嵐のようなSOS団緊急集会が解散して数日が過ぎた夜、俺はクソ面白くもないテレビを眺めながら引越しの終わったヤドカリのようにぼんやりとしていた。外から、はしゃぐ時間帯を完全に間違えたセミの声が聞こえる。  
そーいや「終わらせる」とか偉そうにいったが、実際には何もやってないしやるつもりもないしやる必要もない、ってのはどうかと思う。  
しかし現状としてやれることもない。  
果たしてこの騒ぎはいったいなんだったのか。  
最初、裏佐々木は「もって一年で佐々木の意識が表に出てこられなくなる」なんて脅しをくれたがその兆候すら見られなかったし。  
そういえば俺が「負ける」条件であった「俺が佐々木に落ちる」なんてルールも忘れられたんじゃないかと思うくらい置き去りだ。  
冷静になった今考えてみると「世界征服」などという口にするだけでジンマシンの出る毒キノコのごとき理想を真面目に追求するとも思えん。「俺が落ちたら」っていう順番も意味が分からん。  
とすれば今回の騒動は、古泉が無駄な気苦労をし長門が俺を無表情で眺めハルヒがやや鬱となり朝倉がフル回転し九曜が再登板し佐々木がとばっちりを受けただけの、話としてはそういうことになる。  
「世界征服」なんざ一文字も出てこなくてよろしい。  
俺といえば、ここまで何もしなくていいのかというくらい何もしていない。どの場面でも「驚いた」以外のコマンドが入力された記憶がなく、それを誤魔化すために回りくどい描写をさんざんつけさせられはしたが。  
それに。  
指にはまったゴツいアクセサリーを撫でた。  
何が起こるか分からないため、念のために常時装備していたものだ。なぜか、律儀にも薬指にはまっている。  
「なんでも願いが叶う」というチートさここに極まれりなアイテムをもらったはいいものの、使う機会が訪れる前にゲームクリアしそうだな、このままだと。  
結局変な団体からの圧力だってなかったし、争いもなかった。この指輪、どうしようか。古泉に「私欲に使うことはしない」と評価されたのはなんか業腹だったが、別段願いなんかもないしな。強いて言うなら「平穏無事に暮らしたい」ぐらいか。  
まあ、元通りになるってのなら、それでいいだろう。  
今までハルヒがらみの厄介事のツケは、明治政府に利用された揚句偽官軍の烙印を押された赤報隊のごとき不条理さで俺が払うハメになってきたのだから、これぐらいの楽が許されてもいいはずだ。  
そのような結論に至り、ちと早いが寝ようかとテレビを消したのとほぼ同時にチャイムが鳴った。  
こんな時間に訪ねてくるようなヤツは今この状況で行くと一人しかおらずそいつは確実に厄持ちなのであまり出たくはなかったのだけれども、来てしまった以上仕方がないのでインターフォンで応対した。  
「わたしだけど……いまちょっといい?」  
聞こえてきた声は果たして予想通りのものだったがその口調は予想とは違っていた。  
佐々木なら「やあ、夜分にすまない。僕だけど」とかなんとかから始めて適当に引用を二、三かました後クツクツ笑ってきそうなもんだし、裏佐々木だったら俺を試すかの如く以下同文のような気がする。  
しかしはじめから女口調で来たということは自分を裏佐々木だと名乗って来たようなもんだ。  
ここで開けてもいいものか。朝倉や古泉の警告が思い出される。  
だが――  
「ああ、入れ」  
インターフォンがカメラ付きだったことを恨みたい。友人のあんな顔を見せられて追い返せるヤツがいるとしたらたぶんそいつは友人ではない。文法が滅茶苦茶だが、雰囲気で察してくれ。  
 
「お別れを言いに来たの」  
部屋に入って座るなり、こう言った。セミの鳴き声は止み、冷蔵庫が低く唸っている。  
「まったく、予想外だったわ。こんなに早く勝負がついちゃうなんて」  
俺はお前にも佐々木にも落ちたつもりはないぞ。  
「そうね、佐々木さんの頑張りはすごかったけど、わたしの寿命が短すぎた。一年もってたら、わたしたちの勝ちだったのに」  
ため息混じりに、何言ってんだか、と言って、俺は冷蔵庫から麦茶を出して注いでやった。冷蔵庫の音が静かになる。  
ありがとうといって、口をつける。長い間コップを咥えていたが実際飲んだのは一口分くらいのようだった。  
「わたしの中にいる誰かの働きね。自然消滅なら、もう少し持つはずだもの」  
俺は認めるか否か迷ったが、前回の件からもコイツは確信しているのだろう。それになんかもうゲームセット後みたいな空気になっていたので、曖昧に肯いておくことにした。  
裏佐々木の顔には微笑が浮かんでいたが、コイツ特有の影のある笑みだった。梅雨に咲く紫陽花のような感じ。  
「ここまでヤマなし、オチなし、イミなしじゃ、さすがに悲しくなってくるわね」  
体操座りから顔を伏せる裏佐々木。驚くほどに白いうなじがのぞく。  
指先を、コップの露が濡らしてゆく。もらった指輪とガラスが触れて音を立てる。  
「ヤマもオチも別にいらんが」  
コイツにばかり喋らせるのもアレなので口をはさんだ。  
「イミがなかったなんてことは、ないんじゃないか」  
コチ、コチ、コチ、と、壁掛け時計だけがこの部屋の中で運動している唯一のもののような錯覚にとらわれる。  
そのまま、ひょろっちい針が何周も何周も回り続け、隣人が帰宅して風呂に直行するのがうかがえた頃、ようやく裏佐々木は顔を上げた。膝に押し付けていたデコが真っ赤になっていて、俺は思わず噴き出した。それを見てさらに顔を赤くする。  
幾分空気が緩んだ頃、裏佐々木は俺の指輪に目をやった。そして得意げに自分の指を見せつける。佐々木の顔でそんな子供っぽい表情をされると、見慣れないためか不覚を突かれるね。  
「えへへ、おそろい!」  
しかしすぐにもとの愁いを帯びた顔つきに戻り、  
「お願い、使うまでもなかったみたいだね。それはそのままにしておくから、好きなことに使っちゃいなさいな」  
「それなら、ありがたく頂いておくさ。今のところ別に願いなんてないけどな」  
裏佐々木はなぜか、少しだけ嬉しそうな顔をした。こちらに悟られまいという感じの。  
「ちょっと訊きたいことがあるんだが、いいか?」  
「ええ」  
「結局、どうしてお前は今回の騒ぎを起こしたんだ?」  
少女は恨む様な、それとも。  
反省するような。  
そんな声で語り出した。  
 
