- * -  
 ある行為の途中で雨が降り出した場合、その日を表すのに「ワンデイ イン ザ レイン」という表現は果たして  
適切な語句だろうか。  
 寒さが増す師走に入り、キョンと偶然鉢合い下校していたある日の事。彼が猫を拾い哲学的な名前をつけたと  
いう話に花を咲かせていたわたしたちは、突然降り出した雨に会話を中断して適当なビルの軒下へと避難する事と  
なった。  
 
「悪かったね。キミ一人なら自転車に乗って帰ってたから雨にあたる事も無かっただろうに」  
「なに、自転車で通っていればこんな日もあるさ」  
「だが今日は僕に付き合ったが故の惨事だ。だからキミは気にせずにこれを使うといい」  
 濡れた髪を水分飽和しかけているハンカチで拭きながら苦笑をみせる彼に汗拭き用の小タオルを差し出す。  
「お前が使えよ」  
「もちろんそのつもりさ。但しキミの後でね。それともキミは僕の使用済みタオルを所望するのかい?」  
 
 特有の笑いを浮かべながら、身長差を利用して少しだけ状態を倒し上目がちに見つめながらタオルを差し出す。  
 彼はわたしの顔から全身へ視線を落ち着かせず走らせ、すぐにそっぽ向いて表情を隠すとタオルを受け取り  
自分の髪を拭き始めた。雨露で濡れ鼠となった全身のうち、頭と顔をとりあえずさっぱりさせるとすぐにタオルを  
返してくる。どうせまた濡れるからと制服とかは諦めたようだ。  
 わたしはタオルを受け取ると彼に習い髪から顔にたれる雫をぬぐいつつ、軽く仕掛けていた罠を公表してみた。  
 
「まあ今日の体育の時間の後で一度使っているから、これは最初から僕の使用済みタオルな訳なんだけどね」  
「……そうくるか」  
 何とも表現しがたい引きつった笑いと諦めを足した様な表情を浮かべながらキョンは眉間に手をやり口癖を呟く。  
 そんないつも通りの彼を見ているだけで心底からほっとしてしまう自分がいた。  
「そうくるのさ。……それにしてもキミは本当に僕にとって大事な人間だよ。ちょっとした会話だけでこんなに  
僕の心が癒されるんだからね」  
「何だそりゃ。全く、癒されたければ女性らしくアロマテラピーやヒーリングでもしてろよ」  
「佐々木には可愛らしい乙女チックな雰囲気が似合うな、そうキミが僕を見て断言してくれるのなら実行しよう」  
「すまん、無理」  
「助かるよ、僕自身も似合わないと思っているからね」  
 
 あの日以来、わたしの胸中にはえもいわれぬ不安が常に渦巻いている。こうして彼と出会ったり話したりして  
いるとその憂慮なモノは徐々に消えていくのだが、彼と別れたり話し終えたりするとその負の感情は再びわたしの  
心中で復活してくる。しかも消失前よりも大きくなって。  
 キョンの事を求めているのかとも考えた。確かにそんな気持ちがある事は否定しないが、この懸念はそんな  
簡単な事ではない。  
「という訳でキョン。僕とこうして肩を並べて歩いてしまった運命だと割り切って諦めてくれ」  
 
 わたしは何かを恐れている。  
 姿の見えない、言葉すら思いつかない、その何かを。  
 
- * -  
 冬はいよいよ本番を向かえ、雪が降る日も珍しくなくなってきた。街にはクリスマスへの準備と風邪が流行しだし、  
またクリスマスイブに先んじて数日後に訪れる冬至のためにと南瓜と柚子が店頭にちらほら並びだす。  
 
「クリスマスはどうするんだい?」  
「普通にパーティ、とはいかないでしょうね。やはり」  
 古泉一樹と偶然登校時間が重なったわたしは彼と共に登校しつつ尋ねる。どうも彼はわたしに対して苦笑と  
悩み多き心中を見せるのが習慣になりつつあるようで、やはり今日も困った笑みを浮かべて腕を組みながら  
次のイベントに頭を悩ませていた。  
「だろうね。涼宮さんが喜ぶような不思議パーティなら僕も一度くらい体験してみたいと思うよ」  
 同じ不思議でもあの闇の存在たちは遠慮したいが、そう心中でのみ言葉を付けたし彼に返す。もちろん超能力者  
でも心理学者でもない彼はわたしの言葉を理解できる訳もなく、どうすれば涼宮さんが喜ぶか、それだけが全ての  
パーティ企画をあれこれと思案していた。  
 
「……正直に言いまして、最近の涼宮さんからは僕に対して飽きている感じが伝わってくるんですよ」  
「夏にも言ったけど、よくもまあ九ヶ月も恋人関係がもったものだと僕は素直に感心しているんだけどね」  
 彼に倣い僕も正直に返す。残念だけど彼は涼宮さんを満足させられるだけの器を持った人間ではない。彼女が  
未だに憂鬱の表情を浮かべ続けているのが何よりの証拠だ。  
「返す言葉もありません。ですがそれをただ認めて彼女の事を諦めるほど僕は諦めのよい人間ではないんです」  
 解っているさ。面白い事を彼女に提供しようというそのキミの粘り強さ、それこそが涼宮さんが今でもキミと  
関係を続けている唯一つの理由なのだから。  
 
 もしかしたら彼は涼宮さんを喜ばせられる存在に化けるかもしれない。  
 今はまだ力量不足が否めないが、あと少し、彼と涼宮さんを変える何かきっかけが起これば、彼は本当に  
涼宮さんのパートナーになれるかもしれない。最近ではそう思うようになってきた。さっき彼に対して器で無い  
と言ったが、涼宮さんが本当に彼の事をどうでもいい存在だと思っていたのならば、わたしが予想したとおり  
夏前には彼女自身によってその関係をぶっつりと切られていたはずだ。  
 
「僕の考えを言うならば」  
 彼にしては珍しく表情から笑みを消し、真剣な眼差しを中空に向けつつ心情を吐露しだす。  
「涼宮さんは僕の思考を読みきってしまっていると思うのです。だから僕が何を仕掛けようとそれは涼宮さんに  
とって予測範囲内であり、ただの予定調和でしかない。例えるならば将棋やオセロと同じです。格下の相手に  
二人零和有限確定完全情報ゲームを延々と続けたところですぐに飽きが来てしまう事は誰にだって解ります」  
「今のキミ達に必要なのは場をかき混ぜるべくトリックスターだと言う事かい?」  
「ええ、その通りです。前から考えてました。彼女が真に驚くようなサプライズを求めるのなら、僕以外の要因が  
必要なのではないかと」  
 なるほど、夏に僕を誘った本当の理由はそれだったのか。第三者の介入で場をかき混ぜ予測不能にする為の  
ランダムノイズ、彼はその大役をわたしに求めたようだ。だが悲しいかな、わたしが発生させられるぶれ値もまた  
微小でしかなく、結果的に涼宮さんの枠を突破する事はかなわなかったという訳だ。  
 彼の考えは間違っていないのだが、如何せん選ぶ人間を間違えている。わたしもまた彼に近い、どちらかと  
いうと策士よりの思考を持つ人間である。彼が求める予測不可能状態を発生させようとするのなら、似たような  
人物でなく全く逆のタイプを放り込むべきなのだ。  
 計算ではない天然で動く人間や彼女以上に場を楽しもうと思う人間を。  
 全員が主役では面白くない。名脇役がいてこそ主役は映えるのだ。  
 
「実に難しい課題です。涼宮さんと付き合える人物と言うだけでもかなり絞られてしまいますからね」  
「ああ、実に難しい課題だよ。でもその苦労こそが彼女と共にいる為の代償なのだからね、現状維持を求めるなら  
キミは頑張るしかないのさ」  
「肝に銘じておきます」  
 気持ちを引き締めここでようやく普段の快い笑みを浮かべる。彼がいつ涼宮さんとの関係に膝を折ってしまうか  
などそれこそ予測不可能な話だが、それでもクリスマスぐらいまで続きそうだなと考えわたしはこの奇妙な友好  
関係にある彼に対し、口には出さずにエールを送った。  
 
- * -  
 マカオ返還何周年と言った一高校生が都市生活を行うのにてんで関わらない当たり障りのないニュースを流す  
TVをBGMに朝食を取る。ニュースと共に流れる天気を聞き外を見ると灰色に染まった曇り空が広がっていた。  
 今日の寒さも相成って、もし降るとすれば雨ではなく氷雨か、あるいは初雪となる事だろう。肌に刺さる寒さを  
感じつつわたしはいつも通りに家を出た。  
 学生の本分として自分が居るべき場所へと到着すると椅子に座って後ろを振り返る。憂鬱姫はどこかへ出かけて  
いるらしく、机の脇にかかったカバンだけが持ち主の所在が現在学校にあるという事を告げていた。  
 
