そう、そこにキミの出番は無い。  
 キミは彼女や彼を知る事も無く、彼女の気持ちに気づくことも無く、彼女と話す切っ掛けも無く。  
 ただ淡々とした日々が繰り返される中、わたしだけがキミと共に歩む事になるだろう。  
 倦怠感漂うサイクルに対しキミは人生なんてこんなものかと思うかもしれない。  
 それこそがわたしが望んだ最高にして最善なサイクルなのだと、キミはわたしの気持ち同様に気づくことも無く。  
 
 キミの出番は無い。  
 わたしが、キミの全てを取り上げてしまうから。  
 
- * -  
「またな、佐々木」  
 三重苦と自評した現状への決着を切望しつつキョンに別れを告げる。橘さんも引き上げてしまった以上彼との  
会合はこれで終了だ。  
 キョンは最後に笑い終え一息ついている藤原へ一瞥を投げると小さく手をふり喫茶店から出て行った。視線と  
微笑だけで彼を見送るとわたしは先ほど彼の手勢のウェイトレスが置いていったコーヒーに口をつける。それほど  
時間がたったわけでもないコーヒーは、だが焙煎を味わうには飲みやすい程度には熱を冷ましていた。  
 
「僕がまだいるのに帰るとはな」  
 僕以外に残った最後の一人は不快を態度で表現しつつ腕組みをしながらこぼす。  
「これで解っただろ? アイツはまだ何もわかっちゃいない」  
「くっくっ、そうだろうね。前に会った時に鎌をかけてみたけど、キョンは九曜さんや橘さんにばかり注意を払っていた。  
 つまりはそういう事なんだろう。地球外知性の人型イントルーダー、周防九曜。リミテッドな超能力使い、橘京子。  
 直接的な脅威となるこの二人がいなければとりあえず問題はおこらない。まあ普通ならそう判断するだろうね」  
 カップを再び口へと運び喉に苦味を送り込む。左手に持つソーサーへ形式的にカップを戻すとそのまま藤原を指差した。  
「だが僕が真に恐れている存在は彼女たちではない。そう、キミだ」  
 藤原はさも当然だと言わんばかりの横柄な含み笑いを浮かべるとコーヒーを口にする。  
「朝比奈みくるは優秀だ。アイツを含め涼宮ハルヒ勢の連中から未来人という存在への恐怖を完全に取り除いた  
だけでなく、アイツらから庇護される対象とまでなっているんだから。その点については掛け値無しで賞賛する」  
「それを確認したんだね」  
 橘さんがキョンに謝っていた朝比奈さんの誘拐劇。あれは一部の人間が先走った結果だと彼女は言っていた。  
 未来から強力に干渉されていた為に成功の出目は無いだろうと踏んでいた、とも。藤原とその背景はその一件から  
様々な情報を得たのだろう。朝比奈みくるの一派がどのように干渉してくるか。涼宮さんに組する組織と橘さんたち  
超能力集団がどれほどの力を有するのか。そして何より、朝比奈さんがどこまで彼らSOS団に深く潜入しているのかを。  
 
「ああ、そうさ」  
 主語の無いぼかした問いかけに藤原は間をおかず答える。カップを置き片肘を立てて頬杖をつくと、その方頬に  
笑みを浮かべながら世界全てを侮蔑するかのようなため息と共に言葉を漏らした。  
「本当、朝比奈みくるは優秀だ。未来人の能力をここまで曲解させる事に成功しているんだからな。未来人という  
存在は過去と未来を知り時間移動が出来るだけで、自分には影響が少ない力なき存在だと連中は考えているだろう。  
いざとなればどうとでもなると。  
 全く愚かしいにも程がある。現地民やトイドールが何をしようと朝比奈みくるはどうにもできないのさ。未来の  
朝比奈みくるが五体満足ああして無事な姿で現れている以上朝比奈みくるの無事は時間という絶対的な流れが決めた  
既定事項であり、その既定事項を覆す事などは唯一つの例外を除いてありえない。  
 いや、本来ならその唯一つの例外すらありえてはならない。過去における未来の不確定は未来にとって自身の  
存在が不安定となる事であり、危惧すべき最大級の危険となる。  
 だからこそ僕はここにこうしている。その唯一つの例外、涼宮の持つ時空改変能力の為だけに」  
 
 スプーンに角砂糖を載せコーヒーに少しだけ浸す。角砂糖が下から徐々にコーヒーカラーに染まっていく。  
「随分と雄弁じゃないか。みんながいた時にそれだけ喋ってやれば橘さんも喜んだんじゃないかい?」  
「付き合う義務は無い。それに橘は『その程度』じゃ喜ばない」  
「……なるほど。それが橘さんの既定事項、か」  
 崩れだした角砂糖をコーヒーに落としかき混ぜると、窓の外で未だにそぼ降る雨を見るとも無く見た。  
 
 キョンは未来を知るという意味を額面通りにしか捉えていない。だからキョンは未来人を恐れていない。  
 未来人はこの現代の事象全てに於いて先手を打つ事ができる。それもそのはず、彼ら未来人はこの時間を  
既定事項として把握しているのだから。わたしやキョンの生涯もまた彼らにとっては過去の出来事でしかない。  
 彼らはわたしという人間の始まりから終わりまで全てを知っている。今のわたしが全く気づいていない、  
将来ようやく知るであろう自分が求める深層心理に潜在する嗜好も、わたしがこのような事象を体験すれば  
トラウマを持つのではないかといった未来的予測も、彼らにしてみれば本を読むよりも簡単に知りうる事が  
できるのだ。  
 
 そういう意味では宇宙人が万能たる力を持とうとも、超能力者がわたしの精神を掌握しようとも、全てを識る  
存在である未来人の力には到底及ばない。  
 彼らは過去のわたしたちがどのような人間なのか全て把握している。だからこそキョンや彼らには彼らの嗜好を  
捉えつつ、だが全てを捉えない朝比奈みくるという存在が送り込まれたし、藤原もまたわたしのクリティカルポイ  
ントともいえる急所を迷う事無く突く事ができたのだ。  
 
「まったく本当に──残酷とは、前触れもなく訪れる」  
《狂神》を零しつつわたしは静かに目を瞑ると、わたしは心に深く刻み込まれた電気羊の夢を思い返していた。  
 
- * -  
 県内有数の進学率を誇る名門学院を自分の母校としてからはや九ヶ月。  
 視線届かぬ天頂を時々見上げる癖がいまだ絶えないわたしは、今日もそれを自覚しつつ目の前で共に昼食を営む  
友人から窓の外へと視線を流して一息ついた。  
 
「また、北を見てるんですか?」  
 共学に通う一般女子高生の標準とも思える手の平サイズの弁当箱にフタをしつつ友人が聞いてくる。明るい栗色の  
長髪を頭の左右でまとめ上げた友人は、そのツインテールと呼称されるしっぽをぴょこっと跳ねさせつつ、わたしが  
見ている方角へと同じように目を向けた。  
「自分の人生を賭けてまで選ぶ選択肢ではなかった……それはちゃんと理解しているつもりなんだけれどね。  
 それでも時々考えてしまうの。もしわたしがもう一つの道を選んでいたらどうなっていたか。将来に不安はよぎる  
けれど、それを補うだけのものがあそこにはあったのではないか。……彼と会うと今でも考えてしまう事だわ」  
 わたしが見つめる先にある高校へと進学した彼とは通学路が同じ事もあり、今でも時々会ったり遊んだりと  
交流し続けている。彼は中学時代と変わらず倦怠ライフを満喫しているようで、良くも悪くも変わらぬ彼に会う  
たび不思議な安心感で心が充足される。  
 
「うーん……未だに佐々木さんがそこまで惹かれるほどの人に見えないんだけどなぁ、彼。確かに一緒にいて  
楽しい人なのは認めますけど」  
「それが解っているだけでも十分よ。まあ何も知らない人からしたら単にぱっとしない男子って印象で終わっちゃい  
そうだけどね、確かに」  
 でも彼には、キョンにはわたしには無い何かがある。たとえばこの世界をひっくり返してしまいそうな、そんな  
切っ掛けとなりそうな何かが。わたしはそう彼の事を評価していた。それ故にこうして彼と別の高校へと進学した  
今でも、彼の事を考えて北高を見上げてしまう、そんなクセがついてしまったのだった。  
 決して両親や教師の言葉に右顧左眄して流されるようにこの学院を進学先に決めた訳ではない。  
 ないのだが、もし彼らが薦めたこの光陽園学院ではなく北高へ進学する事を決意していたらどうなっていたか。  
 わたしの日常に付きまとうこの燻って纏わりつく虚脱感は完全燃焼されていただろうか。今までもキョンと  
会う度に考えていた事だが特に最近はひどい。誰であろうと知る事の叶わぬifの世界、そんな無意味な事に思いを  
馳せるようになったその理由は、今まさに教室へと戻りこのクラスにおけるわたしの席の後ろ、教室最後列の  
窓際という特等席に座るなり  
「……ふう」  
と憂鬱を伴う溜息を吐く日課を持った風変わりなクラスメートにしてわたしの友人である彼女が原因に他ならない。  
 彼女が憂鬱な理由を理解しているだけに、彼女に感化されてわたしも自分のいる場所が正しいのかと考え直す  
事が多くなってきたのだ。  
 七夕の時には現状維持が望みだなどと考えていた筈なのに、気づけば今以上の交流を、刺激を、そして何よりも  
充足感を求めている。  
 あの狂った存在の事もあるだろうが、どうやらわたしはこと彼との関係に関しては意外と貪欲な存在だったようだ。  
 