「大体は最初に言った通り。全てがコントロールできる世の中であなただけが抗う力を持っていた。それを支配したくなるのは、必然ってものよ」  
そんな腕力も権力も超能力も持たない俺には分からん感覚だが、そんなもんなのかな。  
「だけど、涼宮さんの中にいるうちに、彼女のあなたへの想いが移ってしまってたみたいで」  
だから、ハルヒが俺のことを路傍の石ころ以上に気にかけているとは  
「話の腰を折らない!」  
すみません。  
「佐々木さんならわたしも意思を表に出せる。でも佐々木さん自身もあなたへの思慕があった。で、体が一緒なら結局は同じ目的だし」  
俺はここでも異論を唱えたかったんだが、また糾弾されそうなのでやめておいた。  
裏佐々木は少しためらうような表情をみせたが、決心したリスのような瞳で話を続けた。  
「ホントは、世界征服ってのも、佐々木さんが表に出てこれなくなるってのも、全部ウソ。うろたえるあなたが面白くて、つい勢いで言っちゃって……後悔してる」  
俺は額に手を当て、大げさにため息をついた。ついでに舌打ちも加えとこう。  
「……ごめんなさい」  
いかん、やりすぎたか。今にも泣きそうな佐々木の顔ってのは、それはそれで――古泉の心配が現実のものとならいよう、自己批判の時だな。  
顔にかぶせた掌をどけ、口元を見せる。古泉はどうしてあんなにうまくニヤケられるんだろうか。  
「なるほど、確かに面白いな。うろたえる人間ってのは」  
それを見た裏佐々木は心底悔しそうに唇を歪ませ、できの悪いブリキのロボットがごとくぼっかんぼっかん頭を叩いてきた。やめろ、手加減してねえな?  
「ごめんごめん、俺が悪かったよ」  
もう警戒心なんかなかった。  
考えてみれば、コイツはハルヒの中でずっと俺たちと一緒にいたんだな。もしかしたら、自分もSOS団に混じりたかったのかもしれない。  
本当に願い事を叶えられるのはわたしだと、宣言したかったのかもしれない。  
「それじゃ――それじゃ、わたしから、お願いなんだけど……」  
肩をそっとおさえられる。抵抗する気を奪ってしまうかのような柔らかい手つきに、俺は目をそむけることができなかった。  
「今夜だけ、今夜一晩だけ――そばに居て。いえ、そばに居させて」  
ギリギリの理性で、聞き返す。  
「それは、勝ちとか負けとか落ちるとか落ちないとかとは」  
「関係ない」  
 
裏佐々木が「ちょっと待っててね」と部屋を出た後、若気の至り且つ健全な男子兼ヘテロセクシャルの性質で悶々としたものを抱えた俺を最終的に待っていたものは、いたって普通に酒を持ちこみ泥酔し暴れ眠った親友の姿だった。  
嘲笑ならいくらでも受け取ってやるから、してくれ。同情ならもっといい。  
「またこのオチか」  
そりゃあオチとしては鉄板だから使い勝手はいいのだろうけど、犠牲になるヤツの事も考えてはくれまいか。他に持って行きようがないとか言うな。あるだろ。「cero Z」 クラスのヤツが。  
え? いや、すまない。独り言だ。  
「最後の夜とか言うなら、もうちょっとこう……」  
ここまで言って苦笑した。俺がムードを語るなんざ、谷口が冷房の設定温度を二十八度にする配慮を持つくらいお門違いだ。  
そーいやアイツ、どうなったんだっけ。「南に行く」とか言ってたが、南洋のマグロ漁船にでも乗ってんのか。それじゃ電波も届かねえな。確認せずともよいだろう。  
アホ太陽系代表の旧友のことを早々に頭から締め出し、座ったまま眠りこんだ佐々木の顔を見る。  
緊張感のかけらもないその寝顔は、普段のコイツがどれだけ気を張って生きているかをあらわしているように思えた。  
こうしてみると、存外、幼い顔立ちであることに気付く。すやすやという擬態語がこの上なく似合いそうな、甘い顔。裏佐々木の態度のせいってだけじゃなかったみたいだな。  
(今夜、そばに居て)  
頭が都合のいい部分だけを勝手に編集して再生したため、俺の理性は再び臨界点までダメージを受けた。最近、バカになったような気がする。やはり人は勉強しないとバカになるのか……勉強になった。  
修正、修正。  
「起こすのも悪いし、一人で片付けんのもシャクだし、今回はこのまま寝てもいいだろ。あした、というか今日か、佐々木と掃除すりゃいいさ」  
独り言を言って精神状態を落ち着かせた。それはそれでややアブナいようにも見えかねんが。  
じゃ、トイレでもいって寝るか――  
 
――地鳴りのようだった。  
遥か遠くで扉が開く感触。炎が消える直前の、最後の光ってやつだろうか。  
でもこれ以上、俺にやれることもない。最後の仕上げを終わらせるのは――  
「あ」  
そこまで考えたころには、俺は熱帯夜へと飛び出していた。  
歯車がかみ合わさる。やるべき為すべきことがあぶり出しのようににじみ出る。  
すまない、佐々木の裏っかわ。できるだけ早く戻る。願い事は叶えてやる。  
けど俺にも、最後にひとつだけ、願い事があった。  
 
