[三人目の女神]  
 
こりゃあ一体何の冗談だ?  
周囲には跳び上がって喜ぶヤツ、地面にうずくまるヤツ、嬉しくて泣きだすヤツ、悲しくて以下同文なヤツ、えとせとらえとせとら、皆思い思いに感情表現を爆発させていた。  
長篠の戦後の戦国時代かバブル全盛期並に動乱の時代が今まさにこの時であるというのに、俺達SOS団の面々は一人残らず教科書通りに硬直していた。  
   
もう一回言う。だから、聞いてくれ。できれば、答えをくれ。  
 
これは何の冗談だ?  
 
風は、桜を静かに揺らしていた。  
 
 
「SOS Dragon Project」  
あれは桜の咲き、散っていった一年前のこの季節。  
朝比奈さんが東京のお嬢様大学への進学を決め、全校生徒に惜しまれ卒業した(誇張ではない、たぶん)、ちょうどその日ではなかっただろうか。  
緊急集会といってハルヒはSOS団員を止せばいいのに強制招集し、部室の席に着かせた後大仰な仕草で模造紙をホワイトボードに張り付けた。  
「キョン、これを読み上げてみなさい」  
俺は言われたとおりに、バカでかい模造紙の赤字を読んでやった。  
「そう。もしアンタがこの音読に失敗しようもんならどうしようかと本気で心配してたわ」  
あのな、いくら俺とはいえやっていい間違いとやっちゃいけない間違いってもんがあるんだよ。こんなもん今時小学生でも読めるわ、と言おうとしたが今年中学生になったばかりの自分の妹のことを思い出し封印することにした。  
「それで、涼宮さん。このプロジェクトの目的は一体何なのでしょうか。」  
髪をかきあげ古泉が訊く。相変わらず無駄にスタイリッシュだな。  
しかし、それは俺も訊きたいことだ。とうとう俺たちも三年、いやでも受験の文字の二文字が頭に浮かぶ頃合いである。  
そんな時期にこの団長様はどんな手間暇のかかることをしてくれようというのか、是非とも確認しておきたいところだ。  
「フフフ、団員諸君!」  
待ってましたとばかりにハルヒは椅子の上に片足を乗せ、  
「今年、我がSOS団は一致団結して!」  
人差し指を立てた手を東側の壁へ向け、  
 
「T大に合格しますっ!!!!!!!!!!!!!!」  
 
高らかに宣言し、そのころの俺はというと長門の注いでくれた茶を吹き出そうかどうか考えていた。ちなみにT大ってのは、都にある例の赤門のアレな。  
別に伏せる必要もないんだろうが、まあ念のためということで。それに今はそんなことは問題ではない。  
おい誰か、こいつの頬を血が出るまで引っ張ってやってここが夢でないことを気付かせてやれ。  
「おい、ハル……」  
 
「唐突にどうしたのですか、涼宮さん」  
どうせだれも突っ込まないのだから、俺がいくしかないのだろう、と思い口を開いた俺を制して言いきったのは、涼宮ハルヒ専属のイエスマン古泉一樹だった。  
普段のニヤケ面は崩していないものの、一割程度は疑念の色が浮かんでいるのが分かる。  
俺は読心術で一財産気付けるかもしれないな。それもひとえに長門のおかげだ、と思い窓際の宇宙人に目を向ける。  
そんな本どこで出版されているんだ、というような分厚い本を手にした宇宙人は、これ又意外なことにハルヒの顔を注視している。  
普段ハルヒの言うことにまったく異を挟まない二人の感度良好な反応に、俺の突っ込みは完全に無効化されてしまった。  
 
「まず、みくるちゃんが東京に行っちゃったじゃない?まあ今年はしょうがないとして、再びSOS団の活動を日常的に行うためにはあたしたちは近くに住む必要があるわ!」  
軽く咳払いをして  
「そしてどうせ上京するというのなら、この狭い日本でも一応はトップと呼ばれているT大に合格してみたいじゃない!」  
野郎、いったいいつのドラマに感化されてやがんだ。それでそのタイトルか。  
「SOS団全員がT大に合格したとなれば、これは我らの威光を存分に知らしめる起爆剤になるわよ!」  
まぁ、そりゃそうだろう。  
しかしだな、  
「なあ、ハルヒ」  
改めて問い正す。  
「お前は本当に全員がT大に合格できるとでも思ってんのか?」  
仮にだ、もし仮に全員でT大を受けたとしよう。  
まず長門は問答無用でパスだ。あいつに解けない問題をT大の教授ごときが作れるはずもない。つーか、長門なら世界七不思議も六つくらいは答えをすぐに出してくれそうだ。  
ハルヒもおそらくは受かるだろう。例の変態パワーはこの頃になるとほとんど消えていたが、有言実行っぷりは相変わらず太鼓判を押された折り紙つきだ。  
古泉はさすがに前述の二人には劣るだろうが、それくらいの素質はありそうな気もする。  
これで四人中三人は見込みありとなる。しかし、四人目が最大最後最強最悪に問題なのだ。  
 
