ハルヒがいつ何を思いつくかなんて、凡人たる俺はもちろんのこと、  
科学者さんたちに申し訳ないほど非科学的な他3人の団員にも推測不可能なことである。  
「いつ」がハルヒの退屈ポイントが一定に達した時であることは、過去の事例を見れば誰にでも分かることだが、  
ハルヒが何を基準に退屈か否かを判定しているかがそもそも俺たちには分からない以上、  
それも結局は隠しパラメータみたいなもんである。  
まあ要するにだ、それをハルヒが言い出したのはいつもどおり突然だったわけだ。  
しかしハルヒのそれがきっかけで俺が体験することになったある出来事には、  
ハルヒの突発的思い付きにも超常現象にも馴れっこだった俺ですら大いに驚かされた。  
 
 
その日は2月にも関わらずフェーン現象とやらでグングン気温が上昇し、いわゆる汗ばむ陽気というやつだった。  
そんな中を1年5組、6組の男子は授業代替で発生した2限連続マラソンの憂き目に晒されたのだった。  
普通に2限ならばさすがに体力を考慮して半分はサッカーか何かをやったのだろうが、  
4限と5限という組み合わせに「間に昼休みあるし大丈夫だろ」とは体育教師の弁。  
下膨れの中年親父が、自分で走りやがれ!  
かくして俺はクソ暑い中を計2時間弱たっぷり走らされ、マラソンの合間に喰うハメになった弁当は  
長距離走特有のわき腹痛を恐れて半分程度喰って泣く泣く鞄にしまったのだった。  
 
そして放課後の部室である。疲労、というより眠気に襲われながら、  
俺は古泉が持ちかけてきた聞いたこともないカードゲームのルールブックを無気力に眺めていた。  
持ち主の回りくどい説明と無駄に難解な文章、さらに日焼けのせいで妙にポカポカ暑いのが余計に眠気を助長する。  
朝比奈さんはいつもどおりの麗しのメイド姿でハルヒの3杯目のお茶のおかわりを注ぎ、  
長門は窓際のいつもの位置で厚物の小説に視線を落とす。  
俺が疲弊しているのを除けばいつもどおりの光景である。  
 
「キョン! まぬけな顔してでっかいあくびしてんじゃないわよ!」  
仕方ないだろ。運動部でもないのに2時間しこたま走らされればバテもする。  
女子はバレーとバスケの選択だそうで、今日は2限とも体育館で試合をしていたとか。  
球技のような分かりやすい勝負事はまさにハルヒの本領だ。  
俺がひーこら走っている間にさぞかしお楽しみだったのだろうよ。  
ハルヒの言う通りまぬけ面になっているだろう俺に比べてなんとハツラツとした表情だろうか。  
「しょうがないわねえ、2時間ぐらい何よ。若いのに情けないとは思わないの?」  
たしかに情けない気もするが、それでもいつもどおり部室に来てるじゃないか。  
マヌケ面をしようがあくびをしようがおまえに文句を言われる筋合いはない。  
「いいえ。」  
そう言って3,4秒ハルヒが言葉を切ったのため、  
反射的に俺はルールブックから視線を上げて仁王立ちのハルヒに向き直る。  
瞬間、俺は「あ゙っ」と叫んだ。心の中で。ハルヒは「あの顔」だ。  
「私前々から思ってたんだけど――」  
俺と目が合ったハルヒは針に魚がかかった釣り人のようにさらに目を輝かせて何やら話し始めた。  
この展開は間違いなくいつものろくでもない思い付きとその計画の発表である。  
俺の方は針にかかった魚の気分だ。  
目が合っただけで哺乳類の長から魚類に格下げされてしまうのだからなんという不条理か。  
「あんたちょっと斜に構えすぎ、っていうかいつもやる気が感じられないのよね。」  
今日はいつもに増して面倒なことになりそうな雰囲気だ。  
「あんたの将来のためにその無駄に曲がった根性を矯正しなきゃ!」  
冗談じゃない。俺の根性が世間に自慢できるものだとは全く思っていないが、  
曲がるどころかうねりうねって大迷宮の様相を呈しているおまえだけは言われたくない。  
だが眠いのも手伝って俺は冷静に応対した。  
「ほう。俺をどうするって?」  
「あら、キョンにしては素直じゃない。いいわ、教えてあげる。」  
いつの間にかもらう立場になっているのが癪だ。  
「人間には抑圧された心理ってものがあるの。それは普段表に表れてるのとは逆の性格の自分で、  
自分が見たくない自分、心の影とも言えるものなのよ。」  
これは聞いたことがある。ユングだっけフロイトだっけ?  
「ユングですね。」  
と俺の疑問に訊いてもないのに古泉のやつが答える。  
おまえもこれから巻き込まれると分かっているだろうに、  
どうしてそんな涼しげなペテン師スマイルでいられるんだ?  
「そう。でも影といっても表裏一体のものだから、地面に出来る影というより月の裏表みたいなもんね。」  
「それで?」  
さっきは冷静だと言ったが、やはりハルヒに性格を咎められたことにムッとしていたのだろうか、  
この相槌は我ながらちょっとアグレッシブな感じだった気がする。  
当然ハルヒはそんな微妙なニュアンスに気付くことなく続けた。  
 