 首を少しだけ動かし、視界ぎりぎりに彼女の姿を捉えると言葉をかける。  
「今日も収穫無しかい?」  
「見ての通り。毎日時間の無駄使い……本当、嫌になる」  
「そいつはご苦労さま」  
 机に突っ伏し不貞寝モードに入るのを確認し、わたしは彼女を放置する。  
 それ以上彼女には決して立ち入らない。理由は簡単、彼女がそれを良しとしないから。  
「ねぇ、いつも思うんだけど……佐々木さん、よく彼女と会話できるのね」  
「そうかしら?」  
 色々と感情を忍ばせ表情を緩める。確かに橘さんの言うとおり、後ろで不貞寝する彼女とコミュニケーションが  
取れる人間なんてのはクラスはおろか学院内でもごく僅かしかいない。  
 成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗、そして橘さんをはじめとした女子生徒の大半がうらやむような好青年の  
恋人を持つ彼女。  
 誰がどう見たって勝ち組と呼ばれる人生を走っているのに、常に充たされぬ表情を浮かべる『問題児』。  
 
 涼宮ハルヒ。  
 わたしたちがいる光陽園学院の入学初日から日常を否定し、存在不明の超常を渇望する少女。  
 彼女は、今なお日常が生い茂る幽鬱の中にいた。  
 
- * -  
 人が知り合う縁なんてモノは何処にだって転がっているもので、入学したクラスで男女別に名前順で並ぶ座席も  
また一つの出会いの切っ掛けとなった。  
 その突飛なる自己紹介で入学初日にしてクラスメート全員に変な奴と認定された涼宮さんはもちろん自己紹介だけで  
落ち着くような人間でもなく、その後の学院生活に於いても様々な行動言動を見せ付けていった。  
 日常的な会話は全て一刀両断、全ての部活に仮入部しては部のレコードを塗り替えて即退部、休み時間になると  
学校中を駆け巡り収穫無しの漁師に負けないぐらい不機嫌なオーラを全開にしては教室へ戻る。  
 中学時代にはキョンたちに変な女と云われたわたしだが、彼女ははっきり言ってわたし以上に変な存在だった。  
 
「毎日増える髪型と筆記具のカラーチョイスは何かへのメッセージなの?」  
 黄金週間と呼ばれる中途半端な連休明け、そんな彼女の奇妙な日常にわたしは前々から気になっていた疑問を  
投げかけてみた。  
「……いつ気づいたの?」  
「三週目に入ったときに一週間単位だって確信したわ」  
「ふうん」  
 月曜日は括りなしのストレートヘア、火曜日はポニーテール、水曜はツインテール……と、涼宮さんの頭には  
毎日一つずつ括られる髪の束数が増えていく。土曜には五つ束という不思議な髪型になるが、日曜まででリセット  
されて月曜にはまたストレートから再出発するというサイクルをみせていた。筆記具に関しても同じで、曜日に  
よって外見が色違いのシャーペンを彼女は使用していた。  
「……わたしさ、曜日には曜日の色ってものがあるように思えるのよ」  
「曜日の概念が古人の都合で決められたものであったとしても?」  
「ええ。古人がそこに何かを感じたからこそ曜日という概念を生み出したのかもしれないじゃない」  
「七日間というサイクルに意味があるからこそ敢えて区分した……なるほど、興味深いお話ね」  
 わたしは別に話をあわせた訳ではなく、本当に興味深い事だと思っていた。固定概念に囚われてしまえばそこで  
思考は停滞する。それが中学時代に貴重にして尊重すべき友人から教わった教訓だ。まぁその彼自身は常日頃から  
自分を包む倦怠感によってそういった突飛にして自由な思考をわざと秘匿・隠蔽している節があったが。  
 だからこそわたしは、彼に似ながらもそれを隠蔽しないで突きつけ続けるという違った面をみせる涼宮さんという  
存在に興味を持った。  
 
「この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしの所に来なさい、以上っ!」  
 誰もが持つ常識という世界に対してなかなか言えない啖呵をあっさりきった、涼宮さんという存在に。  
 
「あんた、佐々木さんだっけ。そういえばどうして男女で話し方が変わるの?」  
「癖、みたいなモノかな。昔ちょっとね。それと女の子相手にあの話し方だと、大体惹くよりも引かれてしまう  
事が多いから」  
「ふうん」  
 涼宮さんはそれだけを返し机に伏す。それにしても彼女、クラスにもクラスメートにも興味が無さそうに思えて  
いたが、それでも見るべき所、抑えるべき所はしっかりと見ているようだ。正直びっくりしたが、それ以上に  
わたしはその事実に対して心を躍らせた。  
 気分上々にしつつもう話は終わりかなと身体を前に向けようとした時、うつ伏せたまま涼宮さんが最後に一つ  
だけわたしに告げてきた。  
「あっちのモードの方があたしは好感が持てるわ。少なくとも他人にへつらってるようには見えないし」  
 彼女という存在がいる限りこの学院も満更ではない、いやかなりのもんだ。表現しがたいとよく評される  
くつくつと言った笑みが零れ落ちるがわたしはそれを抑えもせず即座に切り替えて返した。  
「いいだろう、了解した。ならば今後、キミにはこちらの姿で話させてもらうとしよう」  
 
- * -  
 それから三週間後。  
 涼宮さんは突然に彼氏と呼べる存在を作り出した。  
 
「全く以って驚天動地だよ。理由が解ってしまうだけに尚更ね。いつもながらキミの決断力と行動力には恐れ入る」  
 一時間目後の休憩時間、涼宮さんはいつもと違った慌しさで教室を飛び出していった。その後普段より幾分  
苛立ちを減少させて戻った涼宮さんに大急ぎの理由を聞いてみればただ一言「彼氏を作ってきた」との事。  
 おそらく彼女はマグロ以上に歩みを止めると死んでしまう存在なのだろう。わたしは彼女の熱意に心底感嘆した。  
「解るんだ、理由」  
「転入生の噂は僕にも聞き届いているからね。このあまりに中途半端な時期の転入、その転校には何か理由が  
あるとキミはふんだ。だからキミはその転入生を彼氏というポストに迎え入れたんだ。キミの事だ、もし転入生が  
女性であったとしてもその者と交友関係を求めに馳せ参じた事だろう。違うかい?」  
「正解。まぁ普通に考えたら誰だって解るでしょうけど。だからこそ誰よりも先に抑える必要があったのよ」  
 
 残念ながらその思考は普通に考えたとしたならば誰にも解らない事だろう。しかも転校生という属性だけで  
彼氏にしてしまうなんてあまりにも突飛過ぎる。その転入生もよく肯んじたものだと逆に感心しかけたが、  
涼宮さんの事だ。おそらく有無を言わさずその転入生を彼氏にしてしまったのだろう。その時の光景がいとも  
簡単に思い浮かぶ。  
「あぁ早く昼休みにならないかしら。彼の裏事情を徹底的に聞き出してやるんだから」  
 名前もまだ知らぬその転入生に対し、わたしは心の中で合掌を送ってやった。  
 
- * -  
「そいつは確かに変わった奴だな」  
 久しぶりに招かれた彼の家。わたしたちは世間話をしながら色彩豊かな折り紙を切り、折り、貼り合わせて  
様々な飾りを作っていた。  
「ああ。おかげさまで僕は退屈しない日々を過ごさせてもらってるよ。涼宮さんには悪いけどね」  
「違いない。っとテープをとってくれ」  
 手近にあったテープを渡し、ついでに自分が切り分けていた飾りの足を彼のぼんぼりと繋ぎ合わせる。たった  
今完成したぼんぼりを始め、わたしたちの周りには紙のチェーンや星型の飾りなどがいくつか転がっていた。  
 