俺が受かるわけがなかろう。  
 
二年時はハルヒのやや迷惑ながらも懸命な教えにより学年で中の中くらいの成績は維持できた。  
しかし、ここが日本最高ランクの進学高というのならともかく、なんちゃって進学高県立北高である以上、真ん中の成績のヤツなんかは中堅の私立に入れればよしといったところだ。  
そんな奴がT大を受験するなど、首都高をラジオフライヤーで走るくらいに身の程知らずだ。  
以上のような内容を最小限に要約してハルヒに告げると  
「そんなことアンタに言われるまでもなくわかってるわよ」  
とのこと。  
わかってんならさっさと撤回しろ。無駄な議論も嫌いじゃないが、今回のは度が過ぎている。  
「あたしに有希、古泉君は確実に合格するわよ。だからこのプロジェクトの要旨は、あんたを合格させることなの!」  
カチューシャから伸びた前髪が風に身を躍らせる。窓から見える空はどこまでも青い。  
「あたしたち三人で一年間の内にアンタをしごきにしごいてやるから、覚悟しなさい!!」  
勝手にしろよ、もう。  
カカカとマンガのように高笑いするハルヒをよそに、俺は溜息を吐き、古泉は頂き物のおはぎの中に針が入っていたような顔をし、長門の手は止まったままだった。  
カーテンが、パタパタと鳴っていた。  
 
どうせ言って聞くような奴じゃないし、目標はともあれこの三人に勉強を教わるのならまあ悪いことにはならないだろうと思い軽い気持ちで始めた「SOS Dragon Project」  
それははっきりいって、地獄のような厳しさであった。  
ハルヒの腕章はいつのまにか「カリスマ講師」となっており、カリスマ講師完全監修のもと作成されたプログラムに沿って俺は勉強させられることとなったのだが、きついなんてもんじゃない。  
中世ヨーロッパにはこんな拷問があったと聞かされればああそうですかと思わず納得してしまうような、そんなハードさであった。  
プログラムもさることながら、三人の教え方にも辟易した。そんな立場じゃないことは百も承知だが。  
 
「ハルヒ、出来たぞ」  
「……バッカバカ!何でこんな問題もできないのよ!ここなんて簡単な計算ミスじゃない!アンタよんかけるごも解かんないの?!」  
 
「古泉、出来たぞ」  
「……残念ですが、ペーパーテストというごく限られた表面的な能力しか測ることのできない分野では、あなたの深淵から湧き上がる読解は理解されないのです。すみません」  
   
「長門、出来たぞ」  
「問五。関係副詞」  
 
棍棒のハルヒ。真綿の小泉。斬鉄剣の長門。  
始末屋稼業でも始められそうだな。  
 
しかしなんだかんだ言いつつもハルヒ、古泉、長門の講師陣は非常に有能であったらしい。  
夏休み前の試験ではSOS団全員でトップを固める(俺もいるぞ)という快挙を成し遂げ、俺は谷口から絶縁を宣言された。どうでもいいが。  
そして灼熱の夏期講習をくぐり抜け、秋の終りの全国模試では俺の成績はT大に受験してもギリギリ落ちるくらいのところまで上昇した。  
ちなみに俺を除く三人はすでに絶対安全圏にいる。  
やっぱすげえわ、こいつら。  
 
夏休みの時、俺は古泉に俺の世話なんかしてて大丈夫なのかと聞いてみたことがあった。  
するとヤツは  
「教えるということは、その三倍を理解していないと上手にできないものとも言われています。僕にとっても良い勉強になって、助かっています」  
とにこやかに返した。  
ふむ、とりあえず感謝しとこう。  
朝比奈さんにはこの計画は伏せてある。春に全員で上京して驚かそうという目論見らしい。  
寒風吹きすさぶ冬、俺はこのドッキリが成功すればいいなと、半ば本気で思うようになっていた。  
 
センター試験も誰一人足切りにかかることなく通過し、俺達は俺の最終調整に入っていた。  
今年からT大は後期試験が無くなってしまったため、これに落ちると私立を受験していない俺達は問答無用で浪人となる。  
しかしまあ、一縷の望みに賭けることができるほどには、俺も成長したということさ。  
 
部室での休憩時間、俺は長門の淹れてくれたお茶を片手にひとり、窓の外を眺めていた。  
降りしきる雨が校庭を汚す。  
ノックの音。  
「どうぞ」  
「失礼します」  
古泉だった。さわやかスマイルはデフォルトだが、ややくたびれた様子がうかがえる。  
古泉はそのまま席に腰を下ろす。  
「なあ」  
顔を見ずに呼びかける。  
「どうか、しましたか?」  
「どうして、ハルヒはいきなりあんなこと言い出したんだろうな」  
「というと、このプロジェクトですか?」  
古泉は姿勢を直した。  
「ああ。アイツは受験なんて興味ないと思ってたんだが。朝比奈さんうんぬんは別として」  
「正直なところ、わかりません。僕としてもそれは気掛かりだったのですが」  
俺はある程度予想していた答えを聞き、なんとなく安心した。なんでだろうか。  
「まあ、結果としてどうやら全員が受験することは決定したようですので。結果オーライ、というのもたまにはいいんじゃないですか?」  
コイツにしては楽観的な事を言う。  
しかし、それは俺も同じ思いだ。  
 
