日に日に空に太陽が居座る時間が長くなり、何かにつけて気だるいのを五月病のせいにするのもそろそろ無理が出てきた新緑深まる頃、登校時とは別人とも思える軽い足取りで校舎を後にする生徒の群れに逆らって、  
俺は校舎の階段をナメクジが這うようにトロトロと上がっていた。  
 だだ下がりのモチベーションにも後押しされて、3階が見えたあたりで早くも息が切れてきやがった。欲求はおろか意志も義務も義理すらもない以上、スタミナを補う精神的要素はどこからも引っ張ってこれず、ため息ともつかない一息を吐き出して身体が休止状態に陥る。  
 ボチボチいこうぜ。急いでまでやつの似非0円スマイルを拝みたいとは思わない。  
 身体の内側から響いてくる脈が、まるで不当労働と心臓が叫んでいるかのように思えて、心中「まったくだ」と返す。  
 開けっ放しの窓から部室棟が見下ろせた。  
 今頃はあそこで朝比奈さんの給仕を与って、癒しの時間を享受していたはずなのにな。  
 俺の意思が入り込む余地など1ミリもないままに、いつの間にか俺の行く先は視聴覚室へと変更になっていた。  
 本日のSOS団の活動はハルヒの気まぐれで急遽中止。いつものことだと言えばそれまでで、あれやこれやとコキ使われずに済んだのは助かるが、至極のティータイムまでなくなってしまったのはいただけない。  
 踊り場の壁にもたれかかって、つい10分ほど前の出来事を脳裏に映し出した。  
 お馴染みの回想タイムである。  
 
 
 ホームルームの後、水曜の半ドンで少しだけお得感が漂う日直の仕事を務め上げた俺は食堂に寄って、その場に居合わせた連中と適当に駄弁りながら安い早いのみ自慢のうどんを伸びて不味くならない程度に時間をかけて食し、  
時間を浪費する口実を全て使い切ってから文芸部室に向かっていた。  
 ありていに言えば行きたくない、だがそうそういうわけにもいかない、そんな板ばさみのメランコリックな気分だったのさ。  
 かつてこんなに部室にいくのが億劫な時期なんてあっただろうか?  
 いや、ないね。  
 ちょうど去年の今頃、結成当初で慣れなくてぎこちなく感じるときはあったが、それと今の心境はまったく違う。  
 率直に言おう。ちょっとばかし気まずいことになっているのさ。お互いの意図に反して奇しくもすれ違いが雪だるま式に積み重なってしまっているもんだから始末に負えない。  
 相手はまぁ、言わずとも知れるところだろう。  
 そう考えながら部室棟の階段を上りきると、廊下の向こう側で派手にドアが開け放たれて、まさに渦中の人物が目の前に現れた。  
 限りなく強制連行に近い形で朝比奈さんをひき回してそいつは文芸部室から飛び出してきた。  
「みくるちゃん急いで。タラタラしてたらセールに間に合わなくなるわよ。こういうのはね、スタートのポジショニングで勝負がついちゃうんだからね」  
「ふえぇっ! ボ、ボタンくらいとめさせてえ」  
 衣装がどうとかタイムセールがどうとか廊下の端まで響き渡るバカでかい声のおかげで、遠くに居ながらすぐに大まかな状況を把握する。  
 歯医者に向かう母親に連れられた浮かない表情の子供さながらの構図だ。  
 朝比奈さんの手を引くのに夢中の団長様は、教室1つ分を隔てた距離でようやく俺の存在に気づく。  
 その瞬間、はっちゃけた笑顔を引っ込めて警戒あらわに眉根を寄せ、逆三角の目で俺に鋭い視線を寄越してきた。  
 こいつ、まだ露骨に引きずってやがるな。さんざ謝ってかれこれ3日も経つというのに意外と根に持つやつだ。  
 卑屈になる必要なんてないぜ。表情を引き締めて真正面から受けてたつ。  
 こちらが立ち止まったのに対してハルヒは歩みを止める素振りも見せず、ツカツカとみるみる距離が詰まってくる。  
 目を逸らしたほうが負けとばかりに、その間ずっと視線を交錯させたまま。とばっちりを食った朝比奈さんが視界の端で表情を強張らせていた。  
「みくるちゃんとコスプレ用の衣装を買いにいくから、今日は中止ね」  
 それだけ言い放ち、きっちりギロリとダメを押して通り過ぎていく。  
 ついて来るなと無言のプレッシャー、と言ったところか。  
 足を止めて話すのもイヤってか? えらい嫌われたもんだ。  
 すれ違いざま首を回して視線をぶつけ合い、そろそろお互いに首関節の旋回が限界だってところでハルヒが盛大にそっぽをかました。  
 睨み合いは俺の勝ち。だが、嫌悪感を投げつけられてチクリと痛まないほど鈍くもなく、結局ヘコまされた俺の負けのような気がした。  
 
 尾ければひょっとしたら朝比奈さんのコスプレショーが拝めたのかもしれんが、ふざけている場合じゃない。  
 着せ替え人形にされて涙目で恥らい戸惑う朝比奈を見続けるのはあまりに忍びないし、それよりなによりハルヒにバレたときのこじれようを想像するだけで恐ろしい。  
 せめて朝比奈さんに少しでも平穏があるようにと祈りながら二人を見送った――――、というわけだ。  
 回想以上。  
 
 
 さて、いい加減そろそろ行くかと、再び階段に足をかける。  
 学校に用がなくなり帰宅するべきはずの俺が、どうしてわざわざ校舎に舞い戻って最上階を目指しているのか。その答えはポケットの中にある。  
 2時間目の終わりに着信したメールの文面を諳んじた。  
『放課後に視聴覚室へ来てくれませんか? 可能な限り人目を避けて一人でお願いします』  
 放課後はSOS団の活動があるというのに、二人して抜けるのをハルヒが許すわけない。一体何を寝ぼけてやがるんだと一旦はシカトしてたが、頭が回ってなかったのはどうやら俺のほうだったようだ。  
 古泉の呼び出しに続くハルヒの活動中止宣言。  
 見計らったようなこの展開からしてハルヒの気まぐれはハプニングでもなんでもなく、最初から仕組まれたものだったに違いない。  
 できることならこのまま回れ右を決め込みたい気分だが、一抹の気がかりに圧し留められ、俺は階上を目指す。  
 なんだろうね、何かひっかかりのようなものを感じるのさ。  
 こうやって呼び出しがかかるのは、たいていやっかいごとに巻き込まれかけている、もしくはすでにぐるぐる巻きになっているときだってのは、ここ1年余りで厭というほどに摩り込まれた教訓だ。  
 良くない知らせと分かってるだけに、耳を背けても不安はまとわりつく。そうやってもやもやするくらいならいっそはっきりさせた方がまだ精神衛生上マシだという、消去法になぞらえた後ろ向きの義務感が俺の脚をくっていた。まったく難儀だね。  
 やけくそ気味に最上階の第一歩を強く踏みしめて、通路を折れるとすぐに大きな扉にぶつかる。  
 扉には窓が付いているが部屋の中からブラインドが下りているせいで中の様子は窺えない。  
 なんのかんので辿り着いてしまった。さんざうだうだやりながら来たから放課後に入ってから随分時間が経っているが、ここまで来る労力とは比するべくもない。  
 やれやれ、今回は一体何を聞かされるのやら。  
 身構えながら俺は重厚な拵えになっている扉を押し開けた。  
 ――――淡い光が闇に漂う空間に出迎えられる。  
 明度の落差に視覚がおかしくなったのは一瞬のこと、すぐに状況を理解する。暗幕がかけられて作られた暗がりの中、天井に備え付けられたプロジェクタがスクリーンを映し出していた。  
 どこかで見たことあるロゴと画だと思えばスクリーンセイバーだ。パソコンの画面出力ってことなんだろう。  
 しかし肝心の待ち人の姿はどこだ――、  
 『ようこそいらっしゃいました』  
 サラウンド効果を伴って、聞き覚えのある声が視聴覚室に穏やかに響き渡った。  
 2割増しで爽やかさを強調させたような声が逆に鼻に衝く、いやこの場合は耳に衝くと言った方が正しいのか、とにかく不快なのには変わりない。  
 驚くのもそこそこにすぐにその発信元を突き止めた。  
 最後方にある明かりの灯ったガラス張りのVTR室の中から手を振るスマイル野郎が約1名。  
 思い切り顔をしかめてこのくだらない演出を労ってやった。  
「あと10分待って来なかったら帰るところでしたよ」  
 参った参ったとかぶりを振るのはポーズだけで、実際に堪えた風など微塵も窺えない。こんなくだらない前座に付き合わされた俺のほうがよっぽど参ってるぜ。  
 そんな皮肉など意にも介さず胡散臭いにこやかさを振りまきながら、リアルワールドでは無能の超能力者、古泉一樹がVTR室から飄々と出てきた。  
 ケータイのバック液晶に時刻を映し出す。ホームルームが終わってからすでに小1時間が経過しているのを確認して、呆れを通り越した疑念がわいた。  
 