終電にタッチの差で乗り込み、三十分ほど揺られる。行き先は、新宿。中途半端な三日月が車輪の軌跡を銀色に掘り起こす。  
電車がこれほど遅く感じたことはない。いつもなら寝て過ごす車内だが、とてもそんな呑気にはしていられなかった。ちんたら開くドアに悪態をつき、一気に改札まで抜ける。  
未だ雑踏の絶えぬ夜に走りこみ、肩を避け肩を避け、広場へ出た。俺と朝倉の再会した、東口。淫靡な光がそこはかとなく咲き乱れ、さまざまな素材でできた履物の音が不明瞭にビートする。  
そこにたどり着くまでにも、閉鎖空間の存在がどんどん薄れていくのを感じていた。おそらく、こっちの空間じゃあと三十分はもつまい。  
溢れかえる呼吸に構わず、心臓が体全体を揺らすような鼓動にも耐え、包みこんでくる熱の奔流に身を委ねる。  
古泉がバイトを始めたころはこんな義務感に襲われていたのだろうかと思った頃に、周囲からニンゲンの気配が消失した。閉じていた目をあける。  
辿り着いたそこは、今までより更に暗く静かだった。見れば、ネオン類の灯りがほとんど消えてしまっている。乱立するビル群は、夜の森だった。  
そして、広場の中心にはいきなり神人がいた。あまりの唐突さと近さに後ずさりする。光源にはなっているが、その光は、今にも消えそうなほど淡い。  
俺は身構えていたがしかし、ヤツは片膝を車道へついたまま動こうとはしなかった。その両腕はめいっぱいに広げられている。ちょうど、左右から迫る壁を押さえているかのように。  
ギリシアの彫刻のようになった神人の足元に、朝倉と九曜の背中があった。セーラーとブレザーの縁が、神人から発せられる光に嘗められている。  
「最後の最後まで、何がしたいのかよく解らない人ね」  
振り向きもせずに言われた。  
テキスト読み上げソフトのような淡々とした声。ただ少し、壊れたようにブレが入っていた。  
「最後の一人、これを片付けたら、『進化の可能性』は消え去り、この空間も消失する。早く出てかないと、巻き込まれちゃうよ?」  
相変わらず、こっちを見もしない。仕方ないので言ってやった。  
「お前らは、どうすんだ」  
何も返ってこない。巨人はまるで無感情に俺たちを見下ろしている。  
なんかイライラする。胸がムカついて、言葉にトゲが混じる。  
(……)  
「閉鎖空間は消える。そのまま居ると巻き込まれる。お前らは違うのか?」  
「消えるわよ」  
朝倉が振り向き、九曜もそれに倣う。しかし、逆光であるからその表情はよくわからない。あの、よく出来た笑みと色鉛筆の白よりも表現のできない表情のままなのだろうか。  
「わたしたちは、強いて言えばウィルスみたいなもの。宿主が壊れちゃったら、ウィルスも死んじゃうのは当然のことよね」  
「まあ、仕事が終わっちゃえばわたしの存在理由もなくなるワケだし、無駄なものはないほうがいいわよね」  
「ほら、早く出て行きなさいよ。死にたくないでしょ? 前にも言ったと思うけど、わたしには有機生命体にとっての死の概念なんて理解――」  
「うるせえ」  
なんでこんなにムカつくんだ。  
(……、……)  
巨人の姿勢が少し傾き、それで二人の表情が逆光から解放された。くそ、なんてカオしてやがる。  
こいつらは、かつて人形だった。  
見目麗しく、操り主に抗えない、人形として造られたはずだった。  
だが、作り手の技術は本人の自覚すら飛び越え、人形はそれ以上のものに出来上がってしまったんだろう。  
「なによ」  
朝倉の話を止めたはいいが、言いたいことや言わなきゃならないことが頭の中でゴチャゴチャと混ざり合い、きちんと言葉にできない。毒気を抜かれたようになっていた朝倉も、我に返って再び俺を睨みつけた。  
 
「あら、何か言いたいんじゃなかったの? ほら、何もないならさっさと出て行きなさい。あなたまで消える必要はないんだから、このままだと無駄死にもいいところね」  
さっきから出ていけ出て行けうるさいな。俺だって、好きでこんなトコに来たわけじゃない。  
「お前は――お前らは、死ぬのが怖くないのか」  
死ぬだの消えるだの、とびきり現実離れした言葉が、文字通りワケのわからん世界で繰り返されるというシンクロ。  
それでも冷静に冷静に、やっと、グチャグチャになっていた脳から抽出された、最も根源的で純粋な問いをする。返事も、答えも、俺の予想通りなら。  
朝倉は一瞬呆気に取られたようになり、すぐさま整った顔をわざわざ皮肉的に歪めた。それは、子供向けに笑顔で作られた人形の表情をを無理やりねじ曲げたように不自然だった。  
「怖いワケないじゃない。なに? あなたはそんなことを訊きに来たっていうの?」  
カラカラカラと、無機質な笑いが駅ビルと繁華街の谷間に木霊する。そいつは俺にとっちゃ、長門の作った世界に出てきた朝倉といい勝負の怖さだった。  
「あなたたちとは違うのよ、構造も原理も概念も何もかもが。言ってみれば、わたしたちはプログラム。あなたは、プログラムが『ごみ箱』に放り込まれるときに」  
見開かれた目に、果たして俺は映っているのだろうか? 取り憑かれたように、「ヒューマノイド・インターフェース」とやらの専売特許の怜悧さも放棄して。見るヤツの目が十人並みだったら、狂ったようにしか見えんコトだろう。  
「なにか感傷でも抱くと思うの? 歯車がそんな余計な歯を持っていたら、廻るモノも廻らなくなるわ。あなた――」  
そこまで言って、不意に言葉が途切れた。どこかに怯えさえ浮かべた顔を、隣の、だんまりを決め込んでいた九曜に向ける。その天蓋領域社製やや難ありアンドロイドは、朝倉の袖をいつの間にかつかんでいた。貴緑さんとの一件を思い出させる光景だ。  
「………あなたは――まわり――――――――過ぎ………」  
思わず噴き出しそうになったね。的を射るとはこのことか。  
だが当の本人は冗談を言ったつもりでもなんでもないようで、奈落を思わせる相貌を朝倉へ向けていた。見ようによっては、真摯な態度とも取れる。  
そろそろ巨人が力尽きて自然消滅するんじゃないかというくらいたっぷり時間をかけて朝倉を見つめていた九曜は、マンガならギリギリと効果音をつけられそうな程ぎこちなく俺の方を向いた。  
「――わたしは…………」  
わたしは?  
そのまま、再び時間が経過してゆく。言葉を選んでいるような、なんと言っていいのか分からないような、これは言ってもいいことなのか迷っているような、全部足して中途半端に四で割ったような間。  
ただ先ほどの俺の時とは違い、朝倉は様子を固唾をのんで見守っていた。超巨大企業で内部告発を行おうとしている同僚を見つめる目の百倍は真剣な目だ。そういうヤツを見たことがあるわけではないが。  
そして唐突に、ただゆっくりと。  
九曜は、朝倉を横から抱きしめた。髪との対比のせいか、その両腕は驚くほど華奢に見える。  
細い目は硬く閉じられているが、暗黒の向こうの少女を悼んでいるよう。  
かつて異様さと虚無感の塊でしかなかったその姿は、今では廃校に置き去りにされたポスターの中の子どものように寂しかった。  
「周防、さん……?」  
長門風に言うなら「情報の伝達に齟齬が発生した」九曜だったが、朝倉を止めるには十分すぎた。俺が頭の中で色々こねくり回してたのがバカみたいだ。  
信じられないといった顔をしている朝倉へ、ここぞとばかりに攻め込む。素面だととてもできないマジメな話なので、投げ槍に言ってみた。中学生が無理して「ジェーケー」という単語を使うように。  
「九曜はたぶん、怖いらしいぜ。消えるの」  
だらりとぶら下がった両腕をかすかに揺らし、こちらを向く。  
「おまえは? 本当に怖くないのか?」  
顔をうつむかせ、前髪がかかる。  
混乱したような声で、まず、こう呟いた。  
「――わからない」  
 