「キョンくん次まだ〜? まだまだいっぱい飾れるよ〜。あっ、いっぱいできてる」  
 彼の妹がやってきてわたしたちの作った飾りを拾い集めると足取り軽く縁側へ向かう。何の事は無い、そこに  
立てられたやや小さめの笹に飾り付けを行うためだ。  
「ほれ、短冊だ。願い事を書いて一緒に飾っとけ」  
「うん、走るの速くなりますよ〜にっ、って書くんだ。みよちゃんもらってきたよ〜」  
 短冊の束を受け取って妹さんが友達のもとへ走っていく。その様子を見つめつつ彼は肩を落とすと、  
「やれやれ、今以上すばしっこくなったらいざって時に捕まえるの苦労すんじゃねえか。他の願い事にしてくれよ」  
そう苦笑交じりにわたしにこぼしてきた。  
 
 七夕を間近に控えたある放課後。たまたま帰路を共にしていたわたしとキョンは、これまたたまたま妹さんと  
その友人が帰宅しているのに鉢合わせ、ついでに今日七夕の飾り付けをする予定だったと聞き、一緒にどうかと  
妹さんたちに誘われ現在に至る。  
 彼は適当に折り紙を束で取ると細長く切り、両端を繋いだ輪を次々と繋いでチェーンを作り出していく。  
 わたしも紙に切れ込みを多数入れて引き伸ばし天の川を模した飾りを作ったり舟を織り上げたりして七夕装飾を  
生産していく。そんな作業を行いながらわたしは件の姫君について最近気になった事を話し始めた。  
 
「でもね、最近その涼宮さんの様子が微妙におかしいんだ。何ていうかいつもと違った、そうアンニュイ感が  
漂うといった感じでね」  
 学院生活に対し早々に見切りをつけたのか、あるいは七夕という時期が関係しているのか。それはわたしには  
解らない。しかし常日頃学院中を駆け巡っていた暴走特急列車がここ数日停止線で止まるという姿を見てしまったら  
誰だって疑問に思う事だろう。  
 キョンは新たな折り紙を取り出すと三つ折りにしてから切り分け、それぞれに糸を通して短冊を作りあげる。  
短冊の中には青や紫といった色も見受けられるので、五色がどうのと言うよりは単に余った折り紙の有効な  
使い方を考えた結果なのだろう。  
 短冊に糸を通しながらキョンはふと手を止めると首を回してほぐし、そのまま一息つくとずっと考えていたの  
だろう事を話し出した。  
「……ま、そんだけ面白い事が無いかと探し回って見つからなきゃ誰だって倦怠感が出てくるだろうよ。面白い  
事なんてそう簡単には起こらない訳だし、それを生み出せるのは本当に一部の天才と呼ばれる存在だけなのさ。  
 きっとその涼宮って奴も気づいたんだろうよ。結局のところ凡人は現状に満足するしかないって事にな」  
「なるほど、それが常日頃キミがキミ自身へと言い聞かせている言葉という事か」  
 わたしは理解を示す笑みを浮かべて返す。  
「何だそりゃ。どういう意味だ」  
「いや失礼、今のキミの発言中の態度が先の彼女、涼宮さんと何だか近い感じがしたのでね。理性と呼ばれる  
表層意識では否定しているがキミもまたその深層意識では面白い事を渇望しているのではないかい?  
 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者、エトセトラエトセトラ……彼女の示した超常的な存在の、そのどれか  
一つでも現れれば世界が変わるぐらい面白くなる事請け合いだからね」  
 
 そう、キミもまた世界の変革を求めているのさ。それがありえないと解っていながらも。それを追い求めるのは  
現代社会を生きる者にとって悪しき恥部であると考えていながらも。  
 でもねキョン。先にあげたような不思議な存在や事象、ジュブナイル的なモノを追い求めるという行為は、  
悪でも恥でもない事なんだ。むしろそういったジュブナイルな存在を追い求め続けられた者だけが後世に天才と  
謳われる存在になれるのさ。  
 今の涼宮さんは歯車がかみ合わず空転しているのだと思う。世界という名の歯車と、自分という存在の歯車が。  
 だが、今彼女に必要なのは自分の歯車を世界に合わせて交換する事ではない。彼女にとって真に必要なのは  
世界と自分との間にもう一つ、小さくてもいいからその二つの歯車を繋ぐ為の小歯車、ピニオンを置くことだ。  
あの頃の僕がキミという存在を間に緩衝させた事で、世界という巨大にして冷徹な歯車相手に上手く回れるように  
なったみたいにね。  
 
「くっくっ……キョン。僕はある可能性を考えている。もしかしたらキミなら、キミならば涼宮さんと世界を  
繋ぐピニオンにもなれるかもしれないとね。これはお世辞でも何でもない、僕の素直な感想さ」  
「バカ言うな、いくら何でも買いかぶりすぎだ」  
 短冊を指に挟んで回しつつキョンは照れてるとも気まずそうにとも取れる何ともいえない表情を浮かべていた。  
「俺はそんな立派な奴じゃない。その涼宮って奴の緩衝材だなんて俺には無理だ。そうだな……俺にできる事と  
いえば、せいぜい図書館の受付で困っている奴を捕まえてカードを作ってやるぐらいさ」  
 何とも具体的な事例を出しつつ、照れ隠しかそのまま白い短冊を一枚差し出してくる。わたしは短冊を受け取ると、  
だが願い事を書く事はせずそのまま財布の中へとしまい込んだ。  
「何だ、書かないのか?」  
「僕は現状に充足しているからね。これ以上何かを望んだらきっとバチがあたる。願い事を書かない事こそが  
僕の願いなんだ」  
 何だか解らないと言った表情をみせてキョンは頭をかく。その様子をわたしは表情を緩めて受け止めた。  
 
 キョン……キミはさっきカードを作る程度しかできないと自分を評したけど、実際はそれで十分なんだよ。  
 キミは単に余計な事に首を突っ込んで当然と思われる親切をしただけだと言うかもしれない。  
 でもね、キョン。カードを作ってもらった人から見れば、その行為こそがまさに世界と自分を繋いでくれた  
ピニオンだと言えるんだ。  
 きっとその人はキミという存在を心に深く刻み込んだことだろう。わたしには解る。わたしもキミと言う存在に  
出会った人間だから。  
 だからこそわたしは何も望まない。  
 わたしは今こうしてキミといられる事に満足している。だが新たな望みが叶うという事は、この世界が変わって  
しまうという事だ。  
 
 わたしの望みは現状維持。キミと共に歩んでいるこの世界の永続──それだけだから。  
 
- * -  
「意外と長く続いてるね、涼宮さんと」  
 日本の学生の大半が待ち望み、また社会人の何割かが羨ましがるであろう学生にとって最長期休暇に突入した  
のは今からほんの数時間前の事である。簡潔に述べるなら今日は夏休みの初日という事だ。  
 数泊分の宿泊準備をカバンに詰め朝早くから乗り込んだフェリーは、現在全方位が二種類の青で構成される  
世界をただひたすら走っていた。予定ではあと数時間はフェリーに乗っている事となっている。  
 初夏の陽射しが容赦なく降り注ぎ、また海洋から反射して眩しさを過剰に振りまくフェリーの甲板で手すりに  
寄りかかりながら、わたしは隣でやや疲労気味に微笑む青年へ話を振った。  
 青年は潮風で乱れた前髪を軽くかきあげ顔からにじみ出ていた疲労感を体内へ押し込むと、学院で見慣れた  
人当たりの良い好青年の姿へと戻る。  
「意外と、とはどういう意味でしょう」  
「そのままの意味さ。歯に衣着せずに語るなら、キミ程度の器では一学期終業を待たずに破局すると踏んでいた」  
「手厳しい評価ですね。……そうならなかったのは、ひとえに努力の賜物ですよ。この旅行もその一つです。  
僕は僕なりに涼宮さんに見限られないよう日々努力しているつもりですから」  
 その好青年──古泉一樹は船内を駆け巡っているであろう自分の彼女、涼宮さんを思うような視線を見せて  
爽やかに微笑んだ。  
 
 彼の親戚の別荘へと招待されたのは一学期も終盤、期末テストも終わり午前授業へとカリキュラムが移行した  
頃だった。  
 彼にしてみれば涼宮さんのみを誘いたかったのだろうが、流石に孤島の別荘に涼宮さん一人ご招待というのは  
モラル的に問題ありと判断したのだろう。涼宮さんに誰か他にも誘いましょうかと尋ねてみたのだそうだ。  
 そうしたら件の姫君曰く、  
「いてもいなくてもかまわない人間なんて何人誘っても同じよ。この学園にはそんな奴しかいないんだから。  
でもそうね、敢えて誰か名を上げるとするなら佐々木さんかしら」  
とのお言葉らしく、ここに涼宮さんの栄えある友人代表として白羽の矢が立ったわたしもまた彼の別荘へと招待  
される運びとなった。  
 