 今の今までずっとそのマイクの前でスタンバってたのか?  
 本気で常軌を問うような俺の質問に返ってきたのは「まさか」と、望んでいた副詞。そしてそれに続く、  
「途中トイレにはちゃんと行きましたからね」  
 という肯定の言葉は鼓膜まで届かなかったことにした。  
 いい加減話を先に進めて、聞くことだけ聞いて早いところ帰りたいんだよ、俺は。  
「用件を聞かせてもらおうか」  
「もちろん涼宮さん絡みです。今日は是非ともあなたに見せたいものがありましてね。このような高所までご足労願った次第です。機関の事務所までお招きしてもよかったのですが、あなたが嫌がると思いましてね」  
 よく分かってるじゃないか。その通りだ。で、気を利かせた結果がここってわけか。  
 古泉は優雅にうなずき備え付けの長机に手をついて浅く腰掛けた。  
「最近の涼宮さんの精神状態。……あなたは、どう見ていますか?」  
 専門家が素人の意見を聞いてどうすると思いながらも、素直に感じていることを言ってやることにした。  
 どうと問われても最近は平和なもんじゃないか。  
 時間を飛び越えたり、異空間を彷徨ったりする事態にも見舞われず、このところ毎週のように行われている不思議探索も日常の範囲内でそこそこに興が乗っている。  
 そりゃあ、色々あって俺とハルヒの仲がいささか芳しくないのは事実ではあるが、これは個人的な問題であるし、今のあいつがこの程度のことで癇癪を起こすほど手前勝手じゃないことも知ってるつもりだ。そうだろう?  
「おっしゃる通りです。その証拠に1年前と比べば嘘のように静かな夜を過ごさせてもらっていますよ。涼宮さんの精神状態は安定しています。……おおむね、ね」  
 含みのある言い方に顔を窺うと、悪たらしい笑みで迎えられる。  
 さぁ、食いついてください、と言ったところだろうが、狙いすぎは逆効果だぜ。  
 無言でただ続きを急かしてやることにした。  
「前にも話したことがありますが、小規模な閉鎖空間は継続して発生しています。涼宮さんの意思とは関係なく情緒とリンクして生じるタイプのものなのですが、涼宮さんの感情の起伏を抑えつけるわけにもいかず、  
当初から我々もこれは対処のしようがないランダムなイレギュラーである割り切っていたのです」  
 確かハルヒが無意識に不安に思うことがあったり、怖い夢を見て情緒が揺れたりするだけでそういった状態になるんだったか。今更ではあるが、お前に同情を禁じえないね。  
「ええ、涼宮さんが社会生活を送る上で免れないのは分かっていたんですがね。実はデータをとって精査してみると、新たな規則性が生じてきていることが分かってきたのですよ」  
 どういうことだ? と訝る俺に古泉はリモコンとマウスの合いの子のような奇妙なインターフェースを操作して応えた。同時に背後から明るい光が差す。  
 振り返るとスタンバイ状態が解除されてスクリーンに資料らしきものが映し出されていた。  
「このグラフをご覧ください」  
 言われるまでもなく、こんな異様に凝った演出をされては厭でも目が引かれる。どこぞの企画会議に迷い込んだかのようだぜ。  
 グラフを良く見ると、横軸には日付、縦軸には……見慣れない単位が記されている。データが少ないためか棒グラフが疎らに並んでいた。  
「このところの1ヶ月間にわたって日毎に発生した閉鎖空間の規模を棒グラフ化したものなのですが……、この通りグラフが立っている日の方が少ない。閉鎖空間が発生するのは降水確率すらも下回っていると言えるでしょう。  
ただよく見てください。このグラフ、どこか特徴的であると感じませんか?」  
 なにやら問題を出されているようなのが気に食わんが、踵を返して改めてスクリーンと相対する。ところどころ長いグラフが立っている間隔が周期的であるのが先ず目についた。  
「どうやら月曜日はご機嫌ナナメのようだな。マンデーブルーってやつか?」  
 投げやりに冗談を飛ばしてやると、古泉から呆れたようなお手上げのジェスチャーが返ってきた。中々に辛らつだね。  
「着眼点は合ってますよ。ヒントを出しましょうか、月曜日のカウントになってしまっていますが、時間帯は例外なく未明です。つまり、涼宮さんは就寝中に閉鎖空間を展開させているのです」  
 ということは、寝ている間の回想でイライラを増大させているということか。反芻している記憶はこの場合日曜のものであると考えるのが自然だろう。  
 不思議探索をやったその夜にハルヒは閉鎖空間を作っている……、ということなのか?  
「ご名答」  
 
 クイズ番組の司会者を装うかのように人差し指を立てて古泉が応えた。  
 どうにも指されているのが正解を称えられているように思えない。まるで問い質されているかのような威圧感が感じられる。原因はあなたですよ、と言わんばかりだぜ。  
「どうにも奇妙な現象だな。探索中の随時にそうなるというなら分かるが、どうして決まってその日の夜なんだ?」  
「意識下では自分の感情を抑えることができても無意識下では限界があるのではないでしょうか。機嫌と厭世観が直結していたのは過去のこと。今の涼宮さんはそこまで不安定ではありません。  
ただ、さすがに夢の中では自制しきれないみたいでしてね。これがタイムラグとなっているわけですよ」  
 なるほどね。そういや春先にハルヒの精神状態は以前に比べて落ち着いてきている、と耳にしたことがある。そう言えば活動中に古泉がバイトの名目で中座をしなくなって久しいな。  
 古泉がリモコンマウスをクリックすると、横軸の特定の日付に赤丸が浮かびあがる。  
「印をつけたのが探索が実施された日です。活動の翌日に必ず小から中規模の閉鎖空間が発生しています。逆にこの日、二週間前の日曜日は活動がなかったのですが、この次の日はフラットになっています」  
 単なる偶然だろ、と惚けるのは簡単だが、あまりに心当たりがあり過ぎて憚られる。  
「原因考察の用意もしているんですけどね。必要ですか?」  
「いらん。要はこのところ俺が探索のたびに何かとハルヒをイラつかせてるからこんな面倒ごとが起きてるんだ、と言いたいんだろう?」  
 長くなりそうなので手近な座席に着いた。対して古泉は腰を上げてスクリーンの脇まで歩みを進め、いよいよ本格的に聞く体勢となる。  
「理解が早くて助かります。経費を厭わず資料を作ってきた甲斐がありますね」  
 プロジェクタに半身を照らされながら、手のひらでリモコンマウスを弄んで飄々と言ってのけた。  
「どうにかしろってのは無理があるぜ? 俺だって意図的にハルヒと衝突してるわけじゃない。全くの不可抗力だ。反りが合ってないのは巡り合わせやタイミングの問題で、俺の意思じゃないんだからな」  
 俺は最近数回分の不思議探索を振り返った。  
 探索中に家の鍵を落として困っているミヨキチと出くわして探すのを手伝っているうちに集合の時間に遅れたり、クレーンゲームでハルヒが望んだぬいぐるみではなく長門が指差したやつが取れてしまったり、  
SOS団三人娘が作ってきた弁当を広げた際に朝比奈さんと長門担当のおかずばかりを食べてしまったり、そして先週のあの珍騒動然り、とにかく間が悪かったんだよ。  
 ハルヒは理屈で分かってても釈然とできず、俺は謝罪を安売りするつもりもなく居直ったまま。そんな感じで俺たちはどことなく淀んだ空気を引きずってしまっていた。  
「おっしゃることは尤もです。運勢が悪かった、……主原因はこれに尽きます。しかし検証を重ねた結果、どうもそれだけとも言い切れない潜在要因が浮かびあがってきましてね。それをあなたにも是非確認願いたいのですよ」  
 奥歯に生煮えのほうれん草が挟まったような物言いはさておき、確認とはどういうことだ? ワケの分からん分析データをわんさか見せられるのは勘弁願いたいんだがね。  
「論より証拠と言うでしょう? 話を難しくするつもりはありません。これからあなたに引き続きお見せするのは先週のSOS団の課外活動を撮影した映像です」  
 ……待て。どういうことだ?  
 と、ツッコむのを聞かずに古泉はなにやらパソコンを操作する。スクリーンがブラックアウトした一瞬後に、その『映像』なるものの再生が始まってしまった。  
 機先を制されて、するはずの抗議を宙に浮かせたまま俺は食い入るように画面を凝視する。  
 場面は駅前の駐輪場だとすぐに理解した。チャリンコの列に混じって一人の人物が映っているが、遠方からの撮影のせいか画面が引いているので判別がつかない。  
 要求に応えるようにズームアップが始まり、それがチャリを押し込もうと悪戦苦闘している俺本人であることを理解すると呼吸が一瞬止まった。が、  
「くそっ、隣のチャリの前カゴが邪魔だな。デカいのつけたいのならせめて荷台につけろよ」  
 身に覚えのある恥ずかしい愚痴が流れ始めると、固まってる場合じゃないと席を立つ。だが肝心の大声が喉元に引っかかって出てこない。  
 情けないくらいの動転っぷりだが、とにかく「とめろ」という意図は伝わったらしく、映画仕立てのようなクリアな映像が一時停止する。  
 スクリーンの中でスペースを確保して無事駐輪を終え、駅前広場に向かって駆け出そうとしている俺を今一度確認して務めて冷静に、  
「いったい、これは何の真似だ?」  
 と、睨みを利かせたが、暖簾に腕押しとばかりに古泉の軽薄な笑みは揺るがない。  
 