そして、堤にはいった亀裂から水が浸み出るように、小さな声で、細く長く続ける。  
「解らないの。心拍数の増加や瞳孔の拡大、その他通常活動時に見られない異常……どれを解析しようとしても、エラーに、阻まれる……」  
俺は一歩前に、踏み出した。胸のムカつきが倍加する。誰にも聞かせるつもりのない呪文のような独白が、巨人を背に垂れ流される。  
(……、……)  
「メインブレインにアクセスできない。エラーの消去が、消却が、削除が、拒まれるっ……」  
朝倉の名を呼んだ。あげた顔は、いつも浮かべていた解り易い微笑とはほど遠い、複雑で微妙なものの入り混じったもの。美術が終わった時の水入れの中の水みたいな表情。  
やっぱり、コイツも長門と同じだったんだな。自分の中に無いはずのものが有る、違和感。  
それが積もり積もって、長門はあの世界を作っちまったんだろう。となると、目の前のコイツもパンク寸前のはずだ。  
どうする?  
言葉に窮した俺を朝倉は見続けている。  
「朝倉」  
もう一度名前を呼んだ。  
だが、何を言ってやればコイツは安心できるのだろう。気安く言ってやれる言葉なんか、ひとつもないように思える。  
長門はそれとなく自分で受け入れてくれたようだった。でも説得となると、俺には技術も信頼もいま一つ足りない。  
「帰りたくねえか」  
何を言ったとしても安っぽく思えたので単刀直入に、ここに来た理由と関わることだけを言った。  
朝倉や九曜にまつわる感情論もいいが、いかんせん時間がない。あの巨人も、じきにお釈迦だろう。それはつまり――この空間、あるいは裏佐々木の消滅も意味するのだろうが――とりあえずは後回しだ。  
「救えそうな方を救う」なんていう権威的な考え方には虫唾が走るが、なんにも思いつかないんじゃしょうがないと、自分に言い訳する。  
九曜は目をあけ、朝倉はそれ以上に目を見開き、俺を凝視した。  
しかし、すぐに、切なげに頭を振る。朝倉の手が九曜の頭を撫でた。  
「無理だもの。わたしの次元透過能力では、この空間から出られない。もう一度フィルターが開けられれば話は別だけど、今更そんなことが起こるとも思えない」  
「ムリじゃない、といったら?」  
「無理よ」  
「仮定だ、もしもの話だ。だとしたら、どうしたい」  
「余計な『If』を差し挟む時間はないの」  
くそったれ、このわからずや。俺とて、ここで押し問答する時間がないことくらいはわかるさ。  
脂汗が額から流れる。超人を説き伏せるのは骨が折れるこって。  
 
「信じろ」  
 
あまりにもチープな決まり文句、俺が使うことになるとはね。でも切羽詰まった状況だと人間これしか言えないということがよくわかった。  
ここまでガチに相手の目を見るなんて久しぶりだ。ここまでガチにヒトから目を合わせられるなんて初めてだ。いつもの俺なら逃げ出していたところだが、今回ばかりは意地がある。向こうが逸らすまで。  
昔から「目は口ほどにものを言う」というが、口に大した働きが期待できない分、目には実力以上の力を発揮してもらわなくちゃ困る。この細い目で大丈夫か?  
ムカつきがさらに悪化する。目眩さえ覚える。足もとはスポンジのように頼りない。  
(…… …r)  
 
「……だけ」  
「あ?」  
「周防さんは、この空間から出られるだけの能力がある。だから、周防さんだけ連れていってあげて。『進化の可能性』が消えたら、それにかかわる全勢力の構成員の役目も終わる。おそらく、長門さんや周防さんは所属から切り離され、あなたたちの次元に残される」  
「だからな」  
「確かに、周防さんは長門さんやあなたたちを攻撃したのかもしれない。でもそれは上の都合なの。だからわかってあげて。そして、長門さんと違って、周防さんには寄る辺となる場所がない。できれば」  
どうあってもコイツは喋りたいらしい。一応、最後まで聞いてやることにする。  
「できれば、友だちになってあげて」  
俺が? 九曜と?  
全力で御免こうむりたい。コイツにはあの誘拐少女と極ネガ未来野郎と佐々木がいるじゃねーか。俺をこれ以上妙な団体に交わらせるな。  
と、  
ついこの間までなら即答していたことだろう。俺を襲ったヤツからの頼みが、俺と仲間を襲ったヤツと友だちになってくれとのこと。正気の人間なら首を縦に振ることなどありえない。  
だが、俺も勉強してなくてバカになっていたのが災いした。SOS団の面々に通信教育でも頼んでおけばよかった。あるいは佐々木の講義をもっと真面目に聞いてりゃよかった。  
「勘違いすんな」  
朝倉の表情が見ていられなかったので、矢継ぎ早にまくしたてる。  
「友だちはお前の役割だ。ここから出て、最後までやり遂げろ。俺は」  
九曜に一瞥をくれる。瞳に引き込まれる前に目をそらして、  
「たまになら、付き合ってやる」  
お人好しにもほどがあるかな。年を食うと丸くなる、っていうトシじゃないと思うんだが。  
朝倉はしばらく固まっていたが、やがて。  
 