「涼宮さんの退屈を解消させたいなら孤島で殺人事件でも自演すればいい。まず間違いなくキミという存在に  
花丸採点をつけてくれるさ」  
 結局のところ、涼宮さんは普通の事では満足できない為に、常に退屈な日々を過ごしているだけなのだ。だと  
したら涼宮さんのご機嫌を取る方法はいたって単純明快、非日常的なイベントを実施するだけでいいのだ。  
 ただ非日常的なイベントという荒唐無稽なカテゴリをどう充たすかがまさに無理難題な部分であり、それ故に  
彼は躍起になって彼女の為のプログラムを考え、涼宮さんは充足されぬ日常を過ごしているのだが。  
 
「殺人事件ですか。ええ、実はそれも真剣に考えました。ですが流石に僕一人ではどうにもならなかったので  
没にしたんです」  
 だろうね。別荘にいる全員が親戚の友人一人のために殺人事件を模したサプライズパーティを行うなど、よほど  
ノリが良い人たちでなければ無理な話だろう。その親戚だって休息する為に別荘に来ているのだ。わたしたちに  
別荘を提供するだけでも感謝してもらいたいぐらいの気分でいるはずだ。  
 それにしても本気で殺人事件劇まで考えるとは。  
「いやはや、そこまでしてキミは彼女の事を繋ぎとめておきたいのかい?」  
「もちろんです。僕も最初はびっくりしましたよ。転校初日の一時間目終了後にほぼ一方的な交際宣言なんて  
聞いた事ありませんからね。  
 この人は何を言っているのか、いったい何者なのかと思いましたよ。……今にして思えばそれが罠でした。  
 あの時から今この瞬間まで僕はずっと嵌り続けているのでしょう。エデンに実る禁断の果実並に魅力的な、  
彼女と言う存在の罠に」  
「それはそれは、ご愁傷さまと言っておこう」  
「お互い様ですよ」  
 違いない。わたし自身がこの関係に固執していないのに対し、彼は万策投じて関係を維持しているという大きな  
相違点はあるのだが、何だかんだ言ってわたし自身が涼宮さんと交友関係を維持している限り、傍から見れば  
わたしも彼と同じ穴の狢なのだろう。  
 我が心の友の口癖を借りるのならまさに「やれやれ」といった所か。  
 この旅行に対して涼宮さんがいつまで興味を示していられるか──その結果が解るのもそう遠い未来ではない。  
 わたしは潮風に当たりながら未だにフェリー内を探索する少々不機嫌な友人の姿を想像しながら追いかけていた。  
 
- * -  
 孤島から帰ってきて数日後。ふとした切っ掛けからクラスメートの橘さんと近所で開かれる夏祭りに一緒に  
行こうという話になった……のだが。  
「浴衣を着るという行為自体は否定しないけれど、それを誰かに見せる当ても無いのは少々寂しくないかな」  
 いつの間にか夏祭りには二人で浴衣を着て歩くという事にまで話は進展していた。よって今日の予定はまず  
浴衣を調達し、それからいざお祭りに出陣するというなんともハードなスケジュールとなっている。浴衣を試着  
しつつ漏らした言葉に、胸を躍らせながら浴衣を選んでいた橘さんは虚をつかれた表情で瞬きをみせてきた。  
「何を言ってるんです。見せる相手なら、ちゃんといるじゃないですか」  
「見せる相手? いったい何処に?」  
 今日誰かと会う予定でもあったのだろうかと考えるわたしに橘さんはポンと自分の胸を手のひらで叩くと、  
「ほら、こうして佐々木さんの目の前に」  
 
 薄紅色に朝顔の柄をあしらった浴衣を纏い、下駄を鳴らして街を歩く。普段見慣れた界隈もそこを歩く人々の  
 
熱気や聞こえてくる祭囃子、時間帯、そして自分の格好まで違うとなるとここに来るまでの過程はどうであれ、  
否応も無く気分も高揚してくるというものだ。  
「あ。ほら佐々木さん、屋台とかも見えてきましたよ。ふふ、楽しそう」  
 瑠璃色に金魚柄という浴衣で隣を歩く橘さんも似たような感じなのか、その明朗快活な性格がいつも以上に  
増幅されている。いつものツインテールには桜桃のようなぼんぼり飾りが追加されており、まるでアメリカン  
クラッカーのような楽しげなゆれ具合はそのまま彼女の心情を表しているかのようだった。  
 
「あれ、もしかして佐々木か?」  
 不意に背後から馴染み深い声で名前を呼ばれる。立ち止まり軽く振り向けば、そこには思っていた通りの人物が  
事もあろうにその両脇にそれぞれ標準以上の評価を貰い受けておかしくない浴衣姿の女性を伴い立っていた。  
「やあキョン、奇遇だね。もちろんこの祭りという行事や場所に対してではなく、人波がごった返すこの喧騒たる  
賑わいの中でこうして僕たちが偶然にも出会えた事に対してだがね。さて僕のほうからも外交辞令以上の意味を  
込めて挨拶させてもらうとするなら、キョン、両手に花とはまさに今のキミの状況の事を指し示す言葉なんだろう。  
キミを羨む男子生徒の声が今にも其処彼処から聞こえてきそうだ」  
「小学生二人の、しかも一人は妹の保護者役がそこまで羨ましがられる状況だとは知らなかった。何ならお前に  
譲ろうか?」  
「遠慮させてもらうよ。なに、キミにとって掌中の珠と思われる純粋無垢で可憐な少女たちに対し、ほんのちょっと  
嫉妬心を加味した他愛ない冗談を述べただけだ。という訳で改めてこんばんは、お二人さん」  
「こんばんは〜ささにゃんっ」  
「こ、こんばんはです」  
 わたしの言い回しが全く解っていない妹さんと、何やら色々な感情を含んで返してくるみよきちこと吉村さん。  
 二人とも浴衣を着ておりその外見的評価は先ほどわたしが褒め称えた内容そのままである。おせじなんてものは  
わたしが加味した嫉妬心の量すら混入していない。  
 
 挨拶を交し終えたところを見計らい、キョンは相変わらず緊張感を何処かに置き忘れてきたかのような倦怠感を  
みせつつ口を開いた。  
「大体俺が両手に花の状態だというのならお前だってそんな可愛らしい人を連れて歩く羨ましい奴、って事に  
なるじゃないのか?」  
「ああもちろんだとも。今日の僕は彼女の引き立て役だと自覚しているからね」  
 これも言葉に深い意味のない正直そのままな今の感想を述べたつもりでいたのだが、橘さんは自分が褒められる  
事よりもわたしに対するわたし自身の評価が許せなかったようだ。  
「何言っているんですか! そんな事無いですっ! 佐々木さんは十分綺麗で可愛いですよ!」  
 あなたもそう思いますよね、とその勢いでキョンにわたしの感想を投げかける。そんな事を聞かれたらキョンも  
困るだろうにと、即座に助け舟を出してその場をごまかそうとしたのだが……その時わたしの口からは何一つと  
して思考が言語化される事が無かった。  
 
 なぜだろう。  
 歌を忘れたカナリアの如くわたしはただ肺にたまった呼気を音もなく吐き出すしかできない。  
 わたしは、助け舟の意味をこめてその場をごまかそうとしていた思考以外のわたしは、いったいこの場に何を  
望んでいるのだろうか。  
 
 わたしは、全く動けなくなっていた。  
 
「まあな。佐々木も容姿に限って言えばそこらの連中に遅れをとらないと思うぞ。まさに黙っていれば、って奴だ」  
 それは突然に。永遠の刹那を抜けわたしの時が動き出す。  
「黙っていればって……もうっ、一言多い人ですね。何でこう、もっと素直に褒められないんです?」  
 橘さんの批判の声を伴奏にわたしは自分自身を確認する。どうやらわたしの心を絡み捕っていた謎の呪縛は、  
先の彼の一言であっさりと解呪されたようだ。結局のところ何だったのか……それは解らずじまいのまま、それでも  
わたしは彼からの感想を返すべくいつもと変わらぬ口調で、いつもと同じような言葉を何とか用意した。  
「まあ落ち着いて橘さん。キョンは、彼は実に素直に答えてくれているわ。もうこれ以上ないってぐらい素直にね。  
彼の事を知らない人は一言多いと思うかもしれない。でもね橘さん、彼の辞書にはどの版で調べてもおべっかという  
文字は存在していないのよ」  
 朗笑しつつ橘さんに彼と言う存在について語る。そして最後に彼を見ると、こちらからも一言だけ忠言してやった。  
「まあ、だからこそキミはプレイボーイという言葉からは縁遠い存在でい続けるのだろうがね」  
「なるほど……納得なのです」  
「うるせえ、余計なお世話だ。っていうかお前らのほうが一言も二言も多すぎだ」  
「キョンくんプレイボールしっかく〜」  
 妹さんの言葉を機にその場にいた者たちが一人を除いて笑いあう。その除かれた一人、件の中心人物はどう表現  
すればいいのか解らないといった表情で頭をかきつつ、結局いつもの口癖と共に嘆息を吐く事で思考を纏め上げたようだ。  
 