雨垂が窓を伝い、落ちる。  
「みんな、つうか俺ががんばんなきゃだけど、受かればいいよな」  
「きっと、大丈夫ですよ」  
俺と古泉は、いや、俺達は皆楽観的だった。  
 
楽観的過ぎた。  
 
遠雷が、鳴っていた。  
 
 
本番当日、俺達は赤門の前で円陣を組んでいた。  
「さあキョン!!あたしたちへの心配はファミレスのレジに売っているおもちゃ並に無用だから、あたしたちの教えた全てを吐き出してきなさい!!!」  
「おおっ!!」  
「いけますよ」  
「あなたを、信じる」  
 
「みんな、今まで言えなくて申し訳なかったけど、本当に、ありがとな」  
「くぅー!!あんたにしては殊勝な心がけじゃないっ!!やっと団員としての心構えがなってきたようねっ!!」  
「いえいえ、あなたもよく、頑張ってくれました。僕の助力など、微々たるものですよ」  
「どういたしまして」  
 
「それじゃ!いくわよ!!えいっ!」  
「「えいっ!!」」  
「「「おおおーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!」」」  
「おお」  
「有希っ、ワンテンポ遅いっ!もう一回!!」  
 
試験終了。  
俺は数学にやや不安が残ったものの、概ねは手ごたえを感じていた。  
これはひょっとするとひょっとするかもしれない、というほどの。  
三人は、まあ言うまでもなく良好そうだった。  
美しい夕日を浴びながら、俺達は赤門を後にした。  
伸びた影が、徐々に薄らいでいった。  
 
三月、俺達は卒業式を終え(ハルヒが歴代学校史に残るような珍プレーをしたのはまた別の話だ。担任の岡部は三年間の最後まであいつにかき乱されてまったく同情に値する)、試験結果を見に再び東京へと飛んだ。  
 
かつてない緊張感である。  
赤門は受験生やその保護者、そして予備校関係者でごった返していた。ええい、縁起の悪い。  
俺の受験番号はかなり最初の方で、他の三人はいずれも最後の方だった。  
人の波をかき分けかき分け、掲示板へと直行する。  
まだ掲示板には白い布が被せられていた。  
しかし、それもじきに剥がされる。  
俺は三人の顔を見やった。  
 
ハルヒ。  
心なしか緊張しているようである。自分の結果についてではないだろう。  
 
古泉。  
いつもよりかなり真剣な表情である。自分の結果についてではない。  
 
長門。  
かわらん。  
 
心から、一緒にいたいと思った。  
誰にも言わない。だけど、誰にも何も言わせない。  
俺は、まだこいつらと朝比奈さんと、SOS団の一員としてとしてバカをやりたかった。  
 
布がはじき飛ばされる。桜が舞う。  
全来訪者がドングリ眼で喰らいつく。  
前方の頭、あたま、アタマをなんとかかわし、俺もそれにならった。  
 
そして、物語は冒頭に戻る。  
 
 
こりゃあ一体何の冗談だ?  
周囲には跳び上がって喜ぶヤツ、地面にうずくまるヤツ、嬉しくて泣きだすヤツ、悲しくて以下同文なヤツ、えとせとらえとせとら、皆思い思いに感情表現を爆発させていた。  
長篠の戦後の戦国時代かバブル全盛期並に動乱の時代が今まさにこの時であるというのに、俺達SOS団の面々は一人残らず教科書通りに硬直していた。  
   
もう一回言う。だから、聞いてくれ。できれば、答えをくれ。  
 
これは何の冗談だ?  
 
 
俺の番号しか、なかった。  
もう一回言う。だから、聞いてくれ。できれば、否定してくれ。  
 
俺の番号しか、なかった。  
 
最初は嬉しかったさ。それこそ泣きそうにな。にじむ視界を何とか覚まし後半へ目をやったが、そこに幾度となく暗唱した仲間たちの番号は存在しなかった。  
何を疑うかって?まずは自分の記憶だろう。  
俺は鞄から手帳を取り出した。ちくしょう、手が笑ってやがる。  
なかなか所定のページを開けず焦りばかりが募る。  
ひらいた。  
間違いない。俺の記憶は間違いではなかった。  
手帳が違うんじゃないかって?  
それももちろん疑ったが、さすがにそこまで間抜けなほど俺も失礼じゃない。はず。  
次に大学側だ。あいつら採点ミス、或いは掲示ミスでもやらかしたんだろう。そうに決まっている。  
しかしこの場では確認のしようもない。  
最後に自分の脳を疑っていると、聞きなれた、だが聞いたこともない声が俺の耳を貫いた。  
「キョン!!!あんた、やったじゃないっ!!!おめでとうっ!!!!!」  
誰かがここまで嬉しそうな声というものを、俺は聞いたことがない。  
「やりましたねっ!!」  
これも。  
「おめでとう」  
これも。  
桜の花びらが頬を撫ぜ、おちてゆく。  
 
「どうして……?」  
多分俺は崩れ落ちた。アスファルトの感触と小石が手のひらを突き刺す。膝がズキズキと痛む。  
肩が潰れる。  
どうして、俺が受かってんだ?  
どうして、お前らが受かってないんだ?  
どうして、そんなに手放しで喜べるんだ……?  
どうして、どうして、どうしてどうしてどうして……?  
 