今までに見せたことのない笑みだった。本当は、こういう笑い方をするんだな。  
九曜が朝倉の手を引っ張って、俺の方へ近づいてくる。朝倉も、歩き方を忘れたようにたどたどしく、それに従う。  
革靴でアスファルトをひっかくように、一歩づつ進む二人。  
やっと、朝倉の壁が崩れた。  
(…… …er)  
なのになんだ、この胸のムカつきは。強情な朝倉への苛立ちからきたものなら、とっとと消え失せろ。  
(…… her)  
九曜が一歩俺に近づくほど、朝倉が巨人から一歩離れるほど、爛れ落ちそうなくらいに胸部が痛んできた。頭の中も、ドライバーで文字を刻まれているような激痛が走る。  
おかしい。  
なんだこれは。  
(…nate her)  
シャツもズボンも汗で冷たく濡れ、立っているのさえ困難になってきた。何がツボったか分からんが笑い続ける両脚を押さえつけ、必死で顔をあげる。朝倉と九曜は、眉をひそめて俺を見ている。  
心配してくれているってんなら、もうお前らは立派な感情の持ち主だ。祝ってやったって構わない。  
ただ今は、その余裕がない。  
そして、とうとう二人は俺の腕の届く範囲まで来た。膝に指を食いこませ、油の切れたゼンマイ細工のようにゆっくりと、落ちかけていた頭をもたげる。  
今の俺以上に倒れかけている神人をバックに、朝倉と九曜の輪郭が暗く青く浮き上がる。俺の目がそれを捉えた。  
 
(eliminate her)  
 
それは、一瞬のことだったに違いない。俺の両腕が朝倉と九曜を突き飛ばすのにかかった時間なんて、一秒にも満たないはずだ。  
しかし人間の脳みそってのは、時間概念とは関係なしに物事を思い浮かべる能力を持つのかもしれない。古泉や佐々木あたりにこの話題を持ちかけたら喜んで食いついてきそうだ。  
 
走り去ったのは、甘噛みの感触。  
 
アニメーション一枚いちまいの絵をシャッフルした様に、全ての映像の順番がバラバラだった。また、目で追った情景と耳から入ってきた状況も、素人のやった百人一首並にちぐはぐだった。  
 
黒髪に浮かんだ憎悪が先か(ボウリングならストライク)  
血に濡れた顔が先か(刺さった矢じりはアキレウスの急所)  
地面が頬をのみ込んだのが先か(楽譜を読めない鼓笛隊は)  
この空間に降り立った何かが先か(ただひたすらに弾を込め)  
降るはずのない雨が先か(慣れない筒に這わせる荊)  
ナカから打ち抜けた衝撃が先か(仮面の裏には塗装もされず)  
間抜けな笛のような呼吸が先か(ずぶ濡れになった羊をめがけ)  
柔らかい掌が撫でる胸が先か(故郷の歌に心を惑わせ)  
見知った顔の徹底的な無表情が先か(人差し指の飾りを鳴らす)  
 
その部分の神経衰弱は多分こういうことだったんだとぼんやり思う。  
多分胸から飛び出た氷柱みたいな物体が、先ほどまで二人のいた空間を切り裂いた。ひざカックンでもされたようにあっけなく落下する視界と、少女たちの驚愕の瞳を侵食する俺の汚い体液。  
そんで、比喩でもなんでもなく胸にぽっかり空いた穴。その一瞬だけは、疑問が痛みを忘れさせてくれていたと言える。でもチンケな思考なんかで、こんな世界でも律儀に活躍する物理的な激流は止められなかった。  
状況を知ろうとする心は至って原始的な苦痛に追いやられ、それでも一割程度残ったそれは俺の眼球を必死で働かせていた。唯一つ、「飛び出た何か」を知るために。  
朝倉と九曜が駆け寄ってきたがそれどころじゃない。どけ、見えない。そう叫ぶ力までは残っちゃいなかったが。  
三馬身ほど離れた所で宙に浮いていた氷柱は、逆円錐状に直立してコンクリに突き刺さったかと思うと急速に回転して形を変え始めた。とがった部分が二つに分かれ、底面が丸く削られてゆく。  
そしておかしなことに、最初人間の腕くらいの大きさだったそれは、形が整っていくにつれて巨大化した。  
早く完成してくれないとこっちが持たないことを悟ったか、悪夢か悪い予感のように形成の速度を上げてゆく。美術のセンスゼロの俺にだって、「たいした」趣味の陶芸は人間を模していると予想できた。  
完成とばかりに、造形と巨大化が同時に終了する。まさかまさかと思っていたのが途中で確信に変わり、結果として想定されていた最悪が的中した時の妙な感じを覚えた。  
透明ながら底の知れないボディと頭、そこについた目玉が確実にこちらを捉え、俺の力はそこで一旦尽きた。  
親友、いや、戦友、それ以上といってもいいかもしれん。  
そんな関係にある人間の容れ物から向けられる殺気なんか、頭が拒否したせいかもな。  
 
意識が沈没する直前に見えた氷像の顔の部分。それは間違いなく、間違いであってほしかったが、長門の顔だった。長門の姿が明確な殺意を俺達に向けていた。  
黒い塊がイノシシのように氷像へ突進した。それが何か解るまでは意識は持たなかったが、ただの「障害物」に向けるにはふさわしくない憎悪めいたものは鼓膜のあたりで感じ取れた。  
 