「つまり本当の自分っていうのはその影の部分も含めた姿なわけ。  
そこで! 人が普段目を逸らしてるその影の部分を意識することで、  
 
今までとは違う新しい自分が見えてくるって私思うの。だから――」  
いよいよ本題の発表のようだ。こちとら聞きたくもないが聞いてやろう。  
ユング先生の理論をいつまにか自説にすり替えているのも気になるがまあいい。  
「いつもの自分とは逆のキャラを演じてみればいいのよ。  
そうすることであんたも人間として一歩ステップアップできるはずだわ、キョン!」  
俺に演劇でもやれというのだろうか?  
「そんなお遊び半分のもんじゃないわよ! もっと心からなりきらなきゃ意味ないの!  
 あんたには明日から、そうね、熱血漢のリーダーキャラをやってもらうから、  
 家に帰ったらよく練習しておきなさい!」  
なんで俺だけそんな事をせにゃいかんのか。  
そもそも仮に俺がそのリーダーキャラになりきったところで、  
この部屋には既に団員を自分の手足よりも自由にコキ使う独裁リーダーが君臨中だ。  
まずハルヒと権力の座をめぐって闘えとでもいうのだろうか。  
「あんたのことだからそう言うと思ったわ。感謝しなさい、私たちも付き合ってあげる。  
 みんなでやればあんたもやりやすいでしょ?」  
「ひ?」  
と声にならない声を漏らしたのは湯のみを両手で持った朝比奈さんだ。  
まさか今回は関係ないと高を括っていたんですか? 朝比奈さん?  
彼女が自分は未来から何も知らされていないと嘆き悲しむ原因は、  
上司の朝比奈さん(大)のせいばかりとは言えないのかもしれない。  
無論そんな迂闊で無防備なところがまたたまらないのは言うまでもないがな。  
「僕たちも参加させていただけるのですね。」  
古泉の野郎は例によってすかさず迎合しやがる。というより今回は本当に興味津々な様子だ。  
そういえば文化祭の映画も割りとノリノリだったしな。  
素の古泉そのままでとても演技と呼べる代物じゃなかったが。  
そしてこの後俺はハルヒの言葉に絶句するする。  
そりゃハルヒの言い出すことに呆れるのはいつものことだが、  
このときの驚きは普段とはまた違うものだった。  
「そうねえ、じゃあまずみくるちゃんは・・・ヤリ××女子高生よ!」  
「そそ、そんなヤリ・・・こ、困ります涼宮さん!」  
ハルヒがヤリ××なんて言葉を廊下にも聞こえるような声で高らかに叫んだのも当然衝撃だったが、  
朝比奈さんがその言葉の意味するところを正確に把握していると思しき様子にも軽くショックを受けた。  
「別に本当にセッ×スしろって言ってるんじゃないから安心してみくるちゃん。そういうキャラ、雰囲気よ。」  
「そそそれでも嫌です!」  
おそらくバニーガールのコスプレの時より強固に拒否する朝比奈さんだったがハルヒがそれに耳を傾けるはずもなく、  
この後とうとうと自分が思い描くフシダラな女子高生像を生々しい表現を織り交ぜて語り続けた。  
朝比奈さんもおおよそ話についていっている様子だ。  
 