もはやまともな思考の働かなくなった脳とは別に、俺の神経はある「感覚」を捉えていた。  
視線。  
斜め後ろからの、誰かの、柔らかい視線。  
視線が、音をたてて笑っていた。  
 
 
なんとか三人は俺を落ち着かせ、ホテルへと戻った。  
「すまない、取り乱しちまって……みんなが、一番つらいのにな」  
うつむく俺を、ハルヒはやさしくなだめてくれた。  
「いいのよ、キョン。そりゃ、あんただけ受かるってのは予想外だったけど、そもそもプロジェクトの目的は『キョンをT大に受からせる』だったんだから。成功と言えば成功よ?」  
「でも、俺に時間を割きすぎたせいでみんなが……」  
「そのリスクも背負っての決断だったから、非はあたしにあるわ。……有希や古泉君には、申し訳ないことをしちゃったけど……ごめん」  
ハルヒの申し訳なさそうな姿など二度とお目にかかれないものだと思うが、その時に俺はそんな余裕がなかった。  
「とんでもない。彼が合格してくれただけでも、SOS団の誇りですよ。ダメだったものは、しょうがないことです」  
晴やかに古泉が語る。  
「あなたの合格はわたしに喜びというものをもたらしている。それで、じゅうぶん」  
今までにない高熱、アイスが溶けるくらいの温度を帯びた声で、長門が言ってくれる。  
俺は顔を伏せたまま、くぐもった声で聞いた。  
「どうして、みんな、そんなに、嬉しそうなんだ……?」  
何とも言えない空気が辺りを包む。  
俺は三人がどんな顔をしているか見たかったが、ちょうど間の悪いことに俺の腕の上でプレー中のゲームは九回裏の二死満塁、逆転サヨナラのチャンスだ。  
要するに、腕から目が離せない。  
「あんたが「「あなたが「「「仲間だから」」」」ですよ」じゃない」  
 
ああ、すまん。  
ダメだ、コレ。  
俺の目がクライマックスに釘付けになっている間、背中と頭にそれぞれ三本ずつの腕の感触があった。  
 
 
結果発表から上京するまでの間のことを、俺はよく憶えていない。  
ハルヒは俺を元気づけようと卒業記念や合格記念などいろいろな行事を催してくれた。  
三人は浪人して来年もう一度受験しなおすらしい。  
「あんたのことだから留年して結局あたしたちとまた一年生やるかもね!」とハルヒはあまり笑えないジョークをくれ、しかし俺はなんとか悪態をついてみせた。  
春休みに戻ってきた朝比奈さんとも宴会をした。  
ハルヒは全員で上京できなかったことを詫び、朝比奈さんはなんとも気まずそうに笑っていた様な気がする。  
東京でのアパートも決まり、俺が上京する前夜に送別会が長門の家で開かれた。  
みんな、妙に静かだったような気もするが、気のせいかもしれない。  
翌日、俺の乗る新幹線は定刻どおりに発車した。  
駅にはSOS団と鶴屋さん、そして家族が来てくれていた。  
表情は、憶えていない。  
 
 
新しい寝床に山と積まれた段ボールを何とか片付け、俺は布団の上に寝そべった。  
明日は入学式。晴れて俺もT大生である。  
気分は晴れないが。  
 
 
翌朝、空には真っ黒な雲がひしめき合っていた。天気予報によると午後から雨らしい。  
式場には着慣れないスーツを身にまとった新入学生の大安売り会場だった。無論俺もその商品の一部である。  
下ろしたばっかりの革靴でぎこちなく中に入る。  
途中で大小様々なパンフレットを配られ、たちまち俺のカバンは小銭を入れすぎて豚のようになった財布のようになった。  
無数に並ぶパイプ椅子の中から適当な所に座る。  
ぼんやり前を見ると、ぞろぞろと新入生たちが席を探して彷徨っている。俺の右隣りにはいかにもT大生、というようなカタブツっぽいヤツが座っていたが、左は空席。  
「適当な」席を取ったのだからそこもすぐに埋まりそうなもんだと思っていたが、まるで誰も気づいていないかのように素通りしていく。  
ネガティブになっていた俺は、自分が避けられているんじゃないかといらん心配をしていた。  
ステージ上に目をやると、応援部と思しき学ランの男が司会者と打ち合わせをしている。なんか催すんだろう。  
 