 
何度か途切れながらも覚醒する。やけにスッキリした胸と戦争カメラマンの遺した映像のような横倒しの視界、頭が乗っかっている何かわからんが気持ちのよいもの。  
反射的に体を起こそうとしたのを、誰かの掌が押しとどめた。笑っちまうような鼻声が耳に注がれる。  
「お願い、動かないで」  
呼吸がしづらい。何度か詰まりながら尋ねる。  
「なにが起こった……九曜は、朝倉は、無事か……?」  
息を呑んだような呆れ果てた様な一瞬の間。  
「自分の心配をしてよ……」  
なるほど俺は心配されるような立場にいるらしい。それがわかっただけでも上等だ。  
隣の家のおこぼれで中途半端に映る衛星放送のようにモザイクのかかった思考が、寝てる場合じゃねえと必死に叫ぶ。  
それに従い、もう一度、この、右手を握っているヤツに何が起こったか訊こうとした。  
だが開きかけた口をついて出たのはマズイ液体で、横隔膜から舌の先までを汚し、目の前の地面を染める。これは、ヤバいんじゃないのか? こんな色、見た事ねえ。そりゃ心配もされるな。  
咳込みつつもう一度挑戦する。今度はちゃんと、耳障りな声が出た。自分の出す音声の振動で胸に空いた穴は悲鳴を上げ、絶え絶えな呼気が発音を狂わせる。  
「なにが、おこったんだ?」  
こう言いたかったんだが多分ちゃんと言えてない。地面と闇が壁になった俺の視界の中で、二つの影が動いているのがぼんやりと映った。ひとつはたぶん、九曜。もうひとつは――  
「あとで教えてあげるから、今はじっとしてて。お願いだから……」  
頭の向きを仰向けにされ、額をソイツの前髪がこすった。そしてひんやりとした、肌が触れる。後頭部は黄色い声援をあげている。朝比奈さん(大)の顔が一瞬浮かんですぐに消えた。  
「あさ、くら」  
後ろの方はほとんど吐き出す息に飲み込まれた元クラスメイトの名。  
「ごめんなさい」  
なに謝ってんだ。  
「早く元の世界に戻ってちゃんと治療しないと……応急処置しかできなくて」  
あー、あのヘンテコな力か。自分の傷は治せるけど、他人のまでは難しいのか。そらしょーがないな。  
「だいたい、わかった」  
ヤバい、本格的に意識も薄れてきた。頭からチューブで酸素と血液抜かれてるみたいだ。ガス欠の車もこんな気分に違いない。  
「ながと、だろ?」  
本当に悲しそうに頷いた。  
やっぱりな。いきなり耳なんかに噛みつくから、おかしいとは思ってたんだ。気付くのが少しばかり遅すぎたみたいだが。  
「許してあげて」  
九曜と、長門の姿をした何かが、五感を超えた何かに基づいて戦っている。なんでそれが分かるかって聞かれれば、「なんとなく」っていう第六感のお告げだ。  
朝倉がここで俺と話せているのは、九曜がヤツを引きつけてくれているからだろう。  
「長門さんは絶対に、自分からあなたに攻性情報因子を寄生させたりなんかしない。おそらく、第一級強制コードによる上からの思考介入」  
専門用語並べられても困るんだが。要するに、「やむを得ず」ってことか?  
「きっと長門さんは苦しんでる。いまのわたしには、それがわかる――なんとなく」  
いま九曜を突き動かす原動力は? 音一つ立てない戦いが、異常さここに極まれり、だ。  
「だから、許して」  
俺は鼻で笑った。ただの苦しげな呼吸にしか聞こえなかった感は否めない。  
九曜のことといい長門といい、俺なんかよりずっと人格者じゃねえか。これならあっちの世界でもすぐに溶け込めるだろう。九曜はまだちょっと不安だが、朝倉と一緒にいればなんとかなりそうな気もする。  
(何シアワセなこと考えてんだか。今の状況、理解してないだろ?)   
この期に及んで他人の心配とは、俺も存外、末期だな。逆に自分の心配が絶望的だからかもしらん。現実逃避、だな。まさしく。相も変わらずここは現実じゃないが。  
 
ふと、俺の頭がやわらかかったものから硬い地面へおろされた。  
「わたし、行かなきゃ」  
ちょっと待て、この空間はもうじき消えるんだったら、戦う理由なんか。  
「あの子は、ここから出ていける。あなたは周防さんと一緒に」  
ホントに聞く耳持たねえな。そこだけはちっとも変んねえ。  
ナイフは別れさせることしかできない――そんなコトバが頭をよぎった。  
俺は、立ち上がった元クラスメイトを、なぜかフルネームで呼んだ。そろそろ全部が潮時だ。  
「この前俺が来てから、どれくらい経った?」  
怪訝な顔をしつつ、四十年くらいかしら、と答える。  
「そうか、待たせたな」  
成功するかどうかわからん。だが、これ以上考える時間も気力も既にない。今の内にヤケになってたってそう間違いでもなかろう。  
 
「ありがとーよ」  
 
何も言わず朝倉は長門の姿をした兵器のもとへ走り去った。神人の姿なんかとうにない。  
さあ、何が起ころうとこれが最後だ。最期とならないことを祈る。  
限りなく透き通っているクセに星ひとつない天井へ、その向こうのアイツへ、拳を突き出す。ヌシを捉えた安物の釣り竿のようにガタガタ震える腕を必死で持ちこたえさせる。  
この指が。  
鋼鉄の縛りのきいた指が。  
やっかい極まりない絆の纏わりついた指が、きっと先へと続いてる。そう信じて。  
じゃなきゃ、朝倉だって九曜だって信じてくれない。  
 
長門と朝倉と九曜がおでんを食っているところを網膜の裏で見ながら俺の体はアスファルトの海へと沈んでいき。  
古泉と佐々木と朝比奈さんがハルヒに振り回されているところを大脳辺縁系あたりで思い浮かべ。  
まだ見たことのないアイツの本当の姿を、  
 
願い事、守れなかった。ごめん。  
 
トプンと、頭が収まった。  
波紋が街を呑みこんだ。  
 
 
 
 
夢の隅っこでセミの声が響いていた。  
 
いつだったか、まだ朝のヒーローもののテレビ番組に熱中していられた頃の俺がいた。  
その時は、すでにサンタクロースはこの世にいなかったけれど、テレビを通して俺は悪者と戦っていた。  
やがて背が伸び、都合のよい悪者などいないとを知り、それでも背は伸び続けた。  
 