実を言うと俺はこの後の2人のやり取りをあまりよく聞いていない。  
簡単に言うと白けてたというのかな?  
俺だってもうすぐ2年にもなる高校生だ。いくらまともに付き合ったことがないとはいえ、  
小学生が抱くような女性に対する清楚で神秘的なイメージが男側の勝手な幻想だということは十二分に承知している。  
しかし、なんと言うか、こいつだけは違うんじゃないかって思っていたというか、  
いや、分かってはいたけど実際に目の当たりにして少しガッカリしたというか・・・。とりあえず聞きたくなかったんだ。  
一時忘れていた日焼けの火照りと眠気がふいにぶりかえし、  
シャミセンの鼻息ぐらいの溜息をもらしつつ俺は窓の外に目を背けた。  
その視線が自然と窓際の長門――ハルヒが解説しているようなことには縁がないであろう女性――に  
スクロールしたのはやはり俺が幻想を捨てきれていないということの現われなのだろうか。  
 
俺が軽い自己嫌悪に陥っている間にハルヒは他2人にも明日演じるキャラの指示を出していた。  
一応紹介しておくと古泉がズバリ「不良」。長門が「家庭的な娘」だそうだ。  
本人はどんなキャラをやるのかと俺が訊いたら、  
朝比奈さん(影)に陰湿なイジメを受ける「病弱で弱気な少女」ということだった。  
確かに本人とは真逆の性格だが、いつの間にか妙な設定が増えているのが不安を煽る。  
明日決行という実にハルヒらしい日程を団員に念押しし、この日は解散となった。  
いつもは衣装など外見的に分かりやすい部分から入るハルヒだが、  
今晩は例のハカセくんの家庭教師があるので今回は無しということらしい。  
ハルヒの思い描く熱血キャラのコスチュームがどんなものなのか多少興味はあったが、着る気は当然全く無い。  
 
 
家に帰った俺は妹に夕飯は後で食べるから起こさなくていいと告げて布団に潜り込んだ。  
弁当を全然喰えなかったので腹は減っていたがまずは寝ることにする。  
8時〜9時頃に起きようと思いはしたが目覚ましはセットせず、  
やっぱりシャワー浴びようかどうか考えているうちに俺の意識は夢の中に沈んだ。  
 
 
携帯が鳴っている。メールではなく電話だ。心地よく目覚めるには何を置いてもタイミングである。  
脳が起きているレム睡眠中ならば人間は目覚めが良いらしい。俺の脳はまさにその状態だったらしく、  
この時刻に電話が来るのを予測していたかのごとくスムーズな動作でベッドから起き上がると机の上の携帯を手に取った。  
カーテンの開いたままの窓の外はすっかり暗い。誰か知らないがまあ良いモーニングコールになったよ、ありがとさん。  
なんてふうに思っていたのはサブウインドの発信相手を見るまでだった。  
「長門!?」  
夜更けに女から電話がかかってきたら普通は喜ぶところだろうが、  
俺にしてみたら長門からの電話なんてエマージェンシーコールみたいなもんだ。  
大袈裟ではなく地球の緊急事態だと考えて良い。俺の今の今まで寝ていた脳みそは一瞬で覚醒し、  
上司から指示を受けるスパイのごとき神妙な面持ちで窓際に立って通話ボタンを押した。  
「もしもし、俺だ。どうした?」  
「来て。」  
相変わらずの簡潔すぎる応対だが非常時にはこういう方が分かりやすいくて助かる。  
ハルヒの不条理な呼び出しと違って長門の呼びだしなら相応の理由があるだろうと確信していた俺は  
詳細は尋ねずに長門に倣って簡潔に確認した。  
「おまえの部屋でいいのか?」  
「そう。」  
「古泉たちに連絡は?」  
「いらない。」  
「分かった、すぐ行く。」  
俺はすぐさま着替えて玄関から飛び出し、錠を外した自転車に跨った。  
消防隊員のスクランブル並に鮮やかな一連の動作に変な達成感を覚えながら家を後にし、  
長門の待つマンションへ一目散に走った。  
外出の旨を誰にも伝えてこなかったがまあいいだろう。俺ももう16才だ。  
 