――この程度の操作なら、簡単なのに  
 
しきりに腕を振り回すステージ上の学ランをボーっと見ていた俺は、突如聞こえたため息混じりの声により現実へと誘われた。  
左から、ギシリという音。  
こういう場面で隣に誰か座ったら、絶対顔を見るだろ?だから俺もそうする。  
ビーズクッションのように柔らかな笑み。  
あまり長いとは言えない髪の毛。  
春に買ったばかりのタイトスカートスーツに着られている体。  
 
「やあキョン、久しぶりだね。僕のこと、憶えてくれているかい?」  
そして、変わらない口調。  
ああ、もちろん、忘れられるはずがない。中三の時の親友を、そして、高二の時の事件の当事者を。  
「佐々木……」  
まさかこんなところで知人に遭遇するとは思わなかった。しかもとびっきりのいわくつきのヤツと。  
「相変わらずずいぶんな言い草だね。知らないものばかりの中で縮こまっていたところに、これはこれはメシアがいたものだと思っていたのに」  
むう。それは一理あるな。  
「まあ僕としては言っておきたいことや聞いておきたいことがあるんだが、そろそろ壇上の彼が何か言いたそうにしているから後にするよ」  
「ああ、そうだな」  
学ランの男は、直前まで練習していた式辞を朗読し始めた。  
 
 
「まずキョン。なぜ君はここを受験しようと思ったんだい?いや、なんの他意もない。ただただ純粋な興味さ」  
入学式終了後、俺と佐々木は近場の喫茶店に昼飯がてらもぐりこんだ。  
「ハルヒが、」  
少しばかり胸が痛む。  
「高三の春にSOS団全員でここに合格しようって言いだして、それに乗っからされたんだ」  
それを聞いた佐々木は我が意を得たりとばかりにニヤリとして  
「やはり、涼宮さんが言い出したことなんだね?」  
佐々木はお冷を一口含んで、続けた。  
「そんなことだろうとは思っていたよ。君が自分から高校教育という偏狭な枠組みに挑んでいくとは、到底思えないからね。それで、涼宮さんや、古泉さんに長門さんは一緒じゃないのかい?」  
このとき、少しばかりの違和感を感じた。  
俺の知っている佐々木――高校二年の時までの佐々木なら、ちょっと考えれば自明である事柄をわざわざ聞いてくることは稀だった。  
そんなことがあったとしてもそれは佐々木流の皮肉であり、この場面で皮肉を持ってくるのもらしくないっちゃない。センスが落ちたか?  
「受かったのは俺だけだ。なぜかは知らんが」  
できるだけ平坦な声で、主観を挟まずに言った。  
すると佐々木は火のあるところから煙がたったのを見たような顔つきで  
「そうか。それは残念だな。過去のことの一切を水に流していただいて、健全なるお付き合いをさせていただきたかったのだが」  
といった。  
ベートーヴェンだかバッハだかのジャズアレンジのBGMが大きくなったような気がした。  
「ところで、佐々木」  
「なんだい?」  
もうとっくに料理は運ばれてきていたのだが、二人ともまだ手をつけていない。  
訊きたいこと、言いたいことはこっちにも山ほどあった。  
俺だけ受かったのは不自然だよなとか、どうしてお前はここを受けたんだとか、学部はどこだとか、意外とスーツが似合うなとか、キリもない。  
ただ、なぜだろう。その全ての言葉の現実感が消えうせて、訊いても訊かなくても一緒のような、言っても言わなくても一緒のような、そんな気分に落とされた。  
佐々木はいつからそんな頽廃的なオーラを出すようになったんだろうか。  
いや、それは俺だな。最近気が滅入っててどうにもいけない。  
相手への責任転嫁を自分自身でたしなめていると  
「キョン?」  
佐々木がミッキーマウスを見るような目つきで  
「呼びかけたなら、続けてもらってもいいかな?何を言われるのかと思考したまま中座させられるのは中々に疲れることなんだ」  
「あ、ああ、すまない」  
そして俺は比較的に死ぬほどどうでもいい話題を振り、佐々木の哲学的見解による反撃を受け、やっと懐かしい心持を味わえた。  
俺はなんとか自分を奮い立たせようと慣れないボケに挑戦してみせた。  
すると佐々木はハハハと腹を押さえて笑い、  
「キョン、キミは僕を笑い死なす気かい?あまりにも初々しくて涙が出るよ」  
そのとき、絶対的なズレ。地元の大地震の時テレビで見た高速道路の断絶のような。  
自分でもそれほど面白くないと思ってたし、佐々木を笑い殺すにしても致死量には遠く及ばない。  
だがズレは、そんな「深い」ところにはない。  
 