「おはよう佐々木さん、今日は一段と寒いね」  
 橘さんが気温に対してやや過度に防寒対策していた手袋とマフラーを外しつつ挨拶してくる。寒さが苦手なのか、  
それとも彼女なりな一足早めの冬物お披露目会なのか。外すだけなら自分の席で外せばいいのをわざわざこちらに  
歩きながら行うと言う事は、少なくともそれらについてわたしからの意見が欲しいというサインなのだろう。  
「おはよう橘さん。どうしたの、その可愛らしい防寒グッズ。昼からの寒さを予測して? それとも冬のファッション?」  
「ふふ、どっちもです。こういうカラフルな毛糸モノって好きなんですよ。あぁ、早くお昼にならないかなぁ」  
 昨日から短縮授業となっているので昼がくれば授業は終了、部活に入ってない橘さんは午後は丸々自由時間と  
なり、彼女のお気に入りの毛糸の手袋とマフラーをつけて遊びに出られるという事になる。  
「今日はどこかへ出かけるのかい?」  
「ええ、クリスマスに向けて色々買い物しようかなって。佐々木さんも行きません?」  
 せっかくの誘いだが、残念な事に今日は冬季講座の塾探しをしないとならない。  
「えー、本当に残念ですよー。他の日にとかならないんですか?」  
「説明会が今日までとかで無理なの。でも、逆に明日とかだったら予定空いてるから一緒に出かけられるわよ」  
「本当ですか!? 絶対ですよ!」  
 
 まるでクリスマスプレゼントを期待する子供のように目を輝かせつつ何度も釘を刺される。苦笑しつつ確約の  
返事をしながら、わたしは今の彼女のように眼を輝かせて大はしゃぎしていたキョンの妹さんの事を思い出していた。  
 去年は受験だなんだと慌しい冬休みだったが、そんな中キョンに呼ばれたクリスマスパーティで、わたしは  
キョンと共に資金を出し合い妹さんへ抱き心地のよいぬいぐるみをプレゼントしてあげた。あの時の妹さんの  
はしゃぎようと、そんな妹さんの姿に照れ笑いを浮かべるキョンを見て、わたしは生まれて初めてパーティとは  
こんなに楽しいものだったのかと実感したのだった。  
 
 そういえば今年はどうするつもりなのだろうか。明日橘さんと出かける時にいくつか候補を探しておくことに  
しよう。ついでにキョンへのプレゼントも用意しておいたら面白い事になるかもしれない。きっとこれはどういう  
事かと眼を丸くした後に自分は用意してなかったとちょっと後悔しつつさてどうしたものかと困り果てるだろう。  
そんな姿を想像するだけでくつくつと笑みが浮かんでくる。  
「佐々木さん、まだ笑うのは早いですよ。それじゃ明日絶対ですからね」  
 わたしの笑いを誤解しつつ橘さんは上機嫌に自分の席へと戻っていた。それと入れ替わるかのように光陽園学院  
きってのクイーンが恒例となった不機嫌丸出しの表情を浮かべて登場した。わたしの後ろにつき頬杖と共にため息  
一つ。わたしが顔を向けると涼宮さんは一度目線を合わせた後にすぐ外を向いてしまう。  
 どうやら今日は話したくない気分のようだ。わたしはその意思を汲み取ると身体を戻し期末テストの返却と答え  
合わせがメインとなる授業の準備をする事にした。  
 
 今日の授業も終了し、わたしは教室まで出迎えにきた古泉一樹を連れさっさと帰る涼宮さんと、例のお気に入りの  
毛糸装備を纏い大きく手を振る橘さんを送りだしつつ、慣れ親しんだ当番と共に教室の掃除を開始した。机の位置を  
元に戻し用具を片付けると、わたしはカバンを持ちクラスメートに挨拶して教室を出る。  
 と、すれ違いざま耳にした言葉に気になるものがあった。  
 
 どうも涼宮さんが校門前で何かしでかしたらしい。  
 下校の際に校門前で起こった事なら古泉一樹が共にいたはずだ。それなのに涼宮さんは一体何をしたのだろうか。  
更に所々で流れる会話を捉えるに、どうにも涼宮さんは他校の生徒に呼び止められ、その相手に対し容赦なくロー  
キックとクリンチをお見舞いし、古泉一樹と共にその彼を何処かへと連れて行ってしまったと言う。  
 何処まで尾鰭が付いた話なのかは解らないが、彼が一緒だったと言うのを信じるのならばとりあえず大事には  
ならないだろう。何処かが解らない以上わたしにできる事はないし、知っていたとしても他人のゴシップを必要  
以上にかぎ回るような趣味は持ち合わせていない。それにどうしても知りたかったら当人から聞けばいいのだ。  
 自分にそう言い聞かせつつ歩いていると校門前にたどり着く。  
 ここで涼宮さんは何をしたのか。騒動を起こしたという事にえも言われぬ胸騒ぎが尾を引くが、わたしは顔を  
軽くはたいて眼を覚まさせると脳内を蠢く思慮を振り切った。  
 
 明日、聞けばいい。  
 そう考えて帰路につこうとした時、ふと校門の脇に立つ光陽園学院でない制服を纏った少女と眼があった。  
いや正確に言うなら眼を合わせられた。  
 少女はセミロングの髪と北高制服のスカートをなびかせて近づいてくると、手にしていた白い紙袋を静かに開き、  
この時期コンビニなどでよく見かける湯気が上がる白い中華まんを差し出すと静かな笑みを浮かべて尋ねてきた。  
 
「こんにちは。お時間ちょっとだけいいかな」  
 確かキョンのクラスの委員長で、名は朝倉だったか。わたしは名前を思い出しながら中華まんを受け取り肯定の  
意をみせた。  
 
- * -  
 彼女は改めて朝倉涼子と自分の名を告げ、わたしを尋ねてきた理由を語りだした。  
「クラスメートの一人が様子が突然おかしくなってね。もしかしたら、あなたならその理由を知ってるかなって  
思ったの」  
 道すがら二人で中華まんを戴きつつ彼女の話に耳を傾ける。何故わたしがそんな彼女のクラスメートの奇行に  
ついて理由を知ってなくてはならないのかと考えたが、彼女のクラスといえばキョンのクラスでもあり、彼女が  
北高祭の一件でわたしがキョンと知り合いだと言う事を覚えていたとするなら一つだけ可能性が生まれてくる。  
「まさか……そのおかしくなったクラスメートって、キョンなんですか?」  
「ええ。それで国木田くんから聞いてた事を思い出したの。あなたが彼の恋人だってね」  
「それは誤解です。確かにわたしは当時他のどの女子より彼に近かったかもしれないし、今でもそうなのかも  
しれない。でもそれだけです」  
 
 わたしがキョンの恋人にあげられるなど、なんだか背中がむず痒くなってくる。彼とはそういう関係ではない、  
少なくともキョンがわたしを気の会う友人だと思っている限りはありえない。国木田たちが勘違いしているだけの  
中学時代の他愛ない話ですよと返すと  
「あらそうなの? ……だったら彼にもう一回釘を刺しておかなくちゃダメかな」  
あごに手を置き伸ばした人差し指を添えながら彼女は何かを呟いた。一体何の話かと問い返してみるが、こっちの  
話だからとあっさり質問を流されてしまう。そして気持ちの切り替えか、彼女は小さく頷くとわたしに会いに来た  
本題を話し始めた。  
 
「とりあえず彼の事なんだけど……」  
 そんな枕詞から語られた内容はわたしを喫驚させるに充分たる内容だった。一昨日の昼に出会うなり何故自分が  
クラスにいるのかと殺意をこめて眼光鋭く睨みつけられながら詰問され、それ以降も彼女を見ると「俺を殺す気は  
無いのか」と言う感じの内容を聞いてくるという。  
 更に一昨日以前は興味が無かったであろう部活とそこの女性部長に突然興味を示し、挙句の果てにはその部長の  
家まで訪問し自分の活動はどうしたらよいかと話を聞いたと言う。  
「そして今日は突然の授業ボイコット。休み時間に友人と話をしていたら突然叫びだしそのまま学校を飛び出して  
行ったって聞いたわ。  
 何ていうかあまりにも突飛過ぎる行動なのよ。まるで一昨日を境に別人になったみたい。最初は最近流行の  
風邪による意識混濁かなって思ってたけど、それにしてもおかしすぎると思わない?」  
 全く以て信じられない内容だった。どれ一つとってもわたしの知るキョンが取った行動とは思えない。彼女の  
言葉を流用するならまさに別人の様ではないか。  
 