「先日の不思議探索の一部始終を機関の監修で記録として残させてもらったものです」  
「そんなことはどうでもいい。なぜこんなもんを撮ったのかを訊いてるんだよ」  
 いくらなんでも洒落じゃ済まされないぜ、これは。記録と言えば聞こえはいいが、無許可でやってるなら盗撮と何ら変わりはない。返答によっちゃ本気で怒るぞ。  
 真正面から対峙する顔が引き締まって、余裕を残して笑みが消えた。細目を見開いて真顔のままゆるりと切り出してくる。  
「この世界を安定に導くために必要だと判断したからですよ。ただ、無断の撮影行為に関して弁解の余地はありません」  
 ためらうことなく古泉は腰を折って思わず毒気を抜かれてしまう。お馴染みの詭弁で塗り固めてくるだろうと踏んでたのに、とんだ拍子抜けだ。  
「長門さんと朝比奈さんには許可をとっています。機関の独断でやったことではないということだけは分かってください。仕事上、涼宮さんに内緒であるのは仕方ないとしても、あなたには打ち明けるべきだったかもしれません。  
しかし、お二方にはカメラを意識してもらっては困るという不可避な事情がありましてね。こうせざるを得なかったというわけです」  
 終始真摯な姿勢を貫いて古泉がゆっくりと説く。  
 釈然とはしないながらも、冗談めかしてやったことではないということを理解すると俺は再び椅子を引いて腰を落ち着けた。そして、  
「どうしても必要だから撮ったんだな?」  
 今一度念を押す。  
「これだけのクオリティで撮影するために、それなりの費用がかかっています。高級外車がポンと買えてしまうくらいの、ね。それを本気度としてとらえてください」  
 十分な返答だ。そこまで言うのなら、見てやろうじゃないか。  
 どかりと腰を落ち着けて腕を組みながら再生を促してやると、スクリーンの中で止まっていた時が再び動き出す。  
 バスターミナルの喧騒をサラウンドで聞きながら、駐輪場を出て信号をフライングして駆ける自分の姿を目で追う。  
 安定したカメラワークにまるで自分主演の映画を見ているような錯覚に陥るぜ。溶けるようにスクリーンの中に引き込まれた。  
 これほどリアルな追体験もないだろう。あのとき感じた初夏の眩い木漏れ日と、バスの排気ガスの臭いが蘇ってくるかのようだった。  
 そこそこに賑わっている通りの人波を縫って先を急ぐ。……正直サマになっていない。息は切れていて身体の軸がぶれまくっている。  
 ここで遅れては3回連続の奢りとなるわけで、なんとしても落とせないのは百も承知だが、ここまで不恰好になってるとは思ってなかったぜ。自分の振り見て我が振り直せとは皮肉だ。  
 そんなことを考えてるうちに、最終カーブを折れて後僅かと迫る。しかし、開けた視界で待っていたのは、駅と反対の方から歩いてきた朝比奈さんが今まさに集合の輪に迎え入れられた瞬間だった。  
 十数歩及ばすの惜敗に手を宙で泳がせたまま、口が半開きになる。……間抜けだ。  
 しかし、万が一勝ったとして朝比奈さんに奢らせるなんてことはできそうにない。自首を申し出る犯人のように、俺はトボトボとモニュメントのアーチをくぐって待ち合わせの場所まで歩みを進める。  
 自分ながら見上げた潔さだぜ。  
「ごめんなさい。キョンくん」  
「とんでもないですよ。朝比奈さんが謝る必要なんてありません。顔をあげてください」  
 眉を下げて心底申しわけなさそうに手を合わせる朝比奈さんに対して、俺は努めて笑顔で対処する。顔で笑って心で泣いての心境が分かるだけ甘酸っぱいものがこみ上げてくる。  
 心優しい天使はそれでもなお俺を気遣ってくれて、なにやら頭の下げ合いのような妙なやりとりになった。  
 傍らで佇む団員の表情はそれぞれバラバラだ。  
 古泉は陽だまりに居るかのように目を細めて穏やかに見守り、長門は何が始まったのか今ひとつ分かっていなさそうな感じで控えている。  
 そしてハルヒは……、下唇をついと上げて憮然と湿った視線を俺たちに突き刺していた。  
 こいつは意外だな。こうやって第三者視点から見ることで初めて気づいた表情だ。  
 俺が違和感を覚えるのも当然で、それを裏付けるかのようにハルヒの顔が底意地の悪そうに崩れる。  
 恒例の宣告が下らんとする――――、ところで映像が停止した。  
 操作する権限を持ってるのは一人しかいない。意図が分からず訝しげに窺うと、ニヤケ面は何か携えているのをこちらに見せてから下投げでそれを寄越してきた。  
 わけの分からないまま白い残像で絶妙の放物線を描いて手に収まった薄板状の物体を確認する。  
 
 何を、と思ったのは一瞬。暗がりに映える独特の白のデザインはあまりに有名で分かり易い。いわゆる携帯ミュージックプレイヤーという代物だった。  
 しかし疑問は完全に晴れない。古泉に視線を戻すと片手を浅く振りかぶるようなジェスチャーを寄越した。着けろってか。  
 あれこれ問うのも面倒で、言われるがままにコードを伸ばす。  
 なんだこりゃ、イヤホンが1つしかないぞ。  
 よく見たが千切れているわけじゃなさそうだ。ラジオを聴くおっさんが愛用するような古めかしい片耳用のそれを耳に突っ込むのはためらわれてたが、待ってたのかのように人差し指を右の耳に押し当てるポーズで促された。強引なやつだ。  
 眉間を寄せながら、しぶしぶ装着してやった。  
 中央のボタンを押して電源を入れてみる。量販店でいじったことがあるから操作方法は知っていた。  
 何の変哲もない市販品のようだが……、はて。  
 起動完了を待つと、白いバックグラウンドに『涼宮ハルヒ』の文字が映る。  
 一瞬ハルヒの生歌でも流れ出すのかと錯覚したが、あるはずの再生マークも演奏時間が表示されておらず、インターフェースが一切の操作を受け付けない。  
 ここでコイツが怪しげな改造品であることを認識した。  
「電源は入ったようですね。百聞は一見にしかずと言いますし、説明は後回しにしましょうか。いいですか、イヤホンを押し当ててよく聴いて下さい」  
 言い終わらない内に古泉がスクリーン上の動画再生ソフトのシークバーをいじった。  
 少し巻き戻ったところから再び映像が流れ始める。  
 駆け足の展開に置いていかれないように、とにかく画面に目を戻して耳を澄ます。  
 俺が合流して朝比奈さんとの恐縮合戦が始まり、ハルヒが表情を変えて一声。  
 
「はい! 喫茶店はキョンの奢り決定ー。 さて今日は何を頼もうかしら」  
『鼻の下伸ばしながらヘコヘコしてるんじゃないわよ。ほんといい気味!』  
 
 視聴覚室備え付けのスピーカーから流れたハルヒの宣告に被さる様に、イヤホンから罵倒が飛んできた。  
 思考のついでに呼吸も止まらせて絶句する。それに倣うように画面が一時停止した。  
「お聞きいただけましたか?」  
 穏やかな問いかけが波立つ心を幾分静める。  
 幻聴でないのは間違いない。抑揚や流暢さからして合成であるとも考えづらい。  
 じゃあ消去法で残るのは何だ?  
 そっくりさんのモノマネか? あるいは、細目野郎が妙な腹話術をかましてやがるのか?  
 ……違うな。今のは間違いなく本人の声だった。1年以上一番近い座席であいつの生声を聞き続けてきた俺が断言してやる。  
「この映像と合わん妙ちきりんな副音声は何だ?」  
「涼宮さんの本意、と思しきものです」  
 満を持した風で寄越しといて推測調なのはどういう了見だってのは、顔だけで伝わったらしく古泉がすかさず継いだ。  
「実を言うと、我々もよく分かっていないのですよ。涼宮さんの感情の動きを把握するために機関で音声解析の研究を進めていたのですが、特殊な周波数の抽出に成功しましてね。それを色々といじくると、こんな変換ができてしまった、というのが事の顛末です」  
 こりゃまたコメントに困る展開だ。楽曲を逆再生するとメッセージが聞こえる的なノリだな。  
「それに近いものがありますね。それはこの変換をリアルタイムで処理する仕様になっているのですよ。まるで心の本音のように聞こえるのですが、それを検証する手立てがない、……ゆえに推察の域を出ないのです」  
 信じがたい内容だ。そもそもこんなもんが現代科学で創り出せるとは思えん。  
「その点に関してはご安心ください。我々の機関が企画し、ソフトを長門さんが構築し、ハード面を朝比奈さんが工面した協同製作です。品物は確かですよ」  
 …………。  
 長門もそうだが、朝比奈さんも何やってるんですか。  
 二人そろってホイホイ機関に手を貸すとはとても思えない。超常勢力を相手取って脅迫できるほど機関に力があるとも思えない。そうなると買収……か? くそっ、……分からん。  
 
 ともかく、そう言われてはぐうの音も出ない。  
 まぁいい。で、その何だかよく分からんモノを俺に披露してどうしようってんだ?  
「大変失礼しました。そう言えば趣旨を伝えていませんでしたね。この映像を見ていただくのは第三者的な視点から追体験することで、あなたと涼宮さんの言動を客観的に再確認願いたいからです。  
きっとあなたがたの意思疎通の食い違いを修正するに有意義に違いないでしょう。その装置はオマケです。使用の是非はあなたの意思に委ねられている」  
 そうは言うものの、口先王子の薄っぺらい態度からは微塵も遠慮が感じられない。猜疑心は募るばかりだ。  
「お前の尽力に免じて映像の方は見てやるとしよう。事実、自分を省みる良い機会になりそうだしな」  
「どうかご自分だけでなく、涼宮さんの表情や言動にも注意してください。……さて」  
 古泉は大きく息をつくと、無駄のない動作で簡単な身支度を済ませる。  
 葛藤が渦巻くまま、それをぼんやりと見ていた。  
 俺は一体どうしたい?  
 ハルヒの心が知りたくないかと言うと嘘になる。だが、独力だけではどうにも限界があった。未だに確執が残っていることがその証拠だ。  
 この微妙にギスギスした関係は小さな棘が刺さっているようで居心地が悪い。  
 だが、そうは言っても、こんな人の本音を盗み聞きするような真似は俺の良心が許さん。紳士に悖る行為だぜ。  
「ひとまず僕は退散するとします。一緒に見るようなものでもありませんから。時間をみてまた戻ってきます」  
 腕時計を見ながら言うと、席に着いている俺に対して机越しにリモコンを差し出してきた。しかし、受け取ろうとする意思はあるものの、考えがまとまらず手が伸ばせない。  
 察したのか古泉は机にリモコンを置いて操作方法を説いた。  
「必要以上に誠実に構える必要はないと思いますけどね。なにせその装置が発する音声には何の保証もないのですから。あなたがさっき例えたように、面白がって歌を逆再生して聞いたとしても、その歌詞に真剣に耳を傾ける人はいないのと同じことですよ」  
 そんな台詞だけを残して静かに部屋を後にした。  
「何の保証もない、……ね」  
 頭の中でしつこく残響した言葉が口を突いてこぼれる。  
 掌の液晶に『涼宮ハルヒ』のゴシック体を映したまま漫然と、半ば無意識の内に俺はイヤホンを耳に突っ込んだままリモコンを手にとっていた。  
 
//////////  
 
「キョンとペアか。監督してあげるからしっかりやんなさいよ。団長のご指導をありがたく賜りなさい」  
『キョンとペアか。最近なんだか気まずいし仲直りしたいな。せめてきっかけだけでもつかまないとね』  
 
 朝とも昼ともつかない半端な時間のためか、休日にもかかわらず人の入りがまばらな喫茶店のボックス席で、恒例の楊枝を使った抽選が終わる。  
 日常をありのまま映しただけのものにも関わらず、俺の五感はスクリーンの中に釘付けになっていた。  
 冒頭でも感じたことではあるが、こうやって第三者の視点から見ると、驚くほどに気づかなかったことがいくつも見えてくる。岡目八目という諺は嘘じゃない。  
 テーブルの下でさりげなく携帯をチェックしている古泉。毎度のこと仕事熱心でご苦労なことだ。  
 アイスレモンティーに一口つけて瞬きをする朝比奈さん。思ってたより酸っぱかったんだろうか。  
 文庫本から顔を上げて虚空の一点をじっと見つめる長門。インテリアの泡水槽が気になるらしい。  
 そして、団員たちとなにげない雑談を交わす俺の様子をチラチラと窺うハルヒ。  
 喋りっぱなしのイメージがあったが、それは勝手な思い込みだったようだ。  
 団長として一同に発言するときは盛大に、それ以外は一人寡黙に飲み物に口をつけていた。スイッチでもついてるのかお前。  
 カップ越しの上目遣いは、傍から見ていると……、なんだかこそばゆい気分になる。  
 こんな風に視覚だけでも新発見の連続だ。  
 そして、なによりも鮮烈なのが右耳から聞こえてくる問題の副音声。  
 