「いやすまない。これでも口下手な僕なりに褒めているつもりなのさ、キョン。  
 それにしても……くっくっ、キミのせいで笑いが止まらないよ。まさかキミの口から僕の容姿に対してお褒めの  
言葉をいただけるとは思わなかったからね。 ここ最近では一番の驚愕だ。  
 普段のキミならそうだな、あの童顔に反した膨よかな胸部を持つ癒し系少女や、隣の着物をスタイリッシュに  
決めた長髪女性なんかがお眼鏡にかなう存在だと思っていたのだけれどね。それともキミはもしかしてこの会場に  
雨や雪でも呼び込んで、傘を用意していない僕たちを濡れ鼠にするつもりなのかい?」  
 彼からの賞賛に対しわたしなりの礼を返したら、彼は嘆息を零しつつ眉間にしわを寄せて呟いた。  
「あー、そこの佐々木のお連れさん。これでもこいつに黙っていればの冠詞は必要ないと?」  
「男は黙って何とやらでしょ、プレイボーイさん」  
 キョンはわたしにではなく橘さんへと水を向けるも、どうやら桶でかけ返されたようだった。  
 
「えー、ささにゃん雨が降るの? 雨はやだよー。あ、そうだキョンくん! わたしリンゴあめ食べたいな〜。  
みんなもりんごあめ食べたいよね?」  
「えっと、わたしは……」  
「キョンが奢ってくれると言うのならご相伴にあずからせて貰うとしよう」  
 吉村さんの躊躇に声を被せる。彼女の意には反するかもしれないが、ここは彼への攻め時だ。心中笑いつつ  
わたしは隣に立つ橘さんに対して「あなたも一緒にどう?」と振る。  
 橘さんは自分の浴衣の襟を軽くつまむと、  
「リンゴ飴? あれって溶けて浴衣とかについたら大変なことになるんですよね。それに舌も赤くなるし」  
 軽く舌を出しつつ訴えるが、すぐに引っ込めると誰もが好感を持てるだろう爽快な笑みを浮かべつつ、  
「という訳で、もちろんゴチになります」  
とわたしの意図した通りに答えてくれた。  
 
「だ、そうだ。よかったねキョン、どうやら今日はプレイボーイになれそうだよ」  
 彼の財布へ死刑宣告を伝えると共に朗笑が場を支配する中、キョンは観念したのかもう一度幸せを逃すため息を  
こぼして肩を落とした。  
 なに、大丈夫だよキョン。キミが逃したその幸せはちゃんとわたしが拾い上げているから。  
 通行人に気を使いながらリンゴ飴を手にしつつ、彼らと肩を並べて屋台が並ぶ道を時間をかけて歩きながら、  
わたしは言葉にはせずに彼へ告げた。  
 
- * -  
 いわゆる一般的に言う所の文化祭、光陽園学院音展祭は毎年秋分の日前後に行われる。  
 この学院の音展祭は一風変わっており、学級単位での展示発表や模擬店などは行われない。そういった音展祭の  
『展示』を行うのは部活や有志の面々たちである。では学級単位では何を行うのかというと、  
「ほら、男子! もっとちゃんと声を出してっ!」  
とここ毎日飛びまくる橘さんの檄からも解るとおり音展祭の音の部分、すなわち『音楽』を担当する事となる。  
 全学年学級対抗の合唱コンクール。一般開放される本番で行われるこの大会、最上級生には最上級生としての  
維持が、下級生には下級生なりの思惑がひしめき合い、何だかんだで毎年弥が上にも盛り上がりを見せてくれる  
音展祭のメインイベントだった。  
 
「でも残念ながらキミのお眼鏡にはかなわないんだよね、姫君」  
「この程度で盛り上がれるなら最初から不思議な事なんて渇望してないわよ」  
 不承不承ながら参加していると言うオーラを隠すことも無く、眉間に皺を寄せ全く興味がないと半目でそっぽを  
向き腕を組みながら、それでいて誰よりも綺麗にメロディラインを奏でる。コンクールに必要な分は提供してるわと  
言わんばかりに涼宮さんはある意味完璧に歌い上げてみせていた。  
「当日はコンクール以外に希望者による個人演奏とかもあるけど?」  
「興味ない。人の演奏にも、今の流行曲にも。もっと言うなら展示部門にも。どうせ予測の範囲内よ」  
「そう」  
 否定はしない。彼女の予想を超える事態が起こるなんて可能性は万が二つ程度しかなく、地球規模の天変地異  
以上の偶然か、あるいは涼宮さん本人が行動を起こした時のみ起こりうるだろうからだ。  
 そして涼宮さんが行動を起こさない限りその可能性は望むべくもない。わたしでは彼女に行動を起こさせるまで  
には至れないらしく、彼女の空転思想は数ヶ月たった今でも続いているようだった。  
 
 結局音展祭当日、涼宮さんはわたしたちの学級の発表一分前に集合し、ステージで忿懣遣る方無い態度を全身で  
表しつつも見事に歌い、自分たちの発表終了と共に姿を消すとその日一日は彼女の姿を見る事はなかった。  
 実に彼女らしい参加の仕方である。  
 特に賞を取ることもなくコンクールは終了し、はれて自由行動となったわたしは今日来ると約束してくれた  
キョンの元へと向かう為に校舎内を歩いていた。  
「また彼ですか? はあ、佐々木さんともあろう人が、何であんな人なんかに……」  
 何故かわたしと共に歩く橘さんにぼやかれる。わたしは別段深い理由がある訳でなく、ただわざわざ来てもらった  
お礼が言いたいだけだと伝えようとして、だが伝える前に「その存在」がわたしの視界を縫いとめてしまった為、  
わたしは結局反論する事はなかった。  
 
 一般客やら生徒やらが往来する廊下、その柱の一つにその男は腕を組んで寄りかかっていた。見た目的には  
古泉一樹と並ぶほどの好青年、だがその実男から感じられる雰囲気はどこか影を感じるといった次元ではなく、  
全てに於いて負の方向に傾いたと言って過言ではない気配をかもし出していた。  
 男は特に誰を見るでもなくただ寄りかかったままでいる。だが男はその雰囲気でわたしの事を捉えていた。  
男から感じる空気を読む限り、男はわたしを捉えるためだけにわざわざこんな場所にまで足を運んできてやった  
んだと言いたいようだ。  
 涼宮さんがこの男の事を知れば本当に残念がる事だろう。何せ彼女が望む非日常、万が二つの確率がこうして  
当たってしまったのだから。  
 
「……佐々木さん。あれ、あの人って、一体」  
 わたしが足を止めたからか、隣を歩いていた橘さんも立ち止まり同じ男を見つめている。第一印象、外見だけで  
言うのならただの好青年だ。橘さんの興味が惹かれるのも解らなくはない。  
「さぁ……わたしの記憶には引っかからない人ね。今日は一般にも開放しているし、誰か学院生の知り合いなん  
じゃないかしら」  
 彼に興味を持ったのかしら? と続けて聞こうとしたのだが、橘さんがわたしの袖の裾を小さく掴み身体を  
近づけてきたので言葉が止まる。目を転じてみれば橘さんは彼に対し興味と言うよりは恐怖、怯えといった様子を  
見せている。彼女もこの気配を感じ取ったというのか。  
「どうしたの?」  
「何でだろう……彼、変な感じがするんです。怖いというか、何と言うか。……近づかない方がいい気がする」  
 
 わたしも心から賛成する。君子危うきに近寄らずとは良く言ったものだ。だが、例え天使が歩くのを恐れる  
場所であろうと、どうやらわたしは進まなければならないらしい。それがバカバカしい行為と思えようとも。  
「橘さんは迂回したほうがいい。どうやらあの男が用があるのはわたしだけみたいだしね」  
「そうはいきません。一人より二人のほうが、いざと言うときに何とかなります。応援を呼んで来いと言うのも  
無しですよ。そう言ってあたしがいない間に、佐々木さんは彼と接触するつもりでしょうから」  
 