 キョン、キミは一体何をしているんだ。何がキミをそんな奇行に駆り立てている。  
 わたしの思惟は混迷を極め出口なき迷路を放浪する。いや、窓も扉も無い閉鎖空間に囚われた気分だ。無明の  
闇で閉ざされた不可視の領域を先を照らす光明も道を示す指針も無くただ彷徨する思考。エラーを起こし機能停止  
してしまったアンドロイドのように立ち尽くすわたしを見て何か告げようと脳を回転させて思い出したのかは  
解らないが、朝倉涼子はそんなわたしに更なる情報を提示してきた。  
 
「あ、そういえばもう一つ彼の奇行があったわ。確か自分のクラスにはわたしじゃなく涼宮ハルヒって人がいる  
はずだって言って探してた。あなた知ってる? どうも光陽園学院の生徒らしいんだけど」  
 
 涼宮……ハルヒ、ですって?  
 突然の言葉に頭の中が真っ白になり、世界が激しくゆがんだ。  
 何故そこで涼宮さんの名前が現れるのか。何故キョンが涼宮さんの事を探さなくてはならないのか。  
 スカートのポケットから手探りで携帯電話を取り出したのは殆ど無意識的な行動だった。既にわたしの脳は路傍の  
石よりも働いておらず、数多のシナプスは想定外の処理にオーバーヒートを警告していた。携帯電話のアドレス帳  
からキョンの番号を検索し電話をかける。  
 とにかく一秒でも早くキョンに話を聞きたい。私の全身はただそれだけの為に行動していた。  
 だがそんな焦燥するわたしを嘲笑うかの如く、電話は相手先をコールする事すらせずにディスプレイにただ一言  
『圏外です』と表示し、携帯電話の電波が彼の元どころか何処へも届かない事を告げてくるのみだった。  
 どうする、彼の家へ直接押し掛けるか。いやキョンは授業をボイコットして何処かへ行ったって話だ。  
 そもそもキョンは一体何処へ? キョンは何をしに向かった? 散らばったまま組みあがる気配の無いジグソー  
パズルは、だが唐突な閃きで一気に構成される。  
 さっき校門前で流れていた、明日聞いてみようと思っていた内容。  
 
『どうにも涼宮さんは他校の生徒に呼び止められ、その相手に対し容赦なくローキックとクリンチをお見舞いし、  
古泉一樹と共にその彼を何処かへと連れて行ってしまったと言う』  
 
「……まさか。ソレがキミなのか、キョン」  
 まるで正解だと言わんばかりに、圏外を示していたはずの携帯電話が着信を知らせるメロディを奏でだす。  
 この着信音は橘さんかと認識し、ディスプレイで彼女の名前とアンテナ状態は最良であると示す電波状況の印に  
戸惑ったまま電話を取った。  
『佐々木さん、スクープです! 大事件なのです!』  
「どうしたの橘さん。そんな大事件だなんて、今のわたしにはキョ……」  
 呪詛を吐くかのように淡々と紡ぎ出す言葉を完全に無視しながら、電話の向こうで興奮しているのかいつもより  
高い声が告げてきた。  
『あたし、見ちゃったんです! 涼宮さんとキョンさんが一緒にいるの!』  
 
「……え?」  
 あまりに突飛無い内容に再度わたしはフリーズする。橘さんの言葉が脳に浸透しようやく理解すると、わたしは  
慌てて聞き返した。  
「涼宮さんと……キョンだって!? 橘さん、それはいつの話!?」  
『今、たった今です! たった今喫茶店から出てくるのを見たんです。最初涼宮さんが飛び出してきてタクシーを拾って、  
その後に古泉さんと彼が出てきて、そのまま三人でタクシーに乗り込むと何処かへ行っちゃったんです。彼ったら  
涼宮さんたちとも知り合いだったんですか? でもそれにしては何か様子が……』  
「橘さん、その喫茶店の場所は!」  
 返って来た喫茶店名と場所には覚えがあった。学院から近い場所にある為に生徒達によく利用される場所で、前に  
何度か橘さんやキョンと行った事もあり、帰路についていたわたし達が今立っている場所からでもそう遠くはない。  
「橘さん、今からすぐに向かうからそこにいて!」  
『あ、はい。わかり──』  
 
 ぱん。  
 拍手のような軽い音が耳に届くと共に電話が切れる。何事かと携帯を見るとディスプレイには何も写っておらず、  
通話どころか電源自体が切れてしまっていた。電源ボタンを押して起動させようとするも携帯は全く動作せずただ  
沈黙を続けてくる。  
 さっきの電波状況といい携帯電話が壊れていたのだろうか、だがそれにしてもこのタイミングで壊れなくても。  
やり場の無い怒りを携帯にぶつけつつポケットにしまうと同時に一台の車がすぐそばに止まる。そして後部座席  
ドアを開けると運転手が振り向きながら聞いてきた。  
「何処までだい?」  
 その黒塗りの車は屋根に空車を表すライトを光らせ、そしてボディには白で所属会社名がかかれており、何処から  
どう見てもこの車が一般乗用旅客運送を営む自動車事業、つまりタクシーである事を示していた。  
 
 わたしは朝倉涼子に振り向き尋ねるが彼女は首を振る。何故止まったのかは解らないがとりあえず急いでいる  
身としては丁度良い。財布の中身を思い出しつつわたしはタクシーへと乗り込むと先ほど橘さんが告げてきた  
喫茶店を指定した。  
「待って、わたしも乗る。彼の所へ向かうのよね」  
 わたしを奥へ詰め込ませ、朝倉涼子も乗り合わせてくる。しかし運転手は朝倉涼子を乗せ終えた後も扉を開けた  
ままで一向に発進しようとしなかった。二人で疑問に思いつつも彼女は自分で扉を閉め、わたしは運転手に出して  
もらうよう急かすと煮え切らない返事と共に運転手はタクシーを発進させた。  
 
「どうしたの、運転手さん」  
 ぐったりと頭をたれて下を向くわたしをよそに、流石に運転手の奇妙な行動が気になったのか朝倉涼子が  
尋ねると、運転手は後部ドアがちゃんと閉まっているか手元で確認しつつ逆に聞き返してきた。  
「いやね、もう一人さんは良かったのかいって思ってね?」  
「もう一人?」  
「ああ、車を止めた女の子だよ。一緒にいただろ、ボリュームのある黒髪をした光陽園の生徒と。すぐに居なく  
なったみたいだけど」  
 その言葉にわたしは跳ねるように首を起こすと後ろを振り向き、車に乗り込んだ場所を確認する。  
 
「──────、──」  
 
 そこに立っていたあの形容しがたき黒の存在は、その姿を小さくしながらも相変わらず異質な雰囲気のまま  
小さく何かを呟いていた。  
 
- * -  
「橘さん乗ってっ!」  
 タクシーで喫茶店の前に到着し、そこで携帯を握り締めながらつま先で地面を叩きつつ待っている橘さんに  
呼びかけた。同時に朝倉涼子が車から降りるとドアのそばに立ち彼女が乗り込むのを待つ。  
「え? あ、はいっ!」  
 橘さんが走って近づき、そのまま後部座席へと乗り込んでくる。最後にもう一度朝倉涼子が乗り込んだのを  
確認しつつ、わたしは橘さんに何よりも聞かねばならない事を問い質した。  
「それでキョンたちはどっちへ向かった!?」  
「え、えっと、あっちです。で、そこの角を曲がっていきました」  
「そう。だったら可能性があるのはやっぱりあそこね」  
「ええ」  
 ここに来るまでに二人で話し合い考えていた事だ。一昨日からキョンが行ったおかしな行動、それは大きく  
分けると二つにまとめられる。  
 一つは涼宮さんを探すという行為。そしてもう一つは突然文芸部に興味を持ち出したという事だ。  
「運転手さん、このまま北高へ向かってください」  
 おそらくキョンはあそこにいるはずだ。わたしが北高祭の時に上る事ができなかった、あの階段の先に。  
 
 タクシーは北高へ続く坂道に入り、後ろに三人も座っているからかややアクセルを開き速度を上げはじめる。  
そのままカーブへ差し掛かったその時、激しい音と共に突然フロントガラスが真っ白になったかと思うと車体が  
大きく弾み、通常走行ではありえないような横への遠心力がわたし達に襲い掛かった。  
 左へと身体が流された直後、全身に強く響く重低音と金属がひしゃげる高音のノイズと共に前方に向かって  
吹き飛ばされるような勢いが身体を襲い、わたしは運転席のシートへと激しく身体を打ちつけた。  
 
 何が起こったんだ。一体、何が。  
 衝撃音の連続で耳鳴りが轟き外の音が聞こえない。激しい衝撃の影響で身体が悲鳴を上げている。目を開いても  
世界が回転している感覚が視界として飛び込んでくる。わたしはそれでも何とか右手を伸ばして後部ドアに手を  
かけると、そのまま押し開いて外界の空気を取り込んだ。  
 後部シートから外へ身体を押し出すように転がり出る。何とか立ち上がり朦朧とした意識を取り戻して自分が  
乗っていたタクシーを見るとフロントガラスは砕け散り、カーブの反対車線を超えガードレールをなぎ倒し、  
歩道の先にある山間の壁に頭から激突している状態だった。  
 運転手はエアバッグに飲み込まれて姿が見えない。後部の二人は大丈夫かと思い視線を運転席から外したところで、  
 