俺のナポリタンは冷えて固まっていた。  
 
 
「……であるからして、雨粒は重力で落ちてくるわけではないんだ。もし雨が自由落下で落ちてきているならば、僕たちは今頃ズタズタになっているよ」  
予報通り昼過ぎからぽつぽつと雨が降り出し、喫茶店を出た午後三時ごろにはかなりの勢いになった。傘持ってきててよかったな。  
俺の隣の博識少女は雨の降る仕組みをさっきからトクトクと説明している。指をくるくるとまわし、かなりご機嫌のようだ。  
しかし、俺はというとそんな話のことは興味の外、古い言い方をすればout of 眼中 だった。  
「ではなぜ雨は降るのに雲は落ちてこないのかというと、簡単にいえば……」  
「なぁ」  
時限爆弾から伸びた赤と青のコードを二本とも切りに行くような心境で、俺は話を遮る。  
ヤツは閉じていた目を開いてこちらを見た。中断されて少々不本意そうである。  
「どうしたんだいキョン、僕の話はつまらなかったかな?」  
つまるかつまらないかと聞かれればつまる。今日の話は、ちゃんと聞いていればかなり面白そうな部類ではあったしな。  
ただ、今ばかりはちょっと事情が別だ。  
俺はビニール傘を背中側に傾け、立ち止まって正面から目を見た。  
 
心臓が血液を送り続けている。  
肺が呼吸ごとに酸素と二酸化炭素を交換している。  
二人の間の水たまりがせわしなく揺れる。  
 
「おまえ、誰だ?」  
 
さっきまで一緒に飯を食って談笑していた相手に言うセリフではないことはわかりきっている。  
もしこれが日常なら、俺は「そいつ」に悪い冗談だと猫のえずいた様な声で笑われるだけであり、もしこれが普通の友人なら多少怒りも気味悪がりもするだろう。  
しかし、俺は一度仮にも世界を救い、二本に分れた世界を走りぬけ、三日間知っているけど何かが違う奴らとすごし、数え切れない八月を繰り返した。  
もう、何が起こっても不思議ではない。驚きはするけどな。  
そんなできれば御免こうむりたい経験値の積み重ねにより、危険信号の点灯はハッキリと見えるようになり。  
間違いなく赤信号だった。  
 
 
俺の目の前の「そいつ」はあっはっはと笑いだした。雨の音と妙に絡む。  
そしてひとしきりオーケストラの演奏を終えた後、さんざんヒントを与えられてようやく答えを出したできの悪い生徒を見る女教師のような目でこちらを見た。  
「どうして、気付いたの?」  
よんかけるごはなに?とでも聞くような声で尋ねる。  
にじゅうだ、バカ野郎。  
「いろいろあったんだが、まあ一番は笑いかたかな。あいつはそんな豪放には笑わない」  
「正解。ま、あれだけ強調したんだからわかって当然よ」  
いつのまにか「そいつ」は女口調になっていた。しかし新鮮さを感じている余裕はない。  
「そろそろ正体を教えてもらえねえか。いつまでもモノローグで『そいつ』呼ばわりじゃ心が痛む」  
「そいつ」はニヤニヤと、まるで普段の佐々木からは想像もできない表情で  
「肉体という点においては、あなたの知る佐々木さんで間違いないわ。ただ、心は別物ね」  
だったらとっととその体から出て行ってぬいぐるみにでも入り込んでやがれ。見世物にすれば二人分の学費くらいは稼げそうだ。  
「つれないのね、いつも一緒にいる関係だったというのに」  
お前のような奴は知らん。  
「それじゃ、大ヒントあげるね?」  
「そいつ」はエレベーターのボタンでも押すかのように人差し指を街路樹へと向けた。  
 
茶色の枝からピンクの靄が滲むように。  
音もなく、目の前で、銀杏から桜が咲いた。  
花びらが雨に連れられアスファルトへ着陸してゆく。  
 
どうしようもない既視感。  
今は春だが、銀杏から桜が咲くはずがない。  
秋に桜が咲くように。  
 
こんなすごい手品を見せられたのだからなんか反応してやらないと失礼だとは思ったが、生憎俺はこの時日本語を忘れていた。不明瞭な母音が口から漏れる。雨に消される。  
「……、に、いち、ハイ時間切れ。ホントは自分で気づいてもらいたかったんだけど、もう待ちきれないわ」  
人の同意も得ずにカウントダウンするな。  
「そいつ」は桜になってしまった銀杏から人差し指を自分の顔へ向け、  
「長門有希が言うには『進化の可能性』、朝比奈みくるによると『時間の歪み』、古泉一樹によると『神』、でも」  
宇治拾遺物語を朗読するように淡々と。そして俺を指差し  
「あなたにとってはどうなのかしら、キョン?」  
割と佐々木に近い微笑を造った。  
革靴に雨が浸み込んでいた。  
 