ここに来るのは・・・さて何回目だったかな。  
そろそろ数える必要もないくらいお馴染みのマンションの玄関に俺は到着した。  
インターホンのパネルに迷うことなく「7」「0」「8」と打ち込むとすぐに反応があった。  
「俺だ。」  
「入って。」  
ノータイムの返事と同時にドアのロックが外れ、俺もすぐに入り口を抜けてエレベーターで上階へ向かう。  
やはり映画に出てくるスパイか何かの気分だ。  
長門の部屋に辿り着くまでの少しの間に俺は今日はどんな事件なのかと思考を巡らせる。  
と言っても俺に出来るのは宇宙人がらみなのか未来人がらみなのか、または超能力者がらみなのかという、  
自分を安心させることすらままならないただのヤマカン程度のことなのだが。  
まあ超能力の線は無いとみていいだろう。古泉が噛んでれば喋りたがりのあいつのことだ、  
意気揚々と自分で連絡してくるに決まってる。  
未来人がらみというのは過去の事例から考えるとありそうな気がする。  
何故か長門の部屋と過去への遡行は相性がいいようだし。  
しかし朝比奈さんが長門の部屋へ1人で訪問してそのまま待機しているというのは、  
あの2人の仲を考えるとちょっと無さそうだ。  
朝比奈さん(大)ならばありえないとも言えないが、  
あの人の回りくどいやり方は毎度俺の精神疲労が酷いので出来れば勘弁蒙りたい。  
私用での呼び出しならばいつでも花束を抱えて参上する心の用意はあるだがなあ。  
敵性の宇宙人がらみというのもかなりきつい。  
人間の事なんて何とも思っていないという古泉の言にはそれなりの説得力があるし、俺もそう思う。  
連中のちょっとした気まぐれで簡単に命を落とす可能性も十分あるということだ。  
しかし他でもない長門の頼みなら俺は命を懸けるのに十分過ぎる借りがある。  
当然出来れば死にたくないが、協力を躊躇ったりはするまい。  
実はハルヒの悪戯なのではないかという恐ろしい考えがふと頭をよぎったが、そんなことは考えたくもない。  
長門の「来て」の一言で、明らかにダッシュして来たと分かる短時間で馳せ参じたとなれば  
何を言われるか分かったもんじゃない。  
 
