの? 一人寂しく枕を濡らしてたとか?」  
 あたしの口が矢継ぎ早に訊く。  
 散々罵り倒してやろうと思って用意してた言葉が出てこない。  
 何やってんだろあたし。バカじゃないの。泣いてたのはあたしの方なのに。  
『そうならまだマシだったよ』  
 疲れ切った溜息は、あいつの話し声よりも一回り大きく聞こえた。  
 あんたはオッサンか。  
 まだ人生の四分の一も生きてないのに、その歳で枯れないでよね。  
「何か世界の終わりでも乗り切ったみたいな声ね。何があったの? まさかその歳でオネショ?」  
『するかよ、俺はウチの妹か。大体オネショで終わる世界ってどんな世界だよ。俺は嫌だぜ』  
「あたしだって嫌よ。生まれた世界がそんなだったら、命に換えてもひっくり返してやるから」  
 一瞬声が詰まったような気もしたけど、すぐにあいつの呆れ声が返ってくる。  
『お前が話題振ったんだろうが。自分で否定するか』  
「あんたが勝手にあたしの話を捻じ曲げたんでしょ。人の話を聞けっていつも言ってるじゃない」  
『それ、いつも俺が言ってるセリフなんだが』  
 電話の向こうで噛み殺された忍び笑い。釣られてあたしもつい笑ってしまう。  
 
 あれ。  
 今気付いた。あたし冗談言ってる。あいつと一緒に笑ってる。  
 他愛もないバカ話を交わしてるだけなのに、気分が落ち着いてくる。  
 そんな自分を不思議に思ってると、あいつが力なく打ち明けた。  
『古泉から電話があった。もっと団長をしっかり見てろってな。あんなに怒られたのも久し振りだ』  
 あの温和な古泉くんが、夜中に怒りの電話をあいつにかける。想像もできない。  
 あいつの冗談にしては上出来ね。とりあえず笑ってあげる。  
「嘘でしょ?」  
『嘘じゃないさ。あいつ怒ると怖いんだよ。それに朝比奈さんにも同じ理由で怒られたし』  
 みくるちゃんが。あたしの事で。キョンに。  
「ふーん、あんた一体何やらかしたのよ。んで、みくるちゃんも怒ると怖いの?」  
『迫力こそ無いが、あれでも一旦決めたら梃子でも動かん人だからな。反論するだけムダって事だ』  
「言われてみれば、そんな感じがないでもないわね。あんたけっこう人を観てるのね」  
『だろ? お前こそ何があった?』  
「夢を見たの。有希と――」  
 うっかり口を滑らせた、と思った時には手遅れだった。  
 日に二度もあいつに不意打ち食らうなんて。  
 言えない。言える訳がない。  
 有希とあんたが裸で抱き合ってたなんて。  
 あたしの中に地獄みたいな光景が蘇る。  
 黙ってると、聞こえるのはあいつの声。うろたえてる。  
『おい、どうした。長門が夢でどうしたんだ?』  
 
 長門。ながとながと。あんたいっつもそう。  
 有希が気になるのは仕方ない。それはあたしも同じだから。  
 あの子見ていて危なっかしい子だから、守りたくなるのは分かる。  
 あの子はカゼ引いた時も、絶対に自分から苦しいって言わなかった。  
 大人しくて我慢強くて健気だけど、自分の事を後回しにしてしまう子だ。  
 だからあの子が何かに苦しんでいないか、周りの人が注意してあげないといけないの。  
 それはわかる。  
 けど有希があんたを見る目がどんなのか、あたしはちゃんと見てるから。  
 尊敬と信頼とが混じった、暖かい眼差し。あたしにもそんな目を見せてはくれない。  
 団長のあたしでさえ、有希とあいつの間に割りこむ隙はない。  
 何物にも侵されないその絆は、どうやったら生まれるの?  
 あたしに隠れて。  
 まさか。  
 
 いや、考えたくない。  
 思い返すだけで胸が張り裂ける、あの夢を追い払うために、あたしは――  
 
「ねえ、それより明日逢えるわよね。あたし大丈夫だけど」  
 自分の気持ちとは裏腹な明るい声。  
 なんでこんな声が出せるのか、自分でも不思議でしょうがない。  
 少し遅れて届いた返事はえらく気取った声。  
『団長様のご命令とあらば、俺に拒否権はない。いつだってそうだろ?』  
 声が浮かれてるわよ、マヌケ。  
 もしクラスメートに聞かせたら、絶対あんた谷口以上の腫れ物あつかいされるわね。  
 胸のつかえが引いていく。嫌な不安が音を立てて、小気味よく崩れていく。  
 そうよ、あんなの現実じゃない。  
 少し逢えなかったぐらいで、あんな最低な夢を見てしまうなんて。  
 まだまだガマンが足りないかも。  
「団長を言い訳に使うなんて、ホントに最低な男ね。そんなだからいつまで経っても下っ端なのよ」  
『分かってる、俺はそんなに大した器じゃない知ってるだろ?』  
「当たり前じゃない。あんたとの付き合いもそろそろ長いから」  
 もっと楽しませてくれるなら、もっと楽しんでくれるなら、もっと長いこと付き合ってあげる。  
『そういう事だ。もう遅いし切るぞ。じゃ、また学校で会おうぜ』  
「あ、待って。最後に一言あっていいんじゃない?」  
 夜の挨拶は何だったっけ? 待ち構えてると、場違いな挨拶が返って来る。  
『「こんばんわ」だったか』  
「そうじゃないでしょ」  
 鈍いのか。いや違う。今電話の向こうで鼻歌歌ってた。  
 あいつ分かっててはぐらかしてる。そういう捻じ曲がった性根が大っ嫌い。  
 なのに次の言葉を予感すると、身体の震えが止まらない。  
 つい口に出してお願いしてしまう。  
「聞かせて」  
『そうだな。おやすみ、ハルヒ』  
 あいつの改まった低い声。電話越しに伝わる吐息が、あたしの耳を撫でる。  
 すぐ近くにあいつがいる。この囁きが欲しかったんだ。  
 項がゾクゾクする。唇が無性に乾く。  
 舌で湿らせなきゃ返事もできなかった。舐める音があいつに聞かれてなければいいけど。  
「おやすみ」  
 通話終了のボタンを押そうと思ってたら、先にあいつが電話を切った。  
 
 いつもの自分が戻ってきた。  
 世の中に一つぐらいは、キョンに勝てない競争があってもいい。  
 そう思えるようになるだけ、あたしは前より成長した。  
 楽しい事だってそうだ。  
 失った楽しみは取り戻せないけど、だからこそ嘆いても仕方ない。  
 後悔してる間にも、時間はどんどん過ぎていく。その分楽しい事も逃げてしまう。  
 いつまでも嘆いていたら、人生のバランスシートは大赤字。  
 だから気持ちは切り替える。  
 最後に少しだけいい事あったけど、今日の収支はマイナスだった。  
 でも明日の楽しみは取り逃さない。生きる力をあいつに分けてもらうから。  
 体がポカポカ暖かくなる。それが鎮まると、気持ちのいい眠気が襲ってくる。  
 明日の今ごろは、もっと心地よい眠りについている頃だろう。  
 
<<終>>  
 

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