 ほぞを固めたのか、わたしの左腕にしっかりとしがみ付きながら橘さんは強い眼差しを返してきた。わたしは  
意を決し、まるで熱い恋人たちのように腕にしっかりと身体を寄せてしがみ付く橘さんを同伴しつつ、その男の  
そばへと歩いていった。  
 わたしたちが近づいてもその男は姿勢を変えず、目線すら動かそうとしない。焦燥感で早足にならないよう、  
またそれを悟られないよう慎重に足を繰り出し、互いに視線を合わせぬまま男の目前を通過しようとした所で、  
 
「介入できているようだな。僕の事を認識した」  
喧騒の中でも聞き取れる静かながらもハッキリとした声で呟いてきた。  
「既定通り問題はない、成功だ」  
 彼の言葉は聞き取れるが、その意味は全く以って理解できない。彼は何を言っているのだろうか。足を止め  
橘さんに目線で尋ねるが彼女も心当たりが無いらしく首を大きく振って否定する。  
 このまま無視する事も考えたが、わたしは敢えて接触する方を選ぶ。  
「僕たちに何か用でも?」  
「今はまだ無い。いずれ解る、それがあんたの既定事項だ」  
 それだけ告げると男は柱に預けていた身体を戻し、わたしたちとは逆の方向へと歩き去ってしまった。  
 
「あ、キョンくん! ささにゃんみ〜っけ!」  
 男が見えなくなった後もその場に立ち尽くしていたわたしたちに快活な声が届く。男の見えない鎖に束縛されて  
いたわたしたちはそこでようやく身体は動かせるものだと思い出す。振り向くと、こちらに向かって走ってくる  
可愛らしい誘導弾を放ちつつのんびり手を振って存在証明するキョンの姿がそこにあった。  
「よう、さっきの合唱見せてもら……ってどうしたんだ? 二人して死神にでも会ったかのような青い顔をして」  
 先だって着弾した妹さんをわたしから引き剥がしつつ彼が訪ねてくる。その言葉にずっと抱きついていた橘さんへ  
注意をむけると、確かに橘さんの顔色は肝を冷やしたかのように真っ青になっていた。  
 おそらくわたしも同じような感じなのだろう。あの男から感じ取った全てが負の方向へ傑出した型破りな雰囲気。  
あれは男自身のものだったのか、それとも男とは別の、あの時わたしたちが男以外に認識できなかった位置に立つ  
何かしらの存在からなのか。  
 
「いや、ちょっとばかり背筋が寒くなる事があってね。全身総毛だち命が縮む思いだったのさ」  
「おいおい、いったい何があったんだ。どこかで爆発騒動でもあったのか」  
「爆発程度なら良かったんだが……敢えて表現するならそうだね、幽霊に出会ったとでも言うべきかな」  
 あまりに突飛な回答にキョンの思考が停止する。そんな彼の表情を見ていると何だか先ほどの戦慄がどうでも  
よく感じられてきた。  
 橘さんの肩にそっと手を置き子供をあやす様にポンポンと軽く叩いて落ち着かせる。橘さんもようやく頭と本能の  
両方で安全になったと感じ出したのかしがみ付いていた手の力を徐々に抜きはじめ、代わりに腕を絡めるように  
取ると自分の身体を預けてきた。  
「本当、怖かった。……でもこうしていられるのはちょっとだけ役得気分かな。ふふっ、羨ましいでしょ」  
「いや別に」  
 何が何だか解らないがとりあえず大丈夫そうだと言う事は理解してくれたのだろう。キョンは橘さんを真似て  
自分に抱きつく妹を視線だけで見つめながら「余計な事を教えてくれたもんだ」といった意味合いの長い嘆息を  
交えつつこぼした。  
「さて、特に何でもないんだったら色々案内してくれないか? とりあえずは妹が興味を示して俺から離れてくれる  
ような所を所望する」  
 無論、仰せのままに。わたしはゆっくりと頷いてみせた。  
 
- * -  
 光陽園学院に音展祭があるように、北高にもまた北高祭と呼ばれる文化祭がある。北高祭は音展祭とは違い  
所謂一般的に言う所の文化祭の流れを汲んだものであった。  
 わたしは一人、正門から昇降口まで並ぶ模擬店を横目にキョンの学級教室へと足を運ぶ。遊びに来いと誘って  
くれた彼の話によると彼のクラスの委員長がかなりのやり手らしく、展示と模擬店を同時に行うなかなか面白い  
モノに仕上がったと聞いていた。  
 入口で貰ったパンフレットを眺めつつ彼の教室へ向かっていると、そんなわたしを導くかのように何処からか  
馥郁たる香りが鼻を掠めてくる。  
 やがて目的地にたどり着くと、丁度受付をしていたかつての級友がわたしの事を出迎えてくれた。  
 
「あれ、佐々木さんじゃないか。久しぶり」  
「やあ国木田、久しぶり。男子三日会わざれば刮目して見よとは言うものの、どうやら君は相変わらずのようだね」  
「まあね。特に束縛されることもなく飄々と羽を伸ばした生活を送ってるよ。そっちはどうだい? 確か光陽園  
だったよね」  
「日々の勉学の為に週数日の塾通いといったレベルさ。学園自体の面白みは常に品薄状態だがそれでいて目玉商品が  
無い訳でもない。フラストレーションが溜まるまでには至らないというまるで僕という存在をそのまま象徴するかの  
ような日常を送っているよ」  
 欲求不満を訴えるのはもっぱらわたしの後ろに座する彼女の仕事だ。涼宮さんには悪いが、わたしはそんな彼女の  
変化を眺めているだけで退屈を紛らわす事ができている。それにわたしには橘さんや他の級友もいるし、さらには  
一般人たる一般人の彼もいる。  
 
「それはご苦労さま。どう、少し休んでいかない? キョンももうじき戻ってくるはずだし、その間退屈はしないと  
思うよ。佐々木さんの事を呼んだのってキョンでしょ? だったらお代はキョンにつけておくから」  
 それは流石にキョンに悪い。彼の懐の為にも目一杯ご馳走になる程度でとどめておく事にしよう。  
「それがいいよ」  
 国木田の含みにくつくつと言った忍び笑いで返す。早く戻ってこないと破産するよキョンなどと勝手な制限時間を  
胸中で設けつつ、わたしは教室の入口に掛けられた看板に顔を向け、この企画内容を彼から聞いたときから気に  
なっていた事を訊ねてみた。  
「ところでこの企画、十月に行うには少々気が早いように感じられるのは僕の季節感がずれているせいではないよね」  
「あってるよ。でも意外と評判良いんだよ。季節はずれって意外性もあるけど、やっぱり味が美味しいってのが一番かな」  
 中に向かって一名の来客を伝えつつチケットと配布物を差し出される。そして営業的スマイルを浮かべると、  
「では改めて、僕たちが自身を持って提供する実演展示会『おでんの歴史と作り方』、その目と舌で心行くまで  
楽しんでいってね」  
そう言って中へどうぞと案内してくれた。  
 
 客席の一つに案内されて着席する。前の席の対応をしていたエプロン姿の少女がカウンターからの呼びかけで  
こちらに気づくとにっこり微笑みながら「一年五組へようこそ」とファミレスのように挨拶をみせ、  
「じゃ、ゆっくり楽しんで行ってね。自由時間になったら部室を覗かせてもらいに行くから」  
と対応していた相手へ小さな声で伝えてカウンターへと戻っていった。どうやら友達の相手をしていたらしいその  
セミロングの髪を軽く結わいた少女はお冷とメニューを手にすると、わたしの席へ改めてやってきて人当たりの  
良い笑顔と共にお冷を置き、メニューを丁寧に差し出してから改めて挨拶してきた。  
「いらっしゃいませ、チケットを戴きます。こちらの盛り合わせでよろしいでしょうか? お嫌いなタネとかが  
ありましたら遠慮せずにおっしゃってくださいませ。代用のタネと交換いたしますので」  
「構いません、そのままでお願いします」  
「わかりました、少々お待ちくださいませ」  
 少女は小気味良い対応でカウンターに戻りわたしの注文を奥へと伝える。そして新たな水を取ると別の席への  
接遇へ向かいだした。  
 前に座っていたショートヘアの少女はそんな彼女の事を少しの間眼で追っていたが、ハーフリム眼鏡の智に  
手を沿えて一度グラスの位置を合わせなおすと小動物のように昆布巻をちまちまと食べ始めた。  
 