そんな事を考えている内に俺は708号室の前にやってきた。  
立ち止まる前にすかさず俺がベルを押すと間髪入れずにドアが開いて・・・  
 
って、あれ? 開かない。タイミングを計ったかのようにドアが開くと思っていた俺は肩透かしを喰らった格好だ。  
3秒、4秒、5秒、6秒、7秒、ようやくドアが開いて長門が目の前に現れる。  
「入って。」  
部屋でも休日でも長門はいつも北高の制服姿だ。  
というか俺の中では残念ながら制服以外の長門のイメージが浮かばない。  
だから当然今日もその映像が目に飛び込んでくると思っていた俺はまたしても不意を付かれて一瞬思考が停止する。  
目が点になるというやつか。  
長門は制服の上に女の子らしい華やかな柄のエプロンをつけていた。  
「入って。」  
視線を長門の下腹部の辺りに向けたまま固まっている俺に長門は復唱した。  
「あ、あああ。」  
と何とも歯切れの悪い返事をしながら俺は長門宅へお邪魔した。  
前を歩く長門の背中には×字の、腰には綺麗な蝶々結びの紐が見える。  
やはりさっきのエプロンは見間違えではなさそうだ。あのエプロンには一体何の意味があるんだ?  
そしてリビングに近づくにつれて俺の困惑はさらに深まる。  
醤油、そうだ醤油を使った料理の匂いだ。  
惣菜やインスタント食品ではない、鍋を火にかけて作ったとしか思えない濃厚な匂いが充満している。  
長門が煮物料理だと? エプロンをして?  
そしてリビングに入ってコタツテーブルの上にあるものを見た俺はもうパニック状態だったと言ってもいいだろう。  
「座って。」  
促されるままに腰掛けた俺の目の前にはテーブルいっぱいの料理が並べられている。  
ごはん、長葱のみそ汁、茹でほうれん草、肉じゃが、だし巻き卵、さらに茶わん蒸しまである。  
どれも長門流の大盛りではあったが、それ以外は流石は長門有希と感心してしまう見事な出来栄えだ。  
もちろん俺が驚いたのは料理が美味そうなことにではなく、  
色とりどりの料理が2人前用意されている事実の方だ。  
俺は向かいに腰を下ろしてこっちをじっと見ているエプロン姿の長門に一瞬間をおいてから話を切り出した。  
「今日は、その、何の用なんだ?」  
「・・・・・。」  
長門は首は動かさずに視線を俺からテーブルの上に下ろす。  
我ながらバカな事を言ったと思う。普通に考えたら訊かなくてもこれを食べろということに決まってるじゃないか。  
こういうのをパニックって言うんだろうなぁ。  
再び視線を戻す長門。  
「食べて。」  
据え膳喰わぬは云々というのはまた別の喩えだが、  
とりあえず目の間に美味そうなごはんがあるのに食べない理由も無いのでいただくことにする。  
昼をほとんど喰ってないのでかなり腹減ってたしな。しかしその前に確認はせねばならん。  
今日は一体何なんだ?  
「練習。」  
・・・何の?  
「明日の。」  
明日? 俺には思い当たるふしが無いんだが。  
「・・・・・・・涼宮ハルヒに充てられたキャラクターを演じる。」  
超常現象に対応するためのモードになっていた俺のコンピューターは一瞬フリーズしたが、  
ワンテンポしてカリカリッと脳のHDDが回り始め、今日の夕方の部室での出来事を思い出す。  
ああ、そうか、そういうことか。  
ド忘れしていた数学の公式を思い出した時のように俺はパタパタと解等に近づきは始める。  
ハルヒが長門に用意したキャラクターは「家庭的な娘」。  
「だから。」  
どうやら今日は宇宙人も未来人も関係ないらしい。  
エプロンに気を取られ過ぎていたが、そういえば玄関を開けた時から今日の長門の表情はずっと平穏そのものだった。  
俺としたことがそこに気を留めないなんて。  
腑に落ちない部分も残っていたが、とりあえず俺はハルヒや長門や自分に危険が無い事を理解して安堵したのだった。  
そういう事なら電話で一言言ってくれれば俺も心配せずにすんだのに。  
「早く。」  
「あぁわるい。じゃあ、いただきます。」  
冷めないうちにいただこう。貴重な長門の手料理なのだし。  
 
長門と2人きりの食卓に会話らしい会話はほとんど無かった。  
長門が寡黙なのもあるが、それよりも料理のこの量だ。  
この宇宙人は相当燃費が悪いのか、喰い盛りの男子高校生から見ても明らかに多すぎる。  
しかし食べ残すわけにもいくまい。せっかくのお誘いだというのもあるし、それ以前になんとなくそういう雰囲気だ。  
なので俺は一心不乱にテーブルの上の品々と格闘した。  
山盛りの肉じゃがを切り崩し、卵の使い過ぎなだし巻き卵を、  
同じく2人前とは思えないほうれん草と一緒に茶碗に運び、みそ汁と交互にごはんを食べる。  
幸い茶わん蒸しは通常サイズだ。  
「・・・。」  
いつも通りのハイペースで箸を進める長門の動きが急に止まったので俺は顔を見上げる。  
先ほどは不覚を取ったが俺は長門の表情を読む事にかけてはエキスパートの自負がある。  
最近古泉もなんとなく分かっているふうなのが少々癇にさわるがまあいい。  
俺の方を見ている長門は何か訊きたげな様子に見えたが、すぐに長門は視線をよそにやった。  
はて何だろうと考えながらみそ汁のネギを口に運べば答えは自動的に見つかった。  
「美味いよ、すごく。ちょっと量があれだけど、味は非の打ち所がないと思うぞ。」  
決して長門のご機嫌とりのためのおべんちゃらではないということをここに断っておこう。  
一言一句全て心からの感想だ。長門に出来ないことは無いんだなぁとつくづく感心する。  
長門の口元が緩んだように見えたのは多分俺の妄想だ。  
 