 スピーカーから流れてくる主音声と全く同じときもあれば、ここぞとばかりに突拍子もない台詞が飛び出してくるときもある。今みたいにな。  
 毅然とした表情と殊勝な言葉の組み合わせはアンバランス過ぎて虚実が混沌としてくる。これを食らって平然としていられるやつが居たら、心の底から尊敬してやってもいい。  
 しかし、そんな俺の戸惑いなど関係なく映像は移ろいでいく。  
 抽選が終わって散開となった。にこやかに店を出て行く一同、対して渋い顔をして重い足取りでレジに向かう俺。不憫だ。  
 財布を取り出して、レシートの束に埋もれているなけなしの紙幣を取り出す。  
 ハルヒが背伸びをして背中越しにこっそり財布の中身を覗き見していやがった。鼻っ面を上げてがんばっている様が間抜けに映る。  
 後ろに居るなってのは分かってたが、こんな真似をしてやがったのか。油断ならんやつだ。  
 
「支払い大丈夫? まさか足りないなんて情けないこと言わないわよね?」  
『あんまりお金入ってなかったなぁ。毎回奢りじゃさすがに厳しいわよね』  
 
「いいから外に出てろ」  
 
「かわいくない態度ねえ。みんな待ってるんだから早くね」  
『よし。今日はこれ以上お金使わせないようにしましょう』  
 
 …………やれやれ、耳を疑うぜまったく。  
 しかし、あながちデタラメとは言い切れない。なぜならこの日確かに奢ったのはこの場だけで、この後余分な支払いを求められることはなかったからだ。  
 そうなるとさっきの財布盗み見は興味本位ではなく、俺を気遣っての行為だってことになるよな。そしてそれを裏付けるイヤホン越しの台詞はやっぱり……、って止めとこうぜ。まともにとらないのが約束事のはずだ。  
 画面が切り替わって、喫茶店で二組に分かれる。  
 終日ペア固定システムなのを除いていつもと同じ、特に目的もなく街を練り歩く散策という名の不思議探索が始まった。  
 雑踏の中、とめどない会話を交わしながら肩を並べて歩く。  
 さすがに人ごみの中カメラを持ち込むことはできなかったらしく、離れたビルからズームでとったような画に俺たちが小さく収まっている。クリアに聞こえてくる音声は別録りってわけだ。一体どこにマイクを仕込んでるんだか。  
 
「ああ、そうそう。この前借りたCD聴いたわよ」  
『ああ、そうそう。この前借りたCD聴いたわよ』  
 
「どうだった?」  
 
 問いかけに、ハルヒは意地の悪そうに笑って応える。  
 
「けっこうミーハーな感じだったわね。ああいうのが好きなんだ?」  
『知らないジャンルだったけど、気に入った曲がいくつかあったわ』  
 
「どんなのを聴いてるのか知りたいっていうから貸したのに、ずいぶんな感想だね」  
 
「け、貶してるわけじゃないのよ。悪くはないけど一回聞けば十分ってこと。月曜日に返すわ」  
『ご、誤解しないでよ、ちょっとは興味あるんだから。ダビングが終わってから返してあげる』  
 
 のっけは共通のくせして会話が進むにつれてどんどん脱線していくことに関して、もはやお笑いのレベルだな。  
 スクリーンの中の俺は、よもやハルヒが裏でこんなことを思っているなんて考えもせず、額面どおり趣味が合わなかったな、と単純に思うことしかできなかった。  
 しかし、気に入らないと言った割には曲ごとに細かい感想(よく聞けば好意的にとれる内容)を述べるハルヒを見ていると妙にうなずける節がある。  
 いや、納得してはだめなのかもしれんが、鵜でもあるまいし腑に落ちてしまうものを戻すのも無理な注文だった。  
 駅を抜けて北側へ回りこんで大型の商業ビルへ入る。  
 たまには店の中を歩いてみようというハルヒの提案だったのさ。  
 さすがに追いきれなかったのか時間が少し飛んで、カメラが切り替わって今度は俯角から見下ろすような形になる。ドッキリ番組でありがちなアングルだぜ。  
 白を基調としたフロアに店のロゴが映ってすぐに記憶が蘇った。生活雑貨店であれこれ見ながら冷やかしまくったあの場面か。  
 メンズ衣類のコーナーでハルヒはいたずらっ子のように目を輝かせながら、あれこれ服を俺に合わせて遊んでいる。買いもしないくせに店にすればいい迷惑だ。  
 自分としては冷静に対処しているつもりだったが、これじゃあ他人には一緒になってはしゃいでいるようにしか見えんな。下手をすれば痛いやつらのように思われたかもしれん。  
 いいからお前少し落ち着け、という念が届くはずもなく、ハルヒは俺の腕を取って袖の長さを見ようとした。  
 半そででむき出しになった二の腕に触れられた感触が蘇って肝を冷やす。  
 
 しかし俺を差し置いて、ハルヒがまるで火傷を避けたかのようなリアクションで手をひっこめていた。  
 このアングルから見せられると、このオーバーアクションはいささか傷つくものがあるね。そんなことを考えた矢先、  
 
「え、えーと、……ううん。なんでもないのよ」  
『思ってたより堅くて……、少し驚いただけよ」  
 
 見当違いの感想が返ってきた。  
 なんのことを言ってるんだ? という疑問は直後に明かされる。  
 
「次の店行きましょ。ちょっと遊びすぎたわね……」  
『見た目は細いくせして結構筋肉あるじゃない……』  
 
 ……そういうことかよ。  
 思わず自分の二の腕に目を落とす。特に鍛えてるわけでもないし普通だと思うがね。実はあんまり男慣れしてないってことなのか?  
 なんにせよ思いもよらんことを考えるやつだ。  
 ハルヒがわざとらしく咳払いをする。映像じゃ分からんが、確かこのとき間近で見たハルヒの頬に僅かな朱が差していたことを思い出した。  
 てっきりはしゃぎすぎたことを照れているもんだと思っていたがね、と唸る間にハルヒはまるで逃げるように身を翻して一人勝手に歩き出す。  
 とにかくハルヒがおかしいと思ったのは今に始まったことじゃなかったらしく、画面の中でも置いてけぼりを食らっていた俺は、商品を戻して慌ててその小さな後ろ姿を追っていた。  
 
//////////  
 
 その後、ズカズカと我が物顔で通路を進むハルヒの後ろをついて回って、本屋、アロマショップ、観葉植物専門店を行き着くままに冷やかし尽くした。  
 こうやって俯瞰して見ると、まるでハルヒの剣幕に気圧されて人の波が押し分けられていくように見える。  
 断言してもいい。お前、絶対素で遊んでいるだろ。  
 しかし、不意にわざとそう振舞っているかのように見える瞬間があるから侮れない。  
 いつも前ばかり向いているやつだが、この日のハルヒはよく俺の方を窺っている。俺の反応を見ながら、間延びしないように努めているようにも思えた。  
 これが錯覚でなければ、俺としては少々手持ち無沙汰であったとしても、もう少し落ち着いて回りたかったわけで、まったくありがた迷惑な話ではある。だが、それは裏を返すと俺を楽しませようと振舞っていることになるわけで、  
もしかしたらこいつなりに和解を求めているんじゃないか、などと考え出すと少々複雑な気分になった。  
 ハルヒの驀進もフロア一周に及ぶと勢いは弱まり、元居た雑貨屋の近くまで戻ってきていた。  
 心なしか俺の表情が明るい。自分のことながらこんなに楽しそうにしてたのかと意外だった。  
 スクリーンの中で俺の視線がふと一点に留まっている。  
 俺の目を引いてるのはガラス張りで暖色系の照明が映える開放感のある店舗だった。  
 直感で美容室かと思ったが違う。ネイルサロンだ。  
 自発的に近づかない場所なのもあって、もの珍しさについつい立ち止まって中を覗いてしまったのを思い出した。  
 映像じゃよく見えないが、奥の壁に並んだテーブルを挟んで女性同士が向かい合ってなにやら細かい作業に集中していたのが目に浮かぶ。  
「こういう風になるんだな。あのバラの花とか立体感があって綺麗と思わないか?」  
 展示用のサンプルを見ながら、呑気に話を振る俺。  
 小洒落た癒しの空間に和んだのも一瞬、芋づる式で次に脳裏にスライドインしてきた安穏を覆す羅刹の面に竦み上がる。  
 もはや怖いもの見たさに近い心境でハルヒの横顔に視線を移すと、案の定まなじりを吊り上げてものすごい形相で俺を睨みつけていた。  
 応えるようにカメラがズームアップする。無駄に演出をいれなくていい、余計に怖いだろうが。  
 今でもこの体たらくだ。当の俺は猛獣にエンカウントしたかのように金縛りに遭っている。  
 さっきまで笑ってたのに、この豹変っぷりは一体何なんだ?  
 