俺は悪者と戦っていた。敵はザリガニの怪人。両手のはさみで水道管のボルトをあけたり、折り紙の金色のヤツをバラバラにしたりする極悪人だ。  
あと一歩まで相手を追い詰めた俺はとどめの一発をお見舞いしようと飛びかかる。  
だが気をつけろ、ヤツのはさみは超合金。缶切りなしでもミカンが食える。この前アジトで食っていた。  
繰り出してきた右のはさみを避け、容赦ナシのアッパーカットを――  
――左に捕まった。ほっぺたをものすごい力で挟まれ、右のはさみも反対側のほっぺを引きちぎらんとばかりにねじってきた。  
このままじゃ切手みたいな顔になっちまう。怪人の顔はこの上ない悦びに満ちている。  
セミの声が響いている。  
セミの声が。  
セミが。  
 
さすがにこの辺で夢だと気が付き、うすらぼんやりと目を開けた。この上なく不快な夢だった。映画にしても不快すぎて誰も観に来ないだろう。  
夢から覚めたってのに、頬が痛かった。  
今わかるのは天井が白いこと。  
セミの声がすること。  
俺が寝ていたこと。  
そんで。  
見飽きたっていうくらい見てた顔がそこにあること。  
変人だが怪人ではない。  
変人の顔がほころんだ。  
自分のあだ名は好きになれないが、こんな風に呼ばれるのは、そう悪い気分じゃない。  
「よかった……」  
未だ状況をイマイチ理解していない俺は、とりあえず訊いてみることにした。  
「ハルヒ、俺はいったい……」  
何も言わなきゃよかったのかな。シャミセン並に緩みっぱなしだった目が慌てたように吊りあげられ、心底呆れたような小声でまくし立てられた。  
「あんた何も覚えてないの? 新宿のど真ん中で血いっぱい流して倒れてたって聞いて、みんな大騒ぎだったんだから。あんたにかぎって痴情のもつれなんかありえないから多分借金のカタに臓器持ってかれたっていうのが定説だったんだけど」  
それはお前が想定したんだろ、どうせ……ん? なんか、変だな。  
「ここ、東京だよな」  
「当り前じゃない。古泉君の知り合いのいる病院だって。ホント、顔広いわよね」  
「なんでお前がいるんだ?」  
言い終わるか終らないかのうちにおもいっくそ頭を揺すられた。表情で言わんとしたことが読み取られたんだろう。とうとう俺に対しても読心術を会得したか、ハルヒよ。  
「団員の心配してわざわざ駆けつけてあげたみんなやこのあたしに、どのツラ下げてそんなセリフが吐けるのかしら? ケガ人じゃなかったら窓から放り投げた後、あんたの寝てるそのベッドもダイブさせるわ。ちゃんと受け止めてあげなさい」  
今の時点で手加減してると思えん。ここにだけスマトラ沖大地震がやってきたみたいだ――ケガ人? そーいや、なんか胸が痛い。  
「俺は、ケガなんかしてたか」  
もう愛想もつかしたと言わんばかりに手を離すハルヒ。ああ、色々と思いだしてきた。だがコイツが相手じゃ話せないことばっかりだ。  
古泉を一瞬求めてしまった俺はグラウンド七周だな。朝比奈さんをむやみにうろたえさせたくないし、長門にはこっち別の話がある。  
 
とうとうハルヒは大声を出し始めた。団長を敬う気持ちが足りない、あんたは団員としての自覚が云々、まあ俺がいつも言われている類のヤツだ。  
何をトチ狂ったか、高校時代を思い出して懐かしい気分に浸るのも悪くはないかと思ったが何せここは病院――らしい。セミ以上にやかましいのは慎むべきだ。  
ゴメンありがとうと、割と本気で言ってハルヒが少しおさまった頃、スリッパで全力疾走する音が複数聞こえ、ノックもなしにドアがスライドした。  
見えたのは古泉の顔と、女のものと思われる足が二人分。そんで白衣の端。それらはすぐに古泉、朝比奈さんに佐々木、医者だとわかった。  
医者が俺に、胸は痛むかどうかや呼吸の具合など、いろいろ聞いてきた。その脇ではなにやら佐々木がハルヒに詰め寄り、古泉が不愉快なニヤケ面を俺に向け、朝比奈さんがオロオロするという、特に見たくもない喜劇が繰り広げられていた。  
「涼宮さん! キョンが起きたらすぐに教えるって約束じゃなかった? あんなに大きな声出して、傷に触ったらどうするの? それでなくったってここは病院なんだから、もう少し静かにしなきゃ」  
「あ、あたしはただ、キョンがいつまでも寝惚けたこと言ってるから目を覚ましてやろうと思って……」  
おお、珍しい。ハルヒが押されている。やっぱり佐々木はタダ者じゃない。  
えーと、ふたりとも。  
「「なに?」」  
お医者様が聴診器をあてていらっしゃるからな、静粛に願う。ほれ、朝比奈さんがベッドのそばで甲斐甲斐しくお茶を飲ませてくれているのを見習ったらどうだ。  
「みっ、みくるちゃん? あなたいつの間に……油断も隙もないわね」  
「朝比奈先輩? キョンは今点滴だけしか許されていないはずです。彼のことを本当に考えるのなら、そのような行為は自重した方がよろしいかと」  
佐々木、お前誰だ。  
古泉、ちょっとこっちこい、ぶん殴ってやる。  
 
俺の部屋でみんなが晩飯を食べ、(長門は入院中に俺の読む本を探すと言い張りどこかに行ってしまったらしい。「有希ったら、気が利くのか利かないのかわかんないわね」)帰ってから数時間が経った。  
古泉には真相を話しておこうかと思っていたが、医者が大事をとってくれと言ってきたので、後日に回すことにした。  
このまま持って帰りたいほど豪勢なベッドの上で腕を組んでいる俺。  
胸の痛みはほとんど引いていた。医者は、  
「なんであれだけの出血で生きていられたのでしょうか」  
と頭のネジの抜けたとしか思えないことをのたまった。古泉、もうちょっと知り合いは選べ。  
点滴のパックが外の灯りに透けて、反射光が病室の壁の白を思い出させる。  
俺は窓から都会の光と月を対比的に見ながら、来るであろう訪問者を待ちわびていた。時刻は午前一時。見回りの看護師が見たらブチ切れることだろう。  
ドアの外からはなんの音も聞こえない。気味が悪いかと訊かれればまあよくはないので、出来るだけ早く来てほしいもんだ。  
「ねえ」  
情けないことに、ビクンとなったね。さっきの威勢はどこへやら。ドアの方にばかり注意を向けていたから、まさか至近距離で声がするとは思わなかった。  
俺は声の主を探したがしかし、この部屋には俺以外誰もいない。電気をつけたいところだが、ばれたら面倒なことになる。  
もう一度声がした。観葉植物が薄暗い部屋の隅に亡霊のように突っ立っている。  
マジで怖い。どこにいるのかと、なるべく虚勢を張って(小声だけど)訊いてみたが、悲しいかな声が震えていたなあ。  
ココ、ココと、声のする場所を半信半疑で見つめ、問いかける。  
 