「お待たせしました」  
 少しして先ほどのセミロングの少女が使い捨てプラ容器に入れられた盛り合わせおでんを運んでくる。おでんを  
机に置くとエプロンのポケットから箸とチューブからしを取り出しおでん添えるかどうか聞いてきた。  
 わたしが断ると少女は箸だけをわたしに差し出してくる。  
「では、ごゆっくり」  
 と挨拶をしてその少女が下がる。わたしは割り箸を取ると二つに割り、いただきますと挨拶を呟いてまだ季節  
はずれと取れるおでんをひとつ、またひとつと口に運んで堪能した。  
 
 ここがキョンの教室なのかとのんびりと室内の雰囲気を眺めながらおでんを半分ぐらい食べ終えた頃、  
「よっ、もう来てたのか」  
そう聞き覚えのあるいつもの声と共にようやくわたしの待ち人が姿を現した。彼の呼びかけに右手を少し上げて  
応えつつ、ふと教室内に軽く響いた先ほどの呼びかけに、わたし以上に全身の筋肉で反応を見せて動きがぴたりと  
止まってしまった前の席の少女が気になった。  
 驚いたともとれるがそれにしては少々違った反応である。目の前の淡い少女を視界の隅に捉えつつ、わたしは  
上げた右手に持つ箸を動かして腹と舌の満足度について語ってやった。  
 
「やあキョン、悪いが先に一人で楽しませてもらってるよ。キミの財布を財源とたこの風味豊かなおでんでね。  
盛り合わせ皿のタネに関東特有のちくわぶと関西以西特有の牛スジの両方を加えるよう英断を下した人物に対して、  
一遊客がほめそやしていたと伝えておいてくれたならばなお嬉しい限りだ。  
 おでんという品目を選んだのもスジがいい。下味さえしっかりしていればこれほど失敗しづらい料理も他には  
ないしタネの補充もしやすい。その上時間が立てばたつほどおでんはその風味を増し、結果、仄聞し訪れた客は  
その評価以上の味を楽しむ事が可能となる。  
 これら全てが計算尽くの行為だとしたのなら、僕はそのエンターテイナーに対しこのおでんの対価を払う事で  
賞賛としようではないか」  
「だとよ、朝倉。ちなみにその対価の出所は俺の財布だがな」  
 わたしが寸評を語る間にキョンは向かいの席につき財布を振りつつため息をこぼす。キョンの言葉と手にして  
いた盛り合わせチケットに反応して先ほどわたしに応対したセミロングの少女がキョンの分のおでんと水を持って  
やってくる。  
 
「ありがとう、そう言って褒めてもらえると企画者としてすごく嬉しいわ。もちろんクラスの一人としてもね」  
 もぎりとしてチケットを受け取りつつ、少女は本当に楽しそうな表情を浮かべて微笑んできた。そんなキョン  
たち二人の後ろ、俯きながらもこちらの様子をちらちらと伺っていた前の席の少女は少々挙動不審な感じで立ち  
上がると脇に置いてたパンフレットと本を持ちやや急ぎ気味に教室を出て行ってしまった。  
 おそらく彼女の親友なのだろう、朝倉と呼ばれたエプロンの少女はそんな退席する少女を見つめつつふぅと軽く  
ため息を溢していた。わたしはそんな少女を見つめつつ心中で軽くお詫びしながら、  
「くっくっ。なに、遅刻罰金なんてよくある話さ」  
いつもの笑みをこぼしつつ味の染み入った大根を切り分けて自分の口へと運び味わった。  
 
- * -  
 キョンと暫く展示巡りを行い軽くなった財布の分だけ心と空腹を充たしたわたしは、やはり同じように遊びに  
やってきた彼の妹さんへ彼の身柄を引き渡すと一人で当て所もなくぶらつく事にした。その一環で少し古めの  
校舎へと足を運んだのもただの偶然でしかなければ、  
「あら、さっきの」  
と先ほどキョンのクラス展示でおでんを運んでくれたセミロングの少女と再会したのもまたただの偶然だった。  
 文科系の部活動の拠点となっているらしく、普段は物静かであるだろうその校舎も今日は賑わいを見せていた。  
料理研究会からはスウィーツ特有の甘い芳香が活動内容を宣伝流布し、階上からは単調な電子音がリズム良く  
流れてくる。  
「文芸部で友達が展示しててね。陣中見舞いってほど忙しくはないだろうけど、様子を見に行ってあげようと思って」  
 特に目的も無かったわたしは彼女と共に他愛の無い会話をしつつ他と比べ人ごみ少ない階段を上がる。踊り場で  
反転し更なる階上を目指そうとしたその時、突如としてあの時の負の感覚が満身貫かん勢いで襲い掛かってきた。  
 思わず眼を見張るとはこの事か、わたしは階上へと顔を向け、そして見た。  
 
「────────」  
 
 あろう事か人の姿をして階上に立つ、その不透明な異質存在を。  
 
 つい先日から冬服へと衣替えを行った為、ここ最近はわたし自身も普段身に纏っている慣れ親しんだ黒を基調と  
するブレザーの制服を装い、ボリュームがあると言う表現すら生ぬるい程その全身の質量配分を烏の濡羽色と  
謳える程の髪へ配分したようなその少女は、まるで蒸留水のような希薄さと和紙に墨を落としたかのような圧倒的な  
存在感という相反する主張をあっさりと混ぜ合わせたような深い迫力を持っていた。  
 先日の無粋人から感じたのは間違いなく彼女の力だと、理性や本能より先にわたしという存在の全てが認めてくる。  
 空虚にして無限。例えるなら今のわたしがしているように上空を見上げると常にそこにあるモノ。  
 暗夜に人が見上げる暗黒にして静寂たる天蓋領域──まさに宇宙と表現するのが一番相応しき存在。それが彼女だった。  
 あと半歩でも近づけば即座にわたしの全てが飲み込まれて消失してしまうまさにデッドエンドな事態。そんな  
ギリギリのラインに立たされわたしは声を発する事はおろか、無意識呼吸すら止めてしまいそうな状態に陥る。  
 
「……彼女、あなたの知り合い?」  
 共に歩いていた彼女もまたわたしに並び足を止める。あんな存在とは問答無用に初対面だが、だが初対面と  
言い切れない部分もあり彼女への回答に詰まっていると、  
「ごめんなさい、聞いちゃいけない関係だったみたいね。それじゃわたしはこれで」  
そう挨拶を残し躊躇無く階段へと一歩踏み出した。そんな彼女の行動に五感の全てがシグナルを鳴らしてくる。  
わたしはとっさに彼女の腕を取って引きとめようとしたが、その前に。  
 
「────まだ……早い」  
 
 驚くべき事に階上の存在がわたしたちに理解可能な言葉を発したかと思った次の瞬間には、わたしたち二人の  
身体は同極磁石が弾かれる以上の勢いで吹き飛ばされ、踊り場の壁に叩きつけられていた。  
 全身の骨が突然の衝撃に悲鳴をあげる。よろめきつつも地面に降り立つとその隣で一緒に歩いていた彼女が  
糸が切れた操り人形の様にその場に頽れた。衝撃で意識を失ったのだろうか、倒れたまま全く反応が無い。  
 異形の存在に警戒していたわたしと違い、彼女にしてみればまさに不意打ちだったはずだ。彼女の安否も気に  
なるが、わたしはそのまま痛みを訴える全身で何とか立ったままその存在とコンタクトを取ってみる事にした。  
 
「早い、とはどういう事?」  
「────────今はまだ……何も──無い」  
 何も無い? 今はまだ?  
 彼女が何を指して何も無いと言っているのか全く解らないが、とりあえずこの存在と遭遇したのがわたしと  
彼女だけで助かった。  
 巻き込まれた彼女には悪いが、もしキョンといた時にこの存在と出会ってしまっていたらと思うとぞっとする。  
この存在はあまりにも異質だ。世界どころが次元が違いすぎる。この静寂たる無の存在と解り合おうとする努力と  
同等の労力を費やすだけで、おそらくこの惑星上から人類同士の騒乱なんてものは簡単に無くなる事だろう。  
 だがこちらがそう考えコミュニケートを放棄しようとしても向こうが接してくるのでは仕方が無い。  
 相手がどう答えるかなど考えるだけ無駄だと、わたしは率直な疑問をぶつけてみた。  
「……要求は何だい。キミたちは僕に何を望む」  
「相変わらず良い反応だ」  
 正直、反応など全く期待してなかっただけにこの回答は驚いた。ただし言葉を発したのは目の前の天蓋領域  
ではなく、その存在の横から姿を現した先日の無粋人だったが。  
 