「不要な装飾の代表例ね。服には引っかかるし、タイピングで余計なキー打っちゃうし、少し当たっただけですぐに割れちゃうし、理解しがたい趣味だわ」  
『先週あたしがやってきたときは、全然気づかなかったクセして適当なこと言ってんじゃないわよ。今更頼まれたって絶ッ対に見せてあげないんだからね」  
 
 …………。  
 右耳から即座に叩きつけられた答えに唖然となる。  
 
 対する画面の中の俺はそんな事情など知る由もなく、火に油を注ぐような愚かしいツッコミを入れていた。  
「冷静に考えれば不便なことが多そうなのは分かるが、まるでやったことがあるような口ぶりだな」  
 
「うっさい!」  
『うっさい!』  
 
 変則サラウンドでハルヒの怒声が痛いくらいに鼓膜に響きわたる。脳天を突き抜けるかのような衝撃に思わず腰が浮いた。  
 電気ショックと大差ないぜ。今ので脳細胞のいくつかはダメになったに違いない。  
 故意に残したような酷い音割れに編集者の悪意を感じるね。  
 心中でさんざ毒づきながら、座り直して改めてスクリーンを凝視する。  
 やれやれ、見事なまでのすれ違いっぷりだ。  
 前々回の探索の後、ハルヒの機嫌が更に悪化したのは、こういう裏があったということなのか?  
 しかし待ってくれ。言い逃れをするつもりはないが、よしんばそうだったとしても、ネイルアートに気づけなかったことは責められることか?  
 手フェチでもあるまいし、指先なんてまじまじ見てる方がおかしいだろう、などと自己弁護を試みたが、悔しくも他団員から同意が得られる想像が浮かんでこなかったので取り下げることにした。  
 普段ハルヒが色のついてないマニキュアを塗ったり、リップを付けたりしてるのは知っている。だがそれは身だしなみ程度のものであって、こういう必要以上にゴテゴテしたのは嫌いな性格のはずだ。  
こればっかりは自信があるが、そう思うほどに辻褄が合わないことになってますます混乱するだけだった。……くそう。  
 釈然としないまま、映像を追うに流される。  
「何をそんなにカリカリしてるんだ?」  
 傍らの俺に取り合わずハルヒは一人で歩き出す。しかし勢いがあるのは出だしの数歩だけでみるみるペースが落ちた。  
 カメラが映したうつむき加減の横顔は口許をきつめに結んで、イラついているようにも考え込んでいるようにも見える。  
 数歩取り残されて頭を掻きながら首をひねっている俺。だが、すぐに目の前の小さい背中を追って歩き出した。  
 自分ながら健気だと思うぞ。  
 そのままエスカレータを下って建物の外を出る。  
 トボトボと後追いながら、そのまま駅まで戻るもんだと思っていた俺の予想を裏切って、板張りの中庭のような場所でハルヒは立ち止まると振り返らずに口を開いた。  
 
「ちょっと休憩しましょ、……ちょっと飲み物買ってくるわ」  
『ここで立て直しましょ、……ちょっと飲み物買ってくるわ』  
 
 そう言い放って俺の返事も待たずに駆け出し、フレームから外れる。  
 この場面はよく印象に残っている。確か自販機で当たりを引いたらしく、ウーロン茶を2本持ってきて1つ俺に恵んでくれたのさ。  
 画面が切り替わってカメラがハルヒだけを映し出した。  
 広場の外れにある自販機と対峙しウーロン茶を購入するハルヒ。1本目をしゃがんで取り出したところでおかしいことに気づいた。  
 当たりを引いたようなリアクションがないのだ。  
 何かをやらかすような空気を感じ取って固唾を呑んで見守る。  
 缶にじっと視線を落として思案をしていたかと思うと、急に山猫のような鋭敏な挙動で周囲を見回し始めた。  
 まさかの予感が的中し、俺はひたすら瞬きを繰り返す。  
 こともあろうに、なんとハルヒはすばやく硬貨を押し込んで2本目を普通に購入しやがったのである。  
 ちょっと待てとツッコむも、ハルヒは満足げにうなずくと、陸上部も一目おくダッシュであっという間に俺がぼけーっとベンチに腰掛けている広場へフレームイン。  
 
「キョン、喜びなさい。当たって1本もうけたからあんたにあげる。ツイてるあたしに感謝するのよ?」  
『こうすればわざとらしくないし、そもそもニブキョンが気づくはずもないし、我ながら冴えてるわね』  
   
 悪かったなニブくて、とスクリーンの外から返すも空しく響くだけ。  
 こいつは完全な盲点だったぜ。まさかハルヒが自発的に俺を労うことがあるなんてな。今のは事実を映し出したものに違いなく、ハルヒに対する認識の浅はかさを思い知る。  
 しかもこの行動、思い返せば喫茶店の支払いで俺の財布の残高を気遣っていた副音声とつじつまが合うことになるじゃないか。となると、……いやいや、1回合致したからといって結論づけては統計学を冒涜することになる。  
 なんとか気を取り直して画面の中に戻ろうとするも、しばらく上の空だった。  
 結局集中が定まるまで、ハルヒのテンションギャップに動揺を隠して素直に喜んで受け取る俺、対して照れた風に必要以上に距離をとってベンチの端に腰掛けるハルヒのやりとりを丸々見送る羽目になった。  
 
//////////  
 
 奇妙にもベンチの両端に座って缶をすする俺たちに シーソーでもやってるのかお前らとツッコみたいのはどうやら俺だけではなく、道行く人が視線を投げていく。当人たちを差し置いて見ているこっちが恥ずかしい。  
 ハルヒはそっぽを向いて空を眺めて、俺は少し疲れた様子でため息を地面に落としていた。  
 そんなギクシャクした空気をものともせず、俺たちに歩み寄る勇敢な人物が一人。  
 広場でチラシを配っていた大学生風のあんちゃんが俺に声を掛けてきた。  
 挨拶と営業スマイルと1枚のプリントだけ残して離れる。  
 よほど参加者が少なくて困っていたのか、あるいはチラシをさばけずにいたのか、どちらにせよ見上げたプロ根性である。  
 虚ろな目で手に取った紙に目を通す俺。  
 紙面はよく覚えている。確か見出しは『ラブラブジャンボパフェチャレンジ』、噛みそうで噛まずに言える妙なタイトルだ。  
 一面を占めるのは七夕の笹飾りも枯れ木にくすむような賑やかさで、菓子やら果物を好き放題トッピングしたような巨大パフェ。横に置いてあるワインのボトルが二回りは小さく見えたのには目を疑ったもんだ。  
 細かい文面は忘れたが、要は巨大パフェの早食い大会の告知である。  
 くだらないと思いつつ、その圧巻の大きさに目を見張る俺に悟られぬようにハルヒがじりじりと身を寄せる。そして、間合いに入ると同時にあっという間にチラシを奪った。  
 
「なにこれ? 早食いのイベントじゃない」  
『なにこれ? 早食いのイベントじゃない』  
 
「そうみたいだな。参加しようとするやつは、よっぽどの食いしん坊か、甘味マニアか、なんにせよ物好きに違いないだろうよ。その写真を見てるだけで胸焼けできるぜ」  
 
「キョン! これに参加するわよ!」  
『キョン! これに参加するわよ!』  
 
 俺が言い終わらない内にバカでかい声が二方向から被さる。  
 ハルヒは立ち上がって俺にチラシを突きつけてきた。  
 
「優勝すれば無料で、さらに賞金3万円よ? おなかいっぱいになって活動資金も稼げちゃう夢のような企画じゃないの」  
『優勝すれば無料で、さらに賞金3万円よ? これを喫茶店代に充てればあんたにしばらくお金使わせずに済むじゃない』  
 
 レジ前の台詞がここにもつながるとはね。このプレイヤー、侮れねえな。  
 この急展開は単なる思いつきじゃないってのかよ。  
 まくしたてるように強引に誘うハルヒをどう穿って見ても、俺を労っているようには思えない。  
 ……やれやれ。一体何を信じるべきなのか。  
 大きな根野菜が引っこ抜かれるように、とうとう腰を浮かされて連れられていく自分自身に苦笑を送るしかなかった。  
 連絡橋を使って線路を越えて商店街まで足を伸ばす。  
 目指す、いや目指さされているのはもちろんチラシに書かれているカフェレストランだ。  
 連行されてはいるものの、俺だって黙って従うほど無駄に広い懐も、いかにも自分の内臓にダメージを与えそうな企画を喜んで受けるほど自虐趣味も持ち合わせちゃいない。  
 ハルヒの後頭部に向かって懸命の抗議をぶつけて踏ん張っていた。  
「ルールをちゃんと読んだのか? カップル参加が必須なんだぞ」  
 
「何が言いたいわけ? 男女の組になってりゃ問題ないってことでしょ。ちょうどここに揃ってるんだからあたしたちのためにあるようなイベントよ」  
『分かってるわよ。分かってるから……、行こうってんじゃない。こういう協調作業はもやもやを解消するのにもってこいだし、ノらない手はないわ」  
 
「そういう意味じゃなくてだな。あー、……その、なんだ」  
 
「何よ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」  
『何よ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ』  
 
「企画のタイトルをよく見ろ、あと背景の模様も」  
 ハルヒはくしゃくしゃになってるチラシを片手で雑に広げて一瞥する。一瞬目が大きく見開かれて吸った息が止まった。  
 『ラブラブ』の文字や、『ハートマーク』の嵐に篤と面食らうがいい。そして考えを改めろ。  
 そんな風に後ろで一人ほくそ笑んでいたのを思い出した。自分のことなのに、なぜか根暗で情けなさが先行する。  
 
 怯ませることくらいは期待していたが、ハルヒは歩く勢いを弱めず、声の調子もそのままに平然と返してきた。  
 
「付き合ってるかどうかなんて分かりゃしないわよ。早食いなのよ、競争よ? 席につくまではともかく、食べ始めたら形振りなんて構ってる余裕はなくなるわ」  
『あたしとじゃ到底そういう風には見られないって言いたいわけ? なんだかあんたに言われると無性にムカつくわ。それらしく振舞ってあげるから安心なさい』  
   
 俺ばかりがカップル扱いで店に入ることを気に病んでいたのかと思っていたが、揺れた裏の声を聞く限りどうやらそうでもないらしい。  
 背筋がむず痒い思いをしている間に、ずんずんと行程を消化してとうとう店頭に臨んだ。  
 入り口から溢れるほどの長蛇の列ができていやがる。確かこのとき時刻は12時20分。開始10分前と迫っていたが、人だかりができるほどの人気を博していることに驚きを隠せない。  
 みんないくら暇を持て余してるとしても手段は選ぼうぜ。  
 歳の近そうな中高生、二十歳前後の若い男女が多い。まぁ、そうだろうな。血糖値が気になる年配の方が挑む企画じゃない。  
 全般的に男のテンションが低めのように映った。お互いご愁傷様だね。  
 