やはり相当喰い出があった。ようやく2人で全部食べ終わったが、  
ちょっとがっついて喰いすぎたせいでじゃがいもの内部に潜んだ熱で口の中を軽く火傷しちまった。  
あいつの保温性能の高さにはいつも痛い目を見てるはずなのに情けない。  
全て終わったと見るや長門はすぐさま皿を重ねて後片付けを始める。  
あんだけ喰ったあとですぐに動く気になるおまえはやっぱすげえよ。  
しかし上げ膳据え膳ではこちらとしては申し訳ないので、  
俺も栄養ドリンクのCMよろしく掛け声を心で叫びつつ立ち上がった。  
「休んでて。」  
俺の膝が伸びきるよりも早く長門は俺を制した。いや俺も手伝うよ。  
「いいから。」  
長門にじっと見据えられてはもう一度座り直すしかあるまい。  
何もない部屋では他に目のやり場も無く、俺は長門の皿洗いを眺めることに相成った。  
皿を全て運び終えると長門は一度エプロンを外し、トレードマークの上着を脱いでから再び紐を結び直すと、  
腕まくりをして水道の蛇口を捻った。  
 
水の流れ出る音、それが皿で跳ね返って出る音、時折水を止めるとスポンジで汚れを落とす音。  
また水を出して皿を漱げば今度は排水溝が水を飲み込む音。  
誰もが毎日聞いているであろう日常の音だ。  
今でこそ喰い終わったら早々に自室に引き上げることが多くなったが、昔はそうではなかった。  
心地よい満腹感を携えながらリビングで過ごす食後のひと時、そんな時間にキッチンから聞こえてくる至福のBGM。  
 
家族の記憶だ。  
表情を変えずに黙々と皿を、今はステンレスの鍋を擦っているあいつにはどう聴こえているんだろう?  
やはり単に「調理器具の洗浄に伴う騒音」としか感じていないのだろうか?  
俺はにわかに長門のことを不憫に思った。  
こんな感情は単なる独りよがりさ。  
同情でも何でもないことはよく分かっている。  
でも俺は、やっぱり、それでも、家族がいないって哀しいことだと思うんだ、長門。人の心を持っているなら。  
 
睡魔がいきなりスクラムを組んで押し寄せてくる。  
そういえば今日の俺はいつもよりお疲れの身であった。  
少々詰め込みすぎの胃、及びその他の消化器官に急速に血が集まり脳が手薄になっていく。  
いかん、この眠気はまずい。  
さっきは長門の身の上を案じていたくせに、  
俺自身は真に身勝手ながら今日のこのシチュエーションにえも言われぬ幸福を感じていたと白状しておく。  
そのせいで血流の減った脳内でアルファー波が大量放出されているのだろう。  
涙がおまけについてくるような大あくびも飛び出し、俺はいよいよもう限界だ。  
そろそろ片付けを終えそうな長門には大変申し訳無いが、俺はちょっと横にならせてもらいたい。  
自分が座っていた座布団を2つ折にして枕にし、右半身を下にして横たわる。  
ああ、ますます眠くなってきた。  
上下の瞼が俺の意思を無視して接近し、普段は見えないまつ毛が降りてくる。  
いかんいかん!  
と思って見開いても、もはや2組の瞼は蜜月の関係らしく俺にはどうしようもない。  
意識が遠のく。  
急に体が何かふわふわ温かいものに包まれた気がしたけど・・・よく分からない。  
何か聴こえた気もするが・・・それもよく覚えていない。  
でも、やさしい声だった気がする。  
 
「おやすみなさい。」  
 
「キョン君! お〜きて〜! 朝!」  
やはりタイミングが大切だ。今度はそれが悪かった。  
「あぁ? ん、おお。」  
家族以外にはあまり聞かせたくない白痴を返事をし、  
妹が階段を下りる音を聞き終わってから俺はノソノソと上体を起こしてベッドに腰掛けた。  
外が明るい、今日も晴れそうだ。  
などと呑気な事を考えさせるのもノンレム睡眠の仕業だ。  
次の瞬間俺は昨日の事を思い出し、意味もなく背筋が伸びた。  
昨日俺はあれからどうした? 長門と飯を喰って、眠くなってそのまま寝ちまって、その後。  
思い出せない・・・。  
 