「僕達が何者か、とか言うありきたりで実を結ばない無駄なやり取りがない。あんたのそういう部分に関して  
だけは僕は《鍵》なんかよりもよっぽど有能だと認めている」  
 男は嗜虐的に口をゆがめて不快感しか相手に与えないだろう笑みを浮かべる。  
 そのまま隣に立つ異質な存在へサムズアップ状態の親指を向けるとこの状況にも配役にも全く興味が無いと  
言わんばかりに言葉を投げ捨てた。  
「コレが言った通りだ。あんたはこれ以上ここに近づくな、僕たちの要求はそれだけだ」  
「従おう。僕は彼女を連れて退散する、それで構わないね」  
「好きにすればいい。そいつにはしてもらわなくてはならない既定事項があるが、それまではどうしようと構わない。  
このまま放っておくもあんたの親友に連絡して返すも、あんたの自由にすればいい」  
 わざわざ親友などという単語を出して告げてくる、アキレス腱を狙った返しに思わず自分を見失いそうになる。  
一瞬の身体の硬直や直後に男を睨み返したわたしの様子でバレバレだろうが、それでもわたしは努めて平静を  
装っているかのように振舞いをみせた。  
「ならば好きにさせてもらおう」  
 男を無視し倒れたままの少女へと近づく。素人判断だが呼吸を始め外見に異常はなく出血とかも見当たらない。  
どうやら彼女はただ意識を失っているだけのようだ。そうした診断をしている間も階上からはあの男の癇に障る  
言葉が降り注いでくる。  
「好きにするがいい。あんたが駆け上る坂道で僕と再会するその《時》まで……それが既定事項だ」  
 冷酷さを加味した嘲笑を男がする中、ふと突然に全身に浸透する単語をわたしは捕らえた。  
 
「────────クル──エル カミ……」  
 
 反射的にわたしは階上へと振り向くが、そこにはもう既に二人の姿は存在していなかった。二人が去ったからか  
人の流れが戻ったようで、  
「散る散ると書いて散々かぁ、くそっ、どうして俺の良さがこうも相手に伝わらないんだ……?」  
と髪を掻き揚げつつ今日の成果を思い返して愚痴る、お調子者と称するのが一番正しい評価ではと思われる男子  
生徒が歩いているだけだ。  
「あぁ手に取るように解る、国木田やキョンが俺の成果を聞いて指を指して笑う姿が……チクショウッ!」  
 意外な所で聞きなれた人物の名が出たこともある。階上を歩くその男子生徒を呼び止めてみると、最初は気だる  
そうに、だが呼び止めたわたしが女生徒だと解ったら楽天的に、そしてわたしが介抱している女生徒が自分の知る  
人物だと解ると一転して真剣な眼差しをみせて階段を駆け下りてきた。  
 
 倒れている女生徒を再確認してからわたしと二人がかりで男子生徒に負ぶわせる。  
「俺が朝倉、あ、こいつの事な。とにかくこいつを保健室まで運んでおくから、あんたは1年五組まで行って誰か  
呼んできてくれないか? 委員長が倒れたから誰か来てくれって」  
 了解の意を示し少女をその男に託すとわたしは人ごみを回避しながら駆け抜けキョンたちの教室まで引き返す。  
 生憎と国木田やキョンの姿が教室に見受けられなかったので、適当に近くにいた女生徒へ声をかけて委員長の  
朝倉さんが倒れた事を告げた。  
「朝倉さんが!? ちょっと待って、すぐに向かうから!」  
 他のクラスメートへ話を流し、さっきの女生徒が奥からカバンを持って戻ってくる。  
「準備できたわ。行きましょう、それじゃ保健室へ!」  
 さあ案内してと言わんばかりにわたしの手を取り足踏みをする。わたしも勢いに乗せられ足を出そうとするが、  
ふと重要なことに気づいて繋いだ手に力が入りっぱなしの、まるで今すぐ散歩に飛び出しそうな犬のように気持ちが  
急いている女生徒へと振り向いた。  
 
「ごめんなさい、見ての通り他校の生徒だから北高は詳しくなくて。あなたが案内してもらえると助かるのですが」  
「え……? あ、ご、ごめんなさい! こっちなのね、保健室は」  
 言われてようやく気づいたのか、女生徒はまるでリードにつながれた犬が全速力で飼い主を引っ張りつつ散歩  
するかのようにわたしの手を引っ張りながら保健室まで案内してくれた。冷静に考えればわたしは単に連絡役を  
仰せつかった部外者なのだから、わたしを保健室へ案内する必要は全く無いのだが、彼女はそこまで頭が回らな  
かったようだ。  
 
「おう阪中、こっちだこっち」  
 保健室の一角でパイプ足の丸椅子に座っていた先ほどの男子生徒がわたしたちを見つけると呼び寄せる。  
「谷口くんだったのね、運んだのは。それでどうなの、朝倉さんの様子は」  
「気を失ってるだけで問題は無さそうだとさ。保険の先生は病院に連れて行くかどうか話し合いに行ってる」  
 わたしも場の流れのままにベッドの傍へとより様子を伺う。打ち所が悪かったのか単に時間の問題なのか、  
彼女は相変わらず意識が戻っていないまま、ベッドに寝かされブランケットがかけられた状態で眠っていた。  
「わたしが見ておく、朝倉さんのこと。谷口くんはクラスの方をお願い」  
「そうか、じゃ悪いが任せたぜ。クラスの連中にはとりあえず落ち着いてるって話しとくからよ」  
 男子生徒は立ち上がると軽く手を振り保健室を後にした。女生徒はそれを見送ると椅子を近づけ眠り続ける  
彼女の様子を心配そうに伺う。わたしは少し離れた場所に位置取りして彼女が起きてくれるのを待つ事にした。  
 
「……ん、っ」  
 静かに眠り続けていた彼女が軽く眉を寄せて息を漏らしたのに気づき、付き添いの女生徒に近づいて共にベッドを  
覗き込む。彼女はゆっくりと一度身体を右に向けて転がし、再度元に戻すとまた少し息を漏らしてからゆっくりと  
両の瞳を開いた。  
「……あれ。ここは……?」  
「気づいたのね、よかった」  
 級友の覚醒に心から喜ぶ女生徒を寝ながら見つめつつも、覚醒したばかりの彼女には何がどうなっているのか  
まだ解っていないようだ。  
「保険の先生に連絡した方がいいのでは。ここはわたしが見てますから」  
「あ、そうよね。うん、行ってくる」  
 わたしからの提案に女生徒は納得すると慌てて立ち上がり「お願いするね」と残して保健室を出て行った。  
 
 わたしは女生徒が先ほどまで座っていた椅子に着席すると横たわる彼女に語りかける。  
「ごめんなさい。意識が飛ぶ前の事、覚えてるかしら」  
「……えっと、文芸部へ向かおうとあなたと歩いてて、それから……」  
「上にいた人たちに気を取られて足を滑らせたの。わたしかあなたのどちらかは解らないけど。それで二人で  
踊り場に落ちたって訳」  
 適当に真実と虚実を混ぜて話す。彼女は完全に巻き込まれただけのただの被害者でしかなく、ならばあの存在の  
事など知らない方がいい。あの男が言っていた「してもらうべき既定事項」というのも気にはなるが、今は切り出す  
べきではない。わたしはそう結論付けた。  
「そっか。それじゃわたしも謝らないと、ごめんなさい」  
 話しつつ彼女が保健室の扉へと視線を向ける。何かと思いわたしも視線を向けると、どうも扉の外に誰かが立って  
いる様子だった。足音を消しつつ近づいて扉を開けると、外にいたその人物は小さく「ひっ」と声を漏らして全身で  
驚きを見せた。  
 
「……えっと、朝倉さんが」  
 外に立っていた人物──先ほどわたしの前でおでんを食べていた短髪の少女が悲鳴と同じく小さな声で呟いてくる。  
 わたしはあぁと頷くと身体をどかして彼女を中へ通しつつベッドの方へ声を投げた。  
「あなたにお見舞いみたい。後の事は彼女に任せてもいいのかしら?」  
「長門さん、来てくれたの? ええ、後は彼女にお願いするわ。介抱してくれて本当にありがとう」  
 先ほどまでとは打って変わって和やかな雰囲気をみせる。  
 わたしは椅子に降ろしていた手提げを持つと「後は頼みます」と見舞いに来た少女へ会釈して保健室を後にした。  
 
 先日、そして今日とあまりに常識以上の事がありすぎた。わたしは盛大なため息をつくと昇降口を出たあたりで  
振り向き夕陽に染まった校舎を見つめる。  
「声が聞きたい……な」  
 ポケットに入れた携帯に手をかける。だがそろそろ北高祭も終了時刻、彼はクラスの後片付けなどで忙しい事だろう。  
 仕方ない、彼が帰宅した頃を見計らい家から電話するまで我慢しようと考え、わたしは一人北高を後にした。  
 
 

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