 
 暗転してテーブル席でハルヒと向き合って座ってるシーンに移った。  
 過激な企画に反して黒塗りの木材で作られた空間は落ち着いた雰囲気を醸している。円形に張り出した2階の窓際には十ほどの二人席が並び、一番端に俺たちは座っていた。  
 どこから撮ってやがると思いきや、そういやイベント記念撮影用に店員がハンディカムを持っていたな。そのドサクサに紛れて撮ったくさい。  
 落ち着かない様子で俺はハルヒと二人してキョロキョロと辺りを見回している。  
 店員の開会挨拶が終わった頃か。  
 あのとき自分の目でも見たが、フロアの中心部にはボックス席があってどこも満席となっていた。  
 一般の客と混ぜずにイベント専用に店を貸切にした状態となっている。  
 満員御礼、全員着席、時間一杯と相成ったところで店員が続々と主役の巨大カフェをキッチンから運び出してきた。店内にどよめきが起こる。  
 ドスンと当てるに相応しい重低擬音を伴って、横綱級の貫禄でテーブルに四股を踏みおろしたそいつを前にして戦慄が走る。  
 そもそも男の店員が一人1個をやっとこさ抱えて持ってくる時点で異常だった。  
 これは……、食い物なのか?  
 忌憚のない俺のファーストインプレッションだ。  
 無理もない。ハルヒのリアクションはどうだと思ったものの、堆く上に積もったアイスの山に阻まれて見えなかったんだぜ?  
 仕方がないと首を傾けて向かい側を斜め下から仰ぎ見ると、案の定ハルヒは阿呆みたいに口を開けて絶句していた。  
 すべての席にパフェが行き渡り、司会を務める店員代表、縁あってか広場で俺たちにチラシを配ったあんちゃんによるルール説明が始まった。  
 制限時間は15分。時間内に完食できればお代はタダ、一番手には賞金3万円贈呈。チャレンジ失敗の場合は3500円が徴収されることになっている。正直手持ちがない。ハルヒが出すとも思えず、俺は本気で崖っぷちだった。  
 トイレは自由、水も飲み放題と続いて、「最後に重要なルールを申し上げます」と大げさな断りが入って、  
「パフェをご自分で食すのは禁止です。必ず互いに口に運んで食べさせ合うこと」  
 と結ばれた。  
 このときばかりは本当に耳を疑ったね。しかし、驚いているのは俺たちだけで周りの連中たちは落ち着き払っている。  
 バカなことに俺たちだけが参戦前によくルールと趣旨を確認していなかったのさ。  
 チラシの一番下にご丁寧に米印と下線付で件の最重要項目が記されていた。『ラブラブ』なのは伊達じゃなかったってことだ。  
 言わんこっちゃない。今更強く言うのもなんだが、道中の俺の忠告は的を外してなかったことになる。  
「スプーンは2本使っていただいて結構です。もちろん1本を共有してもらっても構いません」  
 軽妙な冗談は和やかにウケていたが、俺には全然笑えない。ハルヒは表情を引きつらせたまま固まっていたが、目が合った瞬間白々しく視線を逸らしやがった。  
 止せばいいのに自棄気味に俺がジョークを口にする。  
「……どうするんだ? この際1本で食ってみるか?」  
 
「バ、バッカじゃないの? ふざけてないで集中しなさい」  
『バ、バッカじゃないの? 想像しちゃったじゃないのよ』  
 
 ……想像するなよ。  
 映像相手に苦言を呈したところで、笛を合図に開始の火蓋が切り落とされる。  
 各テーブルにおいて一斉に身を乗り出して大山崩しが始まった。  
 
 パフェの外観を軽く説明しておこうか。  
 まず器はグラスのカテゴリーに収めるのがためらわれるほどのスケールを誇る逆三角錐型。単品ならもはや花瓶と称するに値するぜ。基部を支える円形の足がCDサイズなのはきっと笑うところだ。  
 その容器の下層を埋め尽くすのは大量の生クリームだ。ストロベリーソースが層を成すように絡んでいて縞模様を作っている。キウイの輪切りが内周に張り付いていてレリーフのように白と赤のストライプの中空に浮かんでいた。デカブツのくせして凝ってやがるぜ。  
 上層はフルーツと菓子の乱戦模様で混沌と説明がつきずらい。分かり易いのはサグラダ・ファミリアを象ったように中央に高らかと伸びるアイスの尖塔か。この頂点が最高海抜地点を誇る。アイスは色鮮やかなスプレーでこれでもかってくらいにトッピングされていた。  
 その他はとにかく色んなものが載って、いや、刺さってやがるな。目を引くのはなんといっても最長尺のアイスコーンだろう。アイスの中央塔から放射状に広がるように細長い三角錐が突き出ている。  
やり過ぎ感が漂ってるせいか、宇宙要塞のアンテナに見えたのは俺だけではないはずだ。  
 あとは隙間を埋めるようにチョコレートポッキー、ナッツクッキー、パイナップルの切り身、プラム、さくらんぼ、イチゴがひしめきあっていた、……一体何メガカロリーあるのかスペックを知るのも恐ろしい。  
 そんな化け物じみたメニューに俺たちは挑もうとしていた。しかも、とんでもない精神的ハンデつきで。  
 周りの席ではにこやかにコーンやクッキーをつまんで口に運び合ってる姿がある。まず上に載ってる物を片付けるのはセオリーだろうからな。  
 しかし、俺たちは身じろぎもできずに硬直していた。こんな恥ずかしい真似ができるわけがない。  
   
「キョン!」  
『キョン!』  
 
 鋭い声に顔が正面を向く。しかし、パフェに邪魔されてハルヒの頭しか見えなかったのか身体をよじって視線を迂回させる。その視線の先には顔を紅潮させて口元をへの字に歪ませているハルヒが居た。目は血走ってて鬼気迫るものがある。  
 パフェを目の前にする顔じゃねえ。  
 
「まずはアイスのコーンから片付けるわよ」  
『自分から動きなさいよ、この甲斐性なし』  
 
 ひどい言われようだが、この期に及んでまだ動けない体たらくなんだから抗弁のしようがない。  
 事態についていけず、まごつく俺に焦れたのか、  
 
「いーから、これを、あたしに、食べさせなさい!」  
『いーから、これを、あたしに、食べさせなさい!』  
 
 叫ぶような怒声が耳をつんざいた。  
 脅迫じみた剣幕に圧されるように、俺はとにかく手当たり手に取るようにコーンを引き抜いてハルヒに差し出す。  
 いきなり人参を突きつけられた馬のようにハルヒは一瞬のけぞったものの、シャリシャリと口にし始めた。残り数センチとなったところで手を離してやると、一気に飲み込んで咀嚼する。  
 やけに時間をかけてコーンを食べ終わったハルヒは、ロボットのようなぎこちない動きで今度は自分がコーンをつかむと、のろのろと俺の口元に伸ばしてきた。  
 半ばやけくそのように食らいつく。少しでもこの時間を短縮しようとバリバリと噛み進むがやけに食いづらそうだ。それもそのはず、コーンがぷるぷると震えてやがったんだからな。  
 俺が黙っているのは、親の敵のように睨み続けるハルヒに封殺されていたからだ。  
 とりあえず俗に言わないかもしれない『「あーん」イベント』を、よりによってあのハルヒを相手にやっちまったことに愕然と肩を落とそうとしたものの、そんな暇も与えられず、  
 
「ほら、ぼさっとしないの! 次は、ポッキーいくわよ」  
『失礼ねえ。そんなに嫌そうな顔することないじゃない』  
 
 戦渦が俺を飲み込んでいった。  
   
//////////  
 
「きゃっ! 今、指舐めたでしょ? こんのエロキョン!」  
『ゆっ、指舐められちゃった。キョンにっ! ペロって!』  
 
「文句があるなら皮の薄いパイナップルに言え」  
 
 反撃とばかりに俺はさくらんぼの枝をつまもうとする。何かが振り切れてしまったのか、人としての大切な観念を失ってしまったのかは定かではない。  
 とにかく恥じるのは後回しとばかりに俺たちは激しいスイーツラリーを繰り広げていた。  
 
「あ、さくらんぼはダメ」  
『あ、さくらんぼはダメ』  
 
「なんでだ?」  
   
「き、嫌いなのよ。そうっ、アレルギーがあるの!」  
『種出すとこ見られたくないのよ。気遣いなさい!』  
 
「……まぁいい。じゃあイチゴな」  
 
「スプーン使いなさいよ。小さいから食べにくいじゃないのよ。あんたぶきっちょなんだから、落とさないように気をつけなさいよね!」  
『スプーン使いなさいよ。今度はあたしがやっちゃうじゃない。べ、別に嫌じゃないけど、ってああもうっ、あたし何言ってるのかしら』  
 
 言われた通りにスプーンで食わせてやると、それはそれでアレだったのかハルヒは目を白黒させた。きっと味なんて分かっちゃいないだろう。  
 どうしてそう思うのかって? やり返された俺が正にそうだったからだよ。  
 ハルヒの裏音声に関しては、後でまとめてツッコんでやることにした。意表を突かれるびに脈が乱れるが、いちいちやってたんじゃキリがない。それよりも自分ががんばってるせいか、不思議なほどに感情移入してしまうぜ。  
傍観者でありながら、俺は画面の中の自分に半分以上気持ちを重ねてしまっていた。  
 大騒ぎしてもつれあいながらもペースをつかみ始めた俺たちはパフェを飾っていた菓子、果実類を片付けてアイスの尖塔を切り崩しにかかっていた。  
 遮蔽物が取り払われてハルヒの顔が正面から見えるようになっていた。スプーンの取り回しも少し楽なってペースはさらにあがる。  
 だがアイスってのは間違っても早食いできるもんじゃない。  
 すでに口の中は熱を奪われて麻痺を起こし、甘さとツープラトンで歯に沁みてきていた。パブロフの犬じゃないがこうやって見てるだけで条件反射で唾液が出てくる。  
 弱音が喉まで出掛かっている俺に対して、ハルヒはまるで余計なことを意識するのを恐れるかのように、無我夢中で俺が差し出すアイスを貪っていた。  
 ちゃんとスプーンを食べやすい位置に正確に制御できてない俺にも非があるが、口の周りにアイスを付けまくってパクついてる様は、ひいき目にみても品があるとは言えない。  
 もちろん拭くように言ってやろうとしたさ。しかし、それすらも許されない気迫に呑まれてしまっていた。  
 さりとてこっちにも限界ってものがある。冷たいものの食いすぎで腹も冷えてきて本格的にやばいと思った矢先だった。  
「――――っ!」  
 たまらず頭を押さえて顔を背ける俺。  
 