「…………っ!」  
 
その視界の隅に、進行方向だった坂道の上で立つ無粋な男と異質な存在を捉えてしまった。  
 
「何をした……何を考えている! お前たちは一体何なんだ!」  
「ウイルスさ。この世界に存在し得ない存在、それが僕らだ」  
 男が目に見えて嘲笑を浮かべてくる。何の話だ。いやもうあんな存在など知った事か。  
 わたしは彼らの事を相手にせず車内を覗き込むと二人に呼びかけ無事を確認する。  
「だ、大丈夫、だと思う……」  
「わたしも、多分、大丈夫」  
 橘さんは後部シートに倒れこみながら息を整え、朝倉涼子は反対のドアを開けて外に出てくる。運転手も動いて  
いるようで命に別状は無いようだった。  
「ずいぶん余裕じゃないか。時間を大切にしろとこの時代の人間は習わないものなのか? もうすぐあいつが考え  
抜いた末に規定既定通りキーを押す。そうすればこの電気羊の世界は終わりだというのに」  
 
 ゴルフボールぐらいの大きさの玉を手玉にして遊びつつ男が更に告げてくる。  
 あいつだと? あいつというのはやはり。  
「キョンの事か。言え、お前たちは何が目的なんだ!」  
 いい加減に我慢の限界だ。わたしは男に飛び掛らん勢いで走り出す。あの玉を投げつけフロントガラスを叩き  
割り、道路に散りばめられた釘やらガラスやらが撒菱状態となりタイヤをバーストさせたのだろう。どう考えても  
事故を狙ったとしか思えない上にキョンの方にまで何か手を回しているとしり、それでも我慢できるほどわたしは  
聖人君子ではない。  
 
「今はまだ禁則事項だ。僕が説明しなくてもいずれあんたにも解る。まずはこの世界の終焉を──」  
 男の御託を無視し、走り寄る勢いで相手を倒してやろうと服に手を伸ばし掴みかかろうとする。だが後数ミリで  
服を取れるかと思った瞬間、  
「──感じようじゃないか」  
男の言葉と共にわたしの動きが、視界範囲のものが、そして森羅万象が完全に停止した。  
 
- * -  
「世界の停止を確認。誤差、問題共になしだ」  
 思考する以外何もできないわたしの目の前で相変わらず立ち続ける男はそう告げると髪をかき上げてから歩き  
始めた。そのまま異質なる黒の存在に近づいて行くとなにやら呟き指示を出す。その存在が納得したのかは知ら  
ないが、ゆっくりとこちらを向いて瞬き一つみせてきたかと思えばわたしはいきなり全身を固く止めていた力から  
解放された。  
 服を掴もうと伸ばしていた手は空を切り、突然走りを再開した身体に思考が追いつかず、わたしは数歩慣性で  
進むと足を取られ、そのまま身体の向きが反転し尻餅をつく形で地面に身体を打ちつけた。  
 
「バグった人形が作り出した虚構、注目すべき事項が何一つ存在しない無為な時間。それがこの世界だ」  
 男は先ほどから手にしたボールをお手玉のように上に軽く放り上げつつ、ゆっくりとわたしの方に向かって  
歩いてくる。男の言葉は全く以って意味不明で、普通に取れば精神に支障をきたした者の戯言と認識するところ  
だろう。だがこの連中がそんな生易しい存在ではないのは既に嫌と言うほど思い知らされている。  
「何の事を言っているんだ」  
「あんたに少しだけ種明かししてやってんのさ。一年前の十二月十八日から一昨日までの一年間、あんたが体験  
したと思っているその時間の記憶は、全て第三者によって改変された偽りの記憶でしかない。あんたが実際に  
自ら体験したのはこの二日間だけで、それまでの一年間はこの世界配置ならこの人間はこう過ごしたであろうと  
いう計算の元に生み出された虚構設定なのさ。  
 ま、改変した奴にしてみてもアイツがあんたと思った以上に親睦を深めてしまったのは想定外だっただろうけどな」  
 
 モザイクだらけの会話だが、その改変した第三者以外が誰の事を指して言っているのかは解る。だが彼の言い分を  
正しく理解するなら、世界にとっての正しい時間軸は別にあり、その正しい時間軸を辿った歴史では僕とキョンが  
親睦を深めていない関係にある、そう言っているみたいに聞こえてくる。  
「どちらが正しい世界だとかには興味も意味もない。僕にとって重要なのはその歴史が僕にとっての規定事項だと  
いう事、ただそれだけだ」  
 男は手にしていたボールを軽くわたしに向かって放ってくる。コレがタクシーに投げつけられたボールなのかと  
思わず手を伸ばして受け取ってしまった途端、ボールは一瞬光ったかと思うとわたしの中に溶け込むように吸収  
されてしまった。  
 
「そして僕の役目は世界修正に先駆けあんたに本当の時間を返してやる事だ。しかも今、このタイミングで。  
 この静止した時間ならばあんたの心がいくら揺れ動こうとも、能力者がそれを把握することはできないからな」  
 直後、身に覚えの無い記憶が脳内を駆け巡りわたしの情報処理能力は一気にオーバーヒートを起こす。それでも  
この一年間の本当の記憶が今ある記憶を消す事も無く徐々にとわたしの中へと入ってきた。光陽園学院は進学校など  
では無くお嬢様の通う女子高である事、わたしは市外の有名私立進学校へと進んだ事、キョンとはそれ以降疎遠と  
なってしまっていた事。  
 
 そして何より、北高へ進学した涼宮さんがキョンと組み、何やら楽しげな活動を行っているという事。  
 
「何だいこの記憶は。僕の知るこの世界との充足感の落差は」  
 これが本当の時間だというのか。僕は長い夢を見ていたと言う事なのか。進学校のカリキュラムについていく  
為に塾通い勤勉し、取り立てて親睦を深めた者がいる訳でもなく日々淡々と起伏少ない人生を消費する。それが  
彼から渡されたわたしの一年間の記憶だった。そしてそこには、卒業式以後のわたしの記憶には、彼の姿は一度と  
して映っていなかった。  
「ふざけるな。こんな世界の記憶なんて僕は認めない」  
「それはあんたが決める事じゃない。僕らの歴史が決める事だ」  
 男に言い切られた瞬間、わたしは全身の力が抜け落ちていくのを感じつつ無意識に乾いた笑みを溢していた。  
「それこそ知った事か。認めないといったら認めないんだ。そうさ、認めるもんか……僕の人生から彼がいない  
だけでこんなにも、こんなにも……くっははははっ!」  
 
 これが世界の現実ならば、わたしは絵空事の麻薬に酔いしれていたクラウンだったと言う事になる。  
 あまりにも唐突に訪れた冷酷な世界。それはキョンというピニオン、空を飛ぶのに必要な風切羽をもぎ取られ  
永遠に飛び立てず地を這いずり回る鳥の世界。  
 認めたくないのに、だがどこかで認めてしまっている。わたしは両手で目を被いつつ天を仰ぐと、静止した時の  
中でただ狂気染みた笑いを響かせ続ける事だけしかできなかった。  
 
- * -  
「気は済んだか」  
 全身に蠢いていた感情を出し切り自虐的な嘲笑すら零れなくなった頃、男が面倒臭そうにただ一言だけ投げ  
かけてきた。  
「キミは……キミたちは一体何者なんだ。一体何をしようとしているんだ」  
「禁則事項だ。それと僕たちにはまだやるべき既定事項が残ってる。あんたにも付き合ってもらう」  
 質問を一蹴すると男は存在へ指示を出す。存在はまるで滑るかのように身体を殆ど揺らす事無くタクシーの  
方へと向かっていった。そして車内から外へ脱出し立ち上がろうとした所で静止している朝倉涼子の側に近づくと、  
ゆっくり手を伸ばして彼女の胸に手を置く。  
 何をするつもりかと疲弊した精神でおぼろげに見つめていると、その存在はまるで立体映像に手を差し伸べるが  
如く、自分の手を彼女の胸へ溶け込むように挿し込んだ。  
「────────閾値────改竄」  
 ポツリと呟いた瞬間、朝倉涼子の身体が電気ショックを与えたみたいに大きく震え、力なく手を差し込んでいた  
存在の方へと倒れこむ。その存在は空いた手を静かに横へ伸ばして彼女の身体を受け止めると、そのまま彼女を  
肩に抱えあげて戻ってきた。  
 