 
ハルヒの持っていた願望をかなえる力は高校二年の春以降弱まる一方であり、同時に古泉の出動回数も目に見えて減っていた。  
それを俺は喜ばしく思いつつ、朝比奈さんや長門が所属に戻ったら嫌だとか多少不安になりつつ、時を過ごしていた。  
ところで急な話だが、質量保存の法則って知ってるか?いや、あまり深い話にはしない。ぼろが出る。  
まあ要するに、力は消滅することはないってことだ。  
消えたと思ったエネルギーは熱エネルギーとなって宇宙に放出されてるだけで、無くなってはいないとか、そういう話。  
ではここで問題。  
ハルヒから消えた変態エネルギーは、どこへ行ってしまったのでしょうか?  
知るか。  
質問自体思いつきもしなかった。  
そして今、問いと答えは一緒くたになって提供された。問題集なら失敗作だな。  
問題兼解答は俺の前で傘を揺らしている。  
「あの、力……?」  
「そ。だいたい力が意思をもってないなんて、とんだ決め付けよ。人権侵害も甚だしいわ」  
何が起きても不思議じゃないが、驚きはする。当然だろ?  
「涼宮さんはちょっと自我が強すぎて、あたしの出る余地なんか全くなかった。それで、願望をかなえる力だけを利用された。面白くないと言えば、面白くなかったわね」  
タイトスカートから伸びた足で水たまりを撫でる。  
「その願望ってのも、ほとんどあなた関連のものばかり。まったく、こっちの気も知らないで」  
しつこいようだが、知るか。  
「でも、時が経つにつれて涼宮さんはわたしの力を忘れ始めた。行使しなくてもあなたと居られるようになったから。そして、わたしの鎖は緩んだ」  
コイツ、俺がちゃんと聞いているとでも思ってるのか?勝手に進めやがって。  
話半分には聞いてやっているが。  
「ターニングポイントは、想像つくでしょ?」  
それは俺に答えを求めてんのか。めんどくさい。  
「高二の春か?」  
投げ捨てるように言ってやったが、「そいつ」は満足げに跳びはねた。水たまりが砕け地面をたたくヒールの音が雨の中響く。  
佐々木の格好でやるそれは、普段とのあまりのギャップに思わず笑いそうにもなった。  
 
「その通り。あのパラレルデイズの後、わたしは佐々木さんからの熱烈なオファーを受けた。涼宮さんの拘束は緩みっぱなしだったから、随分と簡単に移動させられたわね」  
「熱烈な」という形容詞が三本の指に入るくらい似合わなさそうな奴だが、佐々木は。  
「佐々木は、あいつは変哲な力は必要ないと言っていたはずだ」  
「女心と秋の空、てとこかな?わたしが佐々木さんに移住する前のことは確かめようがないけど」  
「そいつ」は小難しい喩えを使わないから佐々木より解読は簡単だが、理解が今一つ追いつけない。  
「それで佐々木さんのとこに移ったはいいんだけど、彼女の願望はまたしてもあなたに関するもの。ホント、あなたって幸せ者ね。二人しかいない女神の両方に愛されるなんて」  
なにやら爆弾発言を続けていく。これは止めた方がいいだろう、俺のためにも。  
「あの二人は恋愛感情を精神病と見なしているような奴らだぞ?そんなワケあるか」  
昔似た様な事を古泉に言った気がするな。  
「だったらその精神病に二人してかかっちゃったんでしょ。あなたもいい加減認めなさいよ」  
ジト目で俺を睨む。表情豊かな佐々木も、割といいなとかは思ってないぞ。  
「ただわたしにとってのラッキーだったことはね」  
佐々木っぽい微笑に顔を戻して  
「佐々木さんの自我がそれほど強くなかったこと。あなた以外への執着が弱かったこと。だから、私はこうやって表に出て来れる。あなたと話せる。」  
傘をクルクルと回しながら告げる。雨が横なぎにとんでいく。  
 
「そいつ」はしばらくそうしていたが、突然俺の目を見て  
「なんであなたしか合格しなかったか、わかる?」  
俺の逆鱗に触れた。  
俺は佐々木の体に掴みかかった。傘は後方に打ち捨てていた。  
「おまえが、なにかしたのか?」  
雨の音が消える。  
三人の顔が浮かんでは消えてゆく。指はぎりぎりと回転する。  
 
「痛いよ」  
 
不意に聞こえた、弱々しい声。  
いつもの佐々木なら消して吐かないような、悲しそうな声。  
俺は弾かれたように佐々木から離れた。  
二人の乱れた呼吸音が不規則に重なる。  
雨は再び聴覚の捉えるところとなる。  
 
 
先に口を開いたのは向こうだった。  
「そもそも全員が合格するだけの力はあった。しかし受験のその前後に佐々木さんは最後にして最大のオファーを行ったの。そして涼宮さんは残った一回分の力をあなたの合格へ使い、自分は千年に一度くらいのミスを犯した」  
どうしてそんなことが言える。  
「そいつ」は、それはあたしの一部が涼宮さんにのこってたから、と返して、こう続けた。  
「長門さんと古泉君は、涼宮さんが落ちたことを知ったそれぞれの上層部が観察を続けさせるため、ってところね」  
「それじゃ、佐々木が」  
力を奪ったからか、と言おうと思ったのだが、「そいつ」は申し訳なさそうな口調で割り込んできた。  
俺も、そんなこと言いたくはなかったから助かった。  
「佐々木さんを責めないで。彼女は、あなたと居たいと思っただけだから」  
 