いつもの嫌な予感がしてきたが、そこはこういったことに馴れ親しんだこの俺だ。  
こういう時はまず落ち着いて状況の確認をするべし。  
まず携帯を見る。長門からの着信履歴は無い。  
次に自分の服装を見る。昨日の夕方布団に入った時と同じ格好だ。下着も昨日のまま。  
次は階段を駆け下りて妹に事情聴取。  
自分の事を尋ねるという傍目にはヒジョーに危ない行為を何とかはぐらかしつつ聞き出した結果は以下のとおりだ。  
1、俺は昨夜起きて来なかった。  
2、妹は起こしに行ったが俺は「疲れてる、眠い」と言って起きなかった。  
3、その際妹は枕元まで来て俺の姿を見ている。  
4、夕飯は取り置いてくれと頼んでおいて食べなかったことにオフクロがご立腹である。  
ということらしい。  
あぁ、また朝から面倒なことに・・・。  
とりあえず4番の問題を解決すべくオフクロに陳謝してから、冴えない頭を覚醒させるべく洗面所に向かう。  
顔を洗ってからゆっくり考えよう。  
鏡に映る俺はいつもの朝の顔だ。風呂にはやはり入っていないらしく、昨日大汗を書いた頭は少しゴワゴワしている。  
今からでもシャワーを浴びようかとも思ったが時間も無いし、何より2月の朝は風呂の湯無しではまだまだ寒い。  
ああまったく鬱陶しい。試験が終わったその日にいきなり宿題を出されたような、全て投げ出して逃げ出したい気分だ。  
しかしそんな俺の憂鬱な朝は長くは続かなかった。  
正確には歯ブラシに歯磨き粉を付けて口の中に突っ込んだ瞬間にそれは終わった。  
 
時刻は飛んでその日の放課後。  
俺は1人で部室に向かっている。  
ハルヒはかつてないほどの拒絶の意思を露にしていた朝比奈さんが  
万が一にも逃げ出さないようにと教室までわざわざ迎えに行っている。  
知らない人が見たら悪質なイジメを受けているようにしか見えないだろうな。  
2年生は6限にあった進路関係の集会で放課が遅れているようで部室棟に2年生の姿はない。  
よって朝比奈さんを引きずったハルヒが後ろから走ってくる気配も皆無だ。  
願ってもないことだ。  
俺は古泉がまだ来ていないことと、あいつが来ていることを願いつつ、今日はノック無しで文芸部室のドアを開けた。  
今日の俺はツイいている。願いは過不足なく叶えられた。  
「よう。」  
 
昨日のあれは夢でも幻でも、仮想現実でもパラレルワールドでもない。  
俺は長門の部屋に呼ばれ、確かにあそこで長門の手料理をたらふくご馳走になった。  
俺の口の中に肉じゃがのじゃがにやられた火傷が残っているのだから間違いない。  
それが朝、歯磨きで気づいたことだ。  
 
俺はあの時長門を眺めながら1人眠り込んでしまった。おそらくその後長門に家まで送り届けられたのだ。  
その際長門は携帯の履歴を消し、服も着替えさせた。  
妹が見た方の俺は長門が見せた幻の類だったのだろう。  
記憶の操作ということも出来ただろうが、今のあいつはそんなことは決してしないと俺が保証する。  
俺は昨夜、間違いなく長門と一緒にいた。  
では何故長門は知らぬ間に俺を部屋に戻したり、妹にそこにはいない俺の映像を見せたりしたのだろう。  
例え火傷が無かろうと、俺の記憶がそのままなら何の隠蔽にもならないではないか。  
意味が無い。  
でも俺にはなんとなく理由が分かった気がした。  
長門は、迷惑だと思ったんじゃないかな。  
夜いきなり呼び出したこともそうだけど、一緒に飯を食べるという、  
人間にしたら当たり前のコミュニケーションだけど、  
メイドイン宇宙のヒューマノイドにしてみたら不可解で意義を見出しにくい行動に、俺がネガティブな感想を持つと。  
だから何事も無かったかのように体裁を整えて、  
「何も無かったことにして忘れてくれ。」  
と、そう言いたいのか? 長門。  
悪いが忘れられそうにないよ。いや、俺は忘れたくない。  
だって俺は楽しかったんだ。迷惑だなんてこれっぽっちも思ってない。  
だから俺はいつもと同じ場所で、同じ姿勢で、音も無く読書に耽るおまえに言わなきゃならない言葉がある。  
 