果たして出来上がったのは、自らの指輪に話しかけている奇妙な男の図であった。百物語に加えてもらっても他と何ら遜色のないこの様子、誰かに見られたら、その話の最後で、男は自殺したっていうオチがつくだろう。  
「いやー、作戦成功、ってね」  
「お前……消えちまったんじゃなかったのか」  
聞いたことのない声だが、こんなところに住みつくヤツなんざこの世にひとり(?)しかいない。  
「あなたが願い事全部使わないでくれたから、ここに逃れることが出来たの。コレ、要は私の分身だから。やっぱり、増やしといてよかったわ」  
佐々木の声で言ってたのとなんら変わらない口調。  
「正直、諦めてた。すまない」  
「別に? ただ、一つのお願いってのが、わたしを殺そうとしてた女の子の命を助けてっていうのだと知った時は、コイツどうしてくれようか、とは思ったけど」  
言い訳のしようもないな。なので黙っている。  
でも、と続けて、  
「あんなギリギリまで説得して、自分が大ケガしたのにその子たちの心配ばっかりして、それを見せつけられたんじゃ、ね」  
ふと、頬が緩んだ。  
「それじゃ、あいつらはこっちに出てこれたんだな?」  
「ええ、朝倉さんと九曜さん――だっけ? そろそろくるんじゃないかしら。長門さんも似たようなモノね」  
閉鎖空間での長門モドキを思い出す。姿かたちは全く一緒だったが、あいつが得た感情までは即席コピーできなかったみたいだな。  
「ひとつ訊いてもいいか?」  
「わたしにわかることなら」  
「なんだって長門、いや、情報統合思念体は、俺に攻性なんたらを打ちこんだんだ? お前が消えるのはもうほとんど決定事項だと考えられてたんだろ?」  
「全くもってわかんないから予想になるけど……あなたがもう少し早く、何らかの形でわたしの中へ入っていたら、あなたと朝倉さんと九曜さんをまとめて消してしまえば、まだ間に合うと思ったんじゃないかしら」  
「そうか……にしても長門にその役回りをさせるとは、つくづくムカつく野郎だ。情報統合思念体は」  
やや佐々木の笑い方っぽく、指輪は笑った。なんだ?  
「いえ、なんでも。ただ、長門さんにまったく恨みを持ってないなんて、ホントにできた人間だなあと思って、さ」  
長門を恨んだってしょうがあるまい。朝倉いわく、強制コードとかなんとかのせいらしいから、不可抗力だったんだろ。  
クツクツクツと笑い声がする。そろそろ、気持ち悪いと思っても差支えないだろうか。  
「……っと。来たみたいね。今病院にはいったところみたい」  
なんでわかるんだ?   
「女のカン?」  
くだらん。しかし、何か忘れているような。あいつらが現れるのはそりゃ願ったりかなったりだが――  
「そうだ。お前がまだ存在するっていうんなら、派閥間抗争も勢力の争いもなにも終わっちゃいないだろ?」  
「バーカ」  
なんだって。  
「わたしとあなた以外、この指輪の真意は誰も知らない。当然、みんなわたしが消えたと思っている。宇宙からの勢力は端末残して帰っちゃったし、古泉君のところだってじきに解散するでしょ。朝比奈さんがどうなるかはわかんないけど」  
朗々と指輪は語る。  
「全部終わったのよ。これから先、あなたが余計なことを口走らなきゃ、ね」  
なんだかすげえ責任だな、それ。俺の言葉ひとつで宇宙人未来人超能力者がリターンズ、か。  
「責任、とってもらうよ? 願い事もすっぽかしてくれたんだし」  
うっ、痛いところを突きやがるな。  
「それじゃ、涼宮さんに佐々木さん、長門さんと朝比奈さんと、ついでに朝倉さん・九曜さんとお幸せに」  
多くねえか?   
「でも、いつでも一番近くにいるのはわたしってコト、お忘れなく。変な願い事して指輪なくしたら、泣くからね」  
はいはい。わかったよ。好きなことに使えって言われてた気もするが、別にないしな。「平穏無事な生活」は、だまってりゃついてくるみたいだし。  
「指輪外しても、泣くから」  
一生このまま? それはチト勘弁してくれ。四十も幾らにもなってこのデザインはロックンロールが過ぎる。いや、パンクスか。違いはよくわからん。  
「ま、浮気は男の甲斐性だから。少しは大目に見てあげるわ」  
 
黙り込んだ指輪をひと撫でして、かぶせられた布団から抜け出す。窓のそばまで歩み寄り、ブラインドを押し下げて外を見た。スリッパの音は廊下のどのあたりまで届いたのだろうか?  
前に見た時より少しだけ満ちた月の光と、変わり続けている街の灯が病室に溢れた。清潔ながら単調な空間にほんの少し極彩色が宿る。  
その明りを頼り、シャツをはだけて胸を見た。あれだけの激痛だったにもかかわらず、そこはシャーペンの太さくらいの範囲で肉がわずかにえぐれているだけだった。  
調子に乗って窓を開けようとしたが、半分嵌め殺しみたいになって中途半端にしか開かなかった。  
十センチくらいの隙間から、クラクションと喧騒とぬるい風がビルの壁をよじ登って入ってきた。  
あの時のセミは、どこで鳴いていたんだろうか。  
そこでドアの開く音が聞こえ、まずは誰が来たのだろうと思い、俺は振り返る。  
 
まとめて来やがった。  
「とらわれた宇宙人」風に、ニコニコした朝倉とボーっとした九曜がイヤイヤする長門をぶら下げて。九曜はちょっと床から浮いて朝倉と背丈を合わせている。  
その三者三様の表情を見て自然とこぼれた掛け値なしの笑みを、俺は溜め息といつもの感嘆詞じゃごまかし切れなかった。  
 

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