「ど、どうしたの?」  
『キョン、大丈夫?』  
 
「ぃってえ……、頭にキーンってきた。なるべくゆっくり溶かしながら食べてたんだが、さすがにおっつかん。ちょっとだけ一息いれようぜ。お前も口の周りアイスまみれだぞ」  
 俺の言葉に弾かれたようにハルヒはかなり慌てた様子でナプキンを取り口元を拭った。  
 まったく、それだけべっとり付けといて気づいてなかったとは大した集中力だぜ。  
 ガタガタになってる俺の身体はともかくとして、無理してペースアップした甲斐あって、アイスでできた中央塔は跡形もなくなくなっている。  
 周りを見回すと俺たちよりも進んでないテーブルの方が多い、というよりも本気で早食いをやってるやつらなんてほんの一握りだという事実に気づいた。  
 ……そりゃそうだ。楽しみこそあれ、なんの因果でこんな苦行に身を投じねばならんのだ。  
 
「ふふ……、完全に遅れは取り戻したみたいね。何てことないわ、ちょうどいいハンデだったってこと。3万円はもらったも同然ね」  
『最初はすごく恥ずかしかったけど、慣れれば案外どうってことないもんね。そうよ、キョンとあたしが協力すれば無敵なんだから』  
   
 不敵に笑う因果の主を前に、恨めしそうに俺が眉根を寄せる。  
 
 心境は「まったくこの女は……」、といったところだったはずだ。  
 しかし、ハルヒが明後日の方を向いたまま戻ってこないことに気づくと、自ずと皺が解けてその視線の先を追う。  
 ハルヒが一体何に囚われていたのか、その答えは反対側の端の窓際席にあった。  
 規格外の体格をしたカップルがさも窮屈そうに椅子に座ってパフェを掘り起こすように食っている。  
 男がごついのはともかく向かいの女、遠目でもすでに二の腕がはんぱじゃない。下手しなくても俺よりウエイトあるぞ。  
 尖塔はとうの昔に陥落し、スプーンの先が地下中層のキウイに届かんとしている。  
 大本命があんなところに居たとはうかつだった。どう間違ってもあれには勝てんだろう。馬力が違いすぎる。  
 ハルヒだって次元の差を思い知っただろうと、このときばかりは確信できた。しかし返ってきたのは――、  
 
「キョン! 休んでる暇はないわ。なんとしてでもあれに勝つわよっ」  
『無敵伝説を阻もうとはいい度胸ね。身の程思い知らせてやるわよっ』  
 
 宥める言葉の一つでもかけようとした俺の慈悲を粉砕するカウンターパンチ。  
 シュールなほど対照的な顔が、土台だけになったパフェを挟んで向き合う。  
 瞳の中でメラメラと何かを滾らせるハルヒ。対してげっそりしてうなだれる俺。  
 ハルヒがありきたりな叱咤を飛ばしてくるが、絶望に呆けて俺は生返事を繰り返すだけだ。  
 まるでやる気のないマングースがハブとの戦いを強いられているようで哀れみがこみあげてくる。  
 そんなやりとりが5秒と続かない内にハルヒは癇癪を起こしてテーブルを叩くと、無理やり俺の手にスプーンを握らせてきた。  
 鬼か、お前は。  
 そうやってなし崩し的に今度はボーリング作業が始まる。  
 こうなりゃもう腹をくくるしかない。  
 どうせ後は半液体なんだから、流し込むように食えばなんとかなる……、はずだ。勝ち負けは別として、食い終われば火種は断ち切られる。  
 そう自分に言い聞かせた俺はハルヒがよそって寄越したスプーンを食んだ。  
 クリームだと信じて疑わない俺はすする様に飲み込もうとした。その瞬間、自分の考えの甘さを思い知ることになる。  
 生クリームの雪解けの食感とは相反する堅くザラついたような舌触り。  
 白い大地の中にフレークという名の地雷が潜んでいた。なんてこった。  
 パフェを覗き込むと、これでもかってくらいに高密度で敷き詰められている。  
 よく考えりゃこいつは予測できたことだぜ。ごってりした盛り付けを支えるには強固な土台が要る。クリームだけじゃ沈んじまうからな。  
 吐き出すわけにもいかず噛み砕く。冷たくないのは良いが、胃の中でたんまり膨れるに違いない。満腹感を感じ始めた頃合にこいつはガツンとくる。  
 行き場のないやるせなさをぶつけるかのごとく、俺はロングスプーンにフレークを目いっぱいすくってハルヒの口元へもっていった。  
 口に入れてから時間差でハルヒの顔が歪む。それを見届けてほんの一瞬だけ気分が晴れるが、結果的に卑しい上に虚しいだけだった。  
 ゼウスの浮気相手を疎ましむヘーラーを思わせる憎しみの形相でハルヒはバリバリとフレークを砕き、すぐさま俺に仕掛けてくる。  
 プラスチックでできた薔薇柄のロングスプーンをチャンチャンバラバラ、互いに無念無想で咀嚼、嚥下を繰り返す。  
 しかし、自律神経をごまかし続けることなんて無理に決まってて、確実に精神論でも何ともできない真の限界が近づいていた。  
 ロングスプーンを押し込まれている青い顔した俺の面は、もう放送コードギリギリだ。  
 思い出すだけで気が滅入ってくるぜ。  
 何を言ってもまず甘かった。ただでさえクリームが甘ったるいのに、フレークにはクソ丁寧にシュガーが塗してあって砕くと溶けて、それがチョコスプレッドと絡まるともう手に負えない。  
、極寒地獄の次は極甘地獄だったってわけだ、なんてうまいこと言った気になってる場合じゃない。  
 きっと俺の身体の中では経済崩壊を起こしたアフリカのどの辺にあるのかも分からんような国の物価並の勢いで血糖値が高騰し、インシュリンが湯水のように投入されていたことだろう。  
 その上でボディブローのようにフレークが腹に溜まっていくのさ。  
 冗談抜きで吐きそうだった心境が少しでも伝わることを願う。そうなれば、奮闘中の俺も少しは救われるだろうからな。  
 だが、エールも虚しく青信号が点滅する。  
 内臓が身体を操って拒否したかのように、反射といっても差し支えのない反応でハルヒが繰り出した矛先を、俺は顔を背けて避けてしまった。  
 スプーンが掠めて頬に白線が走る。  
 
 とうに食べるのが追いついておらず、頬にヒマワリの種をつめこんだシマリスよろしく、口の中が格納超過となっていたのだ。  
 憔悴しきった目でそれでもなおモゴモゴとがんばろうとする。  
 その懸命な姿は、無謀な長距離マラソンチャレンジを終えようとしているタレントと重なって、なんだか微妙な気分になった。  
 その様にさすがにハルヒも分かってくれたのか、少しインターバルを入れてくれた。  
 タイム的には完全に安全圏内、もはや例のヘビー級カップルとの一騎打ちとなっていた。  
 さすがにやつらも地雷に苦戦を強いられてるのか、手と口の動きがかなり鈍っている。驚いたことに中盤よりもかなり差が詰まっていた。  
 リードは許しているもののスプーンで量って数口差といったところか。  
 ここが勝負と悟ってか、最後の檄が飛んだ。  
 
「もう少しよ。根性であと数口だけがんばんなさい!」  
『あたしが多めに食べてあげるから、男見せなさい!』  
 
 もう何がなんだか分かってない俺が虚ろに頷いて、ラストスパートの拍車がかかった。  
 
//////////  
 
 結果を言おう。  
 なんと驚くべきことに俺たちは勝ったのだ。まぁ、代償として帰宅後に激しい腹痛に見舞われ、それから数日(昨日まで)腹を壊したわけだが、とにかく仇敵を僅差で差して『ラブラブジャンボパフェチャレンジ』第5回大会覇者に輝いた。  
 精根尽き果てた俺は存在自体を霞ませた状態で、店内総立ちによる拍手喝采を浴びていた。  
 今、画面の中では表彰が行われている。店長と思しき恰幅の良いおっさんから賞状と賞金3万円を真顔のまま受け取る俺。嬉しいもなにもない。ただ疲れきっている。  
 どう考えてもハルヒが受け取るにふさわしいと思われたが、ハルヒは固辞して俺に譲った。  
 なぜそうしたかさっぱりだったが、今までの副音声を考慮すれば分からんでもないような気がしないでもない。  
 画面の端に映っているハルヒは後ろに控えて満足そうな顔で微笑んでいる。率先して食ってたにも関わらず特に辛そうな様子はない。一体その小さな身体のどこにしまいこんだんだ?  
 イベントの締めくくりとして司会役の件のあんちゃんが、勝利インタビューをおっぱじめた。  
 そこでいきなりハルヒが揚々としゃしゃり出てきて前衛交代。  
 正直しゃべるのも辛い気分だから助かる。  
「優勝おめでとうございます。かなりのハイペースでしたけど大丈夫ですか?」  
 
「心配無用よ。これくらいどうってことないわね」  
『あたしは何ともないけど、キョン大丈夫かしら』  
 
「驚きの余裕ですね。小柄なのにすごいチャンピオンが誕生しました。ところで、お二人はどういった関係なんですか?」  
 
「SOS団の団長とヒラ団員。あ、言うまでもなくもちろんあたしが団長ね」  
『関係って、なんだろう? 友達……じゃちょっと物足りない感じなのよね』  
 
 中途半端に空気が読めるあんちゃんはハルヒの電波な部分を鋭く察知して見事にスルー。煙に巻くかのように自分がスカウトしてきたことや、今回の俺たちの記録がいかにすごいかを篤と語った。  
 電波の裏側がこんなにまともだったことにじっくり驚いてる間もなく、あんちゃんトークの最中、ほっぽり加減で手持ち無沙汰になったハルヒがテンションが底をついた俺にちゃちゃを入れてくる。  
 