「昨日はありがとな。美味しかったよ。」  
長門は少し考え込んだようにハードカバーに落とした視線を止めた後、ゆっくりと俺の方に顔を向けると、  
首を3ミリぐらい、俺から見て左に傾けた。  
「ああ、また誘ってくれよ。俺ならいつでも行くぞ。」  
出来ればいきなりじゃなく前もって言ってくれ。一緒に材料を買い物に行くのもいいかな。  
その時は俺がカートを押すよ。何なら俺が料理してもいい。  
別に哀れみとかじゃない。俺が楽しいから言ってるんだ。  
言葉の裏には何も無い。  
おまえが俺に嘘をつかないように、俺もおまえにだけは嘘をつかない人間でありたいから。  
それに俺は、自惚れかもしれないが、おまえもあの時楽かったはずだと信じている。  
「・・・・・・。」  
傾けた首を戻し、次の言葉を紡ぐまでのその間、  
俺は木漏れ日を閉じ込めたような柔らかな長門の瞳に吸い込まれる。  
 
長い長い数秒の沈黙。  
俺の思考も沈黙する。  
 
何も考えられない。  
 
そして長門の言葉が聞こえた時、俺の心は雪解けのごとくやさしく解き放たれた。  
 
「また、一緒に?」  
「・・・・ああ・・一緒に。」  
 
 
一応この後のキャラなりきり大会の顛末も話しておこう。  
あれはもうグダグダ以外のなにものでもなかった。  
ハルヒはなりきりの当初の目的なんぞ夢の中に置いてきてしまったのだろう。  
やおら5人の相関関係なんてものを黒板に書き殴り、それに則って演技をしろという。  
 
一応その設定を紹介するか。  
・俺 いじめられているハルヒを放っておけずに何かと庇う  
・古泉 不良なので熱血な俺を何かと目の敵にする。朝比奈さんと付き合っているがハルヒのことが好き  
・朝比奈さん 古泉に気に入られているハルヒに陰湿なイジメを繰り返す  
・ハルヒ 自分を助けてくれた俺に憧れているとかなんとか  
・長門 俺に思いを寄せる幼馴染。料理が得意  
よくもまあこんな恥ずかしい設定が思い付く。  
というよりハルヒが最近読んだ漫画が分かるような気がするな。  
そして初めてみれば当然朝比奈さんにハルヒをひっぱたいたりなんて出来るはずもなく、  
いじめているはずなのにいつも通りの丁寧語という有様だ。  
すかさずハルヒの演技指導が入るのだが期待とは逆に朝比奈さんはますます萎縮するばかり。  
面白そうだと言ってハルヒと朝比奈さんに付いてきた鶴屋さんが面白がってあれこれ指示を出しても同じ事だ。  
ハルヒもさすがに途中からは諦めていたのだろう、  
いつの間にかハルヒと鶴屋さんが朝比奈さんを囲ってただ遊んでいるだけの、  
何の変哲もない高校生の放課後になっている。  
ノリノリだった古泉も3人娘の輪には入るに入れず、  
いつものエセスマイルの中にも歯がゆさが滲んでいるのだから、俺など完全に蚊帳の外だ。  
熱血キャラなんてやらずにすんで俺としては御の字だがな。  
余談だが鶴屋さんによる不良キャラの実演は冗談抜きでマジで怖かったというのは俺と古泉の共通見解だ。  
 
俺は姦しく騒ぐ3人を眺めて呆れながらも、少しだけほほえましさを覚えた。  
SOS団は今日も平和である。  
朝比奈さんが終始涙目だったのが少々心痛むところだが、鶴屋さんがいれば俺の心配など無用だろう。  
 
長門はまるでこうなると分かっていたかのように、俺が部室に入って来たときと同じ姿で窓際に1人佇んでいる。  
唯一違うのは本のタイトルがさっきまでの小難しい横文字から、「365日のおかず」に変わっていることだけだ。  
 
 
<長門有希の修行・完>  
 

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