強くなってきた雨のもと真新しいスーツをお互いずぶ濡れにしながら、現実離れした話は続く。  
「お前は、なんなんだ。何がしたいんだ」  
「とりあえずあなたと佐々木さんをくっつけちゃって、そのあとは、そうね。世界征服でもしちゃおうかしら」  
冗談だろ?  
「マジ。前半も後半もえらくマジ。やっと自由に力を使えるようになったんだから、それぐらいのことはやらせてもらうわよ?」  
コイツ、ハルヒよりもエキセントリックな思考を持ち合わせてやがる。世界征服なんて今どきショッカーすら狙ってないかもしらん。  
「そんなことには、させない。いくらなんでも、お前の力を巡る勢力が黙っちゃいないだろう」  
すると、「そいつ」は、ってそろそろめんどくさくなってきた。「彼女」でいいだろう。訓読みで「かのおんな」だ。反論は聞かん。彼女は佐々木のようにクツクツと笑って  
「ああ!それをまだ説明してなかったね」  
と言い  
「どの勢力も、わたしが移動したことには気付いていないわ」  
とんでもないことを告げた。  
ありえないにもほどがある。たとえば「機関」なら俺の経歴から交友関係まですべて調べ上げたし、情報統合思念体はそれこそ情報の塊だし、未来人は未来からの観測が効くはずだ。  
そんな奴らが、最大の関心事である力の動向について知らない訳がない。  
「認識できないものは知りえない、ってこと。力をそういう風に使えば、連中は何も知ることができない。わたしの望むがままに」  
彼女は右手で自分の小さな肩をさする。さっき締め付けたのがきついんだろうか。  
俺はやや後悔した後、相手の言ったことを反復して、恐ろしい心境に陥った。  
あいつらの助けが借りれない。これは、かなりのマイナスだ。俺一人でできることなどハルヒに「俺はジョン=スミスだ」ということくらいだし、それも力がなければ思い出話で終了してしまう。  
「高二の時の事件が収まったのも、後に力を行使したから。藤原くんがあんなにやさぐれてたのは、力の届かないほど遠くの未来からわたしの愚行が観測できたからかもしれないね」  
 
「でも」  
でも、彼女は、嬉しそうに悔しそうに続ける。  
「あなたには、わたしの力が及ばなかった。涼宮さんの中にいた時も、佐々木さんの中に移ってからもそう。あなたの周囲の環境は変えれても、あなた自身は変えれなかった」  
彼女は俺の落ちていた傘を拾い上げ、俺の手を握りながら傘を握らせた。  
手が冷たい。  
「そんなだからこそ、あの二人も惚れちゃったのかもね」  
もう、反論するのもばかばかしくなってきた。俺が思いつく問題など、全て解決しているに違いない。なんせ、神様なんだから。古泉に言わせれば。  
 
彼女は佐々木譲りの細い眼をいっぱいにあけた。  
「さあ、それじゃゲームを始めましょうか」  
オセロや志知奈良部、じゃなかった七並べなら喜んでやってやるが。  
「わたしは佐々木さんの願望通りあなたと佐々木さんをくっつけにいく。あなたはわたしを涼宮さんのところに戻すかわたしを『殺して』しまえば勝ち。佐々木さんに落とされたら負け」  
ふん、神様と凡人世界選手権出場者の俺が戦うとは、公平なゲームだな。  
「しかしこっちには時間がいくらでもある。佐々木に落とされなきゃいいだけの話だ」  
すると彼女はすこぶる楽しそうに  
「難しいよー?佐々木さん自身ホントに本気だったから。わたしが言うのもナンだけどほんとにあの娘かわいいし」  
ホントにナンだな。  
「それに、時間無制限じゃないの」  
おい、詳しく説明しろ。  
「佐々木さんの自我はそれほどでもないって言ったよね?そこにわたしくらいの自我が入り込むと、佐々木さんは表に出てこれなくなっちゃうの。ちょうど、涼宮さんの中にいた時のわたしみたいに」  
「そうなるまでの時間は、どれくらいだ」  
「まあ、持って一年ってところでしょうね」  
こともなげに言いやがる。他人事のように。他人事か?  
「でもそれだけじゃあまりに不公平だから、わたしを取り巻くグループへの情報統制は解くわ。敵も増えるけど、味方がいないとあなたのクリアは難しそうだもの」  
それはそれはありがたいこって。  
「だが」  
俺は最後の疑問を口にする。質問ばかりで疲れた。  
「どうして佐々木の願望を優先するんだ?世界征服がしたいなら、そっちを先にやりゃあいい」  
言ったあとで、墓穴掘ってやしねえかとかなり己の判断を呪った。スタートの前にゲームオーバーなんて悲しすぎる。  
「それはダメ。すべてがコントロール可能になるまでは」  
俺は意味がよくわからん、って顔をする。  
 
「あなたを好きなのは、三人目の女神も同じこと」  
 
わからん。心から。  
 
「それじゃ、スタート」  
 
彼女の右腕が俺の顔に伸びてくる。豪雨の中、なぜかその腕は濡れることなく俺の顎にたどり着き、至極愛おしそうに撫で上げ。  
俺と触れ合うくらいの場所に立ち。  
そして小さな手を俺の後頭部に添え頭をゆっくりと下げ自分はつま先をあげて。  
 
その音は、雨に消える。  
 
世界が、息を呑んだ気がした。  
 
 

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