「飛ぶから立て。酔いたくなければ目を瞑ってるんだな」  
 何が飛んで酔うのか全く説明が無いまま、男と朝倉涼子を抱えた存在は私の側でただじっと立ち尽くす。半ば  
自暴自棄になっている状態のわたしは何とか足に力を入れるとふら付きながらもゆっくり立ち上がり目を閉じた。  
 直後、足元から地面の感覚が消失する。同時に強烈な重力の捩れがわたしを四方八方から襲いだした。  
 三半規管が警告を鳴らし、何事かと垂れていた頭を持ち上げ目を開こうとするが、それより先に男の手が頭に  
置かれて首を上げることを許さない。  
「目を開けるな。時の狭間なんて見ても気分が不快になるだけだ」  
 既に最低の気分を味わっているのに今以上不快に陥る事などあるのだろうか、そう思いながらも素直に従う。  
 遊園地の遠心力絶叫マシンが暴走したかのよな縦横無尽な圧力を感じ、そろそろ目を瞑っていても不快感が限界に  
突入するかといったところで、ふと突然に足元に地面の感覚が戻ってきた。併せて男の手が頭からどけられる。  
 何が起こっていたのかは解らないがどうやら終了したらしい。わたしは改めて首を上げて目を開き状況を確認した。  
 
 肌寒さと周りの暗さが夜である事を告げてくる。目線をやや上にあげると、星空と民家の間に黒い影として数階  
建ての建物の壁が伺えた。彼らと本格的に関わったあの日に振り返り見た、この建物の夕闇に染まる姿を思い出す。  
「あれは北高? 何故……」  
 とそこまで呟いて言葉を止める。何故北高で、しかも夜なのか。疑問は浮かぶが聞いたところで今までと同じく  
答えは返ってこないだろう。その証拠に男と存在はわたしを無視して動いている。何をしているのかと視線を送ると、  
あの存在が一緒に連れてきた朝倉涼子を肩からおろし壁に寄りかかる状態で座らせている所だった。  
 男が倒れないよう身体を直し、最後に夜光で鈍色に光る物体を彼女の手元に置く。  
 
「そろそろ来客が訪れるな。フィールド展開しろ」  
 朝倉涼子をその場において立ち上がると、その存在が中空を見つめて唇だけで音無き声を呟く。風のような軽い  
抵抗が身体を通り抜ける感覚を感じたかと思うと、存在を中心に発生した球体にわたしたちは飲み込まれていた。  
「あんたは今から始まる三文芝居の唯一の観客なのさ」  
「三文芝居?」  
 状況には追いつけず二重の記憶には翻弄され精神がかなり磨耗していたわたしは疲労感を隠すことも無く男を  
見返す。と、男はいつもの様な何事にも興味ないような雰囲気ではなく、軽い苛立ちと怒りを含んだ微妙な表情を  
浮かべていた。  
 
「ああ、三文芝居なんだ。あんた以外は全てこのくだらない演劇の配役でしかない。僕もこいつも朝倉涼子も、  
そしてあいつらも。あんただけがこの舞台で唯一イレギュラーな存在なのさ」  
 男が更に嫌悪感を見せつつあごで自分の視界を指す。それに習いわたしも首をそちらへ向けると、わたしたちの前、  
北高の正門から影となる曲がり角で様子を伺う二つの人影が目に付いた。彼は誰時より暗き時間で中々判別し辛いが  
一人は教師のようなスーツ姿の成人女性のようだ。そしてもう一人はというと、  
「……キョン? 何でキョンが」  
 こちらも暗くて顔は見えないのだが、シルエットだけで充分彼だと判断できる。星空の元で共に歩き、そして  
何度も見送ったあの姿だけは見間違えようがない。一体何をしているのかと足を踏み出し声をかけようとするが、  
フィールドと呼ばれる領域に阻まれてしまいそれは成せなかった。  
 
「このフィールドは外部から認識できない。あんたは観客だと言ったはずだ。観客は芝居に参加できない、大人しく  
見物しているものだ」  
 腕組みをして立ち尽くす男のつま先が微妙に上下している。わたしに意味深に接触し、事故を起こしても平然と  
していた人間にしては今の姿は何処か感情的で、今までで一番人間味を感じさせていた。  
「────違う、彼──間違い?」  
 それまで黙っていたその存在が言葉を発する。男は足を止めて溜め息をつくと首を向けずに答えてやった。  
「間違ってるのはおまえだ。アイツが正解なんだよ」  
「────────そう」  
 彼らが何を話しているのか、これから一体何が始まるのか。そう思った瞬間、わたしたちを取り囲むフィールドが  
突然衝撃音と供に虹色に輝きだした。キョンたちが見つめる先、北高の正門前から生じている何か物凄い力がこの  
フィールドに容赦なく襲い掛かっている。  
 何故だろう。その力は一見不可視だと言うのに、わたしにはその力の流れが手に取るように感じられた。  
 
「これが時空改変能力……なるほど、誰も彼もが躍起になる訳だ」  
「────────とても……苦い」  
 男と存在もこの力を感じ取れているのか各々感想を漏らす。片方は本当に感想なのかどうか今一つ自信がないが  
わたしが気にする事でもないだろう。  
 やがて力の奔流が治まると、そばにいた存在は朝倉涼子の傍を離れてわたしたちの後ろに立った。男にフィー  
ルドと称された結界から外れた朝倉涼子はゆっくりと頭を抱えながら覚醒しだす。座り込んだまま辺りを見回し  
自分が置かれた状況を確認するも、事故を起こしたタクシーから外に出たかと思えば夜の母校前という現状に脳の  
理解が追いついてない、そんな風に感じ取れた。  
 立ち上がろうと身体を起こした時に手の傍にあったナイフに気づき拾い上げるが、一体これは何を意味している  
のかとやはり頭を捻っているのが伺える。  
 
「朝倉に設定されていた人間が持っている倫理の閾値を限界まで下げた。今のあいつは目的の為なら手段を選ば  
ない兇刃そのものだ」  
 男が説明するもわたしの耳はそれをただの音としてしか認識していない。その時のわたしはキョンたちが校門前の  
街灯下で立つ少女に近づき何かを話している様子に夢中だったからだ。  
 距離はあるが街灯の明かりで姿は見える。キョンたちが話す相手は北高祭の時にわたしの前の席でおでんを食べ、  
朝倉涼子が保健室に運び込まれた時にお見舞いに来た、あの眼鏡をかけたショートヘアの少女だった。  
 
「……あれ、長門さん?」  
 朝倉涼子もキョンたちの事に気がついたらしい。この不可解な状況下で知り合いを発見できたのがよほど嬉し  
かったのか、満面の笑みを浮かべつつふら付く足取りで少女たちの方へと向かっていく。  
「良かった、長門さん、あなたがいて。あなたがいてくれれば、あなただけでもいれば、わたしは…………え?」  
と、覚束無い足取りを見せていた朝倉涼子が不意に止まる。何事かとその視線の先、キョンたちの方へと視線を  
戻せば、キョンが手にしていたモノを少女に向けて構えている所だった。  
 実物をこの目で見た事はないので確実とは言えないが、あのフォルム、そして少女の激しい怯えようから考え  
るに、やはりあれはこの国の大多数が所持を禁じられている武器、銃なのだろう。だが何故だ。  
「何故キミがそんなモノを持っている。何故それを人になんか向けている。やめろキョン……キミは、キミは一体  
何をするつもりなんだ!」  
 思わず駆け出すもすぐにフィールドの壁にぶつかり近づく事ができない。苛立ちながらこの壁を作っている  
存在へ苦情を告げようとして、それより先にフィールド外にいた朝倉涼子が動き出した。  
 
「ちょっと……長門さんになにしてるのよ。彼女を傷つけるつもりなの? よりにもよってあなたが? 彼女は、  
こんなにも。やっと、ここまで」  
 わたしと同じ世界を見つめつつ捉え方が違ったもう一人の観客は、手に小道具をしっかりと持ち街灯が照らす  
ステージへと走り出す。  
「させない、させないさせないさせないさせない彼女を苦しませる事なんて誰にも絶対にさせないっ!」  
「な、ダメだ! やめろ朝倉涼子! キョン逃げろ! 逃げるんだ、逃げて────っ!」  
 フィールドを叩きつつわたしはあらん限りの声で叫ぶ。外界に届く事無きわたしの心からの訴えに、だがそこで  
キョンと共に行動し後ろに付き従っていたスーツの女性が幸運にもこちらへと振り向いた。  
 わたしの訴えは見えなくとも、朝倉涼子の姿は捉えられるはずだ。距離もまだある。  
「頼む! 彼女を、朝倉さんを止めてくれ!」  
 必死の願いをその女性に向けるが、しかし女性は朝倉涼子とその手にしたモノを確認した上で、あえて目を瞑り  
首を振ると、伸ばした手をそのまま戻して握りしめ、踏み出しかけた足を踏みとどまらせ、信じられない事に朝倉  
涼子がキョンへ向かうのを完全に黙認した。  
 一縷の希望があっさりと絶たれた事にわたしが何故と思う間もなく、朝倉涼子は上体をやや落とすとそれまでの  
スピードに乗せて後ろから躊躇う事無くキョンへと手にしたモノごと突撃していった。  
 ドンッという音が響いた気がする。実際は気のせいなのだろうが、わたしはその瞬間確かにその音を聞いた。  
 キョンがこの世界から否定される音を。  
 