「せっかくの凱旋なんだから、しゃんと胸をはりなさいよ」  
『ねぇ、本当に大丈夫? 無理させちゃってごめんなさい』  
 
「……ああ」  
 人の気も知らずに。  
 あのときの俺は確かこんな感じの文句を心の中で垂れてたはずだ。  
 
 まともに取り合う気力も残ってなかった俺は、時折催してくる吐き気と戦いながら是非を問わず相槌を打つのが精一杯でハルヒの方を見向きもしなかったのさ。  
 ハルヒはきっと情けない野郎に苛立つような、そんな可愛げのない顔をしてるはず。勝手にそう思い込んでいた。  
 ところがどうだ。今スクリーンの中に居るハルヒの様子はそれとあまりにかけ離れていて、とんでもない思い違いを犯していたことを知る。  
 眉根を寄せながら俺の横顔を覗き込んでいるハルヒは心底俺のことを気遣ってるように見えた。  
 背中をさするような仕草をみせたが、手のひらを宙で彷徨わせて引っ込めてしまった。こいつの中で何か思うことがあったのか、深いところまでは分からん。ただ、申し訳なさそうに沈んだ顔を眺めていると、  
さっき右耳から聞こえてきた言葉をそのままハルヒが発した言葉に当てはめても何らおかしくないような気がした。  
 少し楽になったのか、俺が面を上げる。近い距離でハルヒと向き合う形となった。不意に俺の顔が迫ってハルヒは大きな瞳をさらに見開いた。  
 その心境は分かる。少し照れてしまいそうな距離だからな。しかし、このとき俺はそんなことよりも他のことに囚われていた。  
 瞬時に何かがおかしいことに気が付いた。あるはずのないものが、……ある。確かな違和感があるはずなのに、妙に似合っているせいか間違い探しの答えがすぐに出てこない。  
 やっきになって俺はハルヒの顔をまじまじと見つめる。  
 その顔は補習がかかったテストを受けているときよりも真剣で、視線は熱っぽくすら感じられた。完全にボケてやがる。  
 
「なっ、なによ。頭までおかしくなったの? いきなり人の顔をジロジロ見ないでよ」  
『なっ、なによ。あたしの口許ばっかり見て。こんなところで一体何考えてるわけ?』  
 
 視線の先は気づかれてたか。目的はとんだ見当違いだが。  
 ハルヒが言うように、確かに俺の視線の向かう先はハルヒの唇の近くだった。正確にはその少し上、上唇の上。  
 至近距離で分かるくらいに細く薄っすらと、しかし絶妙のラインを描いて白髭が伸びていた。  
 中央から唇に沿ってやや下がるが口の端に達するとそこから力強く跳ね上がって、見事なシンメトリーを誇る風体には威厳すら感じられる。  
 非常に偏った例で申し訳ないが、ヴィルヘルム2世の肖像画を思わせる立派な口ひげ。  
 髭の正体は言うまでもない。ナプキンの扱いがなってないガサツなこいつのことだからすぐに察しがつく。  
 だが、よもや俺がそんなモノを凝視しているとは思わないハルヒは、見つめられていることに関して恥らいまくっている。  
 可憐なほどに頬を染めて顔を逸らし、慌しく視線を右往左往させて俺を窺ってくる。視線の先は俺の口許にあるような気がした。  
 こいつ、何かとんでもない勘違いをしてやしないか?  
 しかし、そんなことなど見向きもせず髭だけを注視し続ける俺。  
 ……まことに残念なことに、スクリーンの中にはバカしか居なかった。  
 
「無理させたあたしを恨むのは分かるけど、こういうやり方は陰険よ。言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」  
『そんなに真剣に見られたら…………思い出すじゃないのよ。…………、今したらパフェの味がする……、のかしら』  
 
 無意識のうちなのか、ハルヒがチロリと唇を湿らせた。  
 胸が高鳴るのは見ているこっちばかり、当の俺は耳を貸さず「団長が皇帝に昇格しやがった」などと、くだらない結論に到達し、そうなるともう抑えきれず、  
 
「ぷっ! ――――っ、はははははっ、ハルヒっ! お前っ、っくくく、わははははははっ!」  
 
「えっ、何?」  
『えっ、何?』  
 
「ひっ……、髭っ!」  
 
「ヒゲ?」  
『ヒゲ?』  
 
 真顔で女子には縁遠いワードを聞き返すハルヒがどこか間抜けで、よけいに俺の腹筋に拍車がかかる。  
 おかしいのに似合ってるというミスマッチに賛同を禁じえないが、さすがにこの大爆笑はない。  
 司会のあんちゃんも、他の店員も、取り巻きの客も一斉に水を打ったかのように静まり返っていた。  
 末代まで祟られる恥だな。  
 
 引きつる頬と小競り合いながら自分にダメ出しをやるものの、画の中の俺は極限状態から開放された直後のためか堰をきったかのように笑いが止まない。  
 バカにされてることをたっぷり3秒かけて悟ったハルヒは、強張った顔で指された箇所を慌ててこする。  
 そして自分の腕に付いたものを確認して、ようやく事態を飲み込んだ。  
 バネで跳ねたようにハルヒの眉が釣り上がり、顔が焼けた鉄の如き熱気を帯びて炯々と鬼の形相に成り変わる。  
 それを目の当たりにして俺の顔からあっけなく笑みが消えた一瞬後、どてっぱらにハルヒ渾身のガゼルパンチがめり込んで、プラスチック容器から皿に落としたプリンのように俺は昏倒した。  
 
//////////  
 
 その後の映像にはあまり語られるところがない。単に俺が思い出したくないだけかもしれんがね。  
 完全に機嫌を損ねたハルヒは一言も口を開くことなく集合場所まで肩を怒らせたまま踏破し、俺が後ろからヨタつきながら息絶え絶えについていくシーンを見ているだけだった気がする。  
 店を出た後、もちろん自分に非があると分かっていた俺は背中に向けて何度も謝った。だが少しも取り合ってもらえず、終盤のほうはただ無言で歩くだけになってしまっていたのさ。  
 駅前では朝比奈さんと長門、古泉の三人がすでに待っていた。  
 横断歩道を渡るハルヒから怒気をいち早く感じ取ったのは古泉だ。お迎え用に用意していた陽気を消して、注意深くハルヒの所作を観察し始める。それに少し遅れて朝比奈さんも挙げようとした手を引っ込めて、ばつの悪そうに尻込みしてしまった。  
二人を受けて長門の顔が5厘増しで引き締まる。  
 合流するや否や、成果報告もすっ飛ばして一方的に解散を告げたハルヒは、止まることなく駅の方へ帰っていった。  
 朝比奈さんが俺たちにちょこんと頭を下げてそれを追う。一瞬だけ逡巡して、結局長門は二人についていった。  
 計ったように女子のことは女子で、男子のことは男子で、という形になる。  
「一体、何があったのですか? あそこまで怒らせることができるあなたには感心の念すら抱きますよ」  
「……長くなるぞ。やらかしてしまったことは認めるが、あいつが望む結果も出したんだ。しぶとく怒り続ける理由が分からん。プラマイゼロってところが妥当だろう」  
 穏やかながらも鋭く問い詰めてくる古泉に対して俺の回答は要領を得ない。分からないものは答えられないのだ。  
 どうしてハルヒが不当なまでに激しく怒ったのか、あれからもその理由をずっと考えていたが、結局明確な答えは出せないままだった。  
 しかし、今ならなんとなく分かるような気がする。  
 客観的に自分を見返すことで数え切れないほどの新しい発見があった。そして、一言毎に俺の脳髄を揺さぶったハルヒのホンネ(仮)。  
 無論、重要なのは後者ではない。  
 ハルヒの表情と言動を注意深く照らし合わせれば、もっと気づけたことがあるんじゃないか、という意識が芽生えたことが収穫だろう。  
 そう総括を終えて、映像を止めようとした。  
 たまには古泉も気の利いたものを寄越してくる。あいつに付き合って珍しく有意義な時間が過ごせたもんだと、席を立とうとしたそのときだった。  
 コードの長さを見誤って、音を立ててプレイヤーをイヤホンごと床に落としてしまった。  
 これくらいで壊れたりはせんだろうと思いつつも、焦って拾い上げる。液晶そのものは無事だったが、なにやら表示がおかしい。  
『管理用画面 パスコマンドを入力してください』  
 なんだこれは?  
 落下の衝撃で勝手に変なモードに切り替わっていた。  
 参ったぞ。戻るにはどうすりゃいい?  
 ダメ元でドーナツ型の十字ボタンを適当にカチカチとやるってみる。すると、  
『認証しました』と一瞬の表示、次いで『ターゲットセレクト』の画面が現れた。  
 おいおい、今のでパスが通っちまったのか? 明らかに運の使い方を間違ってるぞ。  
 選択できる項目は『涼宮ハルヒ』、『古泉一樹』の二択。今はハルヒの文字が反転している。ハルヒモードってことなんだろう。……古泉モードも選べるってことなのか?  
 
 好奇心は猫を殺す。  
 その諺を知ってるにも関わらず、俺は何かに操られるがように、パッドをスクロールさせて『古泉一樹』の文字を選択していた。  
 画面では未だ俺と古泉のやりとりが続いている。  
『ターゲット 古泉一樹に変更完了しました』  
 と表示された画面から目を離して、異様なほどに緩慢な動作でイヤホンを装着する。予想はしていたが、画面の台詞に合わせてやつの声が右耳から流れてきた。  
 
「どうも情報が不足していて分析が困難です。店にでも入って腰を落ち着けて詳細に話してはもらえませんか?」  
『これを口実にするつもりはないですけど、たまにはあなたと二人で黄昏の時間を過ごすのも悪くありませんね』  
 
 …………。  
 
「いい豆をそろえてる店がすぐ近くにあるんですよ。アンティークカフェですから落ち着いてくつろげると思います。行きましょうか」  
『男同士腹を割って話そうではないですか。食べすぎのせいで随分顔色が優れませんね。僕が優しくケアしてさしあげるとしましょう』  
 
 ――――っ!  
 俺は引きちぎるようにイヤホンを剥ぎ取った。  
 促す古泉の所作がエスコートするかの如く、そっと俺の腰の辺りに回ったように見えたのは副音声が成した被害妄想だと信じたい。  
 まるで悪い夢から覚めた直後のように、寿命を削るかの勢いで心臓が早鐘を打っていた。嫌な汗が額を伝う。  
 待てよ、検証不可とかぬかしてたがお前のモードがあるってことは――――、そこで俺は思考を停止させた。それ以上考えてはならないと本能が告げていたからだ。  
 いつの間にか映像は終わっていて静寂と暗闇に包まれていることに気がつくと、言いようのない不安が押し寄せてきた。  
 知らぬ間に口の中に溜まった唾を飲み込んで今一度、手にした薄い筐体に目を落とす。裏返すと鏡面にまるで悪魔の仔を見るかのような狂気じみた自分の顔が映っていた。  
 一つの決心を固めるのと同時に、視聴覚室入り口がノックされる音を聞いて、返事を待たずに戸が開く。  
 細身のシルエットが覗いたのを引き金に――――、俺が手にしたプレーヤーを叩き割ったことは言うまでもない。  
 
―完―  
 

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