「キョ──────────ンッ!!」  
 朝倉涼子の動きにあわせキョンがゆっくりと崩れ落ちる。あらん限りの声で叫び、渾身の力で両拳をフィールドに  
打ち付けて突破しようと試みるが、わたしの思いは障壁に傷一つつける事すらできない。すぐさまこのフィールドを  
生み出しているのが誰だったか思い出し、わたしは黒の領域へと掴みかかった。  
「フィールドを解けっ! わたしを、今すぐあそこへ向かわせろっ!」  
「それはあんたの役割じゃない」  
 即座に男から否定の言葉が出される。わたしは男に拳を放つが、男はまるで何処を狙ってパンチしたのか知って  
いたかの如く平然と自分の手で拳を受け止め、さらにもう片方の手で手首を掴むと強く握り締めてきた。  
「くうっ! こ、この……」  
「僕を殴る暇があるならあっちを見ろ。あんたの望んだ俳優たちの登場だ」  
 
 男の言葉に従い再度キョンたちの方を向く。飛び込んできた風景は、何処から現れたのか先ほどまでその場に  
いなかった三つの人影が兇刃朝倉からキョンの事を守っている所だった。  
 だがその光景を目にし、わたしは思わず「ええ?」と言った間抜けな声を上げてしまう。  
 あのふざけた女性と共に倒れたキョンに駆け寄った少女はまだいいとしよう。問題は残りの二人だ。  
 朝倉涼子の兇刃を素手で握り止めている少女は顔に眼鏡をかけていないという違いはあるものの、どう見ても  
街灯の下で怯えているショートヘアの少女と同じ姿だし、そしてなにより倒れたキョンの傍で銃を拾い立つ防寒を  
主としたラフな格好をしているその男は、やはりどう見てもキョン当人にしか見えなかった。  
 
 既にわたしの中の疑問符は完売状態で、この状況には声も出せず立ち尽くす。  
 もう何が起こっても驚けやしないなと考えた直後、わたしはその考えをあっさりと撤回する事になった。  
 朝倉涼子と対峙していた少女が小さく動いた途端、その手に握り締めていたナイフが煌めきながら光の粒子に  
変換されていく。いや、ナイフだけではなく朝倉涼子もまた足元から粒子になり始め、数秒後には完全に消失して  
しまっていた。ほぼ同時に、倒れたキョンに泣きついていただろう少女もキョンに被さったまま動きが無くなって  
しまう。どうやらスーツ女が少女に対し気絶させたか何かを行ったようだ。  
 遠めで何が起こっているのか完全に把握できず、またキョンの元へと走りよれないこの現状がもどかしい。  
『観客』とはよく称したもので、つまりはわたしだけがこのイベントに対し何一つとして関与できない傍観者で  
あると男は揶揄していたのだ。  
 
「人間は与えられた事象が自分の理解の範疇を超えた時、何もできない存在だと思っていた」  
 眼鏡のない少女がキョンから銃を受け取り同じ姿をした少女へと撃ち放つ。そのあまりに現実離れした光景に、  
だがわたしはもう驚かない。どんなに驚愕すべき事象が起ころうと、観客である以上わたしには単なる映画や  
夢と大差ないからだ。  
「考えを改めるよ。人間はどのような状況に陥ろうと思考する事だけはできる。思考し、常に何かを選択する。  
そういう存在なんだ」  
 わたしはキョンたちを見つめたまま男に尋ねる。わたしがここにいてできる事はない。  
「キミたちはいつになったら僕の事を解放してくれるんだい」  
「あいつらが再改変した後だ。そうでないと僕たちは元の時間に戻れない」  
「こう見えて門限がうるさくてね。できれば早めにお願いしたいものだ」  
 男が全てを語る気がない事を理解したので返答を軽く流す。わたしの中の何かが麻痺してしまったのか、キョンが  
無事っぽい雰囲気に冷静さを取り戻したのか、先ほどまでと違って展開される状況を素直に脳が受信する。  
 立っているキョンが気絶した栗色髪の少女を背負い、ショートヘアの少女とスーツの女性が傍に寄り添った。  
 と、スーツ姿の女性が控えめにこちらへと顔をむけてくると軽く会釈してくる。それにあわせ後ろから人間味  
あふれる舌打ちが聞こえてきた。男の知り合いかと考え、ふとそこに違和感を感じる。  
「なぜ彼女はこっちに挨拶を? こっちの姿は見えていない、そうじゃなかったのかい」  
「簡単さ。相手からはこちらは見えてない、だがここに僕たちがいると最初から知っているのなら挨拶はできる。  
つまりそういう事だ」  
 つまりあのスーツ女もこの男の同類、この男がわたしの担当、あの女がキョン担当と言う事なのだろう。何か  
途轍もない事にわたしもキョンも巻き込まれているのは確実であり、しかもキョンの方はある程度事情を知って  
いるようだ。  
 今度彼に問い詰めてみようかと思いもしたが、どうせコンタクトを取ろうとしてもこの男の仲間連中に阻止される  
のがオチだろう。  
 
「茶番は終わりだな。可視可聴ゼロの最大展開で構わない、再改変の影響を受けないようにするんだ」  
「────────」  
 不可侵の障壁が輝き、直後に闇が空間を支配する。目を開けている筈なのに何一つ目視できない。光すら束縛する  
ブラックホールとはこのようなものだろうか、数分いるだけで精神に支障をきたしそうな文字通り無の空間だった。  
すぐ後ろにいる筈の男の気配すら感じ取れない。  
 音の無い世界でわたしが生きている証となる体内の音、ただそれだけが自分の中で響いている。微光も存在が許さ  
れぬこの空間ではどんなに目が闇に慣れようとも何も捉える事ができない。  
 自分が何処に存在しているのか、そもそも自分が本当に何処かに存在しているのかすら疑いたくなってくる。  
 負の思考は更なる負の思考へと繋がり、ほんの僅かだった焦燥感は二次曲線を描くように膨れ上がる。  
 常人が狂人に変質する感覚、心身ともにこれ以上ここにいるのは危険だと警告を投げてくる。頑なに固く閉じた口を  
少しでも開けたならばたちどころに悲痛と狂乱の叫びを上げてしまう事だろう。  
 そしてギリギリまで耐えていた壁が決壊して何かが弾け出しそうになった、その瞬間。  
 
 気がつけば足が地面を踏みしめている。  
 わたしは自分がいつの間にか夕陽落ちた誰そ彼時の空を何も考えずにただぼうと眺めている事に気が付いた。  
 
- * -  
「……結局は未来人たるキミが望んだ通り、いやここはキミに習って既定通りと言うべきか。僕は涼宮さんや  
キョンと相反する位置に立ち、その意味も正体も解らない力の争奪戦に巻き込まれてしまった、と言う訳だ」  
 
 コーヒーカップを皿に置き嘆息づく。わたしの溢した愚痴に満足したのか、藤原は邪心を感じるには些か稚拙な  
そんなちぐはぐな笑みを浮かべていた。  
「当然だ。僕たちの知る既に定められた事項を現地人になぞらせるのが僕の役目なんだからな」  
「先ほど語っていた誘拐劇とやらも、そしてこうして今残ってキョンを牽制したのも既定事項なのかい?」  
「言う必要は無い」  
「キミ以外の未来部員が僕に関わってきている可能性は?」  
「言う必要は無い。だが、あんたは今僕たちの監視下にある。それが全てだ」  
 なるほど。今の時点では藤原のバックは僕を捕まえておく必要があると言う訳だ。いずれ取り合う力を受ける  
器とするためか、それとも単なる捨て駒として使うためなのかは解らないが。  
 だが藤原、僕は一応キミを友人と認識している。だからこれだけはキミに言っておいてあげよう。  
 
「何だ」  
「キミの既定する未来は絶対ではない。キョン側にいる朝比奈さんの未来もまた然り。キミたちがこうして過去を  
訪れ奔走しているのが何よりの証拠だ。もっとも恐れるべき存在は確かにキミだが、だからといって対抗できない  
存在という訳でもない。その意味についてキミはもっと考えるべきだ、と」  
「僕の知る歴史の一文に抗うというのか? はっ、僕も甘く見られたものだな」  
 言葉とは裏腹に藤原は本当に楽しそうに笑い出す。  
「だがその事象すらも僕にとっては既定かもしれない。あんたは常にそのジレンマに悩まされるのさ。あんたには  
未来日記を知り得る術が無いのだからな」  
 そうだね。でも。  
 
「藤原、キミは何故七夕飾りの短冊に願い事を書くか知っているかい?」  
「は? 何の話だ?」  
 不意な質問に藤原にしては珍しくキョトンとした顔をする。その姿に少しだけ口を緩めると、私はなんでもない  
と軽く流した。  
 
「さてキミはこれからどうする? このまま僕とてデート気分でも味わうつもりなのかな」  
「僕の活動予定にそんな下らない内容は当然無い。だから帰る。勝手にゆっくりしていればいい」  
 そうかいと相槌を打ち、席を立つ藤原に軽く手を降ると彼を見送りだす。そのままゆっくりと手を上にあげて  
身体を伸ばし、ゆっくりと背もたれの上に手を置くと  
 
「飛びます。眼を閉じて」  
 
背中合わせの後部座席からわたしの手を取る彼女に従い、わたしは静かに眼を閉じた。  
 
- * -  
 わたしは自分がいつの間にか夕陽落ちた誰そ彼時の空を何も考えずにただぼうと眺めている事に気が付いた。  
 世界は相変わらずそのままの世界を形成した状態で描かれている。  
 全ては逢魔が時の見せた幻だったのだろうか。  
 
 北高へと向かう長く気だるい坂道、夢の終焉となった場所。あの男も天蓋領域も傍にはいない。  
 山間の壁に突撃したタクシーなどは何処にも存在せず、代わりにモスグリーンのバンが止まっているだけだ。  
 自分の格好に視線を落とせば黒を基調とした光陽園学院のブレザー姿ではなく、市外にある進学校の特徴ある  
セーラー服を纏っている。カバンも中の教材もただ一つだけの例外を除いて全て進学校に合わせたものだ。  
 その唯一つの例外である手帳に挟まっているシールコーティングされた栞を取り出す。白い折り紙で作られた  
その栞は、あの七夕の時にキョンから貰い受けた嘆願成就の短冊で作ったもの。何も願わない事こそがわたしの  
願いと考え、白紙であり続ける事を望みコーティングしたその栞は、だがキョンの家で七夕飾りの手伝い自体を  
行っていないこの世界では在らざる物のはずであった。  
 
 どうして。わたしは短冊に疑問をぶつけつつ裏返す。すると、自分の知っている短冊との相違点がそこにはあった。  
 何も望まぬ故に白紙を保っていたはずの短冊に、誰でもない自分自身の筆跡で、そこには一言だけ書かれていた。  
 
 ── cruel comin' ──『クルエル カミ』と。  
 
 クルエルカミ。意訳するなら『残酷とは、前触れもなく訪れる』といった感じだろうか。次々と世界が悪化して  
いく今のわたしにとってこれほど相応しい言葉もない。  
 彼らはこの結果をわたしに齎す存在なのだと最初から伝えていたのだ。自分たちは残酷を司る《狂神》なのだと。  
 だがそれが何故この存在しないはずの短冊に、しかもわたし自身の文字で書かれているのか。わたしには永遠に  
紐解けないであろう問題定義、それを記した短冊をしまいこむと、ただじっと空を仰いだ。  
 
 そういえばこの世界での橘さんとかはいったい何処で何をしているのだろう。  
 この世界の記憶の中で橘さんや古泉と言う人物に出会った事は一度も無い。願わくば、彼女たちぐらいはわたしが  
知る姿のままでいてもらいたいものだ。  
 そんな事を考えつつ空から地上に視線を戻したわたしは、何気に視界に入ったバンの後からすっと現れたツイン  
テールの少女と目が合った。  
 
「……え?」  
 現れた少女が誰なのか認識した途端、その人物の突然の登板にわたしは驚きの念を禁じ得なかった。  
 少女は左右から車両がやってこない事を確認すると道路を渡ってわたしに向かってくる。そしてわたしの前に  
立つと軽く頭を下げ、光陽園学院の教室でいつもわたしに向けられていた朗らかな笑顔に待望しつづけた感動と  
あの存在たちに似た昏い深みを乗せて挨拶してきた。  
「初めまして、佐々木さん」  
 彼女の言うとおり、この世界では初対面のはずなのに。  
 
「教えてもらえるかしら。あなたはわたしを知っているのね?」  
「もちろんです」  
 好感度を振りまく笑顔で橘さんが答える。これはどういう事なのか。まさか、彼女は。  
 
「そう。実はわたしもあなたの事なら多少なりとも知っているわ。言わせてもらっていいかしら? 橘京子さん」  
 わたしの言葉に橘さんは吃驚した表情を見せる。どうやらわたしが彼女の事を知っていたのは彼女にとって  
大きな予想外だったようだ。くっくっと小さく笑いつつわたしは更に饒舌に語る。  
「わたしの知るあなたはこんな人。たまたま同じ学び舎、同じクラスに席を置き、クラス会議でのわたしの発言で  
あなたはわたしに興味を持った。クラス委員を務め、みんなをまとめるよう快活に動き回り、風変わりな級友たちを  
まとめあげる文字通りクラスの中心人物として……」  
 わたしは静かに、でもわたし自身の熱意を込めて橘さんについて思い出せる限りの事を彼女自身に伝えていた。  
 夏祭りで二人で浴衣を着て歩いた事や、音展祭でのがんばりっぷり、テスト前の勉強会や特になんでもない日に  
街へと繰り出しぶらぶらと遊びまわった事など、とにかく思い出した端からの記憶を全部話していった。  
 それはまるで何かを確認する儀式であるかのように。  
 
 どれくらい経っただろう、わたしの話を黙って聞いていた橘さんは、だがその表情だけはわずかに翳らせていた。  
「……と、これがわたしの知る橘さんという人物像とプロフィール。違ったかしら?」  
 覚えている限りの全てを話し終え、わたしは橘さんにジャッジを求める。橘さんはわたしの知る姿のまま、  
ツインテールを風になびかせつつ彼女の現実を告げてきた。  
「もしもの話です。もしあたしが普通の人で、佐々木さんと同じ道を歩んでいたら、きっと今のあたしは佐々木  
さんの言う通りの人物になっていたと思うのです。そうなっていたらどれだけ幸せだったのかな。でも」  
 橘さんは自分に非がないにも関わらず頭を下げると、わたしの知る彼女らしからぬ寂しげな声で謝ってきた。  
 
「ごめんなさい。世界はあたしにその道を歩ませてくれなかった。あたしが佐々木さんの事を知っているのは、  
ある事情があるからなのです。ずっと見続けていたから。でも、それ以上の事はあたしに覚えはありません。  
 あたしは、初めてこうして佐々木さんと会話するのですから」  
「そう」  
 いったい何処で道を違えたのか。橘さんや涼宮さん、古泉、クラスメート、それにキョン。彼らとただ普通に  
在り続けられる楽園で心地よく流されて過ごす人生。そんな小さな幸福こそわたしが求め、白紙の短冊に託した  
願いだったはずだ。どう間違ってもこんな酔生夢死な現状ではない。  
 電気羊の夢と男が称した世界は、もう何処にも、無い。  
 改めて思い知らされた現実に意気銷沈する。そんなわたしを気遣ってか、橘さんはそっとわたしの手を包み込む。  
「佐々木さんが何を体験したのか、あたしにはわからない。だからあたしに言えるのはこれだけなのです」  
 とった手を小さく引き寄せわたしに近づくと、橘さんはわたしの耳元へ囁くように告げてきた。  
 
「電気羊の夢を取り戻す方法、教えてあげます」  
 
- * -  
 長い話になるから、とバンに案内されたわたしは後部座席に橘さんと二人きりで向かい合っている。  
 安全基準を超えたブラックシートが貼られた窓からは殆ど光が入らず、また運転席助手席側には仕切りが立て  
られており、暗い車内からでは何処を走っているかもわからない。  
 
「それは、あまりにも荒唐無稽な話です」  
 車両走行の騒音にかき消されない程度に、それでいて抑えた声で橘さんが切り出した。  
「佐々木さん。先ほども言いましたが、あたしは普通の人ではありません」  
「普通の人なんて人種は何処にもいないわ。確かに異質としか表現できない存在に出会った事もあるけれど」  
 あの男と黒の存在。あれらはどう見ても異常としか呼べない存在だ。おかげで今のわたしは普通人と異常者との  
境界線がかなり上方に対して修正されている。  
 だが橘さんはそんなわたしの心境すら解っているといった感じで言葉を続けてきた。  
「佐々木さんが誰と介したのかは大体予想できます。でも、それを踏まえた上でもあたしは、あたしたちは自分が  
普通の人だと言う事はできません。できないのです」  
「個ではなく集合単位で語ると言う事は、ドライバーの彼も含めてという事かしら」  
「彼は違います。でも、あたし以外にも存在します。そしてあたしたちと違う存在も、また」  
 静かに目を閉じるとゆっくりと息を吐き、次の言葉のタイミングを計る。バンが速度を落とし何処かへ停車した  
のを身体で感じると、橘さんははっきりと告げてきた。  
 
「あたしは、あたしたちは限定領域における異能力者。俗っぽく表現するなら、超能力者という存在です」  
 奇怪な男、奇妙な存在の次は奇特な元知人とは本当におそれいった。これは一体誰の陰謀なのか。わたしという  
存在に精神攻撃を仕掛け、常識という人の本質を崩壊させるのが狙いというならば十分功を奏している。  
 どうにも橘さんはわたしの反応を楽しみにしているらしい。わたしの知る彼女にもあった、何かを期待する時に  
ツインテールを跳ねさせる癖が出ている。  
 わたしは眉間に指を当て思考をフル回転させると、とりあえず彼女に質問を投げてみる事にした。  
「とりあえず二つほど質問させて。まず橘さんのいうそのリミテッドな超能力とは一体どういったものなのか。  
そしてもう一つ。何故それを橘さんは出会ったばかりのわたしに話すのか。教えてくれるのよね」  
「もちろんです。あたしはその為に、この時の為に三年もの間耐え忍んできたのですから」  
 
 橘さんから聞いた内容は確かに荒唐無稽な話だった。神と呼ぶに相応しき力の存在。それを手にした涼宮さんと  
涼宮さんによって生み出された超能力者たち。手にいれられなかったわたしとわたしが生み出した超能力者たち。  
その者の内面的な世界とそこに現れる世界へのストレス、破壊衝動の塊《神人》と世界存続の危機。  
力に群がる数多の組織。観察しに送り込まれた宇宙人。調査に訪れる未来人。エトセトラ、エトセトラ。  
 どれ一つをとったとしても使い古されたジュブナリア小説のネタぐらいにしかならない空想科学的な内容だが、  
あの存在を見た後ではあながち本当の事なのではと思えてくる。それに橘さんは本気で語っている。  
「橘さんたちはわたしが溜め込んだストレスの化身を倒し解消させるべく、わたしの内面世界でその破壊衝動の  
象徴たる巨人、《神人》を退治している乳酸菌のような人たちだと、そういう事かしら?」  
「いいえ。佐々木さんの閉鎖空間には《神人》は存在しません。佐々木さんは世界をあるがまま受け入れています。  
だから壊す存在も、その必要すらも無い。それこそ、あたしが佐々木さんの事を最も尊敬する部分」  
 裏表無い言葉だと言わんばかりに瞳を輝かせつつ、橘さんがそっと手を差し出してくる。  
「手をとって、眼を瞑ってください。佐々木さん自身を案内できるのかどうかは解りませんが、ご招待します。  
 ──あたし達の楽園へ」  
 
 もういいですよ、と合図されわたしは瞳を開ける。  
 何処かへと移動した訳ではなく先ほどと同じバンの中だったが、どうも様子がおかしい。  
 内装が、いや内装の問題じゃない。空気自体に淡い乳白色が加味されている。霧の中とはまた違った感じだ。  
 運転席を見ればそこに先ほどまで座っていたはずの運転手の姿がない。いや、それ以上に先ほどからノイズが  
全く聞こえてきていない。そばを走る車や吹きすさぶ風、地面を転がる砂利や遠くで嘶く鳥の声、普通の状態なら  
自然と聞こえてくるであろうはずの音が、眼を開けてから全く聞こえてこなかった。  
 それは詰まる所、音を出す存在がいないと言う事であり。  
 
「外に出てみませんか。ふふ、佐々木さんに佐々木さんの内面世界を案内するなんて、何か不思議な感じ」  
 橘さんはわたしの手を取ったまま軽く振る。握られてくる手の感覚がもう随分と前に思えてくるような、そんな  
懐かしい感覚に思わず微笑しながらわたしはその手を振り返した。  
「自己啓発って言うのはちょっと苦手で。だからそう言ってもらえると助かるわ、橘さん」  
 
 二人でバンを降りる。無機質な壁とコンクリート柱、そこに貼られたB1という階数と現在位置を示す記号。  
そして数多くの整理された車両。どうやらバンは何処かの屋内駐車場に停車していたようだ。  
 ただ電灯の明かりとは別に、空気が白みを帯びている雰囲気は伺える。それと満員御礼状態の駐車場の割に  
人の生活に携わる雑音が何一つ響いてこないのも相変わらずだった。  
「こちらです」  
 手を取り続ける橘さんに案内されて駐車場を出る。階段を登り文字通り外に出ると、そこはモノトーンな天空が  
支配する生命を感じない森閑とした世界だった。  
「ノーマンズ、いや人どころが何一つとして生きている物がいないノーライフランド……これがわたしの心中」  
「違います、佐々木さん。何もいない今のこの世界はまだ完成状態ではないのです。ノーライフランドではなく、  
まだ何も産まれていない、不純なきイノセントワールド」  
 橘さんは手を取り直してわたしの正面に立つと、愛おしさを加味した嫣然たる笑みを浮かべて表した。  
 
 
「ここは白紙の楽園。佐々木さんの望むがままに作り上げる世界。佐々木さん、あなたはどんな世界を望みますか」  
 
 
 短冊に願い事を書く行為のように、この真っ白い世界に望みを創り出す。  
 わたしの願い、それは。  
 
- * -  
 無人となった世界で背中合わせに手を取り合いつつわたしは尋ねる。  
「わたしの世界、キョンは居心地悪がっていたんじゃないかしら。橘さん」  
「彼は自分が涼宮さんを選んでいるから、この新たに提示された世界を受け入れられない。そんな感じでした」  
「そう」  
 思ったとおりの感想に一息つくと手を離して席を立つ。わたしに並ぶように橘さんも隣に立つと、わたし達は  
白紙の楽園へと進み出た。  
 
「後悔してない?」  
 わたしの隣を並び歩く『共犯者』に聞く。橘さんは真剣な眼差しで、でも口元を微笑ませて笑い返してきた。  
「さっきも言いませんでしたか? あたしは世界の安定を願っているって。宇宙人も未来人も超能力者も無い、  
みんながみんなただ普通の人として生きていける世界。これ以上の安定があるとは思えないです」  
 そしてわたしの手を取ると心の底から楽しそうな表情を浮かべ、  
「佐々木さんと浴衣を着てお祭りに行くの、すごい楽しみ」  
そんな年相応たる普通の感想をわたしに教えてくれた。  
 
 
 如何に詳細な歴史の教科書や人物伝記でも、その人間の行間までは読み取る事はできない。定期的な観測では  
僅か十数秒の空白の時間を取りこぼす事がある。そして何より、ここでの事象は未来から観測できない。  
 時間を完全に支配するだけの力では、わたしの深に秘めた内心まで完全に捉えることはできない。  
 敢えてキョンに対してすっとぼけた事を言い全く以って興味ないように振舞うのも、未来に気づかれぬように  
ここで全てを行うのも、全てはわたしの、わたしが短冊に書き記した願い事の為。  
 
 そうだ、キョン。わたしははこの望みの為ならば、喜んで狂える神となろう。この世界のキミにとってはただ  
残酷としか思えない結果となろうとも、わたしはわたしが望む結末を齎す事に躊躇う事はしない。  
 全てはわたしのエゴの為に。そしてそんなわたしと歩んでくれた、あの世界のキミの為に。  
 今の世界のキミは、今の世界を選んだ。だから今度はわたしが、あの世界のキミに訪ねよう。  
 無回答はなし、イエスかノーかで構わないから答えてほしい。  
 
 
 ──今まで僕と歩んできた高校生活を、キミは楽しいと思わなかったのかい?  
 
 
 そう、そこにはキミの出番なんて無い。  
 キミは彼女や彼を知る事も無く、彼女の気持ちに気づくことも無く、彼女と話す切っ掛けも無く。  
 ただ淡々とした日々が繰り返される中、わたしだけがキミと共に歩む事になるだろう。  
 倦怠感漂うサイクルに対しキミは人生なんてこんなものかと思うかもしれない。  
 それこそがわたしが望んだ最高にして最善なサイクルなのだと、キミはわたしの気持ち同様に気づくことも無く。  
 
 キミの出番は無い。  
 わたしが、キミの全てを取り上げてしまうから。  
 
 
 短冊へ願いを記すのは、織姫の機の上手さを羨望した娘達が天に祈ったのが起源だという。  
 わたしも羨望した願いをここに記そう。  
 
 
 電気羊の夢を、取り戻そう。  
 
 
- 了 -  
 

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